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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第一階層『古跡の樹海』――栄えし獣たちの樹海・32

 再び訪れた樹海内部は、いつもよりも濃い闇に包まれていた。
 ラガードの上空を侵食した雲は、予想通り、夜になっても晴れることはなく、樹海に差し込む月の光は一筋たりとも見うけられない。昼に比べると比較的静かな夜の樹海だが、闇が濃いと、些細な音ですら際立って聞こえる。そんな中、ちりちりと鳴る鈴の音は、獣避けの鈴。ハイ・ラガードに来たばかりの時には手に入れられなかったものだが、今は(金さえあれば、だが)好きなだけ入手できる。
 心身の調子を整えた『ウルスラグナ』討伐班一行は、ランタンの光の中、目標が待ち受ける広場への道を辿る。
 ランタンとはいっても、火を使う類ではない。複数の触媒を混ぜ合わせて発光させるもので、うっかり落としても延焼の危険はない。ほのかに熱を持つが、熱いというほどでもなく、腰に下げても邪魔にならない程度に小型化できる。それを全員が携えていた。問題は、もともとが逃亡補助用の、瞬間的に発光させる仕組みを土台にしているせいか、持続性が不安定で、五分と保たないときもあるということだ。アルケミストがいなければそれっきり。まだ一般社会に広めて使えるようなものではない。
「ユースケ、ここで一発、前時代の知識で何とかしてくれ」
「無理言うな」
 エルナクハの懇願は却下された。
「っていうか俺だって電球の――ああ、と、前時代の明かりだけど、その仕組みなんか知らないよ」
「……思ったんだけど」と口を出すのはオルセルタである。「ヴィズルも前時代人で、アベイよりいろいろなことを知ってたはずなのに、それを再現しなかったのは、なんでなのかしら?」
「さぁな」妹の疑問に兄は肩をすくめる。「オレらには無理、とか思ったんじゃねぇか。作る方か、使う方かは、わかねぇけどよ。なにしろ前時代はいろいろやりすぎて滅んだっていうしな」
「……いろいろと、考えさせられる問題です」
 アベイの隣でフィプトが俯いて言葉を連ねる。
「アルケミスト・ギルドでは、日々研究が重ねられてるんですが……時折、それを表に出していいものか、という研究もあるんです。たとえば、大分前に届いたレポートにあった話で、黒化ニグレド――毒使い達が、凄まじい力を秘めた毒石を発見したそうなんですが、採掘現場に立ち会った者が皆、具合を悪くしたとか……救助に当たった者も、と……それが――」
 途端、アベイが足を止めた。くるりとアルケミストに向き直ると、肩を強く掴む。
 目を白黒させるフィプトに、アベイは低い声で強く言葉を発した。
「それを表に出しちゃダメだ……! 絶対に再現しちゃいけない前時代の技術があるなら――その毒石の利用方法が、そのひとつだ……!」
 普段からは想像も付かないメディックの様子に、仲間達は思わず目を見開いた。アベイ自身も、顔を青ざめさせて震えているのだ。
 何かを言いたそうなフィプトの言葉を遮る勢いで、アベイはさらに続けた。
「ヘタすりゃ、そいつは一瞬で数十万の人間と無数の生命を滅ぼす魔王に化けるぞ……!」
 数十万の人間を一瞬で殺すなど、どれだけの精鋭を揃えても無理難題である。少なくとも、人間業では。
 神の存在すら凌駕する力を持っていた前時代――その闇の一端を、伝聞でとはいえ、冒険者達は垣間見た。
「安心してください、アベイ君……」
 フィプトはしっかりと頷いた。その目に悲しそうな光が宿るのは、未知の物質を調査できない口惜しさがあってのことか、と皆は思った。
 そうではなかった。
「人間には触れてはいけないものが確かにある――それくらいはアルケミストでも解っています。封印しましたよ、その毒石の採掘現場は。なにしろ……具合を悪くした人達は、皆亡くなってしまったんです。メディックすら手に負えない症状を発して」
「……そうか」
 悲しそうな、しかし、安堵も混ざった表情で、アベイはフィプトの肩を放した。
 冒険者達は目的地への歩みを再開したが、それまでとは違い、沈黙がしんしんと降り積もるだけであった。
 そもそもがキマイラと相対する景気づけのために、無駄話をしていたはずだった。誰が悪いというわけでもないが、どこから深刻な話になったのか。
 いずれにしても、無駄話の時間が終わったのも確かだった。
 揺れるランタンの光の中に、ぼうっと、扉が浮かび上がったからだ。
 その向こうに、魔物を呼び寄せる百獣の王を擁する、魔宮への扉が。
 道なりに点々と続いていた、変色し掛けた血の痕は、その扉の前では、もはや点とは言えない広がりとなって残っていた。
「せんせい、あかり、ちょうだい」
 と、ティレンがフィプトに手を差し出す。
 野生の獣でもない『ウルスラグナ』にとって、闇の中で戦うのは至難の業だ。明かりが切れたら不利どころの話ではない。戦闘中に誰かの明かりが消えても影響が少ないように、五人全員がランタンを携えているわけだが、今、ティレンの持つそれの光は不安定に揺れていた。
「ああ、反応が保ちそうにないですか……」
 フィプトは自分の荷袋から触媒を取り出し、ランタン用の調合を始める。
 その様を背に、エルナクハはオルセルタと共に頷き合い、閉ざされた扉に手をかけた。
 左右に割れた扉が、引き戸のように、鈍い音を立てながらずれていく。
 
「――!」

 その瞬間、冒険者達を死の予感が包み込んだ。
 見えざる鉤爪が肉体を掴み、そのまま心臓まで圧殺してきたような、おぞましい気配だった。
 キマイラがどれほど強くても、まさかエトリア樹海で戦った竜族よりも強い、ということはあり得ないだろう。それらを圧してきた冒険者達にとって、この程度の気配は幾度も感じ取ってきたものだ。しかし、備えた直感は、当時の力を失った肉体の状況を把握し、心のどこかに残っている自負と過信を払い落とし、自らの生命活動を停止させかねない強さを正確に推し量って危機を告げた。
 そんな直感を無視せずに来たから、ハイ・ラガードでの最初の一月強を『ウルスラグナ』は生き延びてきたのだ。
 だが、警告を無視するのと、聞き入れながらも敢えて進むのとでは、その意味合いは天地ほどに違う。
「フィー兄さん、ティレン、準備はいい?」
 ランタンの準備をしていた二人に、オルセルタが問う。
「はい」
「ん」
 背後でそれぞれの返事がするのを聞きながら、エルナクハは、扉の向こうの闇の彼方、おぞましい殺気の漂ってくる方向を見据えていた。
 殺気は――ひとつではなかった。
 強大なひとつの他に、もう少しは弱いものがいくつか、感じ取れる。
 強大なものがキマイラなのは間違いない。他のが何者かは、推測はできるが、実際にどうかは判らない。
 目を凝らすと、百獣の王の膝元へ向かう道を飾るようにある低木や瓦礫が見えるのだが、その向こう側から、キマイラ以外の気配はするのだ。
 王の下に向かう者に襲いかかってくるのか、それとも――戦闘の最中に乱入する気か。
 エルナクハはエトリアでの戦いを思い出した。第一階層の最奥、狼を束ねる白い獣スノードリフトとの戦いを。ライバルギルド『エリクシール』と協力して行ったその戦いでは、スノードリフトの下僕である狼どもが、戦闘の最中に乱入しようと迫ってきていたのだ。幸い、ちょっとした小細工のおかげで、狼どもが乱入する前にスノードリフトを片付けることができたが、もしも乱入されていたら、肉塊になっていたのは自分達だっただろう。
 少数を多数で撃破するのは、兵法の基本だ。
 相手が多数にならないように、なんとかできれば――。
「ユースケ、鈴、残ってたっけ?」
 パラディンはメディックに問いかける。
「どっちだ?」
「誘き寄せる方」
「眠らせるんじゃなくてか?」
 鈴鉄製の鈴は、製法次第で、魔物を誘き寄せるか眠らせるか、全く違う力を持たせることができるらしい。
「眠るのはちょっとの時間だけだろ」
 アベイから鈴を受け取りつつ、エルナクハは目を細め、姿の見えない敵を睨め付けた。
「そんな短時間で倒せるヤツとは思えねぇよ。だったら、先に大掃除、ってヤツだ」

 王との接見を求める者のように、静かに進む。
 低木や瓦礫の向こうに潜む気配は、動きを見せない。総勢五、六体か、と冒険者は当たりを付け、そして。
 ランタンを掲げ、正面を、見た。
 その膝元に近付くには、まだ距離がある。それでも、その姿は特徴的な影として、ぼんやりとした光の中に照らし出されていた。
 全体的な姿は普通のものより三まわりほど大きな獅子のよう。しかし、頭が三つあるように見えないか。そして、背には大きな翼を備え、コウモリのそれのような広がり方をしている。尻尾は獅子というより――いや待て、尻尾の先からちろちろと出入りしている細いものは何だ?
 キマイラとはよく名付けたものだ。尻尾は蛇そのものだ。伝説に倣うなら、余分な頭はたぶん山羊の形をしている。
 威容にして異様。紛れもない強敵の相だ。少なくとも、今の『ウルスラグナ』には。
 冒険者達は陣を組む。アベイとフィプトを中心に置いて、その周囲を囲む三角形の頂点に配されるように、残りの三人。使者の暗殺に備えて配置された護衛のように、冒険者達の様子を窺う気配に備えて。
 エルナクハは引き寄せの鈴を手にした。さしもの彼も、自分達を取り囲むものが一斉にかかってくることを考えると、緊張を隠せない。
 隣でオルセルタが剣を抜く。背後でフィプトが触媒を錬金籠手に組み込み、アベイが医療鞄の蓋を開ける。後方でティレンが斧で風を薙ぐ。
「……行くぜ」
 全員の準備が完了したことを確認すると、エルナクハは鈴を持つ手を伸ばし、からから、ころん、と振った。
 鈴の音の有効範囲を考えて、百獣の王には届かないようにしているつもりだ。事実、王は動かない。
 だが、本来の目標である王の下僕達には、効果覿面であった。
 冒険者を取り囲む四方から、翼が風を孕む音がする。身を隠していた低木や瓦礫の影から飛び出してくるのは、コウモリの翼を持つトカゲのような赤い生き物。両手で持てる穀物袋ほどの大きさ(翼長除く)は、この樹海の敵性生物の中では、決して大きいとは言えないものだった。しかし、言うまでもないが魔物の危険度は大きさでは量れない。
 空を自由に舞い、想像を絶する速度ですれ違いざまに、熱を秘めた爪で冒険者の肉体を掻き払いに来る、古跡の樹海の中でも有数の強敵である。
 こんな情報がすらすらと頭に浮かぶのは、今回が初見ではないからだ。
 初めて見かけたのは四階だった。奴らは、自分達が縄張りと定めた領域の空を悠々と飛び回っていた。肌で感じる気配に、冒険者は正面から当たる愚を知って、慎重に遭遇を避けたのだが、うっかりしてしまうときもある。必死に対抗したが、やはり一人か二人は『落ちて』しまうものだった。それでも『ウルスラグナ』は誰も死ななかったから、まだいい方だろう。冒険者達の中には、ほとんど全員を失って、引退を余儀なくされた者もいるのだ――中にはギルドごと消滅した者達も。
 この魔物の通称『獣王のシモベ』とは、キマイラのことを調査していた衛士の生き残り――『ウルスラグナ』が助けた衛士バイファーが、大公宮でたまたま再会した時に、教えてくれたものだ。
「百獣の王は、そのまわりに、翼を持つトカゲのようなシモベを控えさせているのです」
 故に、衛士達はかの魔物を『獣王のシモベ』と呼ぶ、と。
「ああ、やっぱりオマエらだったか」
 エルナクハはひとりごちた。衛士の話を考えれば、隠れていたのはこのトカゲ達である可能性は高かったが、実際にどうかはわからなかったのだ。
 シモベの総数は、気配がした時から予測したのとほぼ同じ、六体。からころと鳴る鈴に注目しながら、出現位置で円を描くように上空を飛んでいる。やがて、中の一体が、ついに我慢しきれなくなったか、『ウルスラグナ』に向かって急降下を敢行した。釣られるように他のシモベ達も体勢を変えていく。
「来るぞ! ユースケとセンセイは右に待避!」
「ティレン、おいで!」
 黒い兄妹の声が陣の再構成を促した。
 右、というのは、最初に特攻してきたシモベから離れる方面だった。だが、そちらの方からは、二体目が迫り来ている。そいつが乱入するまでには、一体目を片付けなくてはならない。
 もう少し強かったら、戦闘中の緊張を維持するために、わざと相手の乱入を誘う手もある。例えばバードの歌は、聞く者の内なる力を呼び覚まし、その効果は、敵に打ち消されなければ、戦闘状態にある限り維持される。しかし戦闘が終わり、緊張が解けるのと同時に、効果も解けてしまう。そんな状況を防ぐためにである。
 だが、今は、乱入されると不利な点が多すぎる。一体ずつ確実に落とすに限る。
「センセイ、ユースケ、触媒や薬は極力控えてくれ!」
「了解っ」
「はいっ」
 エルナクハは後衛の返事を効くと、前衛の戦士達を引きつれ、空飛ぶトカゲに相対した。
 先陣を切るのは最も素早いオルセルタである。全身のバネを使って跳躍すると、トカゲの翼に斬りつける。ぐらりと体勢を崩したトカゲに、さらにエルナクハが追撃を与える。高度を落とすトカゲは、しかし往生際悪くオルセルタに爪を伸ばすが、ダークハンターの少女にはかすり傷となっただけだった。忌々しげに鳴くトカゲの脳天に、ティレンの斧が食い込んだ。
 姿に似合わぬ恐ろしいトカゲだが、生命力自体は低いのだ。初めて出くわした時ですら、意外とあっけなく落とせたことに驚いたものだ。まして今、初見の時よりも成長している自分達なら。
 エルナクハは地に落ちたトカゲを踏みにじりながら叫んだ。
「おらぁ、次来いや!」
「兄様、後で皮剥ぐんだから粗末にしないで!」
 オルセルタが叱咤を飛ばしながら後衛の方へと走った。二体目がすぐ傍まで迫ってきていたのだ。
 シモベ達との戦いは、楽とまでは言えないが、安定したものだった。致命的な傷を負う者は出ず、トカゲの屍ばかりが積み重なっていく。あわやという時もあるにはあったが、機をよく読んだフィプトの術式が飛んできて、トカゲを凍り付かせた。この樹海が初めての冒険であるアルケミストも、もはや初心者とは呼べまい。
「弱ぇ!」
 四体目を落とした時、エルナクハは一言だけ嘲った。
 五体目に剣を食い込ませた時、地を踏む軸足に、それまでとは違う感触を得た。
 視線を落としたエルナクハは、一瞬、頭に血が上りかけた。
 知らずのうちに踏んでいた金属の板。聖騎士達が肩当てからぶら下げる、己の所属や信条を示す紋章を施した金属板だ。
 血にまみれたそれに施された紋章に、見覚えがある。
 その本来の持ち主である、赤い長髪の聖騎士のことが、脳裏に浮かんだ。
 ティレンに止めを刺されたトカゲの断末魔を耳にし、我に返ると、エルナクハは、腹の底から浮かんできた怒りを発散するかのように、闇の奥に座する百獣の王に向けて叫んだ。
「自分の傍に置くシモベが、こんなに弱くていいのか、百獣の王!」
 六体目――最後のシモベが、奇声を上げながら迫りくる。しかし、狙い澄ましたオルセルタの一撃がその片目を切り裂いた。突然に制限された視界に戸惑い、シモベは喚きながら滅茶苦茶に飛び回る。しばらくの後には片目に慣れたか、残る瞳に憎悪の輝きを爛々と宿し、翼を広げた。これまでにも幾度か喰らった、冒険者達の間を飛び回り、爪で抉ってくる、『音速飛行』と名付けられたものの前兆だ。やがて翼をすぼめ、重力を加速力の一部として利用しながら凄まじい速度で迫ってくる。
「させるか!」
 すれ違いざまに、音速の爪で抉られたエルナクハの血と、聖騎士の剣に抉られたトカゲの体液が、ぱっと散り、ランタンの光の中に降る。トカゲの勢いはそれでも止まらず、飛び回りながら、爪で次々に冒険者達を抉っていった。
 ち、とエルナクハは舌打ちをしたが、その表情には勝利の確信がある。
 仲間達の負った傷は浅くはないが、それでも全員が自らの足で立ち続けているから。
 超速で飛び回ったトカゲの動きが鈍り、上空へ退避しようとするその瞬間、ティレンの斧の刃が空を断つのを見た。鈍い音がして首がもげ、明後日の方に転がっていく。体液を吹き上げる、首のない胴は、どさりと地に落ちた。
 百獣の王の神殿には、再び静けさが戻ってきた。
 だが、当然ながら、まだ終わったわけではない。
 アベイの応急処置が終わると、冒険者達は、武具を構えたまま、じりじりと王に迫った。
 足を運びながら、聖騎士は再び吠え猛る。
「オマエ、上の階から強い獣を呼んでたらしいな。なのに、自分のまわりに置いてたのは、こんなヤツらばっかか。はは、つまりは、相応の奴らには振られて、こんなのしか支配できなかったんだろ。王の名が泣くッ!」
 内心は嘲笑とは違う。『こんなの』でも、王と共にやってこられては厄介な連中だった。それでもエルナクハは王を貶めた。人としてどうかとも思う気合いの入れ方だが、強敵に相対する心を鼓舞するには最適だ。
 足が止まったのは、キマイラの絶対攻撃圏内ぎりぎりに到達したからだ。
 百獣の王は冒険者達に牙を剥き、低いうなり声を上げる。この距離ならばはっきりと判る、獅子の顔の両肩にある山羊の顔ふたつは、草食獣らしからぬ光を両目に輝かせ、蛇の首をした尾は鎌首をもたげて、荒い息の音で威嚇する。
 あと一歩踏み込めば、戦いになる。
 冒険者達は各々の戦いの準備を整えた。前衛の武器の刃がランタンの輝きを反射し、後方で錬金籠手の稼働音が鈍くうなる。
 聖騎士は、戦を指揮する采配のごとく、剣を百獣の王に向け――腹の底からの声を上げた。
「フロースガルの弔い合戦だ! 王サマを玉座から引きずり下ろしてやろうぜ!」

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