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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第一階層『古跡の樹海』――栄えし獣たちの樹海・25

 フィプトは角王の前に立ち、鈴を目前にかざし構える。
 燃えるような真紅の眼差しで、アルケミストの動向を見つめる、森の主とも見紛う大鹿。その赤く染まった角や足を視界に入れ、事切れたかつての生徒のことを思い出し、怒りが沸々と湧き上がるのを感じた。
 冒険者にせよ衛士にせよ、森に踏み込んだからには、復讐だのなんだのということを考える意味も資格もない。ただ、理由があるからこそ人外魔境に踏み込み、力が及ばなかったから斃れる。それだけだ。わかっている。わかってはいるのだけれど。
 しかし、偉容にすくむ心が、感情の炎を冷静に消しにかかる。それは幸運なことだっただろう。フィプトは自分が成すべき事を、怯えながらとはいえ、忘れずに実行することができたのだから。
 鈴が、からから、ころころ、と、音を立てる。
 角王は、先程、ほんの少しだけ鈴の音が響いた時のように、耳をぴくりと動かした。荒い息を吹き、地面を蹄で蹴り掻く。そして、先程と違い、誘われるかのように、ゆっくりと前進を始めた。
「……っ」
 見守る冒険者達が息を呑み、フィプトもかすれた悲鳴を少しだけ上げた。だが、錬金術師は、すぐさま口をつぐみ、早くも冷や汗にまみれた額を拭おうともせず、大鹿に詰められた分だけ後ずさる。その間にも鈴の音は、からころと鳴り響き、角王は音を追ってさらに前進する。
 静かなる攻防が、そこにあった。己の影を踏まれるか否か、という、東方の遊戯にも似た何かが。しかし、遊戯と違い、この攻防の失敗は、死を招きかねないのだ。
 それでもフィプトは健闘した方だろう。角王は己のいた場所を遠く離れ、問題の横道を塞ぐものはすでにない。よくやった、と、エルナクハが声を掛けようとした、その時だった。
「うわ!」
 足がもつれたのか、石にでもつまづいたのか、フィプトは短い悲鳴と共に倒れ込んだ。その様に煽られたのか、角鹿はいななくと、数多の衛士を葬ったその足を高々と持ち上げた。そのまま足が振り下ろされれば、フィプトは衛士達と同じ運命を辿っていただろう。
 だが、そうはならなかった。
 激しい音と共に、べっこりと陥没したのは、フィプトの頭蓋ではなく、エルナクハが掲げた盾。
 黒い聖騎士は、義弟の危機を見て取ると、ためらうことなく彼と鹿の間に割り込んだのだ。
「――――っ!」
 盾に護られたとはいえ、その盾を支える聖騎士の腕には、相応の衝撃が加わったのだろう、エルナクハは悲鳴を押し殺しながらも顔を歪めた。それでいてなお、空いたもう片方の腕でフィプトを抱え、渾身の力で角王の足を押し戻すと、這々の体、といった塩梅でその場を逃げ出す。
 ずしり、という音と共に、角王の足が地を叩いた。
 その時には、人間達は、すでに彼のまわりにはいない。
 なりふり構わぬ全速力で、問題の横道を目指していたからだ。
 角王は首を振った。ひょっとしたら、してやられた、という感情がそうさせたのかもしれない。人間にはわかりかねることである。ともかくも、大いなる鹿の魔物は、人間どもを追って元いた場所まで戻り、咆哮をあげたのであった。

 その咆哮に震えながらも、人間達は一息吐いていた。
 走り込んだ先には木立があり、人間ならどうにか抜けられても、あの鹿には立派な角が邪魔で無理そうだった。それが証拠に、無理矢理抜けようとしたことがあるのか、木々には深い傷跡が付いていた。一言で言うなら、ここまで追ってこられる心配はない、ということだ。現在地はその木立を抜けたところで、通れる道は北に向かっている。
「ナック、腕見せろ!」
 動悸が収まるが早いか、アベイが顔色を変えてエルナクハに飛びかかった。盾を奪い取り、籠手をむしり取り、袖をまくる。下から現れた腕は、衝撃で紫色に変色していた。
 医療鞄から薬を取り出して応急処置にかかるアベイのまわりに、仲間達も集まり、心配げにギルドマスターの容態を見守った。
 とはいっても、痛いには痛いのだろうが、本人は元気なものである。
「いやいや、うまくいったなー、オマエらみんな、お疲れさん!」
 はっはっは、と朗らかに笑いながら、仲間達に労いの言葉を掛ける。そんな彼の前に、顔面を蒼白にした錬金術師が立った。
「義兄さん……」
「おう?」
「あの、腕……」
 大丈夫ですか、とか、すみません、とか、そのような言葉を掛けようとしていたのだろうか、しかし、それは間違っている、と思い直したのか、フィプトはぺこりと頭を下げ、別の言葉を発した。
「助けてくれて、ありがとうございます」
「問題ねぇよ。これがパラディンってヤツだ」
 エルナクハは、彼としては最上とも言える笑みを浮かべ、機嫌良く応じたのであった。
 さて、どうにか角王の脅威を切り抜けた『ウルスラグナ』だったが、ミッションはまだ終わっていない。たった一人でもいるかもしれない生き残りを助けるか、その死体を確認するか、どちらかを果たさなければならない。
 ふと、ティレンが何かを目ざとく見付けたか、仲間達から離れ、拾ってきた。
「なんか落ちてたから、拾ってみたけど、これ」
 仲間達の前に差し出されたのは、ハイ・ラガード衛士が装備しているヘルムに間違いない。
 ということは、捜している最後の衛士は、少なくともここまでは、生きて逃げ延びてきたのだ。
「では、この道の先にいるということに……?」
 フィプトは逸るが、エルナクハの応急処置がまだ終わっていない今、一人で向かおうとするほど無謀ではなかった。
 一方、斥候としてなら一人で動いてもどうにかなるナジクは、何かに気が付いたのだろうか、南の方に足を向ける。
 東と南は樹が密集し、通れそうなところに身を滑らせても途中で行き詰まりそうに見えるのだが、レンジャーは器用に身を滑り込ませる。がさがさ、ぱきん、と、木立を処理する音が、仲間達の耳に届く。やがて、戻ってきたナジクは、全身に絡まった枝の破片や葉の欠片を払い落としながら、こともなげに告げた。
「いい抜け道ができた。あの忌々しい鹿に会わずに戻れそうだ」
 ひゅう、とエルナクハが口笛を吹き鳴らして、ナジクの働きを褒めそやした。
 冒険者達だけなら、アリアドネの糸で街に戻れるが、残念ながら衛士を連れ帰ることはできない。アリアドネの糸で帰るためには、帰る者達を無事に樹海入り口に戻せる磁軸の歪みを作る為に、微弱な電力を磁軸計から流すのだが、磁軸計に登録された人数分しか必要電力量は計算されない。簡単に言えば、衛士を街に帰したければ、誰か一人が帰れなくなってしまうのである。
 つまり、衛士には徒歩で帰ってもらわなくてはならないのだが(たぶんアリアドネの糸や磁軸計は持っていないだろうから)、角王の縄張りを通らなくて済むなら、危険は激減するはずだ。
 懸念の一つが消失し、幾分かの安堵を得て、エルナクハの応急処置を済ませた『ウルスラグナ』は、生き残りの衛士の探索を再開した。
 その結末は、それまでの苦労や恐怖に比べれば、とてつもなくあっさりとしたものだった。踏み込んだ区域の奥に、がたがたと身体を丸めて震わせる衛士を見付けたのだ。ヘルムを失って露わになった顔立ちは、検死をした死体と同年代のものだった。フィプトが再び息を呑んだ。
「バイファー君……バイファー君じゃないか!?」
「ひ……ひゃっ!?」
 衛士は、びっくんと大きく体を震わせ、この世の全てを拒絶するかのように、さらに身をすくませた。だが、虚ろだったその目に意志の光が不意に戻り、おずおずと冒険者達に顔を向ける。その瞳に、みるみるうちに涙があふれ、遠慮も憚りもなく草の上に降りかかった。
「フィプト……せんせえ……!?」
「ああ、間違いなく、ぼくだ。フィプト・オルロードだ。幻覚やら幽霊やらじゃあない」
 アルケミストの口調は普段とは違っていたが、『ウルスラグナ』は誰も驚かない。それが、生徒に対する時の、さらに言うなら彼の本来の口調だというのを、すでに知っていたからだ。
「大公宮からの依頼で、きみ達衛士隊と連絡が付かないって話を聞いて、捜しに来たんだ」
「大公宮の? ……た、た、助かったのか……?」
 かつて彼の生徒であったらしい衛士の青年は、あるいは恥も外聞もなく恩師に抱きつきたい気分だったかもしれない。が、今の自分が公国の衛士である、それ以前に男である、という自負が、感情をねじ伏せたのか、代わりに足下の土に指を立てながら、ぽつぽつと語り始めた。
「先生……俺達……選りすぐりの部隊だったはずなんです……。一般の冒険者を公募する前は、第二階層まで行ってました……まあ、魔物の強さに、さすがに逃げ帰ったんですけど。それでも、第一階層くらいなら、……そう簡単に、へたばらないはずだった。なのに……!」
「鹿の群、か」
 横合いからエルナクハが口を出すのに、衛士は一瞬びくりと体を震わせたが、よくよく見て、その正体を知ったようだ。小さく「『ウルスラグナ』……」とつぶやくのが聞こえた。
 衛士はこっくりとうなずくと、続きを口にした。
「はい、あの、ひときわでかい鹿が……! あいつと応戦している間にも、普段なら目の前にに踏み込まない限りは襲ってきやしない鹿どもも……! みんな、みんな……殺されちまった……隊長も、ネイジットも、シーシュも、マウダーも……!」
 衛士が最後に出した名を耳にしたフィプトが顔を強ばらせたところを見ると、マウダーというのは、検死した衛士の名だったのか。
「あんなヤツ、前はいなかった! そりゃ、鹿どもだって、第一階層にいる他のヤツらよりは強いけど、あんなデカい鹿とか、デカいトカゲなんて、反則にも程がある! やっぱり『アイツ』が呼んでるのかな、『アイツ』のせいで、こんなことになっちまってるのかな……!」
 衛士の言う『アイツ』という代名詞に、冒険者達は不穏な響きと興味を感じた。その『アイツ』とやらについて聞きたかったが、衛士は興奮しつつある。今、『アイツ』のことなど聞いたら、神経の糸が数十本まとめて切れてしまうのではあるまいか。
 その件については後回しだ。まずは衛士を落ち着かせるために、と、エルナクハはフィプトを促した。アルケミストは頷くと、衛士の肩にそっと手を置いて、言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「バイファー君、あのデカい鹿さえ避けられるなら、歩いて帰れるか?」
「え……あ、は、はい、なんとか」
 衛士の青年は何度も頷いた後、はた、と何かに気が付いたようで、深々と頭を下げた。
「すみません、すみません、先生! おれのために、先生達まで、こんなところに……あの鹿が邪魔して出られないのに……」
「ぼく達なら、アリアドネの糸があるから大丈夫。でも……」
「なあ、あんた、バイファー、って言ったか?」とアベイが話に割り込んだ。「磁軸計持ってるなら、俺たち、糸を余分に持ってるから、分けてやれるけど」
 糸を余分に持っているのは、先日、聖騎士フロースガルに教えてもらった、『リス』対策のためであった。それが意外なところで有効に役立ちそうだった。しかし、衛士は残念そうに首を振った。衛士達の磁軸計は、鹿との戦いでの混乱で失われたと見える。
「じゃあ、にい、歩いて帰るの、がんばって」
 ティレンが朴訥な口調で、しかし、顔には大変に心配げな表情を見せて、励ましの言葉を掛ける。衛士は苦笑した。斧使いの少年の気持ちは受け取ったが、現実的にどうやって、という思いがそうさせたのだろう。
 フィプトは、そんな教え子を安心させる言葉を口にした。
「鹿さえ避ければいいなら大丈夫だ。さっき、南の方で、抜け道が見つかった」
「ぬ……抜け道……?」
 バイファーと呼ばれた青年は、きょとんとしながら言葉を反芻したが、やがて、力なく笑った。
「そ、そんなものが……それさえ見つかってたら、こんなところでずっと怯えてなくてもよかったのに……」
「仕方ない。そう簡単に見つかるような道ではなかった」素っ気なくも聞こえるかの言葉遣いで、ナジクが応じる。
 このあたりは、やはり、衛士と冒険者の違いなのだろうか。公宮付の騎士や衛士は樹海に明るくない、と言った、ギルド長の言葉を思い出す。もっとも、国家機関で事足りるような探索なら、一般の冒険者達が公募されることもなかっただろうが。
「とにかく、早く帰るといい。大臣閣下が大層心配しておいでだ。それに母君も……」
 フィプトが肩を叩いて渇を入れると、衛士はどうにか立ち上がって礼を述べた。
「あ……ありがとうございます。先生は……いや、皆さんは生命の恩人です! 俺にはたいした礼もできませんが……せめて、報告の時に皆さんのこともお伝えしておきます。どうか、皆さんも気を付けて!」
 青年はぺこりと頭を下げると、ナジクから抜け道の詳細な位置を聞き出して、よろめく足どりで立ち去っていく。
 彼の姿が完全に見えなくなった途端、フィプトがへたり込んだ。
 他の冒険者はそんなことはしなかったが、彼の心境はよく判った。惨状を見て、恐るべき魔と対峙し、ようやく生き残りが見つかったのだ。衝撃と恐怖と安堵で神経が混乱してもおかしくない。正直言えば、自分達とて大分疲れた。
「……オレらも帰るか」
 ぼそり、とエルナクハが口にするのに、アベイが何度も相づちを打つ。
 ナジクがアリアドネの糸を起動させ、現れた磁軸の歪みに踏み込み、見慣れた樹海入り口に帰り着いた時、全員が例外なく溜息を吐いたのであった。

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