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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第三階層『六花氷樹海』――もう人間じゃない[前]・5

 天牛ノ月十二日の夕刻。
 夜の探索班となった、ティレン、アベイ、フィプト、マルメリは、足りない前衛を買って出たゼグタントを加え、第二階層に赴いた。せっかくの第三階層に足を踏み入れなかったのは、現在の組み合わせでは慣れない階層に太刀打ちできそうにないという思慮のためであり、ならば第二階層で鍛練を積んでおこうと思ったためである。
 だが、実はもうひとつ理由があった。その件については、樹海に踏み込む前に薬泉院に寄ったことに起因する。
「きれいな石だね……」
 仲間達の訪問を受けたパラスは、差し出された白い石を矯めつ眇めつ、つぶやいた。この石は言うまでもなくスノーゴーストの残骸から回収したものである。
 彼女は大分落ち着いているようだった。母たる女性が目を覚ます気配はまだないのだが、パラスの心の中では様々なことの折り合いが付いたのだろう。そのことに安堵しつつ、次の言葉を待つ夜組の前で、カースメーカーの少女は言葉を続けた。
「霊的なものが影響してるのは、あるかもしれないね」
「霊などというものがあると?」
 面子の中では現実的な物の見方をするフィプトが、疑問をありありと含めた声を出した。
「うん、あるわけないって思うのも判るよ、フィーにいさん」
 くすくすと笑いながらパラスは返す。ついでに白い石も返してきた。
「でも、幽霊って存在を否定する根拠がないから。その割に、人間には説明しようがない現象はまだ多いから、もうそれは、霊とか超越存在かみさまとかの仕業って思うしかないんだよね」
「そんなものですかね」
 腑に落ちないのも仕方あるまい。少なくとも『ウルスラグナ』の誰も、霊なるものに出会ったことはないのである。見たこともないものを簡単に信じろというのは酷な話であろう。
 ところで、先達の冒険者も、スノーゴーストを倒した際にこの石を手に入れ、『白玉石』と呼んでいた。そんな話を聞くと、パラスは「面白いよね」と笑う。
「うちの村に伝わってる古い話なんだけど、人間が死んで霊になった時に行く場所が『白玉はくぎょく楼』って言うんだって。石の名前付けた人がこんな話知ってたかどうかわかんないけど、霊的な力の依り代かもしれない石と、霊の行く場所とが、同じ意味の単語を持つのって、呪術師的にも興味深いな」
 白く美しい石に『白玉』と名付けるのは決しておかしい話ではない。けれど、他にも名付けようはあるのだ。隠れた共通点を持つものに、共通した単語がしっかりと名付けられる偶然は面白いものであろう。
「まぁ、霊が信じられないとしても――」とパラスは話を締めたものだった。「こういうきれいな石は力を持つものだから、その力で雪が変な動きをするようになった――なんてこともあるのかもね」
 ここまで語った話は、実は夜組が第二階層に赴いた理由ではない。本題はこの直後である。
「おや、アベイ君に、『ウルスラグナ』の皆さん。お見舞いですか?」
「よう、コウ兄」
 顔を見せたツキモリ医師だが、その表情に生彩がない。何があったのかと訝しみ問い質す一同に、ツキモリは力なく頷きながら言葉を返した。
「ノースアカデメイアから返事が来たんです」
 何のことだか一瞬理解できなかったが、すぐに思い出した。奇妙な枯れ方をした樹木の話だ。採取したサンプルを送って対策を依頼したのだという。だが、返事が来て喜んでもよさそうなツキモリ医師の顔は暗い。
「あれだけの木々が枯れているのに、『検証の必要がある』だそうです。時間を掛けたら感染はどんどん広がるというのに……けれど、実情を見ていない方々では仕方がないのかもしれません」
 実はツキモリ医師も現場を直に見たわけではない。だが、ハイ・ラガードで生活している身としては、決して他人事ではないのだろう。
「もっとサンプル送りつけたら?」
 ティレンが無邪気に返す言葉に、ツキモリ医師は深く頷いた。
「実は、それを考えているんです。もっとはっきりしたサンプルを入手しないと、と。幸か不幸か、新たに灰紋羽病が発症した場所があるというので、初期段階のサンプルが手に入るかもしれない――」
 そこまで語った時点で、ツキモリは、呆然と自分を見つめる冒険者達に気が付いた。
「――ああ、すみません。いきなり灰紋羽病って言ってもわかりませんよね。問題の現象に、そう名前を付けたんです。とにかく、これまで発見してきた場所ほど広がっているわけではないらしいので、もしかしたら発症初期のサンプルが手に入るかもしれないと期待しているんです。それで――」
「もう、誰かに頼んだのか、コウ兄?」
「ああ、いえ、まだですが」
 兄と慕う院長の返事を聞いたアベイは、にっこりと笑んで言い切った。
「だったら、せっかくだからおれ達がやろうか?」
 いいよな? と仲間達を振り返って同意を募る。
 嫌な顔をしている者は誰もいない。殊にフィプトは、ハイ・ラガードの民として樹海の危機に興味津々、かつ心配だと見える。
「助かります」
 ツキモリ医師は安堵の笑みを浮かべた。彼としても、一度依頼を受けてもらった相手に再び請け負ってもらえる方が、安心の度合いが違うというものであろう。
 念押しをしておくなら、依頼を受けること自体は何の問題もない。
 ただ――依頼を遂行する際の、ちょっとした『同行者』の存在を知っていたら、躊躇したかもしれない。

 その『同行者』は、冒険者達の後を付いてくる。正確に言えば、後方からの魔物の敵襲を警戒して、マルメリが一番後ろに付いているから、『彼女』のいる場所は後ろから二番目ということになるのだが。
「……やっぱり、あんたはおとなしく薬泉院で待っていた方がいいんじゃねぇのか、嬢ちゃんよ」
 前衛の片翼を務めるフリーランスのレンジャーが、半ば呆れたように言葉を紡ぎ、肩をすくめた。
 嬢ちゃんと呼称された『彼女』――ツキモリ医師の助手でもある薬泉院のメディック、アンジュは、ゼグタントの言葉に不満を示し、眉根をひそめ、目を細めた。
「冗談じゃありませんよ。私がいなかったら、どんなサンプルを取れば頭の固い先生達が納得するしかなくなるか、わからないじゃないですか」
「そりゃそうかもしれねェが、だがよぉ……」
 ゼグタントは頭を抱えた。
 灰紋羽病が新たに発生した場所は、九階にあるという。多くの冒険者からもたらされた情報を元に、衛士達も探索範囲を広げ、見回りも始めているが、危険が消え去ったわけではない。ほんの少し前までは、『ウルスラグナ』ですら苦戦をしていた区域なのだ。
 第三階層に足を踏み入れたばかりの自分達では、第二階層の安全な探索は保証しきれない。まして、探索に不慣れな娘を抱えている状況では。本当なら、彼女には安全な街で待っていてもらうほうがいい。けれど、灰紋羽病についての知識は、ツキモリ医師やアンジュの右に出る者はいまい。現実問題として、彼女がいなければ、採集技能に長けたゼグタントでさえ、まともなサンプルを入手することはできないだろう。
 一言で言えば、冒険者達に託された仕事は、サンプル採集というより、護衛だったわけだ。
 現在地に至るまでに、数度、樹海の魔物との戦いを経験している。ところがこのメディックの娘、守られているだけの娘ではなかった。戦場を走り回る。実によく走り回る。戦いで誰かが負傷したと見ると、傷薬を手に飛び出していく。アベイが「とりあえず俺一人で大丈夫だから、身を守っていてくれ!」と悲鳴を上げても、意に介さずに動き回る。あわや魔物の一撃を食らいそうになり、ティレンが身体を張って守ったことも、一度や二度ではない。
「とっとと終わってくれないかな、この依頼……」
 さすがのアベイもげんなりして、一刻も早く目的地に着くことを祈るばかりであった。
 ところが、目的地は九階の南側、上階から下りるにも下階から上がるにも面倒な場所にある。八階の磁軸の柱が起動していれば少しは楽だったのだが、あいにく十階の磁軸の柱を起動させた時に機能を停止している(正確には、『ウルスラグナ』が八階の柱に飛ぶことができなくなったのである)。理論的には、八階の磁軸の柱に触ったのが最後の者だけで探索班を組めば、八階に飛ぶことも可能だっただろう。が、そんなパーティを組んだら死にに行くようなものだ。
 複雑な道を行き来して、冒険者達は、ようやく、目的地にたどり着いた。
 行き止まりになった小部屋状の広間である。空間を取り囲むように立ち並ぶ木々のうち、正面に見える場所が、例の空虚な灰色に染まっている。見るだけでその周辺が冷ややかに感じられる、死の色。何度見ても慣れずに身震いした冒険者達だが――先に足を踏み入れた前衛の足が、はたと止まった。
 何かがいる。その灰色の奥、自分達からは見えないところに、何かが。
 嫌な予感を感じて、じり、と後ずさったところに、
「わぷ!」
 後衛達がぶつかってきた。
「ちょ、ちょっと、どうしたんですか? 下がるなら下がると――」
 そう言いかけたアンジュが言葉を切った。冒険者達が――後衛でさえも――険しい表情をしていたからだ。
 気配の主は、突然の闖入者を警戒しているようだった。少なくとも、今すぐ襲ってこようとする様子はない。だが、冒険者達の背には大量の冷や汗が流れ落ちる。気配から感じるその強さは、エトリア時代、遺都を徘徊していた魔物達に匹敵する。つまり、今の『ウルスラグナ』では太刀打ちできない。
 魔物の気配を正確に推し量れないアンジュでさえも、何か嫌なものを感じているのか、先程までとは打って変わって、真剣に正面を見据えている。
 しばらくの無言の対峙の後、気配は、やがて葉擦れの音を残して、消え去っていった。どうやら森の奥に引っ込んでいったらしい。一同は盛大に安堵の息を吐いたのであった。
「今のは……なんでしょう」
「さぁな……」
 さておき、ひとまずの危険が消え去ったからには、この場に来た目的を果たさなくてはならない。
 一同は灰色の木々に近づいた。一見したところでは、これまでのものとは何ら変わりがないように見えていたのだが、よく観察すると、何かが違った。違いを言語化する前に、少し離れた樹を見ていたアンジュの声が上がる。
「何だろう、コレ……」
「どうしました?」
 近づく冒険者にお構いなく、アンジュは独り言のように言葉を発しながら、自分の鞄から手際良く道具を取り出し、採取作業を始めていた。呟く言葉が状況を雄弁に語る。
「粘液みたいな物が付着してる。それにこの傷は……?」
 木の幹には等間隔に並んだ二つの傷が開き、その周囲に滴る薄茶色の粘液が不気味に光を反射していた。
 かすかに感じていた違いの正体を、冒険者はようやく悟った。今回の灰色の木々には、どれにも、傷と粘液が付随しているのだ。
 その傷に、あるものを連想し、冒険者達は背筋が凍るような思いをした。
 吸血鬼。夜の闇に紛れ、哀れな犠牲者に牙を突き立てる、魔の者。
 それ自体はただの伝承である。現実に存在する樹海の危機に比べれば、どうということはない。樹海の生物には実際に人間の血を吸う者もいるのだから――例えば、エトリア樹海の奥に潜んでいた妖華アルルーナのように。だが、いくら架空存在とはいえ、幼い頃に叩き込まれた恐怖からは、そう簡単に逃れられるものではなかった。
 もちろん、目の前の傷が吸血鬼の仕業とは思わない。吸血鬼が吸うのは人間の血であり、樹液ではない。樹液を吸うのはどれかといえば昆虫の仕業だ。だが、異質な枯れ方をした木と、恐怖の象徴であるものに似た傷痕、その相乗効果が、百戦錬磨の冒険者をして身震いせしめたのであった。
 少なくともこの傷と液体が、樹海の木が異常な枯れ方をすることと関係があるのは、間違いないだろう。
「さっきの気配が、これやったのかな」
 ティレンの言葉に冒険者達は気が付いた。粘液の具合からすれば、この現象が発生したのは、冒険者達が踏み込む直前といっても過言ではあるまい。とすれば先程の気配も無関係とは言い切れなくなる。
 あれは一体、何だったのだろうか。
「何ボケッとしてるんですか?」
 アンジュの言葉に冒険者達は我に返った。
「サンプルは採取しました。早速帰って分析してみます」
 彼女の手の中にある瓶は、薄茶色の粘液でいっぱいになっていた。その瓶をさっさと鞄にしまい込み、アンジュは立ち上がる。
「さぁ、帰りましょう! 帰り道もよろしくお願いしますね!」
「ここまで来たら、糸使えばいいじゃないのぉ?」
 のんびりとした口調でそう言いながら、自分の鞄からアリアドネの糸を出すマルメリを見て、アンジュもその方が楽だということに気が付いたようだった。閉めたばかりの自分の鞄を慌てて開け、中を探る。その表情が、次第に焦燥を帯びていく。やがて諦めたような顔を上げると、ばつが悪そうに切り出した。
「すみません、糸、忘れてきちゃったみたいです……」
 勘弁してくれ、と冒険者達は思ったが、探索に慣れていない者では致し方あるまい。という風に寛大でいられるのも、『ウルスラグナ』は常に糸を二つ所持するようにしているからなのだが。アベイが自分の鞄から二つ目の糸を取り出して、アンジュに差し出した。
「しょうがないな。ほら、糸ならここに予備があるから、磁軸計に繋いでくれ」
「すみません……磁軸計も忘れちゃいました……」
「勘弁してくれ」
 冒険者達は今度こそ本音を声に表してしまった。
 磁軸計は樹海に入る者をあらかじめ登録する機器であり、その制限人数は五人までである。ただし、厳密に言えば登録自体は数十人分ができ、そのデータを入れ替えることは容易だった。『有効状態』にできるのが一度に五人までというわけだ。だが、『有効状態』にするには、本人が磁軸計に触れることが必要――アベイは『生体認証』とかいう難しい言葉を使ったが――なのである。
 現状で言うなら、『ウルスラグナ』の磁軸計には『ウルスラグナ』一同以外のデータは入っていない。アンジュを登録したくても、データの登録には冒険者ギルドにある『親機』が必要なのだ。つまり、『ウルスラグナ』の誰かの代わりにアンジュを登録し直し、彼女がアリアドネの糸で街に帰れるようにすることもできないのであった。いや、できたとしても、それは同時に『ウルスラグナ』の誰かが樹海に取り残されることになる。冗談ではない。第一階層一階ならまだしも、第二階層でひとり取り残され、生還できる可能性が、どれだけあるというのか。
 結果として、彼らは徒歩で樹海磁軸を目指す羽目となった。
 文句を言っても始まらない。始まらないのだが。

「いいねぇ、そんな女連れて、森の中をお散歩デートってか!」
 後に事情を知った酒場の親父からそう揶揄されるような、生やさしい状況ではない。
 断じて、ない。

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