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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第一階層『古跡の樹海』――栄えし獣たちの樹海・31

 笛鼠ノ月十日。
 東の地平線に、うっすらと光が登る頃、冒険者達は目を覚ます。
 基本的に、朝の五時が『昼の部』の冒険者達が樹海に入る時間だ。当然ながら、それ以前に起きて、朝食を腹に入れたり探索の支度をしたりする。交代で飯の支度をする彼らだが、今日の飯当番はマルメリとナジクである。
「おーし、気合い入れて料理するわよぉ!」
「……うむ」
 妙にテンションの高いバードと、妙にテンションの低いレンジャーだが、料理に傾ける情熱は等しく強い。
 なにしろ、今日は、キマイラとの決戦を繰り広げることになるかもしれないのだ。力の付く食事を用意できなくて何が食事当番か。
 フィプトとセンノルレは、食卓――円卓ではなく長卓――の端の方で、触媒の準備に余念がない。フィプトは後列から属性攻撃をキマイラに浴びせかける役目なのだ。万が一にも暴発など起こさないように、準備は入念にしなくてはならない。
 彼らの傍らで、同じようなことをしているのは、アベイである。が、メディックである彼が準備しているのは、錬金術の触媒ではなく、生薬だった。メディカなどの、あらかじめ調合済みの薬品も持っていくが、必要な時に生薬を調合して作る薬は、メディックの腕次第で、メディカよりも劇的な効果を現す。しかし、その分、調合後の劣化も激しいため、作り置きしておくことができない。アベイが行っている作業は、調合作業の途中、あらかじめ行っておいても劣化しにくい工程までの作業であった。こうすれば戦闘中でも多少は調合時間を短縮できる。
 長卓の中央部では、パラスが皿を並べたり、パンのバスケットを運んだりと、食事の準備の手伝いに余念がない。彼女は対キマイラ戦闘班ではなくなったが、しかし、彼女が食事の際に座るはずの椅子には、カースメーカーのローブと呪鎖が掛けられている。戦いに出る皆の無事を祈って『厄祓い』をやるんだ、と、張り切っているのだ。
 一方、エルナクハ、オルセルタ、ティレンは、焔華を交えて、私塾の中庭に出て軽く身体を動かしていた。樹海に入る前にこうしておくと、やはり実戦での動きも違ってくる。鍛錬用の木製武具を使っているとはいえ、そして運動量自体は実戦に及ばないとはいえ、模擬戦を繰り広げる彼らの眼差しは真剣そのものであった。
 ゼグタントは私塾にはいない。他のギルドから採集作業の依頼を受けたということで、パンだけを軽くかじって既に出掛けた。「帰ってきたら武勇伝聞かせてくれよな」とは、言い残された言葉である。
 やがて、料理が出来上がり、居合わせる全員が食堂に揃い、朝食に口を付け始めた。
 食事を口に運ぶ合間に多く飛び交うのは他愛のない会話。樹海も冒険も関係のない、日常の出来事。いつもならば、今日の冒険云々だの、昨日出くわしたモンスターがどうこうだの、そのような会話が多いのに。
 ――ああ、そうか。
 最初にそう気が付いたのは、たぶんオルセルタだっただろう。
 これから相対するのは強敵だ。エトリア樹海で得た力はブランクの間に失われ、ハイ・ラガード樹海で蓄えた力は、未だ高みに至らない。そんな状況で、久々に相対する『守護者』。樹海の要所を守る、黒い禍々しい霊気オーラをまとう、恐るべき者達。キマイラにはまだ出会っていないので、詳しくは判らないが、風聞によって知る限り、同じ類なのは間違いないだろう。
 できる限りの鍛錬は成した。叶う限りの武具は揃えた。それでも、結末は誰にも判らない。キマイラに喉笛を裂かれ、物言わぬ肉の塊が五つ、転がることになるかもしれないのだ。
 生と死が薄幕ひとつ隔てて背中合わせにあるならば、死に突き落とされた者が薄幕を引きちぎり、生の側に手を伸ばすための最後の力は、『未練』だ。生きて帰るという決意、皆を守るという誓い、こいつだけは、と吠え猛る執念。言い換えれば様々な要素に分けられるけれど、つまりは生命ある者が現世で何かを為したいという欲望。死後に女神の膝元で得られる栄光を信じるバルシリットの戦士でさえも、死に瀕してなお、その欲望を捨てられずに薄幕に腕を伸ばし、差し伸べられる戦女神エルナクハの手を振り払おうとすることがある。
 オルセルタは子供の時のことを思い起こした。兄と共に村の外に遊びに出かけ、たまたま出くわした盗賊どもに痛い目に遭わされた時のことだ。自分を守って瀕死の重傷を負い、目の前に放り出された兄は、死の世界を映し出す冥い瞳で、それでもオルセルタのことを見続けていた。あの時の兄にとっては、自分の存在が、生の世界と兄自身を繋ぐ細い糸を支える『未練』だったのだ。 
 そんな兄と同じように、自分も、そして仲間達もまた、自覚無自覚の差はあれど、日常を強く心に刻み込むことで、『未練』を、現世にありたいと願う欲を蓄えている。生死の境から、一歩、否、半歩でも生の領域に踏みとどまれるように。

 樹海に足を踏み入れた時には、内部は薄ぼんやりとした霞状の光に包まれていた。
 五階の入り口、下階から階段を上ってきてすぐのところにある磁軸の柱から、黙々と歩き続けて三時間。前回の探索を中断したあたりまで、冒険者は歩を進めた。その頃には、薄靄も晴れ、樹海はくっきりとした若々しい緑の様相をあらわにしている。
 余談だが、前回の中断の理由は、魔物との戦いで、生命は拾えたが散々な目に遭ったからであった。
 探索のついでに、酒場に集まった依頼の中から、『五階あたりに咲くという蒼い花を採ってきてくれ』というものを承ったのだが、いざ目的の花を見付けて摘み取ろうとしたその時、たまたま茂みの中から顔を出したサイミンフクロウと出くわしてしまったのだ。この魔物がまた、翼を羽ばたかせ、眠りを誘う粉を振りまくという、厄介な輩で、しかもそれが一度に三体である。眠らされ、つつかれ、引っかかれ、なんとか撃退した時は、そこまでの行程の分も含め、全員がボロボロだった。そのあたりを縄張りにしている角鹿までもが至近に迫っていたこともあり、『ウルスラグナ』一同はそそくさと退却したのであった。
 今回もまた、長い行程の間に、冒険者達は疲れていた。一度は辿った道であるために、前回よりも余力はあるが、今のままでキマイラに挑むのは危険すぎる。
 磁軸の柱の近くに、通り抜けられそうで上手く通れない茂みがあったのが、希望の光だ。逆の方向から、その茂みを拓くことができれば、キマイラとの戦いに突入する前に一度街に帰り、心身を充分に癒してから、大幅に短縮された道程を辿り、決戦に挑むこともできる。もしも茂みが拓けなければ――ここまでの長い道程を超えても充分に余力を残せるまで、強くならなくてはいけない。キマイラ退治は後日に伸びるだろう。
 しかし今は、キマイラのことより先に、確かめなくてはならないことがあり、捜さなくてはいけない者達がいる。
 冒険者ギルド『ベオウルフ』。
 樹海に踏み込む直前に出会った衛士が、彼らがすでに樹海に入っていると教えてくれた後、心配そうにつぶやいたのだ。
「『ベオウルフ』はキマイラに殺された仲間達の仇を取る気だ。しかし五人で負けた相手に二人で勝てるんだろうか」
 衛士の言葉を聞いた時、しまった、とエルナクハは思った。
 先を越されると思ったからではない。そんなことはどうでもいいのだ。
 それよりも先に抱いたのは、激しい後悔。自分達がキマイラ退治のミッションを受けていることを確認したことで、『ベオウルフ』は先走ってしまったのではないか。
「キマイラは――私たちの獲物だ」
 と、昨晩、フロースガルがそう言った時の顔を、思い出す。その言葉は単なるライバル心の発露だと思っていた。だが、よくよく考えれば、そんなものでは片付けられない、重々しい声の宣告ではなかったか。
 あの優男の顔の下にあるのが、キマイラを仇と付け狙う、激しい復讐心だとしたら……。
 復讐心――激しい憎悪は、確かに力になる。だが、判断力を歪め、曇らせる。『ベオウルフ』が復讐のために蓄えた力が、真にキマイラに比類するものならば、いい。だが、『ウルスラグナ』に仇を討ち取られてはなるまい、とばかりに、まだ力が足りないのに、急いでキマイラに挑んだとしたら……。
 どうか、先走らないでくれ。エルナクハのみならず、全員が同じ思いだった。キマイラに到達する前に思いがけない消耗をして、おとなしく街に戻っていてくれ。直前で我に返って、もっと落ち着いて状況を見てくれ。いや、キマイラを無事に倒し、後から到着した『ウルスラグナ』に、「遅かったね、キマイラはもう討ってしまったよ」と涼しげな顔で言ってくれても構わない。とにかく無事であれ、どうか、どうか!
 焦りが心を逸らせる。だが、逸ればまわりが見えなくなり、自分達こそが無事では済まなくなる。
「ともかくも、落ち着いて先に進むしかない……」
 アベイが磁軸計に目をやり、漉紙のメモ帳を手にして、未探索区域の地図を記す準備をした、その時のことだった。

 オオ――――ン……。

 どこから流れてきたのだろうか、冒険者達は、かすかに響く獣の声をその耳に捉えた。
 獣の声自体は珍しくもない。場合によっては武器を構え、奇襲に備える必要がある。しかし、たった今聞こえた声は悲しげで、皆に等しく嫌な予感を芽生えさせた。否、それは、認めたくなかったが、確信といってもよかった。
 冒険者達は視線を廻らせ、声のした方向を探ろうと試みた。
「エル兄、あれ……」
 ティレンがエルナクハの袖を引き、前方を指差したので、他の冒険者達もそちらに気が向いた。
 緑の絨毯の上に、鮮やかに咲き誇るのは、小さな血の花。西の方から点々と連なり、冒険者達の目前を通り越して、北へと続く。さらに目を凝らすと、大分先で東に折れているようにも見えた。
 認めたくない確信が、ますます輪郭を濃くし、冒険者達は我知らず息を呑んだ。
「……行きましょう」
 誰も声を上げられない雰囲気の中、オルセルタが、どうにか声を振り絞り、一行の行動を促した。
 血の花に飾られた花道を北へ歩んでいく。何かの間違いであってほしい、と、それぞれに心の中でつぶやきながら。最悪の予感を踏みにじるかのように草を踏み、時を詰めていく。やがて、北への道は行き止まりとして塞がれ、東に折れる道が姿を現す。
 冒険者達は、固唾を呑むと、角を曲がった。その途端に強敵と鉢合わせたりしないかと、心臓が早鐘のように鼓動した経験は、何度もある。だが、その経験のどれも、今感じているものに比べれば、運動不足の輩がちょっと散歩しただけで起こる動悸のようなものでしかない。
 曲がった先は、ほんの少し歩いただけで行き止まりになっている。大きな樹が道を塞いでいるのだ。その樹下に、黒と赤の斑の塊を見いだして、『ウルスラグナ』は声を詰まらせた。
 それは、クロガネだった。クロガネだけだった。
 漆黒の艶やかな毛皮を、真紅のどろりとした液体で染め、それでもなお、四肢を突っ張って毅然と立っている。見ただけで判る深い傷は、到底、立っていられないほどに深いのに。だというのに、その瞳には、死に対する怯えも、苦痛の欠片すらも浮かべず、真っ直ぐに西を見ているのだ。
「クロ!」
 真っ先に駆け寄ったのはティレンだった。諸手を広げて抱き締めようと思ったようだが、すんでの所で自重する。傷に障ると理解したのだ。そんな彼と、続いて走り寄る冒険者達に、黒い獣は、ぱさり、と尾を振って応えると、足下に転がっていた何かをくわえ、ぐっと突きだしてきた。
「何だ?」
 エルナクハはそれを受け取り、広げてみた。
 ……それは羊皮紙――世界樹の迷宮の地図だった。
「おい……!」
 黒肌の聖騎士は思わず声を荒らげた。迷宮の地図は冒険者にとって大切なものだ。複写をとらずして他人に渡すようなものではない。もちろん、今渡されたもの以外にも複写がある、と考えることもできなくはないが、今の状況下で獣の行動が意味するものは、そんな生やさしいものではない。
 それは、常に共に行動しているはずの相棒が、この場にいないことからも明らかだった。
 そんな冒険者達の思考を肯定するかのように、黒い獣は顔を上げ、真っ直ぐに西を見据えたまま、高らかに声を上げた。何かを成し遂げた誇りと共に、失ったものへの哀しみをも秘めたような、切々と響く遠吠え。

 ――あなたの遺志は、確かに受け渡しましたよ。

「……っざけんな!」
 エルナクハは腹の底から怒りが湧き上がるのを感じた。クロガネやフロースガルが悪いわけではない。だが、彼らの意思に同意して、取り返しがつかないものが失われたことを認めてしまうのが嫌で。メディックに鋭い声を投げかけて治療を促すと、エルナクハはクロガネの前に、どかっと座り込んだ。受け取った羊皮紙を突き出し返し、クロガネの目の前の地面に置く。
「これは返すぞ、クロガネ。まったく何考えてやがるんだ!」
 そんな時、アベイがちらりと視線を投げかけた。その瞳の中に絶望を見いだしながらも、それでもエルナクハは首を縦に振って、治療を促す。メディックの青年は静かに頷くと、医療鞄から治療道具を取り出しはじめた。
「悪い、これ、外すぞ」
 と言いながらアベイが手を首輪にかかると、クロガネは牙を剥きかけたが、結局はそれを収め、されるがままになる。
 外された首輪が地面にそっと置かれるのを、エルナクハは意識に留めた後、改めて声を上げた。
「いいか、オマエの相棒がいないなら、『ベオウルフ』のギルマス代理はオマエだろうが! それが、ぽーんと探索を投げて、オレらに託します、だと? 片腹痛ぇ! それでも『巨人殺しの英雄ベオウルフ』の名を名乗る猛者か!?」
「兄様!」
 と声を上げる妹を片手で制し、聖騎士は続けた。
「まぁ、正直オマエは大ケガしてるし、ちょっと気弱になるのもわかんなくはねぇよ。だからまずは、そのケガ治して、それから先行きを考えろや。今の『ベオウルフ』だけで探索を続けるのもいい。人手がいるなら都合するの手伝ってやってもいい。さもなきゃ――昨日も言ったろ? 『ウルスラグナ』に来るなら大歓迎だ。だから、まずは養生して、よく考えろ。それまではこの地図は、オマエらの……『ベオウルフ』だけのものだ!」
 ばん、と傍らの地面を叩きながら強調したその時、黙々と治療を続けていたアベイが口を開く。
「とりあえず、応急処置はした。あとは――……クロガネ自身の生命力次第だよ」
「そか」
 エルナクハは無理矢理に不敵な笑みを形作った。立ち上がり、尻に付いた土を軽く払うと、改めてクロガネに向き直る。
「まぁ、キマイラは放っとくわけにいかねぇから、とりあえずオレらが倒すぞ。悪く思うなよ。で、明日の朝にゃ武勇伝聞かせに来るから、それまで待ってろよ、いいな!」
 嫌も応も聞かず、くるりと踵を返す。
 立ちつくす仲間達を促し、背後にアベイが駆け寄る足音を聞きながら、聖騎士は血の花道を逆に辿る。
 その顔には、もはや不敵な笑みは欠片も浮かんでいなかった。
 唯一浮かぶのは、強敵の存在を感じ、哀悼をねじり伏せながら、心を据えた、強者の顔。
 皮肉な話になるが、信じたくなくとも、フロースガルの死が確定していたのは、『ウルスラグナ』にとっては僥倖だっただろう。もしもフロースガルが瀕死でも生きている可能性があるとしたら、『ウルスラグナ』は自分達の不利を判っていても戦場に乱入し、かの聖騎士を何としてでも助けようとしただろうから。
 クロガネの遠吠えを最初に聞いた地点に戻ってから、さらに西、樹海の柱の傍の、通れそうな茂みの反対側を目指す。なんとしてでも茂みを通路として使えるようにしなくてはならない。そうでなくては、キマイラと戦うのはまだ無理だ。
 血の花道はまだ足下に点々と続いている。道なりに西へ続いた後、突き当たりの扉は無視して北へ向かい、さらに東に折れる。問題の茂みの反対側の地点に辿り着いても、血の痕はさらに東に続いていた。その道の向こうに、『ベオウルフ』の地図に記されていた場所がある――大きな広場、おそらくはキマイラが手ぐすね引いて待ちかまえる魔宮が。
 冒険者達は、それぞれの武器を手に取ると、緑の壁に口を開けた亀裂を広げにかかった。一番役に立ったのは、やはりティレンの斧である。しばらくは無口のまま作業を続け、視界が開けたときに、ようやく溜息を吐いた。
 予想通り、目の前には、樹海の柱が、金色の輝きを発しながらそびえ立っていたのだ。
 これで、魔宮への道は大幅に短縮できる。冒険者達は磁軸計と糸を取り出し、磁軸の流れに乗って樹海入り口へと戻る力を発動させた。

 樹海入り口に戻った時に、他のギルドの冒険者と共にいるゼグタントに出くわしたのは、もちろん偶然である。しかし、ありがたい偶然ではあった。
「あ、あんた達……!?」
 五階の長丁場を切り抜けてきて、心身共にぼろぼろと言ってもいい『ウルスラグナ』を、ゼグタントは当然だが、一緒にいた他のギルドの者達も、驚きの声と共に出迎える。フリーランスの狩人の肩に軽く手をかけると、聖騎士はわざと陽気な声で告げた。
「私塾に戻ったらみんなに伝えてくれや。討伐班は今晩は戻りません、キマイラと浮気してきます、ってよ」
「奥さん、きっと怒るぜ?」
「なぁに、浮気は男の甲斐性ってな」
 ゼグタントの茶化しにエルナクハもまた冗談で返した――黒肌の民バルシリットには男の浮気を是とする習慣はないのである。
 ところでキマイラは雌雄どちらなのだろう?
「……義兄さん、ヤツが雄だったら……どうする気です?」
「ぐっ……ぐぬぬ……」
 そう突っ込まれるのは想定外だったのだろう、フィプトの言葉にエルナクハは頭を抱えた。やがて、ぽんと手を叩く。
「よし! オルタ、その時はオマエにやる!」
「いらないわよ!」
 いくら夫を複数持てるバルシリットの女とて、選り好みはする。第一、その見た目すら――呼称からして大まかな想像は付くが――冒険者達はまだ知らないのだ。
「それに兄様、そのときは、兄様やノル姉さんの義弟がキマイラ――ってことになるんですけどねぇ?」
「む、そいつぁごめんだな」
 エルナクハは両手を軽く挙げて降参の意を示した。直後には真面目な表情でゼグタントに語りかける。
「――ってわけでよ、キマイラは……ヤツは一刻も早く、何としてでも倒さなきゃならねぇ。だから、みんなにもよろしく」
「……わかったよ、旦那。猛き武運を!」
 ゼグタントは『ウルスラグナ』を励ますように力強く頷くと、まだ低階層で苦労しているらしい余所の冒険者達を促して、街へと戻っていった。
 『ウルスラグナ』も、その後を追うように街に足を向けたのだった。

「おやおやおや、まぁまぁまぁ、あんたたち、一体どうしたんだい!」
 フロースの宿の女将が、そんな素っ頓狂な声を上げてしまうのも、無理もあるまい。
 宿に癒しを求めてやってきた『ウルスラグナ』は、樹海帰りの冒険者の多くの常としてぼろぼろ、しかも、その表情には、無念と焦燥とが見て取れるのだから。
「あんたたち、まさか誰か戻ってこれなく――おや、ちゃんと五人いるねぇ?」
 首を傾げる女将に、エルナクハは人数分の代金を差し出し、詮索を封殺する。
「悪い、おばちゃん。とにかく休ませてくれや」
「あ、ああ、あいよ。誰か手を貸しとくれ――!」
 女将が声を上げるのに、ぱたぱたと数人のメディックが駆け付けてきた。
 彼らは見習いメディックだ。薬泉院での教習を終え、実地訓練を兼ねて方々の宿屋に配置されている。その役目は、宿を使う冒険者達が戻ってきた時に、怪我の治療をすること。教習終えたての治療師の卵とはいえ、大概の怪我なら治療できる。彼らの手に負えないほどの怪我になると、その時は薬泉院の出番である。
 そして傷の治療が終われば、冒険者達は、マッサージを受けて身体をほぐしたり、風呂に入ったりして、心の方を癒すことになる。
 宿泊者向けのサービスではあったが、別所に滞在している者でも、所定の代金を払えば利用できるのである。
 あたふたと傷の消毒をし、包帯を巻いていく、アベイに比べればまだ拙い手つきのメディック達の治療を視界に入れつつ、エルナクハも、他の冒険者達も、己の心を静めようと試みる。
 落ち着け、落ち着け、いくら心が逸っても、今の状態で戦いに挑むのは、自殺行為だ。
 昨晩の宴の時に見た、穏やかなフロースガルの顔が、脳裏に浮かぶ。続いて浮かんだクロガネの姿は、つい先程、樹海で見た、血まみれの姿だ。あの血は、クロガネ自身のものだけではなく、その相棒のものもきっと混ざっていただろう。そう思うと、親しく言葉を交わしていた者がもういないという事実と、先走りを止められなかった無念とで、歯が軋み、拳に力が入る。
「すいません! もう少し力を抜いてください!」
 メディック達の懇願が、思考を現実に引き戻した。
 治療を受け、心を落ち着け、万全の態勢を整え終えるのは、日も沈み掛ける頃になると思われる。
 ちらりと窓から外を見ると、朝は好天だった空には、薄雲が侵食を始めていた。そのうち太陽を覆い隠し、ラガードを薄暮の色で包み込むだろう。
 今晩は樹海から月の光を見ることはできないだろうな、とエルナクハはぼんやりと思った。

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