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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第二階層『常緋ノ樹林』――見よ、かの魔人を!・22

 太陽が西に傾きかける頃、夜の探索班達は予定通り、第一階層五階、百獣の王の魔宮へと出立した。
 前衛にオルセルタとティレン、後衛にフィプトとアベイとナジク――本来は、昼の探索に出たナジクではなく、パラスが納まっているはずだったのだが、かつて『守護者』の同輩となったナジクならあるいは、『芽』がキマイラの復活に関わっているならそれを察知できるのではないか、と思われたために、交代している。
 現在の『ウルスラグナ』の探索範囲からすると、目的地に到達するには、第二階層六階の樹海磁軸を利用するのが楽で早い。すぐ近くにある下り階段から第一階層五階に降りれば、魔宮まではすぐだ。
 ただし、見落とされがちな事実だが、各階を結ぶ階段は想像以上に長い。冷静に考えると、地上から鐘突堂の最上階まで上り詰める以上の高さを踏破していることになる。普段は、これも探索の一部と割り切っており、疲れれば小休止などをしているので、長さが意識に上ることはないのだが、単純に相応の時間がかかる。
 それでも、行程を合算すれば半時間ほどで辿り着くはずだった。
 だが、一時間早く出立していれば、と冒険者達は痛感した。
 第二階層から落ちて積もる紅葉の量が減り、夏の夕の熱気と、それを打ち消す微風が感じられるようになった頃、下階から、かすかに悲鳴のようなものが流れてきたのだ。
「……ヤバい!」
 考えるより先にアベイが走り出す。彼に釣られたわけではないが、他の冒険者達も一様に足を早めた。階段を下りきらないうちに、悲鳴はぷつりと途切れてしまったが、ほんのわずかな望みにかけて、『ウルスラグナ』は足を止めることはなかった。
 きざはしを下りきり、細い道を行って、しばらくの後に、扉の前に辿り着く。
 感情的には、すぐにでも扉を開けたいところだが、そうはしない。もう手遅れであることを悟ったから、ではない。仮に手遅れでなかったとしても、ここで一旦、息を整える時間を望んだだろう。相手は、ここまで来た勢いのままに撫で切れる雑魚ではないのだ。
「開ける、わよ」
「ん」
 オルセルタの言葉に、皆を代表するかのように、ティレンが短く応える。
 中央の合わせ目から割るように力を入れると、扉は、左右に分かれて、重々しい音と共に滑っていった。
 キマイラは冒険者達に背を向けていた。ここに至るまでに想起していたのは、魔獣が背を丸めて犠牲者をむさぼっているという図だったのだが、実情は違っていた。かといって、先程の悲鳴の主達が無事かというと、それも違う。漂う血の臭いからも、それは明白。
 キマイラは何かに対峙して、威嚇していたのだ。獅子の頭と山羊の頭は無論だが、尾に当たる蛇頭すら、後方から来た冒険者には目もくれない。
 誰かが一人でも生き残っているのか、と思った。キマイラは生き残りに対して威嚇しているのだ、と。
「ねえ、大丈夫!?」
 オルセルタは気を引くつもりで叫んだ。生存者だけではなく、キマイラをもだ。キマイラの気がそれれば、生存者が逃げ出す隙も作れるだろう。
 しかし、次の瞬間、オルセルタのみならず、全員が絶句していた。
「……え?」
 取り返しのつかない惨劇を見たからではない。
 悲鳴の主達の末路のみを述べるなら、もはや全員がこの世の者ではなかった。だが、冷たい言い方をすれば、その程度で我を忘れるほどに絶句するような冒険者ではない――今となっては、フィプトも含めて。
 後方からの声に反応して顔だけ振り向くキマイラ、そのために翼が動いて、見えるようになった向こう側に、人影があったのだ。
 そも、それは『人間』なのか?
 否、人間は『翼』を持たない。
 瞬く間に上方に飛び上がって姿を消してしまったから、細部は判らなかったが、その影は、確かに、人間の背に翼を備えたものに見えた。
 世界宗教の神の使いたる『天使』か、黒肌民族の戦女神かのように。
「……とりにんげん?」
 見たまま感じたままをそのまま口にした、ティレンの言葉が、事態の異常さを余計に引き立てる。
 だが、その件について頓着する暇はなかった。
 それまで対峙していた影が上空に消えた気配を感じたか、顔を上げたキマイラは、未練がましそうに唸りを上げた。
 一方、思いもよらなかった邂逅に固まったままの人間達は、結果的に邪魔をされたキマイラが、その恨み辛みを自分達にぶつけようとしていることを感じて、慌てて武器を手にした。
 ゆっくりと全身を冒険者達に向けようとするキマイラの周囲を、怒りの霊気が黒い炎となって取り巻いているようにも見える。
 呆けている場合ではない。戦いは避けられない!
 キマイラとの戦いを経験して勝利した者達が三人もいる。あの時からさらに鍛練を積んで強くなってはいる。それでも、油断していい相手ではないのだ。
 前衛の戦士たちの雄叫びと、後方から飛来する矢が大気を切り裂く音が、戦いの始まりを告げた。

 両前肢による鎚のような強打。猛毒を含んだ蛇の牙。何よりも激しい、口から吐き出す劫火。
 それらの猛攻を浴びてさえも、最後に立っていたのは、『ウルスラグナ』の方であった。
 一月近く前に、『ウルスラグナ』を壊滅寸前まで追い込みながらも、倒されたキマイラは、今回も、その意趣返しを果たすことはできなかったのだった。
 とはいえ、それは楽勝だったということを意味しない。前回の戦いほどではないが、冒険者達は満身創痍、痛みと失血とで、今すぐに倒れ伏しても不思議ではない。
 ばたばたと飛び立つ複数の羽音は、戦いが始まったと見るや集ってきた、獣王のシモベのものである。彼らが馳せ参じる前に獣王が倒されてしまったから、我先にと逃げ出したのだ。しかし、そんな小物ザコの行く先を気に留める者はいない。
 比較的軽傷だったナジクが、キマイラの屍をじっと見つめていた。
「ナジク、『芽』の気配はする?」
 アベイに包帯を巻いてもらいながら、オルセルタが問うが、ナジクは静かに首を振った。
「そっか……」
 黒い肌の少女は肩をすくめる。彼に『芽』の気配が感じ取れなからといって、『芽』がキマイラの復活に関わっていないとは言い切れない。ただ、一つだけ言えることがある。『芽』の仕業か、他の何かの要因かはわからないが、キマイラは確かに復活していた。今この場にいる『ウルスラグナ』の中でも三人が、その死を確認したはずの、百獣の王が。
 別個体という可能性もなくはないが、このような魔物が何体もいるとは考えづらい。
「……どうしたの、ナジク」
 仲間達の下に戻ってくるかと思えたナジクが、足を止めることなく歩き続けていったので、ティレンが訝しげに声をかけた。
 狩人の青年の背を追って視線を動かす一同の前で、ナジクはしゃがみ込んで地面を調べている。
「……人の足ではないな」
 ぼそりとつぶやくその言葉に、仲間達は合点がいった。ナジクがしゃがみ込んでいるのは、キマイラの前から飛び立った謎の人影がいた場所だったのだ――否、彼のつぶやきを聞くに、『人』ではなかったようだ。ただの二足歩行の魔物だったのだろうか。
基幹部分ベースが鳥なのは、間違いないようだ。足跡の形から見てもな」
 戻ってきたナジクの手には、影の正体たるものから舞い落ちたものか、一枚の黒い風切り羽が握られていた。普通の鳥のものに比すればかなり大きい。フィプトがそれを受け取り、矯めつ眇めつ観察を始める。
「随分と大きな羽根ですね。あの大きさでは、それだけ強い翼でないと釣り合わないでしょうね」
 アルケミストギルドで「蝶の羽を持つ人間大の妖精フェアリーはあり得るか」という議題が、案外に真面目な議論として扱われたことがある。結論としては、『ほぼ不可能』。論理的には人体の数十倍の大きさの羽根がいる。そして、そんなものを人力で羽ばたかせるのは無理だ。エトリアには掌大の『妖精』(ただしコウモリ羽)がいたらしいが、その大きさに蝶の羽あたりがぎりぎりか。
 鳥の翼ならば、もう少し難易度は下がる。それでも、人体側になるべく軽くなる機構――たとえば実際の鳥のように、骨が中空になっていたりしなければ、飛ぶのは至難だろう。
 ……それにしても、このような状況でこのような思考を保ち続けられるようになったとは、自分も樹海慣れしてしまったものだな、とフィプトは思った。なにしろ『ウルスラグナ』の周囲には、キマイラの犠牲となった冒険者達が屍をさらしているのだ。その散々たる有様は、三階で見かけた衛士達のそれに勝るとも劣らない。何も感じないわけではないが、もどしてしまったあの頃からすれば、格段の進歩だ。……いや、『人間』としては退化なのだろうか?
 死んだ冒険者達は知らぬ仲ではなかった。自分達と同じく、鋼の棘魚亭を贔屓の酒場とするギルドだった。『ウルスラグナ』が第二階層に踏み出した頃にやってきた冒険者達で、「いつかあんた達を追い越す!」と気炎を吐いていたものだ。キマイラが復活してさえいなければ、その決意は叶えられたかもしれない。
 ……たぶん大丈夫だ。こうして、彼らに思いを馳せられるなら、自分はきっとまだ『人間』だ。
 そして、『ウルスラグナ』の仲間達もまた、そうだ。
 さしあたって、屍をなんとかしなくてはならない。
 冒険者の間には、個々のギルドや個人個人での反目もあるにはある。そんな関係にある者同士でも、ある不文律だけは、必ず従うことが、暗黙の了解だった。同業者または樹海に入り込んだ一般人の、屍を発見したときの処置である。
 本来は埋めるなり焼却するなりが最善なのだろうが、探索行の途中ではそんな余力はない。余力があったとしても、屍の臭いは樹海の生物を誘き寄せる格好の餌である。だから、処理は手早く、屍は、なるべく他の探索者の邪魔にならないところに運んでおく不文律になっている。あとは、できるだけ早く樹海の生物の食物連鎖の中に組み込まれることを祈るのが、常であった(もっとも、かつての『ウルスラグナ』が埋葬した『ベオウルフ』のように、手間をかけることもある)。
 代わりに、遺品に値するものを持ち帰り、待機中のギルドメンバーや縁者が街にいれば、彼らに渡す。引き取り手がいない場合、あるいは受け取りを拒否された場合は、街の郊外にある合祀墓に納められることとなる。それが、異境の地に斃れ、帰る場所も定かではない者達の、終の棲家であった。
 また、『遺書』を開封することもあった。冒険者によっては、昵懇じっこんにしている宿に『遺書』をしたためて預けている場合もある。俺が死んだら遺品はどこぞの街の誰それに送ってくれ、ということを記してあれば、その頼みに従えばいい。
 もっとも、冒険者の書く遺書は、実用性というより、出所の怪しいまじないに近い。こうして遺書を準備しておけば、仮に斃れても、それを書いた時点に遡ることができるといわれるのだ。もちろん、ただの手紙が、死者を蘇らせたり、時を遡ったり、そんな大それたことができようはずもない。つまりそれは、生きて帰れるようにという願掛けで、成就しなければ本来の役目を果たすわけであった。
 ただ、自身に発破を掛けるために使う者もいるので、いざ本来の役に立てようとしたときに有効な文章が書いてあるとは限らない。エトリアが冒険者でにぎわっていた頃、ある男性ソードマンは『おれの荷物の中にあるエロい本を始末してくれ』と『遺書』にしたため、迷宮へと下りたのだった。そして、「おれが死んだらザックのエロい本を他人に見られる! 死ねねぇ! 死にたくねぇ!」と奮起し、生還したそうだが、仮に奮起が樹海の悪意に敵わなかったら、どうするつもりだったのだろうか。
 まだ初々しげだった、目の前の屍と化した冒険者達が、冒険者のそんな『風習』に染まっていたかどうかは判らないが、確認する価値はあるだろう。彼らのギルドは、ここで死んでいる者達で全て。街に戻っても遺品を受け取る者はいないのだ。
 五体の遺体を、魔宮のそこかしこに積み上がる瓦礫の陰にもたれかけさせ、簡単に祈りの言葉を捧げ、遺品になりそうな物を回収する。
 これで、いくらかの突発事項があったが、キマイラの復活の真偽を見届けるという役目は終わった。復活に『芽』が関わっているかどうかが判らなかったのは残念だが、致し方あるまい。

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