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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第三階層『六花氷樹海』――もう人間じゃない[前]・2

「珍しいですね、女将さんがこちらに来て下さるのは」
 改めて中庭に出たフィプトは、女将に軽く会釈をした。その様を見て、ハイ・ラガード伝統の民族模様が入った服に身を包んだ、恰幅のよい女将は、ウフフフ、と朗らかに笑う――炎の魔人に似ている、と、どこかの冒険者に言われたというが、こうして見ると、やはり明らかに違う。
「お茶でも出しましょう、中へどうぞ」
「ありがとうね。でも、そこまでしてもらっちゃ悪いよ。それに仕事があるからね」
 女将は申し訳なさそうに手を振った。フロースの宿は彼女の一家で業務を回している。用件の中身にもよるが、確かに、長く宿を空けているわけにはいかないだろう。
「そりゃ残念ですね。で、ご用件は何ですか?」
 フイプトが促すと、女将は太い首をこっくりと曲げて、口を開くのだった。
「アンタたち、第三階層に踏み込んだそうだね?」
「おや、耳が早い。よくご存じで」
「別の冒険者たちに聞いたのさ。……あの黒い子、昨日は随分としょげてたけど、大丈夫なのかい?」
「その件は、ええ、大丈夫です。ちょっとしたトラブルがあっただけで」
「なら、いいんだけどね……それで、第三階層に踏み込んだアンタたちに、頼みたいことがあるんだよ」
「頼みたいこと?」
「ウチの娘のことなんだけどね……」
 フロースの女将の娘については、フィプトも旧知であった。かつては私塾の生徒でもあったのだ。母親である女将とは違って華奢な少女だったことをよく覚えている。
 彼女は身体が弱かったのだ。普通に暮らす分にはさほどの問題はないが、時折、呼吸困難の発作を起こし、薬泉院の世話になる。授業中にそのような事態になったことも何度かあった。
「その発作なんだけどね、世界樹様の中に入れるようになってから、ツキモリ先生が思いついた方法が上手くいってね、前ほどは出なくなったのさ」
「それはよかった。差し支えなければ、どんな方法か聞いてもいいですか?」
「ああ、樹海の中の空気を吸わせるのさ。何日かに一度ね」
 フィプトは世界樹の真実を思い出す。正確には、世界樹誕生のきっかけとなった、前時代の環境汚染の話を。
 世界の汚染は浄化されきっていなかったのかもしれない。正確に言うなら、『規定値』までは達成していたものの、敏感な者は、わずかな汚染にも影響され、病を得てしまうこともあるのかもしれない。そして、世界樹の中の大気は、自分達のような健康な者にはよく判らないが、外気よりも清浄なのだろう。
「でもね」と、女将は片頬に手を当て、困った表情で首を傾げた。「ほら、こういうことって、この国はいろいろやってくれるじゃないか。だから娘のことも、衛士さんが連れてってくれるんだけど、あんまり頻繁に頼るってわけにもいかない。せめて樹海に行く間隔が長ければ、衛士さんも娘ももう少しは楽だろうと思うんだけど……そこで、頼みなのさ」
「小生達に、娘さんを樹海に……っていうわけじゃ、なさそうですね」
「アンタたちにも探索があるからねぇ、それは頼めないよ」
 残念そうに首を振った後、女将は話を続けた。
「大公宮が探索したときに、大気の成分を計った器具があるらしいんだけど、それを使って、娘が今行っている場所より空気がきれいな場所を探してほしいのさ。もちろん、探索のついででいいからさ」
「うーん、困りましたね……」
 本当は一も二もなく承諾したかったのだが、フィプトは黙り込んでしまった。
 もともと、自分は、西方のアルケミスト・ギルドから送られてきた鉱石の有効利用を図るための実験に注力する予定だったのだ。もちろん、一日中実験をするわけではないから、夜間の探索には出られるかもしれないのだが、それもはっきりしているわけではない――実験で疲労して探索どころではなくなるかもしれないのだ。しかし、他でもない顔見知りの頼みである、無下に断るというのも気が引けた。鉱石の研究は後回しにするべきか、それとも……。
「女将さん、その器具、持ってますか?」
「ああいや、後でバイファー君が持ってきてくれることになってるけどね」
「そうですか……」
 フィプトは決断した。女将に力強く頷く。
「恐縮ですが、バイファー君には、器具をこっちに持ってきてくれるように頼んでもらえませんかね?」
「じゃあ……やってくれるのかい?」
「ええ、お引き受けしますよ」
 喜色を顕わにする女将に再び頷きながら、フィプトは考えた。まずはその器具を見てみよう。操作が簡単なものなら、探索班に任せればいい。錬金術師でもなければ扱えないようなら、鉱石のことは後回しにしよう。実のところ、樹海の内外で違うという空気の汚染度に、興味が湧いたことは否めなかった。
 そう思った時、
「寒かったぞコンチクショ――――ッ!!」
 探索に出たはずの仲間達の、悲痛な悲鳴が聞こえてきたのであった。

 一方、時間を若干遡った、探索班の話である。
 樹海に踏み込んだ、パラディン・エルナクハ、ダークハンター・オルセルタ、ブシドー・焔華、レンジャー・ナジク、メディック・アベイの五人は、磁軸の柱を利用して、第二階層十階に足を踏み入れた。
 魔人の巣窟であった広場では、一昨日倒した魔人の屍が無惨な様を晒していた。目ざとい小動物達が食い散らかしていったのか、体積は半分ほどしか残っていない。それでも、残りには蟲がたかり、なんとも言えない臭気を放ち始めていた。
 なるべく屍から遠くを歩き、冒険者達は階段に辿り着いた。
 そうして気が付いたことがある。心なしか、階段の付近はひんやりとしていたのだ。炎の魔人が倒れたからか、戦いに挑んだときには周辺より数度ばかり暑かったこの広場も平常気温に戻っていたのだが、この狭い領域だけ涼しいのはどういうことだろうか。
 冷気は、階段の上から降りてきているようだ。学者が語るところによれば、暖気より寒気の方が重いらしい。素人にはピンと来る話ではないが、暖炉に火を入れていても、余程火元に近い場合を除けば、足下がなんとなく寒かろう、と問われれば、確かに、と頷けることではある。
「上は寒いのかな……」
「かもな」
 アベイが階段の上を見上げてつぶやくところに、エルナクハは同意を返した。
「なぁナック、もしかしたら、炎の魔人って、自分でも暑いのが嫌で、この広場を占領してたのかもな」
「ははは、まさか。まぁ、ありえねぇとは言えねぇけどよ」
 彼らは荷の中から外套を出して纏っただけの準備を済ませると、ためらいもせずに階段に足を踏み入れたのであった。
 後から考えれば、上階から流れてくる冷気を過小評価していたと言わざるを得ない。というのは、エトリア探索の際にも、第三階層は寒かったので、冒険者の頭の中にはその頃の感覚が染みついていたのだ。
「オルタ、腹巻き持ってきた方がよかったんじゃねぇか?」
「かもねー。でも腹巻きすると動きが鈍るのよねー」
 黒い兄妹などは、こんな軽口を叩く程である。彼らの故郷である『御山』はもっと寒かったから、『千年の蒼樹海』程度の冷気であれば、普段着でも平気でいられる。
 逆に、比較的暑い地方生まれのナジクや、強靱とは言えないアベイは、外套の隙間をしっかりと閉ざし、極力、自分の体温で暖まった空気が逃げないようにしていた。
 焔華はというと、「これも鍛錬」と言いたげに、少なくとも外見は平然としている。
 しかし、階段を上り詰めていくうちに、誰もが、あまりにもおかしいことに気が付いた。
 寒い。豪奢な形容詞など付けている余裕もないほどに寒い。エトリアの第三階層など比較にならない。気温は加速度的に下がっていき、まだ『外』ですら見ない白い息まで吐き出されるようになった。ふと足下を見れば、うっすらと白い。何気なくその上に指を滑らせると、鹿革の手袋越しなのに冷たさが指を刺した。
「雪……だと?」
 あわてて上を見上げると、確かに、ちらほらと舞い下りてくる白の欠片。
 考える。第一階層が夏で、第二階層が秋ならば、第三階層が冬であるのも、おかしい話ではない。しかし、まさか雪まで降るとは思わなかった。なにせ、ここは世界樹の迷宮の中、屋内なのである。
 もっとも、雨が降ることは、ごくたまにある。それを考えれば、雪だっておかしくないという話になるのだろうか。
 それにしても、やはり寒い。纏っている装備は冬仕様ではないのだ。黒い兄妹はまだしも、他の者達は身を縮めて寒気に耐えている――焔華でさえも、涼しい顔はしていられなくなったようだった。
 事前に情報を仕入れなかったのが悔やまれる。
 それでも彼らがすぐに帰らなかったのは、ひとまず第三階層がどれほどのものなのか、自身で体験したかったからだ。彼らがいるのは階段の中腹あたり(これまでの階段と同程度だとすれば)なのである。
 無言のまま、一行は階段を踏みしめる。
 ようやく出口が見えてきた頃には、大気は極寒の気配を纏っていた。寒さに慣れていたはずの兄妹ですら、忌々しげに先を見る。出口からは粉雪がちらほらと吹き込んできて、足下に積もる雪は増す一方だった。
 そうして、第三階層十一階の地を踏んだとき、冒険者達は、半ば絶望を含んだ白い息を吐いた。
 階段を抜けるとそこは雪国であった。どこかの古い伝承の出だしが、そんな感じだったような記憶がある。
 目の前に広がる光景は、地面の白と、空の青。木々や草は吹き付けた雪と氷に覆われて白い立像と化し、時折、思い出したように雪をふるい落とす。
 迷宮のあちこちに巡らされた人工物は、石組みの橋を二段重ねにしたようなものだった。永い年月の果てにか、方々が朽ち果てていたが、それでも威容を損なうことはない。すぐ傍にも柱が立ち並んでいたが、全容は遠景でしか把握できない。よく見ると、見た目には二種類あって、片方は煉瓦積みが顕わになった柱を、もう片方は浮き彫りのある柱を使っていた。紋様は、さまざまなものがあったが、組み編んだ紐を表しているようなものが印象的であった。
「……ローマの遺跡みたいだ」と、身体を縮めて震わせながら、アベイが口を開いた。しゃべる度に、白い息がぽんぽんと飛び出る。
「ローマ?」
「ああ、俺の生まれた頃から、えーと、二千年くらい前なのかな、その頃に、でかい国があったんだ。今の『共和国』の南側あたりだったかな。その国の遺跡で、こんなのがあったのを見た記憶がある」
「行ったのか? シンジュクから一年以上かかりそうなのに」
「テレビで見たんだってば。それに前時代でなら一日もかかんないで行けたよ」
 という雑学はさておいて。
 大変に寒く、一刻も早く街に帰りたいほどだったが、とりあえず少しは様子を見てみようと考え、冒険者達は足を進めた。数分歩いたところで、分かれ道に差し掛かる。前方と左右、いずれにも行けるが、前方はすぐに行き止まりになることが確認できる。左方に首を向けると、前々からお馴染みの、樹海磁軸の紫色の光が、天に立ち上っているのが見えた。辿り着くまでは五分もかからないだろう。
 あと五分だけなら我慢しよう、と全員が思った。樹海磁軸を使えるようにしておく意義は大きい。
 ぎゅっぎゅっと雪を踏みしめ、冒険者達は磁軸へと足を向けた。辿り着くまでの間、幸いに魔物は現れなかったが、誰もが無言だった。
 雪はさほどの障害ではない。戦えないほどではないだろう。降ってくる方も、ちらりほらりという程度で、視界の妨げになるようなことはなかった。問題はやはり、寒さだ。こんなに凍えてしまっては、凍死までには至らないにしても、戦闘に支障が出る――そこまで考えて、エルナクハは己の浅薄を恥じた。本当なら、第三階層に踏み込んだ時点で引き返すべきだった。樹海磁軸に到達するまでの間に、魔物が襲ってきたとしたら、自分達は力を発揮しきれないままに誰かを失っていたかもしれないのだ。それは、樹海磁軸を起動させることよりも気を払うべき、最重要事項だったはずだ。
 喪失というイメージが、昨日のように、心を締め付ける。
 それを振り払うように、エルナクハは言葉を発した。
「ひとまず帰ろう。装備を見直さねぇと」
 反応はなかった。皆が寒さに凍え、唇まで青くしていたからだ。そもそも、エルナクハ自身も同じような状況で、発したつもりでいた言葉も皆に届くに十分な声量を保っていなかったのだった。

 ――その顛末が、フィプトの耳にした「寒かったぞコンチクショ――――ッ!!」という悲鳴であった。

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