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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第一階層『古跡の樹海』――栄えし獣たちの樹海・8

 扉を開け放った『ウルスラグナ』一同は、目の前の光景に、一様に感嘆の声を漏らした。
 視界いっぱい、延々と続くかのようにすら見える、広大な花畑。可憐な花々が、しかし容姿を必要以上に競う人間の女のようにギスギスしたりはせず、互いを認め合うかのように並び立ち、かすかな風に甘い香りを振りまく。
 この場に来るまでに、花がなかったわけではない。群生する花も、いくつも見てきた。が、ここまで大規模な群生は、ハイ・ラガード樹海の中では、今までは見あたらなかった。
 輝くような朝の木漏れ日が花畑を照らし、爽やかな空気を作り出している。魔物が牙を剥く樹海の中とはとても思えない、穏やかな空間が、そこにあった。
「出口に通じていないとしても、ここなら、落ち着いて休めそうですね」
 フィプトが一息吐いて、花畑の方に一歩踏み出そうとする。
 その腕を、がっしりと掴み、前進を止めた者がいた。
「ナジク……君?」
 その者の名を、フィプトは困惑気味に呼び、声同様の困惑を表情に宿した。フィプトを止めたナジクだけではない、エルナクハも、オルセルタも、もちろんアベイも、穏やかな地上の楽園を前にしながら、それを受け入れたくなさそうな渋面を作っているのだった。
「どうしたんです、皆さん?」
「きれいな場所だけど――ここは、やめておこうぜ」
 問う声に答えるのはアベイ。怪訝そうに見やるフィプトに、苦笑いに似た顔を向け、言葉を続けた。
「ちょうど、フィー兄――あんたの代わりにノル姉がいた、このメンバーで、エトリアの迷宮に挑み始めたばかりのころなんだけどよ。俺たち、花畑でひどい目に遭ったんだよ」
「ひどい目、ですか?」
 フィプトは小首を傾げて花畑を見やった。ここまでくぐり抜けてきた戦いの厳しさと血なまぐささからすれば、対極に位置するような、麗しの園。とても『ひどい目』に合うような場所とは思えない。とはいえ、樹海に通じた冒険者達が一様に渋面を作るのだ、嘘ではないだろうが。
「みんな、とっとと抜け道がないか調べようぜ。調べたらさっさとここから離れるん――」
 うわ、という、嫌そうなうめき声が、パラディンの口から漏れる。
「遅かったか……ッ!」
 舌打ちする彼や、その妹の肌は、黒いからよくわからないが、周囲の仲間達同様に血の気も引いていただろう。しかしフィプトは、仲間達をそれほどにまで恐れさせる原因に気が付いた時、うめき声ではなく感嘆の声を漏らしてしまった。
 それは、蝶の群であった。だが、なんと見事な色合いの蝶であろうか。
 全体的な色合いは紫色、その上に白い曲線が入っている。それだけではない、羽はまるで金属のような艶やかな光沢をまとっているのだ。かつてフィプトは、一度だけ、アルケミスト・ギルドで、似たような蝶の標本を見たことがあった。遠い南方で捕獲されたという、人間の掌大の大型種。色こそ青や白だが、神の気まぐれが具現化したような金属質の輝きは、目の前の蝶と同じだった。フィプトのみならず同輩の誰もが、皆、溜息を吐いたものだ。生きた宝石とはよく言ったものだ――と。
「――伏せろ」
 叫ぶほどには激しくない、しかし確固とした強さを芯に宿した声音に、フィプトは我に返った。同時に背に衝撃を感じ、どう、と地に倒れ伏す。甘やかな花の香に包まれ、ようやく顔を上げたフィプトは、声の主、レンジャーの動作を見て、自分が彼に蹴り飛ばされたのだと知った。文句は言えなかった。なぜならレンジャーの向こうでは、武器を取った前衛の戦士たちが、件の蝶の群と対峙していたのだから。
 蝶の大きさが異常なことに改めて気が付く。羽を広げればエルナクハの胸部すら覆い隠してしまうだろう。それだけ大きいと、優雅にして軟弱に見える蝶の足も、その羽ばたきですらも、相応の打撃力を伴って冒険者達を苦しめる。液状のエサを吸うための口吻でさえ、レイピアのように鋭く冒険者達を狙う。何よりも、羽ばたくたびにかすかに漂う紫煙。おそらくはリンプンであろうが、それを吸い込んでしまった前衛の戦士たちは、呼吸器を灼かれるのか、けほこほと咳き込みながらも、武器を振るう。
 そう、ここは樹海だ。まだ魔物の殺気すら上手く読み取れない自分が、先達の警戒を無視して気を緩めていられるような場所ではなかった。目の前の『生きた宝石』は、おとなしく貴婦人の首もとに収まるようなものではない。人の生命を容易く奪い去る、呪われた宝石なのだ。
 フィプトは一息に立ち上がり、躊躇うことなく錬金籠手アタノールを起動した。氷の術式に必要な触媒を籠手に組み込み、花を蹴立てて走り出す。ギルドマスターからの指示はないが、指示待ちに徹しているような状況ではないはずだ。
「バカ、来るなよ!」
 戦士たちの後方で状況を見定めていたアベイが、顔色を変えた。
 その時、蝶の動きが微妙に変化していたのだ。
 エトリアのことを知らないフィプトが知るはずもないことだが、『ウルスラグナ』一同は、エトリア樹海で目の前の蝶と同種のもの達と戦った経験があり、そして、今変化した動きの意味を、文字通り痛いほど理解していたのだ。
 冒険者達の周囲を、今までになく濃い紫煙が取り囲む。息を止める間もなくフィプトは『それ』を吸い込んでしまった。紫煙の色を皮膚から吸収したかのように、肌が色を変える。
「――毒……ッ!?」
 肉体の奥底から迫り上がる悪寒と嘔吐感。喉奥から吐き出されたものが、赤い液体だと知って、フィプトは目が眩む思いがした。
 いまや『ウルスラグナ』の半数が毒に冒され、脂汗をにじませながら、危険な蝶に相対峙している。特に痛手なのは、前線の二人が共に毒に冒されたということだ。内なる敵に苛まされながら、外なる敵に対する彼らの動きは、今の今までと比較するまでもなく、稚拙なものと化していた。そんな人間どもをからかうように舞い、つかず離れず飛び回る蝶達。
「アベイ君、この毒を消す方法は……」
「ない!」
 幸いにも毒に冒されなかった様子の、医療鞄をまさぐるメディックに問いかけるも、返答は短い否定のみ。それだけでは説明不十分と思い直したか、鞄の中を捜す手は止めないまま、アベイは一字一句言い含めるように再びの言葉を発した。
「少なくとも、今は――戦闘中は、無理だ。ナックたちほど動いてなくても、アドレナリンが――ああっと、つまり戦闘中は、ろくに動いてないように見えても、普段より血流が激しくなってて、そのぶん、毒も、よく回る」
 メディックは数本のメディカを取り出し、フィプトに渡す。さらに薬草や薬石を出して調合の準備を手早く整えた。
「ありがたいことに、少し時間が経てば毒は薄れる。俺たちにできるのは、それまでは、こいつで体力を維持させながら耐えてもらうことだけだ」
「そんな……」
 フイプトは臍を噛む思いで戦況を見つめた。後衛の自分はまだいい。比較的安全な場所で悠々と毒が薄れるのを待ちながら、メディカで体力を維持すればいいのだ。だが、前衛の二人は? 毒に加え、蝶本体の攻撃にも苛まされ、いずれは倒れ伏すだろう。そうなったら後衛達の運命も定まったも同然。この場には五つの死体が転がるだろう。
「おい、だから動くなって!」
 フィプトがふらつきながらも立ち上がったのを見て、アベイが声を荒らげた。しかし、錬金術師が籠手を装着した腕を上げるのを見て、己のうっかりを悟ったような顔をする。完全後方支援のアベイとは違い、フィプトには攻撃手段がある、というのを、失念していたのだ。
 重酸石の水溶液と『至高神の塩』は、すでに右籠手にセットしてある。かすかな音を立てる籠手の中で、初期段階の反応が始まっているはずだ。フィプトは右掌を敵に向けた。魔物の目玉のような噴出口が、ぎょろりと蝶達を睨んだ。
「これでも――喰らえ!」
 雪のような化合物が蝶の群に降りかかる。凝結した空気中の水分を羽に張り付かせ、美しくもおぞましい蝶達は次々と地に墜ちた。が、まだだ。まだ生きている。冷気で弱り、よろよろと這い回りながらも、再び空へ舞い上がろうとする、魔の飛天達に、再度の術式を仕掛けようとしたフィプトは、だが、義兄と慕うパラディンが裂帛の気合いの声を上げて蝶達に止めを刺すのを見た。
「あっち、頼む、センセイ!」
 毒に冒され、荒い息を混ぜ込んだその声に、視線を廻らすと、少し離れたところでは、ダークハンターの少女が別の群と対峙しているところだった。さらに離れたところから弓で援護するレンジャーは、毒に冒されてはいないらしく、その矢で蝶を射抜いている。
「了解、です!」
 フィプトは再度、触媒を籠手にセットし直し、別の戦場へと向かう。身の内からせり上がる不快感を、さっきもらったメディカを飲み干すことで抑えながら。やがて籠手の射程距離内に踏み込むと、反応を終えて飛び出すのを待つばかりの化合物を魔物に浴びせかけるべく、掌の目玉で睨み付けた。

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