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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


間章二――呪術師の目の小さな涙・1

 ――長い夜が明けた。
 薄暗いハイ・ラガードの街の中、普段着に身を包んだエルナクハはひとり、フロースの宿への道を辿っていた。
 街には既に、周辺の畑から取れた作物を満載にした荷馬車が、何台も列をなしている。それらを脇目に、エルナクハはとぼとぼと歩き続けていた。途中で、「あ、兄ちゃん!」と声を掛けられた気もしたが、それが自分に向けてのもので、声の主がいつだったか薔薇水を売ってくれた少年のものだったと気が付いたのは、視界の向こうにフロースの宿を認めた頃だった。
「おばちゃん、風呂貸してくれや。メディックはいらねぇ。――今誰かいるか?」
 出迎えた女将の手を取り、使用料分の銀貨をじゃらじゃらと滑り込ませながら、エルナクハは問うた。
「あんた、どうしたんだい?」
 傲慢不羈ならざる『ウルスラグナ』のギルドマスターの様子に、女将は目を丸くした。しかし、力なく首を振り、「ちょっとな」と返す黒い聖騎士に、それ以上の問いは無意味だと察したのだろう。今は風呂を使っている者は誰もいない、と答えるに留めた。
「はっは、思った通り貸し切りだな」
 いつも通り笑う聖騎士の声には、いつも通りの張りがない。
 女将は訝しみながらも、聖騎士の態度に、それ以上立ち入れない何かを感じ、黙って風呂場への道を明け渡したのであった。

 女将の言葉に偽りはなく、混み合う時間には十人以上の冒険者でいっぱいになる浴場には、人気がなかった。
 朝風呂としゃれ込む者達が踏み込んで来るには少し早すぎる時間である。だからこそ、この時間にエルナクハはやってきた。もう二ヶ月も厄介になっている身だ、だいたいどの時間帯が混むかはお見通し。もっとも、空いている時間を狙う者もいるので、そういう者達と鉢合わせすることを危惧していたのも事実だった。
 例の『けろいん』と焼き印された桶に、浴槽の湯をすくい取り、頭から思い切りかぶる。
 今の時期、朝夕ともなれば、そろそろ秋の涼気が混ざってくる頃だった。宿に来るまでに冷やされた肌に、湯熱が心地よい。エルナクハは、ふう、と溜息を吐くと、浴槽に身を沈めた。
 揺れる湯面を見つめながら、ぎり、と歯を軋ませる。
 水面で歪む自分の顔を見つめているうちに、エルナクハは衝動を抑えられなくなった。
 本物の方の自分の顔が歪む前に、全身を湯の中に潜らせる。
 目前に広がる浴槽の底に、握った拳の縁を叩きつけた。
 畜生テムジェグィ、畜生、畜生――!
 罵倒の言葉が思考を塗りつぶしていく。
 何を罵倒しているのか、自分でもよく判らない。ただ、無性に悔しかった。
 もう三ヶ月も前、後にするエトリアの光景を眺めたときのことを思い出す。そのとき見送りに来てくれた彼――パラスのはとこであるパラディンと言葉を交わしたものだった。何を話したかよく覚えていないけれど、思い残すことはない、と別れを告げたのは覚えている。その時に見た、金髪碧眼のパラディンの晴れやかな笑顔が、記憶に焼き付いている。
 生きているアイツを見たのは、それが最後になっちまった。
 もう一度くらい、振り返っておきゃよかった
 冒険者なら、下手を打って生命を落とすのは珍しくない。だから、そんな死に方だったら、悲しくは思っても、ここまで無念を抱えることはなかっただろう。だが、パラスのはとこは執政院付正聖騎士になったのだ。危険がない職場とは言えないが、樹海の冒険で生き残った彼なら、そう簡単に生命を落とすような事態にはなるまい、と思っていた。
 そんな思いは、『ウルスラグナ』の全員――彼と面識のないフィプトを除いて――が同じだったようだ。
 昨晩、陰鬱な思いを抱えて私塾に帰還した討伐班を出迎えた留守番組は、当然ながら何があったのか問うてきて、事情を知ると、それぞれに驚愕の思いを表情に見せた。「『ウルスラグナ』以外の誰が死んだところで別に関係ない」と常日頃思っていたであろうナジクですら、「それは本当なのか」と聞き返してくる前に、数秒の驚愕の間が空いたくらいであった。
 嘘だ、と言えればよかっただろう。しかし、こんな嘘を吐くために、忙しいオレルスがわざわざ手紙を寄越すはずなどあるまい。本文は打鍵作文機タイプライターで打たれていたから、誰かの悪戯かもしれない、と思いたかったが、署名は、しっかりと若長の自筆で記されている。しかも、手紙にはエトリアの紋章の浮き彫りが施されている。ここまで揃ってなお悪戯というなら、余程に手が込んでいる――むしろ、手の込んだ悪戯であってほしかった。
 はとこ同士というやや遠い間柄とはいえ身内であり、聖騎士をかわいがっていたパラスは、自力では歩くことすらできないほどに衝撃を受けていた。ティレンとアベイが肩を貸してやりながら、やっと私塾に帰り着いた後、自室のベッドに寝かせてやったのだが、息をしているだけの人形と称してもおかしくないほどだった。
 そして、彼女よりはましとはいえ、他の者も、知人の死と、それに伴う仲間の消沈に、引きずられていない、とは言い切れなかったのである。

 『常に一番風呂』を信条とする、とあるギルドのソードマンは、浴場の湯煙の中に、一体の人影を見とがめ、がっくりと肩を落とした。ここ二ヶ月毎日、午前五時を起点とした一番風呂の栄誉に、文字通り浴していたのだが、その記録はここに破られてしまったのだ。ちょっと寝坊してしまった自分を呪いつつ、浴場に踏み込んだソードマンは、人影の正体が『ウルスラグナ』のパラディンであることを知ったのである。
「よう! 遅かったじゃねぇか」
 浴槽の奥にもたれ掛かってふんぞり返り、傲岸不遜な挨拶を返してくるエルナクハの前に、ソードマンは眉根を吊り上げながら立ちはだかった。
「こんのてめぇ! 樹海探索だけじゃなく、こんなとこでもヒトの記録の邪魔しやがって!」
「はっはっは、邪魔が入らないと思いこんでたオマエのミスだ!」
 しばしにらみ合った末に、ついに二人は笑い出した。
 ソードマンの属するギルドは、現在、第二階層の中腹あたりに到達している。樹海迷宮探索はハイ・ラガードが初めてだが、一般的な冒険者としては随分と歴の長い者達であった。本当はエトリアの探索もやりたかったのだが、既に有名になったエトリアを後発で探索してもつまらない、と思っていたときに、ハイ・ラガードの世界樹の噂を耳にして、もしかしたら、と、この地を踏んだのである。噂に聞いた時点では迷宮の存在すら公ではなかったのだが、期待に違わず、彼らが辿り着いた頃に、ちょうど公募が始まった。そういう意味ではとても運がいいギルドだと言えよう。
 このような経緯から、彼らは『ウルスラグナ』に対抗意識を燃やしていた。なにしろ、自分達が挑む前からあきらめたエトリア樹海を制覇し、ハイ・ラガードにも後からやってきた上に自分達を追い抜いてしまったのだから。が、それはそれとして、浴場で裸の二人が笑い合っているように、両ギルドは結構仲良くやっている。
 ソードマンは、浴場備え付けの木製の椅子を、浴槽の前――エルナクハの前に持ってくると、それに座り、ヒマワリ油の石鹸を泡立てて髪と全身を洗いながら、口を開いた。
「なあ、炎の魔人とやらを倒したんだってな」
「粗チン晒しながら真剣な顔してんなよ」
「うるせぇてめぇ! 粗チン言うな!」
 再び睨み合いが始まるが、数秒後にはあっさりと終結し、ソードマンは話を続ける。
「第三階層、行ったのか?」
「いいや、まだだ」『ウルスラグナ』のパラディンは首を振った。
「ティレンのヤツが混乱したんで腹殴っちまったからな、まずは帰って、いろいろ……疲れたからな。今日は探索お休みだ。久々にのんびりしてやるぜ」
 その言葉の話し方に、ソードマンは、かすかに違和感を感じたような気がした。だが、その感情は、間を置かずして湧き起こった怒りの感情にさらわれ、瞬く間に自分でも拾い直すことができなくなっていた。ソードマンは腕を振り薙ぐことで己の感情を知らしめた。手に付いていた石鹸の泡が飛び、エルナクハの顔面に見事に命中した。
「てめぇそれでいいのかよ!?」
「何が?」
 きょとんとしながら、石鹸の泡を拭いつつ、エルナクハは問い返す。その態度も、何故かソードマンの癪に障った。普通に考えれば、いつもの傲岸不遜な態度の方が腹立たしいに決まっているだろうに、何故か今の方がむかむかする。襟首を掴んでやろうと思って手を伸ばしたものの、掴む場所がないことを思い出して、ソードマンは、ちっ、と舌打ちしつつ乱雑に手を引っ込めた。
「そんな悠長に構えてたら、てめぇらが倒した魔人の横を、他の連中はこれ幸いってスルーして、第三階層に登っていくぜ? 何の苦労もしないでよ!? キマイラの時だって、そうやってどれだけのギルドがてめぇらの苦労を笑いながら追い越して行ったよ?」
「オマエらは、そういう時、追い越さないで待っててくれんのか?」
「いや、追い越す」
 ソードマンは正直であった。
「おいおいおいおい」
 エルナクハは苦笑いすると、つうっ、とソードマンの目前に移動してきた。歩いてではない、己の身体を湯に浮かせて、壁を蹴った力で滑ってきたのである。盛大な湯柱と共にソードマンの前に立つと、指を突きつけ、いつものごとき不遜な態度で声を張り上げた。
「オマエらだって遠慮なく追い越して構わねぇんだぜ? 追い越したところで、第三階層に耐えられる力がなきゃあ――」
 ぷっつりと言葉が途切れたのに、ソードマンは不審を抱いた。
 それまでの態度はどこへやら、エルナクハは、口元をきゅっと結び、その後の言葉を出そうとしない。
「耐えられる力がなきゃ――死ぬだけってか?」
 ソードマンは代わりに言葉の続きを引き受ける。
 途端、エルナクハの様子が目に見えておかしくなった。びくりと身を震わせると、何か吐き出したいものを堪えるかのように顔を歪め、ソードマンからわずかに目を反らした。その時、ソードマンは、『ウルスラグナ』のパラディンに対するかすかな苛立ちの理由を悟った。
 ――そうだ、おれは、こいつにはいつでも傲岸不遜な輩でいてほしいのだ。弱音など見せてほしくないのだ。
 ソードマンは、深い溜息を吐くと、肩をすくめながら答えるのだった。
「てめぇ勝手にこっちが死ぬの前提で想像しないでくれねぇかな。こちとら前途有望なニューカマーをゲットしたんだからよ」
「ニューカマー?」
「ああ、ガンナーの女だ。アジェナっていう。近いうちに紹介してやんよ。まだまだ未熟だって本人は言ってるけど、心強い新人だぜ」
「あ、ずるいぞ! オマエらまでガンナー仲間にしたのかよ!」
 くわっ、と身を乗り出すパラディンの様子からは、先程までの、らしくなく弱々しい様子はすっかりと払底されていた。
 やはりこいつは、こうでなくては。
 ソードマンは内心で満足げに頷くと、ヒマワリ石鹸の泡を、頭からかぶった湯で洗い流し始めた。その脇を、
「ちくしょー、オレらには全然出会いがないのによ!」
 とぼやきながら、エルナクハが浴槽から上がり、湯滴を振り落としながら足早に出口へ向かう。
「もう行くのか?」
 ソードマンが背後に掛けた声に、応の意が返ってくる。いつもの安定さを含んだその声に、ソードマンは安堵を覚えた。
 何事かがあったのかと思っていた。『死』という言葉に過剰な反応を見せたところからして、もしかして、もしかすると、と危惧していた。『ウルスラグナ』の誰かが死んだという話は耳にした覚えはないのだが――しかし、今の様子からすれば、ちょっと落ち込んでいて、負の言葉に過剰反応していただけかもしれない。本来の懸念は大したことではなく、一風呂浴びてさっぱりして終わり、だったのだろう。
 ソードマンは己の推測に納得し、掛け湯をすると、自らの身を浴槽に沈めた。
 残念ながら二番湯になってしまったが、気持ちよさはさほど変わるものではない。湯煙の中で鼻歌を歌い始めたソードマンの頭の中からは、『ウルスラグナ』のパラディンの妙な態度のことなど、すっかりと吹き飛んでしまっていた。
 だから、彼は思いもするまい。
 自分が入っている湯の中に、涙がほんの少し混ざっていることなど。

 フロースの宿を辞したエルナクハは、空が薄雲っていることに気が付いた。
 自分が来るときからだったのだろうか。その時は周囲のことに気を配る余裕はなかった。今は気付いた――ということは、やはり朝風呂で少しは気が持ちなおしたと見える。だが、いつも通りではない。浴場でソードマンに見せた態度は、あくまでも強がりなのであった。
 雨が降るのだろうか? 聞いた話だと、この季節にハイ・ラガードに降る雨は、南方で猛威を振るった台風の成れの果て、すっかり弱まって、ただの雨風程度になってしまった哀れな怪物ティフォンなのだという。
 余程の嵐でもない限り、世界樹という傘の下にあるハイ・ラガード中央市街は、雨はかなり軽減される。残念ながら郊外の方では、枝葉の密度も少なくなるから、傘の効果はないらしい。
 迷宮内部では、少なくとも第二階層までに限れば、ときどき、地面を湿らせる程度の小雨が降るくらいだった。
 エトリアの場合は、地上に雨が降ると、迷宮上部に染みこんだ雨水が、時間差を置いて迷宮に降った。枯レ森より下に雨水が到達することは、ほとんどなさそうだったが。
 建造物の合間から見える東の空から、特に黒く染まっている雲が、みるみるうちに迫ってくる。やがて、ぽつ、ぽつ、と降り出した雨は、瞬く間に幾千幾万の水滴の一群となって世界樹を穿つ。
 軽減されるといっても、濡れないわけではない。朝も早い街を行く者達は、そうなることをとっくに予想して、雨具を用意していたのだろうが、エルナクハはそうではない。慌てて走り出すと、道に溜まった水が跳ね上がって裾を汚した。
 朝湯で火照った身体が、段々と冷えていく。
 私塾に帰り着いた時には、風呂から出たときに羊毛脂できっちり手入れした、癖の強い褪せた赤髪も、脂では弾ききれないほどの水を含み、くたりと伸びてしまっていた。

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