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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第一階層『古跡の樹海』――栄えし獣たちの樹海・4

 後に記された、錬金術師フィプト・オルロードの手による、ハイ・ラガード樹海の探索記録には、その時のことがこう記述されている。

『それは冗談のような光景だった。獣達は、前衛の戦士達に飛びかかり、あっと言う間もなくその肌を噛み千切ったのだ。アルケミスト・ギルドに保管されていた古書に、『黒い肌の人間は血も黒い』という馬鹿げたことが記してあったが、やはりそれが嘘だったのだと、よくわかった。後方で待機する私の目にもはっきりと判るほどに、彼らの出血は凄かったのである。
 しかし、彼らが苦痛に顔を歪めたのは刹那のこと、パラディンは不敵な笑みを浮かべ、ダークハンターは気合いの声を上げながら、それぞれに自分達を傷つけた魔物に反撃を加えた。やや離れたところからは、レンジャーが巧みに場所を移動しながら矢を射掛け、メディックは治療具一式を用意した上で戦いの趨勢を冷静に見守っている。
 かくいう私はといえば、周囲に満ちる殺気の渦と血の臭いに、がくがくと震える足をどうにか支えることが精一杯だった。
 前日にパラディンが言っていた言葉が思い出された。『世界樹の迷宮』は、『己の生死すら笑い飛ばす覚悟を持たない者には、ただの地獄だ』という。自分が冒険から逃げたくなる時が来るかもしれない、と思っていたが、まさか足を踏み入れたばかりで早々にそんな気分になるとは。
 結局、私は、机上でしか物事を考えていなかったのだ。
 場違いな存在である愚かな私が、今さらながらに恐怖に打ち震える前で、戦いは終わりを告げた。二体の魔物は全身を朱に染めて、ぐったりと地に伏した。その片方をしっかと掴み、天上の神に捧げるかのように差し上げたパラディンは、自分の方こそ倒れてしまいそうな血まみれの有様で(そのほとんどは返り血だったのだと後に知ることになるのだが)、勝利の声を上げたのだった――』

「ほらよ、センセイ」
 錬金籠手を外した両手の上に乗せられた死骸はまだ生暖かく、フィプトは危うく悲鳴を上げるところだった。生物の死骸に慣れていないわけではない。前時代ならまだしも、この世界での『死』は『生』の背にぴったりと張り付いているものだ。それでも、荒事とはあまり縁のない者は多い。フィプトもそんなひとりであり、たった今目の前で殺され、ひくひくと痙攣したままの生き物を、目の当たりにするのは、さすがに初めてだったのである。
 危ういところで悲鳴を喉奥に押し込め、息を吐き、呆然とつぶやく。
「……これが、樹海で戦う、ということ……」
「なに、いずれ、これが日常になるさ」
 黒い聖騎士は、にんまりと笑うと、自分の荷物からメディカを取り出し、共に取り出した布に薬を少し染みこませた。瓶をくわえて残りを飲み干しながら、布を腿に大きく開いた傷口に押し当てようとして――失敗した。がっくりと膝をつく彼の後を追って、手を離れた布が地面に落ちる。
「兄様!」
「ナック!」
「エルナクハ!」
 仲間達が口々に彼の名を叫んで駆け寄るも、聖騎士は地に四肢をついたまま、大声を上げて笑う。
「ふはははは! いや、さすがは『世界樹の迷宮』だぜ。ザコ二匹でも油断できねぇ」
「笑ってる場合じゃないだろ、ほら、鎧脱げ」
 アベイが聖騎士の鎧に取り付いて、手早く外す。その下の鎖帷子や綿入れも脱がされ、顕わになった黒い肌は、ところどころが腫れている。針ネズミの体当たりを何度か食らっていたのだ。アベイは溜息を吐くと、医療鞄から出した数種の薬を吟味し、調合を始めた。そうしながらダークハンターに問う。
「オルタちゃんは大丈夫か?」
「うん、わたしはメディカで大丈夫。兄様が護ってくれたから」
 すでに自分で簡単な処置を行いながら、オルセルタは頷く。その琥珀色の瞳で兄の様子を心配そうに眺めていた。兄の方はというと、メディックに己の身を委ねながら、心配そうに見ている無傷のレンジャーに指示を飛ばす。
「いまのうちにナジク、センセイに『解体』教えてやってくれや」
「……わかった」
 ナジクはこくりと頷き、地に横たわっている針ネズミの死骸を掴み上げ、フィプトを手招いた。
「ネズミの死骸も持ってくるんだ」
「え……は、はい」
 フィプトはそぞろ寒げに針ネズミの死骸に目をやる。もう体温も下がり始め、痙攣も止まっているが、ついさっきまで自分の手の中で動いていたという事実が消えてくれない。『解体』というからには、この死骸を捌くのだろう。手が震えて止まらない。
 レンジャーが再びフィプトを呼んだ。
 意を決して、フィプトは針ネズミの死骸を掴んだまま、ナジクの下に足を運ぶ。
 レンジャーはすでに、針ネズミの死骸を、腹を上にして広げており、腰から雑用ナイフを引き抜くところであった。
「皮を剥いだことはあるか?」
 フィプトは首を振った。肉屋で解体済みではない、丸のままの肉を買ってきて、捌いたこともあるが、それとて、すでに毛皮は剥ぎ取られていたものであった。
「小生、あまり器用ではないので、教えて頂いてもご期待に応えられるかどうか」
「あまり気負わなくてもいい」
 表情だけ見れば、ぶっきらぼうなレンジャーは、意外と優しい口調で言葉を発する。
「始めから素材を得るつもりで狩ったものならともかく、こんな戦いで倒した生き物だ、あちこちが傷ついているのも当然。そんなところに、皮剥ぎが上手くいかなくて、多少の傷が付いたところで、たいした違いにはならない」
「しかし……」
「もちろん、上手くいくにこしたことはない。きれいに剥げればそれだけ高値で買い取ってもらえる」
「わりぃな、戦いじゃ、皮がキレイに取れるように殴ろうー、とか、考えてる余裕ねぇからな」
 地面に横たえられ、アベイの治療を受けているエルナクハが、笑声混じりに混ぜ返す。
「パラスちゃんがいれば、少しはマシかもしれないけどね」とオルセルタ。
「なぜですか、それは」
 フィプトが反応して問いかけたので、ダークハンターの少女は、処置した残りのメディカを飲み干しつつ、頷く。
「パラスちゃんはカースメーカーで、特に相手の動きを封じる呪いが得意なの。だから、パラスちゃんに敵の動きを封じてもらえば、少しは『きれい』に倒せるかもしれない」
「『きれい』にこだわって生命を落としたら、本末転倒だ」
 むっつりと、レンジャーがつぶやいた。
 さておき、ナジクの皮剥ぎ講座は、フィプトのおぼつかない手つきに合わせてゆっくりながらも、着実に進んでいった。だが、ようやく剥いだ皮を手にできる、というところで、ナジクが忌々しげに舌打ちをする。自分に不手際があったのか、と思ったのだろう、フィプトがびくんと肩を震わせたが、ナジクの苛立ちはフィプトのせいではなかった。
「――こんな毛皮じゃ、どんなところにも使いようがない……」
 広げられたネズミの皮は、ところどころに、ぼこぼこと穴が開いていた。戦いの結果でそうなった、などというものではない。つまりは、それは針のような体毛のせいだったのだ。硬い針を取り除いた結果、柔らかい短い体毛が残ったまではよかったが、針が抜けた痕は大きな毛穴となっていたのである。毛穴の部分を取り除き、残っている部分だけを使うにしても、それを繋ぎ合わせるには多大な労力が必要だ。交易所に持ち込んでも二束三文にしかなるまい。
「いっそ、なめし革にしちまったらどうだよ?」
「同じことだ。こんなに毛穴が開いていては、使いどころが限られる」
「あちゃー」
 とりあえず、せっかくだから毛皮も持ち帰ることに決めた後、『ウルスラグナ』の興味は、針のような毛に移った。
 樹海の外にいる『ハリネズミ』は、細い針を背にまとう生き物だが、その針は毛が寄り集まって硬化したものだという研究結果が出ている。だが、樹海の『針ネズミ』も同じなのだろうか。だとしても、とても信じがたい。それはもはや角のように硬く、研磨して武具の刃先に使えそうな気さえしてくる。実際、角や骨を削って武具にできるのだから、できない道理はないだろう。
 戦いの中で欠けてしまったものの多い針の中から、無事なものを探し出して、持ち帰ることにした。
 が、太い方の針はよかったが、細い方の針は、ことごとくが戦いの中で破損し、使えそうになかった。
「素早く倒さなくては、無傷のものを手に入れるのは無理だろう」
 嘆息しつつナジクがそうぼやいた頃には、エルナクハの傷の治療も終わったようだった。少しふらふらしてはいるが、意外としっかりした足どりで、パラディンは解体講座の会場に歩み寄る。
「どうだよセンセイ、初めての樹海は?」
「……驚きましたが、大丈夫、です」
 フィプトはそう答えたが、実は嘘だった。目の前で繰り広げられた死闘の、怒号と血の臭いが、まだ脳裏にこびりついている。痙攣するネズミの体温も、まだ手の中に。良くも悪くも平穏に暮らしてきた身には、あまりにも衝撃的な、樹海の探索。それでもなおフィプトは虚勢を張った。自ら望んだ道だ、という意識がある。そしてもう一つ……何かがある気がするのだが、自分でもよくわからない。とにかく弱音は吐けない、と心の奥底の何かが叫ぶのだ。その『何か』を追及してもよかったのだが、それより先にフィプトの意識は目の前の黒い騎士の容態に向き、そのまま、『何か』のことはすっかり忘れてしまった。
「それよりも、義兄あにさん! あんなに血まみれだったのに、もう大丈夫なんですかっ!?」
「ありゃ、ほとんどが返り血だよ、心配すんな」
 エルナクハはカラカラと笑う。それはカラ元気じゃないのか、とフィプトは疑ったが、治療を施した張本人であるアベイの様子は、もはや重傷人を心配するものではなかった。
 メディックが治療具を片付けるのを待って、一行は探索を再開した。
 未だ心配げに視線を向けるフィプトに見せつけるように、エルナクハは、歩きながら上半身をひねっている。
「カンペキ大丈夫とまでは言えねぇけどよ、治療のおかげでまだ戦えるくらいにはなったぜ」
 とりあえず、フィプトは安堵の息を吐きかけたが、そこにエルナクハの質問が飛ぶ。
「……それはそれとして、『義兄さん』ってどこのどちら様を呼んでんだよ?」
「あ」
 一斉に声を漏らしたのは、当事者以外の三人である。アルケミストがパラディンを妙な呼び名で呼んだのを、今の今までまるっきり気付かずに聞き過ごしていたのだ。ややあって、ぷ、と口から空気が漏れる音と共に、オルセルタとアベイが笑い出した。
「兄様が、兄様が、『義兄さん』なんて呼ばれてる、似合わないー!」
「いやちょっとマテ、オルタちゃんが呼ぶ『兄様』だって大概じゃないか。……でも『義兄さん』も似合わねー」
 声を上げて笑わないナジクとても、口端をわずかに上げていた。それだけでは済まなかったのか、こっそりと手で口元を隠し、そしらぬ顔で仲間達の状況を見つめ続ける。
 笑われている方といえば、パラディンの方は別段なにも気にしていないようだったが、アルケミストは、わたわたと手を振り、慌てて説明を始めた。
「いや、だって、小生の姉弟子の旦那様なんですよ? 姉弟子の旦那様なら、弟弟子である小生が『兄』と慕うのは、当然のことじゃないですかっ!?」
「アンタ、自分がオレより歳上だって、自覚してるか?」
「ええっ? 小生は今年で二十三ですが」
「オレは二十一だよ」
「えええっ!?」
 心底意外そうにフィプトが叫ぶ。センノルレの歳(彼女は今年で二十四になる)より上、ゆえに自分よりも上だと思っていたらしい。
「イヤだなぁセンセイ、オレはそんなに老けて見えたのかよ?」
「え、いや、その、そういうわけじゃ……」
 たじろぐフィプトを、ニマニマと笑いながら追いつめていくエルナクハだったが、その表情から戯けが消えた。一瞬にして瞳の中に戦士の鋭い意思が宿り、周囲の状況を探る。オルセルタも、アベイも、同じように周囲に気を配っていた。ナジクも同様だが、他の誰よりも注視する範囲が狭い。
「そっちか、ナジク?」
「敵……ですか?」
 レンジャーに問うギルドマスターに、自分では掴みづらい状況を確認するアルケミスト。
 パラディンが頷くのを見て、全身の血が止まったように感じた。
 先程の戦いの、凄惨な様が、思い出される。
 しかし、怯えているわけにはいかないのだ。自分は自ら望んでここにいる。それに、今ここで逃げたとしても、非力な自分は魔物に食い殺されて終わるだけだろう。生きて再びハイ・ラガードの街に戻り、生徒達の顔を見るためには、するべきことは、ひとつ。
「義兄さん、小生にできることは、ありませんか!」
 いらないと言われるかもしれないが、念のために錬金籠手アタノールの起動機構に手をかけながら、フィプトは問うた。
 意外にも、返答は思っていたのとは違っていた。
「ああ……今回は、助けがいるかもしれねぇ」
 え、と声を漏らしたフィプトは、今や一方向に集中した仲間達の視線を辿った。
 草むらから飛び出してきた一体は、先程と同じ、針ネズミであった。だが、その後から、のっそりとやってきた、もう一体は、そうではない。樹海の外では、雨の日によく見かける、指先に載るほどに小さな生命体。それが、樹海の住人となると、信じがたい進化を見せつけてきている。……いや、そもそも、『あれ』に似ているが、『あれ』と同系の生き物なのかどうか。
 巻き貝のような殻から、ぬめった身体を伸ばし、地を這ってやってくるその生き物。大きさは殻だけでも針ネズミより二回りほど大きい。樹海の外の似た生き物ならば、足で踏みつぶすだけで簡単に殺せそうだが、『それ』は、一筋縄にはいかないだろう。ぬめった身体は刃を反らしてしまいそうだし、殻はとても硬そうで、籠もられたら生半可な攻撃は届かなさそうだった。
 確かに、ここは属性攻撃の出番かもしれない。
「オレらはネズミを片付ける。センセイはヤツだけを狙ってくれ!」
「――し、承知しました!」
 前衛の戦士達が剣を構え、レンジャーが弓を構えながら周囲の森の中に紛れ、メディックが鞄から薬を取り出し、いつでも使えるように待機する。その様を横に、フィプトもまた、錬金籠手の起動操作を行う。かすかな音を立てて動き始める籠手に組み込む触媒を、ともすれば震えて思うように動かない指先でポーチの中から探り出しながら、フィプトは己が相対峙するべき敵――冒険者からは『森マイマイ』と呼ばれる軟体動物を睨め付けた。

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