「ま、いいさ」
エルナクハの言葉は、機能と制作者、磁軸の柱に関わる双方に対する思考にけりを付けるものであった。続く言葉は、あくまでも機能に対する話のみだったが。
「アリアドネの糸さえ忘れなければ、街にゃ帰れる。そう考えれば、格段に冒険が楽になるだけで御の字さ」
「いや、そうとも言えない」
フロースガルが、心持ち声音を小さくして答えた。朗らかな表情が崩れていないところからすると、さほど深刻な話でもないように思えるが、『ウルスラグナ』一同は、思わず耳を傾ける。
「この森には、特に名前は付けられていないけど、リスに似た生き物がいてね。自分の巣を作る時に、大型の蜘蛛の巣の糸を強奪してきて使うのを好む。はっきりとは判らないけど、どうやら彼らにとってはたまらなく心地がいいようだ、蜘蛛の糸で作った巣は」
「ほう、それで?」
「最近、そいつらは、いちいち蜘蛛の巣を捜さなくても糸を得る方法を知った。人間をたぶらかすことだ」
「……なんで、そうなるのよ?」
「最近、大挙して森に入り込んでくるようになった人間という輩が、なぜか高確率で蜘蛛の糸を持っていることを、知ったのさ。おまけに、恐ろしい魔物は殺していても、自分達リスに対しては、警戒が緩むことが多い。そうなれば、愚鈍な人間ごとき、リスの素早さでいくらでも翻弄できる。人間が持つ蜘蛛の糸を、まんまと手に入れるわけだ」
「なんで、人間がそんなに蜘蛛の糸なんか持って……」
『ウルスラグナ』一同、訝しげに顔を見合わせ、あるひとつの答えに到達して、素っ頓狂な叫び声を上げた。
「あ、アリアドネの糸、か――!」
とんでもないことだ。それを取られてしまったら、冒険者としては致命的だ。周囲の魔物を歯牙にもかけないほどの強さがあればいいが、そうでなかったら、地獄を見ることになるだろう。
「糸を忘れて命からがら」とは、エトリアの冒険者の間にもあった、笑い話、兼、凄絶な体験談だ。否、実際にそれで全滅したであろう冒険者達がいたことを考えれば、もはや笑い話ではない。それどころか、きっかり準備していったとしても、それを強奪しようとする輩がいるとすれば……。
「く……っ」
強敵に出会ったような面持ちで、エルナクハはうめいた。
「そんなヤツが樹海にいるなんてな……しゃーねぇ、これから糸は必ず二本持つことにしよう……」
「ちょ、そんな単純な解決策でいいのかよ!」と突っ込むのはアベイ。
「いや、あながちバカにしたものでもない」とフロースガルが応じた。
「とりあえず、ひとつあれば、リスは満足するからね。人間も、ひとつあれば帰れる」
そこで、長髪の聖騎士は、はっはっは、と快活な笑声をあげた。
「……もっとも、別のリスに出会ってしまった時はどうしようもない。油断はしないようにすることだ」
解決策がはっきりしているからこそ、笑っていられるのだろう、と冒険者達は気が付いたのだが。
「笑い事じゃなーい!」
二人の少女、オルセルタとパラスが声を合わせた、ちょうどその時であった。
樹海磁軸を取り囲む木々の影から、のっそりと現れた影があった。四足歩行の獣の形をしたその影が、自分達の見覚えがあるものだということに、『ウルスラグナ』は気が付いた。先程、自分達をこの場所へ導いた、黒い毛の獣だ。何をしに来たと見守る冒険者達の前で、獣は、足音をほとんどさせずに長髪の聖騎士に歩み寄り、ひたりと寄り添った。くぅ、と、かすかに、甘えたような声を上げる。
フロースガルは黒い獣の体毛を梳き撫でながら、話を締めた。
「そういうわけだ。私はそろそろ失礼させてもらうよ。クロガネも来たことだしね」
「ソイツ、クロガネって名前なんだ?」
「ああ、この階で見たことがない人間を見かけたら、私のところに誘導するように頼んでたんだ。戻ってきたってことは――今日はどうやら、君たち以外には、知らない人間は来ないと判断したみたいだな」
「そっか、クロガネくん、だっけ、フロースガルさんのいい相棒なんだね」
パラスが屈み込んでクロガネを見つめながらそう言うと、フロースガルはちょっと驚いたようだった。やがて、笑みを浮かべると答える。どことなく誇らしげに見えた。
「ああ、かけがえのない相棒――これまでずっと、生死を共にしてきた仲間だよ」
ぽんぽん、とクロガネの背を叩き、聖騎士は『相棒』と共に歩み去ろうとした。途中、足を止めて振り返る。
「そうそう、君たちがその柱と取り違えた『樹海磁軸』だが。さらに奥まで進めば見ることもあるだろう。それまではその柱を遠慮なく利用するがいい」
そう助言すると、再び前を向き、フロースガルは、黒い獣と共に、いずこかへと立ち去っていったのであった。
「フロースガル……か。噂通り、デキるヤツみてぇだな」
長髪の聖騎士が去った道を見据えながら、感心したように、エルナクハはつぶやいた。
「うん、あの人なら、第二階層あたりに着いててもおかしくないわよね」
そう妹が応じるところには、首を横に振る。
「着いててもおかしくない? いいや」
一呼吸置いて、続きを口にした。
「十中八九、到達しているぜ、アイツは」
それは確信であった。ハイ・ラガード樹海の構造がエトリア樹海と酷似していれば、という条件付きではあるが。彼の者は樹海磁軸をその目で見たかのように語っていたが、もしも二つの世界樹の迷宮の構造が似通っているならば、樹海磁軸には、第二階層に到達しなければお目にかかれない。そして、フロースガルに関する噂を除けば、冒険者の公募以来、第二階層まで辿り着いている冒険者は皆無だ(もちろん、着いた後、帰還する前に全滅した、という例は除く)。
ちなみに、それ以前を勘定に入れれば、公国の衛士隊や、それに協力した冒険者が、第二階層まで到達しているはずだ。が、公国からは、「違う視点で見た樹海の情報がほしい」という事情から、余程のことがなければ情報が流されることはないし、協力した冒険者とやらから流れてきた情報もない。
つまるところ、フロースガルという聖騎士は、自らそれを目にする以外に、ハイ・ラガードの樹海磁軸の実存を確かめる術はなかったはずなのだ。それは、彼ら『ベオウルフ』が第二階層の地を踏んだことを示している。
「二人で第二階層にまで行きやがるとはなぁ、すげぇやつらだな」
「そうは、見えないが」ぼそり、と、ナジクがつぶやく。
水差すなよ、と言いたげにエルナクハはレンジャーを見つめたが、相手が思いの外に深刻な顔をしていたので、二の句が出てこなかった。金髪の野伏はしばらくの沈黙のうちに考えをまとめたか、慎重に、言葉を発する。
「……第二階層に辿り着くほどには、強い。それは、認める。ただ……あの二人だけで、とは、思えない。彼らを含めて、同じぐらいにできる連中が五人揃っていれば、疑問の余地もないんだが……」
数は力だ。数だけいても仕方がないが、選りすぐりの数が揃っていれば、少人数の時の数倍の力を発揮することもざらである。冒険稼業で生死の狭間を渡り歩いた『ウルスラグナ』もまた、それを痛いほどに思い知っている。
「まあ、『今は』二人じゃないのかな。第二階層がキツイから、みんなケガして、元気なヤツだけで慣れた第一階層でちょっと訓練とかよ」
「それならば、説明がつかなくもないが……」
アベイとナジクが言葉を交わすところに、パラスが口を挟んだ。
「で、どうするの? やっぱり、一度帰る?」
「そうねー……」
オルセルタが、磁軸の柱に似た色の輝きを持つ瞳で、螺旋を描いて上る光の柱を見つめながら、うなった。もともと、この柱が樹海磁軸だったら、一度戻るつもりではあった。目の前の柱も、現在地から樹海の入り口に戻る力はなくとも、冒険の再開の際に、この場に戻ってこられる、という、有用な力があるという。
とりあえず、手を伸ばして触れてみる。ぽう、と光が強くなった。心なしか、光の噴出する勢いも強くなった気がする。
「どうする、兄様?」
決断を振られたエルナクハは、即断するかと思われたが、なぜかためらっている。すでに手の中にアリアドネの糸を収め、もてあそんですらいるのに、だ。どうした、と言いたげな仲間達の視線を受け、ギルドマスターは、ばつが悪そうな笑みと共に言葉を発するのであった。
「なぁ、アリアドネの糸が大好きな、リスみたいな生き物って、どんなヤツなんだろうな?」
「いらん興味は持たなくていいッ!」
即座に、起動した糸の力で現れた磁軸の歪みに、寄ってたかって引きずり込まれ、名残惜しげな叫びと共にその場から消えることになるのだが。
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