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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


間章二――呪術師の目の小さな涙・4

 パラスは膝を抱えたまま考える。
 呪術師一族ナギ・クースは、多くの同族とは違い、感情を大事にする一族である。喜怒哀楽全てに関する抑制は、一般人程度のものに留まる。だからこそ、『カースメーカーらしくない』と言われるのである。
 だが、いくらナギの一族でも、周囲にこれほどの負の力を満ちさせるほどに感情を剥き出してしまうのでは、呪術師失格だ。まして今、周囲にいるのはみんな友達(なかま)なのだ。こんな無様を故郷の母や伯母に知られたら、小一時間くらいはお説教を食らうことになる。
「……ごめんね、マルねえさん」
 さっき優しい言葉を掛けてくれたのに振り払ってしまった、バードの娘のことを考えた。悲しみの棘に触れられたくなくて、呪術まで使って追い出してしまった。マルメリだけに限らない。さっき部屋に戻ってきた焔華が、間もなく早足で部屋を出て階下へ去っていくのを感じた。部屋が最も近いゆえに、負の力をまともに浴びてしまったのだろう。
 他の仲間達のいる部屋には、負の力は届いていないようだった――アベイが心配だったが、どうも出掛けたようだ――が、だからといって「よかった」とは言えない。皆が自分のことを心配しているだろう。それだけで、負担を掛けているのである。
 わかっている。わかっているのだけど、この心を制御することができない。
 今にして思えば、サラマンドラの羽毛探しをしていたころにあった胸騒ぎと、そのために行った言霊輝石の結果は、はとこのことについて語っていたのかもしれない。この結末を示唆し、パラスに覚悟を決めさせるものだったのかもしれない。
 ナギ・クースではない呪術師だったら、自分の悲しみを引っ込めてしまうのも造作わけないのだろう。同族であっても、落ち着いた性格の、もうひとりのはとこなら、負の力を無差別にばらまかない程度には自制できるかもしれない。けれど、呪術の訓練以外では、まるで市井の少女であるように育ったパラスには、どうしたらいいのかわからない。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
 気ばかり逸り、頭の中が混乱したようになって、パラスは膝の間に顔を埋めた。
 あるいは、この膠着状態を打破するには、良きにしろ悪しきにしろ、何らかの強烈な後押しが必要なのかもしれなかった。
 そして、その役を担う衝撃を、近いうちにパラスは受けることとなる。

 世界樹の懐に抱かれた街から、馬を飛ばすこと半時間強。
 飛ばす、といっても、なにしろ悪天候故に、晴天時と同じような速度では走れない。それでも、ある程度は踏み固められていた道であることと、騎手が軽装のメディック二人、しかも片方は軽い女性であることが、まだしも救われていたところだろうか。
 足下がようやく石畳に変わったことを知って、アベイやアンジュ、おそらくは馬も、ほっと安堵した。
 ハイ・ラガードの港は、それほど規模の大きいものではない。しかし、大事な生命線であるが故に、よく整備されていた。立ち並ぶ赤レンガの倉庫には、海を越えてやってきた荷物が運び込まれるのだろう。今は鉄製の扉が閉め切られ、中にあるものを聖騎士のように守り抜いている。
 今の季節は、冬に備えてさまざまな品物が輸入されていると聞く。流氷が港に押し寄せてくる前に、充分に備えなくてはならない。ちなみにハイ・ラガードからは小麦やラベンダー、薔薇関係の物品が輸出されるという。
「ただ、どうでしょうね?」とアンジュは危惧を孕んだ声を出した。「ハイ・ラガードにも冒険者が増えました。その分を考えないわけにはいかないですし。ですけど、先方との契約はいつもどおりです。突然の追加注文では、先方も用意がないでしょう。なんとか揃えたとしても、それが届く頃には流氷の季節になっているかもしれません。別の手段を考えないと、ハイ・ラガードはかつてない危機に陥ることになると思います」
「でも、今年は世界樹の迷宮があるじゃないか?」馬を器用に操り、停止させながら、アベイは応じた。「第二階層までなら、探索できるやつらも増えたし、物品はそこで揃わないかな?」
「確かに、それは案としてありですね。ただ、少し注意が必要かもしれません。必要な量が樹海から確保できるかどうか……確かに樹海は豊かですが、無限ではないでしょうし――例の枯木が広がらないとも限りません」
 その言葉に、アベイは、不自然な枯れ方をしていた樹海の木を思い出した。ノースアカデメイアに提出したというサンプルに対する答は、まだ返ってきていないのだろうか。今のところ、枯れ木の広がり方は緩やかなようだが、その速度が変わらないとは限らない。何らかの条件で爆発的に枯れていく可能性は、ないとは言えないのだ。
「大変だな、このあたりは」
 口にした言葉は、枯木とは関係のないものだった。
「砕氷船もないだろうしな、流氷が来たらなすすべもないわけだ」
「さいひょうせん……って何ですか?」
「あ、すまない。流氷を砕く役目の船、だよ」
「無理ですよ、それは。砕ききる前に流氷に囲まれて立ち往生がオチです」
 だろうなぁ、とアベイは心の中でつぶやいた。今の世界には、丈夫なスクリューも強力なエンジンもない。『はたらくのりもの』は、前時代のものほどには、荒々しい自然に対抗する力を持たないのだ。
「そんなのがあれば便利でしょうけどね。アルケミストさん達がうまいこと考えてくれればいいんですけど」
 そこで会話は途切れた。馬から下りて、現場に向かって駆け出したからである。
 海は風雨に晒されて大きくうねり、時に港を洗う。負傷者達を休ませている場所は、空き倉庫の一棟なのだが、入口周辺には土嚢が積まれて、万が一にも波が届かないように処置してある。しかし、座礁した件の商船や、救出活動に勤しむ衛士達には、土嚢の加護は届かない。
 水域仕様の装備――軽い革鎧や、革製の浮き袋――に身を包む衛士達を乗せた、沈まないように浮き袋で補強された小舟は、風に翻弄される花弁のように揺れ、心細く見えた。船と岸の間に渡されたロープと、そのロープに通されたカラビナに結ばれた別のロープで、遠くに流されないようにしているが、波が来るたびに危なっかしく思えることは否めない。それでも座礁した船に残された者達は、その小舟にすがるしかないのだ。
 さしあたって、メディック達にできる救助活動は、小舟に乗って助けに行くことではなく、助けられた者達の手当をすることである。
 座礁の衝撃で身体を強打してしまった者達は、打撲で済めばまだいい方で、ひどく骨折してしまった者も多かった。さらには、頭を打って意識のない者も。アベイや、先にアンジュから要請を受けたメディック達は、薬泉院のメディック達に混ざって懸命な治療を行う。幸いにも、手の施しようがない者は、現時点ではいない。
 意識のある者には、衛士が呼びかけ、名を問うている。その手にあるのは、たぶん、商船の乗客名簿だ。助け忘れがないように確認しているのだろう。
 また数人、土嚢の堰の内側に、乗客が数人運び込まれてきた。全員意識は確かなようだ。ただ、その分、痛みを訴える声が激しい。先に俺を治療しろ! とのたまう者を、ツキモリ医師がなだめながら、手早く麻酔を打って黙らせる。
「あと、どれくらい船に残ってるんだ?」
 たまたま近くを通り過ぎようとした、乗客名簿を持った衛士に、何気なくアベイは問うた。問われた方は、名簿をぱらぱらとめくりながら答える。
「そうだな、あと三人……か」
 助けられた者達の中にも、まだ意識のない者がいるのだが、幸いにも同行者がいて、名前の確認だけはできたらしい。
「うまくすれば、あと一回で救助も終わるはずだ」
「終わればいいな、海に出る連中も命懸けだろうし」
「ああ、戻ってきたら休ませてやりたいよ」
 名簿を持った衛士は立ち去っていく。アベイは乗客の治療に戻った。
 時間の感覚は、正直言って、なかった。ただひたすら、患者を診て、治療を施すだけだったから。
 ようやく現実に立ち戻ったのは、わっ、と、歓喜の声が上がったからである。ちょうどその時、目の前の患者の治療を終わらせたところだったアベイは、顔を上げ、海から上がってきた衛士を仲間達が労っているところを目の当たりにした。
 しかし、どういうことだろうか、衛士の歓呼は、波が引くように急激に消えていく。
「ツキモリ先生、この人はマズイかもしれない!」
 衛士のひとりが焦りを含む声で院長を呼んだ。
 残っていた乗客は三人だと聞いた。二人は、衛士に身体を支えられてやっと移動できるといった具合だったが、とりあえず元気そうではあった。しかし、残りの一人は――革の敷布に乗せられ、その両端を衛士達が持ち、慎重に運んでいる。駆け付けたツキモリ医師の態度が緊張を孕んだことに、アベイは気が付いた。
 緩やかな癖のある、背中くらいまである長い緑髪の女性のようだった。歳は二十代から三十代くらい。特に冒険者を思わせるような衣装ではない。商船に便乗した一般人だろうか。しかし、乗船料が高額になる船に乗ってくるぐらいだから、ただの一般人とは思えないのだが。
 意識のはっきりした二人の乗客に、名簿を持った衛士が名を問い、確認している。ツキモリ医師がその衛士に何ごとか話しかけたのは、意識のない緑髪の女性の名を聞くためだろう。だが、その表情が驚愕を形作ったことを、アベイは見逃さなかった。
「どうした、コウ兄?」
 なにかあったのだろうか、アベイはとりもなおさず、ツキモリ医師の下へと走った。
 ツキモリ医師は気を取り直し、女性の容態を見ていた。女性の顔色は死人のように白い。かすかに胸が上下しているところからすれば、溺れたわけではなさそうだった。だとすれば、頭を強く打ったのか。
 何を手伝うべきか判断をまとめようとするアベイに気が付き、ツキモリ医師は口を開く。
 その言葉は、アベイが予想していたものとは違った。
「アベイ君、手伝いに来てくれてありがとう、助かりました」
「ました、じゃないよ、コウ兄。まだ手伝ってやるから、どうすればいい?」
「いえ、君にはお願いしたいことがあるんです。この人はたぶん――」
 続く言葉を聞いた途端、アベイは、神なる者がいるならその悪意を呪いたいと心底思ったのだった。

 皮肉にも、難破船の救出作業が完了した頃から、風雨は次第に弱まっていった。
「……明日は、晴れるだろうな……」
 二階の水場の窓から光景を見渡しながら、ナジクはひとりごちた。
 重苦しい色の雲が絨毯のように空を埋め尽くし、北へと流れていく中、その終端が南の空の彼方にあるのが見える。ほんのわずかだが、それは明らかに蒼穹を見通す窓であった。去りつつある雨雲から、レンジャーは天気を読み取ったのである。
 私塾はハイ・ラガード公都の東部にあり、水場の窓からは、西以外の方角を見渡せる。もしもナジクの一族に、前時代よりさらに昔に世界の半分を支配した騎馬民族の血が、色濃く受け継がれていたとしたら、北を見たときに、畑の中の道を走る馬を見付け、それが何かをはっきりと知ることができたかもしれない。残念ながら、ナジクの視力は、常人を凌駕するものの、それをはっきり見定められるほどではなかった。
 だから、その正体が、救援要請を受けて港へ赴いていたアベイだったことを知ったのは、アベイ本人が私塾に帰り着いたときであった。
 弱まったとはいっても、降りしきる雨と強い風、そのために冷やされた大気は、未だ健在であり、柿渋の雨具に身を纏ったアベイは荒い息を吐きながらも身を縮めていた。しかし、その身の震えの原因が、寒さの他にもあることは、メディック当人がその事情を説明するまでは、さすがのナジクでも察することはできなかった。
「ジーク! パラスはどこにいる!? あ、いや、そんなの聞くまでもなかったか。いや、今はパラスに聞かせない方がいいか、とにかく大変だ!」
 小さいが、はっきりとした声でアベイは切り出した。
 アベイは、治療に挑む決意を固めている時を除けば、落ち着き払った性格というわけではない。が、今のように狼狽えていることもまた珍しかった。思い出せる範囲で言うなら、失った自分の生い立ちを思い出したときと、サラマンドラの羽毛を探す依頼のときぐらいだろうか。
「落ち着け、何があった」
 対するナジクは、裡に激しい後悔を秘めており、危ういところはあるのだが、普段の生活では常に冷静沈着な男である。こういう時の相手には相応しいのかもしれない。
 アベイはナジクの両肩をがっしりと掴むと、よもすれば大声で叫びそうになるところを必死でこらえながら、一大事を口にするのであった。
「難破船の乗員の中に、いたんだよ。『ナギ・クード』って苗字の女の人が。そうそうポンポン見かける名前じゃないから、パラスの知り合いかもしれない。怪我しただけならまだよかったんだけど、意識、ないんだ。危ないんだよ!」
「なん……だと?」
 さすがのナジクも絶句せざるを得なかった。ちらりと階上に視線を流し、すぐに戻す。歯ぎしりをしたのか、かすかに軋む音がした。
「とにかく、エルには知らせよう」
「そうだな」
 二人の青年は、互いに頷き合うと、階段を駆け上った。

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