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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第一階層『古跡の樹海』――栄えし獣たちの樹海・9

 体がだるい。甘い香りを振りまく花畑に倒れ伏し、錬金術師は閉じそうになる目を必死に開けていた。内なる何かの誘惑に負けてしまったら、そのまま深く暗いところに引きずり込まれてしまいそうだ。
 とはいえ、毒は抜けているし、メディカを飲んだおかげでダメージも緩和されている。気を失いそうなのは、単純に疲れのせいだ。毒に痛めつけられた肉体の悲鳴はもちろん、錬金籠手の制御で酷使された精神の軋みすら、現実の音として聞こえそうな気がする。
 精神的には限界だ。これ以上無理して錬金籠手の運用をしたら、致命的な操作ミスを招きかねない。
「すいません、義兄さん……」
「なんで謝る?」
 隣で座り込むエルナクハは不思議そうに問うた。その様を仰ぎ見るように視線を動かし、金髪の錬金術師は悔恨の言葉を返す。
「小生、調子に乗りすぎました……。あとどれだけ樹海をさまようか判らないのに、錬金術を限界まで使ってしまった……」
 余談だが、結局、花畑の近辺には、樹海入り口に抜けられるような近道は見つからなかったのである。
 しかし、エルナクハからの立場からすれば、その評価は、錬金術師の自覚とは違っていた。
「いや、センセイはよくやった。少なくとも戦闘中では、最善の判断だと思ったんだろ?」
 事実、フィプトの繰り出す氷の術式がなければ、危ういところだった。
 毒を食らった状態で戦闘を長引かせるのは危険すぎる。新たな樹海に立ち入ったばかりの『ウルスラグナ』の手には、毒や麻痺といった状態異常を即座に癒してくれる『テリアカ』の類はない。アベイの医術も、現時点で手に入る素材で同等の薬を調合できるまでには至っていない。戦闘が終わり、時間が取れる状態でなら、手当もできるのだが。
 だから、現時点では、たとえ錬金術師の持てる力すべてを使い切ったとしても、フィプトの判断は正解だった。そうエルナクハは見なしている。
 同時に、昨晩、妻であるセンノルレが口にした言葉を、痛感していた。
 ――ハイ・ラガードの触媒は少々気むずかしい。エトリアの触媒よりも注意を払って制御しなくてはなりません。
 エトリアでの冒険のはじまりの頃。その記憶は、さすがに細かいところは失われているけれど、当時のセンノルレはもう少し余裕で錬金術を扱っていたような気がする。彼女の言う、触媒の扱いやすさの違いというのは、確かにあるのだろう。センノルレは、精神の限界を自己申告した時も、今のフィプトほどまでには憔悴しきった様子を見せなかったから。
 大変なものだよな、アルケミストも。
 同情はするが、残念ながら、今は同情だけで何もかもが解決する立場ではない。
 繰り返しになるが、現時点でのフィプトの判断は正解である。しかし、この後の探索では錬金術の助けがない、ということも確かだ。直線距離では近いはずの出口まで、自分達はあとどれだけ彷徨えば辿り着けるだろうか。
 少し、急ぐか。
「悪いけどセンセイ、今はあんまりゆっくりさせてやれねぇ」
 エルナクハは立ち上がった。その瞬間、意識がくらりと回る。
 歯ぎしりし、地を踏みしめて、揺れ掛けた身体を押しとどめた。
 どうも自分も、かなり疲れているようだ。仲間達の様子から、どうやら今の自分の無様さに気付いている様子がないのを確認し、ギルドマスターは発破を掛けた。
「さ、手当が終わったら、とっとと出よう。ヤツらの新手がふらふら飛んでくる前によ!」
 ちょうど、オルセルタの手当をしているアベイの処置も終わったようだった。パラディンの妹は、危なげなく立ち上がり、自分は平気、と言いたげに、にっこりと笑んだ。
「ほら、センセイ」
 パラディンは、なおも花畑に横たわるアルケミストに手を差し伸べる。フィプトは、きょとんとした表情で、差し伸べられた手を見つめていたが、すっと目を細めた。その瞳が、一瞬、人に懐かない獣のように見えて、エルナクハは柄にもなくたじろぎ、わずかに手を引く。だが、よくよく見れば、やはりフィプトはフィプトのまま、物腰丁寧でいながら洒落も分かる青年の雰囲気は健在だった。さっきの目つきは気のせいか、とエルナクハは得心し、再び手を差し伸べたが、
「大丈夫です、義兄さん。小生、一人で立てますよ」
 フィプトは危なさげによろめきつつも、しかと自分一人の力で立ち上がった。
 一方、この場に至るまでさしたる怪我を負っていないレンジャーが、つかつかとエルナクハに近付いてきて、口を開く。
「これからは、僕も前に出よう」
「ナジク。けどよ……」
「樹海にも慣れてきて、上手く動けるようになってきた。攻撃分散たまよけにはなる」
 エルナクハは躊躇し、口ごもった。レンジャーは後方支援しかできないクラスではない。しかし、得物が弓であることと、身軽さが信条であることを考えると、やはり後方での支援に徹してもらった方がいい。それでもエルナクハは考えて、ナジクの申し出に頷いた。実際、自分達の負担が減るのはありがたかったのだ。
「悪いな」
「いや」
 エルナクハの謝罪に、ナジクは、ぶっきらぼうな表情をわずかに崩して、首を振る。『ウルスラグナ』のことを理解していない者がこのやりとりを見たとしたら、レンジャーが嫌々ながら前衛に立とうとしているようにしか見えなかったかもしれない。金髪の弓師が仲間達の役に立つことをどれだけ望み、それを喜んでいるのか、外見から伺い知るのは難しい。
 ――同様に、外から見える態度からは、その内心にどれだけ重いものを抱えているのか、判断が付けられない者が、今のこの場には、もう一人、いた。
 そのことに関する非常事態を、間もなく『ウルスラグナ』は体験することになる。

 死してなお魅惑の輝きを保つ蝶の羽を回収して、冒険者達は先へ進む。
 扉から少し東へ戻ったところにある、北への分岐点に踏み込み、十分ほど歩いただろうか。足の向く先にはやや拓けた場所があるのが目に入り、西には細い脇道がある。
「水の匂いがする……ね」
 西の方に琥珀色の視線を向けながら、オルセルタがつぶやいた。
「水……か」
 妹の言葉に、エルナクハは腰に下げた水袋を確認した。樹海の外から持ち込んだ時には一杯だった水袋は、今は半分ほどに減っている。この先どれだけ樹海にいなければならないのか判らないなら、水を補充するのも必要だろう。
 『アリアドネの糸』が使えれば、『どれだけ』という心配もいらないのだが。
 『アリアドネの糸』とは、エトリアで、試験を終えた後に、購入を許可された道具である。樹海に巣くう大型の蜘蛛の一種――幸い、冒険者の敵になる生き物ではない――の糸からできている。
 本来は、件の蜘蛛が外敵から身を守る時に、その糸を尻から出し、逃げるためのものだ。樹海の外でも、子蜘蛛が散る時に同じようなことをして風に乗るが、件の蜘蛛の糸は、わずかながら磁軸の歪みを作り出し、その流れに乗った蜘蛛を別の場所へと運び去る。巣に使われる糸にも、その効果は残っているので、それを集めて紡績し、人間の使用に耐えられる程の磁軸の歪みを作り出すように仕立てたのが、『アリアドネの糸』である。
 蜘蛛が糸の力を発揮するきっかけは、生体の電気信号。『アリアドネの糸』の力の解放も、その研究成果に倣っている。糸巻き軸に仕込まれた電極から、微弱な電力が糸に通り、糸の力を呼び起こす。歪められた磁軸に踏み込んだ者達は、樹海の入り口に運ばれる。ちなみに、きちんと入り口に戻るためには、現在地から入り口に戻るための電力を計算するために磁軸計が欠かせない。いい加減な使用方法では、予期せぬ場所に飛ばされる可能性もあるのだった。
 が、今、自分達の手には、そのような便利なものはない。今は、樹海の中にあるものだけを利用しなくてはならないのだ。
 そもそも、地図を描くという試験を受けている以上、そこにある道には踏み込む必要がある。
 かくして脇道に踏み込んだ『ウルスラグナ』を待ち受けていたのは、行き止まりにある岩の重なりの隙間から湧き出す水と、その下に形成された小さな泉であった。木漏れ日を照り返し、きらきらと輝く水場では、数匹の小さな鳥が戯れていたが、人間の気配を感じ取り、ぱっと飛び立ってしまった。
「ああっ、ごめん、君達っ!」
 オルセルタが思わず引き留めようとするも、小鳥にとって人間達は魔物に等しい存在でしかない。ともかくも小鳥たちの存在が、この泉が安全なものだということを教えてくれた。水湧き出る岩の上に蒸した苔も、泉の水面を叩くように飛ぶ羽虫も、同じことを語る。彼らの生態が『外』の生物達と根本的に違ったら――毒物にまみれても平気でいるような生き物だったら、その限りではないが、水を試薬に掛けて調べ始めたアベイの態度を見る限りは、問題あるまい。
 冒険者達は水袋の中身を入れ替え、思う存分、新鮮な水を愉しんだ。水浴びなどは望むべくもないが、冷たい水に浸したタオルで首筋を拭うだけでも、気分が違ってくる。体内に流れ落ちる水は、五臓六腑に染み渡り、激しい戦いの連続に疲れた冒険者達の心身を癒してくれる。
 が、いくら旨くてもただの水では、限界に達した心身の疲れまでは癒しきれない。
「センセイ、気分はどうだ……?」
「あ、はい、すいません……まだ、くらくらします……」
「そっかー」
 エルナクハは残念そうにうなる。
「やっぱり、夜かなー」
「夜?」
 怪訝そうに問い返すフィプトには、横からオルセルタが口を出す。
「うん、エトリアにはね、夜になると不思議な力を持つ泉があったのよ。疲れた精神を、癒してくれるの。アベイやノル姉さんが重宝してたわ。心が疲れると、薬品の調合とか、錬金籠手の制御とか、できなくなるからって」
「まったくだぜ。ちょっと期待したんだけどよー」とアベイが不満げに話を継ぐ。「メディカがあるからそんなに心配いらないけど、俺もちょっと疲れてきたからな、ここの水で癒えればと思ったんだけどさー」
 メディックの技術は、薬品を扱うだけに神経を使う。薬とて、調合量を少し間違えればたちどころに毒になる世界なのだ。そのかわり、研究を尽くしたメディックがその場で調合する生薬は、保存性と安定性に重きを置いたメディカより効くこともざらである。
「だからといって、ここで夜を待つのは阿呆だ」とナジクが割り込んだ。「そんなことをするより、早く地図を完成させて、街に戻る方がいい」
「わかってる、わかってるさ」なだめるように、アベイは応じた。
 ついでに、先程から持ち歩かれているモグラの肉は、ここで消費された。案外に旨かった。

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