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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


間章二――呪術師の目の小さな涙・5

 アベイとナジクが個室を訪れる少し前、エルナクハは卓に頬杖を突いて、沈黙を守っていた。
 ある意味、パラスの次に消沈していたのは彼だったかもしれなかった。少なくともセンノルレは、普段の様相からここまでがらりと変わった夫を知らない。今までにもぼーっとしていることがなかったわけではないが、今回は、目つきからして尋常ではなかった。全身から見えない何かが立ち上り、声を掛けることさえ許さないような雰囲気を醸している。
 こんな面もあったのか、と、ベッドに腰掛けながら夫を見守っていた黒髪の錬金術師は思った。
 数ヶ月前にエルナクハの妻となったセンノルレだったが、実のところ、どうして自分が彼を選んだのか、未だに自覚できていなかった。愛しているのは確かだ。身を任せてもいいと思った。けれど、彼について言語化できるところに限れば、自分が好意を抱くにはいささか足りないところが多すぎる。もっとも、人間の感情とはそんなものなのかもしれない。見た者の意識に上るところはほんの一部でしかなく、それ以外のところは、もっと深いところで感じるしかない。必然的に、(自分の理性から見て)知らない面もできるというものだ。
 そんなところに意識が向いていたセンノルレだったから、不意にエルナクハが立ち上がって自分に近付いてきたことからは、気が反れていた。我に返ったときには、ベッドに腰掛けている自分の前に跪いた夫が、腰部に手を伸ばそうとしているところであった。
「何を」
 するのですか、と口にする前に、腕は腰に回り、エルナクハは、己の額を妻の膨らんだ腹部に軽く押し当てていた。
 センノルレは、凍り付いたように、それ以上動けずにいた。
 彼は何かをつぶやいているようだったが、錬金術師にはその意味は分からない。黒肌の部族の古い言葉を、彼女は知らないからだ。ただ、抑揚の端々に、世界宗教の司祭が行う祈りに似たものを感じられた。自分の夫が異教の神官(代理)であることを今更ながらに思い出す。
 その祈りらしき声が、ぷっつりと止まったことに、センノルレは違和感を抱いた。言葉は判らずとも、その途切れ方が、祈りが完結したことによるものではないと思えたのだ。
「エル……?」
 恐る恐る声を掛けると、顔を上げた夫と目が合った。
 エルナクハは何かに怯えたような表情をしていた。そのような表情をする彼を見るのもまた、センノルレには初めてのことだった。エルナクハとて恐れることは幾度もあったかもしれないが、そんな時でさえ、彼は常に強気な表情を見せていたのだから。
「エル」
 再び声を掛ける。
 途端、びくん、と夫の身体が震えたのを見た。
 センノルレは手を伸ばす。エルナクハの怯えの理由は判らないながらも、それをどうにか慰めようと。もっとも彼女自身は、そこまではっきりと考えて動いたわけではなかったのだが。
 しばらくは、どちらも一言も発しない。
 やがて、口を開いたのはエルナクハの方だった。
「……なぁノルよぉ、死んだヤツは、どこへ行くんだ?」
 その質問に対する答を、センノルレは持ちえなかった。
 単に返答すればいいのなら話は簡単だ。肉体は土に還る。魂は――判らない。いかに錬金術師でも、『神はいない』と言い切れるほどには世界を知る者はいない。さりとて『神はいる』という前提で答えることは、錬金術師の領分ではない。むしろその領分は、代理とはいえ神官であるエルナクハ自身の方が専門分野であろうに。
 当の本人から前に聞いた気がする、黒肌の一族の教義を思い出しながら、センノルレは言葉を返した。
「あの方のことですから、戦女神に招聘されるのではないのですか?」
 そう答えながらも、なんとなく判っていた。エルナクハの欲しい答はそうではないのだと。
「あるいは別の存在としてこの世に帰ってくるか、大地母神の御許で安らかに眠るか、それが貴方達の――」
「やめてくれセンノルレ!」
 黒い手が錬金術師の腕を掴む。
 加減することさえ忘れ果てた力に、センノルレは悲鳴を上げかけ、しかし辛うじて押しとどめた。
「やめません」
 抑えた、だがはっきりとした声音で、現実を叩きつける。
「あの方が死後の世界でどうなるか、人ならぬ身ではないわたくしには判りません。ただひとつ言えるのは」
「それ以上言うなッ!」
「貴方がどれほどあの方の死を信じられないとしても、様々な宗教の教えのいずれが真実であろうと」
「それ以上は――」
「あの方はもう、あの方としては還ってきません」
「言うなあッ!」
「死んだ者は還らないのですッ!」
 広くはない室内を満たした激情は、その言葉に吹き消されたかのように、ふっつりと途切れた。
 エルナクハは力なく頭を垂れていた。センノルレの腕を掴む手からも、次第に力が抜けていき、だらりと床に落ちる。
 他にどのような言葉を掛ければいいのか、考えに詰まって沈黙するアルケミストの前で、パラディンは、誰にともなく声を吐き出した。
「……オレぁ一応神官だからよ、せめて祈ってやらなきゃって思ったよ。でも……祈っちまったら、アイツが死んだってコトを認めちまうみたいで、イヤだ。……バカだよなオレ、そんなこと言ったって、ホントだってのはわかってるのによ」
「エル……」
 エトリアで探索していた頃のセンノルレだったら、それでも現実を認めるように畳み掛けただろう。だが、今の彼女には、追い打ちを掛けるようなことはできなかった。どう答えたらいいのか、ただ迷いながら、気まずい沈黙に甘んじるしかなかったのであった。
 だから、誰かが部屋を訪れたのは、ある意味では助けだっただろう。
 間の空かない三回のノックが何度も繰り返されるのに、二人は我に返って顔を上げた。立ち上がろうとするエルナクハを制し、センノルレが扉の前に向かう。
「どなたですか?」
「ノル姉か! ナックはいるか!?」
「少々面倒なことになった」
 相手がメディックとレンジャーであることが判明し、室内にいた二人は、一体何ごとかと互いに首をひねりあった。
 そもそも、アベイは港での難破事故の救援に行っていたはずなのだが、そちらはもう完了したのだろうか?

 私塾二階の廊下の中程は、いまだに見えざる圧力で満たされていた。通ることはできるのだが、一瞬でも早くその場を抜け出したい、と思わせる、負の強制力。近しい者の夭逝を知って落ち込んだパラスの仕業だ。
 その圧力は、先だってよりは弱まっていると思えた。少しずつだが、落ち着いてきているのだろう。だが、知らせを告げれば、彼女はまた取り乱すかもしれない。
 けれど、手遅れになる前に、知らせた方がいい。
 そう考えて、パラスの部屋の前に立ったエルナクハだったが、入室を拒む圧力は健在だった。ただの木の扉が、触れたら最後、牙を生やした大きな口と化して自分を噛み砕くと思わせるような、不気味な気配を漂わせている。そんな魔物は世界樹の迷宮にすらいない。さすがのパラディンも、ノックするために手を伸ばすのにさえ、ためらいを見せた。
 呪詛の特性を考えるなら、この圧力は自分達に向けられたものではない、と心の奥底、本能の根底から信じれば、効果がなくなるのだろう。しかし、一度受け入れてしまったものを完全に再否定するのは困難なことだった。せめて盾で呪詛が防げれば、とエルナクハは馬鹿なことを考えたが、活性化させた霊気オーラを盾に託して属性攻撃を防ぐことはできても、あいにく状態異常バステを防ぐことはできない。
 結局は、自分の身一つで立ち向かわなくてはならないのだ。
 思いもしなかった悲報に、自分の心もかなりぐらついてはいるが、引き締めなければ、呪詛に呑まれてしまうだろう。
 エルナクハは数度深呼吸して、扉に手を伸ばした。
 何かに腕を掴まれたような気がした。
 扉にまとわりつく黒い霧、人の姿の真似事をしたそいつが腕を伸ばし、いつの間にか大口を開けている扉の中にエルナクハを引きずり込もうとしている。
 コイツは幻覚だ。呪詛に魅入られ、この場から逃げ出したいと思っている自分自身が勝手に見ている、いもしないバケモノだ。
 そう頭で判っていても、本能はいかんともしがたい。逃げろ、逃げろ、逃げ去ってしまえ、と、肉体の一部さえも巻き込んで騒ぎ立てる。軋む筋肉を叱咤しながら、エルナクハは腕に力を入れた。だというのに、本当に何かに掴まれているように、腕は動かず、ぎちぎちと関節が軋む。
 ノックなんて生やさしいことは言っていられない。この際、とにかくノブを掴んで扉を引き開けてしまおう。
 そう決心したエルナクハだったが、改めて扉を見据えたとき、驚愕に声がこぼれることを止められなかった。
 幻覚が変化していた。
 人の姿をしたものが自分を扉の魔物の口の中に引きずり込もうとしている――という骨子は変わらない。違うのは、人の姿が具体的なものになっていたことだ。
 それは、パラスのはとこ、金髪碧眼の少年騎士のものだった。
「て……テメェ……っ!」
 思いもしない展開にエルナクハはたじろいだ。
 だが、これが呪詛に魅入られた自分が勝手に見ているものなのだとしたら、この展開は決して『思いもしないもの』のはずがない。
 むしろ、最初の瞬間こそ怯んだが、得体の知れない幻覚に『形』が与えられたことで、却って腹をくくることができたかもしれない。人間が何かを恐れる最大の理由は、その正体が判らないからだと言われる。エルナクハは、自分の恐れの正体が何なのか、ようやく――もしかしたら勘違いかもしれないとしても――理解でき、そのために呪詛の恐怖から逃れる糸口を掴んだのだった。
 そもそも、ここで怯むわけにいかないのは変わらないのだ。
「――やがって」
 エルナクハは一度、腕を引っ込めた。そんな動作でも、終えるには一苦労だった。幻覚の少年騎士の手は、エルナクハの腕をなかなか離さないのだ。退こうとするのなら、きっと素直に抜けただろうが、あいにく、エルナクハの意志はあくまでも『前進』なのだ。自身の意志を謀ることができない以上、呪詛の効果も薄れない。
 なんとか腕を引っ込めると、パラディンはその腕を再び突き出した。吠え猛る気合を乗せて。
「ふざけ……やがってええええッ!」
 掌底は、さながら盾撃スマイトのごとき勢いをまとい、扉に吸い込まれるように奔った。
 扉は、その形をまねた怪物と化して、大口を開いていたはずだった――エルナクハの認識では。にもかかわらず、ぽっかりと空いた口中の闇に呑まれるはずだった腕は、奇妙な軋みと共に、何もない空間で止まる。否、何もないわけではない。そこにはあるのだ、本来の扉の表面が。
 そう認識した途端、幻覚は、短い悲鳴と共に、千々に千切れて消えた。扉の魔物も、少年騎士も、あったことが嘘のように、もはや影すら残らなかった。呪詛の気配もさっぱりと消えていて、行動に支障はない。後に残されたものは、掌底の威力をまともに受け、みっしりとヒビの入った私塾の扉。勢いで開かなかったのは、もともと外開きの代物だったからである。
 衝撃の余波で痺れる腕を軽く振りながら、もう片方の手でノブを掴み、引く。
 やっとのことで呪術師の娘の部屋内部を拝むことができたエルナクハだったのだが、目的の人物が、ベッドの上で身をすくめているのを見いだして、あっけにとられた。パラスはまるで、自分を虐待する輩の襲撃を受けたかのように震えていたのだった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! ふざけてるつもりじゃなかったの! 自分でもどうしたらいいのかわからなかったの! 怒られてもしょうがないかもしれないけど、自分じゃどうにもできなかったの……!」
「あー……」
 なるほど、先ほど聞こえた悲鳴は彼女自身のものだったらしい。幻覚が消えたのは、エルナクハが腹をくくり真実を見据えたためだが、呪詛の方に関しては、主が動揺し、それどころではなくなったからのようだった。彼女の動揺の原因は、扉の破壊される音と、そしておそらくは――。
「悪ィ悪ィ、『ふざけるな』ってのはただの気合でよ、オマエにどうこういうってヤツじゃなかったんだよ」
 苦笑いをしながら近づくと、パラスは一層身を縮めてすすり泣く。
「私、私、マルねえさんに、みんなにも、酷いことしちゃった……」
「マァルはそんなことで酷いコトされたなんて思うタマじゃねぇよ。みんなもな」
 ぽむ、と柔らかく彼女の肩に手を置く。
 カースメーカーの少女は、赤くなってしまった目で、エルナクハの表情を伺った。ほっとしたのだろうが、自分のしたことを考えると『ほっとした』で済ませていのか、と悔恨する様が垣間見える。
 こんな状態の彼女に、『例の件』を告げるのは、正直心苦しい。だが言わないわけにもいくまい。エルナクハは重い溜息を吐くと、しばらくの逡巡の後にようやく口を開いた。
「話がある、パラス。『ナギ・クード・ドゥアト』って名前の女の人を知ってるか?」
「なんでエルにいさんがお母さんのこと知ってるの!?」
 その答えに、逆にエルナクハの方が仰天した。
「母ちゃん!? オマエの母ちゃんかよ!?」
 苗字が同じだから、その点に思い至ってもおかしくはなかった。だが、以前、一族全員が同じ苗字を持つと聞いていたので、血縁としての遠近は思考の埒外にあったのだ。
 こいつぁ面倒なことになった。エルナクハは頭の後ろをかりかりと掻きむしった。しかし今更言うのをやめるわけにもいかない。
「――いいか、落ち着けとは言わねぇけど、黙って聞けや」
 パラディンは、まずそのように言い置いてから、話の本筋を話し始めた。

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