山道は楽ではなかった。特に、王宮でぬくぬくと育った王族にとっては。
 といっても、王子は決して安穏と育ったわけではない。騎士達に混ざって鍛錬を重ね、そんじょそこらの剣士に引けを取らない力を得ていたはずだった。ついでに言うなら勉学にも手を抜かず、教師達に舌を巻かせている。第三王子だから王位を継ぐ可能性は低いが、自分の力で、王になる兄の助けになれればいいと、志を抱いていた。
 それが、山道では根を上げた。正確には、根を上げたことを隠したつもりだったが、同行者にはあっさりとバレた。
「ここらで休みましょう、殿下。おれは疲れました」
 同行者である重装歩兵(ファランクス)はそう言うが、言葉とは裏腹に、王子ほど疲れた様子はない。いつも身につけている重い鎧を脱いでいるからか――否、武具は荷物として彼の背にある。真の理由は、彼がこの山に馴染んでいるからだ。生まれはハイ・ラガード、育ちはエトリアだが、この山に住む知人によく預けられ、幼馴染みと共に遊び回っていたという。
「何が『疲れた』だ、嘘つきめ」
 悪態を吐きながらも王子は腰を下ろした。自分が疲れているのは間違いなかったからだ。部下が気を回してくれたのは嬉しいが、王族たる者がこのようなことで部下に気を回されたことが悔しくて仕方がない。
 重装歩兵は苦笑いを浮かべた。王子と同じくらいの年頃の、金髪碧眼の少年で、穏やかな風に取り巻かれているような雰囲気を纏っている。王子の悪態も、その前では、暖簾(タペストリ)に腕押しといった塩梅だった。
「あと、敬語はやめろと言っただろう。今の僕は『殿下』じゃない」
「これは失礼しました、アシュクニー殿下」
「あのな」
 アシュクニーと呼ばれた王子は、眉根を吊り上げて同行者に突っかかった。
「お前がその気なら、僕もお前を本名で呼ぶぞ、ナギ・クード・ファリーツェ」
「勘弁してください」
 今度は同行者が頭を抱える番であった。「おれをその名で呼ばないでほしいと何度――」
「――僕の背の傷のことをまだ気に病んでいるのか、ザリス」
「……」
 一転して真剣な眼差しを向ける王子アシュクニーの言葉に、重装歩兵の青年は返す言葉もなく押し黙った。
 アシュクニーが初めて重装歩兵の青年――ファリーツェに出会ったとき、彼は、「間違っても『ザリス』って呼ぶんじゃないぞ」と同僚に念を押して回っていた。どこをどうすれば『ザリス』などという呼び名が出るのかと思ったが、聞けば、幼い頃に武芸を教えてくれたパラディンからそう呼ばれるのがいやだったらしい。その名は、件のパラディンの故郷の古語で『二世』を意味するという。
 ところが、ある時を境に、彼は本名で呼ばれるのを嫌がり、あれほど呼ばれたがらなかった『ザリス』という名を名乗り始めた。
「あれは、僕自身のミスの結果だって言っただろう。父上もそう仰せだったはずだ」
 アシュクニー王子はなだめるように口を開いたが、『ザリス』は納得していない表情で首を振った。滲み出るのは後悔の念、数年を経ても残る心の傷から湧き出す膿の顕現だった。
「それでも、おれにもっと実力があれば、防げたはずなのです」
 彼にとって、本名を封じ、呼ばれたくなかった名を名乗るのは、未熟なのに父と同じ名を名乗って浮かれていた自分への戒めなのだという。
 アシュクニーは呆れたように息を吐いた。この重装歩兵は頑固だ。同僚と共にいるところをこっそり見る限り、根はけっこうやんちゃで柔軟な性格であることが見て取れるのだが、自分の前でそんな一面を見せてくれることはない。
 彼の同僚をいつも羨ましく思っていた。だから、父王から、南方にあるという世界樹のある街・海都アーモロードへ行くように命じられ、その供としてザリスに同行が命じられたとき、嬉しく思ったものだ。畏まる必要のない場所でなら、自分も憚ることなく彼の素の姿が見られるのだと。
 しかし、そうではなかった――『アシュクニー』という存在自体が、ザリスにとっては、その目前で態度を崩すことができない理由なのだ。
 仕えるべき『王国』王族だから、というだけではない。やはり、数年前のことがあってこそだろう。
 ……今は仕方のないことだ。一人称が『おれ』と砕けているだけでも、よしとしよう。
「……アーモロードまではどれくらいかかるだろう」
 アシュクニーは話を変えた。
 ザリスは、どことなく安堵したように表情を和らげると、考え込みながら口を開く。
「ええと……これから向かうべきはムツーラです。そこから船に乗って……さて、船旅はどれくらいになることか……」
「ここまで来るのにも馬車で二ヶ月もかかったのに、遠いね」
「海を越えるのは大変ですから」
 『王国』は二十年近く前に、東方航路を開拓したことがある。しかし、それも、限られた航路を通って『フォレストジェイル』に到達できるだけのものであり、海はまだまだ人間の手の及ばぬ領域であった。数年前に、たまたまアーモロードからの漂着者が『王国』に現れなければ、海都は朧な伝説のままであっただろう。かの地を踏むためには、『フォレストジェイル』航路の初期のように、危険が排除されきっていない海路を行くしかないのだ。
「そんなに離れているのに、言葉はなんとか通じるんだ。いくら昔に共通言語が広められたからとはいっても、おもしろいものだよね」
「伝説が『王国』にも残っていたってことは、昔は交流があったのかもしれません。なんでも、アーモロードは優れた文明を持っていたとか……」
 その『文明』が、どれほどのものだったのかはわからない。エトリアやハイ・ラガードにある『世界樹の迷宮』の奥にあった、数千年前の『前時代』に由来するものなのか、それ以降に発生したものなのか。いずれにしても、その文明は、百年前に、大災害によって都市の中心部もろとも消失したという。その痕跡を求め、アーモロードには様々な者達が集まっているという――しかし、謎が晴れる日は、未だに来ない。
 その謎を解き明かすことを、アシュクニーは命じられた。ただし、『王国』王子ではなく、信頼できる一冒険者として。大国が表立って手を伸ばせば、近隣諸国の疑念を招く故に。事実、『フォレストジェイル』では『王国』元老院の一部が、その地にあった『力』を我が者としようとしたことがあるのだ。
 アシュクニー本人としては、もちろん、見付けたものを悪用する気はない。父王の願いは、アシュクニー本人の鍛錬と、謎に満ちた『前時代』の情報の片鱗を知ること、それだけなのだった。
「……そろそろ行こう」
 思いを断ち切り、アシュクニーは立ち上がった。疲れが完全に取れたわけではないが、この程度でへこたれてはいられない。
 ザリスは、こちらは微塵も疲れていない様子で、鎧含めた荷物をひょいと背負い直した。
「今更ですが、わざわざおれの故郷に寄る必要などないと思いますが」
「言っただろ。会ってみたいんだよ、お前の師匠――ハイ・ラガードの英雄・黒い聖騎士殿に」
「英雄なんて呼んだら怒鳴られますよ。あの人、たぶん陛下にも容赦しない人ですから」
「楽しみだ」
 アシュクニーは笑声を響かせながら歩きだす。ザリスも、やれやれ、と言いたげに首を軽く振って、王子の後を追った。
 山道はまだ続く。目的地までにあと何度、休憩を挟むことになるだろうか。それでも、引き返すことはないだろう、と、王子と重装歩兵は、どちらも等しく思っていた。
 それは、さらに先に待ち受ける、アーモロードの探索でも同じことだと。