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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第一階層『古跡の樹海』――栄えし獣たちの樹海・22

 翌日、皇帝ノ月十六日。
 早朝の探索に出る前に、樹海に潜るメンバーの変更を伝えるために冒険者ギルドに立ち寄った『ウルスラグナ』探索班を出迎えたギルド長は、感心したような呆れたような声でこう言った。
「お前たちは、まめに探索班を変えるのだな。止めるつもりはないが、メンバー全員が樹海に入らなくてはならないという法はないのだぞ?」
「いいんだよ、オレらが好きでやってんだから」
 エルナクハは苦笑い気味にこう返した。
 後々に考えれば、ギルド長の対応は、統括本部内に漂う不穏な空気を誤魔化すものだったのかもしれない。その奇妙な空気に気が付いたのはティレンだけだった。ナジクもいれば気が付いたかもしれないが、レンジャーは統轄本部の建物内にまでは入ってこなかったのだった。
 冒険者ギルドを辞した後に、赤毛の斧使いに、統括本部内の妙な空気のことを聞かされたエルナクハは、せいぜい、ちょっとした問題が起こったくらいだろう、と思っていた。
 確かに問題は起こっていた。しかし、それは『ウルスラグナ』一同の想像を超えたものだったのである。

 世界樹入り口と一階を結ぶ緩やかな階段の途中、踊り場のように広まった一段に足を踏み入れると、側面にある空間の左側の方に、変化があった。ゆらり、と、金色の光の螺旋が立ち上ったのである。
「これが、話に聞かせて頂いた、磁軸の柱ですか……」
 興味深げに光の柱に近付くフイプトを置いて、他のメンバーは、そしらぬ顔をして階段を上り続ける。
「あれ? この柱を使うんじゃないんですか!?」
 焦り慌てるフィプトだったが、そんな錬金術師をさらに狼狽させる出来事が起きた。光の柱が、あっさりと消え去ってしまったのである。
「え? あれ? あれ?」
「はっはっは、悪ぃ悪ぃ、センセイ」
 エルナクハが、仲間を引きつれて戻ってきた。
「いや、磁軸の柱に触らなかったヤツしか近くにいなかったら、どうなるかって思ってよ」
「ああ、なんだ、驚きました。それならそうと言ってくれれば」
「はは、ちょっと驚かしてみたかったのもある」
 『ウルスラグナ』の経験では、エトリアの樹海磁軸の場合、樹海内のそれに触れたことのない者しかいない場合には、現れなかったのである。さらに、
「んー、樹海磁軸と違って、光の中に、風景、見えないんだな……」
 アベイの感嘆が示すとおり、樹海磁軸の場合、飛ばされる先の光景がうっすらと見えたものだった。樹海磁軸は階層ごとに一本ずつあり、それらの磁軸に飛ぶことのできる起点の光柱は共通で、中に映す光景を緩やかに変えていったものだ。行きたい場所の光景が見えている時に踏み込めば、望む場所に飛べるというわけである。そして、近付いた者の誰もが触れたことのない樹海磁軸がある階層の光景は、現れないのだ。
 今は、金色の柱の中には、何の光景も見えない。触れた者がいるにもかかわらず。
 これは何を意味するのか。かの聖騎士フロースガルが嘘を言うとも思えないが、彼が知らない、あるいは言い忘れた、『樹海磁軸とは違う点』が、何かあるのかもしれない。
 ともかくも、三階の磁軸の柱までは問題なく飛べた。
 磁軸の柱の北側にある獣道をくぐり抜け、前日に到達した区域に近道をする。
 獣道の真北には扉があった。前日の時点で見付けてはいたが、ちょうどいい区切りだと思って、探索を後回しにしたのだった。だが、前日にはなかったものも、扉の傍らにあった。正確に言えば、前日にはいなかった者達、である。
 赤い長髪の聖騎士フロースガルが、そこにいたのだ。その傍らでは、忠実なしもべのように――否、聖騎士のかけがえのない相棒として、漆黒の獣クロガネが、胸を張っている。
「君たちは、確か……『ウルスラグナ』だったね」
「オレらの名を知ってたか」
「噂は聞いている、と言っただろう?」
 フロースガルとは初顔合わせになる者も含め、和やかに挨拶を交わす一同だったが、ただ一人、ティレンだけが違った。クロガネを見て、するり、と後ずさったのである。その表情は今にも泣きそうで、しかしクロガネから顔を背けることはない。しまいには、ナジクに背をぶつけてしまい、抱きとめられた。
「……大丈夫だ、安心しろ、あの獣は襲ってこない」
 赤毛の斧使いの肩を叩きながら、ナジクは静かに言葉を放つ。
「どうしましたか、ティレン君?」
 フィプトが訝しげに問う。まだ十日ほどの短い付き合いだが、ティレンの性格はおおよそ掴めているつもりでいた。かの少年は、多少の危機に簡単に怖じ気づくような子ではなかったはずだ。まして、相手は人間と共に行動している『相棒』なのだ。
 そんな固定概念に支配されてしまうのもやむなきことだろう。フィプトは『ウルスラグナ』のエトリア時代を知らない。
 ティレンの行動は、エトリア時代の経験に基づくことなのだった。

 ティレンことティレンドール・グローシアは、エトリア樹海の中で生まれ育った少年である。
 彼の両親は、もともと、世界樹探索の初期にエトリアを訪れた。だが、力及ばず、所属ギルドは壊滅。新たなギルドに所属する気もなく、しかし、豊かで美しい樹海に魅せられ、執政院の了承を得て、自分達だけでも身を守れる浅層の一角に居を定めた。
 そんな両親から生まれたティレンにとって、樹海は己の友のようなものだった。とはいえ、言うまでもなく樹海迷宮は厳しいところである。その友でいるためには、己の力量を把握し、謙虚でなくてはならない。敢えて危険に足を踏み込む冒険者ではなかった、当時のティレンは、その原則を忠実に守り、決して一人では、獣避けのからくりの外には出なかった。いつか樹海が納得するような注意深さを身につけた暁には、樹海を己の庭のように歩むことになっただろう。
 そのはずだった。樹海に異変が起こらなければ。
 もっと深い階層に巣くっているはずだった、狼の群。それが、ティレンの一家が居を構える階に姿を現したのだ。
 街に出て、樹海の産物と生活雑貨を交換していた両親は、その日も街に出ようとしていたのだが、その途中で食い殺された。家で帰りを待っていたティレンは、獣避けが効いているはずの家で、狼どもに襲われた。当時は駆け出しだった『ウルスラグナ』が、前々からティレンと親交のあったナジクの要請を聞き入れて、様子を見に来てくれなければ、ティレンも両親と同じ運命を辿っていたことだろう。
 それは、ティレンドール・グローシアが『ウルスラグナ』の雄となるきっかけの話。
 同時に、その出来事は、ティレンの心に一筋の大きな傷を刻み込んだ。
 狼を前にすると心がすくむ――という、樹海探索者としては致命傷になりかねない傷。
 事実、その傷のために、ティレンは、第五階層――血を浴びたように赤い狼が出没する――で、思うように戦えないこともあったのだ。

 もちろんそんな詳細まで見抜くことはできなかっただろうが、フロースガルは大まかな事情は察したらしい。己の身体でクロガネの姿を遮り、ティレンの前に立つ。少年剣士の目線に合わせるように、やや屈み込むと、朗らかな声で挨拶の言葉を放った。
「はじめまして、ティレンドール・グローシア殿。『ウルスラグナ』の切り込み隊長としての活躍は、このハイ・ラガードでもよく耳にする。私は聖騎士フロースガル。以後、よしなに頼む」
 ティレンは聖騎士フロースガルを怖がっていたわけではない。「よろしく」と、ぽつりと返すと、差し出された手を握り返した。その手が強ばったのは、フロースガルの背後から、狼のような獣が再び顔を覗かせたからであった。
 フロースガルは穏やかな声音を崩さずに続ける。
「彼は私の相棒で、クロガネという。私共々、仲良くしてやってくれないか」
 ティレンは困ったような顔をした。それ以上自分に近付こうとはせず、ゆるやかに尾を振るだけの、賢い目をした獣が、敵ではないことは、頭では判っているのだろう。しかし、理屈ではないことは世の中にはごまんとある。二律背反の思いに挟まれて動けないティレンに声を掛けたのは、アベイであった。
「ティレン、クロガネのやつ、お前と仲良くなりたいのにできなさそうで、残念がってるぜ」
 まったくそのとおりです、と言いたげに、クロガネが、くうん、と声を上げた。
 その様は、ティレンの心を動かしたようだった。
「かまない?」と、おずおずと問う。
「噛むのは敵だけだよ」笑みを消すことなく、フロースガルは答えた。
「味方は、……そうだな、ぺろりと舐めるくらいかな」
「はっは、オレも、鼻の頭を舐められたな。あの時から『味方』って見られてたって思っていいのかな」
 エルナクハが話を合わせたところで、ティレンの心はかなり傾いたらしい。黒い獣を見つめて、つぶやいた。
「クロ、ほんとに、おれとも、仲良くしてくれる?」
 当然ですよ、と言いたいのか、クロガネは鳴いて、尾を振ったままティレンにゆっくりと近付く。まだ『狼』に対する恐怖はあるのだろう、ティレンは身体を強ばらせたが、その場に踏みとどまってクロガネを待った。やがて、自分の真正面に来て、座り込み、はっはっは、と息を吐きながら尾を振る獣に、ティレンはゆっくりと手を伸ばした。その頬を、クロガネはすかさず、ぺろりと舐め上げる。
「うわ!」
 ティレンは声を上げたが、『味方は舐めるだけ』という話を思い出したのだろう、みるみるうちに表情を晴れやかにして、クロガネを抱き締めた。
「クロ、クロ! よろしく! おれと仲良くして! あはははは!」
 すっかりとうち解けた少年と獣を見て、それぞれの相棒である聖騎士達は、うんうんと頷く。
「ああ、よかった。どうやらクロガネのことを気に入ってくれたようだ」
「ま、いろいろあってよ。だが、今回はもう心配なさそうだな。ところでよ……」
 話が切り替わる。エルナクハは、この場でフロースガルを見かけた時から気になっていたことを口にした。
「一体全体、アンタらは、こんなところで何をしてたんだ」
「……ああ、そうだ。ここで冒険者達に警告を発するために、ここにいるんだ」
 獣を相棒とする聖騎士の声はとても硬く、和んでいたその場を冷めさせるのに充分な力を秘めていた。
「君たちは、この扉の向こうへ行きたいのだろうが、今は危険だ」
 フロースガルは、その身体と盾で行く手を遮るように、『ウルスラグナ』の前に立ちはだかる。
「ここから先に進むのは少し待ってくれないか」
 赤い長髪の聖騎士の顔には、困ったような表情が浮かんでいる。その顔で、『ウルスラグナ』ひとりひとりを、「後生だから」と言いたげに見つめた。
 しかし、「待て」と言われても冒険者としては困る。『危険』? そんなものは覚悟してここにあるのだ。それとも、強大な力を持つ『敵対者』でも、いるというのか。
「訳は……、私から言うことではない」
「なぜだ?」
 エルナクハの問いに、フロースガルはちらりと視線を向ける。その先にあるのは――フィプトの姿だ。どうも、フィプトの存在が、フロースガルに詳細な話を口にするのを憚らせているらしい。
 『ウルスラグナ』がさらなる言葉を口にする前に、フロースガルは話を続けた。
「どうしても、と言うなら、一度街に戻って、大公宮で話を聞いてきなさい。大公宮でも今頃、異常に気が付いていることだろう。話を訊いて――覚悟を固めてくることだ」
 その言葉は『ウルスラグナ』全員に向けたものだ。だが、エルナクハには、それがフィプトに強い指向性を示しているような気がしてならなかった。先程の視線がそう感じさせるのだろう。その関心の理由はよくわからないが。
 いずれにしても、聖騎士の表情からは、言うとおりにしなければ通さない、という意志がありありと読み取れる。
 それに……気になることが、ある。
 これ以上の問答は無意味だ、と、エルナクハは悟った。
「わーった、大公宮に行ってくる。話を訊いてきたら通してくれるのはガチだな?」
「聖騎士フロースガルの名に賭けて」
「りょーかい。じゃ、ちょっくら行ってくる」
 エルナクハはひらひらと手を振って朗らかに答えると、ナジクにアリアドネの糸の起動を促した。
 素直に従ったレンジャーの手で起動された糸が生み出す磁軸の歪みに、『ウルスラグナ』は身を投じる。
 磁軸移動の瞬間にエルナクハが見た、長髪の聖騎士の顔には、最後までかげりが落ちたままだった。

 というわけで、この日の探索開始後三十分も経たないうちに、帰還と相成った『ウルスラグナ』一行だった。
「糸、もったいないなあ。しゃーないけど」
 とアベイがぼやいた。ここのところ金銭的にきつきつになっている状況、できれば節約したいものだが、かといって、徒歩で迷宮を下りていくのもまた危険、メディックとしては二律背反のところである。
 とはいっても今回は、迷宮に踏み込んだばかりで、皆の調子に問題はなかった。鍛錬代わりに徒歩で脱出を図るのもひとつの手だっただろう。危険になったらそれこそ糸を使えばいい。だが今回に限っては、あまり時間を掛けてもいられない、そんな直感が、アベイにもあった。
 一方、エルナクハはナジクに問うてみた。
「扉の向こうに何があると思う、ナジク?」
 推測の話ではなく、扉の向こう側から何か気配を感じなかったか、と訊いているのだ。
 レンジャーはこっくりと頷いて口を開こうとした。話が始まらなかったのは、ちょうどその時、迷宮に向かう別の冒険者達が近付いてきていたからだった。彼らと軽く挨拶を交わし合った後、ようやくナジクは言葉を発した。
「……うっすらとだが、強い魔物の気配を感じた。それも複数だ。いくつかは馴染みある気配……今までにも出会ったことがある『敵対者』くらいだろうが――ひとつ、ことさら異質な気配を感じた」
「……強ぇヤツか?」
「はっきりとは判らないが……僕の勘だけで言っていいなら、たぶん、今の僕達では勝てない」
「そうか」
 エルナクハは沈黙した。怖じ気づいたわけではない、少し考え事をしていたのである。
 フロースガルと話をしていた時に『気になること』に考えが及んだ。本日の探索前に冒険者ギルドに寄った時のことだ。自身は気が付かなかったが、ティレンが言うには、何だか変な感じだったという。その時は、ちょっとした問題が引き起こされて、空気が乱れているくらいだろうな、と思ったのだが……。
 ――ひょっとしたら、案外とヤバいことになっているのかもしれねぇ。
「とりあえず、大公宮に行きましょう。何かあるようですから」
 フィプトの朗らかな声で、エルナクハは我に返った。
 そういえば、フロースガルは、随分とフィプトを気にしていたようだった。その理由は全く思いつかないが、無意味なことではないのは確かだ。
「センセイ、アンタはフロースガルを知ってたか?」
「ええと、噂は存じていました。しかし、小生は冒険者に関わるような立場ではありませんでしたから、実際にお会いしたのは今日が初めてかと……」
 思った通り、これまでの接点はまったくなかった。
 まあいいか、と黒い肌の聖騎士は思索を取りやめた。とにかく大公宮を訪ねれば何かが判るはずだ。

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