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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第一階層『古跡の樹海』――栄えし獣たちの樹海・10

 焼いたモグラ肉の匂いがかすかに漂う中、冒険者達は休憩の片付けを始める。休憩中も交代で周辺を警戒していたところ、魔物は見あたらなかったが、用が済んだら匂いに誘われた連中が寄ってくる前に退散する方がいいだろう。幸い、風は今は行くべき方向とは反対に吹いている。匂いに釣られた魔物と正面衝突する心配はあるまい。
 ――ただし、匂いに釣られたわけではない生き物と正面衝突する可能性は、いくらでもあった。
 今までに見たことのない生き物を目の当たりにして、『ウルスラグナ』一同の足が止まる。
 ぶよぶよとした身体を顫動せんどうさせて、のったり、のたりと進み行く『それ』は、緑色の巨大な芋虫であった。もちろん芋虫ごときに怯える面子ではない。巨大というところは不安材料だが、ただ大きいだけなら恐れる理由にはならない。敵対的な生き物でなければ、通り過ぎるのを待てばいいのだ。
 しかし、芋虫――クローラーは、後ろの方の足を支えに、ぐいっと身体を縦に伸ばした。それまでの動きが嘘のように素早く、その高さはエルナクハの頭を軽く越え、近くにあった樹の高い枝にさえも届く。そこにいたリスのような生き物が、警戒の鳴き声を発しながら、ととと、と逃げていった。わずかに遅れて、クローラーの頭の下に顎のように付いた爪が、リスのいたところを襲う。
 一同はごくりと唾を飲んだ。その鋭い爪は、少なくとも今の『ウルスラグナ』を容易く噛み砕くだろう。エルナクハの鎧すら貫通するに違いない。一体だけというのがありがたいくらいだ――というより、一体だからこそ、『ウルスラグナ』は余計に警戒したのだ。他の魔物が少なくとも二体以上で行動している中、一体だけで動いているというのは、それだけ周囲の他の生き物より強い可能性が高い。しかもこいつは肉食のようなのだ。
 その赤い瞳と、目が合った。
 きちり、と、そいつが顎爪を慣らす。
 どうみても、新たな獲物を見付けた猛獣の態度にしか思えなかった。
 やべぇな、とエルナクハはひとりごちる。
 目の前の巨大芋虫からは、針ネズミやらマイマイやらからのそれは慣れすぎてしまった、強烈な殺意を感じる。これまで現れた魔物とは違い、自分達より巨大なものだから、その威圧感はなおさら。ここは三十六計逃げるに如かず、だ。センセイを戦場に慣らしておいてよかった、と心の底から感じた。逃げて逃げて逃げまくってこの場に至り、いざこいつと対面したとしたら、アルケミストだけではなく、自分達ですら、思うように動けたか、定かではない。
「おし!」
 仲間達のみならず、自分自身にも気合いを入れるがごとく、エルナクハは短い声を上げた。
「総員待避!」
 明確な命令は、その場の全員に容易く受け入れられた。
 逃げる、と一言で言っても、皆が敵に背を向けて走り逃げる、というわけにはいかない。逃走には相応の細工が必要である。平たく言えば、殿しんがりを務める者、そして、殿さえも逃げ切れるような補助が不可欠だ。現在の『ウルスラグナ』の構成の場合、パラディンがその防御性能をもって味方の逃亡を敵の追撃から護り、逃げた味方が、遠くから、たとえばアルケミストが閃光の術式――ただの閃光だから、籠手の制御を考えずに発動しても、問題はない――で敵の目を眩ませたり、メディックが刺激物を投げつけて敵を怯ませたり、レンジャーが鏑矢で敵の気を引いたりして、パラディンの撤退を補助するのだ。
 今の場合、勝手の分からないフィプトは逃走に専念させ、エルナクハがクローラーの前に立ちはだかり、それをアベイやナジクが補助する形になる。絶対完璧に逃げられるわけではないが、今回はのそのそと歩くクローラー相手、威圧感さえ振り解けば、さほど苦もなく逃げられるはずだ――と、全員が楽観していた。
 クローラーの動きを目の当たりにしていながら、錯覚していたのだ。
 後ろの足を支えにし、縦に伸びた、先程の素早い動き。それは――彼らの錯覚とは裏腹に、縦方向にのみ適応される動きではない!
「――なっ!?」
 盾を構えて敵を牽制していたエルナクハは、視界の中にあるクローラーの割合が急激に増大したのに驚いた。ぶよぶよの身体を急に伸ばして自分を狙っていることを理解する時間はかからなかったが、その時は死のあぎとがパラディンを捕らえようとしていた。衝撃に備えて体を固くしたパラディンは、しかし、自分の前に舞うように飛び出す影を目の当たりにしたのだった。
 エルナクハはその影の名を絶叫した。エルナクハと敵との間に割って入ったダークハンターの少女は、器用にも目標を変えた――彼女の方が柔らかくて捕らえやすい、と思ったらしい――クローラーの顎爪に挟まれ、巨大芋虫の身体が元通り縮むのに応じて引っ張られていく。なぜ自殺行為のような行動に出たのか、今は、エルナクハにも、他の仲間達にも判るまい。いずれにしても事実として、オルセルタは敵の手の内に落ちた。樹海の下草の上に点々と続く血の痕が、彼女の重傷を声高に語る。意識もないらしく、返事もない。今逃げれば、彼女を完全に見捨てることになるだろう。
「あのバカタレ……!」
 エルナクハは歯ぎしりし、だが、躊躇うことなく剣を執る。彼にとってはオルセルタは大事な妹だ。見捨てるという選択肢があろうはずもない。けれど心が逸ったところで、身体が付いていくかは別の話。文字通り囚われの姫君を救い出そうとする聖騎士として一歩を踏み出しかけたエルナクハの身体が、くらりと揺らいだ。毒吹きアゲハにさんざん痛めつけられた肉体は、休息を経ても本調子を取り戻せなかったようだ。
 ち、と忌々しげに舌打ちするエルナクハの脇を、金色の風が吹く。
 それはレンジャーの青年の姿だった。金色に見えたのは長い金髪がなびいていたからだ。本来の武器である弓を投げ捨て、その手に構えるは獲物解体用の雑用ナイフ。本来、武器として使えるような代物ではない。あっけにとられる仲間達の前で、ナジクは無謀としか思えない突撃を――否、突撃ではなかった。戦場の脇に広がる木々の合間に飛び込み、かと思えば、程なくして一本の樹の枝の上に姿を現す。それも、クローラーが先程のように伸びても届きそうにない高さに。レンジャー以外の者には到底できない身のこなしである。
 何をするのかと見守る視線を受け、ナジクは行動を起こした。いつも腰に付けている――あまり目立たないが――ロープを、自分の上の枝に括りつけ、それにぶら下がり、足場を蹴る。子供向けのおとぎ話に謳われる南国の密林の英雄よろしく、しかし『彼』のように雄叫びは上げたりせず、レンジャーは宙を舞い、芋虫の背の上に飛び降りた。
 刃が煌めき、クローラーの節の合間に突き刺さる。
 芋虫は無言で苦悶を表現した。仰け反る身体から身軽に飛び降りたレンジャーは、緩んだ顎から滑り落ちるダークハンターの少女を抱きとめた。そのままさらなる攻撃を仕掛ける愚を、ナジクは冒さない。ただひたすら、敵に背を向け逃げるだけだ。わずかなりとも速度を緩めたのは、先程棄てた弓を拾う時だけであった。
 もちろんクローラーとて黙って見送るわけではない。爛々と目を光らせ、背を向けて逃げるレンジャーに照準を定める。が、今度はレンジャーの仲間達の方が黙っていなかった。
「これでも――喰らえっ!」
 メディックがスリングショットに何かをつがえ、クローラーめがけて撃ち放つ。アベイには護身用杖術以外の武芸の心得はないが、厳密に敵の急所を狙う必要がないという前提でなら、スリングショット程度は扱える。実際、アベイが撃ち放ったものは、クローラーには当たらず、その手前の地面に叩きつけられて終わ――らなかった。その場から大量の煙が湧き出してクローラーを包み込んだのである。
 アベイが撃ち放った物の正体は卵。ただし、本来の中身は、昨晩の食事を経て『ウルスラグナ』全員の腹の中。殻に小さな穴を開け、全体の形を壊さずに中身を抜き出したのだ。卵は、それなりの衝撃対策をしておけば壊れにくい反面、投げつけてどこかに当たれば容易く砕け散る。その性質を利用して、アベイは卵殻の中に刺激性のある薬品を詰め込んで、逃走補助に使っているのだった。
 敵を殺せるほどの威力はないが、それでも予期せぬ刺激にクローラーは身をよじらせる。今なら全員が背を向けても危険はあるまい。エルナクハは再びの退却命令を下した。
「全員、全力で走れ!」
 『ウルスラグナ』は文字通り全速力で駆け抜けた。全力といっても、ぐったりとしたオルセルタを抱えたナジクは、かなり辛そうだったが。一応、エルナクハは殿に陣取り、途中途中で後方を警戒していたのだが、幸いにもクローラーがそれ以上追ってくることはなかったのであった。

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