←テキストページに戻る
ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第一階層『古跡の樹海』――栄えし獣たちの樹海・4

 鳥の声、虫の羽音、草木の葉擦れ。
 騒がしいようでいて、静寂をも同時に想起させる、不思議な空間の中を、冒険者は進みゆく。
 アベイが持つ磁軸計は、衛士によって森の奥に連れ込まれた今でさえ、一同の位置と向きを正確に盤上に示していた。ちなみに向きは、光るマスの色の強さによって表される。より白く輝いている辺が、磁軸計を持つ者が向いている方角であった。
 その傍では、フィプトが、小さな漉紙のメモ帳を手に、大まかな迷宮地図を描いていく。ある程度進んで、描いた地図が正しいと確信できたら、羊皮紙の方に描き写す予定である。羊皮紙は描き損じても表面を削って間違いを正すことができるが、そんな痕は少ないに越したことはない。
 本来は、磁軸計を持つ者と地図を記す者は同一である方が楽なのだが、とりあえずはフィプトに地図描きの基本を知ってもらおう、ということで、今のような形になっているのであった。
「で、単純に考えれば、正しい方向は南に決まってるんだけど……」
 磁軸計と、地図の下描きとを、交互に眺めながら、オルセルタがうなる。
 下書きにすでに描かれている線は、衛士に案内された末に辿り着いた地点から、ここまでの道である。他には、大分離れたところに広い空間が書き加えられている。これは、衛士が羊皮紙に描いた物をメモにも転記したものだ。一緒に写し取った注意書きによれば、それは樹海入り口とその周辺の地図――つまり、最終的に目指すべきところであった。
 現在は、衛士に案内された場所から東に少し行った辺り。南北に延びていると思われる道にぶつかり、それ以上東には行けないようだった――隠し通路がなければ、だが。
 現在位置の、迷宮内部の理論的最大面積(つまり磁軸計のマス目である)内における位置を考えるなら、北へ延びる道は、さほど行かずして行き止まりに当たるだろう。もちろん、東か西へ道がさらに延びている可能性もある。こればかりは、実際に自分達の目で確認しなければ、真偽ははっきりしない。
「どっちだかなぁ」
 アベイは嘆息しながら周囲を見渡す。
「とっとと帰れる道を選び取れりゃいいんだけどなぁ」
「残念だが、そうもいかん」
 皆とは別の方向に注意を払いながら、ナジクがつぶやいた。
「ただ帰ればいいわけではない。ミッションは『地図の作製』だからな」
「そうだけどよ、ジーク」
 金髪のレンジャーの呼び名を織り交ぜて、メディックは再び嘆息した。
「ま、効率的に地図を描きながら帰れる道を辿れるのを、祈ろうぜ」
 心配などまったくしていない、と言いたげに、からからと笑声をあげ、エルナクハは皆の前進を促すのであった。

 ひとまず足を伸ばしたのは、北への道。仮に行き止まりだったとしたら、それを確認した後にすぐ引き返してきて別の道を探せる、という効率性が理由である。
「あっ、と」
 フィプトが転げそうになったのを、隣のナジクが支える。
「すいません、ナジク君」
「メモばかり注目していては、足下を取られる」
 フィプトがつまづいたのは、地面から少しだけせり出した木の根であった。
 迷宮の地図は、磁軸計の一マスに当たる範囲内――足下の状況にもよるが、歩いて二、三分ほどになる――が通れるか否かを判断した上で、簡略化して書かれることが多い。たとえば地面に木の根がぼこぼこせり出していたとしても、道の真中に幹が二股に割れた大木が鎮座していても、両側から木々が迫ってて狭い道でも、通れるものなら通れるとして描く。もちろん、メモとして詳細を書き入れるかどうかは、描く人間の考えによる。
 もっとも、今『ウルスラグナ』がいるあたりは、入国試験に入った先達の仕業だろう、あまりにも邪魔な枝は払い落とされ、極端に危険な根も切り落とされているようであった。全部が全部処理されているわけではないから、今のようにフィプトが足を取られたわけだが。
「アベイ、お前も注意しろ」
「わかってる、大丈夫だ」
 同じように道以外の場所――つまり磁軸計の盤上にだ――に気を取られがちなアベイは、経験者であるためか、それなりにうまく視点の切り替えをこなしているようだった。一見、どこかにけつまずきそうに見えるのだが、磁軸計と道と交互に見比べながら、危なげなく進んでいく。そんな彼が、数分歩いたところで声を上げた。
「磁軸計のマスが切り替わったぜ」
「ということは、ここまでは、邪魔なく通れる、ということですね?」
「東西には道はないみたいだわ」
「ということは、こう描けば、いいのですね?」
 フィプトは改めてメモ帳を取り出すと、すでに記されている迷宮図に線を描き加えようとした。
「東西はまだ詳しく調べてないからよ、隠し通路があるかもしれない。点線とかにしといてくれよ、センセイ」
「あ、はい、そうですね」
 ギルドマスターの要求に応え、描こうとしていた線を点で引くフィプト。
 その手が、不意に止まった。
 危険を察知した草食動物のような勢いで、金髪の錬金術師は顔を上げた。きょろきょろと周囲を見回し、そぞろ寒げに仲間達に問いかける。
「あ、あっ、あの、あの、今、変な声が、しませんでしたか」
 大の男とは思えない挙動だったが、『ウルスラグナ』はその様をせせら笑ったりはしなかった。同じ声を全員が感知していたからだ。そして、その声が、生き物の宣告の声だと判ったからだ。
 これからお前達を襲う、と。
「臆するな、センセイ!」
 エルナクハの鼓舞の声とほぼ同時に、前方の草むらががさがさと音を立て、数体の影を吐き出した。

 『魔物モンスター』という呼び名がある。
 『世界樹の迷宮』内で冒険者や兵士(衛士)に襲いかかってくる動物(時には植物)を総称するものである。要は侵入者である人間が、自分達の探索に都合が悪い生物を『恐ろしいもの』という原義を持つ言葉で表しているわけで、縄張りを守る側の『魔物』からすれば、「何を身勝手な」と言いたいところかもしれない。
 とはいえ、人間側にしてみれば、彼らを『魔物おそろしいもの』と呼びたくなるのも仕方がないだろう。
 『外』の生物とは姿が多少違いながらも、やはり動物であると思われていたものが、牙を剥いて襲いかかる。さほどの脅威ではないと思われいたチョウのごときものが、毒性のあるリンプンで呼吸器を灼き、ただのウサギだと思われた生き物が、人の喉笛を食いちぎる。普通の森のつもりで採集作業に勤しもうとしていた者達にとっては、悪夢以外の何物でもない。
 そして、普通の生き物との一番の違いは、『逃走しない』ということだ。
 余程のことがあれば逃げるかもしれないし、一例だけ普通の生き物のように逃げる『例外』があるが、概して『世界樹の迷宮』の生物は、生命尽きるまで戦おうとする闘志を見せる。否、闘志というよりも、『狂気』と表現するべきものだったかもしれなかった。
 それは、敵が自分の力量を遙かに越える強者であっても変わらない。
 『縄張りを守る』と見なすには、あまりにも行きすぎた殺意。
 普通の生き物にも、例えばミツバチのように、個体の生命を意味なきものと見なし、自らの生命を無視して敵に挑むものも、いるにはいる。だが、うまく説明できないが、そういうものとは、『何かが違う』のだ。
 はるか昔、破壊されたこの世界を修復するべく、人間によって生み出された樹海。
 魔物達は、基本的に、この樹海迷宮から出てこようとする気配はないが、あるいは、人間が再び世界の脅威になったとしたら。
「その時は、樹海から魔物達が吐き出されるのかもしれませんね」
 エトリア樹海のことについて考察していたセンノルレは、そんなことを推測したものだった。
「エトリアでも、人間が樹海の奥深くに踏み込んだ時には、森を出て街を襲おうとした魔物がいましたでしょう。生物には、『天敵』という存在があります。魔物と呼ばれうる生き物達は、度が過ぎた人間達の『天敵』となるべく用意されているのかもしれませんよ。……もちろん、『世界樹の迷宮』の守護も兼ねてですが」

 さておき、迷宮の探索に挑む『ウルスラグナ』探索班の目の前に現れたのは、黄金色の体毛を持つ小動物が二体であった。
 姿はネズミに似ていなくもない。ただ、その大きさはネズミの比ではない。優に、樹海外のネコほどはある。それよりも何よりも、その体毛は奇妙なものであった。長く細い毛と、太く短い毛が、針のように逆立っていたのだ。否、太い毛の方は、『針』というより『棘』に見える。
「針ネズミ……ってとこかしら」
 緊張を声音に孕み、オルセルタがつぶやいた。その手が自らの腰に伸び、本来の武器である剣ではなく、ダークハンターであれば剣使いであっても常に持ち歩く革の鞭を掴む。それを伸ばし、わざと風の音を立てるように振りながら、兄に問うた。
「いけると思う? 兄様?」
「やべぇな。判るだろ? ただのザコと思ってたけど、殺気がピリピリ来やがる」
 どことなく戯けた調子で、パラディンたる兄はダークハンターたる妹の言葉に答えた。
 あるいはそれこそが、数多の死地を抜けてきた英雄の証だったのかもしれなかった。魔境から遠ざかって数ヶ月、力を削ぎ落とされた肉体が、かつては雑魚として屠れた敵にさえも今は簡単には勝てないよ、と、正しく警告を発しているということなのだから。
「でも、まぁ」
 エルナクハは、盾を構え、仲間達を護るように一歩進み出ると、鼓舞するがごとく言葉を発する。
「今さら勝てないだの何だの言っても仕方がない。勝たなきゃ帰ることもできないんだ」
「大丈夫、あんなネズミ、デカいうちに入らないぜ」
 医療鞄の蓋を開け、薬物調合の準備をしながら、アベイが口を挟んだ。
「今急に思い出したんだけどよ、前時代にはデカい犬くらいのネズミがいたんだ。カピバラってヤツ」
「はは、そりゃ、食料とか散々かじられて苦労したんじゃねぇか、ユースケ?」
「大丈夫、うんと南の方にしかいないからな。俺が見たのだってテレビか動物園でぐらいだ」
 動物園はともかく、テレビって何だ? とエルナクハはアベイに問うところだったが、当然ながら今はそれどころではない。アベイだって、不意に思い出したのを思わず口にしてしまった、というあたりだろう。詮索は後にするべきだ。
 一方、針ネズミは、オルセルタが牽制で振るう鞭の動きと音に警戒し、襲撃を躊躇している。だが、鞭が止まればすぐにでも飛びかかってくる気満々に見える。オルセルタとていつまでも鞭を振るっているわけにはいかないのだ。
「逃げる選択肢もある」
 ぼそりとナジクが声を上げた。アベイも本当は同意見らしく、戦いの準備自体は怠らないまま、しかしレンジャーの言葉に首を縦に振っている。
 だが、エルナクハは否定の動作をした。
「元気ないまのうちに、一度くらいは戦いを経験しておきてぇ」
 逃げるという行為にも余力が必要だ。後がないという状況で『逃走』を選ぶのは、ある意味で自殺行為である。なにしろ、敵に背を向けるのだ。失敗すれば、一方的に攻撃を受け、大怪我は避けられない。
 そこで意識されるのが、樹海初心者であるフィプトの存在だった。
 今この時、初めての『魔物』との遭遇に緊張しているフィプトが、さぁ逃げるぞ、という段になって、上手く逃げ切れるか。パラディンの心配はそこにあった。もちろん仲間達の援護が付けば、そうそう逃げ切れないこともないだろうが、対策は、なんとかできそうな時に立ててしまった方がいい。
 そして、今立てられる対策は、おそらくは樹海最弱レベルの魔物である、ネズミどもとの戦いを一度は経験させること。戦いというのはこういうことだ、と彼の意識に覚え込ませるために。皆がまだ元気で、フィプトに気が回せるうちに、だ。
 エルナクハの考えに気が付いたか、あるいは単純に、確かに戦いを経験するのも必要だ、と思ったか、フィプト以外の仲間達が一斉に頷いた。
「小生は、どうしたらいいのですか?」
「センセイは、とりあえず自分の身を護るのに専念しとけや」
 妹が振るう鞭の音に合わせるように、パラディンは、アルケミストへの指示を皮切りに、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「ユースケはいつでもケガの手当ができるように待機頼む。ナジク、撹乱できるか?」
「……まだ上手くできなさそうだ。単純な狙撃でなら援護できる」
「そか、じゃ、それで頼む。オルタ、オレらは言うまでもねぇ」
「うん、バルシリットの戦士の面目躍如、ね――じゃ、鞭止めるわよ」
 ひゅんひゅんと鋭い風の音を立て、時折地を叩いて土塊を散らす鞭が、唐突に消失した。もちろん、完全になくなったわけではなく、オルセルタの手元に戻り、くるくると丸まって収まっただけのこと。
 魔物どもにとっては、自分達を邪魔していたものが失せ、ようやく侵入者に飛びかかることができる、その瞬間がついにやってきたことを示していた。
 自分達の縄張りに踏み込んだ人間の不幸を嘲笑うかのような叫び声を上げ、二体の針ネズミが、『ウルスラグナ』に襲いかかってきた。

NEXT→

←テキストページに戻る