奥に泉を擁する細い脇道を脱出し、分岐点まで止まることなく遁走した『ウルスラグナ』は、北の方の拓けた場所に足を踏み入れた。ただし、それ以上進むことはせず、その場に野営地を張る。野営、といっても、大仰な道具は持ち込んでいないから、つまりは簡単な休息の場を作っただけである。
地面の上に敷かれた敷物に、傷ついたオルセルタが横たえられた。クローラーの顎爪に貫かれた場所は赤く染まり、端から見ているだけでも痛々しい。これでも急所は外れているのだ。
「なにバカなコトしやがった! オルタ!」
てきぱきとアベイが応急処置をする傍らで、エルナクハは妹に怒声を浴びせる。もちろんそれは、怒るというより心配ゆえである。兄の激しい声に揺り起こされたか、ダークハンターの少女は、うっすらと目を開けた。瞼の下の琥珀の瞳には、輝きがない。
「ごめんね、兄様、でも、だって」
身体の痛みに耐えながら、途切れ途切れに、少女は訴えた。
「わたし、兄様が倒れるのが、イヤだった」
「そりゃ、あの芋虫にかかりゃ、今のオレだってヤバかっただろうけどよ……」
だけどよ! とパラディンは掌底で地を打つ。
「オレは聖騎士だ! 『百華騎士団』の『紫陽花の騎士』だ! いや、今は『ウルスラグナ』のギルマス様だ! それがカラダ張らずに誰にカラダ張らせろっていうんだよ! 痛いのもキツイのも覚悟完了済みだ! オマエなんかがしゃしゃり出るんじゃねぇ!」
「わかってる、わかってるわよ……!」
でも、でも、だけど、と、銀髪の少女は訴え続ける。
「兄様はあんなに強かったのに。エトリアの三竜のブレスだって、兄様の盾の前じゃただの溜息だったのに。なのに今の兄様は、毒吹きアゲハ相手にも辛そうで、倒れそうで……立った時にも倒れそうになってて……」
あれを感付かれたか、と、エルナクハは内心で舌打ちした。
妹が、兄たる自分が傷つくことにことさら敏感なのは、前々から知っていた。それは幼い頃の自分の失敗に起因する。妹守りたさに、見境なく危険の前に飛び出して、結果、彼女の目の前で生死を彷徨ったことがあるのだ。
それでも、エトリアで冒険者となり、妹の前で倒れることも茶飯事となった以上、彼女ももう慣れたものだと思っていた。
たぶん、だが、妹も、エトリアでは割り切っていたのだと思う。大概の魔物には労せず勝てるようになり、苦戦するのは、それこそ人間の間では『伝説』と扱われるような化外のものばかり。こればかりは、酷く傷つくのもやむなし、と。だが今は、エトリアでは楽に勝てるようになっていたはずの輩にも後れを取りそうになる。ブランクがある以上、それはそれで仕方がない、と頭では思っていたのだろうが、兄たる自分が無様さを悟られてしまったが故に、こんなことになってしまった。
そう考えると、それ以上怒鳴る気力も失せた。
「もう、いい。黙れ。少し休もう。な」
銀色の髪を梳き撫で、オルセルタが再び目を閉じるのを確認すると、エルナクハは処置中のアベイに視線を転じ、無言で問うた。メディックは首を横に振る。表情が軟らかいところを見ると、絶望的、というわけではないのだろうが。
言葉で補足する必要を感じたか、アベイは口を開いた。
「生命の心配はもうないさ。でもな、このまま放っといていいってわけでもない」
応急処置は問題なく終わった。少し休めばオルセルタは目を覚ますだろう。そのときに自力でどうにか移動できる程度には回復しているか、誰かの手を借りなくては歩くこともできないか。それはまだ判らない。いずれにしても、戦場の激しい動きに付いていけるほどの回復は、望めない。
敵意に溢れたこの樹海で、そんな者を抱えながら探索を続けることの無謀さは、言うまでもないだろう。もっと経験を積んでからならまだしも、少なくとも今は、一人の欠けが戦闘力の大幅な低下となってパーティに跳ね返る。まして彼女は前衛なのだ。エルナクハの、そして、先程から前衛を引き受けてくれているナジクの負担は、ことさらに大きい。
何よりも、エルナクハにしてみれば、特にナジクには申し訳なく思うものの、自分達の負担よりも、妹の苦痛が続くことの方が心配だ。肉体的なこともそうだが、精神的な方面でも。今の妹の心境では、自分が戦えないまま味方の苦戦を目の当たりにすることには耐えられまい。
肉体的な問題については、アリアドネの糸があれば、街に戻って権威の治療にすがることもできる。アベイの薬学研究がハイ・ラガードの薬剤でも通じるほどに進んでいれば、この場でもっと立ち入った治療ができるだろう。だが、今はどちらも望めない。できることと言えば。
「あ」
エルナクハの脳裏に何かが閃いた。慌てて突っかかり気味にメディックに声を掛ける。
「ユースケ、あれ、あれ! ネクタルネクタル!」
いい思いつきをした子供が親を必死に呼ぶように――否、『ように』ではなく、ほぼそのままで――、腕をぶんぶんと振るエルナクハ。
「あ、そうか」
言われてアベイも思い出した。つい先程、前時代のものと思われる箱の中から、試練監督役の衛士が用意したらしいネクタルを手に入れたことを。いそいそと医療鞄から預かっていたネクタルを出し、エルナクハに手渡す。
パラディンは早速、妹にその薬を飲ませようとしたが、封に手をかけたところで、その動きが止まった。
……ここでこの薬を使うのが、正しいことなのだろうか?
ただのパラディンであるエルナクハだったら、こんなところで躊躇いなどしなかっただろう。しかし彼は『ウルスラグナ』のギルドマスターだった。いつもはそんなことは深く考えず、自分が最善と思ったことを突っ走る彼だったが、だが、先程妹に対して自分がギルドマスターであることを宣告したがゆえだろうか、少し考え込んでしまった。
今の『ウルスラグナ』にとって、ネクタルは貴重品だ。
シトト交易所の寂しい商品棚を思い浮かべる。あの棚にネクタルが並ぶ日は、いつになるのか。それを『ウルスラグナ』が手にできるほどに供給が安定するのは、いつになるのか。
そんな状況の今、迷宮探索の入り口も入り口であるここで、このネクタルを使ってしまっていいのか。
試練を乗り越え、本格的に迷宮探索に乗り出せば、仲間が倒れる事態などいくらでもある。今回のように逃げられない時もあるはずだ。そんなとき、この一本のネクタルが――消えそうな生命と壊れそうな身体を短時間で癒してくれる霊薬が残されていれば、それは崩壊しかけたパーティの光明となるかもしれない。それを今使ってしまうのは、後々の危機からの脱出口を塞ぐことになりはしないか。
だが、エルナクハはついに、震える手でネクタルの封を切った。強い香りを中から漂わせる瓶を傾ける。生命の雫が、オルセルタの、血の気を失った唇を湿らせ、わずかな隙間からその体内に染み入っていく。
ぐったりとしていたダークハンターの身体が、ぴくんと震えた。ネクタルが彼女の身体に備わった自己回復力を大幅に引き上げているのだ。紛うことなき霊薬の力に歓喜しつつ、瓶の中身をすべて流し込むかのように、エルナクハはさらに大きく瓶を傾けたが、不意に、その手首を後ろから何者かに掴まれた。
――使うなっていうのか!?
エルナクハは激昂しかけたが、辛うじて感情を抑え込んだ。自分も先程葛藤していた事柄を、仲間達も考えていた、ということだ。それが、目の前で断りもなくネクタルを使われたら、止めたくもなるだろう。しかし――!
エルナクハはゆっくりと振り返った。自分の手首を掴んだのがアベイだったことを知る。エルナクハの想像とは違って、その顔は、エルナクハの行動を責めるのではなく、呆れているような表情を浮かべていた。
もう片方の手に汚れのない布を携え、メディックは、やれやれ、と言いたげに肩をすくめた。
「何寝ぼけてんだよナック。傷が酷いんだから、全部飲ませちまうんじゃなくて、外からも当てた方がいいだろ」
「悪ぃ、そうだったな」
メディカやネクタルといった体力回復薬は、内服と塗布の両用に使える。毒のダメージが酷ければ飲ませた方がいいし、傷が酷い場合はそちらにも塗布した方が効果的である。そんなことは冒険者としては基本的な知識なのだが、うっかりど忘れしていた。
「ほら、ぼけっとしてないでよこせ。俺がやってやるから」
笑顔でネクタルを奪い取るアベイと、心配そうに見守るナジクやフィプト。彼らの顔を見て、エルナクハは、自分の妹を自分と同じように心配してくれた仲間達に、いたく感謝した。
ネクタルの効果は劇的で、オルセルタは、支えなく歩き回れる程の体力を取り戻した。戦いにも参加できそうではあったが、傷口の痛みに時折顔をしかめる妹を見て、エルナクハは仲間達に探索続行を指示しながらも、今回の探索ではこれ以上魔物が出ないでほしい、と大地母神に祈らずにはいられなかった。
野営の場となった拓けた場所からは、西に道が延びていた。真っ直ぐ進めれば樹海迷宮入り口に戻れる計算だが、行き止まりになっているかもしれない。そうだとしたら、今のところは文字通り八方塞がりだ。どこかで、無理に押しひろげれば通れる茂みを探し当てられなかったのかもしれないし、あからさまに開いた道でさえも、うっかり見落としたのかもしれない。
「どう思う、ナジク?」
エルナクハは隣を歩くレンジャーに疑問を投げかけたが、ナジクは首を振った。
「隠された道はないと思う。それを見付けられなければ入り口に戻れない、などという道は、な」
「なんでさ?」
「そもそも、衛士に案内されていた時に、そんな道を通った記憶はないだろう? まあ、僕達を森の奥に置き去りにした後で、道を隠したりしたというなら、話は別だが……あの衛士一人でそんなことができるとも思えないし、そうする意味もあまりないと思う」
「あー。そうか」
確かに、もっともな結論である。エルナクハは両手を打ち鳴らして頷いた。
「あとは、普通の道を見落としたって可能性だけど、それは後で考えようぜ。ほら、見ろよ」
パラディンは前方を指差す。折しも、前方に、緑の壁が途切れているとおぼしき箇所が見えてきた頃だった。大まかに判断して、あと五分ほども歩けば、辿り着くだろう。到達予定時間と、磁軸計と、書きかけの地図とを付き合わせ、少し考えれば、それが意味するところは明らかだった。
後列で二人の会話を聞いていた者達にも、意味は通じたのだろう、アベイが、ひゅう、と口笛を鳴らした。
「まだ、あそこに着くまでは油断できません」
フィプトが厳しい顔で口を出す。アベイは、わかっている、とばかりに数度頷いた。
「もちろんさ。だが、先が見えたのはありがたい。いつまで樹海をさまよわなくちゃいけないか、不安を抱えてるよりはな」
「センセイも、いっぱしの冒険者だな」
エルナクハが言うまでもなく、アルケミストの顔立ちは、樹海に踏み込んでからここまでで、見違えるほどに変わっていた。もちろん顔の造作が短時間で変わるわけではないが、どことなく引き締まったように見える。生死の狭間を綱渡りで渡りきった経験は、良くも悪くも人を大幅に変えるのだろう。もちろん、良く変わったことを祈りたいが、そのあたりの心配はいらなさそうであった。
それにしても、長かった。樹海にいたのはせいぜい数時間のはずだが、一日中さまよっていたような気がする。エトリアの樹海を知っているライバル達も多くが生命を落としたという試練、どうなるかと思ったが、可能な限り準備を怠らなかったおかげか、どうにか生きて戻ることができそうだ。これからも気を緩めてはいけないな、と、昨晩心に焼き付けた妻の顔と我が子の鼓動を思い起こし、エルナクハは強く決心したのだった。
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