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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第一階層『古跡の樹海』――栄えし獣たちの樹海・15

 黒い肌に黒い髪、黄金の装身具、紗を申し訳程度にまとう吟遊詩人は、リュートを手に取り、準備運動よろしく分散和音アルペジオを軽く奏でた。椅子ではなく、酒場の奥の舞台に緋毛氈を敷き、その上で結跏趺坐、この世ならざるものを見据えるような菫色の半眼に、緩やかな笑みを浮かべる様は、東方に古くから伝わる天人のようでもあった。残念ながら、酒場の主人には、東方の神魔の知識はなかったけれど、それでも、吟遊詩人の姿にただならぬものを感じ取り、軽口一つ叩くことなく、次なる動きを待つ。
 やがて、紅を引いた唇が艶めかしく動く。しかし、喉奥から流れ落ちる声は、淫靡たるものではなく、水晶の洞窟の奥で神を称える歌を謳う巫女のもののように響いた。

果てしなく 続く翠 踏みしめ
我ら 真実を求める
何も知らぬ頃に 戻れなくても
手にした夢 たぐり寄せ 前を見る
永久とこしえに 大地を抱く
神を断つは 

数知れぬ 祈り越えて
真実は 悲しみをささやく
願いに 溢れた 石の揺籃ゆりかご
消えた生命は 何も語らない
されど 森は さざめく

 割れるような満場の拍手は起こらなかった。ただ一人だけのそれが、ぽん、ぽん、ぽん、と、吟遊詩人の耳に届く。それもそのはず、今の『鋼の棘魚亭』には客はおらず、いるのは主人と吟遊詩人だけなのだ。
「そいつは、おまえらの経験から来た歌か?」
 主人の問いに、吟遊詩人――冒険者ギルド『ウルスラグナ』のバード・マルメリは、曖昧な笑みと曖昧な言葉をもって応えた。その口調は、今し方、朗々と響く神韻を紡いでいたとは思えない体たらくである。
「内緒よぉ。ご想像にお任せするわぁ」
「なんつーかよ、こう言っちゃ悪いが」と酒場の主人は幅広の肩をそびやかす。「その歌も悪かぁねぇんだが、エトリアの英雄ならそうらしく、自分の武勲を、バーン、と力入れて歌ってくれねぇのかよ?」
「歌うわけないでしょぉ」バードの曖昧な笑みが広がった。「別にあたし達、自分達のことを『英雄』なんて思ってないものぉ。あたし達はただの冒険者よぉ。それに、ハイ・ラガードじゃ、まだまだひよっこだわぁ。オヤジさんもそう言ってたじゃない?」
「まぁ、そうだけどよ」と主人は口ごもり、そこに畳み掛けるようにマルメリは言い募った。
「だから、あたし達の話は、自分では謳わないわよぉ。ほんとは人に歌われるのも微妙だけど、『歌うな』って言えないものねぇ」
 それ以上、詩吟の話をする気がないのを、マルメリの態度から見て取ったのか、主人は話題を変えた。
「ところでよ、二階の地図も大分埋まったらしいって聞いたぜ。ひよっこのくせにいいペースじゃねぇか!」
 『ウルスラグナ』がこの街にやってきてから十日以上が過ぎている。迷宮一階から二階へは、試練を突破した次の日に到達できたが、それからがなかなか進まなかった。
 理由は簡単、魔物が強かったのである。特に、歩き回るサボテンのような魔物には、何度苦汁をなめさせられたことか。二階に上がったばかりの頃には、ダークハンターのオルセルタもその前で膝を付き、ツキモリ医師の渋い顔を目の当たりにする羽目になった。その翌日には、雪辱を望む彼女と共に、エルナクハに命じられてソードマンのティレンが同行したが、彼もまたサボテンに叩きのめされた。「やっぱりおれ、弱くなってる」としょげる彼を、オルセルタが懸命に慰めたものだ。ちなみに、その時マルメリは、フィプトと入れ替わりで探索班に入っていた。
 そんなサボテンだけでも腹一杯なのに、二階には恐ろしい魔物が巣くっていたのである。
 それは鹿の群だった。エトリアの樹海の浅層にも巣くっていた、凶暴な群だ。もっとも、普段は縄張りを巡回しているだけで、余程近場で顔を合わせない限りは、わざわざ追ってきたりはしない。そこだけは救いといえよう。それでも、先へ進むには縄張りに踏み込む必要もあり、一度ならず、狂乱に陥った角鹿と顔を合わせてしまい、這々の体で逃げ出す羽目になったものだ。
 彼らは『敵対者f.o.e』に分類される魔物であった。もともとはエトリアで、他の魔物達と比較して、どう考えてもその階では場違いな力を持つ者に与えられた、『称号』である。そういったものの殺気を、磁軸計は捉えることができた。捕捉した殺気の動き、すなわち角鹿達の縄張りの巡回行動を把握することができたからこそ、『ウルスラグナ』も、ようやく二階を突破するところまで歩を進めることができたのだ。
 それでも、酒場の主人に言わせれば『いいペース』だという。
「都合のいいように、『英雄』と『ひよっこ』を使い分けるの、やめてくれないかしらねぇ」
 さほど機嫌を害してはいないのだが、わざと渋面と低い声を作って、マルメリは答えた。
 主人が微妙な表情をするところに、明るい声で続ける。
「ま、それはそれとして、見直したでしょぉ? ちょっと困ったことがあって、三階に着いた後はゆっくりになるかもしれないけどねぇ」
「困ったこと?」
 首を傾げる主人に、マルメリは、苦笑いを浮かべて応じた。
「お金がないのよぉ。魔物に倒されれば病院代がかかるぅ、武具を揃えれば商品代がかかるぅ」
 歌うように声を上げ、戯れに、じゃらん、と、分散和音を爪弾く吟遊詩人。
「だけど魔物が強すぎるぅ、採集場所にも出てきおるぅー」
「はっはっは、お前らもあのデカい花に出くわしたか!」
「出くわしたか、じゃないわよお、反則よぉ、あれは!」
 マルメリは、先程の歌が別人の吹き替えだったかのように、声を荒らげた。
 しかし彼女の憤懣ふんまんもさもありなん。ハイ・ラガードが厳しいのか、エトリアが特別だったのか、それはわからないものの、とにかく迷宮での素材採集の途中で、探索班は魔物に襲われた。まるで冒険者を待ちかまえていたかのように、地面から盛り上がるのは、毒々しい紫色が目を引く、大輪の花。『外』の世界の南方にあるという、世界で一番大きな花になぞらえ、冒険者達の間では『ラフレシア』と呼ばれるそれは、毒の花粉をまき散らし、口のような芯部から冷気を吐き出す、恐るべき魔物だったのだ。皆を守るように前線に立ちはだかるティレンが、あっという間にズタボロにされるのを、誰も止められなかった。必死に逃走を試みることしかできなかったのだ。
「ああ、あの坊主が、かぁ……」
 赤毛のソードマンを思い出してか、さすがの主人も神妙な顔をした。その日、這々の体で街に帰り着いた一同がティレンを薬泉院に運び込もうとするのを、手助けしてくれたのは、気まぐれで世界樹の入り口を見に来ていた酒場の主人だったのである。
「変な風にケガ残らなかったか、あの坊主? ありゃ、鍛えてないヤツだったら、確実に死んでるケガだぜ」
「ティーくんを甘く見ちゃだめよぉ。形はちっこいけど、いつも、アタシ達の前で魔物と斬り結んでたんだから」
「だけどよ、あのケガじゃなぁ……」
「もうすっかり元気よぉ」
「はぁ?」
 酒場の主人が呆れた声を出すのも当然である。ティレンの怪我はそれはひどいものだったのだ。仮に戦闘に関わるすべての出来事を数値化できるとしたら、ティレンがラフレシから受けた痛手は、彼の耐久力の優に倍に比しただろう。
 そんな状態からティレンが立ち直れたのも、薬泉院のツキモリ医師――『エトリアの奇跡』とも呼ばれた超執刀医師キタザキの薫陶を受けた、若き医師の腕が為せる技のおかげであった。とはいえ、ツキモリ医師に言わせれば、自分の助手やアベイの手伝いがなければ、たぶん助けきれなかっただろう、とのことだった。なによりも、ティレン自身の生命力と精神力いきるいしがなければ、どんな治療も無駄だっただろう、と。
 いずれにしてもティレンが助かったのは本当で、大怪我からさほどの日も経っていないというのに、今はすっかりと元気でいる。しかも、実際には治療の次の日から元気で、仲間達全員が寄ってたかって止めなければ、樹海探索に同行しかねない勢いだったのである。
「まぁ、さすが冒険者、ってことにしておくわ」
 少々たじろぎ気味に、主人は話を締めにかかった。「が、新入りの常とはいえ、薬泉院を頼ってばかりじゃ、金もおぼつかなくなるわなぁ。ってことで、だ!」
 がんがん、と、主人の傍の壁が叩かれる。その壁には、羊皮紙や漉紙、ごく稀にそれ以外のものに記された、いくらかの形式に則った文章が、ピン留め(稀に違う方法もある)にしてあったのだ。
「お前らもそろそろ、ここの依頼のひとつでも受けてみろや。お前らの力を必要としているのは、樹海開拓だけじゃねぇんだ。お前らにもまとまった金が入る。悪くねぇと思うんだがな」
 概して酒場というものは、酒好きが酒を飲みに来る施設、というだけの存在ではない。その常連達の力を当てにした者達が、心の戸口を少しばかり開けて、困り事の解決を願う場所でもある。『棘魚亭』の主立った客は冒険者で、集う依頼も、当然ながら、冒険者の力を当てにした、魔物退治や、樹海内にある素材の入手であった。
 『ウルスラグナ』は、とりあえず、『森の石清水を汲んできてほしい』という依頼を受け、完遂したのだったが、今のところは、それっきり、酒場の依頼に手を出そうとはしていない。別に酒場に含みがあるわけではなく、単純に、樹海の先へ先へと歩を進めることだけが、苦しくもありながら楽しかったのである。つまりは、他のことが見えていなかったのだ。
「ま、そんなわけでぇ」
 マルメリは、ぼろろん、と弦を爪弾き、蠱惑的な笑みを主人に見せた。
「もう少し、我慢しててん。今はちょっと、よそ見をするのが難しいんだと思うわぁ」

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