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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第二階層『常緋ノ樹林』――見よ、かの魔人を!・31

 頭の中が漂白され、意味不明の黒い記号が執拗に上書きされ続けるような。
 意識の最期の一片が消えるまで、執拗に殴られ続けるような。
 見張り塔すら飲み込むほどの大津波に襲われ、波にもみくちやにされながら、どこまでもさらわれていくような。
 どのような表現をしたとしても、その気持ちの悪さを現すには到底足りない。
 悲鳴を聞いているはずなのに、聴覚が壊れてしまったのか、無音のようでもあった。それでいて、なにかを滅茶苦茶にされるような感覚は間断なく襲来し続け、止まる気配はない。
 エルナクハは、突然目隠しをされた者が、すがるものを探すかのように、ふらふらとさまよった。とはいえ、それは意識的な話であって、実際にさまよっているのかどうかは自分でも判らない。状況が掴めずに混乱しそうになる中、心の奥の更に奥底で、自らの本能が囁いた――似たようなことを経験したことがある、と。
 そうだ。これは竜の咆吼に似ている。樹海に住まう真の竜の一体、赤竜の咆吼にだ。もちろん、絶対的な比較をすれば、魔人の能力など真竜には及ぶまい。だが、今の『ウルスラグナ』にとっての魔人の力は、かつてエトリアの深部を闊歩していた頃に出くわした竜の力にも近い。
 実際には、こんな論理的な思考を為し得たわけではないが、ともかくもエルナクハは当時の経験を武器に、自分を滅茶苦茶に揺さぶる何かに抗った。経験があるから抵抗しきれると決まったわけでもないが、正体が分かれば少しは足掻きやすい。黒い記号を払い、殴り来る力に耐え、襲い来る津波には無闇に逆らわず、緩やかになる隙を窺った。
 そして――すべてが去ったとき、エルナクハは、茫洋とする意識を抱えながらも、無事に現実に立ち返ったのであった。

 ざまぁみろ、オレにゃ効かなかったぜ。
 悲鳴を耐えきった直後に浮かんだのは、そんな嘲りの言葉だった。実際には魔人を嘲るというより、自分を鼓舞したという方が正しいが。だが、仲間達の様子を窺った時、聖騎士は再び絶望の淵に立たされた。
 自分以外の全員の様子がおかしい。頭を押さえ、ふらふらとよろめきながら、周囲を見回している。誰を見ても、その目は虚ろで、正気が残っているとは思えない。
 魔人の悲鳴に呑まれて、狂気に陥ったのだ。
 厄介なことになった。エルナクハは舌打ちをした。
 以前ティレンが鹿の足音に呑まれたときのように、混乱した者は敵味方の区別が付かなくなる。互いを倒すべき敵と勘違いして殴り合うのだ。ティレンが味方を殴ればただでは済まないし、後衛の者達の攻撃はさしたるものではないが、後衛同士で殴らせておくわけにもいかない。なにより、まかり間違って魔人を殴りに行かれたら面倒なことだ。殴るのは構わないが、相手に近づけば危険度も増大する。
 どうする?
 もちろん、テリアカβはいくつも用意してある。しかし、現在のハイ・ラガードで手に入るのは、服用タイプのもので、複数の人間に手っ取り早く効果を現す噴霧タイプのものは開発されていない。ツキモリ医師の腕の問題ではなく、手に入る素材の問題だ。つまり、全員を正気に戻すには、ひとりひとりに薬を飲ませなくてはならない。そしてその間、魔人の攻撃にも耐えなくてはならない。
 優先するべきは――何も考えなければ、アベイかティレンだろう。しかし、皆の精神は限界に達していた。アベイを立ち直らせても、彼への期待――治療行為は望めないと見るべきだ。であれば、放っておくと厄介なティレンを呼び戻し、彼と共に皆に薬を飲ませていく方が早い。
 行動を決め、エルナクハは自分のベルトポーチからテリアカβの瓶を取り出した。薬自体は複数あるのだが、エルナクハが持っていたのはこの一服分だけだ。
 その瞬間、エルナクハは横殴りに衝撃を受けた。
 はずみで薬瓶が手から離れ、ころころと遠くへ転がっていった。
 地面に倒れたエルナクハは、立ち上がろうとしながらも再び舌打ちした。
 自分の手持ちはもうない。あとは、他の仲間達が持っている薬を出して使うしかない。手っ取り早いのは、開いた状態で地面に置かれたアベイの医療鞄。その中にはテリアカβも入れてあるだろう。
 急がないとならない。仲間達は既に互いに目を合わせ、相手を敵だと認識しているようだ。手に持つ武器――後衛も護身用として杖をもっている――を振り上げようとしている。ティレンの斧の刃が、夕暮れの光の残滓を反射し、剣呑な光を放った。
 だめだ、薬を探している間もない!
 何者かに救いを求めるようにエルナクハは周囲を見回した。そして、魔人と目が合う。
 今が好機だろうに、魔人は動きを見せない。乱杭歯の目立つ大口は、荒く息を吐き出し、全身を小刻みにわななかせている。
 聖騎士は、先ほど魔人に殴られた場所を無意識に撫でた。
 ……本来の魔人の攻撃なら、この程度では済まなかったはずだ。パラスの呪詛で力を削がれていたとしてもだ。つまりは魔人も限界に達している。あるいは、渾身の一撃を食らわせれば倒せるかもしれない。敵が倒れれば、仲間達の治療はどうにかなる。
 ――が、読み間違って、魔神が倒れなければ、さらなる危機に陥ることになる。
 この選択肢は間違えられない。どうする?
 現実の時間にすれば一瞬というべき短さだが、エルナクハの認識では、じりじりと引き延ばされた時間の中で、迷いが無限の連鎖を繰り返す。
 混迷の最中、視界に、魔人が腕を振り上げる様を捉えた。その腕の先に、巨大な火球が生じる様を。
 炎の王の名を冠するに相応しい、暴虐の獄炎。戦いの最中に一度だけ体験した、広範囲の攻撃。消耗した今はしのぎきれないだろう。全員がまともに食らい、消し炭となってこの世から消え去るのだ。
 さすがに、消し炭になった人間は、ユースケでも治せまい。そもそもユースケだって消し炭仲間なわけだからな。
 自嘲気味にそんなことを考えたエルナクハは、その思考の中に出てきた仲間の名に、引っかかりを覚えた。
 その名が引き金となって、何日か前の出来事が記憶の中に蘇る。
 相手は――そうだ、森林の覇王だった。皆が倒れる中、両の足で立っていられたのはアベイだけだった。
 自分は「逃げろ」と進言した。が、後に冷静に考えれば、それは大博打に違いなかった。敵から逃げられるとは限らない。失敗すれば、その時点で運命は決するわけだから。かといって、逃げなくても結末は同じ。自分としては逃走を勧めるしかなかった。
 しかし、アベイは別の無茶をもって進言を拒絶した――雄叫びを上げながら突進し、覇王の頭蓋に杖を振り下ろしたのだ。
 何たる無謀か、と、その瞬間は思った。結果としていい方に転がったからよかったが。
 ……今の状況と似ている。もう後はない。できることは限られている。それに失敗したり、それ以外を選んだりしたら、すべてが終わるだろう。

 ――ああ、どうせ後はねぇんだよな!

 エルナクハは傲慢不羈な獣神ヌブルィークのごとき笑みを浮かべた。剥き出す牙の名は『喧嘩屋の剣カッツバルゲル』、纏う毛並みの名は『硬胸甲ハードブレスト』、守りの要である盾を投げ捨て、剣を突き出す鋼鉄の獣は、気合咆哮と共に、鋼鉄のしょ球で地を蹴り走る。闇に落ちかけた赤い森も、その合間に見える謎の柱も、全ての光景は混沌の中に溶け、はっきりと見定められるものは、ゆっくりと炎を手放そうとしている魔人の姿だけだった。
 あの炎が飛べば、皆が死ぬ。ただ、それだけを考えた。
「うおおおおおああああ!」
 突進力を剣に上乗せして、魔人に体当たりするかのように、その巨躯に突き刺した。急所を狙おうとか、そういう小細工は、考える余裕がなかった。ただ、ここまで騎士として生きてきた自分の本能的な行動を、信じたのだ。
 ――天は自ら助くる者を助く、という言葉が、この世界で権勢を誇る一神教にある。その言葉を思い出す余裕がエルナクハにあったなら、にやりと笑いながら、こう言ったに違いない。「ああ、そりゃ至言だな。今のオレにぴったりだ」と。
 天を支配する戦神の名を持つ騎士の、生まれたときから積み重ねてきた努力は、今この時、彼が信じたとおりの動きを彼自身にさせたのだった。魔人にはその攻撃を避ける余力はなく、腹に深々と、剣という名の獣の牙を受け入れた。駄目押しとばかりに、エルナクハはその剣を力任せに引き、魔人の腹に一筋の傷を穿った。
 その途端、頭上に不穏な気配を感じ、剣を手放し全力で離れる――正解だった。魔人が取り落とした炎が、今し方いた場所に落ちてきたのだ。危うくロースト・エルナクハが一人前できあがるところだった。
 ぎりぎりで回避した危険に安堵の息を吐きながら、エルナクハは、その炎が魔人を襲う様を見た。魔人は炎に耐性があると聞いていたが、『中身』まではその限りではなさそうだった。傷口から吹き出したものを炎に炙られ、魔人は苦悶の悲鳴を上げていた。生きながら炙られた人の悲鳴に似た、その断末魔。少しだけ抱いた罪悪感を振り払う。
 魔人の前に冥界の扉が開かれたことを確認すると、急いで後方に向き直る。
 長い長い戦いのように思えていたが、幸い、魔人の悲鳴を受けてから今までの実時間は、ほんの瞬きの間のようだった。仲間達はまだ同士討ちの事態に陥ってはいない。エルナクハは四人の間に割って入ると、一番厄介なティレンの鳩尾みぞおちに拳を入れた。少年が悶絶して転がり、無力化したところで、他の三人の動きを易々といなしながら、アベイの鞄の中に入っていたテリアカβの一瓶を取り出した。
 瓶の中身を手近なところにいたアベイに無理矢理呑ませた頃には、赤い樹海は、すっかりとその彩度を落としていた。
「あ、あれ、俺……う、うわっ!?」
 アベイが驚いたのは、エルナクハの向こうに、炎に包まれた魔人の姿を見たからだ。既に動かなくなった魔人は、不気味な静寂の中、焦げる気配のない『外側』を炎の赤に照らされている。その威力が弱まってきているのは、もう燃えるものがないからだろう。アベイはおずおずと声を上げた。
「終わった、のか?」
「コイツら何とかしたら、な」
 答えるエルナクハの腕には、両側にひとりずつ、虚ろな目をして弱々しくもがく術師達がいる。そして地面には悶絶するソードマンである。
 実はテリアカβを飲ませなくても、混乱した精神は時間を置けば自然回復する。敵がいなければ待つ余裕はある。だというのにティレンを悶絶させ、アベイに薬を飲ませたのは、ひとりで四人を抑えるのが面倒だったからだ。
 何があったのか悟って苦笑するアベイは、鞄から残りのテリアカβを出して、エルナクハが押さえている仲間達に飲ませていくのであった。

「エル兄、おなかいたい」
 赤毛のソードマンがパラディンを見つめ、言葉と共に胃液を吐いた。
 そうなった理由はティレンにもわかっているし、仕方ないとは思うのだが、黙って耐えるには少々きつかった。
「はは、悪かったな、ティレン」
 エルナクハは手を伸ばすと、ティレンの頭をぐりぐりと撫でた。
「街に戻って、腹痛くなくなったら、うまいもの食わせてやるからよ」
「うん」
「いい子だ――で、パラス」
 カースメーカーの少女は、アベイに傷の手当てをされていたが、突然呼びかけられて、驚いたように振り向いた。
「な、なに、エルにいさん?」
「書いていいからな」
「え?」
 何のことだ、と言いたげに首を傾げるパラスに、パラディンは言葉を続けた。
「手紙だよ、手紙。オマエがいたから魔人を倒せた、ってよ。よくやったな」
 もちろん、パラスの活躍だけでは魔人は倒せなかった。が、戦いを優勢に進める大きな役割を担ったのも事実だ。少女の格好付けを許しても充分に釣りが来るほどである。
 パラスは雲間から太陽が顔を覗かせたかのような笑みを見せた。
「わあい! でも――」
「でも?」
「『一番格好良かったのはエルにいさんだった』って書いておくね」
「おいおいおいおい」
 今度はエルナクハが笑む番であった。こちらは苦笑であったが。
「クライマックスん時に混乱かましておいて、オレの活躍なんか見てなかったくせに」
「てへ」
 パラスが肩をすくめたところで会話が途切れると、フィプトが割り込んできた。
「ところで、次の階には行きますか?」
「うん、そうだな……」
 エルナクハはしばし考え込む。キマイラと戦ったときとは違い、皆は肉体的には元気だ――ティレンの腹痛の問題はあるが。しかし、軽口を叩き合っているものの気力は限界に近い。やはり、がらりと環境が変わるはずの次の階――新たな階層には、万全の体調で挑みたいと思う。ちらっとだけ見てみたい気も、しなくはないが。
「帰ろうぜ。樹海は逃げねぇ」
 ちょっとした未練を振り払い、ギルドマスターはそう断じた。
「えー、つまんなーい」
 パラスが口を尖らせるが、エルナクハの意見の理は認めているようである。アベイは、当然だ、とばかりに頷き、フィプトはエルナクハ同様の未練を見せながらも帰りの支度をする。ティレンは言うまでもなく、「おなかいたい」を繰り返していた。
 確かに樹海は逃げない。そして、自分達は、無理した挙げ句にこの世から退散することになったら、もう戻ってこれない――仮に『転生』というものが実際に起きたとしても、その時に、『今の』自分達のままである保証はないのだ。
「とにかく、糸の準備頼まぁ」
 そう言い置いて、エルナクハは魔人の屍に近づいた。
 皮膚はあまり焼けこげていないが、腹のあたりから流れ出たものが炭化して、焦げ臭い匂いを放っている。ふと視線を移すと、翼の片方が取れかかっていた。何の気なしに手を出して引っ張ると、ずるりと取れた。もう片方の翼は傷だらけになっているのに、取れた方は目立つ瑕疵もない。
「……何かに使えるかな」
 矯めつ眇めつ翼を眺めた後、パラディンは再び魔人に視線を転じた。
 ……結局、この魔物は最後まで、敵意らしいものを感じさせなかった。たとえるなら、生命なきゴーレムや怪しい石像と戦っている気分だった。生き物であることは間違いないはずなのに、感情を表さない、精神が死んだような者。痛みを感じたときには悲鳴を上げていたが、それにも違和感を感じるほどだ。
 なんだったんだろう、こいつは。
 どこかのおとぎ話で、薬で人間の人格を殺し、使役する術の存在を聞いたことがある。そんな術を施された者と戦うことがあったら、同じような感慨を抱くのかもしない。
「準備、できましたよ」
「おう」
 フィプトの声が耳に届いたので、エルナクハは思考をとりやめた。こいつの正体は大公宮の学者サンとかそのあたりに任せればいい。センノルレやフィプトも、興味があれば、今回収してみた翼とかを調べてみるだろう。冒険者は迷宮の先を探索するのが仕事。現状で炎の魔人についてこれ以上考える必要があるとしたら、『次』があったときに倒せるか否か、ということだ。

 天牛ノ月十日。
 この日、『ウルスラグナ』はまたひとつ、迷宮の脅威を突破した。

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