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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第二階層『常緋ノ樹林』――見よ、かの魔人を!・29

 西の空が沈み行く太陽によって赤く焦がされる頃、『ウルスラグナ』討伐班は樹海に踏み込んだ。
 磁軸の柱があるあたりは、樹海の縁に近く、『外』からの光が届きやすい場所であった。強烈な夕暮れの輝きが樹海に差し込み、赤い迷宮を、炎で包まれているように彩る。
 初めて第二階層に踏み込んだとき、迷宮が燃えていると錯覚したナジクが眩暈を起こしたものだが、今この場に彼がいたら、心臓発作の一つでも起こしてしまうかもしれない。不謹慎な想像だが、そんなことを考えてしまうほどに、周囲の光景は非現実的であった。
 しかし、この紅も、一時間もすれば闇に沈む。計算上、魔人との決着が付く頃には、周囲は夜の帳に覆われることだろう。
「……行くぜ」
 冒険者達は足を踏み出した。
 朝方の探索で磁軸の柱を発見したとき、同時に、その南側に、扉があることがわかっていた。柱の付近から歩けば五分ほどしかかからない。これだけ短距離だと、魔物に出くわす確率もかなり低くなる。期待通り余計な邪魔に遭うことなく、冒険者達は扉の傍まで辿り着いた。
 扉の向こうからは、いまのところ、不審な物音はしない。
 誰かが中で戦っている、ということはなさそうだった。もとより、先に炎の魔人と相対峙した者達は、第三階層を探索しているはずだ。『ウルスラグナ』が魔人退治を表明した以上、わざわざ戻ってくることはないだろう。むしろ、自分達の後に続く後輩達のお手並み拝見、と、高みの見物に徹していると思われる。
「開けるぞ」
 エルナクハとティレンが扉の両脇に取り付き、合わせ目に手をかけた。
 方向性のある力を加えられた扉は、くぐもった音を立てながら、左右に分かれ、滑り、戸袋の役を担う石組みの奥へと消えていった。その奥に広がるのは、キマイラの宮殿ほどではないが、充分な広さのある空間であった。冒険者達は互いに頷き合い、魔人の巣窟であるはずの地に一歩を踏み出した。
 途端。
「……っ」
 冒険者達はかすかに呻いた。空気の感触が明らかに違ったからだ。気温は二、三度は上昇し、冒険者達の被服にまとわりついて不快感をかき立てる。
 いや、本来、この程度の気温の上昇は、不快感を感じるほどではない。
 不快を感じたのは、空気の中に、じんわりとした嫌な気配を感じ取ったからだった。
 強者の恐ろしい気配――確かに間違ってはいない。しかし、そういう意味では、八階でサラマンドラに相対峙したときの方が強かった。
 今感じている気配の中には、なんとも言いようのない、不気味なものが混ざっている。――それも微妙に違う。不気味なものの正体は、気配の中に混ざっている何かではなく、冒険者の心の奥底から湧き出てくる感情だ。
 訝しく思いつつも、それらを踏みにじりながら、冒険者達は前へと進んだ。
 視界の彼方に、黄色い塊のような何かがいる。
 討伐班の中では一番大柄なエルナクハを遙かに超える巨体であった。彼の二倍近くはあるだろう。それは高さのみに限らない、幅も同様――見た目では、高さも幅もほぼ同じ程度にある。
 乾いた笑いが漏れたのは、誰かが宿屋の女将に言ったという『女将そっくり』という話に合点がいったからだ。ぽっこりと突き出た腹は、確かにかの女将に似ていると言えなくもない。しかし、女将の出っ腹は、女将自身の愛嬌と相まって、彼女のトレードマークとして微笑ましく見ていられるものである。目の前の魔物のそれは、まったく違う。ただただ異質なものとして、目の前にあるだけだ。
 その腹の下にある足は太い。身体を支えるに足る筋肉も付いているのだろうが、それ以上に無駄な肉も付いているような足だ。ただし、それは腿から膝にかけての間だけ。それより下は、これまで見てきた身体のパーツを支えるには無理があるだろう、と思えるほど細かった。
 ところで、『黒髪・角・オカッパ』という、かねてより耳にしていた特長はどうなのかといえば、間違ってはいなかった。
「……確かに、黒髪、角、オカッパだぜ……」
 呆れたようにエルナクハがつぶやくのも無理はない。
 確かにその魔人は、黒髪のオカッパであった。もっとも、後ろ髪が長いという点では、正確には『姫カット』と言うべきだろうか。ちなみに『姫カット』というのは、正しくは『びん削ぎ』という、東方皇国で人気のある髪型だという(情報元は焔華である)。女性なら誰でもうらやむであろう、癖のない長く滑らかな髪――だが、その髪が彩る顔はといえば、怪物の相だ。
 首らしい形をしていない首の上にある顔は、大きく開けた口の中に見え隠れする尖った乱杭歯と、頬にあたる位置から伸びる、左右一本ずつの緩い弧を描く角が特徴的だった。角は長さが違い、魔人から見て左手にある方が長く大きい。目は前髪の下に隠れて、冒険者達からは見づらかった。
 両手の全ての指には、黒光りする鋭く長い爪が生えている。
 その背には、飛べるのかどうかは判らないが、キマイラのものに似た翼がある。
 これこそが、『炎の魔人』と呼ばれた魔物の全容。しかし、見た目では『炎』を感じさせるものはない。下腹部を中心に生える体毛がそう見えなくもないが、解釈としては苦しいかもしれない。
「話は……通じそうにないですね」
 フィプトが恐ろしげに魔人の全容を眺めながら口を開いた。
 魔人は冒険者の接近に気付いているのだろう。にもかかわらず、動く気配すらなく、ただこちらを窺うように見つめているようであった。口から漏れるのは、言葉にならない、獣のようなうめき声。樹海の先住の民として言葉を交わすことを期待していたのだが、どうやらそれは無理な相談のようだ。
 戦いの準備として武器を構えようとする冒険者達だったが、その時、一様に違和感を感じ取った。この場に踏み込んだときに感じた、自分達の心の奥底から沸き立つ不気味な何かが、訴えかけるように、ずくずくと脈動している――そのような感覚を得たのだ。
 戦っていいのか? こいつに武器を向けていいのか?
 なぜそんな疑問が浮かんだのかは、さっぱり判らない。人型をしているからだろうか。いや、それだったら、『紅樹の殺戮者』と呼ばれる『敵対者f.o.e.』にも同じような疑問を抱いてもおかしくはない。『殺戮者』は猿だが、目の前の魔人と同じ程度には人間に近くも見える。強いて言うなら、魔人はまだ敵意を露わにしていないという点が違う。
 もう少し様子を見るべきか、と思う間はなかった。
 魔人が無造作に腕を振り、あたりを漂う埃を払うごとき動作でエルナクハを薙いだからである。
「うわ!」
 とっさに盾をかざして腕を防ぐ。鋭い爪が半ば盾にめり込み、魔人は不思議そうにその様を見つめていた。
 盾のおかげで大怪我は免れたが、衝撃が全身を襲い、エルナクハは痛みに呻いた。
 そして悟る。やはり魔人と意志を交わすのは不可能だ。この存在を簡単にたとえるなら、アリの行列に手を出す赤子。その表情には未だ敵意も悪意も感じられない。だが、それが成すことは、アリにとっては大災害。排除しなければ、滅ぶのは自分達だ!
「おい、やるぞッ!」
 ギルドマスターの叫びに、仲間達は応じる。ティレンが斧を構え、アベイが医療鞄を開け放つ。フィプトが錬金籠手アタノールを起動させ、パラスが呪鈴を構える。
 澄んだ鈴の音が、可視化できたなら波紋に見えるように広がり、カースメーカーの少女の声が音に乗って魔人に届く。
「聞きなさい。お前に力があるのは、ただの思いこみ。本当のお前は、卵を握りつぶすことすらできない、脆弱な存在よ」
 カースメーカーの呪言は、聞く者の心に働きかけ、その言葉が真実であるように振る舞わせる。聞こえるからには、本来は魔人だけではなく、エルナクハ達にさえも影響するはずだった。それが仲間達に効かないのは、仲間達がパラスを完全に信用しているから。パラスが自分達に呪詛をかけるはずがない、と、確固たる信頼を抱いているからだ。
 魔人が再び薙いだ腕が、エルナクハの盾を叩く。衝撃はきついが、それでも、先ほどの一撃よりは明らかに弱っていた。パラスの呪言を聞き入れてしまった魔人は、本来の膂力を出せなくなったのである。ただし、魔人がまやかしを信じ込んでいる時間は長くない。
「その調子でヤツの腕も封じてくれや!」
 パラディンはカースメーカーの力を褒めそやし、自らは戦況の変化に備えて神経を戦場に張り巡らせる。
 その横を通り過ぎるのは、気合いの声を発しながら魔人へ突撃を掛けるティレンであった。
 本来、斧使いの行動は速くはない。斧の重さ(正確には重心のかたより具合)は、渾身の一撃にこそ効果を発揮するものであり、敏速に動くには枷となる。だが、気合いを込めて機先を制することも、鍛錬次第では不可能ではない。ティレンが行っているのはそれであった。
 咆哮が最高潮に達すると同時に、ソードマンは跳躍した。その高さは魔人を越えるまでには至らなかったが、振るった斧は魔人の左上腕に食い込んだ。
 魔人の苦痛の叫びが、おぞましい響きを伴って赤い樹林を満たす。
 その叫びが一旦止まったのは、白いものが魔人の身体に張り付いたからだった。
 フィプトが放った、錬金籠手で精製された化合物である。研鑽を重ねて威力を増したその化合物は、周囲の熱を奪い、温度を下げる。ひんやりとした空気が冒険者達の方にも流れ込んできた。
 しかし、化合物をまともに喰らった炎の魔人は、『ひんやり』では済まなかった。化合物の周囲が冷却され、氷の結晶が生まれていく。表面を凍らされるのみならず、その直下の筋組織さえも氷点下に晒され、さらには空気中の水が凍って集まったものが、霰のように魔人を穿つ。
 所詮は氷、あっという間に溶けて消える。化合物も魔人の動きによって剥がれていく。だが、負った傷までが消えるわけではない。その近辺の皮膚は、元の黄色から紫色がかった不気味な様相を露わにしていた。
 凍傷の初期症状だ。故郷での冬、準備を怠ったまま山羊の世話に出掛け、両手両足の指が紫色に変化して痛んだときのことを、エルナクハは思い出した。魔人の痛みは当時のエルナクハの比ではあるまい。
 魔人は甲高い声で痛みを訴える。人間の女が叫んでいるようにも聞こえ、冒険者達は自分達が氷の術式を浴びせられたような寒気を感じた。獣でも人間と間違うような声を上げるものはごまんといる。そう判っていても、心の奥底で、違和感を感じるのだ。
 そのまま炎の魔人が何もしなくなったなら、冒険者達も攻撃の手を緩めただろうが、そうはならなかった。
 おぞましい声を上げながら、魔人は片腕を振り上げたのだ。
 轟、と唸りを上げ、前腕部が炎に包まれる。
 炎の腕は、一番近くにいるティレンの上に叩きつけられた。もちろんソードマンの少年は避けようとするが、残念ながら逃げ切るのは無理だった。半身を、炎の熱さと、かすったとはいえ拳の衝撃に襲われ、ティレンは苦痛の叫びを発した。
 アベイが医療鞄の中から薬を取り出し、ティレンの下に走る。
「聞きなさい、お前の腕は動かない。瀝青れきせいに固められたかのごとく。石化鶏バジリスクめ付けられたかのごとく!」
 鈴の音と共に広がるパラスの声を聞き、その合間に錬金籠手の稼働音を聞き、アベイの手当を受けるティレンの姿を見ながら、ここまでの彼我の行動を顧みて、エルナクハは結論した。
 この戦い、決して勝てない戦いではない。
 むしろ、勝算はキマイラと初めて戦ったときよりもある。地道に積み上げてきた力は確実に自分達のものとなっている。統率者であるエルナクハ自身や、回復の要であるアベイが、先にサラマンドラという『規格外』の存在に出くわし、その強さを肌で感じたために、腹をくくれたことも大きかったかもしれない。
 油断は禁物だが、パラディンが護りに専念しなくても余裕があるだろう。
「これなら、オレも『アレ』ができるかな……」
 パラディンは味方を護るための構えを解いた。それどころか、剣を地に刺し、盾を利き腕で支える。一見では、自分のみを護ろうとしているかにも見えただろう。だが、そうではなかった。
「てぇぃやあああぁぁ!」
 先のティレンのように魔人に突撃を掛ける。ティレンとアベイに追撃をかけようとしていた魔人が、何事かと問い質したげに振り向くが、止まることはない。そのまま、盾に自分の質量と速度を上乗せし、叩きつけた。
 聞くだけでも激痛に苛まされそうな衝撃音が、冒険者達の耳朶を打った。続く魔人の叫び声は、むしろ哀れに思ってしまうほどであった。魔人の腕の自由を奪うために呪いをかけ続けていたパラスが、思わず呪詛を止めて、呆然とつぶやいたくらいだ。
「エルにいさん、容赦ないなぁ」

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