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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第一階層『古跡の樹海』――栄えし獣たちの樹海・34(完)

 ネクタルで、一番危ういアベイの再起を試みる。
 毒そのものはすでに消滅しているようだったが、その呼吸は今にも止まりそうに細い。その半開きになった口元にネクタルの瓶をあてがい、無理矢理に飲み込ませた。
 メディックの青年はうめき声を上げて、まぶたを開けた。
 エルナクハを呆然と見つめる瞳が、不意に見開かれる。
「……キマイラ!」
「終わったよ」
 アベイはエルナクハの指す方を見て、百獣の王が斃れているのを確認した。
 危機は去った、と確信した、オルセルタとティレンは、安堵の溜息を吐くと、別口の作業に取りかかり始めた――シモベや獣王から、何かに使えそうな素材を剥ぎ取るのである。その様子を眺めつつ、アベイは心底申し訳なさそうにつぶやく。
「面目ない……」
「問題ねえよ。それより、少し休んだら、センセイを頼む」
「大丈夫だ、すぐやるよ」
 アベイは自分の鞄を引きずりつつ、おぼつかない足どりでフィプトの元に赴いた。そこで根尽き果てたかのように、へたりと座り込む様を見て、他の三人は一様に、そんな様で薬品の調合は大丈夫なのかと心配した。だが、アベイが数度深呼吸をすると、その手つきには淀みは残らず、鞄の中から取り出した薬品を、いつものように的確に扱っていく。こりこりこり、と、乳鉢で粉薬を擦り、あらかじめ途中まで調合しておいた液体を混ぜる音が静かに響いた。
 できあがった薬を、フィプトに飲ませ、傷口にも塗る。自らにも同じようにしていた。
「悪い、フィー兄。今の俺にできるのは、ここまでだ」
 アベイの力量では、まだ、薬品調合でネクタルと同じような効果を出すことはできない。立ち上がる力を失った者に対しては、応急処置がやっとだ。しかしフィプトは首を振る。
「大丈夫ですよ、ありがとうございます。あとはラガードで、ツキモリ医師のお世話になります」
「コウ兄ならバッチリだ。エトリアでずっと見てた俺が保証する」
 そんな会話の傍らでは、調合された薬の残りをもらった三人が、自分達の外傷にそれをあてがっている。
 キマイラは倒したが、全員が満身創痍だ。できるなら早くラガードに戻って、ちゃんとした治療ないし休養を取るべきだろう。
 しかし、冒険者達はそうしなかった。
 どこか遠くから、獣の遠吠えが聞こえたからだ。
 その声の正体が何なのか、冒険者達には、直感でわかっていた。
「はは、そうだった。クロガネを待たせてたな」
 エルナクハは立ち上がって魔宮の入り口へと向かう。だが、途中で立ち止まり、しばらく動かなかった。どうしたのかと訝しく思う仲間達だったが、エルナクハが屈み込んで拾い上げたものを見て得心した。
 それは、聖騎士が身につける、己の紋章を標した金属板――フロースガルの形見というべきものだった。
 聖騎士の肉体そのものがどこに行ってしまったのかは、判らない。ただ、キマイラが、人間の手が届かぬところに持っていってしまったのだろう、という推測は成り立つ。クロガネの態度、金属板に付着する血の量、その他の状況、どれを取っても、かの聖騎士の生存に絶望の二文字を叩きつけるものばかりだ。
 しばらく金属板を見つめていたエルナクハは、小さく首を振ると、フィプトに呼びかけた。
「どうする、センセイ。いっぺんラガードに帰るか?」
 本来ならそうするべきだっただろう。満身創痍とはいえ雑魚との戦いなら何とかなりそうな仲間達と違って、フィプトは回復も充分ではなく、錬金籠手を扱う気力も尽きている。人の手を借りずに歩けるかどうかもおぼつかない。平たく言えば役立たずである。だが、それでもなおフィプトに選択肢を与えたエルナクハの心意気を、フィプトは受け取った。首を横に振って、答える。
「――足手まといになることは分かってます。でも、小生も連れてってください、彼の下に」
「承知した」
 ティレンが駆け寄ってフィプトに肩を貸してから、冒険者達は、傷ついた身体を引きずりながら魔宮を後にした。
 予備として残っていた、獣避けの鈴の音が、ちりり、と、空虚な魔宮に響いて消えた。

 誇り高き獣は、まだ立っていた。
 いつの間に彫像とすり替わったのか、と錯覚させられたほどであった。『ウルスラグナ』が朝方にこの場を訪れて立ち去った時と同じように、クロガネは地に四肢を突っ張っていたのだ。
 まだ生きていた。安堵の息を吐き、黒い獣に近付いた『ウルスラグナ』は、あと数歩を詰めるところで、思わず立ち止まった。
 アベイが行ったのは、あくまでも応急処置。本来なら、引きずってでも薬泉院に連れ帰らなくてはならない傷だった。いや、それも無意味だっただろう。いずれにしても、クロガネの傷は、処置をしても生命の流出は免れ得ないものだったのだ。
 だというのに、獣の顔は安らいでいる。
 自分達『ベオウルフ』の遺志を継いだ『ウルスラグナ』が、仇敵・百獣の王を討ち果たした、と察したのだろう。
「クロ!」
 凍り付いた両足の呪縛を振り切り、真っ先に黒い獣の下に駆け寄ったのは、ティレンだった。
 今にも泣き出しそうな顔を近づけるソードマンの少年と、その後から近付いてくる冒険者達に向けて、クロガネは小さく一声鳴いた。
 まるで礼を言っているように聞こえる。
 アベイが首を横に振りながら声を張り上げた。
「礼なんて言ってる場合か。ほら、目的は果たしたんだから、今度こそ街に帰って、ちゃんとした治療を受けるんだ」
 分かっている。クロガネが助からないのは、治療をした自分が一番よく判っている。半日を過ぎても生命が残っている方が奇跡なのだ。生命を一人でも多く救おうとするメディックの使命を邪魔する、忌まわしい死の存在を否定しながら、心の中では、もはやクロガネには、苦しみを終わらせる死神の慈悲たる手が必要なのだろう、と理解していた。
 黒い獣は、既に生死を超越したところに、今はいるのだろう。
 不意に大きな動きがあったので、冒険者達は固唾を呑んだ。クロガネが頭を下げたのだ。何をするのかと思ったが、その口は、足下に置いてあった首輪――アベイが応急処置の際に外したものだ――をくわえ、それを、そっと差し出してきた。反射的に、一番傍にいたティレンが両手を出すと、クロガネはその中に首輪を落とす。
「なに、これ?」
 訝しげに問うティレンの言葉に、言葉で答えるものはない。
 クロガネは、首を伸ばして、ソードマンの少年の頬をぺろりと舐めた。続いて、その頭を、ごしごしと擦りつける。そして――。
「……クロ?」
 そのまま、少年の胸に頭を預ける。そのまま、少年の腹に頭を擦りつける。そのまま、少年の足下に倒れ伏す。
 自分の身体沿いに頭を滑り落としていく獣を、ティレンは呆然と見つめていた。
 クロガネは、満足したのだ。志半ばで散った主人の遺志を、相応しいと見極めた者に託し、宿敵が打ち破られたことで。自分がこの世で成さねばならないことを全て果たし、安心して旅立ったのだ。
 主人の下へ、かつて共にあった、キマイラに殺された仲間達の下へと。
「クロ」
 枯れたような声でティレンは呼びかけた。がっくりと膝を折り、眠っているかのように安らかに目を閉ざす獣を抱き締める。普段は滅多に泣かない少年が、目尻に一筋の涙を浮かべ、その顔を獣にこすりつけた。先程、獣が少年にそうしたように。
「昨日、いっしょに冒険しよう、って、言った。言ったのに」
 他の仲間達は、誰も涙を流さなかった。
 少なくとも、目に見える形では。
 木々の合間から差し込む月の光の中で、少年がすすり泣く声だけが、静かに続いていた。

 やがて、その場に、人一人が入れるくらいの穴ができあがった。
 エルナクハとティレンが力を合わせて掘り抜いたその中に、息絶えた誇り高き獣の亡骸が収められる。
 その上に置かれるのは、血まみれの金属板――相棒である聖騎士の紋章を標されたもの。
「これがありゃ、相棒の匂いも忘れねぇだろ。ま、オマエが忘れっこないだろうけどな」
 寂しげな、優しげな輝きを目に浮かべ、エルナクハはつぶやく。
 隣にいたティレンと頷き合い、掘り上げた土を再び穴に戻そうとした、その時だった。
「――兄様、わたしがやるわ。だから、歌って」
「歌え?」
 横合いから掛けられたオルセルタの言葉に、エルナクハは小首を傾げる。一体何を歌えというのか、こんなときに――と考えて、己の愚問に青年は内心で苦笑した。こんなときだからこそ歌う、それもわざわざ自分に請われる歌など、ひとつしかない。
「ホントはオマエが覚えるはずだったんだぞ」
「ごめんなさい」
 わざとしかめっ面で述べる兄と、肩をすくめる妹。
 何事かと問うように視線を向ける仲間達の前で、エルナクハは、鞘に収まったままの剣に、抜けないように留め金を掛けると、柄ではなく鞘を持ってそれを振るう。何かの神を奉じる神官が錫杖を振るうかのように、彼の姿は見えた。
 いや、そもそも彼は神官の息子なのである。常日頃はそんな出自を微塵とも感じさせぬ聖騎士は、目を閉ざし、朗々と歌いだした。その声は、かつて三階で非業の死を遂げた衛士達に祈りを捧げた、その時のものに似てはいる。だが、あの時のものはあくまで簡素なもの、彼かその妹が故郷に戻り、神官職を継いだとしたら、今のように朗々と神韻を謳い上げるのだろう。

天地べて しろしめし給う 神々よ
勇敢なる子等 身罷りし子等 ここにあり
偉大なる 御身等の慈悲 待ち望み
残されし我等 言葉尽くして 請い願う

翼よ翼よ いかなる道を指し給う
母なる神よ 御身の下に 迎えしか
高き翼よ 猛き魂 望みしか
遠き海処うみがよ さらなる旅に 導くか

汝等友よ いかなる道を 望むとも
我等が下に 汝等の遺志 遺されし
ここに送らん 涙のしずり 珠にして
いつかのまみえ 契るよすがの 形代に

 山岳の民の古い言葉で吟じられるその歌を完全に理解できた者は、オルセルタしかいなかった。しかし、切々と響く声に、死者への手向けを確かに感じるまま、冒険者達は勇者達を終の棲家に埋めていく。やがて、穴が完全に塞がると、冒険者達は頭を垂れ、束の間の祈りを捧げた。神を信じる者は神に、信じない者も、己の心の裡にある何かに。
 死者への儀礼が終われば、今度は生者のことを考えなくてはならない。『ウルスラグナ』はまだ生きている。生きているなら、己が生者の地に留まり続けるために成すべきことをしなくてはならないのだ。
 アベイがアリアドネの糸を荷物から取り出し、磁軸計と繋いで、転送能力起動のための電力を糸軸から流している。それを横目に、エルナクハはつぶやいた。
「オルセルタ……」
「なに?」
 その名を持つ妹が、反応して声を上げる。兄は苦笑いをした。
「悪ぃ。オマエじゃなくて海の女神サンの方」
「なんだ。でも、どうかしたの?」
「ああ。せっかくならアイツら、この世こっちに戻ってこねぇかな、って思ってよ」
 彼らの海の女神は、死者をこの世に再誕させる役割を担うと伝えられていた。
「そしたらよ、いつか、手合わせを頼むんだ。アイツらと力試しやってみてぇと思ってたんだけど、こんなことになっちまったからな」
「ちゃんと、手合わせしていいかどうか訊くのよ」
 妹は呆れたような顔で返事をした。エトリア樹海の冒険に出る前、騎士団領に務めていた兄が、エトリアに向かおうとする聖騎士に無理矢理決闘を吹っかけた、という話を思い出したからである。
 エルナクハは何か返事をしようとしたのだが、アベイが呼ぶ声に遮られた。
 糸が元来備える性質に従い、円を描くように繰り出されると、その中に、誘発された小規模な磁軸の歪みが、目を凝らさなくては見逃しそうな陽炎のように、ゆらゆらと揺らめき始めた。すでにフィプトと、彼に肩を貸すティレンが、揺らめきの中に踏み込もうとしている。
 陽炎に溶け込むような姿の片方が、名残惜しげに、勇者の埋葬された地に顔を向けるのを、見た。それも見る間にかき消え、儚い揺らめきはさらに細く、今にも潰えそうになる。『ウルスラグナ』全員が踏み込むまでは、余程の時間を置かない限りはなくならないものだが、心細いことこの上ない。
 アベイとオルセルタも踏み込み、もはや目を凝らしても判らないほどになってしまった磁軸の歪みの前に、エルナクハは佇んだ。
 意識は、後方、勇者達の眠る墓に向いている。
 その口が、かすかに別れの言葉を紡いだ。
「あばよ、『ベオウルフ』。この世か、あの世かで、また会うときまでな」

 エルナクハの願いは、彼の想像を遙かに超えた形で叶えられることになる。
 しかしそれは、まだ、ずっと後の話である。

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