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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


間章二――呪術師の目の小さな涙・2

 犬小屋で雨をしのいでいたハディードが、ギルドマスターの帰還にいち早く気が付き、わう、わう、と吼え始めた。
「兄様!」
 パラディンと同じ黒い肌を持った銀髪の少女は、タオルを手に慌てて飛び出した。その後、心配げな顔をしてタオルをそっと差し出したりすれば、兄妹愛あふれる一幕だったのだが、そうはならないのがこの二人である。
「雨具も持たないでどこ行ってたのよこのバカ兄貴――!」
 べちこん、と、エルナクハの顔にタオルが直撃する。
 何らかの反撃があると見越して身構えたオルセルタだったが、しかし、そうはならなかった。
「はは、悪ぃ悪ぃ」
 兄はタオルを顔から外しながら、力なく笑ったのだった。その頬を伝って落ちていくのは、髪に含まれていた雨水なのか、それとも、他の何かだったのだろうか。
「兄様――」
 オルセルタはしばらく声を出せなかった。だが、兄が例の衝撃的な知らせに心砕かれそうなら、自分までがそうなっているわけにはいかない。敢えて怒声を上げ、エルナクハを急き立てた。
「とっとと風呂入りなさいバカ兄貴! このままじゃバカでも風邪引くわよ!」
 冒険者達はよくフロースの宿の風呂を借りているが、私塾にも風呂がないわけではない。実際、冒険に出ていないときはもっぱら私塾の方を使うのが常であった。この時代、前時代のように短時間で湯が沸くわけではない。最先端の錬金術を使ったとしてもだ。私塾の浴場の準備ができているのは、兄が身体を冷やしているだろうと考えたオルセルタが、あらかじめそうしたからである。
 エルナクハはこっくりと頷くと、のそのそと私塾の中に足を踏み入れる。
 兄が玄関向かいの浴場に姿を消すのを確認して、
「ごはんできてるから、さっぱりしたら来るのよ!」
 オルセルタはそう呼びかけると、自分も食堂に向かったのであった。

 食卓に着いて黙々と朝食のシチューを口に運ぶ様は、さながら通夜パニヒダのようであった。あるいは、死者を知る者にとっては、そのつもりだったのかもしれない。しかし、その席には、死者と最も近しい者であるはずのパラスの姿はなかった。ゼグタントもいなかったが、依頼を受けて前日から探索に出掛けているところから戻ってきていないからだ。正確に言うと、夕方、討伐班が炎の魔人と相対峙している頃に、一度戻ってきて、帰りが朝になると言い置いて再び出掛けたらしい。
 オルセルタが席に戻ろうとして、いくつかの席の後ろを通ると、その最中に袖を軽く引く者がいる。ダークハンターの少女は立ち止まって、それが兄嫁となった人の仕業であることを知った。
「ノル姉さん……?」
「オルセルタ、エルは……?」
 心配げに義妹を見つめる濃紺の瞳に、オルセルタは元気づけるように答えた。
「どこ行ってたのか判らないけど、びしょびしょだからお風呂に突っ込んどいたわ。さっぱりしたらご飯食べに来ると思う」
「そうですか……」
 センノルレはかすかな溜息と共に、自分の目の前の食事に視線を向けた。匙でよそったのかと思えるほどに少ないシチューは、ほとんど減っていない。
 匙の遅さは他の面子も同じことで、例外は、死者をよく知らないフィプトぐらいのものである。そんな金髪の錬金術師も、状況は読んで、黙々と食事を進めている。空になった器をひとまず卓上に置いて、フィプトは口を開いた。
「今日は、私塾も休みにしました。だから、静かに過ごして、心を落ち着けるのがいいかと思います。何も知らない者の浅知恵で恐縮ですが……」
 冒険者達は誰からともなく首を横に振る。この動作は『何も知らない者の浅知恵』に対するものであった。エルナクハがどこかへふらりと出掛けていた頃、フィプトはフィプトで生徒達の家を何軒か回り、今日の授業を休みにすると伝えてきたのである。『連絡網』というものが設定されているため、全生徒の家を回る必要はないが、それでも足労であったことには違いない。ありがたいことである。今の状況を子供達に見とがめられて、どうしたのか問われるのは、正直言って厳しい。
 結局、皆の食事はあまり進まなかった。ほとんどの者が、皿にほんの少しよそったシチューを空にしただけで終えてしまったのだった。こうなることを予期して、いつものように一人分ずつではなく、卓の中央に大鍋を置いて勝手によそわせるようにしておいてよかった、とオルセルタは思った。もっとも発案者はフィプトである。今のオルセルタにはそこまで冷静な判断はできない。
 冒険者達は銘々の部屋に戻っていく。例外は、兄を待つオルセルタだけだった。パラスの部屋に持っていく分のシチュー皿を手にしたマルメリの後、最後に食堂を出て行くセンノルレが、どうすればいいのか、と言いたげに、何度も義妹の方を振り返ったが、結局、うなだれて立ち去った。
 厨房に大鍋を戻し、かまどの上で火に掛ける。
 玉杓子でかき混ぜながら暖めることしばし、くつくつと煮えたシチューの匂いが厨房に漂い始めたので、オルセルタは火を消した。調理台代わりの卓にに備え付けてある椅子に座り、天井を仰ぐ。
 ――『エリクシール』のみんな、悲しむだろうな。
 ライバルギルド『エリクシール』とは、随分と仲良く付き合っていた。そして『エリクシール』のギルドメンバー同士も、ギルドを組んだばかりの頃は別として、仲がよかったものだ。
 すでにエトリアを去った彼らが仲間の訃報を知るのは、いつになるだろうか。オルセルタの幼馴染みでもある赤毛のソードマンは、訃報を聞いたらどう思うだろう。彼女に付いていった、青髪のダークハンターは? 眼鏡を掛けた青年メディックはどうだろう。冷たい印象とは裏腹に情深かったアルケミストは? 寡黙なレンジャーや麗らかなバード、真面目に見えて陽気なブシドーは? 何よりも誰よりも、少年騎士の従兄だったカースメーカーは、騎士の死の原因となった者を呪い殺さんばかりに悲嘆にくれるだろう。
 そう、聖騎士の死は病や事故などではなかった。そうだったなら、天命を恨んだとしても、悲しみが癒えるのも少しは早かったかもしれない。
 少なくとも――エトリア執政院が正体不明の一団の襲撃に遭い、彼らとの戦いの中で殉職した、という結末よりは。
 不意に人の気配を感じ、オルセルタは顔を上げる。
 エルナクハが、上半身は裸のまま、タオルで頭をごしごし拭きながら、厨房を覗き込んできていた。
「オルタ、メシ」
「そんな拭き方してると、髪の毛痛むわよ、兄様」
 苦笑いしながらオルセルタは椅子から立ち上がった。
「どのくらい?」
「ん……オタマ一杯くらいでいいや」
「そう」
 要望通りの量でよそったシチューは、いつも兄が掻き込んでいる飯の量からすれば、あまりにも少ない。
 シチュー入りの椀と、パンを数個、それにミルクを添えてお盆に乗せて、食堂で所在なげに待つエルナクハの下に運んでいった。
「はい、兄様」
「サンキュ」
 短いやり取りと共に、食事の盆が渡される。
 元気なさげにもそもそと食事を口にし始める兄と相対する席に座り、オルセルタは頬杖を付きながら問うた。
「ねぇ、兄様。あのね……こんな時にする話じゃないのはわかってるんだけど」
「ん?」
「あの人を殺したのって、誰なんだろう」
 パンを掴もうとしていたエルナクハの手が、ぴくり、と止まった。やっぱりこんな時にするべき話じゃなかった、と思ったが、もう遅い。後悔に後悔を重ねて身体を縮みこませるオルセルタの前で、エルナクハは、時間が止まったかのように動かなかったが、やがて、パンを取ろうとした手を引っ込めながら、溜息混じりの声を発した。
「わからねぇよ」
「……うん」
 居心地の悪さを感じながら、オルセルタは席を立つことはなかった。理由のひとつに、自分が後片付けの当番だということもある。だが、それ以上の理由がある。自分でも明確に言葉にはできないものが。
 雨が地を叩く音と、ごうごうとうなる風の音が、耳に届く。雨はともかく風は、先程まではここまで強くなかった気がするのだが。この分では海は随分と荒れているのではないか――そこまで考えたオルセルタは、はたと思い出した。ハディードを表に出したままにしておくわけにはいかない。
「ごめん、兄様!」
 やむなくオルセルタは席を立ち、訝しげに見送る兄を置いて私塾を飛び出した。
 入口すぐ傍にある犬小屋では、奥深くまで潜ったハディードが不安げに鼻を鳴らしていた。さもありなん、風雨は屋内で感じていたよりも激しかった。もとより私塾は郊外にあるから、世界樹の傘は期待できなかったが、この分だと中央市街も相当に濡れることだろう。頭上に広がる世界樹の枝も風を受け、ざわざわと不気味に鳴っている。
 ばたばたと肌を叩く雨に耐えながら、オルセルタは獣の子に呼びかけた。
「ハディード、おいで。今日は中にいていいよ」
 きゅう、と犬小屋の奥から心細げな声がした。
「大丈夫、おいで」
 のそのそと這い出してきた獣の子は、全身を叩く雨に、きゃん、と悲鳴を上げる。樹海の中で生まれたハディードにとっては、こんなに激しい雨は初めての経験だったのだろう。なんとも情けない表情でオルセルタを見つめると、だっと駆けてきて、彼女が広げた腕の中に飛び込んできた。
 きゅうきゅう鳴くハディードを撫でてやりながら、オルセルタはやっと、自分が兄の傍を離れがたかった理由を言語化することができた。心細かったのだ。自分がよく知っていて、自分をよく知る者が、この世から消えてなくなったという事実が、怖かったのだ。それも、彼の者を死の顎(あぎと)に掛けたのは、樹海探索の危険によるもののような、自分達にもよくわかっていて、多少なりとも「仕方ない」と思える類のものではない。正体不明の襲撃者という、未知の存在。
 ハディードの不安の理由は、オルセルタ達人間のものとは全く関係ない。それでもダークハンターの少女は、獣の子の不安と同調して、その肢体をぎゅっと抱き締めた。
 腕の力を緩めたのは、そろそろハディードを中に入れてやらないと、と思い出したからではなかった。
 私塾の門の向こう側に、人影が見える。だんだんと大きくなっていくのは、こちら側に近づいてきているからだろう。その速度が速い気がするのは、走ってきているからだ。
 誰かしら? オルセルタはハディードから腕を離して立ち上がり、人影の正体を見極めようとする。
 人影は雨避けのフードとマントをかぶっているようだった。それが強風を受けてたなびき、かえって走る邪魔をしているようにも見えた。しまいには、突風を受けてフードが外れてしまった。その下にあった長い金髪のポニーテールが、風を孕んで波打った。
 オルセルタはその人物の顔に見覚えがある。
「あの人、確か……」
 思い出した。薬泉院でよく見かける顔だ。ちょっと前に、彼女もかつてはフィプトの下で学んだことがあると聞いたことがある。名前は確か――そうだ、アンジュと言ったか。
 その彼女が何故、こんなところに来るのだろうか。来歴を考えれば、恩師との旧交を温めに来たという理由も考えられなくもないが、それだったらこんな風雨の中をやってこなくてもいいはずだ。それに、娘の顔は、とてもとても、交流に来たとは考えられないほどに険しかったのである。

 自分を呼ぶ激しい声を聞いて、アベイはベッドから跳ね起きた。
 メディックとして人の生死に触れることが多かった彼だったが、それが知人の死に関する衝撃を和らげる役に立つことはなかった。朝食もほとんど食べる気がせず、部屋に引きこもって、何をするともなしにベッドに横たわり、天井を見上げていたのだ。死者を生き返らせる霊薬があればな、と、今までにもまして強く思うのだったが、もちろん現世にそのような都合のいい薬はありはしない。
 それに――とアベイは後悔していた。昨日、エトリアからの手紙を待つパラスに、自分は無神経なことを言ってしまった。『便りがないのがいい便り』だと。古来からのことわざであり、変な含みがあったわけではないのだが、今にして思えば、あまりに皮肉だった。よくないことがあったから、便りは来なかったのに。
「アベイくんの嘘つき!」
 慰めようとしたアベイに、親族を殺した真犯人を睨み付けるような目を向けて、パラスが吐き捨てたのを思い出す。
 もちろん、言われた瞬間はカチンときたものだ。「誰が嘘吐きだ!」と反駁したくなるのを辛うじて押しとどめた。少し落ち着いてからも、気持ちは分かるけどそりゃないだろ、と、心の中で何度も愚痴ったほどだ。だが――今は、それだけ身内の死がショックだったのがわかる。
 どうしたものかな。そう悩んでいる最中に、オルセルタが呼ぶ声を耳にしたのだった。それも、どうも尋常なことではなさそうだ。
 まさかパラスが後追いを図ったのか!? と考えかけて苦笑した。もしそうなら、声はパラスの部屋から聞こえるはずだ。オルセルタの声は階下からである。
 ともかくもアベイは招致に答えることにした。部屋を飛び出して階段を駆け下りる。普段、非常時でもないのにそういうことをしたら、センノルレあたりから睨み付けられ、「授業の邪魔ですから静かに」と釘を刺されるところだが、今日の私塾は臨時休暇、なにより非常時(推定)である。
 仲間達も同じように考えたのか、部屋を飛び出してきて、アベイと肩を並べて階段を走る。結局、パラスを除く全員が、オルセルタの下に勢揃いすることになっていた。
 ダークハンターの少女は、少し呆れたように仲間達を見回したが、それどころではないと言いたげに、アベイに声を掛けた。
「アンジュさんが、用事があるみたい」
 名を出されたメディックの少女が、一歩進み出て、ぺこりと頭を下げる。
 その表情が、一刻を争う患者を前にした時のそれに酷似していることを知って、アベイは気を引き締めた。

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