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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第一階層『古跡の樹海』――栄えし獣たちの樹海・33

 戦いに突入して数合も手合わせない内に、エルナクハは激しい後悔に包まれた。
 ――早すぎた。
 もちろん、フロースガルのせいではない。彼の死を知って仇討ちに燃えたせいではない。
 きっかけがそうだとしても、今この時に決着を付けることを選んだのは、自分達自身なのだから。
 しかし、今となってはどんな思惑も無意味。後悔に心を鈍らせたら、自分達の行く手に待つのは、『死』ひとつしかない。
 生きて帰りたければ、ここまで培ってきた力を信じて立ち向かうしかないのだ。
「ぐあっ!」
 キマイラが振り下ろした爪が鎧の薄いところを叩く。痛みに身をよじらせたところをもう一撃。さしものパラディンも地に伏し掛けた。剣を支えとして、辛うじて倒れるのを防ぐ。
 アベイが何かを叫んで駆け寄ってこようとするのを、視界の端で認識した。
 来るな、とは言えなかった。この傷の手当てには彼の力が必要だ。
 エルナクハやアベイは言うに及ばず、他の仲間達も自らの持てる力を最大限に発揮して戦いに挑んでいる。
 オルセルタの使う剣技は、ダークハンター特有の変幻自在のものである。彼女が会得している技の中で、樹海内の魔物にも通じるほどに上達しているのは、『ヒュプノバイト』と呼ばれる、剣先の軌跡によって相手の経点を突き、敵を催眠状態に掛けようとするもの。そもそもが確実に眠らせられるものではない上に、キマイラの動きの前には正確に点を突くのも至難のようだ。それでも、経点周辺は生物にとって比較的弱い部分らしく、普通の攻撃よりも効果があるように見える。
 ティレンの斧は、雑魚に振るわれるときとは桁違いに、渾身の力を込めて放たれていた。『デスバウンド』と呼ばれる斧使いの強打。樹海の『外』で生半可な人間相手に振るえば肉体を両断しかねないその技も、今は目標を上手く捉えかね、必殺とまではいかない。それでも、斧の刃が食い込むところから血が吹き出て、着実にキマイラにダメージを与えているのが分かる。
 後方からは雪のごとき白が吹き付けてくる。フィプトの錬金籠手から吹き出した触媒の反応物だ。それは周囲の熱量を吸収し、強烈な冷気を発する。ここまでの冒険で何体もの『ウルスラグナ』の敵を葬ってきた、氷の術式は、キマイラに対しても相当の効果を示していた。前衛の戦士達の攻撃で付いた傷までもが、冷気の前に凍り付いていく。
 しかし、キマイラは倒れない。さすがは百獣の王、絶大な耐久力を誇って、冒険者の前に立ちふさがり続ける。
 一方の冒険者達も、キマイラの攻撃、特に、両前肢によって行われる『双連撃』とも言うべきもの――巨大な鎚で叩くような強力な二回攻撃――によって、じわじわと傷ついていく。
 これでもエルナクハが、攻撃は他の二人に任せ、自身は前衛の防御に専念しているから、まだ少しはましなのだ。
「無理するな……なんて言えないよな」
 調合した特製の回復薬をエルナクハに差し出しながら、アベイがぼやいた。
「だから、こう言っとくぜ。……好きなだけ無理しろ、生きてる限り、俺が治療してやるから!」
「はは、サンキュ!」
 エルナクハは薬を一息に飲み干した。メディカにしろメディック特製の薬にしろ、本当は傷口にも塗布した方が効果が高いのだ。だが、今はそんな暇もないのが実情。生体が備える自然治癒力を引き上げる力と、痛みを和らげる効力とを、当てにするしかない。実際、飲んだだけでも期待通りの効果があり、傷がじわじわと塞がり、流血が止まり、痛みが引いていくのが分かる。ちゃんとした治療も戦闘後にしなくてはならないが、まだ戦える。
「オマエにゃメディックがいないからな、最後まで立てるのはこっちだぜ!」
 エルナクハはキマイラに向けてそう吠えた。
 実は、彼も含めて『ウルスラグナ』の誰も知らないことだが、先に倒してしまったシモベ達には、キマイラの傷を癒す役があった。それどころか、自分の仲間の闘気を引き上げ、攻撃力を増す能力もあった。これまでにキマイラに挑んできた者達の敗因には、乱入したシモベの補助能力にも一因があった。『ウルスラグナ』がシモベ達を一掃したのは正解だったのである。
 このまま押せば、こっちの勝ちだ、ざまぁ見ろ。
 己の心を鼓舞する呪文のように、エルナクハは自分達が勝利する様を心の声としてつぶやいたのだが。
「きゃあ!」
 不意に、横合いから熱を感じたと同時に、オルセルタの悲鳴が上がった。熱は瞬時に痛みに変わり、エルナクハもまた悲鳴を上げて倒れることとなる。
 キマイラの口元からちろちろと覗くものを見て、何があったのかが把握できた――奴は炎を吐いたのだ!
 狙われたオルセルタは、炎に包まれた身体を地に転がし、懸命に消火しようとしている。だが、それでもまだ幸運だったはずだ。隣のエルナクハにさえ届いた炎の威力を考えると、本当に直撃されたなら一瞬で炭になっていてもおかしくはない。
「行くぜ!」
「頼む!」
 アベイに妹の治療を頼んで送り出すと、エルナクハは、心配げに駆け寄ってきたティレンに苦笑いしつつ愚痴を言う。
「オレが喰らってたら、たぶんオマエの方にも届いただろうよ、あの炎は」
「ん」
「まったく、口に鉛の塊でも突っ込んでやりたいぜ」
 そう言いながらも、エルナクハは盾で、突っ込んできたキマイラの爪を防いでいる。炎を吹きまくれば簡単に魔獣の勝ちになるのだろうが、そうもいかないようだ。冒険者達にしてみれば僥倖である。
 そうして聖騎士が敵の注意を引いている間に、アベイはオルセルタに薬を飲ませる。ハイ・ラガードで手に入る薬品に合わせて研鑽してきた薬品調合の技術は、エトリアにいた頃と同じとまではいかないが、頼りになるものとしてギルドに貢献している。急所を庇ったためか、とくにひどい状態になっている腕に、薬を塗り、そっと包帯を巻きながら、アベイは黒い肌の少女に言葉を掛けた。
「終わったらちゃんと治療するからな。いくら戦士でも女の子なんだ、傷は残らない方がいい」
 オルセルタは礼を言いながらこっくりと頷いた。戦士として傷つく覚悟はいくらでもある。ただ、少女としてはやはり、残った傷跡に溜息を吐くこともある。だからアベイの言葉は素直に嬉しかったのだ。しかし、それを隠すかのように毅然と言葉を発した。
「もう大丈夫だから、そろそろ後ろに戻って。兄様もいつまでもあいつを引きつけてられないと思うから」
「ああ」
 アベイは頷いて立ち上がる。オルセルタに手を伸ばし、少女が立ち上がるのを助けた。
 薬が効いているとはいえ、まだじんじんとした感覚の残る腕を預け、立ち上がったオルセルタは、傍に転がっている剣を拾い上げ、兄に前肢を振り上げるキマイラを睨め付けた。視界の端で白衣がひるがえるが、今のオルセルタにとってはそれは注視の対象ではない――はずだった。
 キマイラがそれまでにない動きを行い、それに注目したオルセルタの目は、自然とアベイに向く。
 ランタンの光の中で、倒れるアベイを包み込むように広がる白衣と、吹き上がる鮮血を、少女は目の当たりにした。
 アベイを一撃で引き倒したものは、キマイラの尾だった。
 戦闘前に、しゅるしゅると威嚇の音を立てていた、蛇の首。この戦いでは今まで何もしていなかったそれは、冒険者達にとっては警戒の範囲外だった。キマイラ本体の攻撃に集中させられ、尻尾のことなど忘れさせられていたのだ。
 それが、突然に鎌首をもたげ、ひゅるりと身体を伸ばした。
 伸びてみれば思いの外に長かった蛇は、後列に戻ろうとしていたアベイの一瞬の隙を突き、その首を狙った。オルセルタが見たのは、その様だったのである。
 倒れたアベイは、それだけならまだよかっただろう。動けさえすれば、薬を調合するなり、メディカを鞄から出すなりして、体力を回復させることができたから。だが最悪なことに、蛇の牙には毒があったようだった。
 鞄に手を伸ばすアベイの動きはぎこちなく、不自然に震え、跳ねる。断続的なうめき声を発しながら、それでも鞄を開けようとするが、体力はそこまでは保たなかった。一瞬、ぴたりと動きを止めると、激しく痙攣しながら血を吐き、数度咳き込み、鞄に身を預けるように、くたりと動かなくなった。
 その様に、オルセルタは、我知らず悲鳴を上げていた。
 しかし、惨劇はまだ続いていた。アベイの異変にオルセルタが気を取られていた頃、彼を噛んだ蛇の尾はもう一人の犠牲者を生んでいたのである。
「うわ!」
 アベイの窮状を見かねて駆け付けようとしていたフィプトに、蛇はその毒牙を向けたのだ。
 メディックと同じように首筋に噛み付かれたアルケミストは、最初の犠牲を目の当たりにしていたからか、対応が早かった。とっさに蛇を掴むと、たぶんこれから使おうとしていたのだろう、氷の術式を、そのまま発動させたのである。思いがけぬ反撃に蛇は即座に獲物から離れ、戻っていく。
「せんせい!」
「大丈夫、毒は、喰らってませ……ん……」
 ティレンの呼びかけに笑いながら答えたフィプトは、しかし、そのまま倒れ伏した。
 毒は喰らわずとも、蛇の牙による攻撃の時点で、耐えきれなかったのである。反撃はそれこそ必死のものだったのだろう。
 あっという間に戦闘不能になった後衛の惨状を目の当たりにし、前衛の戦士達は、そろって背を冷や汗がしたたり落ちていくのを自覚した。
 ネクタルはある。飲ませれば再起できるだろう。だが、ひとりだけだ。『ウルスラグナ』にとってネクタルはまだ高価で、数を揃えられるものではなかった。
「小生のことは、捨て置いて、下さい」
 辛うじて意識はまだあったのか、フィプトがかすれた声を上げた。
「どうせ、さっきので、術式は打ち止めでした。あれ以上は、小生の、気力が保たなかった……だから……」
 その言葉に「わかった」と返事をできる余裕があったら、どれだけよかっただろう。
 ネクタルの体力回復の効果は微々たるものである。一階をうろついていた頃にはそれでも御の字だったが、経験を積んで肉体も鍛えられた今では、他の薬も併用しなくては話にならなかったのだ。
 普段の探索時ならそれでも充分だ。だが、このキマイラという強敵の前では使用がためらわれる。
 せっかく立ち上がらせても、別の薬で体力を回復させる前に再びの攻撃で倒れ伏す、という、堂々巡りの可能性もあるのだ。そうしたら本当に後がない。そもそも、他の回復薬は、すでに使い果たした。
 一度退いて出直したくても、今の状況では、背後から襲撃されて殺されるのが関の山だ。
 後が、なくなった。
 戦闘突入後に早くも抱いていた後悔が大きくなるのを、エルナクハは感じた。
 ここまで、なのか。
 ――否、後悔するのは、あの世でやっても遅くはない。自分と同じ名前の戦女神の前で、「読みが浅かったです、ごめんなさい」と頭を下げるまでは、キマイラごときの前で心を屈せさせるわけにはいかない。
「エル兄」
 ティレンが呼びかける声で我に返る。視線で何事かを問うと、幼げなソードマンは、キマイラを指差して、ぼそりと告げた。
「キマイラ、痛そう」
「……痛そう?」
 エルナクハは怪訝に思いつつも、敵を注視して、はっと息を呑んだ。
 思えば相手にとっては今が追撃の好機。なのに反応が鈍い、ということに先に気付くべきだった。
 キマイラも、冒険者達の攻撃でかなり消耗していたのだ。眼光こそ衰えていないものの、息は荒く、山羊の頭の片方などは、あからさまに垂れている。蛇の尾での攻撃も、追いつめられたための必殺の一撃だったのだろう。
「お互い様、ってわけだったのね」
 滴る汗を手の甲で拭いながら、オルセルタも頷く。
 自分の両脇にある戦友達に、エルナクハは思い切って声を掛けた。
「なぁオマエら、何かあったら、あの世まで付き合ってくれるか?」
「なに? 今さらそんなこと?」
 笑いながらオルセルタが即答した。
「私、兄様と一緒に死んだら、さすがの兄様も戦女神の前じゃどれだけ小さくなるのかなー、って、見るの楽しみにしてるのよ?」
「イヤな楽しみだな。――ティレン、オマエは?」
「いっしょ」と、ソードマンの少年は短く答える。
 エルナクハは満足げに何度も頷いた。
「それじゃ、ここでウダウダやっててもジリ貧だからよ、いっそ一暴れしようかって思うんだけどよ」
「賛成」
「一世一代の賭け、って感じ? 一世一代のくせに、ここまで生きてきた中で何回やったかしらねー」
 ティレンは素直に、オルセルタは混ぜ返しつつ、提案への賛同の意を示す。
 再び、エルナクハは満足げに頷いた。
「じゃ、オルタはよ、失敗したときにユースケとセンセイに詫びる内容、考えといてくれや」
「イヤよそんなの。死んでから考えます」
 軽口を叩き合いながら、それぞれの武器を再び構える。
 キマイラは、相手が急に動き始めたことに勘付くと、自分の肉体の不調に引きずられていた意識を立て直し、うなり、牙を剥く。蛇の尾が活発に動き、まだ立っている敵三人を睨め回しながら、威嚇の息の音を吐いた。
 蛇が来るか、炎が来るか、あるいは双連撃か。その前にとどめを刺せなければ、こちらの全滅だ。
 もしそうなったら、悪いな。
 エルナクハは心の中で妻ともうひとりに詫びて、しかし、いいや、と否定した。
 詫びる必要なんかない。ここで倒れるつもりは毛頭ないから。死を覚悟したわけではなく、これからやるのは、生を掴むための最後の悪あがきなのだ。
 黒い肌の聖騎士は、周囲に朗々と響く声で、悪あがきの開始を宣言した。
「バルシリットの戦士の名に賭け――そうじゃないのもいるけどまぁいいや、華々しく暴れてやろうぜ!」

 もしも、その少し後に百獣の王の魔宮を訪れた者がいたとしたら、壮絶な光景に息を呑んだだろう。
 一体の大きな獣のまわりを、三人の戦士が囲んでいる。ただ囲んでいるだけではない、キマイラの身体には戦士たちそれぞれの武具が食い込み、パラディンの頭には獣の前肢が、ダークハンターの脇腹には獣の牙が、ソードマンの少年の首には蛇の毒牙が、それぞれ食い込んでいる。そのように見えた。
 彼らを照らすのは、ただ、冒険者達が携えたランタンだけである。傍に倒れ伏した二人のものも含め、五台のランタンは、しかし、何台かはちかちかと瞬き、光を弱めようとしていた。
 時が凍り付いたような静けさの中、最初に動き始めたのは、獣王でも冒険者でもなかった。
 さわさわとざわめき始めた森の木々の隙間から、ゆっくりと、青白い光が差し込んできたのだ。幾条もの光は、舞台を照らす明かりのように、魔宮を、動きのない獣王と冒険者達を、遍く照らし始めた。魔宮からは無理だが、『外』が見える隙間からは、ハイ・ラガード上空を覆っていた雲が晴れていき、満ちかけた月が覗く様を見て取れたことだろう。

「――遅ぇぞ、月神イルヴィナ、いいとこ見逃したんじゃねえのか?」

 揶揄するような青年の声が、静けさを打ち破った。
 声圧に押されたかのように、獣が、ゆっくりと倒れていく。パラディンを叩きつぶしていたはずの前肢が、ダークハンターを噛み砕いていたはずの牙が、ソードマンに食らいついていたはずの蛇の毒牙が、何の抵抗もなく離れ、倒れる本体の後を追う。横たわった百獣の王の身体から染み出す血が、月の光とランタンの光の中で、じわじわと草と地面を濡らしていった。
 三人は、無事だった。互いの生死を決する最後の激突の際、獣王の生命は、彼らに傷を負わせるまでには持ちこたえられなかった。牙も前肢も、冒険者達へは、まさに髪の毛一筋分だけ届かなかったのだった。
 言うまでもない、『ウルスラグナ』は強大な魔物に勝利を収めたのである。

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