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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


間章二――呪術師の目の小さな涙・6(完)

 雨雲はその色を少しずつ薄れさせ、比例するように雨足も大分落ち着いてきていた。とくに街の中では、世界樹のおかげだろう、傘を差さずとも出歩くことが容易になっていた。雲間から見える空の色は、そろそろ日が傾き始めたことを示している。
 そんな街の中を、呪術師の少女が荒く短い呼吸をしながら懸命に走る。足下で水たまりが跳ね、スカートの裾を土色に汚していった。
 見知った冒険者も、見知らぬ冒険者も、街の住人達も、何ごとかとその様子に目をやる。息も絶え絶えに走る少女と、その後を追う体格のいい男――知らぬ者が、ぱっと見ただけなら、よからぬ事情を想像してもおかしくないところだ。もちろん真の理由は、そうではない。
 彼らが向かったのは薬泉院である。扉に飛びつくように止まると、ノックする間もなく押し開けた。
 薬泉院を訪れるときにノックをしないという行為は、急患であるということを内部のメディック達に知らしめることになる。間髪を入れず、険しい表情を浮かべたメディック達が集まってきた。ストレッチャーががらがらと音を立ててやってくるまでに至り、自分達の行動に気が付いたエルナクハが事情説明と共に謝罪すると、メディック達は安堵に表情を緩めたが、それも一瞬のことであった。
 難破した商船から助け出された、緑髪の女――パラスの母親は、他の重傷者と共に、注意深く街に運ばれた。エルナクハがパラスに事情を知らせたのは、重傷者達が薬泉院に収容されたことを確認してからのことである。そのために時間が随分と経っていたのだが、その間に薬泉院での処置は済んだらしい。あとは、運を天に任せるしかない。
 メディック達に導かれ、二人は薬泉院の奥へと足を踏み入れる。
 問題の女性が収容されている病室があるのは、さほど奥ではなかった。つまり、現在は生命の危険を心配する必要はないようだ。が、目覚めないことも、目覚めたとしても後遺症が残る可能性も、十分にあり得る。予断は許さない。
 軽くノックしてから病室の扉を開ける。
 まず目に入ったのは、ベッドの傍に腰掛けて病人の様子を見ているアベイと、部屋の隅に身体を預けながら目を閉ざしているナジクの姿だった。二人は、エルナクハと共に薬泉院に赴き、件の女性が収容されたことを確認した後、容態を見るために残ったのである。難破事故でまだ多くのメディックが駆り出されている薬泉院としては、ナジクはともかくとして、アベイの助力はありがたいものだっただろう。
「あ、来たかパラス――」
 と声を掛けようとしたアベイは絶句した。カースメーカーの少女が「お母さん!」と叫びながらベッドに飛びつこうとしたからだ。その様に、ナジクが目を開き、「む」と唸る。『母』という言葉が、非業の末に母を失った彼の心を刺激したのだろうか。
 手を伸ばして『母』と呼んだ女性に触れようとするパラスを、アベイは懸命に押しとどめた。
「触るな! 頭打ってるんだ、変な衝撃で取り返しのつかないことになりかねない!」
 退いて、離して、と叫んでいたパラスは、その言葉で、どうにか静かになった。しかし、落ち着きを取り戻したとは言い切れなかった。今にも泣きそうなのを堪えるように、息を荒げている。歯の根が合わずに、時折、かち、かち、と音を立てた。
 エルナクハは、何もできず、口出しすら忘れたまま、病室の入口に突っ立っていた。と。
「――エルナっちゃん、通してくれるかなぁ?」
 後ろからささやかれて我に返る。見ると、マルメリをはじめとして、他の仲間達が佇んでいた。ゼグタントまでひょっこりと顔を出していたが、全員ではなく、センノルレだけがいない。妊娠中なので、こういう場にはあまり連れてこない方がいいだろう、という判断によるものだった、と後に聞くことになる。
 マルメリは何か布の束のようなものを持っていた。何だろうと思うエルナクハの脇を、マルメリは通り過ぎていき、パラスにそれを差し出す。布の束の正体はマルメリの言葉で明かされることとなった。
「着替え、持ってきたのよぉ。パラスちゃん、お母さんのことが心配でしょぉ?」
「ねえさん……?」
「ま、着替え取るのにパラスちゃんの部屋に勝手に入っちゃったけど、そこは許してねぇ」
「マルねえさん……」
 カースメーカーの少女は、信じられないものを見るような目でバードの娘を見やる。その瞳に、みるみるうちに涙があふれていくのが手に取るように判った。
「私、私……マルねえさんに酷いことしたのに……呪術使って部屋追い出しちゃったし……アベイくんにもひどいこと言っちゃったし……みんなにも……」
「え?」
 マルメリは目を丸くして、きょとんとした表情を作った。同じく『パラスが酷いことをした』相手であるアベイと、視線を交わし合う。やがて両者は肩をすくめ、同時に言ってのけた。
「そんなに酷いことされたっけ?」
 二人とも、パラス言うところの『酷いこと』をされたその瞬間には、心のどこかに不条理と苛立ちを感じただろう。それが人間というものだ。けれど、それ以上に彼らには、なぜ彼女がそういうことをしたのかという理由と背景をおもんばかり、わずかな闇の芽をそっと摘み取るだけの理性があったのだった。それは、他の仲間達とて同じだろう。もちろん、パラス本人もだ。今回の騒動は、状況があまりにも悪すぎただけのことなのだ。
「ありがとう……みんな……」
 あふれそうになった涙は、しかし流れ落ちることはなかった。大泣きしそうな自分を辛うじて押しとどめたパラスは、手の甲で涙をこすり取ると、震える声を出した。
「私……今の私じゃ、心が乱れすぎてて、うまく呪術使えなくて、みんなの足を引っ張っちゃいそう……。だから、しばらく、探索はお休みしたいの。お母さんが目を覚ますまで、傍にいたいの。自分勝手かもしれないけど、迷惑掛けたくないから……」
「そか」
 エルナクハは鷹揚に頷いた。パラスがそう言い出すだろうということは、なんとなく予想していた。彼自身のではなく、オルセルタの予想だったが。
「残念だけど、しょうがねぇな。ま、土産話くらいは用意しといてやるから、我慢しろや」
「うん」
 ギルドマスターの物言いに、パラスは頷いた。
「私の代わりに、樹海の先を見てきてよ」
 その時、さっき拭ったはずの涙が一筋、ころりと流れ落ちた。
 彼女はそれに気が付かなかったのだろうか、それとも、気が付いたけれど拭う気力を失っていたのだろうか。
 少なくとも今回の件に関して、パラスがはっきりとした形で流した涙は、その一筋きりだった。従弟を亡くし、母も再起できないかもしれないという状況にあって、それだけか、彼女の本心を如実に示したものだったのだろう。
 皆を苦しめたかったわけでも、自分が苦しみたかったわけでもない。ただ、悼みたかっただけなのだ。
「アイツに約束したの、ラガードでの冒険を手紙で教えてあげるって。だから、樹海のことは何でも知りたいの」
 わかっている、と言いたげに笑む仲間達を見回して、カースメーカーの少女はかすかに和らいだ表情を見せたのだった。
「いつかエトリアに行って、今はもういないアイツに、ラガードの樹海のことを教えてやりたいの」

 ただの一人がこの世を去ったとしても、否、数千数万の人間が一度に息絶えたとしても、時の女神は澄まし顔でこの世界を回し続ける。
 という表現を持ち出すのは大袈裟に過ぎるだろうが、ともかくも、冒険者達が今できることは、ただ一つ。
 パラスが望むように、否、仮に望まなかったとしても、だが、ハイ・ラガードに集った冒険者として、世界樹の迷宮の探索を続けることだけだ。
 薬泉院から私塾に戻った冒険者達――薬泉院に行かなかったセンノルレも含めてだが――は、何ともなしに、パラスの部屋の前に集っていた。
 開け放されたままの部屋の中には、当然ながら誰もいず、皆を脅かしていた呪詛の残滓も感じられない。部屋の住人が戻ってきても、かの呪詛が復活することはないだろう。そう願いたい。
「この扉を開けようとしたときに、よ」
 エルナクハは、苦笑じみた表情を浮かべながら、口を開く。
「オレが見たのは、扉の怪物と、その口の中にオレを引き入れようとするアイツの姿だった」
 アイツ、という曖昧な代名詞が誰のことを指しているのか、わからない者はこの場にはいない。
「パラスの呪詛は、パラスに近づこうとする誰も彼もを拒絶するヤツだった。だから、見た途端に逃げたくなるような幻覚を見ちまったんだと思う。そんで、オレはオレが何にびくついてたんだか、判った気がするのさ」
 彼の者の死を認めたくなかったのは、もちろん、彼に死んでほしくなかったからだ――それは当然だ。
 だが、それが恐れと化していたのは、彼が自分の手の届かない所で、突然にこの世から消えてしまったという事実ゆえだったのかもしれない。
 彼のように、仲間を――妻や、まだこの世にいない子を置いて、自分がふっつりと消えてしまうことだったのかもしれない。
 そういう事態は、いつでも自分達の背後にあるのだと、認めたくなかったからかもしれない。
 いつも覚悟していたはずだったのに。
「いや、我ながら情けねぇ話だぜ」
 自嘲するように唇を吊り上げながら、パラディンは肩をすくめた。
 その背後から、静かに声が掛かる。
「情けなくなどあるものか」
 それは、ナジクのものだった。その隣では、アベイが同意するように首を縦に振っている。何を言う、と質しげに眉根をひそめるエルナクハに、レンジャーの青年は言葉を続けた。
「僕も、この扉を開けようとした」
「俺もさ」と、隣のメディックが頷く。「でも、無理だった」
「どうして無理だった?」
 エルナクハが先を促すと、ナジクは軽く息を吐き出し、言葉を続けた。
「この扉を開けようとしたとき、僕が見たのは――一族の者だった」
 その後、何か言葉を繋げようとしたようだが、結局ナジクは首を振ってそれを押しとどめた。
「僕には、悲鳴を上げて逃げるしかできなかった」
 仲間達には、ナジクが飲み込んだ言葉が何だったのか、判った気がしたが、それを問い詰めるような者は誰もいなかった。
 そもそも、問い詰めたいと思った者がいたとしても、アベイの言葉がすぐに続いたため、望みを果たすことはできなかった。
「俺が見たのは、父ちゃんや母ちゃんさ」
 ナジクにしろ、アベイにしろ、エルナクハのものとは質が違えど、心の奥底に眠る恐怖を見たことは同じだ。
 望んでではないにしろ、そうしたという自覚すらなかったにしても、生きていく上で不本意にも置き去りにしてしまった、そんな相手への罪悪感。それが、呪詛の影響で、目の前に顕現したのだろう。
「エルは、強いな」
「強いわきゃねぇよ」
 ナジクの賞賛の言葉にエルナクハは首を振った。
「所詮は他人、だからかもしれねぇさ。オレだって――」
 パラディンは近い過去に思いを馳せる。
 第一階層で最初の試練に赴いたとき、オルセルタが死にかけた。結局助かって、今も元気にこの場にいるが――。
「もし、最初の試練でオルタが死んじまってたとして、それが出てきたとしたら、オレだってどうだったかな……」
「やだ、兄様。せっかく助けてもらってここにいるのに、縁起でもないこと言わないでよ」
 話題に出された妹が、ややふくれっ面で応じる。
「それは確かかもしれませんえ」
 割り込んだ、たおやかな声は、焔華が発したものであった。
「けど、エルナクハどのは、おん方を、『他人』と言うほど遠くは思っておいでやなかったと思いますけど?」
「そか?」
「そもそも他人と思っていたんなら、幻覚として見ることもありませんでしたでしょうえ?」
「……そうかもな」
 焔華の言うことは正しいかもしれない。『他人』とはいえ仲がよかったし、出自は別でも同じパラディンということで、かなり親近感を抱いていたのは確かだ。だから、その突然の死を知ったとき、肉親を奪われたものとは違うにしても、半身をもぎ取られたような喪失感を抱いたことは、間違っていない。
 なんにしても、自分達は、その感覚を抱いたまま、それを乗り越え、生きて行かなくてはならないのだ。
 自分達が死に至るつもりでないのなら、他人の死に足を取られているわけにはいかないのだ。
「とにかく、この件はここでオシマイだ。明日からの探索に備えなきゃな」
 むしろ自分自身に言い聞かせるように、エルナクハは締めの言葉を放った。そのつもりであった。
 フィプトが溜息を吐きつつ言葉を発するまでは。
「小生は、明日は探索には行けません」
「ん? そういや例の鉱石の研究するって話だっけか?」
「それなら夜の探索の時間くらいは取れますよ」
「じゃ、なんで?」
「……これじゃ、修理屋さん呼ばなきゃなりません。一応、ここの責任者である小生が立ち会わないと」
 はぁ、と再び溜息を吐くフィプトの視線の先には、パラスの部屋の扉。
 その上に盛大に広がる、破損痕。
 エルナクハが幻覚を振り払おうとしたときに突き出した掌底による、被害の証。
「……スマン」
 パラディンは身を縮めて、心底申し訳なく思いながら謝罪の言葉を紡いだのであった。

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