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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


間章一――狼は証言できない・5(完)

 エルナクハ達五人が、獣を追って現場に駆け付けたとき、レンジャーの青年は、大木を背にし、獣と弓矢で渡り合っているところだった。勘が当たったことに安堵し、しかし、ナジクが苦戦しているようなので、武器を構えながら声を張り上げた。
「ナジク! 大丈夫か!?」
 仲間の声を聞いて、レンジャーは、ぴくりと反応を示した。だが、矢が何本も突き刺さりながら戦意衰えぬ獣からは、油断なく目を離さないまま、言葉を返す。その声には余人の反論を許さない堅牢さがあった。
「手を出すな! 手を汚すのは、僕だけでいい!」
 手を汚す。その不穏な物言いに、仲間達は等しく嫌な予感を感じた。なにか反応しなくてはと思いつつも、口も身体も動かない間に、ナジクは箙から新たな矢を取り出して、弓弦につがえる。細められた瞳に、冷徹な光が宿った。
 ふぉ、と、弓弦が風の音を立てた。
 放たれた矢は、狙い違わず獣の眉間に突き刺さった。それまでの数発を何故外していたんだ、と問いたくなるほどの、正確な軌跡を描いて。
 獣は急激に力を失い、地に伏した。末期の痙攣はごく短いものだった。
 いかに今の『ウルスラグナ』にとっては敵でなかっただろうとはいえ、大物を一人で仕留める快挙を行ったはずの、レンジャーの青年は、しかし、達成感を微塵も感じさせることなく、自らが倒した獣の傍で肩を落としている。
「ナジク!」
「ジーク!」
「ナジクどの!」
 仲間達はレンジャーの青年に駆け寄った。もう一体の別の獣が、少し離れたところに倒れていることに気が付く。レンジャーは一人で二体の獣を(同時にではないかもしれないが)相手取っていたのだ。
「よくやったな、ナジク! ガキどもは?」
 何故か沈むような表情の青年を、元気づけるように朗らかに、エルナクハは声を上げた。 
「ここだよ、エルにいちゃん」
 ナジクからではなく、その背後から返事があった。その時初めて、エルナクハ達は、子供達が大木の虚穴に身を潜めていたのを知ったのである。子供達も冒険者達の声を聞いて、危機が去ったと判ったのだろう。
 返事をしたのは、黒髪赤目の少年、ルバースだった。虚穴から這い出てきて、服に付いた汚れを払い落とす。その後からも、さらに二人、男の子と女の子が這い出てきた。ルバースとは違って顔を泣きそうに歪めた子供達に、安心させようとオルセルタが声をかけようとしたが、女の子が腕の中に収めているものを見て、表情が強ばった。
 女の子は、獣の子を抱いていたのである。
 青灰色の毛皮を乾きかけた血に染め、くんくんと鼻を鳴らしている、その獣の子を目の当たりにし、冒険者達は、事実の半分程度を瞬時に悟った。
 すなわち――何故、人間を相手取らないはずの獣が、子供達を狙ったのか。そして、ナジクを前にしても最後まで怯まずに立ち向かい続けたのか。
 子を奪われて黙っている親は、そうそういない。
 かといって、子供達がわざわざ巣穴から連れ出したとか、わざと傷つけたとか、そういう可能性はどうにも思い描けなかった。
 何があったか詳しく聞きたいが、それは樹海の外に出てからにするべきだろう。
「オルタ、ユースケ、ガキどもと先に出ててくれるか」
 エルナクハは、女の子の腕の中から獣の子を取り上げながら、二人に頼んだ。帰り道が分かっている今なら、手勢を分けても危険は少ないだろう。
「その子、ケガしてるの」
 と女の子が訴えるところに、安心させるように頷くと、「早く行ってくれ」と妹と治療師に目線で告げる。
 子供を連れて行くように言われた二人は、ためらいがちにエルナクハの表情を伺うが、やがて、決心したように、こくりと頷いて、子供達の背に腕を回した。
「……行きましょう、大丈夫、あとは兄様達がちゃんとやってくれるわ」
 オルセルタとアベイが子供達を引きつれて立ち去っていくのを、残った者達は、その姿が見えなくなるまで見送った。
 磁軸計は彼らが持っていってしまったのだが、ここまで来る道自体は入り組んでいたものでもなかったし、レンジャーもいる以上、残った者達が戻るのにも不都合はないだろう。
 やがて、帰っていった者達の姿が木々の彼方に消え去ると、残った者達は、エルナクハの腕の中に視線を落とした。
 青灰色の獣の子が、かすかな鳴き声を上げている。
 怪我は見た目こそ酷いが、半ば治りかけ、命に別状はないと見うけられる。あとは簡単な治療をしてやって、弱った体力を取り戻させるために安静にしてやれば、元気を取り戻すだろう。
 ……だが、その後はどうなる?
 親を失った子獣が、この樹海の中で無事に育つとは思えない。だからこそ、子供が成人するまで庇護する『親』という存在がいるのだ。
 その存在を、仕方なかったとはいえ、自分達は手にかけた。
 護るものなき子獣は、ここで放してやったとしても、体力を取り戻す前に、他の生き物に害されるだろう。
 ならば、いっそのこと、今ここで、その因を作った自分達が――。
「だめ!」
 エルナクハは腕に強い圧力を感じた。
 ティレンが、腕の中から子獣を奪おうとしているのだ。
「お、おい」
 うろたえているうちにも、子獣を確保したティレンは、ぱっと仲間達から離れた。木々の壁を背にし、寄らば斬るとでも言いたげに、強い意志を宿した目で睨み付けてくる。まるで獣の親の遺志がソードマンの少年に宿ったかのようだった。
「おい、ティレン!」
 エルナクハは声を荒らげた。もちろん、彼とて、抵抗もできないような幼い獣を手にかけるような真似を望んでいるわけではない。だが、今の状況を考えた以上、他にどうすればいいというのだ。獣を奪い返すために一歩足を進めたエルナクハだったが、二歩目を踏み込もうとしたところで動きを止めた。目の前に腕が水平に伸びて、歩みを遮ったからである。
「ナジク……?」
 不審げに問いかけるも、腕の主は言葉では応えることなく、ゆっくりと弓を構え、矢をつがえる。
「おい!」
「ナジクどの!」
 エルナクハに焔華の声も加わって、ナジクに激しい口調で呼びかけた。
 二人には弓使いが何を考えているのか判ってしまったのだ。ナジクは、自分が、自分だけが、手を汚す気だ。エトリアでの経験から、彼は自分自身の存在を軽く扱っている。だから、仲間達が苦悩するような選択を、自分一人で背負う気なのだ。先程、獣と相対していたときにも、叫んだではないか。「手を汚すのは僕だけでいい」と。
 だが、それ以上のこと、手を出して力尽くでナジクを止めたりすることは、二人もしなかった。いや、できなかったのだ。ナジクからは、決意を誰にも侵されるまいとする、頑とした意志を感じたからだ。その意志に当てられた二人は、金縛りにあったように、動けなかったのである。
 一方のティレンは、鏃の先に弓使いの本気を見て取ったのだろう、顔を青くして震えながらも、獣の子をぎゅっと抱き締める。
 己の腕で獣を護ろうとするかのようなティレンの動きにも、しかしナジクは、表面上は眉根ひとつ動かさないまま、言い放った。
「無駄だ。お前の腕の隙間から獣を射抜くことぐらい、僕にはできる」
 冷徹な声音は、しかし、それでもティレンの抵抗を奪うことはできなかった。
 ソードマンの少年は、思いがけない行動に出た。地面にうずくまると、自分の身体の下に獣の子を抱き入れ、身体を丸めたのだ。獣の子は完全にティレンの身で護られ、もはや矢が突き通る隙間もない。
 まさかティレンごと射抜くようなことはあるまいが、どうする気なのだ。
 エルナクハと焔華が固唾を呑んで見守る前で、しばらく、凍り付いたような状況が続く。
 やがて、ナジクは溜息ひとつ、頑固な相手に根負けした様相で、首を軽く横に振ると、今度はエルナクハに視線を向ける。何事かと精神的に身構えるギルドマスターに、レンジャーの青年は唐突な言葉を投げかけた。
「エル、僕は、故郷にいた頃、狼の子を三匹ほど育てたことがある」
 いきなり何を言い出すのかと、呆気にとられたエルナクハは、やはり唐突にナジクの真意を悟った。
「……できるのかよ?」
「たぶん、『外』の狼とさほど変わらない。もとより他にどうすることもできないだろう?」
 ……つまりは、ナジクは、獣の子を自分の手で面倒を見るというのだ。
 確かに、人の手で育てるのなら、樹海に放置した挙げ句、他の獣の餌食になるという末路を迎えさせることはないだろう。だが、それは同時に、野生の獣の一生全てを、人間の支配下に置いてしまうことを意味する。
 そもそも、獣が人間の手で育てられることを望むのかどうか。
 エルナクハが答に窮している前で、ティレンが慌てたように声を上げた。その腕が緩み、隙間から獣の子が這い出してくる。
「だめ」
 ティレンは必死になって獣の子を呼び寄せようとした。ナジクはまだ弓矢を獣の子に向けている。その心が揺れていることはティレンには判っていないのだ。
 すっかりと這い出して、人間の子の様子を、きょとんと見ていた獣の子は、そのまま逃げるのかと思いきや、ゆっくりとティレンに近付いた。まだ体力を取り戻しきってないせいか、その足どりは少しふらふらしている。やがて、ソードマンの少年の、土埃にまみれた顔を、ぺろぺろと舐め始めたのだった。
 ふう、と、ナジクは息を吐いて、弓を下ろした。矢を箙に戻し、ゆっくりとティレンに近付く。
 ティレンは慌てて獣の子を抱き上げ、緊張を顔に宿したが、ナジクが手に何も持っていないことを見て取って、疑問の色を眼差しに浮かべる。その前でナジクはしゃがみ込み、少年と獣の子に目線を合わせた。
「面倒を見るのは、お前にも手伝ってもらうぞ」
「面倒……? この子、育てるの?」
 不安が何者かの手で一気に取り払われたかのように、ティレンの顔に喜色が現れた。
 ナジクは、やれやれ、と言いたげに首を振り、再び口を開いた。
「獣を育てるのは大変なんだ。性質も『外』の狼に似ていれば、どうにかなるかもしれないが、樹海のものがどういう生き方をしてるのか、まだ完全に判ってない。最悪、育てている途中で――」
 そこで言葉を切ったのは、獣の子がナジクに牙を剥きながらうなったからだ。近付いてきたエルナクハや焔華に対しても、敵意を秘めた目を向ける。しかし、
「めっ。こわくないから」
 ティレンが手を差し出し、抱き締めるのには、甘えた声を出して素直に従う。
「結構頭のいい子みたいですわ」
 焔華が苦笑気味な表情をして述べた。
「自分を護ろうとしてくれた人と、殺そうとした人、ちゃーんとわかっとる」
「返す言葉もねぇ」
 複雑な顔を浮かべてエルナクハも応じた。
 とりあえず、ティレンに懐いているようなら、どうにかなるだろう。
 ナジクは何度目になるか分からない息を吐くと、誰にともなくつぶやいた。
「人の手で育てるなら、名前を付けないとな」
「クロガネ!」
 ティレンは即答した。
 まわりの仲間達が一斉に脱力する。
「……なにか、変?」
 きょとんとするティレンに、言い含めるように、ナジクが応えた。
「よりによって、その名か」
「だめなの?」
「だめというわけではないが……」
 気持ちは分からなくもない。あの勇猛な黒い獣と、あのような別れをしたのが、つい昨日のこと。その翌日に、狼のような獣の子と、このような出会いをした。二体を重ねてしまうのも無理もあるまい。
 それに、名付けるときに、今は亡き――生存している場合もあるが――敬愛する者の名を、かくあれという思いを込めて受け継がせることは、よくあることではある。
 ただ、不安だったのだ。昨日のソードマンの少年の悲しみようを考えれば。率直すぎるその名を付けてしまった獣を前にして、後々ティレンが心の傷を深くしやしないか、と。逆に、その名を付けて可愛がるからこそ、より早く癒えていく可能性もあるが、こればかりはどちらに転ぶかわからない。
 もうひとつ、理由がある。
「なぁティレン」と、エルナクハは、その『理由』を口にした。
「そもそも『クロガネ』ってのは、あの黒いヤツの名前だろ。アイツはほら、フロースガルの相棒だ。オレらにも懐いてくれたけど、アイツが一番いたい場所は、フロースガルの傍だ。そんなヤツを、名前だけでも、こっちに持ってきちまうのは、どうだろうな」
「そっか」
 あっさりとティレンは頷いた。いささか残念そうではあったが。
 その様を見ていたナジクは、不意に焔華に声をかけた。
「……『クロガネ』というのは、東方の古い言葉で『鉄』という意味だったな」
「そうですし。それがどうかしまして?」
「ふむ……」
 少し考え込んだナジクは、やがて、宣言する様に声を張り上げた。
「ティレン、こんな名はどうだ――『ハディード』」
「ハディード?」
 仲間達は、その名を口々につぶやく。
 ナジクは頷いて、話を続けた。
「僕の故郷の古い言葉で、魔除けの言葉だ。目に見えない魔は鉄を嫌う、って伝承があってな。『ハディード』って言葉には『鉄』の意味があるんだ」
 ティレンの表情に、理解の色が広がっていく。
 その眼差しに確認の意志を見て取ったナジクは、大きく頷くと、はっきりとした声で断言したのだった。
「ああ、そうだ――『クロガネ』と同じ意味だ」
「クロと……いっしょ」
 見えざる手がティレンの心から哀しみを拭い去ったかのようであった。ソードマンの少年は、獣の子を、天の神からの祝福を得ようとするかのように差し上げると、踊るような足どりで辺りを駆け回り始めた。
「ハディード! ハディード! おまえの名前は、ハディード!」
 時折、立ち止まっては、その場で一回転していた少年だったが、何度かそれを繰り返しているうちに、目が回ってしまったのだろう、足がもつれて大地に倒れ込む。獣の子に影響がないように、無理矢理に身体をひねって仰向けに倒れたところは、よくやったと誉めてやってもいいだろう。
 エルナクハはその肩を軽く叩いて、身体を起こすことを促した。
「ほら、帰るぞ。嬉しくて駆け回りたいなら、私塾の中庭でやれ」
「ん」
 ティレンは足を振り落とす反動で起きあがると、獣の子――ハディードと名付けられた子を抱えたまま、弾む足どりで走り出す。しばらく走った後で、立ち止まり、ぴょんぴん跳ねながら片手を振ってきた。
「早く、早く!」
「現金なヤツだなぁ」
 エルナクハは苦笑しつつ足を踏み出した。
 ナジクは既に足早に歩きだしている。その金色の髪が揺れる様を視界に入れつつ歩を進めていたエルナクハだったが、横合いに焔華が並んだのに気が付いた。
 エルナクハと歩調を合わせたブシドーの娘は、顔は前に向けたまま、視線をエルナクハに向けて、口を開いたのだった。
「エルナクハどの、本当はあの獣の子を殺すつもりなんかなかったんじゃありませんかえ?」
「……なんでそう思う?」
 焔華は肩をすくめた。
「そういう場面にティレンどのを残したら、ああいうふうに止められるのは目に見えてますし。そうされたくなけりゃ、子供を外に送っていくのを、アベイどのとティレンどのに任せるはずですし」
「ティレンにとって狼は親の仇だったんだぜ? それを考えりゃ、おかしくねぇとは思わねえのか? オルタの方がやかましそうだけどよ?」
「オルセルタどのは、ぬしさんの妹君ですし、ぬしさんの決めたことには逆らわないと思いますえ」
 エルナクハが反論めいた返事をすると、焔華はころころと笑い、さらに続けた。
「そもそも、あの獣の子に引導を渡すって決断は、正しいかどうかわかりゃしませんけど、間違いではありませんし。それを考えると、オルセルタどのは、内心はともかく、ぬしさんの決断を支持したと思いますえ。やっぱり、本当に殺したかったなら、アベイどのとティレンどのを遠ざけるのが正解でしたわ」
「む……」
 エルナクハ自身は、深く考えて、子供の護衛を誰にするかを決めたわけではない。
 だが、とっさにせよ、あのように決め、ティレンをこの場に残したということは。
 やはり、無意識のうちに、もともとやりたいわけではなかった獣の子の始末を止めるきっかけを、誰かに作って欲しい、と思ったのかもしれない。
 その結果が正解か不正解か、それは判らない。世の中、そう簡単に割り切れないことが多すぎる。
 ただ、あの獣の子を結果として助け、手にかけてしまった親の代わりに面倒を見ると決めたからには、できる限りのことはやらなくては、こうして獣の子を殺さなかったことが、ただの偽善――いや、そう呼ぶことすらできない悪しき行為になってしまうだろう。
「やれやれ、食費が増えるな。ますます肉屋さんにお世話になることになる」
 さしあたってエルナクハは、首を振り、溜息を吐きながら、事態を矮小化したような愚痴を口にすることで、現状を受け入れたのであった。

 狼に襲われた子供達に話を聞いたところ、事情は以下のようなものだった。
 子供達は先生のために花を捜しにきたそうだ。街の外の畑で摘みたてラベンダーをもらおう、という案もあったのだが、結局、先生が前々から行きたいと願った末に叶った樹海の、その中に咲く花を持っていって、先生を励まそうと思ったという。
 ちょっと前に偶然見付けた虚穴から樹海に入り込んだ子供達だったが、危険は承知していたから、入り口当たりで摘んですぐに帰る予定だった(そもそも、危険だと判っているなら入るな、と言いたくなるところだが、それは置いておこう)。
 しかし、子供達は獣の子を見付けてしまった。それも、大怪我をしているのを。
 このあたりは冒険者達の推測だが、ひょっとしたら、獣の子は、両親が餌取りか何かに行っている間に、魔物に餌として巣穴から連れ去られた後に逃げ出したか、自分でふらふらと遊びに出ている途中で魔物に襲われたかしたのだろう。
 ともかくも大怪我をした獣の子を前にして、子供達の脳裏に浮かんだのは、街に連れて帰ってツキモリ先生かアベイに診てもらおうということだった。そんなわけで獣の子を抱えて街に帰ろうとした子供達を、大きな獣が襲ってきたので、大慌てで逃げたとのだという。その時たまたま獣の子を抱えていたルバースが、結果的に囮のようになったために、ほとんどの子供は無事に樹海の外に逃げられたが、ルバースと他の二人は獣に追われるまま、見付けた大樹の虚穴に逃げ込んだとのことだった。
 冷静に考えれば、その時点でも、獣の子を放してやれば、その親である獣は子を連れて撤退しただろう。だが、追いつめられて混乱した人の子の頭では、そんな考えにまでは及ばなかったのだ。
 そして、獣は、何故自分が人の子を襲うのかを説明できない。仮に人語を話せれば、「子供を返せ」と言えたかもしれないものを。
 それが、人と獣、双方にとっての不幸だったのである。
 悪意があったわけではない。だが、自分達の軽挙妄動で、獣の子の親を死なせることになってしまった。そう知った子供達の嘆きは激しいものだった。
 しかし、もう終わってしまったことを巻き戻すことはできない。せめて、この経験が子供達の成長の糧となり、彼らがよりよき人物として大成できることを、祈るばかりである。

 かくして、ハディードと名付けられた獣の子は、錬金術師フィプト・オルロードが管理する私塾の居候としての立場を得ることとなった。
 はじめはティレンにしか懐かなかったハディードだったが、自分を取り囲む人間達がもはや敵ではないと悟ったのか、他の皆にも馴染むようになっていった。私塾に来る子供達にも懐くようになり、時折、子供達と追いかけっこをして遊ぶ様が繰り広げられることになる。
 ティレンと、狼を育てたことがあるナジクとが、中心となって面倒を見ていく中で、ハディードはすくすくと育っていく。最終的に二ヶ月後には成体となることになった。『世界樹の迷宮』内部の生物ならではの事象なのか、『ウルスラグナ』に出会う前の推定年齢を加味したとしても、『外』の生物に比すれば、遙かに成長が早い。前時代人の動物学者が現存していれば驚愕するところだっただろう。
 余談だが、『ウルスラグナ』がハディードと出会うこととなった区間に続く虚穴は、しばらくのうちは開いており、冒険者達の耳目を引いていた。しかし、さしたる発見もなく、やがて、傷が塞がるように埋まり、孤立した区間にも永遠に入れなくなってしまったのだった。

 そうして成長したハディードは、後に『ウルスラグナ』の一員として活躍することになる。
 だが、笛鼠ノ月の時点では、彼はまだ、やんちゃな子狼にすぎない。

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