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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


間章二――呪術師の目の小さな涙・3

「パラスちゃん」
 こつこつ、と扉をノックした後、部屋の主の返事を待たずに開ける。
 呪術師の少女は、ベッドの上で、膝を抱え、身体を丸めていた。変な表現だが、まるで丸まったボールアニマルみたいだ、とマルメリは思った。攻撃を寄せ付けないあの魔物のように、今のパラスには何を言っても通じないだろう。
 それでもマルメリは、手に持ったシチューの皿を、ベッドの脇の小さな机の上に置いた。先に机の上に無造作に転がしてあった呪鈴が、かすかに音を立てた。
「パラスちゃん、気持ちは分かるけど、何か食べないと、身体悪くするわよぉ」
 そこまで口にして、マルメリは、しまった、と思った。うずくまったパラスがマルメリに向ける瞳は、暗く淀み、その中心に赤々とした炎が燃えていた。その一瞬、マルメリは、パラスをパラスだと判断できなかった――邪眼を持つ魔物だと思ってしまったのだった。
 呪術師の少女の腕がさまよい、呪鈴を掴む。
 ちりん、という音が、マルメリの耳に不吉な予感を届けた。
「出て行け」
 短い言葉が、強制力を孕んでマルメリの心に焼き付いた。
 『ウルスラグナ』はパラスの呪言を恐れない。パラスが自分達に致命的な呪詛を掛けるはずがない、と確信しているからだ。逆に、過日のエルナクハが『腹踊り』をさせられることを恐れたように、生活の中での、ほとんど実害のない呪詛は掛けられるかもしれない、とは思ってしまっている。そしてマルメリも、鈴を掴むパラスを見て、自分が呪詛で排除されると思った。ゆえにその通りにパラスの呪詛は効力を発揮したのである。
 吟遊詩人の娘は、致死性の毒が部屋に満ちているような気分を抱いて、がくがくと震えながら部屋を飛び出した。理性では、そんなことがあるはずない、と判っている。だが、一度呪術師を疑ってしまったら、呪言は理性でどうこうできるものではないのだ。
 マルメリは、いつもの陽気な吟遊詩人の顔が偽りであるかのように、表情を曇らせた。しばらくはパラスに近づくことはできまい。自分にできることは、少しでもいいからパラスが食事を取ってくれれば、と願うことだけ。従弟妹達ほどに信心深くはないものの、己の神々に、どうか、と祈るのであった。
 そうしてマルメリが自室に戻ろうとした時に、階下からアベイを呼ぶ声を聞いたのである。
 オルセルタの声だった。なんだか雲行きのよくなさそうな様相を思わせる。続いて、平常時ならセンノルレが顔をしかめそうな足音を立てて階下へ走り降りていくのは、呼ばれた治療師だろう。はたして何があったのか、マルメリも気になって彼の後を追った。パラスに近い場所に居続けたくなかったという感情も否めない。
 そのようなわけで、玄関口でアンジュと相対するオルセルタの下に、パラスを除く全員が揃うことになったのだった。
 危篤に陥った患者のことを知らせるために関係者の下に馳せ参じた医師のような表情で、薬泉院のメディックの少女は、一歩進み出て、ぺこりと頭を下げた。
「突然申し訳ありません、アベイさん。手を貸して下さい」
「どうしたんだ?」
 答えるアベイは困惑気味であった。薬泉院には優秀なメディックが大勢待機している。ひとつのギルド全員が要手術レベルの重傷を負ったとしても、他の患者を相手取る余裕はあるはずだ。それとも、複数のギルドが一度に運び込まれたとでもいうのか。
 しかし、事態は冒険者達の想像を超えていたのである。
「港の沖合いで、商船が難破したんです」
「――何だって!?」

 ハイ・ラガードの北側に広がる低地帯。そこに広がる畑の中を通る道を東へ往くこと、馬車で一時間。そのような立地に、ハイ・ラガードの港はある。流氷が海面を覆う頃を除けば、船がよく出入りし、ハイ・ラガードの生活に欠かせない生命線のひとつとなっていた。船舶の主な発着地は、自治都市群随一の街ムツーラ――エトリアから南南西、馬で一日もあれば辿り着ける港街――や、『皇国』の港湾都市などだ。
 難破した商船は、ムツーラから出立した船であった。ハイ・ラガードに到着する寸前に、嵐に巻き込まれ、沖合いの暗礁に乗り上げてしまったらしい。この季節の風雨は太古からの確定事象であり、危険と判断したら出航しないはずなのだが、恐らく出立時には問題ない天気だったのだろう。だが、目的地近くで読みが大きく外れたのであった。
 乗員乗客には怪我人が続出した。今のところ、死者はいないらしいが、誰も死なずに済んだと判断するには早すぎる。港湾衛士が小舟を出し、救助に当たっているものの、海原は未だに荒れており、難航しているそうだ。
「とにかく、人手が足りないんです」と、薬泉院のメディックは訴えた。「比較的軽傷の方々は、こちらに搬送していますが、現場から動かしづらい人も多いんです。薬泉院の人員もたくさん派遣してますし、ツキモリ院長もあちらに行ってますけど、こちらを空にするわけにもいきません。だから、冒険者のメディックの皆さんにも呼びかけて回っているんですが、もう樹海に行ってしまった人も多くて……」
 どうしよう、と、アベイはギルドマスターに目で問うた。
 今日の探索は中止だ。アベイの手も空いていないとは言えない。猫の手どころかシンリンチョウの触角ですら借りたい状況だろう現場に、駆け付けたいという気持ちも、確かにある。けれど。
 パラスを放っておいていいのか。怪我や病気ではないからアベイの出番があるわけではないが、置いていくのも気が引ける。後から考えれば、パラスに『便りがないのがいい便り』という『皮肉』を言ってしまったことが、まだ引っかかっていたのかもしれない。
 狼狽えるメディックに、パラディンの青年は頷いた。
「行ってやれよ、ユースケ」
「でも……」
「どうせ今日は手が空いてる。傷ついたヤツらに手を差し伸べるのがメディックってヤツだろ?」
「……ああ」
「よかった!」
 アンジュの顔が安堵に輝いた。私塾に来るまでにも、たくさんのギルドを訪ね、望みを果たせないでいたのかもしれない。
「はい、アベイ。気を付けて行ってきて」
 アベイが迷っている間にどこかへ行っていたオルセルタが、畳んだ布を差し出してきた。柿渋染めのフード付きマントだった。ちなみに傘もあるにはあるのだが、街中ではまだしも、海が荒れるほどの風雨では役に立たないことが予想される。
「治療器具は現場に用意してありますから、手ぶらでも大丈夫です」
 アンジュがそう声を掛けるのに頷きながら、アベイは雨避けをまとい、仲間達に向き直った。
「じゃ、行ってくる」
 アンジュは一礼後、既に走り去ろうとしている。アベイもその後を追って風雨の中に消えていった。もちろん、適当な所で馬が待っているのだろう。馬車ではたったの一時間、しかし人の足で駆け付けるには遠すぎる。
 室内に戻ろうとしたその時、『ウルスラグナ』一同は、風雨の中に新たな人影を見いだしたのであった。アベイが忘れ物でもしたのか、と考えたが、よく見れば体格が違う。誰だ、と思いつつその正体を暴こうとしたが、人影の目鼻立ちがはっきり見えるまで、迂闊にも当てられなかった。
 余所のギルドから依頼を受けて出掛けていた、ゼグタントだった。
「よお、ただいまアンドおはようさん! いい天気だなァ」
 もちろん諧謔である。出掛けたときにはここまでの雨が降ると予想できていなかったのだろう、纏った薄めのフード付きマントは、雨にじっとり濡れて、べったりと身体に張り付いている。「あらあら」とつぶやきながらオルセルタがタオルを取りに引っ込んだ。
 採集専門レンジャーはギルド一同が待ちかまえる傍まで戻ってくると、大口開けて笑い出した。
「いやー、そろそろ秋雨の季節たぁ聞いてたけど、うっかりしてたわ。雨の方は街中はまだマシだったんだがなぁ」
「それでも、ここまで強い風雨はめったにないですよ」とフィプトが応じた。
 ゼグタントが脱いだマントをセンノルレが受け取り、洗濯場へ持っていくのと入れ替わるように、タオルを持ったオルセルタが戻ってくる。礼を言いながらそれを受け取った採集レンジャーは、そういえば、とつぶやきながら、訝しげに一同を見回した。
「さすがに今日は探索休みかい? まぁ、街中に宿取ってる連中ならともかく、これだけの風雨の中、出掛けたかぁねぇか」
 オレだって、こんなに雨風強いって判ってたら、街中で雨が止むまで待ってたぜ、と続けて、再びゼグタントは笑った。
 だが、『ウルスラグナ』の誰もがにこりともしないことに気が付いて、その笑みが次第に曖昧になっていく。
「どうしたンだよ? 探索に出られねぇのは笑い事じゃないか?」
 何となく嫌な気配を察してか、そう問いかける言葉も重い。
 冒険者達が事情を説明すると、さすがのゼグタントも絶句した。
「な……そんなバカな……パラディンの坊っちゃんが……!?」
 エトリアでも採集レンジャーだったゼグタントは、もちろん、死んだパラディンが所属していたギルド『エリクシール』のこともよく知っているはずだ。しかし、訃報を耳にしたときの動揺は、お得意様が亡くなったと耳にした商売人程度のものではなかったのである。
 まだ借りも返してねぇ、とかすれた声でつぶやくのを、エルナクハは耳にした。

 ゼグタントは浴場で、冷えた身体を暖めている。エルナクハが入った後、湯を張ったままにしておいたのが功を奏した。もとより、ひとり入っただけの湯を流してしまうような、もったいないことはできないが。湯はぬるくなっていたが、冷たい源水から沸かし直すよりは、まだいい方だろう。
 脱衣場では、獣の子が鼻を鳴らしているのが聞こえる。その獣にタオルを巻き付け、濡れそぼった毛並みをわしゃわしゃと拭いているのは、赤毛のソードマンであった。その彼が、しきりに獣の子に話しかけているのが、ゼグタントの耳に入った。
「ハディード、おまえのとうちゃんやかあちゃんが行ったとこに、おれのともだちも行っちゃったんだ」
 話しかけられた方は、何のことだかさっぱり判らないのではないか、とゼグタントは思った。ハディードが賢く、『ウルスラグナ』一同の言うことをよく聞くことは、ゼグタントも認めるところだ。しかし、その『ウルスラグナ』の誰かが逝ったならともかく、匂いを嗅いだことすらない相手の去就を語られても、困り果てるしかないのではなかろうか。だが、獣の子は、少なくとも、目の前の赤毛の少年がひどく悲しんでいる、ということは、正確に察しているようだった。少年が涙しているならそれを拭い去ろうとでもするかのように、舌を伸ばして頬を舐めていた。
 いつの間にかひとりと一匹の声は消え、ゼグタントが風呂から上がった時には、彼らがいた証は、かすかに残る濡れた足跡だけであった。どうやら二階に上がったらしい。大方、ティレンの部屋で身体を寄せ合っているのだろう。
 普段とはうってかわって、しんと静まり返ったような私塾の中を、ゼグタントは歩いた。生徒がいないことだけが理由ではない。どこかにぽっかりと見えない大穴が空いていて、そこから普段の穏やかな空気が吸い出されてしまっているような、そんな感覚がある。穴のある場所は――『ウルスラグナ』全員の心の奥底だ。そして、同じ穴がゼグタントの心の奥底にもあるのだった。
 飯が残っていると聞いていたので、食堂に足を踏み入れたゼグタントは、食事当番であるオルセルタの他に、もうひとり、ゼグタントと同様に胸の奥に空いた穴をもてあました顔をした者が、所在なげに頬杖を突いているのを見た。陶器製のカップの中で湯気を立てているのは、『皇国』か南方からの舶来物である緑茶だろうか。
「ブシドーの嬢ちゃんじゃねぇか」
「ゼグタントどの」
「あんたは自分の部屋に戻らねぇのか?」
「戻ったら気分が悪くなりましたんですえ」
「なんでまた」
「わちの部屋はパラスどのの隣ですし」
 常日頃は凛とした態度をあまり崩さないブシドーの娘は、毒気にてられたかのように、げんなりとした表情で答えた。
 ゼグタントは脳裏で私塾二階の部屋割りを思い出す。そういえば焔華の言うとおり、彼女の部屋はカースメーカーの娘の隣であった。そして、どういう偶然か、パラスの部屋の逆隣は応接室、向かい側とその右隣は空室。焔華以外の隣接した部屋で、唯一、人がいるのは、左斜め向かいのアベイだが、部屋の主は留守である。
 呪術師の少女は、はとこが死んだというショックで、知らず知らずのうちに負の心を呪いの力として放出してしまっているのだろう。
 そこでゼグタントは妙なことに気が付いた。
「連絡もらったの昨日だろ? 昨日は大丈夫だったんか?」
「昨日はよかったんですけど、ついさっき、マールどのが突っついてしまいましたんえ」
 もちろんマールどのに悪気はなかったんですけど、と、ブシドーの少女は溜息混じりに続ける。
 つまり、パラスの方はとにかく放っておいてほしかったんだろうな、と、ゼグタントは看破した。
「まぁ、カースメーカーの嬢ちゃんの気持ちもわかるさ。いいヤツを亡くしちまった」
「そうですやね」
 オルセルタが持ってきたシチューを口に運びつつ嘆息するゼグタントに、焔華は同意の言葉を返した。
「わちはエトリアに参りましたんが随分遅かったですし、おん方のことは皆ほど詳しくは知らんのやけど……」
 そう続けながら、焔華は湯気を立てなくなった緑茶をすすり、閉じこもってしまった仲間を心配するかのように、上に目を向けた。
「こういうとき、『いい人ほど早死にする』っていう言葉を思い出してしまいますえ」

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