←テキストページに戻る
ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第二階層『常緋ノ樹林』――見よ、かの魔人を!・10

 羽根の玉房ポンポンが震えて、さわさわと音を立てた。
 サラマンドラの縄張りに踏み込んだ黒い聖騎士は、玉房を前方に突きだして、小刻みに振りながら、炎の精霊の名を冠したトカゲに近付いていく。
 それにしても、目の前のサラマンドラには、羽毛と呼べるようなものは何ひとつ生えていない。だというのに、脱皮した皮には羽毛が付随しているのだと、記録は述べている。もとより『脱皮』という言葉があったことで、『羽毛』という言葉から連想される鳥類とは違う、とは思っていたが、一体どういうことだ、とエルナクハは悩んだ。
 もっとも、脱皮することで、がらりと姿形を変える生き物は、この世にごまんといる。そう考えれば、サラマンドラが脱皮前には羽毛で覆われているのだとしても、奇妙ではないかもしれない。
 サラマンドラは、この区間を区切る扉のある方向、東を向いている。その背中側に、小道が続いているのがはっきりと判った。巣へと続く道に間違いない。
 エルナクハは、じりじりと近付いていく。
 サラマンドラが、縄張りに踏み込んだ不届き者に反応した。正面を向いていた首を、ぐるりとこちら側に向ける。仮面のような灰色の外骨格に覆われた奥から、爛々と光る目が、侵入者を睨め付ける。
 敵と思ったか、餌と思ったかは、判らない。いずれにしても襲われる方の運命の帰趨は同じである。
 太く長い尾が、ゆらゆらと揺れて、突然、その先端が閃光を発した。一瞬にして光度は落ちたものの、色と形をゆらゆらと変えつつ先端に灯り続ける。
 それはどう見ても炎だった。
「火蜥蜴……?」と後方でつぶやいたのはアベイのようだった。
 見たまんまのこと言うなよな、と苦笑しつつ、エルナクハは、さらに近付いた。
 と、今度は何かが勢いよく噴出するような音がするではないか。
「おわっ!?」
 突然のことにエルナクハはつんのめりそうになった。
 サラマンドラの襟の穴から煙のようなものが噴出している。否、煙ではない、湯気だ。かなりの高温なのだろう、周囲の気温と湿度が明らかに上昇した。
「わったったった!」
 どうにか体勢を立て直そうとする聖騎士だったが、残念ながら努力は報われなかった。
 鎧が立てる派手な音と共に、彼は前のめりに倒れ込んだ。弾みで手から離れた玉房が宙を舞う。
 残された冒険者の誰かが息を呑んだのは、サラマンドラが口を大きく開けたからだ。近付いた侵入者に対し、実力行使を行うつもりだろう。その喉奥から、紅蓮の炎が舌のように伸び、絡め取られたものが、じゅっ、というかすかな音を立てて、燃えつきた。
「エルナっちゃん!?」
「ナック!?」
 目の前で最悪の結果を見届けてしまった冒険者達は、ギルドマスターの名を呼ぶのが精一杯であった。
 しかし、サラマンドラの目の前の地面で、何かがうごめくのを見定め、胸をなで下ろす。
 エルナクハは無事だった。燃えつきたのは手から離れた玉房だけで、本人は辛うじて火炎の射程外にいたようだった。しかし、自分の目の前の地面の下草が、ものの見事に焦げ付いているのを見て、どれだけ危ういところだったのかを自覚したようである。
「おーい、全員、いっぺん逃げろぉ!」
 聖騎士は全力で走る。その後をサラマンドラが追う。そのまま上手く誘導すれば、最初に計画していたとおりの展開に持ち込めたのかもしれないが、心情的にそれどころではない。幻獣の口から、ちろちろと炎が漏れだしているのを見て、冒険者達も仰天した。
「こっちに来るな! 別のルートから逃げてこい!」
 とはいっても別のルートなどない。死にものぐるいで、全員が扉へ向かって駆けた。いくらなんでもそこまで遠くまでは追ってこないと判断したのである。
 幸いにして予想は外れることなく、サラマンドラは冒険者達が扉の近くまで逃げると、ゆっくりと踵を返した。その前に炎を軽く空打ちしたのは、「これに懲りたら二度と来るんじゃないよ」という意思表示だったのだろうか。
 少なくとも今すぐには、その警告に逆らうつもりは、冒険者にはなかった。震える手で扉に手をかけ、文字通り転がるようにその向こうに身を投じた。いつもは勝手に閉じていくので放っておく扉を、わざわざ手動でぴっちりと閉めたりする。
 誰からともなく、笑声が上がった。
 もちろん、面白いから笑っているのではない、極限の緊張が切れたための空笑いだ。普段は滅多に笑わないナジクでさえも、邪霊に取り付かれたかのように声を上げて笑う。
 そのまま進んでいたら、エルナクハは焼き尽くされていたところだった。そういう意味では、あの場でつまづいたのは、怪我の功名、黒い聖騎士風に言うなら『大地母神の加護』であろう。
 今の精神状態で探索を続けるのは、極めて危険だ。そう判断したのか、アベイがアリアドネの糸を荷物から出して、起動させた。その判断に異論がある者は、誰もいなかった。

 迷宮から帰還した探索班は、一も二もなくフロースの宿に駆け込んだ。探索の疲れを心身共に充分に癒すと、ようやく私塾に帰り着く。時間は昼を回っていた。
「おかえりなさい、兄様! ……って、どうしたの?」
 中庭で剣の鍛錬をしていたオルセルタが、一同の憔悴しきった顔に気が付いて、訝しげに問うた。宿で心身を癒したとはいえ、危うく焼き尽くされかけた衝撃が完全に醒めたわけではない。奇妙な空気を察したか、中庭の隅でハディードと遊んでいたティレンも駆け寄ってきた。その後を追ってきた獣の子は、相変わらずティレンにぴったりくっついて離れないものの、心配げに鳴いて鼻を鳴らす。
「大丈夫だったの!?」
 と鋭い声を投げかけてきたのはパラスだった。私塾の二階に確保した自室の窓から、帰ってきた探索班を見下ろしている。その表情に険しいものを見て取り、マルメリが苦笑い気味に返した。
「そりゃ危ないところだったけど、ちゃんと帰ってきたわよぉ、パラスちゃん」
「うん、よかったぁ……」
 窓からカースメーカーの姿が消えたのは、その場でへなへなと座り込んだからだろう。そんなにまで心配してくれたのか、と思う一同に、再び窓から顔を出したパラスが、今度は心底安堵した表情で笑った。
「占いしてたら、とてつもなく悪いしるしが出たから、心配してたんだよ」
「占いはただの占いだろう」
 切って捨てるようにナジクが返す。樹海探索などに手を染めていれば、危険な目に遭うことが多いに決まっている。
 しかし、占いなど気にしないだろう、と回りからは見られることの多いエルナクハは、うむ、とうなった。
 仮にも神官候補である以上、人知を越えたものに運命を問う、という行為について、気休めだ迷信だと切り捨てる気にはなれなかったらしい。事実彼は、時折『大地母神の導き』という言葉を口にする。もっとも、その上で悪い結果を踏み越えようとするのもまた、この黒い聖騎士の性なのだが。
 ちなみにオルセルタやマルメリも、真剣にパラスの言葉に耳を傾けている。元来が流浪の民であった黒肌の山岳民族バルシリットにとっては、当てのない旅に導きの光明を照らしてきただろう占いは、理に適っていなくても軽視できないものなのかもしれない。そして、大概の人間は、ただの占いと笑い捨てながらも、案外とその結果を信じたくなるものなのだ。
 パラスとしては、あくまでも回避可能な未来として凶兆を捉えつつも、それでも心配を拭えずに、探索班の無事な帰還を待っていたようだ。よかったよう、と気が抜けたような声を上げながら、再び窓際から姿を消した。
「ま、どのあたりを『とてつもない』って取るかにもよるからな……」
 アベイがつぶやいた。エルナクハが危うく焼き尽くされかけた、というのを『とてつもなく運が悪かった』と取れば、確かにはずれてはいないのだ。
 占いの話とは別に、アベイの様子に違和感を抱いた焔華が、心配そうに話しかけた。
「……アベイどの? 大丈夫ですかえ?」
「ん? ああ、平気だけど、なんで?」
 どことなく疲れているのは、サラマンドラに翻弄された探索班全員に言えることだが、アベイはことさらのようだった。思えばサラマンドラと対峙する前、彼の様子は変ではなかったか。治療師の夢、万能の秘薬の素材にお目にかかれるというのに、それを目指して日夜奮戦していたはずの彼は気乗りしない様子だった。何か心に引っかかっているものがあるのではないか。だが、当人がは隠そうとしている――樹海の中での反応を見る限り、あまり触れられたくはないのだろう。焔華はそう判断し、少なくとも今この場で何かを言うのは止めることにした。
 ところでセンノルレとフィプトが姿を現さないが、いつものことだ、と、皆は気にしなかった。私塾は笛鼠ノ十六日から――その前日が七日ごとの定休にあたるので、実質十五日からだが――夏休みに入っていて、生徒達が私塾に姿を見せることはなかったが(たまに遊びに来ることはある)、だからといって講師達が暇になるわけではなく、休み明けからの授業に関しての準備をせっせと行っている。もちろん、樹海で役に立てるための触媒の研鑽にも余念がない。そのあたりの事情から、アルケミスト達が探索班の帰還を出迎えることはあまりなかったのだが、だからといって仲間を大事にしていないはずがない。実際、私塾の中に入った探索班一同の姿を見るなり、アルケミスト達も驚いた。
「一体、何があったんですか!?」
 異口同音の問いかけに、樹海であった一部始終を語ると、留守番組の顔に、明らかに『阿呆』と言いたげな表情が浮かんだ。ティレンでさえもだ。
「そんな馬鹿げたことをした割には、無事で何よりでした」
 ここ最近にしては珍しく、センノルレが皮肉げに吐き捨てたが、瞳が口調と相反する表情を浮かべているのは、誰もが気付いている。エルナクハは苦笑したが、すぐに真面目に表情を引き締めた。
「だけどまぁ、囮作戦自体はよ、ヤツの巣穴に潜り込むのには必要だと思うぜ」
 エルナクハは馬鹿みたいに玉房を振っていただけというわけではない。一応は、相手の隙を探っていたのだ。仮に相手の動きが鈍ければ、隙を突いて相手の横をすり抜ける余裕もできただろうし、そうして巣の中に潜り込めただろう。しかし、サラマンドラにはそういう隙がなかった。動きはかなり素早かったし、横をすり抜けようとしたが早いか、あの炎を浴びせられるだろう。となれば、巣穴から遠くまで引きつけて、上手く誘導しながら巣穴に飛び込まなくてはなるまい。そして、安住の地を荒らされて怒り狂う炎の幻獣が戻ってこないうちに、羽毛を探し出すのだ。
「考えれば考えるほど、やめたくなるなぁ」
 とアベイが頭を抱えた。まただ、と探索班は思い、留守番だった者達も、メディックの意外な反応に軽い驚きを感じた。周囲の視線に気付いたアベイは、苦笑いの表情を湛えて、否定の形に手を振った。
「いや、ちゃんと行くぜ、ミッション受けたからな」
 その態度に詰問の拒否を見て取った仲間達は、内心で溜息を吐く。
 アベイの態度は、今すぐに探索に悪影響を及ぼすわけではなさそうだが、憂いごとは断てるなら断った方がいい。だが、それが何か、どうすれば解決できるのか、仲間達には探る糸口すら判らないのだ。
「囮作戦なら、また、道具に頼ったらどうですか?」
 ひとまず本題に戻ろうと判断したか、センノルレが口を開いた。
「道具?」
「ええ、三階の鹿の王をおびき出す時も、そうしたのではなかったですか?」
 幾人かが得心した顔を見せた。思えば三階で激情の角王に相対したときは、引き寄せの鈴でおびき出したのだった。
 鈴が容易に手に入るようになってから、探索中に何度か試したことがあるが、あの鈴はかなり離れたところから敵をおびき出せる。当然、安全度は格段に増す。そして、対になる眠りの鈴で、その場に眠らせることができれば……。
「なるほど、な」
 問題は、サラマンドラに鈴が効くかどうかだ。大臣も言っていた。『全ての魔物に効くわけではない』と。しかし、こればかりは試してみないと判らない。
 とりあえず、方針は固まった。
「なぁ、今晩の探索はヤメにしねぇか?」
「どうして、兄様?」
「明日、戦わないたぁ言っても、強敵とまたお会いするんだ。ちゃんと休みてぇ」
 エルナクハ自身が休みたいわけではないのは、問うたオルセルタにも、他の者達にも判った。そもそも、『昼の部』の者達は、一人を除いて夜の探索には出ないから、そちらが実行されても基本的に関係ないのだ。つまり関係するのは常に探索に出る者――メディックである。
「残念。でも、しょうがない」とティレンが頷く。
「悪い」
 気を使ってもらったと分かったアベイが目を伏せる。その後しばらく、何かを言いたげに口を動かしていたが、ついに観念して声に仕立てた言葉は、
「悪いついでに、薬泉院行ってきていいか?」
 薬泉院にお世話になるほどの怪我は残っていない。つまりアベイは、自分の相談事を先輩に持ちかけたいのだろう。仲間として力になれないのは残念だが、蛇の道は蛇、メディックの道はメディックだ。ここは彼自身の判断に任せる方がいいだろう、と皆は判断した。
「おう、何したいかわからんけど、行ってこいや」
「軽食ぐらいは取っていくといいでしょう」
 センノルレがカップに冷製スープをよそってアベイに差し出した。樹海の昼食のつもりで持っていってそのまま持ち帰ってきた黒パンを、スープと共に腹に収めると、アベイは仲間達の気遣いに感謝しつつ席を立つ。
「夕ご飯までに戻って来なきゃ、アベイの分、食べちゃうよ」
 日常っぽいことこの上ない言葉に見送られ、メディックの青年は私塾を飛び出し、薬泉院に足を向けた。

NEXT→

←テキストページに戻る