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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


間章一――狼は証言できない・4

「……どうやら、高さ的には、一階で間違いないみたいね」
 オルセルタが磁軸計を覗き込みながらつぶやいた。磁軸計には、二次元的な現在位置の他に、簡易的な現在地高度の表示がされる――つまり自分達が何階にいるか、ということだ――が、その数値は今は一階と等しい高さを指していた。
 一階の探索可能範囲は、迷宮の想定範囲、つまり世界樹の幹の太さに比すれば、あまりにも狭かった。正式な樹海探索地図には、迷宮の周囲にかなりの広さの踏破不可能域が広がっていることになる。
 しかし、現在位置は、その踏破不可能域の一角だ。
 よくあることである。その階のどこからも行けず、踏破不可能と思われていた区間に、別の階から侵入の糸口が見つかるというのは。場合によっては、詳しい探索が必要になるだろう。が、それはまた後の話だ。今は子供達を捜さなくてはならない。
 侵入口の目の前、木々の壁の中に、異質なものがあるのが、目に付いた。
 それは赤いリボンだった。木の枝の一本に結びつけられているのだ。その枝はリボンが結びつけられているところから先がない。自然に折れたのではなく、明らかに人間が刃物ですっぱり切り落とした後だ。リボンの高さから考えて、ナジクがやったものに違いない。
 枝は地面に落ちていた。否、置かれていた。先の尖った方が、左方を向いている。
「こっちか!」
 エルナクハ達は枝の導きに従った。
 迷宮の中に妙な緊迫感が漂っているのには、全員が気付いていた。なんと表現すればいいのか、大物がいて、そのせいで雑魚が全て逃げ出してしまっているような、妙な気配だ。気配の中心がどこか、というのは、まだ判らない。だが、先行しているナジクは、レンジャーならではの知覚で、異変が起きている場所を察知しているのだろう。門外漢が試行錯誤するより専門家に頼った方がいい。
 ところが。
「エルナクハ殿、枝がありませんえ」
 目印の枝は、最初のうちは、道が分岐する場所に必ず落ちていた。それが、途中でふつりと途切れたのだ。たぶん、道標を作っている余裕もなくなってしまったのだろう。
 よりによって三叉路の前で導きを失い、冒険者達は困惑した。
 三手に分かれるべきか。否、この区間がどのような構造になっているのか把握し切れていない以上、へたに分かれるわけにはいかないだろう。全員がレンジャーならまだしもだ。
「畜生……」
 状況を罵りつつ、エルナクハは気配をたぐろうとした。
 と、その時である。

 オオオオ――ン……

 何かの獣の、狼のものに似た遠吠えが、冒険者達の耳に届いた。
 さらにもう一度。今度は、途中で不自然に、ぷっつりと切れる。
 ティレンが、びくりと身をすくませる。苦手な狼の声を聞いたからか、それとも、クロガネのことを思い出したからか。
 それを問うつもりも余裕もなかった。間髪を入れず、後方から草を掻き分ける音が近付いてきたからだ。そう認識するが早いか、ひときわ大きく音を立て、道の両側に広がる草叢の中から、一つの影が躍り出た。
 それは、狼に似た青灰色の生き物であった。
 その種の生き物に巡り会うのは、初めてではない。第一階層の冒険の最中、木々の向こうに、時折姿を見ることがあった。ただ、敵性生物とは違い、人を襲うことはなく、自ら姿を消す彼らは、魔物とは見なされず、大公宮から情報提供を期待されている『魔物図鑑』に掲載されることもなかった。一言で言えば、ただの樹海の生き物だったのである。
 なのに今、人間と関わり合うことを避けていたはずの生き物が、冒険者達の至近に現れ、うなりながら牙を剥いている。
 戦いどころではないのに。冒険者達は、それぞれの逃走補助の道具を取り出そうとした。
 ところがだ、狼は冒険者達を一瞥すると、軽やかに走り寄り、そのまま一同の脇を通り過ぎて去っていくではないか。
「ふう、わちらと戦うつもりじゃなかったみたいですわ」
 焔華が安堵の息を吐く。
 実のところ、初めてまともに相対したその生き物の強さは、今の『ウルスラグナ』に比すれば、決して強くはないだろう。逃げられなかったとしても倒せたはずだ。しかし、些少ながら無駄な時間を食われることになるし、狩りの獲物でも探索の障害でもないなら、無駄な戦いは避けたいところだった。最も望ましい帰結となったことに、全員が焔華同様に胸をなで下ろした。
 ……のだったが。
 なで下ろした胸に、何か、細い棘のような不安の感触を覚える。
 こういった第六感は笑殺するべきものではない。
「……まさか!」
 冒険者達は、獣が立ち去った方面を見据え、ちらりと互いの視線を絡み合わせると、全力で走り出した。
 あの獣は、先程耳にした遠吠えが聞こえた方向に去っていった。
 先程聞こえた遠吠えは、二度目にふっつりと途切れた事情を想像するに、救援を求める声だった可能性が高い。
 救援ということは、危機に陥っているということだ。子供達を襲っているところに、ナジクが割って入り、倒されたときに、仲間を呼んだのだとしたら。
 考えとしてはおかしいかもしれない。先程の獣は、人間を襲わないはずだったから。
 だが、それは、あくまでも武装した冒険者に対する態度で、丸腰の子供は遠慮なく獲物にするのかもしれない。
 あるいは、獣を追った先にあるのが、今回の件とは全然関係ない現場で、結果、本当に危機に陥っている子供達やナジクの下へと駆け付けるのが間に合わなくなるかもしれない。
 判断に苦しむが、とにかく動かなくては始まらない。
「ええい、ままよ!」
 冒険者達は、灰色の狼を追うことにしたのだった。

 ナジクは箙から矢を引き出すと、弓につがえ、慎重に狙いを付けた。
 ここまで二発、わざと急所を外して射っている。それ以前にも三発、明後日の方向にも射出済み。なぜそんなことをするかというならば、相対している獣が、これまで見てきた中では敵対行動を取ってこなかった種の生き物だったからだ。威嚇と警告とで、逃走してくれれば、お互いに悪い結末にはならないはずなのだ。
 後方には木々の壁がある。そのなかでもかなり大きな部類に入る、手を広げた人間が四人ほどで取り囲める太さの樹に、ナジクは己の背を預けていた。
 背後を取られることを防ぐためではない。その樹の根元に開いている虚穴を守るためだ。
 正確に言うなら、その中に逃げ込んでいる、三人の子供達を守るためだ。
 ナジクがレンジャー特有の知覚に頼って駆け付けたときには、狼に似た青灰色の大きな獣が、太い樹の根元を掘り返そうとしているところだった。その中から子供達の悲鳴を聞き取って、ナジクは威嚇の三発を射出した。獣が怯んで距離を置いた隙に、樹の前に立ちふさがったのだった。本当は、そのまま獣が退散してくれるのを望んでいたのだが、その願いは叶わず、ナジクはさらなる警告の矢を放つことになった。
 子供達は運がいい。なかなかいい隠れ場所に巡り会えたものだ。虚穴の入り口は、子供でないと通れないくらいに狭く、なおかつ内部は三人が隠れられる程度には広いらしい。
 獣は穴を通ることはできず、それでも諦めきれずに子供達を捕らえようとしていたのだろう。
 だが、何故、そんなにもしぶとく付きまとう?
 腹が減っている、という可能性はある。だが、獣には既に二発の矢が突き刺さり、その痛みは生命の危険を訴えているはずだ。他の生き物を食えば満たされる飢えと、ここで逃げなければ失われるかもしれない生命、どちらかを選ぶかというなら、その答は歴然。だというのに、何故だ?

 ――ナジク、ナジク! 行くのです、ここは、この母に任せなさい!

「……かあさん?」
 唐突に脳裏を駆けめぐった、昔の記憶。ナジクは戸惑い、目を細めた。
 エトリアに来る以前のことである。ある二つの国の戦争に巻き込まれ、安全だと思われる自治都市群を目指して逃走の旅を続けていた、ナジクの一族。しかし、部族の者達は途中で次々と脱落していき、血縁の中では最後に残った母と別れるときが、ついに来た。敗走する一族のささやかな財貨を狙うのみならず、その身をも奴隷として売り飛ばそうと企む野盗が、夜更けの野営地を襲撃してきたのだった。
 もはや母は生きてはいるまい。奴隷などにされるくらいなら、おそらく死を選ぶ、誇り高き人だった。あるいは、あまりに激しく抵抗したので、体内を幾本もの槍で貫かれた挙げ句に殺されてしまったかもしれない。辺境で比較的平和だったエトリアやハイ・ラガードの一般民には想像も付かないだろうが、国家の庇護なき少数民族の運命が転がり落ちたときの悲惨さは、目に余るものだ。
 ……何故、今、そんなことを思い出すのだろう。
 脳裏では現状と関わりない思い出にまとわりつかれながらも、ナジクの現実の目は獣を捉えたまま離れていない。視界の中では、獣は低いうなり声をあげ、ナジクを威嚇していた。
 しかし、獣は不意に首をもたげると、高く長く、咆哮をあげた。
 ――仲間を呼ぶ気か!
 意識を半ば思い出に引き寄せられていたために、反応が遅れた。ナジクが弓弦から手を放したときには、獣は一呼吸付き、二度目の遠吠えをあげていた。その喉に、吸い込まれるかのように矢が命中すると、遠吠えは途中で不自然に途切れ、獣は全身を強ばらせ、とさり、と地面に横たわった。ぶるぶると震えるその様は、二度と帰らぬ旅に送り出すために、魂を絞り出しているかのようだった。
 苦しみを長引かせないために、ナジクは獣の眉間を狙って、さらに矢を放った。

「……まだ、出てくるな」
 後方で物音がしたので、ナジクは警戒を解かないまま警告した。しかし、物音の中に、妙な声を捉え、ふと視線を落とす。
「……!」
 その時、ナジクは悟ったのだ。何故、獣が執拗に攻撃してきたのか。そして、何故、自分が唐突に母のことなど思い出したのか。
 しかし、納得している余裕などなかった。道の向こうから敵意が増大してきたから。
 レンジャーの青年は、その視界の中に、先程の獣よりひとまわり大きな同種の獣、復讐と奪還の意志に燃える爪と牙の主を目の当たりにしたのだった。

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