もちろん樹海であるから、楽しいことばかりでは済まされない。
危うく全滅するところだったことも、またあった。
それは昼組が八階で鍛錬をしていたときのことである。
第二階層の上層には、『森林の覇王』と呼ばれる『敵対者』が存在する。人身牛脚のその魔物は、六本の腕で人間のように武具を自在に操っていた。武具自体は斃れた冒険者から奪ったものだろうが、それを扱う知恵があることだけは確かだろう。顔も人間に見えなくもないが、四つ眼と三本角を備えた容は、やはり異形であった。それでも話が通じる相手なら、見た目が異形であろうと目を瞑れよう。が、もちろん通じない。森の中に伏せ、冒険者達の不意をついてくるのである。
炎の魔人に挑むならこいつに勝てなくてどうする、と、この魔物に挑むことにした。鍛錬の賜物か、順調に相手を弱らせていったのだが、覇王が雷挺をまとった斧を振り下ろした瞬間に戦況は逆転していた。『ウルスラグナ』は、ひとり、またひとりと赤い大地に伏していく。
気が付けば、両の足のみでしっかりと立っているのは、アベイだけであった。
ティレンはうめきながら藻掻くが、それ以上のことはできない。フィプトやパラスは生きているかさえわからない。エルナクハは意識ははっきりしているらしいが、立ち上がって加勢するのは無理な相談のようだった。
アベイの背に嫌な汗が流れ落ちる。
覇王は仕掛けてこない。『ウルスラグナ』の必死の応戦で、相手の体力も極限まで削られている。最後に残った輩は何をやってくるのか、と警戒しているのだろう。
「ユー……スケ……!」
エルナクハが、どうにか声を振り絞って、言葉を発した。
「オマエだけでも……逃げろ……オルタを……みんなを頼む……」
気持ちは分かるのだが、アベイは苦笑した。アベイの体力は、後衛で守られていたことも手伝って、現時点では問題ないのだが、覇王の繰り出す武具に掛かれば、一撃耐えられれば御の字だろう。逃げることに失敗すれば、その時点で運命は決する。かといって、逃げなくても結末は同じだ。
後は、ないのだ。
アベイは杖を握りしめた。
自分にはまともな攻撃手段はない。護身用の杖術を学びはしたが、あくまでも『外』で人間や危険な生物に相対するためのもの、樹海の魔物に通用するほどのものではない。
だが――どうせ後はないのだ!
雄叫びを上げながら突進を始めたメディックに、エルナクハは仰天した。
「……バカっ!!」
しかし仰天したのは覇王も同じようであった。そうでなくては、続く展開はあり得なかっただろう。
窮鼠が猫を噛むような突撃を目の当たりにして、呆気にとられた覇王に隙ができた。アベイはその隙を逃さず――いや、本人には隙を逃さないという認識すらなかっただろう――杖を振り上げ、力の限りに振り下ろす。攻撃をよけるという行動を忘れた覇王の頭蓋を、杖は見事に殴りつけた。
本来の覇王にとっては軽い脳震盪程度で済む攻撃だっただろうが、ここで運が『ウルスラグナ』に味方した。脳を揺さぶられてよろめいた覇王は、それまでに受けた傷のために、踏ん張りきることができずに横転したのだ。そして覇王にとっては不運なことに、頭を強く地面に打ち付けてしまい、そのまま動かなくなってしまった。
「……あー……」
呆然としたのは、一連の事象のきっかけを作ったアベイであった。半ばやけっぱちの一撃が、運の手伝いもあったとはいえ、強敵を斃し、仲間の危機を救ったのである。それを喜ぶべきだっただろう。誇っても罰は当たらなかったに違いない。しかし、自分でも思いもしなかった結果に、思わず妙な言葉が口を突いて出た。
「俺、殴りメディじゃないのに……」
『殴りメディ』とは、杖術の研鑽の末に前衛の剣士並に強敵と渡り合うことができるようになったメディックの異称である。杖術の修行の分、医術の分野でやや修行が遅れがちになる。幼い頃から病に苦しんでいたアベイとしては、他者がそうなることは称賛に値するが、自分はメディックの本来の役割に注力したい、と願っていたため、護身以上の杖術に手を染めることはなかったのだが。
いやはや、数千年前に鬼籍に入ったはずの彼の両親は、息子の将来を色々夢見ていただろう。が、樹海の中で異形の者相手に杖で殴りかかり、あまつさえ勝利しているいう未来図は、さすがに思いつかなかったに違いない。
「……っと、そんな場合じゃなかった」
背後には要救護者が多数。メディックの役割は終わらない。アベイは敵がもう動かないことを確認すると、医療鞄を担ぎ直し、急いで救護に取りかかるのであった。
なお、この時の経験が、後に『ウルスラグナ』の窮地を救う礎となるのだが、それは、ほんの少し先の話である。
あわや全滅の危機、となると、この一度だけであったが、苦戦はいくらでもある。 『敵対者』のような相手なら、気配を察知して避ける、縄張りを覚えておいて近づかない、という手段も取れるのだが、普遍的に遭遇する雑魚相手では、そうもいかない。そして、雑魚といわれる連中の中にも危険な相手は山ほどいるのだった。
現状で最大の強敵は、サウロポセイドンと呼ばれる巨大な首長爬虫類であった。大公宮で閲覧した資料の中で、男の子達の心をがっしりと掴んだ『竜』だ。だが、敵としてみれば非常に危険な相手で、特に、その巨体からは想像もできない、疾風のような疾駆は、冒険者達を撹乱し、押し倒し、踏みつぶすのである。
ここで問題となるのはパラスだった。他の冒険者達は、押し潰されても耐え切れた。しかし、少女であるカースメーカーは、巨獣の一撃を受けて立ち続けられるほどに強靱ではなかった。ゆえに、疾風どころか暴風といっていい攻撃が過ぎ去った後、パラスは必ず土を喰み、アベイの治療を待つしかなかったのだった。
そんな状況は、本来負けず嫌いな彼女には精神的にも耐えきれなかった。やはり負けず嫌いゆえに、仲間には悟られないように我慢していたのだが、いつか決壊の時は来る。何度目かの巨獣との戦いの後、パラスがアベイの手当を受けながらすすり泣くのを、仲間達は見た。
その様は、仲間達に少なからぬ衝撃を与えた。人前でパラスが泣くのを見るのは初めてだったのだ。それだけ、カースメーカーの少女にとっては、現状は耐えられないものなのか。
エルナクハは、治療を受けるパラスに歩み寄り、かがんで目線の高さを合わせた。そして問う。
「辛ぇか、パラス。辛かったら、やめるか?」
何を、とは言わなかったが、パラスは正確に把握したようだった。
「いや」
悔しげに表情を歪めながら、それでも、きっぱりと否定した。
「辛いのは、サウロに蹴散らされることじゃないの」
「そっちじゃねぇって、じゃあ……?」
「みんなの足を引っ張ってるみたいなのが、辛いの」
その言葉に、エルナクハのみならず、誰も言葉を返すことはできなかった。
足を引っ張る、といえば、そうかもしれない。倒れるということは、戦闘の手数が一人分減るだけのことではない。アベイにしろ他の面子にしろ、倒れた者を立ち直らせようとする誰かの手数すら減らすことになる。が、それはパラスに限ったことではない。誰も、この樹海では倒れないという保証はない。だから、パラスに手が掛かることを忌々しく思う者はいない。明日は我が身ということ以前に、そういう面倒を掛け合い受け入れるのが仲間ではないか。
しかしパラスの気持ちも痛いほどに分かる。自分だって仮に戦闘ごとに倒れているような状況(正確には、サウロポセイドンと毎回出くわすわけではないから、『戦闘ごと』ではないが)になれば、同じように思うかもしれない。だから、軽々しく「問題ない」とも「まったくだ」とも言えなかった。
皆が言葉に詰まってる中、不意にパラスは顔を上げ、仲間達を見回して口を開けた。
「ね、お願いがあるの。聞いてもらってもいい?」
「おう、何だ?」
皆を代表してエルナクハは問う。
パラスははにかむような笑いを浮かべ、願いとやらを口にした。
「炎の魔人、倒したらさ、アイツへの手紙に、こう書いてもいい? 『私がいたからこそ、炎の魔人に勝てたんだよ。どう? 私だってハイ・ラガードで頑張ってるんだよ』って」
仲間達は苦笑した。苦笑というが、呆れたとか馬鹿にしたとかいう感情が湧き上がったわけではない。なんとも微笑ましいではないか、この娘は。他者を呪い、時には死に至らしめる、忌まわしい力の持ち主とは思えない――というのは、いつものことだけれど。
互いに目線を合わせて意見を合わせるまでもなかった。エルナクハは、黒い肌の中に目立つ白い歯を剥き出して笑みを見せると、
「いいんじゃねぇか?」と頷いた。
ぱあっ、と、カースメーカーの少女の表情に光が差す。
「ほんと?」
「ホントも何も、こんなことに二言はねぇよ」
「やった!」
パラスは小さくガッツポーズを取った。治療中のアベイが「おい、こら、動くな」とたしなめるのも気にせず、エルナクハの方に身を乗り出すようにして言い募った。
「約束だよ? 絶対に書いちゃうからね? 土壇場で決戦メンバーからポイってのはナシだよ? そのかわり、私ももっと頑張るよ!」
「それはこっちのセリフだ。行けそうになかったらポイだからな」
「うう……。ポイできないように、力見せつけてやるんだからっ!」
行けそうになかったらポイ、というのは、つい今し方交わした約束からすれば、話が違う、ということになりかねないが、ことは生命に関わること。パラスは呪縛系呪術の腕を見込まれて、決戦メンバーとなっているが、それが戦いに相応しくなさそうだということになれば、他の誰かと交代になるのは当然の話。もちろん、パラス本人も、その件に関しては、口にした言葉とは裏腹に了承済みだ。
なんであれ、すっかり元気になったパラスを見て、エルナクハは心の裡で安堵の息を吐いたのだった。
そうして、種々様々な経験を積んだ末、天牛ノ月十日。
『ウルスラグナ』は、ついに、現時点の目標と遭遇したのである。
|