←テキストページに戻る
ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第一階層『古跡の樹海』――栄えし獣たちの樹海・18

 皇帝ノ月十三日。
 この日の昼頃、『ウルスラグナ』は三階へと到達した。
 ハイ・ラガード樹海がどれだけの規模かは判らないが、少なくとも、まだまだ序盤、というのは、誰もが感じていた。入国試練を突破した日の夜に、冒険者ギルドの長から聞いた話を考えれば、少なくとも六階以上――エトリアにあった世界樹のように、一階層が五階立てで構成されていればの話だ――はあるはずだが、そもそも天を突くほどの大樹の中にある迷宮が、そこらの建物程度の階数しかなかったとしたら、興醒めもいいところだ、とエルナクハは笑う。
 巣くう魔物はますます強くなっているだろうから、笑い事ではないのだが、新たな階層に辿り着いた冒険者にとっては、それすらも、自分達が着実に前へ進んでいる証のようで、苦しくも嬉しく思えてくる。
 だが、この階に辿り着いてからの一本道を東に十分ほど進んだ、その時。
 唐突に感じ取れた気配に、冒険者達は戦意を刺激され、とっさに武具に手を掛けた。
 その気配は、狼に似た黒い獣の姿をしていた。低いうなり声と共に、鮮やかな緑の下草を踏みしめ、『ウルスラグナ』の前に、ひらり、と現れた。悠然としたその様子とは裏腹に、隙が見あたらない。
 冒険者達は背を冷や汗がしたたり落ちるのを感じた。今、それぞれが構えている武具、それをもって戦闘態勢に移行するより早く、全員が喉笛を噛み切られるだろう。目の前の獣には、それができる。
 だが、同時に、獣はそうしないだろう、ということも感じられた。冒険者達を見据える黄金の瞳には、ただの獣とは一線を画した、智慧の光が見て取れたのである。それはまるで、人間のような。少なくとも、理知的な判断を下し得る存在である、と確信できるような。
 先頭に立っていたエルナクハは、ふ、と力を抜くと、剣の柄から手を放し、盾を下げる。呼応するように、隣のオルセルタも剣を鞘に収め、後方のアベイは護身用の杖を下げ、パラスは呪いの鐘鈴を胸元に戻した。ナジクは最後まで警戒を解かなかったが、やがて、軽く溜息を吐くと、矢を弓弦から外した。
 値踏みするように、その様子を見つめていた黒い獣は、一同の対応に満足したのか、うぉう、と吠えた。そして、くるりと顔を背ける。しかし、視線は冒険者達に向けられたままである。
 その意図を把握しきれずに、冒険者達は獣の鼻が向いた方向を見た。
 獣に気取られたので、周囲のことは把握できていなかったのだが、現在地はちょうど三叉路であった。冒険者達が来た西方向、獣の背後の東方向、そして、皆が視線を向けた北方向に道がある。
「北に行け、というのか?」
 ナジクが漏らした言葉に答えたつもりか、獣は再び高らかに吠え、冒険者達をじっと見つめる。
「どうする?」
 アベイの問いに、エルナクハは髪を軽く掻きむしった。
 目の前の獣は、少なくとも敵というわけではなさそうである。北に行くのも全く問題はない。獣に指図されずとも、いずれは足を踏み入れることになるだろうから。
 問題は――何故、指図するのか、である。
 北に踏み込んだら眷属達が牙を剥いて待っている?――ありえなくはないが、可能性は極めて低い。そうしたいのなら、普通の獣のように、敵意を向きだし、吠えたて、追い込めば済むことだからだ。
 となると……。
「オマエをここに遣わしたのは、誰だ?」
 エルナクハは獣に近付くと屈み込んで、同じ目線を確保した。そうして存在に気が付いた、獣の付けている首輪は、ただの使い込まれた首輪にしか見えない。だが、なんとなく、それだけでは片付けられない何かを感じる。
狼神王ヌブルィークの遣い……なーんてこたぁ、なさそうだがな」
 聞き慣れない単語に首を傾げる仲間達には、妹が、自分達の神話の『獣神』であることを手早く説明する。
 実際に獣をこの場に使わしたのが神であろうと人間であろうと、それを人語を話さぬ獣自身に答えることはできない。代わりの返答は、舌を伸ばし、ぺろりとエルナクハの鼻先を舐め上げることであった。「わぷっ」と、突然のことに怯む聖騎士に、獣は一声、吠え立てた。「馬鹿なこと言ってないで、とっとと行きなさいよ」と言っているようにも感じられた。
「わかった、わかったよ」
 エルナクハは親指の腹で舐められた鼻先を拭うと、ゆっくりと立ち上がった。獣の金眼が、その軌跡を追うように動いた。
「……たかが獣の指示に従うのか?」
 ナジクが不満げに言い、その言葉を理解したかのように、獣が低いうなり声を静かに上げる。
 エルナクハは、「勘弁してやってくれ」と言いたげな瞳を獣に向けながら、言葉は仲間達に向けた。
「まぁ、ニンゲン、よく獣に指示しながら獣を狩ってるもんだしよ、逆に獣に狩られそうになる経験は、樹海じゃ充分すぎるほど味わわされてるし、だったら『獣に指示される』経験も、たまにはアリじゃねぇかな」
「変な言い訳」苦笑いしながらパラスが応じた。
 ナジクは、ギルドマスターが決めたのならば、それ以上の異論を唱えるつもりはないようであった。それを感じ取ったのか、獣もうなるのをやめ、静謐さを湛えた金色の瞳で冒険者達の趨勢を見守っている。
「ま、決まったんなら、とっとと行こうじゃないか」
 アベイが声を上げたのを、ちょうどいいきっかけとするかのように、冒険者達は獣に背を向けた。否、ナジクはあからさまな警戒を続けているし、他の者達も、獣が、敵対行為ではないにしても何かしらの動きを見せた時に備えて、秘やかに注意を向けている。が、そんなことは獣にはお見通しで、冒険者としては当たり前、と思っているのだろうか。気を悪くした様子もなく、ただ、ちゃんと北に向かうかどうかを確認しているのか、じっと人間達を見据えているだけであった。
 エルナクハは、仲間達を先に行かせると、獣に向き直った。
「……最初に敵意を向けたりして、悪かったな」
 冒険者であるからには、樹海の中の危機に備えなくてはいけない。気配がすれば反射的に武具に手をかけることは当然の話。結果的に相手が敵意のない冒険者や衛士だったとしても、とっさに武器を向けた非礼は、余程でなければ「お互い様」として気にしないのが暗黙の了解であった。ゆえにエルナクハがここで詫びる必要はない。今詫びたのも、必要にかられて、というわけではなく、前記の状況に出くわした時にも、たまには「悪ぃ悪ぃ」と口にすることがあるという、その程度の話。
 黒い獣は、声にしての返事こそしなかったが、「気にしてない」とばかりに、ばっさりと尾を振った。
 
 北へ続く道は比較的幅広で、戦闘になっても味方同士の間に困ることはないだろう。幸いにも魔物と出くわすこともなく、十分も歩かないうちに、『ウルスラグナ』は拓けた場所に足を踏み入れた。
 下級貴族の屋敷の庭ぐらいの広さはあるだろうその広場には、冒険者達が来た道の他には、南東の隅に、南へと進む道が一本、伸びているだけである。その道を通れば、先程の獣に塞がれた道へと復帰することができるかもしれない。
 しかし、それ以前に、一同の目を引くものがあった。
 広場の南側、三方を木々に守られるかのように立ち上るのは、薄ぼんやりと輝く光の柱であった。黄金色の螺旋を描いて行く先は、『空』の彼方にあり、果ては見えない。冒険者達は『それ』に見覚えがあった。エトリアでの冒険で、階層の最奥に座する強敵との戦いに疲れ果てた先に見いだした、ぼんやりと光る光の柱。その名を『樹海磁軸』と呼ばれる、磁軸の流れが目に見えるものとなった存在。
 アリアドネの糸は、その力で、磁軸を少し歪め、一時的に流れを人間の手の届くところに引き寄せるのだが、目の前にあるものは、樹海を流れる磁軸の一部が、たまたま人間の目につく場所に吹き出し、光を帯びて見えるのだ。
「せっかくだから、戻るか?」
 アベイが声を上げた。ここまでの探索でメディックの精神力はだいぶ消耗している。とはいえまだ余力はあるし、メディカも用意しているし、糸もあるから、ここまで来た。だが、樹海磁軸が使えるならいい機会だと判断したのだろう。エトリアのものと同じ機能を持っているのなら、この立ち上る磁軸は、街に戻るだけではない、再び樹海に踏み込んだ時に、この場に戻ってこれる力があるはずだ。探索は格段に楽になる。
「……いや、待て」
 冷徹な瞳に磁軸の光を反射させ、ナジクが静かに応じる。
「何か変だ」
「変? 変なところは見付けられないけれど……」
 オルセルタが、自分の瞳と似た色を帯びる樹海磁軸を、しげしげと眺めた。やがて、ぽふ、と手を叩く。
「あ、色が違う」
「あ、ほんとだ」
 ダークハンターの隣で、カースメーカーの少女もまた、気が付いたようだ。
 エトリアで見かけた樹海磁軸は、紫色の光を帯びていたのだった。
 その色の違いが何を意味するのか、冒険者達にはわからない。だが、用心する必要はあるかもしれない。アベイの疲れのこともある、この機会に一度、糸を使って街に戻り、休息がてら、先達冒険者達から情報を得ようか、とエルナクハは考えた。
 ちょうどその時であった。
 気配を感じた。一同は、とっさに武具に手をかける。しかし、すぐに緊張を解いた。武器を構える前に声が続いたからである。
「新しく公国を訪れたエトリアの冒険者か。噂は聞いている」
 『ウルスラグナ』の目の前に現れたのは、聖騎士風の若い男であった。おそらくはエルナクハとさほど違わない年だろう。赤い長髪が、樹海を吹く風になびいている。樹海の木漏れ日を浴びて鈍く輝いている鎧と、携えた大きな盾に記されている紋章は、竜をデザインしたものか。その紋章が示す地域に覚えはないが、あるいは家紋か、自分で考えた自らの紋章なのかもしれない。
「あなたは……?」
 オルセルタの問いかけに、男は、聖騎士らしい堂々とした声音で、己が名を明らかにしたのであった。
「私は、フロースガル。ギルド『ベオウルフ』のものだ」
 ギルド『ベオウルフ』。
 その名は、ハイ・ラガードに逗留し始めて間もない『ウルスラグナ』とても、よく耳にしていた。
 曰く、ハイ・ラガードが一般冒険者を公募し始めた時からの古株――といっても公募自体が半年も経っていないのだが――で、並み居るギルドの中でも飛び抜けた実力の持ち主だという。そのギルドマスターについては、冒険者としての腕をとっても、人間としての人也をとっても、悪い噂は、せいぜいやっかみくらいしか聞かない。他のギルドの女性冒険者の間でも、ひそやかに『ファンクラブ』なるものが結成されているとも聞く。ちなみにマルメリが誘致を受けたらしいが、なにしろ当の『ベオウルフ』のことを詳しく知らなかったので、大層困り果てたそうだ。
 さらなる噂によれば、すでに第二階層にまで到達しているともいう。それが事実なら、その、名うての冒険者が、どうしてまた、第一階層に留まっているのか。素材の採集や、特定の魔物の討伐、新しいギルドメンバーの訓練など、考えられる理由もなくはないが……。
「ハイ・ラガードの世界樹の迷宮に踏み込んだばかりの君たちだ、『これ』のことは知らないだろうと思ってね。一つ、教えてあげようと思って待っていたんだ」
 フロースガルと名乗った聖騎士は、邪気の感じられぬ、人のよい笑顔を向けてくる。もっとも、邪気はなくとも悪戯っ気は備えているようで、心を読んだような彼の的確な返答に慌てる『ウルスラグナ』を見つめる様は、楽しそうであった。
 ところでフロースガルは『あれ』と口にしたが、同時に、とあるものを指していた。長髪の聖騎士が姿を見せる前に『ウルスラグナ』一同が話題にしていた、『金色の樹海磁軸』を。
「あれは、公国では『磁軸の柱』と呼ばれている」
「磁軸の……柱?」
 『ウルスラグナ』一同は声を合わせた。樹海磁軸とどう違うのか。『公国では』そう呼ばれている、というからには、呼び方が違うだけで同じものである、と判断できなくもないのだが……否、彼は「ハイ・ラガードの世界樹に踏み込んだばかりなら知らないだろう」という主旨のことを口にした。つまり、それは「エトリアにはなかっただろう」ということだ。
「私はこの手の仕掛けを見たのは、この樹海迷宮が初めてなのだが、不思議なものだね」
 フロースガルは腕を組み、うんうんと頷いた。そのしぐさの一つ一つが決まっている。ファンクラブなるものができても不思議ではない、と納得できるほどに。
「この光に一度触れてさえおけば、街に戻った後、再び樹海に踏み込む時に、一瞬でこの場に戻ってこられるんだ」
「ほう、そいつは便利だな」
 エルナクハは、自分も、うんうん、と頷きながら答えた。
「だがよ、フロ……えーと、なんだっけ、スマン」
「フロースガルだ。結構覚えられにくい名前だ、気にしてはいない」
「悪ぃな。で、だけどな。それと、『樹海磁軸』とは、どう違うんだ?」
「『樹海磁軸』――ああ、やはり、エトリアにもあったというのは本当か」
 フロースガルは一度大きく頷くと、話を続けた。
「違いは一つだけ、磁軸の柱には、触れた者を樹海の入り口に運ぶ力はない」
「なるほど」
 いわば、『樹海磁軸』の機能縮小版といったところか。
「しかし、面倒なコトするぜ」
 エルナクハは磁軸の柱に近付き、周囲を回りつつ眺めながら、ぼやくように口にする。
「まったく誰が作ったんだか知らねぇケドよ、その程度の違いなら、普通に樹海磁軸をバーンと設置しときゃいいのによ」
「誰が作ったかなんて、訊かれてもわからないさ」
 フロースガルは苦笑いしつつ応じた。それには『ウルスラグナ』は誰も応えなかったが、その内心では、高確率で磁軸の仕掛けを作ったと思われる者のことを、思い浮かべていた。
 ――それは、人間だ。数千年の昔に存在していた、『科学』なるもので神を越える力すら備えていた、そのために世界をこのようにしてしまった、前時代の人間。
 やはり、空飛ぶ城は存在し、それは前時代の遺物で、そこから下りてきたと伝えられる者達は前時代人なのか。

NEXT→

←テキストページに戻る