世界樹の迷宮:Verethraghna ハイ・ラガード編;第三階層――もう人間じゃない(前)  世界樹の枝葉の下、大公宮は、翼を広げて休む白鳥のような優美さでそこにある。  陳情に訪れる国民や、布令の内容を確認するために訪れる冒険者や樹海に出向く衛士が出入りする以外は、大きな動きが垣間見えることはほとんどない。  しかし、実際の白鳥が水面下で激しく水を掻き動かすように、大公宮もまた、外面から見えないような忙しさを抱えている。  たとえば、このように平和な国でも、権力者同士の争いは存在する――が、この件に関しては、語れば語るほどに泥沼に嵌りかねない、ひとまず埒外に置くとしよう。  世界樹の迷宮に直接関与する話に限るとしても、冒険者達の持ち寄った情報――有形無形を問わず――を元に、いかにしてそれらを国益に反映するか、その過程で問題が吹き出ないのか、識者達は研究に余念がない。  目下の問題は、病に伏せる大公を癒す手段が、迷宮で発見されるか否か。  古い書物の記述に頼った結果、第二階層で、サラマンドラの羽毛という希有な素材を発見することができた。研究の結果、それは生命力に富み、薬剤の材料としては最上級のものであることも明らかになっている。  しかし、それだけでは大公は癒せない。  書物に記述された薬品の調合法には、続きがあったのだ。もうひとつの素材、そして、特殊な方法が必要なのだという。  大公宮の者達の与り知らぬことだったが、サラマンドラの羽毛を採取してきた『ウルスラグナ』のアルケミスト達の予想した通りであった。秘薬には『硫黄』と『水銀』(錬金術的な意味での)が必要なのである。  硫黄――内なる力(エネルギー)、膨張を図る力、男性要素、その象徴は炎。  水銀――外からの光、変幻する力、女性要素、その象徴は水。  そして、相反するそのふたつを繋ぎ止める特殊な手段――。 「奇しくも、何が何でも天空の城を見付けなければならぬ理由ができたわけじゃな……」  古文書の翻訳を書き留めた書類の束を、ぱらぱらとめくりながら、大臣はひとりごちた。  大公宮の中では、これまでの空飛ぶ城探索について、どちらかといえば、見つからなければそれはそれ、と思われていた節がある。もちろん、建国に関わる伝承である、到達できるに越したことはない。だが、実利に限って言えば、主軸は樹海探索。変な言い方をするなら、空飛ぶ城は冒険者を先へ先へと釣る『最大のエサ』といえた。  しかし、空飛ぶ城の中に、大公の病を癒す手段の一つがあるとなれば、話は別になる。何が何でも空飛ぶ城に到達しなくてはならない。それも、大公の病が食い止められなくなる前に。  だが、樹海探索の最前線にある冒険者ギルドですら、未だに天空の城の手がかりは掴めていないらしい。 「もっとも先に進んでいるギルドは……どこじゃったかな」  巫医と銃士の二人組であるギルド『エスバット』のことが脳裏に浮かんだが、確か彼らではなかった。二人だけの旅路という厳しさは、彼らをしてもなかなか覆しにくいもののようだ。  彼らをはじめとする、第三階層に踏み込んでいる者達には、そのまま天空の城を目指してもらうとして、もう一つの捜し物に協力してもらうべき冒険者は……。 「……いや、サラマンドラほどの危険もないのじゃ、冒険者に頼ってばかりというわけにもいかん」  脳裏に浮かびかけた、黒い肌の聖騎士の顔を、按察大臣は振り払った。冒険者達は報酬目当てのみならず、好奇心を理由に探索に当たっている節がある。それを大公宮の用事で中断させるのも酷だろう。  予算という切実な問題もある。冒険者に依頼すれば礼金が必要だ。もちろん、衛士に探索させるにしても、特別報償を計上する必要はあるだろうが、冒険者への礼金はその比ではない。大公からは、必要だと思ったなら予算を気にすることなく下賜せよ、との仰せではあるが、それはすなわち、按察大臣が『必要』の何たるかを判断せよということであり、無限に報償を出していいというわけではない。倹約できるところはするべきなのだ。  それでもなお、冒険者に依頼するという事態が起きたなら……。  大臣は、先ほど振り払った、黒肌の聖騎士の顔をまた思い浮かべた。  サラマンドラの羽毛採取を依頼し、公国の秘事、公王の病臥を知らせた者達。天空の城を視野に入れてもらわねばならないほどに先を行っている訳ではないが、これから第三階層に挑むであろう実力者。  何かあったら――頼る相手は彼らになるだろう。  天牛ノ月十二日。  癒し切れぬ心の痛みを抱えながらも、『ウルスラグナ』は先へと進む。  彼らの目の前にあるのは第三階層。既に数多の冒険者の足跡の付いた地ではある。けれど、その事実は『ウルスラグナ』の好奇心を損なうものではない。先達のもたらした記録にも、敢えて目を通さずに、己自身でその地を見る時を待ち望んだ。あるいは、未知に目を向けることで、少しでも悲しみを和らげようとしたのかもしれない。  だが、探索に赴く者達のことは、後に回すとしよう。  探索班が朝方からの探索に出てからしばらくして、子供達が私塾に集まってきた。昨日の突然の休みを堪能したかと思えば、必ずしもそうではなく、「母ちゃんに仕事手伝わされた」という声もちらほら聞こえる。  もうじき収穫の時期に差し掛かる。その頃になると、子供達の中には、家の仕事――つまりは農作業やその他関連職――に駆り出され、私塾を長く休むようになる者も出てくる。どうせなら『収穫休み』とでも称して皆休ませてしまってもいいのだが、夏休みの直後に大型休暇が続いてしまえば、仕事をする子はともかく、そうでない子はきっとだれる。フィプト自身にも――いかに錬金術師に憧れ、遠きギルドに足を運んだ身としても――覚えがあることであった。  だったら夏休みを廃止して秋にずらせばいいのでは、と考えたこともあるが、結局放棄した。ハイ・ラガードとて、自治都市群ほどではないとはいえ、やはり夏は暑いのだ。子供達は勉強どころではなく、だれる。  かといって、普通に授業を進めれば、休んだ子供達が復帰後に追いつけなくなる。というわけで、秋頃の授業は、勉強と言うより、復習を兼ねた少々軽めの謎解き(クイズ)めいたものになるのが常であった。そこで問題になるのが、臨時講師センノルレである。あの硬い女性――昔より驚くほど柔らかくなっているように、フィプトには思えるが――に、肩肘張らない問題を、作るまではまだしも、肩肘張らないままの状態で出題することができるのだろうか。  そのセンノルレの凛とした声が、階下の教室から流れ始めた。授業の始まりである。  本来なら、フィプトが私塾にいる時に授業があるのなら、冒険者となる以前のようにフィプト自身が教鞭を執っているところだ。しかし、この日ばかりは違った。 「すいません、こんな朝早くから来てもらえるとは、恐縮です」  フィプトが頭を下げる相手は、作業服に身を包んだ壮年の男である。広い肩幅と、服の上からでもわかる筋肉の盛り上がりが、力仕事に従事する者であることを声高に語る。 「いやいや、これも仕事だ。それに、先生の頼みだしな」  私塾の管理者と作業員、二人がいるのは、パラスの部屋の前。破損してしまった扉を交換しているのだ。  古い扉を外したところで、壮年の男は作業の手を止め、なつかしそうに周囲を見渡した。 「いやしかし、昔を思い出すなぁ」  壮年の男は、かつてはハイ・ラガード拡張工事に従事した工夫であった。近隣の小国から職を求めて来たが、作業が終わった後に永住手続きを取った。仕事の間にラガードの女性と愛し合ったのである。そうして家庭を持った後、かつての技能を生かして工務店を構えている。かつての宿泊場をフィプトの私塾に変えたのも、彼とその部下の仕事であった。 「おかげさまで、快適に過ごさせてもらってます。この私塾でも、街でもね」 「そいつは光栄。だが、ここんとこ冒険者が随分増えたからなぁ。スペースはまだ余裕あるけど、修復が大変でなあ」  形あるものは壊れゆく。それは街も例外ではない。人の営みや自然現象によって、次第に崩壊していくものだ。まして冒険者の流入が激しくなり、多くの人が行き来するようになったハイ・ラガードでは、街の中と外とに関わらず、特に道の悪化が進んでいた。『ウルスラグナ』も、少しばかり前に、主要な街道の飾りが破損したということで、修理用の天河石を樹海から採集してくるように依頼されたことがある。樹海探索が本格化する前は、天河石はほとんど輸入に頼っていたとか。 「前は、山間部から岩石を買い集めるのに大変だったが、樹海の中でちょうどいいのが見つかるなら、ちったぁ楽になるかな」 「その分、冒険者としては苦労することになりますね」 「それも仕事だろう、はっはっは」  ひとしきり笑うと、男は改めて、古い扉を眺めた。半ば呆れたような声が漏れる。 「……にしても、この扉を殴り壊すかね。どんな馬鹿力だい、先生んとこの黒い坊主は」 「ははは、すみませんね。でも、ひょっとしたら、もう古いのかもしれませんね」  扉であるからには、少なくとも薄っぺらい柔板で作られているわけではない。それを、エルナクハは掌底で破損せしめたのである。重い盾で魔物を撃破する彼とはいえ、素手でそれをやってのけたのは、やはり年月を経て若干弱まっていたことが原因だろう(それでも並みの人間にできることではないだろうが)。というのは、拡張工事時の宿舎から私塾に変えるとき、資金の関係もあって、内装を総取り替えしたわけではないからだ。扉も、修復したり、塗装をし直したりして、引き続き使用していた。そもそも、宿舎の時でさえ再利用(リユース)品を使っていたというから、この扉も実体は相当古いものだったのかもしれない。それは作業員の男も考えていたことであった。 「だなぁ、店に持って帰ってから調べてみるけど、こいつはひょっとしたらもうダメかもな」  仮にもう扉として使えないとしても、最後の使用方法がある。ラガードの寒い冬に備え、焚き付けとなって売られるのである。 「ま、とにかくここの扉は新しいのに取り替えるぜ、先生」 「お願いします」  頭を下げて頼んだそのとき、フィプトは外から自分を呼ぶ声を聞いた。 「せんせいー、せんせいー!」 「……ティレン君?」  現役冒険者という括りに限れば、現在私塾にいるのは、フィプト本人とマルメリ、ティレンである。そのティレンはいつものように中庭にいた。ハディードの世話と、自身の特訓のためだ。そのソードマンが、声を張り上げて自分を呼んでいる。追随する獣の吠え声は、ハディードのものである。  なにがあったのか。フィプトは作業員に断りを入れて、首を傾げながら隣の応接室に向かった。  下に降りなかったのは、応接室の窓から様子を窺おうと思ったからだ。パラスの部屋から見た方が早いのかもしれないが、女性の部屋にむやみに踏み込むことには、やはりためらいがある。  応接室では、マルメリが窓から外を見ていた。フィプトに気が付くと振り向いて笑いながら曰く。 「あ、やっぱこっちに来たぁ。フィプトさんにお客さんよぉ」 「お客……ですか?」  バードの娘の招きに応じて、フィプトは彼女と一緒に中庭を見下ろし、軽い驚きを覚えた。  ソードマンの少年や樹海の子獣と共に佇んでいるのは、フロースの宿の女将だったからである。 「珍しいですね、女将さんがこちらに来て下さるのは」  改めて中庭に出たフィプトは、女将に軽く会釈をした。その様を見て、ハイ・ラガード伝統の民族模様が入った服に身を包んだ、恰幅のよい女将は、ウフフフ、と朗らかに笑う――炎の魔人に似ている、と、どこかの冒険者に言われたというが、こうして見ると、やはり明らかに違う。 「お茶でも出しましょう、中へどうぞ」 「ありがとうね。でも、そこまでしてもらっちゃ悪いよ。それに仕事があるからね」  女将は申し訳なさそうに手を振った。フロースの宿は彼女の一家で業務を回している。用件の中身にもよるが、確かに、長く宿を空けているわけにはいかないだろう。 「そりゃ残念ですね。で、ご用件は何ですか?」  フイプトが促すと、女将は太い首をこっくりと曲げて、口を開くのだった。 「アンタたち、第三階層に踏み込んだそうだね?」 「おや、耳が早い。よくご存じで」 「別の冒険者(こ)たちに聞いたのさ。……あの黒い子、昨日は随分としょげてたけど、大丈夫なのかい?」 「その件は、ええ、大丈夫です。ちょっとしたトラブルがあっただけで」 「なら、いいんだけどね……それで、第三階層に踏み込んだアンタたちに、頼みたいことがあるんだよ」 「頼みたいこと?」 「ウチの娘のことなんだけどね……」  フロースの女将の娘については、フィプトも旧知であった。かつては私塾の生徒でもあったのだ。母親である女将とは違って華奢な少女だったことをよく覚えている。  彼女は身体が弱かったのだ。普通に暮らす分にはさほどの問題はないが、時折、呼吸困難の発作を起こし、薬泉院の世話になる。授業中にそのような事態になったことも何度かあった。 「その発作なんだけどね、世界樹様の中に入れるようになってから、ツキモリ先生が思いついた方法が上手くいってね、前ほどは出なくなったのさ」 「それはよかった。差し支えなければ、どんな方法か聞いてもいいですか?」 「ああ、樹海の中の空気を吸わせるのさ。何日かに一度ね」  フィプトは世界樹の真実を思い出す。正確には、世界樹誕生のきっかけとなった、前時代の環境汚染の話を。  世界の汚染は浄化されきっていなかったのかもしれない。正確に言うなら、『規定値』までは達成していたものの、敏感な者は、わずかな汚染にも影響され、病を得てしまうこともあるのかもしれない。そして、世界樹の中の大気は、自分達のような健康な者にはよく判らないが、外気よりも清浄なのだろう。 「でもね」と、女将は片頬に手を当て、困った表情で首を傾げた。「ほら、こういうことって、この国はいろいろやってくれるじゃないか。だから娘のことも、衛士さんが連れてってくれるんだけど、あんまり頻繁に頼るってわけにもいかない。せめて樹海に行く間隔が長ければ、衛士さんも娘ももう少しは楽だろうと思うんだけど……そこで、頼みなのさ」 「小生達に、娘さんを樹海に……っていうわけじゃ、なさそうですね」 「アンタたちにも探索があるからねぇ、それは頼めないよ」  残念そうに首を振った後、女将は話を続けた。 「大公宮が探索したときに、大気の成分を計った器具があるらしいんだけど、それを使って、娘が今行っている場所より空気がきれいな場所を探してほしいのさ。もちろん、探索のついででいいからさ」 「うーん、困りましたね……」  本当は一も二もなく承諾したかったのだが、フィプトは黙り込んでしまった。  もともと、自分は、西方のアルケミスト・ギルドから送られてきた鉱石の有効利用を図るための実験に注力する予定だったのだ。もちろん、一日中実験をするわけではないから、夜間の探索には出られるかもしれないのだが、それもはっきりしているわけではない――実験で疲労して探索どころではなくなるかもしれないのだ。しかし、他でもない顔見知りの頼みである、無下に断るというのも気が引けた。鉱石の研究は後回しにするべきか、それとも……。 「女将さん、その器具、持ってますか?」 「ああいや、後でバイファー君が持ってきてくれることになってるけどね」 「そうですか……」  フィプトは決断した。女将に力強く頷く。 「恐縮ですが、バイファー君には、器具をこっちに持ってきてくれるように頼んでもらえませんかね?」 「じゃあ……やってくれるのかい?」 「ええ、お引き受けしますよ」  喜色を顕わにする女将に再び頷きながら、フィプトは考えた。まずはその器具を見てみよう。操作が簡単なものなら、探索班に任せればいい。錬金術師でもなければ扱えないようなら、鉱石のことは後回しにしよう。実のところ、樹海の内外で違うという空気の汚染度に、興味が湧いたことは否めなかった。  そう思った時、 「寒かったぞコンチクショ――――ッ!!」  探索に出たはずの仲間達の、悲痛な悲鳴が聞こえてきたのであった。  一方、時間を若干遡った、探索班の話である。  樹海に踏み込んだ、パラディン・エルナクハ、ダークハンター・オルセルタ、ブシドー・焔華、レンジャー・ナジク、メディック・アベイの五人は、磁軸の柱を利用して、第二階層十階に足を踏み入れた。  魔人の巣窟であった広場では、一昨日倒した魔人の屍が無惨な様を晒していた。目ざとい小動物達が食い散らかしていったのか、体積は半分ほどしか残っていない。それでも、残りには蟲がたかり、なんとも言えない臭気を放ち始めていた。  なるべく屍から遠くを歩き、冒険者達は階段に辿り着いた。  そうして気が付いたことがある。心なしか、階段の付近はひんやりとしていたのだ。炎の魔人が倒れたからか、戦いに挑んだときには周辺より数度ばかり暑かったこの広場も平常気温に戻っていたのだが、この狭い領域だけ涼しいのはどういうことだろうか。  冷気は、階段の上から降りてきているようだ。学者が語るところによれば、暖気より寒気の方が重いらしい。素人にはピンと来る話ではないが、暖炉に火を入れていても、余程火元に近い場合を除けば、足下がなんとなく寒かろう、と問われれば、確かに、と頷けることではある。 「上は寒いのかな……」 「かもな」  アベイが階段の上を見上げてつぶやくところに、エルナクハは同意を返した。 「なぁナック、もしかしたら、炎の魔人って、自分でも暑いのが嫌で、この広場を占領してたのかもな」 「ははは、まさか。まぁ、ありえねぇとは言えねぇけどよ」  彼らは荷の中から外套を出して纏っただけの準備を済ませると、ためらいもせずに階段に足を踏み入れたのであった。  後から考えれば、上階から流れてくる冷気を過小評価していたと言わざるを得ない。というのは、エトリア探索の際にも、第三階層は寒かったので、冒険者の頭の中にはその頃の感覚が染みついていたのだ。 「オルタ、腹巻き持ってきた方がよかったんじゃねぇか?」 「かもねー。でも腹巻きすると動きが鈍るのよねー」  黒い兄妹などは、こんな軽口を叩く程である。彼らの故郷である『御山』はもっと寒かったから、『千年の蒼樹海』程度の冷気であれば、普段着でも平気でいられる。  逆に、比較的暑い地方生まれのナジクや、強靱とは言えないアベイは、外套の隙間をしっかりと閉ざし、極力、自分の体温で暖まった空気が逃げないようにしていた。  焔華はというと、「これも鍛錬」と言いたげに、少なくとも外見は平然としている。  しかし、階段を上り詰めていくうちに、誰もが、あまりにもおかしいことに気が付いた。  寒い。豪奢な形容詞など付けている余裕もないほどに寒い。エトリアの第三階層など比較にならない。気温は加速度的に下がっていき、まだ『外』ですら見ない白い息まで吐き出されるようになった。ふと足下を見れば、うっすらと白い。何気なくその上に指を滑らせると、鹿革の手袋越しなのに冷たさが指を刺した。 「雪……だと?」  あわてて上を見上げると、確かに、ちらほらと舞い下りてくる白の欠片。  考える。第一階層が夏で、第二階層が秋ならば、第三階層が冬であるのも、おかしい話ではない。しかし、まさか雪まで降るとは思わなかった。なにせ、ここは世界樹の迷宮の中、屋内なのである。  もっとも、雨が降ることは、ごくたまにある。それを考えれば、雪だっておかしくないという話になるのだろうか。  それにしても、やはり寒い。纏っている装備は冬仕様ではないのだ。黒い兄妹はまだしも、他の者達は身を縮めて寒気に耐えている――焔華でさえも、涼しい顔はしていられなくなったようだった。  事前に情報を仕入れなかったのが悔やまれる。  それでも彼らがすぐに帰らなかったのは、ひとまず第三階層がどれほどのものなのか、自身で体験したかったからだ。彼らがいるのは階段の中腹あたり(これまでの階段と同程度だとすれば)なのである。  無言のまま、一行は階段を踏みしめる。  ようやく出口が見えてきた頃には、大気は極寒の気配を纏っていた。寒さに慣れていたはずの兄妹ですら、忌々しげに先を見る。出口からは粉雪がちらほらと吹き込んできて、足下に積もる雪は増す一方だった。  そうして、第三階層十一階の地を踏んだとき、冒険者達は、半ば絶望を含んだ白い息を吐いた。  階段を抜けるとそこは雪国であった。どこかの古い伝承の出だしが、そんな感じだったような記憶がある。  目の前に広がる光景は、地面の白と、空の青。木々や草は吹き付けた雪と氷に覆われて白い立像と化し、時折、思い出したように雪をふるい落とす。  迷宮のあちこちに巡らされた人工物は、石組みの橋を二段重ねにしたようなものだった。永い年月の果てにか、方々が朽ち果てていたが、それでも威容を損なうことはない。すぐ傍にも柱が立ち並んでいたが、全容は遠景でしか把握できない。よく見ると、見た目には二種類あって、片方は煉瓦積みが顕わになった柱を、もう片方は浮き彫りのある柱を使っていた。紋様は、さまざまなものがあったが、組み編んだ紐を表しているようなものが印象的であった。 「……ローマの遺跡みたいだ」と、身体を縮めて震わせながら、アベイが口を開いた。しゃべる度に、白い息がぽんぽんと飛び出る。 「ローマ?」 「ああ、俺の生まれた頃から、えーと、二千年くらい前なのかな、その頃に、でかい国があったんだ。今の『共和国』の南側あたりだったかな。その国の遺跡で、こんなのがあったのを見た記憶がある」 「行ったのか? シンジュクから一年以上かかりそうなのに」 「テレビで見たんだってば。それに前時代でなら一日もかかんないで行けたよ」  という雑学はさておいて。  大変に寒く、一刻も早く街に帰りたいほどだったが、とりあえず少しは様子を見てみようと考え、冒険者達は足を進めた。数分歩いたところで、分かれ道に差し掛かる。前方と左右、いずれにも行けるが、前方はすぐに行き止まりになることが確認できる。左方に首を向けると、前々からお馴染みの、樹海磁軸の紫色の光が、天に立ち上っているのが見えた。辿り着くまでは五分もかからないだろう。  あと五分だけなら我慢しよう、と全員が思った。樹海磁軸を使えるようにしておく意義は大きい。  ぎゅっぎゅっと雪を踏みしめ、冒険者達は磁軸へと足を向けた。辿り着くまでの間、幸いに魔物は現れなかったが、誰もが無言だった。  雪はさほどの障害ではない。戦えないほどではないだろう。降ってくる方も、ちらりほらりという程度で、視界の妨げになるようなことはなかった。問題はやはり、寒さだ。こんなに凍えてしまっては、凍死までには至らないにしても、戦闘に支障が出る――そこまで考えて、エルナクハは己の浅薄を恥じた。本当なら、第三階層に踏み込んだ時点で引き返すべきだった。樹海磁軸に到達するまでの間に、魔物が襲ってきたとしたら、自分達は力を発揮しきれないままに誰かを失っていたかもしれないのだ。それは、樹海磁軸を起動させることよりも気を払うべき、最重要事項だったはずだ。  喪失というイメージが、昨日のように、心を締め付ける。  それを振り払うように、エルナクハは言葉を発した。 「ひとまず帰ろう。装備を見直さねぇと」  反応はなかった。皆が寒さに凍え、唇まで青くしていたからだ。そもそも、エルナクハ自身も同じような状況で、発したつもりでいた言葉も皆に届くに十分な声量を保っていなかったのだった。  ――その顛末が、フィプトの耳にした「寒かったぞコンチクショ――――ッ!!」という悲鳴であった。  山と積まれた木箱の中に混ざって、フィプトが何やら捜し物をしている。  ひんやりとした室内は、さすがに第三階層ほどではないが、それでも肌寒さを感じさせた。 「……よくよく考えりゃさ」と、エルナクハは家主に問いかける。 「冬服探したところで、アンタの服が出てくるだけじゃねぇか?」  がさごそと捜し物をしていたフィプトの動きが、ぴたりと止まった。ばつが悪そうに顔を上げ、がっくりとうなだれる。 「……考えてみれば、そうでした」  私塾の地下を見るのは、エルナクハにとっては初めてだった。一階の上り階段の脇に下り階段があり、扉に行き当たっていることは、前々から知っていたが。フィプトの説明によれば、生徒達が地下室にもぐって遊んだら困るので、普段は封鎖しているのだとか。一年通して室温が低いので、季節ものをしまっておくには都合がいいらしい。  第三階層のことを探索班から聞いたフィプトは、防寒具を探していたのだが――自分の分しかないのは火を見るより明らかだ。誰かが借りるとしても、サイズが合う者は多くないだろう。少なくともエルナクハには着られない。 「シトトで調達、かぁ……」  エルナクハは後頭を掻きながら嘆息した。最低でも冬用の外套、鎧を身につける者としては、できれば綿入れ(キルト)も厚いものにしたい。ダークハンターとして軽装であるオルセルタに、腹巻きの話をしたものだが、あながち冗談ではない。手袋も欲しい。マルメリは弦を爪弾くのに邪魔だからと手袋を嫌がるだろうが、指先が出るタイプのものでもいいから用意する必要があるだろう。欲望は限りないが、これは贅沢ではなく、なくてはならないものなのだ。  資金については困らない。よほど高いものでなければ、たぶん足りるだろうし、足りなかったら樹海で素材を調達して当てればいい。  問題は、シトト――でなくてもいいのだが――に、冬用装備の在庫があるか、だ。  先に第三階層に挑んでいる冒険者がいることを考えれば、用意をしたことはあるだろう。だが、春から夏にかけての頃だったということを考えれば、特注に近かったと思われる。今は秋だから、そろそろ冬用の支度をしていてもいいだろうが、まだ商品として揃っているわけではあるまい。これから注文しても何日かはかかるだろう。 「それまでお預け、かぁ」  ちょっと悲しい。樹海探索自体は、第二階層あたりをさらって鍛錬に当てればいいが、せっかくの新階層がお預けになってしまう。せめて先に先達の記録に目を通していれば、と思うも、今更の話である。  毛皮を自分達で調達すれば、少しは早く手に入るかもしれない。  そんなことを考えていた時である。 「フィプトどの」  開け放していた地下室の扉の向こう、階段上に姿を現した者がいる。焔華であった。ブシドーの娘は身軽に段を踏みながら降りてきて、 「バイファーどのと、フロースの女将さんがお越しですし」  ここまでは別にどうということのない取次だが、その後が妙だった。 「せやけど……『ウルスラグナ』全員、来いと言うんですし」  授業を行っているセンノルレは別だが、他の全員が、何ごとかと訝しみつつも、言われた通りに集まった。客人はすでに応接間に通してあったので、もちろん『ウルスラグナ』達もそこに集う。  部屋に入って気が付いたのは、客人達が、なんだか大きな布包みを一つずつ持ってきたことだ。フィプトが、フロースの女将に頼まれごとをしていて、そのために必要なものを衛士バイファーが持ってくる手筈になっている、という話は聞いていた。が、『それ』はそんなに大きなものなのか。そもそも女将までまた来たのは何故なのか。  と思ったら、バイファーが出してきたのは、構造こそアルケミストでしか判らないような面妖な機構だったが、大きさ自体は一般的なカンテラ程度のものだった。では布包みの正体は何なのか。 「第三階層は寒いんだってねぇ、この子からこっそり聞いたよ」  と、バイファーを指しながら、女将は笑う。 「まぁ、冒険者用の防寒装備じゃ、いろいろ細かく考えなきゃいけないだろうけど、外衣(コート)だけでも、繋ぎには役立つでしょ」  ばさりと布包みが広がると、中に押し込まれていたものが一気に膨らんで山となった。冒険者達は軽い驚きを息に込めた。それは冬用の外衣や手袋だったのだ。よくよく見ると、ほつれていたり、継ぎ接ぎが当てられていたりするけれど、まだまだ十分着られる代物だ。何ごとかと無言で疑問を呈する冒険者に、女将は朗らかに笑いながら説明するのだった。 「あたしやウチの人が使ってた古い防寒服さ。ホントはそろそろ、教会に寄付しようと思ってたんだけどね、調査のお礼にちょうどいいかって思ってさ」 「……いいのかよ、おばちゃん?」 「悪いと思うんなら、ちゃんとした装備を早く揃えて、これは洗濯して、教会に持ってっておくれ」  そう言い置いて、女将は「仕事があるから」と去っていった。  残された冒険者達は、呆気にとられつつ、辛うじてつぶやく。 「……洗濯して、っていってもなぁ」  探索に使った装備の末路がどんなものか、多数の冒険者を迎え入れている宿の女将が知らぬはずがない。それでも女将は、役立ててくれと、防寒服を持ってきてくれたのだ。依頼の礼だとはいえ、なんとありがたいことだろう。  できるだけ大事に使おう、どうしても汚損してしまうところは修復していければ、と冒険者達は思う。  ひとまず、エルナクハは一番大きそうな外衣を広げた。普通に着るには少し大きそうだが、鎧を装備した上から羽織るにはちょうどいいだろう。表も裏も、ほつれてはいるが、ふかふかとした起毛処理が、北国の冬を過ごすには頼もしい。第三階層の寒さにも対応できるだろう。  丈は中途半端に短い気がするが、この大きさ、宿屋の女将の旦那のものだろうか。  そう思っていたエルナクハの耳に、フィプトに器具の説明をしていたバイファーの声が届いた。 「あ、それ、何年か前に女将さんが着てたものですね」 「……」  というような一件を話すと、シトトの娘は明るく笑った。秋に向けて涼しくなっていく中、髪飾りのヒマワリが――本物ではないのだが――夏の残滓を感じさせる。  ひとしきり笑った後、表情を改めたシトトの娘は、今度は申し訳なさそうにうなだれた。 「ごめんなさい、『ウルスラグナ』のみなさん。私、第三階層が冬みたいに寒いって知ってました」  女アルケミストを除いてシトト交易所を訪れていた冒険者達は、驚かなかった。だろうな、と内心で頷く。  すでに第三階層に踏み込んだ冒険者が存在する以上、その装備を整える立場の者が、装備が使われる場所の気候を推測できないはずがない。シトトだって彼らの装備を新調するのに協力したはずだ。それが『ウルスラグナ』に何も忠告しなかった――第三階層に踏み込む直前に交易所にも寄ったのに――のは、『特定の冒険者に肩入れしてはいけない』という布令を守っているからだろう。  大公宮で、探索の手が入った階の情報が公開されるようになったが、自分達から申請しなければ閲覧できない。そもそも、実際に到達した階までの情報しか許可されないのだ。それを思えば、今朝方の探索に赴く前の『ウルスラグナ』が情報を求めても、与えられるはずがなかった――その時には彼らはまだ第三階層を踏んでいなかったからだ。 「腕伸ばしてくださいねー」 「あ、ああ、スマン」  声を掛けられてエルナクハは我に返った。今、冒険者達は、交易所の女工達に取り囲まれている。寸法を測るためだ。第三階層の冒険に着用するための防寒着を作るのである。自分の腕に当てられる巻き尺の目盛りに何となく目をやりながら、エルナクハは問うた。 「随分細かく丈ぇ計るんだな?」 「外衣(コート)だけってわけにはいきませんからね」毛皮を広げて吟味しながら、シトトの娘は答えた。「やっぱり、アンダーウェアも冬仕様にした方がいいでしょう? 何かの拍子に外衣が破けたりして役に立たなくなっても、他に何も対策してないよりマシだと思うんですよ。あ、そうだ、この機会ですから、ついでに街で着る冬服もご注文いかがですか?」 「あ、そうですね。確かに皆さんの分を頼まないといけません」  フィプトが得心する。 「ありがとうございます!」 「商売うめぇなぁ」  シトトの娘が元気に返すのを聞きながら、エルナクハは感心せざるを得なかった。  というような一件を話すと、大公宮の按察大臣は「ほっほっほ、それは難儀でしたの」と笑った。 「じゃが、フィプトどの以外の皆様は、この国の冬を知らないでしょうて。交易所の娘ごの物言いは、無論、商売の気もあったでしょうが、冬の寒さを考えればまっこと正しいものですぞ」 「そんなに寒いの? 何でも屋さん大臣さん?」  ティレンのあどけない物言いに、相変わらず『何でも屋』扱いされている大臣は、しかし気を悪くした様子もなく、幼子に――人間の常識に疎いところは、ティレンも幼子のようなものだが――言い聞かせるように、滔々と話し始めた。 「この老骨は、ほれ、『何でも屋』じゃからの、毎年今ぐらいになると、それはそれは大変なのじゃよ。公王様、公女様、衛士、文官、大公宮におる数多の者が寒さに耐えるために、暖かい服をたくさん用意せねばならぬ。去年着た服は、しまってあったからの、干して埃を叩き出さねばならぬ。街の者達も冬の準備をするが、自分では準備できない者たちもおるからの、ささやかなれど、その手助けも必要じゃ。で、そういった物事に対して、『許可のサイン下さい』と、いろいろな者たちがやってくるのじゃよ。ハイ・ラガードで冬に備えるのは、かほど大変なこと――ほら、またじゃ」  文章に起こすと、すらすらと話しているようだが、その実、折良く(?)「閣下、書類にサインをお願いいたします」と謁見の間にやってきた者達のために、途中何度か中断している。その様を見たティレンは、心底理解したのだろう、 「そーなのかー」と、何度も頷いた。 「納得してもらえたようじゃが、もしまた疑問に思ったら、本当に寒いのか、フィプトどのに聞くとよい」 「……せんせい、ハイ・ラガードの冬はほんとに寒いの?」 「とっても寒いです」 「やっぱそうなんだ」  自分が滔々と話したことを、一言で納得され、大臣は苦笑いした。  ところで、『ウルスラグナ』は、ほんの短時間とはいえ十一階に足を踏み入れたのだから、先達の寄せた情報を閲覧する権利がある。地図については、間違っている可能性もあるので、参考程度にとどめたが、魔物の情報が得られるのは素直にありがたい。 「……あ、ここにもモリヤンマ出るのね」  情報の一片に目を留めて、オルセルタが思わず口を開いた。  エトリア樹海でも登場した虫である。『ヤンマ』と呼称され、『大トンボ』とも呼ばれるが、『外』のトンボとは似ても似つかない、もっとおぞましい何かである。  そんな魔物でも人間にかかれば『有用な素材』扱いされてしまう。その外殻は鋼を含んで硬く、武具の材料として有用だったが、それよりも驚くべきことは別にある。モリヤンマは巣を作るらしく、ときどき巣材となる植物を運んでいる最中であることもよくあった。この巣材も、普通は武具の材料にするのだが、実は食える。エトリアにいた料理人が、この巣材を使って料理を作ったのだが、その後「あの店は食えないものを出す」という噂が流れたわけでもない。ということは、味はともかく食えたと考えるしかあるまい。なんとも恐ろしいことである。いや、真に恐ろしいのは人間の順応性か。  十一階には、他にも、陸に上がってあまつさえ直立二足歩行している魚やら、タコでもないのに足が八本もある馬やらが生息しているらしいが、最も冒険者達の目を引いたのは、なんだかよく判らない魔物であった。  スノーゴーストというらしい。マシュマロを二個ほど重ねて手足を付け、目と口を付けたような姿をしているらしいが、その実体は雪の塊だという。雪の塊がどうやって動くのか、常識で考えると如何とも判断しがたい。だが、こんなことで先達が嘘を報告するとも考えづらい(勘違いはあり得るが)。 「興味深いですね。是非、実物を見てみたいものです」  フィプトが心底からの期待を顕わにつぶやく。  他の者にしても、実物を見てみたい気持ちは大きい。けれど、それはフィプトのそれとは若干ずれているだろう。すなわち――こんな冗談みたいな生物(とは思えないが)、何をどうしたらこの世に生まれてくるのだろうか?  私塾で昼食を摂ってから、探索班は再び樹海に赴いた。  シトトに注文した冬用装備は、なるべく最優先で仕立ててくれるという話だが、それでも数日かかるはずである。それまでは、宿屋の女将から譲り受けた被服でしのぐしかあるまい。  それでも、準備なく踏み込んだ前回よりは遙かにましだった。冷え切った大気は毛皮で緩和され、まだ寒いとは言えるものの、がたがた震えて探索に支障が出るほどの影響はなかった。  足装備の上からは、ワカンというものらしい、曲げた木の枝を二つ縛り合わせて輪のようにし、両脇に爪のようなパーツを付けた器具が、装着してある。雪の上の歩行が格段に楽になった。一度来たときには『さほどの障害ではない』と思っていた雪だが、雪のない大地で戦うことと比すれば、やはり影響は出る。対策をしておくに越したことはない。 「なぁ、ソレどうやって見るんだ?」  とエルナクハが声を掛けたのはアベイに対してである。極寒対策とは関係ないのだが、アベイは、とある器具を手にしていたのだ。宿屋の女将がフィプトに預けていったもので、目盛りの付いた試験管を逆さにしたようなものを何本も立てた、珍妙な形をしている。試験管(?)にはそれぞれ、位置こそ違うが大体は下部に近い場所に、赤い輪のようなものが通されていた。試験管の中には、ほのかに光る小さな球体のようなものが浮き沈みし、ほとんどが赤い輪の作るラインの上を漂っている。これで大気のなにがしかを計るらしい。 「とりあえず、難しいことは考えないで、光る球が全部赤い線の下に行けばいいって言ってた」 「んー、アルケミストの考えることはよくわかんね」  その『よくわかんない』人種(?)を妻にしている男がよく言うものである。  そんな彼らの前に現れたのは、大公宮での資料閲覧の際に話題になったモリヤンマであった。  今さら何を、と言われるかもしれないが、奴らは飛ぶ。おまけに降る雪はわずかで、飛行に支障があるようには見えない。装備のおかげで緩和されているとはいえ、雪に足を取られがちな人間達とは、機動力が雲泥の差だ。  そんな状況で力を発揮したのは、飛び道具を使うナジク。  そして――予想もしなかったことにオルセルタ。  意外だったが、後に理由が判れば得心できることであった。ダークハンター達にはスパイクの付いた靴を愛用する者もおり、オルセルタもその一人だったのだ。それが雪上で足を取られずにすむように働き、ダークハンターとしての戦い方の助けになったのである。  相手が一体だったことも幸いして、どうにか倒したが、その後が、オルセルタにとっては大変だった。 「スパイクの間に雪が……」  見事に詰まって外れなくなってしまったのだった。戦闘行動で走ったために、雪が圧縮され、固くなってしまったのである。雪の上ではしゃがんで手入れをするわけにもいかない。兄の肩を借りて、ダークハンターの少女は、剣の先で懸命に固まった雪をほじり出した。  余談だが、焔華はワカンの扱いに慣れていたのか、比較的淀みなく動けていた方である。後の二人は――攻撃手ほど駆け回る必要がないとはいえ、もう少しは慣れねばならないようだった。  一通りの後始末を済ませると、一同はモリヤンマの死体を改める。  一見してエトリアの同種と変わりなさそうな魔物だったが、どうも様子がおかしい。外殻が硬くないのだ。柔らかいわけではないのだが、言ってみれば、普通の樹は硬くてもナイフで簡単に傷付く、そんな感じに似た硬さなのだ。 「ラガードのコイツらは、鋼鉄を含んでないってのか……?」  仮に含んでいたとしても微量なのだろう。残念ながら素材にはならないらしい。巣材を持っている様子もないし、今回は(戦利品を獲るという意味では)くたびれもうけのようだった。  ところで、一行は、樹海磁軸の傍から真っ直ぐ東へ向かっているところだった。途中、第二階層への階段へ続く道を横目に、なおも東へ向かっていたが、その道は次第に曲がりくねり、やがて北へ向かう道となった。右手には、光を反射する氷の塊が、岩のように連なっている様が見える。氷塊越しに、向こう側の景色が明らかになっていた。 「階段だ」  早くも次の階へ進める手段を発見し、沸き立つ一行だったが、氷塊は越えられる高さではない。無理に越えようとすれば滑って怪我をするかもしれない。おとなしく別の道を捜すのが吉のようであった。  進める道は前方に――つまり北へと延びている。その他にも、細い道が西へと続いている。大公宮で参考程度に見た地図では、少し行って行き止まりになっていた。少し考えて、それが確かか調べてみることにした。 「……あ」 「どうしましたえ?」  アベイが短く叫ぶのに、一同は思わず立ち止まる。何ごとかと思えば、メディックの青年は、大気測定器を凝視しているではないか。皆が注目しているのに気が付くと、アベイは測定器の試験管(?)の一本を指し、鬼の首を獲ったかの勢いでまくし立てた。 「見ろよ! ほら、ここの球が、ぐーんと下がった!」 「あら、本当だわ」 「けったいやと思うてましたけど、確かに下がりますのんね」 「ほー、仕組みはさっぱりわかんねぇけど、一応動くんだなコレ」  赤い線よりも下へと動いた球を見つめながら、純粋な感嘆から、装置を作った錬金術師に土下座しろと言いたくなるような微妙なコメントまで、めいめいに好きなことを口にする一同。  しかし、唯一加わっていなかったナジクが、冷ややかに宣うた。 「全部の球が赤線の下まで下がらないと、意味がないのだろう」 「う……」  冷水を浴びせかけられた――というより、雪玉を背中に放り込まれたように、一気に盛り下がる一同。  フロースの女将の娘は、もともとは第一階層で療養を行っていた。一方、第三階層にその場を求めた理由は、樹海に赴く回数を減らしたいからである。装置の赤線は、そこまで空気の汚染度が下がらなければ、療養の回数が減ることもないだろう、という予測。第一階層の時と同じ間隔で行かなければならないのなら、わざわざ危険の増える第三階層に来る意味があるだろうか。 「しやけど、第三階層の方が空気きれいやてことは、確かみたいですわいな」  その理由を推測できる者は、探索班にはいない。街に戻ってからアルケミスト達に問うたところ、ただでさえ『外』より少ない汚染物質が、雪に混ざって地に降っているからではないか、という推測を得ることになる。が、それは後の話である。  大気汚染についてはさておいて、一行は細い道をさらに進んだ。  大公宮で見た地図が正しければ、数分ほど歩いたところで、行き止まりになるはずだ。もしも突き当たりに獣道があるとするなら、その先は、これまでに辿ってきた道の中途だ。ささやかな近道ができることになる。  しかし、冒険者達は行き止まりに突き当たりきれなかった。  袋小路となったその場所で、奇妙な光景が繰り広げられていたからだ。 「なんだ、ありゃあ」  雪原がもぞもぞ動いているように見える。錯覚かと思いつつも目を凝らした冒険者達は、世にも不思議なものを目の当たりにすることとなったのであった。  何か変なものがいる。白い塊を上下に重ねたような姿のものが、雪積もる大地の上をうごめいているのだ。同じ色に同化して、よく判らないが、どうも十体以上はいるように思われる。 「あれは……」  忘れもしない、大公宮の記録で見た、妙な生物だ。いや、本当に生物なのだろうか。記録どおりに雪の塊だとしたら、生きているはずもないだろう。それなのに、奴らはさも生物であるかのように動いている。同じ無機物の塊でも、ゴーレムのようなものなら、錬金術で動かせそうな気がしなくもない。けれど雪である。何をどうしたら動くというのか。  スノーゴーストと呼ばれているらしいその魔物達は、冒険者に気が付いた様子はない。  ここは彼らの巣なのだろうか。蹴散らす選択もあるのだが、十体を超える数は脅威である。相手も気が付いていないことだし、ここは退くべきだろう。行き止まりについては、またあとで調べればいい。いくら巣だといっても、四六時中ここにいるわけではあるまい。  そう思って引き返そうとした冒険者だったが、その時である。 「うわ!」  アベイが雪に足を取られて悲鳴を上げた。たまたま、そこだけ深いという場所に足を突っ込んでしまったらしい。ナジクが助け上げるのを確認してから、エルナクハは、雪の魔物達の方を振り返る。 「やべぇ」  案の定、気付かれていた。アベイを責めるつもりはないが、あまりいい状況ではなくなったのは確かだ。  ざわざわと音がすることに気が付いてみれば、周囲に積もる雪の方々が盛り上がり、その下から、スノーゴーストが沸いて出てくるではないか。冒険者達が狼狽している間に、スノーゴーストの大群は、冒険者を取り囲んでいた。 「これは……ちょっとまずいわね……」  もはや逃げ場はない。暑くもないのに汗が噴き出る。自分達はここで朽ちて果てることになるのだろうか。 「わちが血路を拓きますえ」  焔華が刀を抜き放ちながら口を開いた。彼女が得意とするのは『上段の構え』、攻撃力主体の鬼炎の相だ。その構えから派生する技は、時に炎を纏う。相手が雪の魔物だとしたら、効果は高いだろう。  しかし、彼女一人を突っ込ませるわけにはいかない。血路を拓いて、仲間達が逃げおおせたとしても、多数いる魔物を前に、焔華は助からない可能性が高い。その事を指摘しようとしたエルナクハに、オルセルタが顔を寄せてささやいた。 「……兄様、様子が変だわ」  何があったかと問い返さずとも判った。スノーゴースト達は、何を企んでか、冒険者達が来た道を塞ぐように集結しつつあったのだ。包囲という優位な立場を捨てて何をするのかと、固唾を呑んで見守る人間達の目前で、スノーゴーストは互いにぶつかり合い、積み重なり合っていく。  ついには、巨大な――炎の魔人よりも大きな、一体の魔物に変化したのだった。  冒険者達はぐうの音も出せずに固唾を呑んだ。(小さな)スノーゴースト自体の強さは未知数だったが、巨大になった魔物はかなり手強そうだ。しかし、却って助かった点もひとつある。一体になったということは、つまり包囲網も解かれたということなのだ。逃げる好期は今しかないだろう。道は塞がれているが、なんとか隙を突いて突破できそうだ。  しかし、『ウルスラグナ』は逃げなかった。ひょっとしたら、なんとなく妙な予感があったからかもしれない。その予感に、自力では明確なイメージは与えられなかったが、その正体はすぐに知れた。  動こうとしていた魔物が、ふと動きを止めたのだ。何ごとかと思う人間達の前に、ぼとり、と何かが落ちてきて、砕けて雪を撒き散らした。続いて、二度、三度、四度五度六度……。  雪の巨人から、合体したスノーゴーストが剥がれているのだ。 「……崩れてやがる……重すぎたんだ……」  ようやく予感の正体が分かった。逃げようとすれば、つまり巨人に近づくことになり――なにしろ巨人は逃げ道の方向にいたのだから――、自重で崩れる魔物の下敷きになる羽目になったかもしれない。  雪の巨人は、もはや巨人とは言いがたかった。加速度的に崩壊を激しくしていき、だんだんと縮んでいる。呆然とする冒険者達の前には、ついに、スノーゴーストがただ一体だけ取り残された。  なんだか哀れっぽく見える。このまま逃げるのだったら、見逃してやっていいか、と、誰もが――ナジクでさえも――思ったものだった。しかし、残ったスノーゴーストは、まったくためらいなく、冒険者達に襲いかかってきた。  モリヤンマとの戦闘にて第三階層の洗礼を受けた冒険者達には、ただ一体のスノーゴーストは敵ではなかった。  魔物は、どさりと倒れ込み、既に崩れ去った仲間達と共に、雪の塊に戻る。  しばらく様子を窺い、スノーゴースト達が再び立ち上がってこないことを確認すると、『ウルスラグナ』は、魔物の成れの果てである雪の塊に、おそるおそる近づいた。 「……ただの、雪だよな?」  さしものエルナクハも、常日頃の勇猛さはどこへやら、伸ばした手の震えがためらいをよく表していた。ようやく雪の上に付いた指先が、幾ばくかの白い氷粉をすくい上げる。擦り合わされた指の間から、はらはらとこぼれ落ちるそれは、どう見てもただの雪だった。溶けたものが指先を濡らし、光を反射して輝いた。  その指先が、つまんだ雪ごと、ぱくりと口の中に吸い込まれたので、仲間達は仰天した。 「やっぱ……ただの雪だな」  再び伸ばした手が、ごっそりと雪をかき集め、再び口へと運ぶ。 「……ん、『御山』の雪とそんなに変わんない味だ」 「アベイの調査も待たないで……お腹壊しても知らないわよ、兄様」  呆れ果てて肩をすくめたオルセルタだったが、ふと、崩れた雪の塊に目を留めた。兄と同じように黒い指がつまみ上げたのは、雪ではなく、白い石だった。 「それは何ですし?」 「さぁ……?」  周囲を探ってみると、同じような石がいくつもあった。どれも、スノーゴーストが崩れた後の雪の塊の中から発見されたものだ。断言はできないが、これがスノーゴーストの核なのか。この石の周りに雪が集まって、あの魔物を形作っていたのだろうか。 「パラスの呪術みたいだな……」  とナジクがつぶやいたのは、自分の髪を使って紙人形その他を動かしていたパラスの力と比較してのことだろう。彼女のような力が実在しているのだから、石を媒介に雪を集めて動かす力があっても変ではない。問題は、それが『誰』または『何』の力か、だ。それが判らないうちは、不気味な存在であることに変わりはないのである。  いろいろと腑に落ちないところはあるが、冒険者達は、とにかく『襲ってくるなら他の魔物同様に対抗するしかない』と結論づけた。詳しいことは学者達に――あるいは、近しい力の持ち主であるパラスに聞けばいい、と思ったのだった。  余談だが、エルナクハはその日の夜に腹を壊した。  別にスノーゴーストの呪いではなく、冷たい雪を胃に入れたためのものらしい。  天牛ノ月十二日の夕刻。  夜の探索班となった、ティレン、アベイ、フィプト、マルメリは、足りない前衛を買って出たゼグタントを加え、第二階層に赴いた。せっかくの第三階層に足を踏み入れなかったのは、現在の組み合わせでは慣れない階層に太刀打ちできそうにないという思慮のためであり、ならば第二階層で鍛練を積んでおこうと思ったためである。  だが、実はもうひとつ理由があった。その件については、樹海に踏み込む前に薬泉院に寄ったことに起因する。 「きれいな石だね……」  仲間達の訪問を受けたパラスは、差し出された白い石を矯めつ眇めつ、つぶやいた。この石は言うまでもなくスノーゴーストの残骸から回収したものである。  彼女は大分落ち着いているようだった。母たる女性が目を覚ます気配はまだないのだが、パラスの心の中では様々なことの折り合いが付いたのだろう。そのことに安堵しつつ、次の言葉を待つ夜組の前で、カースメーカーの少女は言葉を続けた。 「霊的なものが影響してるのは、あるかもしれないね」 「霊などというものがあると?」  面子の中では現実的な物の見方をするフィプトが、疑問をありありと含めた声を出した。 「うん、あるわけないって思うのも判るよ、フィーにいさん」  くすくすと笑いながらパラスは返す。ついでに白い石も返してきた。 「でも、幽霊って存在を否定する根拠がないから。その割に、人間には説明しようがない現象はまだ多いから、もうそれは、霊とか超越存在(かみさま)とかの仕業って思うしかないんだよね」 「そんなものですかね」  腑に落ちないのも仕方あるまい。少なくとも『ウルスラグナ』の誰も、霊なるものに出会ったことはないのである。見たこともないものを簡単に信じろというのは酷な話であろう。  ところで、先達の冒険者も、スノーゴーストを倒した際にこの石を手に入れ、『白玉石』と呼んでいた。そんな話を聞くと、パラスは「面白いよね」と笑う。 「うちの村に伝わってる古い話なんだけど、人間が死んで霊になった時に行く場所が『白玉(はくぎょく)楼』って言うんだって。石の名前付けた人がこんな話知ってたかどうかわかんないけど、霊的な力の依り代かもしれない石と、霊の行く場所とが、同じ意味の単語を持つのって、呪術師的にも興味深いな」  白く美しい石に『白玉』と名付けるのは決しておかしい話ではない。けれど、他にも名付けようはあるのだ。隠れた共通点を持つものに、共通した単語がしっかりと名付けられる偶然は面白いものであろう。 「まぁ、霊が信じられないとしても――」とパラスは話を締めたものだった。「こういうきれいな石は力を持つものだから、その力で雪が変な動きをするようになった――なんてこともあるのかもね」  ここまで語った話は、実は夜組が第二階層に赴いた理由ではない。本題はこの直後である。 「おや、アベイ君に、『ウルスラグナ』の皆さん。お見舞いですか?」 「よう、コウ兄」  顔を見せたツキモリ医師だが、その表情に生彩がない。何があったのかと訝しみ問い質す一同に、ツキモリは力なく頷きながら言葉を返した。 「ノースアカデメイアから返事が来たんです」  何のことだか一瞬理解できなかったが、すぐに思い出した。奇妙な枯れ方をした樹木の話だ。採取したサンプルを送って対策を依頼したのだという。だが、返事が来て喜んでもよさそうなツキモリ医師の顔は暗い。 「あれだけの木々が枯れているのに、『検証の必要がある』だそうです。時間を掛けたら感染はどんどん広がるというのに……けれど、実情を見ていない方々では仕方がないのかもしれません」  実はツキモリ医師も現場を直に見たわけではない。だが、ハイ・ラガードで生活している身としては、決して他人事ではないのだろう。 「もっとサンプル送りつけたら?」  ティレンが無邪気に返す言葉に、ツキモリ医師は深く頷いた。 「実は、それを考えているんです。もっとはっきりしたサンプルを入手しないと、と。幸か不幸か、新たに灰紋羽病が発症した場所があるというので、初期段階のサンプルが手に入るかもしれない――」  そこまで語った時点で、ツキモリは、呆然と自分を見つめる冒険者達に気が付いた。 「――ああ、すみません。いきなり灰紋羽病って言ってもわかりませんよね。問題の現象に、そう名前を付けたんです。とにかく、これまで発見してきた場所ほど広がっているわけではないらしいので、もしかしたら発症初期のサンプルが手に入るかもしれないと期待しているんです。それで――」 「もう、誰かに頼んだのか、コウ兄?」 「ああ、いえ、まだですが」  兄と慕う院長の返事を聞いたアベイは、にっこりと笑んで言い切った。 「だったら、せっかくだからおれ達がやろうか?」  いいよな? と仲間達を振り返って同意を募る。  嫌な顔をしている者は誰もいない。殊にフィプトは、ハイ・ラガードの民として樹海の危機に興味津々、かつ心配だと見える。 「助かります」  ツキモリ医師は安堵の笑みを浮かべた。彼としても、一度依頼を受けてもらった相手に再び請け負ってもらえる方が、安心の度合いが違うというものであろう。  念押しをしておくなら、依頼を受けること自体は何の問題もない。  ただ――依頼を遂行する際の、ちょっとした『同行者』の存在を知っていたら、躊躇したかもしれない。  その『同行者』は、冒険者達の後を付いてくる。正確に言えば、後方からの魔物の敵襲を警戒して、マルメリが一番後ろに付いているから、『彼女』のいる場所は後ろから二番目ということになるのだが。 「……やっぱり、あんたはおとなしく薬泉院で待っていた方がいいんじゃねぇのか、嬢ちゃんよ」  前衛の片翼を務めるフリーランスのレンジャーが、半ば呆れたように言葉を紡ぎ、肩をすくめた。  嬢ちゃんと呼称された『彼女』――ツキモリ医師の助手でもある薬泉院のメディック、アンジュは、ゼグタントの言葉に不満を示し、眉根をひそめ、目を細めた。 「冗談じゃありませんよ。私がいなかったら、どんなサンプルを取れば頭の固い先生達が納得するしかなくなるか、わからないじゃないですか」 「そりゃそうかもしれねェが、だがよぉ……」  ゼグタントは頭を抱えた。  灰紋羽病が新たに発生した場所は、九階にあるという。多くの冒険者からもたらされた情報を元に、衛士達も探索範囲を広げ、見回りも始めているが、危険が消え去ったわけではない。ほんの少し前までは、『ウルスラグナ』ですら苦戦をしていた区域なのだ。  第三階層に足を踏み入れたばかりの自分達では、第二階層の安全な探索は保証しきれない。まして、探索に不慣れな娘を抱えている状況では。本当なら、彼女には安全な街で待っていてもらうほうがいい。けれど、灰紋羽病についての知識は、ツキモリ医師やアンジュの右に出る者はいまい。現実問題として、彼女がいなければ、採集技能に長けたゼグタントでさえ、まともなサンプルを入手することはできないだろう。  一言で言えば、冒険者達に託された仕事は、サンプル採集というより、護衛だったわけだ。  現在地に至るまでに、数度、樹海の魔物との戦いを経験している。ところがこのメディックの娘、守られているだけの娘ではなかった。戦場を走り回る。実によく走り回る。戦いで誰かが負傷したと見ると、傷薬を手に飛び出していく。アベイが「とりあえず俺一人で大丈夫だから、身を守っていてくれ!」と悲鳴を上げても、意に介さずに動き回る。あわや魔物の一撃を食らいそうになり、ティレンが身体を張って守ったことも、一度や二度ではない。 「とっとと終わってくれないかな、この依頼……」  さすがのアベイもげんなりして、一刻も早く目的地に着くことを祈るばかりであった。  ところが、目的地は九階の南側、上階から下りるにも下階から上がるにも面倒な場所にある。八階の磁軸の柱が起動していれば少しは楽だったのだが、あいにく十階の磁軸の柱を起動させた時に機能を停止している(正確には、『ウルスラグナ』が八階の柱に飛ぶことができなくなったのである)。理論的には、八階の磁軸の柱に触ったのが最後の者だけで探索班を組めば、八階に飛ぶことも可能だっただろう。が、そんなパーティを組んだら死にに行くようなものだ。  複雑な道を行き来して、冒険者達は、ようやく、目的地にたどり着いた。  行き止まりになった小部屋状の広間である。空間を取り囲むように立ち並ぶ木々のうち、正面に見える場所が、例の空虚な灰色に染まっている。見るだけでその周辺が冷ややかに感じられる、死の色。何度見ても慣れずに身震いした冒険者達だが――先に足を踏み入れた前衛の足が、はたと止まった。  何かがいる。その灰色の奥、自分達からは見えないところに、何かが。  嫌な予感を感じて、じり、と後ずさったところに、 「わぷ!」  後衛達がぶつかってきた。 「ちょ、ちょっと、どうしたんですか? 下がるなら下がると――」  そう言いかけたアンジュが言葉を切った。冒険者達が――後衛でさえも――険しい表情をしていたからだ。  気配の主は、突然の闖入者を警戒しているようだった。少なくとも、今すぐ襲ってこようとする様子はない。だが、冒険者達の背には大量の冷や汗が流れ落ちる。気配から感じるその強さは、エトリア時代、遺都を徘徊していた魔物達に匹敵する。つまり、今の『ウルスラグナ』では太刀打ちできない。  魔物の気配を正確に推し量れないアンジュでさえも、何か嫌なものを感じているのか、先程までとは打って変わって、真剣に正面を見据えている。  しばらくの無言の対峙の後、気配は、やがて葉擦れの音を残して、消え去っていった。どうやら森の奥に引っ込んでいったらしい。一同は盛大に安堵の息を吐いたのであった。 「今のは……なんでしょう」 「さぁな……」  さておき、ひとまずの危険が消え去ったからには、この場に来た目的を果たさなくてはならない。  一同は灰色の木々に近づいた。一見したところでは、これまでのものとは何ら変わりがないように見えていたのだが、よく観察すると、何かが違った。違いを言語化する前に、少し離れた樹を見ていたアンジュの声が上がる。 「何だろう、コレ……」 「どうしました?」  近づく冒険者にお構いなく、アンジュは独り言のように言葉を発しながら、自分の鞄から手際良く道具を取り出し、採取作業を始めていた。呟く言葉が状況を雄弁に語る。 「粘液みたいな物が付着してる。それにこの傷は……?」  木の幹には等間隔に並んだ二つの傷が開き、その周囲に滴る薄茶色の粘液が不気味に光を反射していた。  かすかに感じていた違いの正体を、冒険者はようやく悟った。今回の灰色の木々には、どれにも、傷と粘液が付随しているのだ。  その傷に、あるものを連想し、冒険者達は背筋が凍るような思いをした。  吸血鬼。夜の闇に紛れ、哀れな犠牲者に牙を突き立てる、魔の者。  それ自体はただの伝承である。現実に存在する樹海の危機に比べれば、どうということはない。樹海の生物には実際に人間の血を吸う者もいるのだから――例えば、エトリア樹海の奥に潜んでいた妖華アルルーナのように。だが、いくら架空存在とはいえ、幼い頃に叩き込まれた恐怖からは、そう簡単に逃れられるものではなかった。  もちろん、目の前の傷が吸血鬼の仕業とは思わない。吸血鬼が吸うのは人間の血であり、樹液ではない。樹液を吸うのはどれかといえば昆虫の仕業だ。だが、異質な枯れ方をした木と、恐怖の象徴であるものに似た傷痕、その相乗効果が、百戦錬磨の冒険者をして身震いせしめたのであった。  少なくともこの傷と液体が、樹海の木が異常な枯れ方をすることと関係があるのは、間違いないだろう。 「さっきの気配が、これやったのかな」  ティレンの言葉に冒険者達は気が付いた。粘液の具合からすれば、この現象が発生したのは、冒険者達が踏み込む直前といっても過言ではあるまい。とすれば先程の気配も無関係とは言い切れなくなる。  あれは一体、何だったのだろうか。 「何ボケッとしてるんですか?」  アンジュの言葉に冒険者達は我に返った。 「サンプルは採取しました。早速帰って分析してみます」  彼女の手の中にある瓶は、薄茶色の粘液でいっぱいになっていた。その瓶をさっさと鞄にしまい込み、アンジュは立ち上がる。 「さぁ、帰りましょう! 帰り道もよろしくお願いしますね!」 「ここまで来たら、糸使えばいいじゃないのぉ?」  のんびりとした口調でそう言いながら、自分の鞄からアリアドネの糸を出すマルメリを見て、アンジュもその方が楽だということに気が付いたようだった。閉めたばかりの自分の鞄を慌てて開け、中を探る。その表情が、次第に焦燥を帯びていく。やがて諦めたような顔を上げると、ばつが悪そうに切り出した。 「すみません、糸、忘れてきちゃったみたいです……」  勘弁してくれ、と冒険者達は思ったが、探索に慣れていない者では致し方あるまい。という風に寛大でいられるのも、『ウルスラグナ』は常に糸を二つ所持するようにしているからなのだが。アベイが自分の鞄から二つ目の糸を取り出して、アンジュに差し出した。 「しょうがないな。ほら、糸ならここに予備があるから、磁軸計に繋いでくれ」 「すみません……磁軸計も忘れちゃいました……」 「勘弁してくれ」  冒険者達は今度こそ本音を声に表してしまった。  磁軸計は樹海に入る者をあらかじめ登録する機器であり、その制限人数は五人までである。ただし、厳密に言えば登録自体は数十人分ができ、そのデータを入れ替えることは容易だった。『有効状態』にできるのが一度に五人までというわけだ。だが、『有効状態』にするには、本人が磁軸計に触れることが必要――アベイは『生体認証』とかいう難しい言葉を使ったが――なのである。  現状で言うなら、『ウルスラグナ』の磁軸計には『ウルスラグナ』一同以外のデータは入っていない。アンジュを登録したくても、データの登録には冒険者ギルドにある『親機』が必要なのだ。つまり、『ウルスラグナ』の誰かの代わりにアンジュを登録し直し、彼女がアリアドネの糸で街に帰れるようにすることもできないのであった。いや、できたとしても、それは同時に『ウルスラグナ』の誰かが樹海に取り残されることになる。冗談ではない。第一階層一階ならまだしも、第二階層でひとり取り残され、生還できる可能性が、どれだけあるというのか。  結果として、彼らは徒歩で樹海磁軸を目指す羽目となった。  文句を言っても始まらない。始まらないのだが。 「いいねぇ、そんな女連れて、森の中をお散歩デートってか!」  後に事情を知った酒場の親父からそう揶揄されるような、生やさしい状況ではない。  断じて、ない。  翌々、天牛ノ月十四日までの探索を経て、昼の探索班は、十一階の行ける範囲の地図を埋めた。  上り階段へは、実は十二日のうちに至れたのだが、鍛錬を兼ねて、地図の作製を行ったのである。  大概の敵とは渡り合えるようになったとはいえ、やはり『敵対者(F.O.E.)』だけは一筋縄ではいかない。十一階で出くわした『敵対者』は、自在に空を舞う翼竜『飛来する黒影』であった。その翼のひと叩きで前列をなぎ倒す程の強敵。這々の体で逃げ延びた後、冒険者達はその魔物を避けることを肝に銘じた。 「……あいつには、この迷宮はどう見えるのかしらね」  悠然と滑空する黒影を遠目に眺めながら、オルセルタが疑問を呈したものだ。 「わたし達の目から見れば、迷宮って言っても、『外』とそんなに変わらなく見える。でも、飛べる者にとっては、『天井』の存在がはっきり判るんだと思うわ。高く飛ぼうとしても、天蓋に遮られて、あいつらは閉じ込められた気分にならないのかしら」  どうなんだろうな、と、妹の言葉を聞いたエルナクハは思った。自分達が今存在している世界の陸地の多くは樹海に占められている。けれど、旧時代の世界はそうではなかったという。遺都シンジュクで生まれたアベイにとっては、石や金属で建てられた摩天楼が世界のすべてだったはずだ。そんな極端な例を出さなくても、幼い頃の自分達には、『御山』が世界のすべてだった。世界樹の中に住む生き物達にとっても同じこと。彼らは、世界樹の中に閉じ込められているのではない。それが『普通』、疑問を抱く余地などないのだろう。  再び上り階段の前に辿り着き、『ウルスラグナ』はためらうことなく段に足を乗せた。  上の階から吹き下りてきた雪がうっすらと積もる階段――しかし、薄雪の上には足跡がある。第三階層を探索している冒険者もいるから、それ自体は別段不思議なことではない。迷宮の中では、ちらほら降る雪に埋もれてしまうのだろうが、雪の入り込みにくい階段で顕著になっただけのことだ。  しかし、『ウルスラグナ』は、そこにあるとは思いもしなかったものを見付けたのだった。  尾をくわえない永遠の蛇(ウロボロス)をあしらった紋章。それは、ハイ・ラガードの紋章のはずだ。衛士の鎧にはめ込んである金属製の紋章だが、こんなところに落ちているのは何故だろう。  否、この際、落ちている理由はどうでもいい。つまりは衛士が第三階層に踏み込んでいるということだ。先達の冒険者達の軌跡を辿り、すでにこの階層にも巡回の足を伸ばしていたのか。獣避けの鈴なども大量に携えているのだろうが、そういったものを使ってさえ、魔物を完全に避けられるわけではない。宮仕えの宿命とはいえ、ご苦労なことである。三階のような惨事に出くわさないよう、気を付けてもらいたいものだ。  とりあえずその紋章を拾い上げ、冒険者達は歩を進めた。  上った先は十一階とさほど変わらない光景。そのはずなのだが、視界の彼方に何か違和感を感じる。雪にまみれて白くなった草木と、『ローマ』とやらいう超古代の国の遺跡に似た石組みの間を縫って、冒険者はまっすぐ先に進んでみた。  衛士のものらしい足跡が、降り積もる雪に半ば埋もれながらも、はっきりと残っていた。降雪があまり激しくないとはいえ、これだけはっきり判るということは、衛士達がこの階に踏み込んでからあまり時間が経っていないということだろう。  唯一進める西の方角に、数分進んだ冒険者達は、違和感の正体を悟った。  目の前に広がるのは、見事に凍り付いた水路であった。  他に道はないのかと、周囲を見回してみたが、あいにく行き止まりらしい。衛士達の足跡も、そこで途切れている。  では、この先にはどのように進めばいいのか。  ――まさか、この氷の上を歩けと?  正直、気が進まない。氷が割れてしまったら、その下は冷たい水だ。最悪の場合、心臓麻痺を起こして、この世から去ることになるだろう。しかし、他に道がないのも事実だ。衛士達もこの氷の上を往ったに違いない。  悩んでいたとき、視界の端に妙なものを見付けた。  氷の上に穿たれた穴である。深さは一メートルほどだろうか。掘った後の雪の積もり具合から見ると、穴を掘られたのは今日というわけではなさそうだ。たぶん、氷の厚さを測ったのではなかろうか。掘られた深さまでは氷の厚さがあるようだ。 「……大丈夫そう、かな」  測ったのが衛士か冒険者かは判らないが、先達が大丈夫だと判断したのなら問題あるまい。  思い切って、氷の上を往くことに決めた。  しかし、ここで誤算が生じた。氷の上は滑りやすく、短距離ならまだしも、長く歩くことは難しい。  どうしたらいいものか、悩む冒険者だが、ふと気が付いた。  氷の上には、何本かの真っ直ぐな跡が付いていたのだ。しばらく観察しているうちに、どうやらそれは、一対の線が何対か集まってできているらしいと分かってきた。どの線も、多少のぶれはあれど、ほぼ真っ直ぐに西へと向かっている。同じ線は、最初は気が付かなかったが、陸地側にも繋がっている――否、逆なのだろうか。陸地側の線が、氷の上に続いているのか。  その正体が何か、間もなく知れた。少し離れたところに、五、六人乗れる程度のソリが数台準備されていたのだ。傍には、自由に使ってもよい旨が記してある。どうやら、先達の冒険者や、彼らの報告を聞いた衛士達が、用意して使っているようである。  何をすればいいのかは言うまでもない。冒険者達は喜び勇んで、ソリを凍った水路の傍まで運んだ。ただし、すぐ傍ではなく、ある程度離して設置する。 「俺、あんまり自信ないよ」 「じゃあ、オマエは先に乗ってりゃいいさ」  アベイがソリに乗ると、残りの四人はソリの周囲に取り付いて、押しながら走り始める。雪の上を滑るにつれて速度を増していくソリが、氷の上に差し掛かろうとしたその瞬間、冒険者達は一斉に飛び乗った。ソリは大きく揺れたが、与えられた慣性は衰えることなく、そのまま前方へ滑らかに滑っていく。その速度は冒険者達をしても予想外で、周囲の光景はあっという間に後ろへと流れていった。 「こりゃあいいや!」  エルナクハはご機嫌だった。氷の上では、さすがに寒冷地仕様になった魔物達も、足を滑らせて襲撃してくるどころではない。空を飛ぶ輩も、仮にソリの速度に追いつくことができたとしても、捕まえることは至難の業だろう。つまりソリに乗っている間は魔物の襲撃を気にする必要がない。おまけに歩かなくていいので楽ちんだ。 「オマエらもそう思うだろ!?」  あまりにご機嫌だったので仲間達に同意を求めた聖騎士は、およ、と顔をしかめた。他の面子は同じように喜んでいるのに、ナジクだけが不機嫌そうに見える。こんな時までそんなしかめっ面しなくても、と思ったが、何かが変なことに気が付いた。何となくだが、ナジクの雰囲気が違う。しばらく観察した末、その理由に思い当たる。 「帽子どうしたよ、ナジク?」 「……飛ばされた」  レンジャーの青年は、ソリの滑行で生じた風に、むき出しになった長い金髪をなぶられながら、表情同様に不機嫌な声音で答えた。  こうして、多少の不測の事態は生じたが、冒険者達は対岸へとたどり着いた。徒歩でなら、仮に普通に歩けたとしても、五分ほどは掛かったであろう距離だが、遙かに短時間で到着できたのである。  ソリの跡は、雪の上にもかかわらず、まだ先に続いている。先達の冒険者達や衛士達は、ソリを持っていったらしい。つまりは、この先にもソリが必要な場面があるということが予想される。『ウルスラグナ』も、先輩達に倣うことにしたのであった。  ……おかげで、魔物と戦うときには、自分達のみならずソリをも守らなくてはならない羽目になったのが、想定外だったが。  ソリを使った何度かの試行錯誤の末、『ウルスラグナ』はひとつの扉の前に行き当たった。  ここまでに描きあがった地図を見ても、扉の向こうの他に行く道はないだろう。先達のソリの跡も扉の向こうへ続いているようだ。  かすかな振動と共に開いていく扉を潜り、冒険者達は目を見張った。  扉の向こう側は、ここまでの道程よりも少し低い位置にあるようだった。そのおかげでかなりの距離を見渡すことができたのだが――わずかな岸がある以外は、視界全域が氷の大地だった。凍っていなければ巨大な湖だったのだろう。  冒険者達のいる位置からほど近い、湖のほとりでは、何十人かの人影が蠢いている。遠目で判断しづらいが、どうやら衛士達のようだ。中には、凍った湖をソリで滑り、対岸へと渡っていく者達もいる。  先程見付けた紋章は、その中の誰かが落としたのかもしれない。  それにしても、何をしているのか。大抵が五人一組の隊を作って見回りをしている衛士が、ひとつところにこれだけ集まっているのも珍しい。何かあったのか。冒険者達は、緩やかな坂を注意深く下り、湖に近づいた。  と。 「待ちたまえ」  見張りのように立っていた衛士に声をかけられ、冒険者達は立ち止まった。 「よう、お仕事ご苦労さん。何やってるかはわかんねぇけど」 「……お前達は『ウルスラグナ』か」  手にした長斧で道を遮るように立ち塞がった衛士は、冒険者の姿を見て言い当てた。炎の魔人を突破した冒険者の一組ということで、随分と知名度も上がったらしい。黒い肌のギルドマスターという物珍しさもあるのかもしれないが。 「その『ウルスラグナ』が、天空の城を見付けるために先に進みたいんだがな」 「悪いが、ここから先には進ませる訳にはいかんのだ。『ウルスラグナ』といえどな」 「何故ですかえ?」  当然ながら疑念をもつ一同を代表して、焔華が声を上げる。返答は冷たいものだった。 「機密事項だ」  しかし、衛士個人としては、それだけでは悪いと思ったのか、話を続ける。 「この階のほぼ全域は、現在、大臣の指示により、我らが衛士隊のみが立ち入ることを許されている。すまないが、間が悪かったな」 「わたし達より前に探索していた冒険者達も?」 「十三階にある磁軸の柱を使えるようになっていた者達は、先に進んでいるが、そうでない者達は、ここで足止めということになっているな」  どうやら本当に間が悪かったようだ。大公宮の何かしらの命令が完了しない限り、先に進んでいる者達との差は広がるばかりだろう。 「――エル」  ひっそりとささやきかけてくるナジクに、 「強行突破とかはナシだぞ」  エルナクハも小声で念を押す。  その様子を、ただ、この先どうしようと相談しているのだと思ったのか、衛士はしばらく考え込んだ後に、再び声を上げた。 「……そうだな、お前達ほどの者なら、あるいは」 「ん?」 「お前達、大公宮に赴いて、按察大臣に目通りを申し出てみよ。あるいは、大臣のご采配で、我らの作業を手伝うという名目で立ち入りが許されるかもしれん。大臣にこう告げてみよ――『水銀の件で』とな」 「『水銀』?」  何のことやら、冒険者達は判らなかった――と衛士は思っただろう。だが、その言葉を聞いた瞬間、『ウルスラグナ』一同の脳裏に浮かぶものがあった。  かつてサラマンドラの羽毛を探すというミッションを達成した後、フィプトが口にした言葉。  ――『水銀』に当たる何かを持ってきてくれ、というミッションが発令される可能性があります。心構えはしておくに越したことはないでしょう。  錬金術師の見立てでは、万能薬を作成するのに必要な要素は『硫黄』と『水銀』。実物の硫黄と水銀ではなく、象徴的な呼称としてのそれだ。そして、サラマンドラの羽毛は『硫黄』にあたる素材だろうという話だった。  アルケミスト達が当時に看破した通り、大公宮も、万能薬に更なる材料が必要なことを古文書から悟り、こうして衛士達に探索を命じているのだ。  ともかくも、一度街に戻り、大臣の話を聞いたほうがよさそうだった。  交易所でナジクの飛ばされた帽子の代わりを買い求めた後、大公宮に赴き、大臣への謁見を申し出る。  応対に出た侍従長は、『水銀の件』との言葉を聞いた途端に表情を改め、『ウルスラグナ』を謁見の間に招き入れた。 「やはり、また、そなたらの力を借りることになりそうじゃな」  苦笑いに似た表情を浮かべ、按察大臣は口を開いた。 「いいんじゃねぇの? オレらは褒賞もらえるし、大臣サンは目的を果たせるし」 「当方にもいろいろ都合というものがあるのじゃ」  大臣は、たしなめるように言葉を吐く。まぁそうだろうな、と冒険者達は内心で納得した。自身の管理下の埒外にある冒険者達――確かに大公宮の号令下で樹海探索に勤しんでいるが、基本的に命令系統に組み込まれているわけではない――に国家存亡にも関わりかねないことを依頼するのは、極力避けたいところだろう。予算的な都合もあると見える。『命令』で冒険者の探索行を妨げたくないということも違いあるまい。  それでも『ウルスラグナ』なら、と、現場の衛士や大臣が思ったのは、以前、サラマンドラの件を通じて問題に関わった実績がある故だろう。他にもいろいろと理由があるかもしれないが、ともかくそれらを総合して、『ウルスラグナ』に白羽の矢が立ったというわけだ。今回こうして冒険者達が大公宮を訪れるより前に、「万が一の時は」という認識ができていたのだろうことは、大臣が漏らした『やはり』という言葉からも明白だ。  大臣は表情を改めて言葉を続けた。 「以前、大公さまの為の薬を作る材料を探しにいってもらったことを覚えておるかな?」 「サラマンドラの羽毛だろ、覚えてるさ」 「うむ。せっかく入手してもらった羽毛……じゃが、どうやらそれだけでは、大公さまの病を癒すには足らぬらしいとわかったのじゃ」 「何だって……?」  予想していたことだが、『ウルスラグナ』は敢えて驚いたフリをした。実は予想していました、などと言っても誰も得しないだろうからだ。 「で、今度は何が必要になるのですか、閣下」  オルセルタが先を促した。ところで今さらな話だが、大臣に敬語を使わないのは基本的にエルナクハとティレンくらいのもので、他の面々は最低限の敬語は使う。 「話が早くて助かる」  大臣は何度も頷くと、続きを話し始めた。 「では、早速だが詳細を説明するとしよう。今度必要とされておる素材は、樹海の第三階層、我らが『六花氷樹海』と呼ぶ領域に咲くという氷の花じゃ。そなたらより先を行く冒険者達が、それらしきものを十三階でいくつか入手してきたが……それらにも確かに類を見ない薬効はあるのだが、記録にあるものとはどうも違うように思えてならぬ」 「何故、そう思われるのですか?」  と口を出したのはアベイであった。『類を見ない薬効』と聞いて黙っていられなくなったらしい。 「うむ」と大臣は首肯した。「先に入手した物は、確かに書物どおりの姿をしておった――雪の結晶に似ているという、形だけはの。ところが、記録に残るものは、文字通り、氷でできたように見える花だという話じゃ。書物にも『大きな湖のある階にて入手』とあるものでの、形もわかるものじゃし、サラマンドラのように強力な魔物と相対する必要もない。ゆえに簡単なものだろうと考え、十二階に衛士隊を送り込んだ……じゃが」 「成果なし、ってか」 「さよう。その衛士隊は戻らず、氷の花も入手できぬ」 「ヤツらの心配はいらねぇぜ、大臣サン」エルナクハはケタケタ笑いながら告げた。「オレらが会ったときも一生懸命氷の上を滑ってた。大方、任務達成まではおめおめ戻れぬ、とか、カタいこと考えてるんだろうぜ」 「ならば、まだよいのじゃが」  大臣は少しばかり安堵したようであった。 「そのような忠義はもっと別の形で発揮してほしいものじゃ。『ウルスラグナ』の者たちよ、そなたらならば、我らには果たせぬ目的も達せるであろう。十二階の衛士たちに力を貸してくれぬか」 「承りましたぜ、大臣サンよ」  エルナクハはギルドマスターとして、不敵な笑みを浮かべながら了承の意を返した。  その後、氷の花の図案――古文書からの写し――を見せてもらう。残念ながら、花の形以外の、例えば草花なのか木花なのかがわかる資料は、見つかっていないらしい。しかし花の形は見ればすぐに判るほど特徴的で、大臣が口にした通り、雪の結晶のような形をしていた。  雪の結晶は、条件次第では肉眼で見える程度の大きさで降ってくることがある。冒険者達も、着ているコートの上に降ってきた雪の結晶を見たことがあった。自然にできたとは信じがたい、しかし人間の手で容易に造り出すこともできそうにない、繊細な形。  世界は驚異に満ちている。神のごとき力を得た前時代とて、そのすべてを手中にすることは、永遠にできなかっただろう。たとえ、現代までその技術が無事に長らえていたとしても。  一度、私塾に戻ってから、樹海に向けて再出発した。  戻ったのは単純に休憩のためだが、ついでに仲間達に、新たに承ったミッションについての報告もしようと思ったのだ。ある意味で一番知らせたかったフィプトは不在だった――例の鉱石についての実験をしに行ったのだ――が、話を訊いたセンノルレは、さもありなん、とばかりに頷いたものである。 「それにしても、あの羽毛と、それに釣り合うだけの対なる素材……それらを調合するために、どういった手段を使うのでしょうね……」 「ただ混ぜるだけじゃダメなのかよ?」 「そうもいかないさ」  アルケミストの代わりに答えたのはメディックであった。「ほら、ノル姉が、パンケーキにたとえたことがあっただろ。少なくとも、今の俺たちの技術じゃ、そのとおり、この世界の海洋を埋め尽くすケーキだねを、現実に存在する器具と材料だけで、三日でパンケーキにしようとしてるみたいなもんだ」 「そのたとえで言うなら、一日にたくさんのパンケーキを作れる手段がないと、とても無理ってことよねぇ」 「そういうことだ、マル姉」とアベイは頷いた。「つまりは、今の人類の力じゃとても無理だろう」 「前時代の技術ならどうですかえ?」  と問うたのは焔華であったが、その場にいた誰もが、返答なくとも答を容易に予測できた。逆なのだ。前時代の技術ならできるだろうかという疑問ではなく、前時代の技術で無理なら手立てはないという窮地なのである。  当時幼子だったアベイにその手段を求めるのは、考えるまでもなく無茶だった。生きていればその手段を知っていたかもしれないヴィズルは、『ウルスラグナ』が自ら滅してしまった。ならば、もう手段はないのだろうか。  ――否、大公宮が抱える古文書には、方法が記してあるだろう。それが発見されているか否かは『ウルスラグナ』には判断できないが、少なくとも今はまだ絶望を予測する時ではないのだ。  こうして、大公宮からの勅命を受けた『ウルスラグナ』ではあったが、目的の氷の花を見付けるまでは二日ほどの時間がかかった。十二階に野営地を設えて探索している衛士達から、求められている花の数は四つだと聞いたが、数の問題が探索の遅さの理由ではない。  湖を渡る手段ゆえであった。  ソリに乗って渡る時、簡単に行けるのは直進のみであり、途中で方向を自在に変えられるわけではない。運動の方向を変えようとする行為は、摩擦力の急激な増大を招き、簡単に言えば氷の上で立ち往生することになるのだ。  そうなると、その時点からの再出発は難しい。実際に、立ち往生した衛士達が、アリアドネの糸を使って脱出するしかない状況に陥ったところを見た。だが、糸で運べる大きさを超えたソリは置き去りになり、そのソリにぶつかることで起きる二次災害を防ぐために、回収しなくてはならない。そのためには、片端を陸地側に固定したロープを積んだ別のソリに乗って、現場でわざと止まり、置き去りのソリと乗ってきたソリにロープを結わえた上で、人間は糸で脱出、改めて陸側からロープを引いて二台を回収する――という、見ているだけでも面倒くさい手順を踏まなくてはならないのであった。  『ウルスラグナ』は改めて心に誓った――余計なことはしないに限る。  というわけで、直進のみという制限を課せられた滑行では、思い通りの場所に進めず、どこからどう進めばどこに行けるのかを把握するまでに時間がかかったのである。  おまけに、滑ることができる時間も限られている。  そもそも衛士達が氷湖周辺を冒険者達の立入禁止にしていたのは、ソリの衝突事故を避けるためであった。冒険者が勝手にソリを滑らせて衛士との衝突事故を起こしたら目も当てられない。衛士同士なら事故にならないように滑る時間や場所をあらかじめ定めておけるのだが。したがって、衛士達が滑る時間と、『ウルスラグナ』だけにソリを出すことが許された時間とが、厳密に定められた。そのことも時間がかかった理由のひとつといえる。  試行錯誤を昼の探索で行う一方、夜の探索組は、いつ第三階層の探索に採用されてもいいように、第二階層で鍛錬を行っていた。幸いにも大きな問題が発生することなく順調で、皆が着実に力を付けていった。  ついでの話であるが、この頃、酒場の親父から入手を頼まれた素材がいくつかあり、ちょうど採集専門レンジャーであるゼグタントがいたこともあって、軽く採集した後に酒場に持ち込んだものだった。その報酬として与えられたのが、第三階層に生える水仙人掌という植物の体液を加工して作られたという、耐熱ミスト――これ自体はエトリアでも同種のものが作られており、当時からの冒険者にとっては馴染み深いものだ――と、もう一つ、金でできた小さな彫像であった。  オルセルタかパラスがその場にいたら、彫像は受け取らなかったかもしれない。しかし、二人ともいなかったので、夜組一同は何も考えずに持ち帰ってきてしまった。皆(パラスとフィプトを除く)が集まる報告の席でそれを見せられたオルセルタは、「なんてこと(テムジェグィ)」と呟いて天を仰いだ。 「はめられた。あのオヤジにはめられたわ……」  そういえば以前、酒場で、神手の彫刻師とかいう者の遺作を探してほしいという依頼があると聞いたとか言っていたか。とても見つかるあてがないので、受けることはなかったのだが。結局他の冒険者でも依頼を受ける者はいなかったとみえる。  今回の報酬としてもらったものは『衛士』の駒、親父がさりげなく『ウルスラグナ』に押し付けてきたのは、彫刻師の作品を渡すことで、こうなったら別の駒も――この世にひとつしか残っていないという『公女』をも――探さねば、という気にさせたいからかもしれない。  ちなみに『衛士』の駒は、見知らぬ旅人から飲食代金代わりに受け取ったもので、入手できたこと自体は偶然だったらしい。 「そこが問題なのよっ!」とオルセルタは卓を叩き、傍にあった駒が小さく跳ねて倒れた。 「旅人が持ってたってことは、他の駒も国外流出してる可能性もあるってことじゃない! 『公女』の駒がそうなってたら探しきれないわよ。乗せられて、どうやっても達成できそうにない依頼を押し付けられるのは困るわ!」 「……じゃあ受けなきゃいいのよぉ」  くすくす笑いながらマルメリが割り込んだ。 「駒(これ)は、あくまでも、ただの報酬でしょお?」 「……あ、そうか」  オルセルタは我に返った。従姉が言う通り、駒はただ報酬として与えられたものであり、それをどうにかしろという話は一言も受けていない。親父の思惑がどうであれ、頼まれもしていないことに乗る必要はないのだ。  というわけで、しばらくの間、『衛士』の駒は応接室の飾りとして活躍(?)した。  高名な彫刻師の作品だけあって、美術品としてのすばらしさは掛け値なし、そういうものに疎いティレンさえ魅入らせるものだったのである。  余談が長くなったが、氷の花の件に戻ろう。  衛士達の探索の時間中、暇になった『ウルスラグナ』探索班一同は、自分達の時間が来るまでを衛士の野営地で過ごしていた。あちらこちらに張り巡らされた獣避けの鈴が、ちりちりと音を立てる中、非番の衛士達が八足馬(スレイプニル)の肉を七輪で焼いているところで屯(たむろ)している。ちなみに肉は『ウルスラグナ』が倒して持ち込んだものである。 「アンタら、ずっとこの階にいるんだろ。ご苦労サマなこったな」  とパラディンが話を振ると、非番の衛士の一人が防寒具をかき抱きながら頷いて答えた。 「ええ、隊長が、『氷の花を見付けるまではおめおめ戻れぬ!』と仰るもので……」 「やっぱりなぁ」  思った通りである。立場の高い者に引きずられ、立場の低い者がそれに反する行動を取れないことは、よくあることだ。が、それが悪しき慣習と言い切ることはできない。組織の中で上の者に無闇に逆らうような者がいれば、統率が取れないのも事実だからである。少なくとも『ウルスラグナ』が賢しげに何かを言える問題ではない。 「ま、大公サマの、ひいては国の、国民のためだ。ガンバレや公僕」  だからエルナクハはそう茶化して励ますに留める。衛士達は苦笑いを浮かべた。  七輪の前にいた衛士が肉をひっくり返す。じゅう、と心地よい音といい匂いが立ち上る中、煙の向こうで肉をひっくり返した衛士は深い溜息を吐いた。 「こんな弱音を吐くのもなんですが、早く帰りたいですよ。我々も、冒険者の皆様ほどではないですが、樹海の危機をくぐり抜けてきた精鋭――そう自負してきたのですが」  言葉を切った衛士は、少し気弱げにうつむきながら言葉を続ける。 「第三階層は予想以上に手ごわい場所でした。滑る氷の床が行く手を邪魔して、それをなんとか解決しても、肝心の花はまったく見つからない。花を探す方に集中したくて、比較的危険の少ない昼の間だけ探索しているのですが……」  はあ、と再び溜息。衛士は顔を上げ、冒険者達を見据えた。煙越しに期待の色がはっきりと見える。 「……それでも、どうやら我々だけでは荷が重いようです。あなた達の力に期待してもいいですか?」  寒さと恐怖を思い出してか、衛士は身をすくめながらそう口にした。 「……なんだ、あれは?」  ナジクが足を止めたので、他の者達もそれに倣った。  湖を縦横に巡った末に辿り着いた、迷宮北西部の一角である。凍った湖を後にして少し北に進んだところで、東西に延びる道に合流したので、ひとまず西に足を向けた時のことだった。  遠目にも、奇妙な物体が見える。他の面子に比べてナジクは視力がいいが、彼をしても現時点では、仲間達同様、『それ』が紫色をしていると判るのが精一杯だったようだ。  なんだろう。好奇心に駆られて、もう少し近づいてみる。  しかし、細部がはっきり見て取れてくるにつれ、冒険者達の足取りは鈍り、ついに止まった。この場合、止まって正解だったかもしれない。  紫色の塊――その正体は、蜷局(とぐろ)を巻いた竜だったのだ。三竜王に比べればさしたる力はないだろう。が、今の自分達には油断できないことは、今までも何度も心に刻みつけた通りだ。  とはいえ不思議なことに、敵意のようなものは感じない。冒険者達は意を決して、もう少しだけ近づいてみることにした。その甲斐あって、理由は知れた。竜は眠っていたのだ。  同時に、竜の姿がもう少し詳しく判った。長い蜷局だと思えたのは、実は複数の頭だったのだ。ざっと数えられるだけでも四本まで確認できる。胴体は、第二階層のサウロポセイドンのような、太く短い足で支えられた頑丈なものだが、長い尻尾が少なくとも三本ある。 「頭が八つあったら、ヤマタノオロチみたいですわいな……」  焔華の感慨に登場したヤマタノ何とやらは、東方の伝説に出てくる多頭竜らしい。 「九つあったらヒドラね」とオルセルタ。  ヒドラの首の数には諸説あるが、それは置いておく。  目の前の紫竜の頭の数が八だか九だかそれ以外かは判らない――なにしろ、先達の冒険者達からもたらされた十二階の記録には、まだ目を通していなかったものだから。叩き起こして確認しようという気にもなれなかった。というのも、試しにもう一歩だけ、と近づいたところ、頭の一本が目を覚まし、睨み付けてきたのである。その時に急激に膨れあがった敵意たるや、それだけで気の弱い者を悶死させても不思議ではない。冒険者が下がると、目覚めた頭は、再び眠りに就いた。少なくとも今は、至近に踏み込みでもしない限りは見逃してくれる所存のようだ。冒険者達はそっと引き返すことにした。  今度は三叉路を東へと進む。南から来たときに、扉があることを遠目に確認していたが、それに見間違いはなかった。  扉を潜ると、その向こうは小部屋状になっており、北東の隅の方に行くにつれて盛り上がっているようだった。雪が掻き分けられ、少しながら地面が露出している。人の手で掘り起こされた跡は、そこが採集地である証拠だ。  どうやら、鉱石が多く取れる場所のようである。角張った氷が固まったような氷長石や、淡い青ガラスにも見える天青石が掘り出される。ゼグタントのように採集技能に傾倒していない身では、どれだけたくさん掘り出しても、使い物になるものがわずかにあるかないかというところだろう。だから見本程度に少しだけ持っていくことにした後、採掘場から興味を引きはがした。 「……あれ?」  その採掘場からそれほど離れていないところに、雪を浴びて白くなった草がまばらに生え、その中に埋もれるように不思議な鉱石の一群がある。一瞬、氷かと思ったのだが、どうも違うようだ。意を決して触れてみると、冷たいには冷たいのだが、氷とは違う感触が得られる。  美しい形をした結晶だ。形は水晶に似ているが、不純物が入っているのか、透明度は低い。せっかくだから持ち帰ろうと思って手を伸ばすが、地面に根っこを生やしているかのように硬い。鉱石だから硬いのは当然かと思い直し、結晶の台座になっていると思われる石ごと掘り出そうとして地面に手を入れたら、本当に根が生えていた。なんじゃこりゃ、と脳内に疑問を溢れさせたのも束の間、あることに思い当たった。  自分達が探している氷の花は、本当に氷で作られたような花だと。  そう思うと、目の前の結晶が、閉ざされた花の蕾のようにも見えてくる。  目の前にある結晶が植物なら、根――あるいは地下茎かもしれない――が生えているのは当然だろう。しかし、地上に出ている場所は、どう見ても植物に見えない。どうやら周囲の草も、この植物の一部のようだが、一見ではとてもそうは思えない。衛士達が見逃すのも当然か。  なんにせよ、目的のものが見つかったのは確かだ。冒険者達は喜んで掘り起こそうとした。しかし、これが実に至難の業であった。根が硬い。硬い、というより、ぐにょぐにょしていて切れない。だったら、どうせ必要なのは花だから、と思って、つぼみの根元に衝撃を与えても、こちらは鉱石の硬さで衝撃を拒む。下手を打てば丸ごと粉々にしかねない。数え切れないくらいの試行錯誤を繰り返し、さしもの『ウルスラグナ』もついに降参した。 「どうするよ」  エルナクハは皆の心境を代弁するようにぼやいた。  花を採集して薬の材料にした記録があるのだから、何かしらの手段で取れないはずはない。前時代にしかなかったような手段が必要だとかいうならお手上げだが、そこまで考慮していたら際限がない。とりあえず、今とは違う状況で試行錯誤できる手はないものか。 「花が咲いた後なら、普通に摘めるのではないか?」  ぼそり、とナジクが口にした。  そういえば、そうだ。蕾が硬いのは、これから咲く花を保護するためと考えられなくもない。逆に言えば、花は相応に柔らかいはずだ。 「ナイスだぜ、ナジク」  エルナクハはレンジャーの青年を褒めそやしたものの、すぐに別の問題に至った。  その花は、いつ咲くのだろう。  夜行性かもしれない、とは、すぐに思いついたことである。あの特徴的な花が、ただのひとつすらも、衛士達の総力を費やしても見つからない。それも、彼らが探索を行う昼の間に、このような鉱石状の形をしているなら、頷ける話だ。  ただ、目の前にある蕾が、成長度的な問題でいつ開花するのかは、氷の花の生態を知らぬ身には見当が付かない。ナジクの見立てでは、一番大きな蕾もぴったりと閉ざされていて、まだ咲きそうにないとのことだが。  それに、別の難題が頭を出す。しかも最低四つの頭を。つまり、つい先程見た紫竜のことだ。今の時間帯に眠っているということは、あの魔物も夜に活動する可能性が高い。かの魔物の縄張りの範囲は判らないが、最悪の場合、かなり危ない橋を渡らないと、今いる場所にたどり着くことはできないだろう。  他の場所に花か蕾がないか探さなくてはならない。別の場所で必要数が揃えばいいが、そうでなければ、またここに戻る必要がある。ひとまず『ウルスラグナ』はその場所を後にした。  『ウルスラグナ』最新参のアルケミスト・フィプトは、灰紋羽病のサンプル採取の護衛として樹海に潜った翌日からは、予定どおり、『共和国』アルケミスト・ギルドから託された鉱石の研究を行っていた。ハイ・ラガードの街で共同研究をしてくれる錬金術師を数名募り、北方にあるという共同実験場で作業を行っていた彼は、この日、天牛ノ月十六日の夕方に、研究者達を引きつれて一旦私塾に戻ってきたところだった。  ところが、そんな彼に、妻と共に現れたギルドマスターが告げた言葉は。 「悪いけどよ、センセイ、やっぱり樹海に入ってくれないか」  数の多い敵には、やはり術式が大きな戦力になると思ったのだった。  フィプトは困り果てた。樹海に興味があるのは確かである。だからこそ『ウルスラグナ』に加入を願ったのだ。が、例の鉱石に関する研究をしてみたい欲求も高い。どちらか片方だけ選べ、というのは、酷な話である。 「行ってきなよ、フィプト師。例の石は、ありがたく私達のものにさせてもらうから」  そんな殺生な言葉をもって、樹海の方へフィプトの背を押したのは、彼と共に例の鉱石の共同研究をしていたアルケミストの一人だった。もちろん、鉱石を横取りする旨は冗談だろうが。なんにせよフィプトはその言葉に素直に背を押されることにした。ただ、彼が樹海に舞い戻ることを決めた理由自体は、別のものだったのだが。  ところで、フィプト(とパラス)がいなかった間は、アベイの他にもう一人――ゼグタントがいないときはさらにもう一人――が、昼と夜の両方に樹海探索を行っていた。その順番は極めて円滑に決められていたのだが、氷の花の話を聞くと、それが咲きそうな時に誰が入るか、『ウルスラグナ』としては珍しく紛糾した。ただし、安全性確保のために必ず探索班入りするアベイは加わらず、余裕綽々の顔をしている。  しかしエルナクハは首を横に振った。 「一人はもう決まってる。異論は許さねぇ」 「はい?」  仲間達は思わず言葉を止め、何を言い出すのかとばかりに、ギルドマスターに視線を向けた。  しかし、エルナクハが理由を口にしてみれば、それは、『ウルスラグナ』の誰もが同意し、納得し、我も我もと争っていた樹海入りの主張を控えるほどのものだった。 「せっかくだから、氷の花が樹海の中で咲いているところをパラスに見せてやりてぇ」 「……あら、貴方がそんな気を回すことができるとは、予想外でした」 「そんなはっきり言ってくれるなよ、ノル」  澄ましたセンノルレの混ぜ返しはともかく。  はとこの死と母の受難で打ちひしがれた少女を慰めるのに、氷でできたようだと言われる美しい花は、きっと功を奏するだろう。もちろん、摘んできたものでもそれなりに慰めになるかもしれないが、エルナクハはもっと別のことを考えていた。誰が探索班になるかという争いも、エルナクハが考えたことを誰もが見たかったからだ。花を見るだけなら順番に行けばいいことだし、極論を言えば探索班が摘んできたものを見られればいい話なのである。 「そんなわけで、パラスと、万が一のためにユースケ。あと三人は適当に決めろ」  そう言い置いて私塾内に戻ろうとするギルドマスターに、皆は疑問の声を投げかけた。 「兄様は?」 「言い出しっぺはおとなしく身を退くぜ」  と言いながらエルナクハはひらひらと手を振った。ギルマス権限で割り込んでも遺恨を残すだけだ。もっとも、『ウルスラグナ』内で、遺恨を残すほどの争いになることはないだろうが。  夫の後を追ったセンノルレは、エルナクハがふと呟いた言葉を聞いた。 「今のノルはどうやっても見に行けないんだからよ、オレばっかいい目を見るわけにゃいかねぇだろうよ」  当人は後ろに妻がいると思わず呟いてしまったのだろう。実は聞かれていたと知ったらどう思うか。センノルレは足を止めて、エルナクハが気付かないままどんどん進んでいくのを見送った後、 「そんなに気を使わなくてもよろしいですのに」  くすくすと笑いを上げた。  結局、ギルマスのいない中で話し合いは進み、円満に決定がなされたようだった。夕食の席で、決定について言い争いがなされることはなかったのである。  カースメーカーの少女に話を持ち込んだのは、夕食後、普通に第二階層での鍛錬に行く夜組を見送ってからであった。 「……エルにいさん?」 「よぅ」  母が眠るベッドの傍に付き添っていたパラスは、軽快な挨拶の声と共に病室に入ってきたギルドマスターの姿を認め、何事かと目を丸くした。樹海探索に戻ってほしいと告げられると、腹を立てこそしなかったが、不審げに目を細める。 「今、それどころじゃないって、判ってないはずないよね?」 「それどころじゃないからこそ、さ」  氷の花の件を説明すると、パラスも心を揺り動かされたようだった。だが、「でも……」とつぶやき、心配げに母の姿を見やる。  眠る女性の顔立ちは、思いの外に若く見える。パラスの母であるからには、三十路は越えているだろうが。落ち着いた寝顔からは、いつ目を覚ましてもおかしくないように思えるのだが、実際に目覚めるまでは予断を許さないのだろう。  少女を慰めようと思って企画したことだが、これ以上勧めたらただの押し付けだろう。エルナクハは軽く首を振って諦めようとした。  そんな時である。 「お母さんの事は、僕らに任せていただけませんかね」  軽いノックの後、そんな言葉と共に入室してきたのは、院長ツキモリ医師であった。 「いいタイミングできやがるな」  今まで扉越しに話を聞いていたんだろ、の意を込めて、エルナクハは苦笑気味に声を漏らした。ちなみに薬泉院(やエトリアの施薬院)の一般病室の扉は、話し声を完全に遮るほど厚くはない。患者が急変したときに上げる呻き声を聞き逃さないためである。 「いえ、大公宮の秘密の話が出ていたもので」 「アンタも知ってるんだっけ……てか、知ってるなら別に気ィ使う理由もねぇだろうよ」  大公の病の事を知っているツキモリ医師なら、『氷の花』のことを伝えられていてもおかしくはないだろう。 「ああいえ、他のメディック達が話を聞いたら困るでしょう?」 「あ、そか。つまりアンタは見張っててくれたわけか」 「そういうことですよ」  大きく頷くと、ツキモリ医師はパラスの傍にゆっくりと歩み寄って、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。 「母君が心配なのはよくわかります。でも、たまには気を緩めないと、あなたの方が倒れてしまいますよ。ここは僕らに任せていただけませんか? ――それとも、やはり母君を預けるのに僕らでは頼りになりませんか?」 「ううん、そんなことない、そんなことないよ」  パラスは、ぶんぶん、と、首がもげそうな勢いで首を横に振った。 「今すぐってわけじゃねぇんだ」とエルナクハも横から補足した。「まぁ、明日になるかもしれねぇし、もう少し後かもしれねぇし、それはわかんねぇけど。ツキモリセンセイの言う通り、あんまり気を張り詰めねぇでほしいのさ」 「……うん」  カースメーカーの少女は、おずおずと、しかし拒否の意志を含まずにはっきりと、頷いたのであった。  ということでパラスの言質は取った。しかし、彼女にも告げたように、実行の日がいつになるかは判らない。明日かもしれない、もっと後かもしれない、ひょっとしたら、花が『ウルスラグナ』が気が付かないうちに咲いて枯れて、パラスを慰めるどころではなくなってしまうかもしれない。  冒険者としては、数日の遅れは仕方がないとして、近いうちに花開いてほしいものである。計画のためにも、冒険者本来の仕事である探索を再開するためにも。  が、その心配は早速と払底されたのであった。  翌十七日からしばらくは、氷の花の開花の兆しを待つ日々になるはずだった。  衛士達には悪いが、自分達が既に花を見付けていることを悟られてはいけない。花が見つからない理由に気付かれて、先に摘み取られてしまったら、計画の意味がないからだ。ついでに即物的なことを言わせてもらえば、せっかくの報酬ももらえなくなってしまう。  ところが、朝から樹海に入った冒険者達は、待つ日々が始まった早々終わりを告げたことを知った。 「……今晩あたり、咲くかもしれない。今晩がだめだったとしても、近いうちには」  あらかじめ発見してあった、氷の花の群生地のいくつか――どこも、傍目には、草むらの合間に鉱石が埋もれているようにしか見えない――を回った後、最後の群生地で『結晶』を調べながら、ナジクがそう口を開いた。 「ホントか?」 「どの群生地でも、一番大きな蕾の様子が変わっている。見ろ」  示されて、大きな蕾を覗き込む一同。目の前の蕾は、不純物の多い鉱石のようだった透明度は格段に上がり、結晶の中に何かが封入してあるように見えた。これから咲くはずの花だろうか。ただ、あらかじめそう見当を付けていなければ、見たところで何が何だか理解できなかっただろう。爪先でごく軽く叩くと、キンキンと澄んだ音がした。 「ラッキーだったのね、わたし達」 「かもしれませんえー」  オルセルタの言葉に応える焔華は、妙に弾んだ声をしていた。およ、と不審がったエルナクハだったが、すぐにその理由を推論する。 「ひょっとして、ほのか、オマエ、花を見に行く組か?」 「そうですえー」とブシドーの少女はにっこりと笑んだ。 「そういや、誰が見に行くヤツになったのか、聞いてなかったな。どうなったんだ?」 「わちと、ティレンどのと、フィプトどのですえ」  言及されていないが、アベイとパラスは当然に確定枠である。  聖騎士(じぶん)がいない以上、防御に不安がなくもないが、それは言っても始まらない。そのあたりを抜かして考えれば、さほどバランスが外れているわけでもない組み合わせだろう。 「念のため獣避けの鈴を鳴らしていきますえ」 「まあ、鍛錬でも狩猟(かり)でもねぇから、アリだな。ところで、面子ぁどうやって決めたんだ?」 「ジャンケンですし」 「おいおい」  よくもまぁそれで、前後衛のバランスがそれなりに取れた組み合わせになったものだ。前衛が務まる者が枠を占めたならまだしも、フィプトとマルメリの両方が勝ち上がってしまっていたら、そのどちらかが前衛に出なくてはならないという『惨事』になってしまうところだったではないか。  樹海探索に出られる者は、アリアドネの糸(というより磁軸計)の仕様上、五人が最大。その中で陣形を組むときに後衛四人というのは、極めて危険だ。残る前衛一人で、後衛に向かう攻撃を軽減しきれるはずがない。前衛四人ならまだ危険が少ないかもしれないが、なんにしても、いびつな陣形は不慮の乱戦につながる、事故の元だ。避けるに限る。  ともあれ、そんな事態にならなくて幸いだった。もっとも、うっかりなりそうになったとしても、何とか融通を利かせる程度の配慮は、皆も持ち合わせていただろうが。  話が逸れたが、これで計画の準備は整ったわけだ。あとは計画実行後、咲いた花を四つ採集して、大公宮に届けるのみ。そうすれば、湖周辺の封鎖も解かれて、改めて先へと進むことができる。  冒険者達はひとまず安心して、その後昼頃までは、魔物を狩り、鍛錬することと素材を入手することに専念した。衛士達に不審がられないように、まだ花を探しているふりもしなくてはならなかったが。  第三階層でありがたかったのは、寒いために生鮮物(ナマモノ)の劣化が遅いことだった。  ここまでの階層では、腐敗を遅らせるために血抜きを徹底し、笹の葉にくるんでさえも、あまり長くは保たない。探索優先で帰りまでに長丁場になりそうな際には、肉類は諦めて、樹海の生態系に返したものだった。  それが、第三階層では心配にならない。雪と一緒に詰めれば、街に持ち帰るまで、さばいたばかりに近い新鮮さが保たれる。フィプトが開発した冷気の壷を持ち込めればなぁ、と幾度か思ったものだが、それに似た状況が手軽に再現できるのである。  おまけに十二階ではソリがある。『ウルスラグナ』はソリに不要な荷物を載せて運ぶという『横着』を覚えたのだ。滑っているときはもちろん、雪の上を曳いて歩いているときも、背負って歩くよりは楽にたくさんの荷を持ち運べる。もっとも、アリアドネの糸で帰還するときには、全部自分達で持っていなくてはならず(ソリに乗せたままだとソリもろとも置いていってしまうのだ)、街まで運ぶのが地獄だ、と気が付いてからは、ほどほどにしていたのだが。  そうやって集めたものを、いつものように、自分達が食べる分の食材を除いて、シトト交易所に卸しに行った際のことである。 「……およ?」  先客がいた。しかも見覚えがある。いつだったか出会った薔薇水売りの少年だった。 「今度はシトトの嬢ちゃんに薔薇水の売り込みか?」  と声をかけると、少年は振り返って、 「いや、今日は、白い花の方」  と言いかけた後に、ふと気が付いたように話題を変えた。 「そういや兄ちゃんは、もう大丈夫そうだな、よかった」 「ん、何がだよ?」 「何日か前に見かけたとき、すごい顔してたからさ、何かあったのかと心配しててよ」 「……あ、ああ、やっぱあの声、オマエだったか」  もう大丈夫だ、とエルナクハは答えた。まだ心の奥底にくすぶるものがないとは言い切れない。しかし、それを言っても詮ないことだ。 「よかった」と薔薇水売りの少年は破顔した。「あっちこっちで売り込みしてるとさ、噂聞くんだよ。調子よく探索していた冒険者達で、帰ってこないヤツが多いって。兄ちゃんの仲間にも何かあったのかなって心配してたんだ」 「そか、ありがとよ」  笑みを浮かべて返礼をしかけたエルナクハだったが、 「昨日も、十四階とか十五階とかに行った奴らが戻らないなんていう話を、宿屋で聞いたしよ」  そんな言葉を聞いて、仲間共々表情を引き締めた。  フロースの宿を使っている者達で、一番先に進んでいるのは、『ウルスラグナ』だったはずだから、少年の言う『宿』は別の場所のことだろう。ではどこの宿のことか、というのはこの際問題ではない。話の骨子は、先達の誰かが脱落したということだ。しかも複数のギルドが。 「迷宮の中で夜を明かしてるとかじゃなくてか?」  とアベイが問うのは、そのような事態もあり得るからである。迷宮の危機に危なげなく対応できるようになると、準備をしっかりと整えて、長丁場覚悟で樹海に潜る者達もいた。最近はそれだけの準備に対応できる品揃えを交易所は誇っている。しかし少年は、シトトの娘ともども首を振った。 「まぁ、そんな理由ならいいんだけどさ、少なくとも一組は違うみたいなんだ。そいつらは夕飯のリクエストまでしていったっていうんだぜ。夕方には帰ってくるつもりだったってことだろ?」  何ともいえない空気がシトト交易所に漂った。買い物に来た者がいたなら、入店をためらった挙げ句に引き返したかもしれない。その不穏な空気に急かされる気分で、冒険者達は手早く素材を換金すると、交易所を後にした。背後から「ちょっと『ウルスラグナ』さん! 防寒具できたんですよ!」と声がかけられたので、慌てて引き返したが、それでも長居することはなかった。  私塾に帰り着くまで、誰も口を開かなかった。パラスのはとこの死を知ったときに比べれば、まだ気持ちに余裕はあるが、それでも、暗鬱な思いが心の奥底に湧き上がる。  これまでにも、知っている者知らない者問わず、数多の冒険者達が樹海に沈んだ。『ウルスラグナ』より先行していた手練れすら、樹海の闇から伸びる魔手に掛かっていく――まだ、確実にそうなったと決まったわけではないが。  そういえば、彼らはどうだろう、と思った。  第二階層、紅の樹海の中で出会った、二人組の冒険者。『エスバット』という名を持つ、小動物のような愛嬌を持つ巫医と、彼女に忠実な老銃士。  あれ以来見かけていないが、まさか彼らも、樹海に敗北したのだろうか。  そんな疑念を抱きつつも、しかし、『エスバット』はしぶとく生き延びて、自分達より遥か先を行っているのではないか、という気もする。なんとなく、彼らが斃れる様を想像しにくいのだ。 「……ま、考えるのは、まず自分達(てめえら)がぶっ倒れないようにすることだよな」  エルナクハが口にしたようなことを、それぞれが改めて自覚し、この件についての思考はひとまず終わった。  この時、『ウルスラグナ』は誰も思わなかったのだ。  今し方思考の表層に浮かんだ『エスバット』と、ごく近い未来に再び顔を突き合わせることになるとは。  私塾に戻ったときに十分日が高ければ、まず行うのは、樹海で仕入れた食材のほとんどを加工することである。  冷気の壷をもってさえ、生鮮物は長く保つものではない。ゆえに屋上で広げて干したり、塩やハチミツに漬けたりする。肉なら薫蒸したり、果物の類なら絞って果汁を壷に入れて酒造を試みたりする。ちなみに酒造はフィプトやセンノルレの大好きな(?)実験を兼ねていたりもするのだった。  作業が終わると、昼食か軽食を摂ることになる。加工しないで取り分けておいた果物が添えられることも多い。この日、朝から出掛けていたゼグタントも、昼頃に戻ってきて、しれっと昼食の席に混ざっていたが、しっかり果物まで平らげてから、「午後からも採集頼まれてンから」と出掛けていった。  フリーランスのレンジャーを見送った後、上がった話題は、当然ながら、夕方から行う『計画』のことだった。 「少し早いのですけど、もう少ししたら出発しようと思いますえ」 「おう、そか」  計画は、ごく限られた時間内にしか実行できない。うっかり間に合わないという事態を防ぐにも、余裕をもって出立するのは当然のことだ。しかし、よくよく考えれば、あまりにも早すぎないか? 訝しげな顔をする仲間達に、焔華はその理由を述べた。 「ちょっと気になる所があるんですえ」  焔華の気を引いたというものは、一番始めに見付けた氷の花の蕾の近く、紫色の邪竜が惰眠をむさぼっている傍らしい。 「なんとなくですけど、獣道っぽかったんし。調べてみたいと思いましたんえ」 「なんだよ水臭ぇ。探索の時に言ってくれりゃよかったのに」 「確証持てませんでしたんし、言い出せなかったんですえ」  もっとも、焔華とて、無茶はしないだろう。そう思ってエルナクハは、謎の獣道とやらの調査は任せることにした。  ブシドーの少女と共に氷の花を見に行くティレンは、果物を頬張りながらも嬉しそうにしていた。なにしろ彼は、まだ第三階層の光景をその目で見ていない。  同じく第三階層に踏み込むのか始めてになるフィプトも、果物を口に運びながら、しかしこちらは冷静さを装っている。にも関わらず、仲間達からすれば、ティレン同様に心を弾ませているのがまる分かりだ。なにしろ、頻繁に視線を焔華やアベイに向け、まだ出立しないのか、と無言で訴えかけているのだから。  彼らの期待に応えてというわけではないが、結局、焔華を始めとする探索班一行が出立したのは、午後一時半を少しだけ過ぎた頃だった。その足で薬泉院にパラスを迎えにいく時間を考えれば、氷の花が生息している中でも一番行きやすい、最初に発見した場所に到着するのは、おそらく三時頃になるだろう。獣道の奥の探索に熱中しすぎて、計画に必要な時間帯を忘れたりしなければ、十分に余裕があるはずだった。  犬は喜び庭駆け回り、という古い歌があった気がする。  アベイに問うたら、「ああ、前時代からあったあった」と懐かしそうな表情で同意が返ってきた。  動物にたとえたら間違いなく子犬だ、と思えるティレンは、一面真っ白の光景に、歓喜の声を上げて駆け回っていた。いくら世間知らずな所があるとはいえ、雪ぐらいは見たことはあるはずだが、それでも彼にとって銀世界は『珍しいもの』の部類に入るのだろう。  パラスも『犬』の部類に入るらしく、駆け回りこそしていないが、その目が好奇心に輝いているのを、焔華は確かに見た。  フィプトは、と思って視線を移すと、予想に反して彼は何の感慨も浮かべていない。あやや、と思って訊いてみると、 「いや、毎年、嫌になるほど体験してますからねぇ、雪は」  おお寒、とつぶやきながら、防寒具をかき抱く錬金術師。  猫だ、と焔華は思った。コタツで丸くなる類の猫だ。そういえばハイ・ラガードにコタツはあるのだろうか。ないのだったら、あの至福を教えてあげなくてはなるまい。 「ああでも、雪以外のモノは十分に興味深いです」  せっかく第三階層に入ったのに、と思われていると感じたのか、フィプトは前言を慌てて打ち消すかのような早口で言葉を続けた。 「もちろん、これから拝見する氷の花もですよ。でも寒すぎて、スケッチが上手くいくか、不安です」  フィプトはこれまでも、漉紙のメモ帳に様々なメモを取っていたものだが、なんとも勉強熱心なことに、この凍える階層でも方針を変えるつもりはないようであった。ついでにいうと、フィプトのスケッチ能力は……要所は掴めている、とだけは言えるだろう。 「カメラ……は、ないもんなぁ、今の世の中」 「カメラ、ですか?」 「うん、目の前の風景をそのまま写し取れるカラクリだ」 「ほんとにそっくりだよ、せんせい」と、いつの間に戻ってきたのか、ティレンが割り込んだ。「おれ達、シンジュクで見たもん。アベイ兄の子供の頃の写真とか、鳥とか花とか」 「ああ、そんなのが今もあったら、便利だったでしょうねぇ」  心底羨ましそうにフィプトは溜息を吐いた。未練が白い息に混ざって迷宮に散っていった。  ともかく、磁軸の柱の傍で立ちすくんでいても始まらない。一行は氷湖を目指して踏み出した。  獣避けの鈴を鳴らしているおかげで、恐ろしい魔物はほとんど寄ってこない。偶発的に出会うことがあっても、容易に相手取ることができた。それはこれまでにも鍛練を重ねてきた賜物である。数日ほど樹海から遠ざかっていたパラスも、最初のうちこそ少しぎこちなかったが、程なくいつもの調子を取り戻し、呪鈴を鳴らして魔物の力を削ぎに掛かっていた。  やがて十二階に上ったとき――焔華は後悔した。 「フィプト殿を連れてくるんじゃなかったですわいや……」  誤解されそうな言葉なので補足するが、フィプト自身を疎んじて放った言葉ではない。  ご存じの通り、十二階ではソリを使って移動することになる。その際の動力源は『人力』だ。ところが、ソリに慣性を与える者達は、ソリが氷上に差し掛かったのと同時に飛び乗れなければ、置いてきぼりになる――フィプトやパラスは、それに自信がないというのである。アベイもそうだから、ソリに力を与えられるのは焔華とティレンだけということになる。  案の定、ソリの速度は緩慢で、途中で止まってしまいそうに危うかった。 「……要は、推進力が生み出せればいいわけですよね?」  状況を見つつ、フィプトはそう呟いて、錬金籠手(アタノール)を調整する。やがて、ソリの後部に移動し、ロープで自分をソリに固定した。さらにはティレンに自分をしっかり押さえる様に頼んだ後、掌を後方にかざす。  掌にある噴出口から勢いよく吹き出してきたのは、豪炎であった。 「あわわっ!」  ティレンが悲鳴を上げたが、辛うじてフィプトを離すことはなかった。  豪炎が噴出した時間はごく短いものだったが、その力はフィプトを――そしてフィプトと繋がっているソリを、前方に勢いよく押し出すには十分な力を発揮した。四人がかりで押し出したときよりも速く、ソリは氷上を滑る。 「もっと弱くてもよかったですかねー?」  ものすごい勢いで流れていく景色に眩暈を感じながら、フィプトは引きつった生笑いを浮かべた。パラスが青ざめながらも苦言を呈する。 「できれば次回は二割減くらいで頼みたいなあ!」 「錬金籠手での炎の術式の制御は苦手なんですよ……」 「助けてくれノル姉ー!」  炎の術式を得意としたアルケミストにアベイが助けを求めるが、本人はこの場にいない。  そうこうしているうちに、ソリは無事に対岸へと行き着いた――否、『無事に』と言っていいものなのだろうか。勢いづいたソリは対岸にぶつかった途端に大きくひっくり返り、乗っていた全員を雪原に投げ出してしまったのであった。  ひどい目に遭ったものだが、次にソリを使うときは、最初ほどひどいことにはならなかった。 「……錬金籠手を改造して、ソリ専用の推進装置を作れたら、便利かもしれませんね」 「その開発はノル姉に任せてくれ。頼む。頼むからフィー兄は関わらないでくれ……!」  げんなりとしたアベイが土下座する勢いで頼み込んだ。  もっとも、実際に作るにしても、たぶん相応の時間が掛かると思われる。できあがった頃には、『ウルスラグナ』もきっと氷雪の階層を抜け出してしまっているだろう。ただ、迷宮であろうとなかろうと、いちいち人力(や馬や犬)で動かす必要のないソリがあれば便利だ。いずれは誰かが研究することになるかもしれない――それがフィプトかどうかは別として。  氷湖のほとりで野営している衛士達と交渉し、氷上へ繰り出す時間をもらった。ただし、今回は、昼の間にソリを走らせるのは、たぶん一度だけ、それ以降に滑るのは衛士達が休む夜間になるので、大きな調整は必要なかった。  探索をしていた衛士達が戻ってくるのと入れ替わりに、『ウルスラグナ』は氷上へ進み出た。  最大の目的である、氷の花のある場所へは、さほどの時間も掛からなかっただろうが。 「で、ホノカさん。気になる獣道というのは?」 「あっちですし」  氷の花のあるエリアを閉ざす扉を右手に見る三叉路で、フィプトに問われた焔華は、左手を指した。  指差された先に遠く見えるのは、紫色の塊。近づかなくても、話を聞いていた皆には判る。強力な敵、多頭竜である。 「たぶん、あやつの縄張りに入ることはないと思いますえ」  とは言いながらも、一行は念のために神経を張り詰めながら、ゆっくりと邪竜に近付く。  魔物は、目を覚まさない。  昼の間なら、縄張りに一歩踏み込んでもすぐには襲われないようだが、それでも緊張感はいや増していく。  あと一歩踏み込んだらまずいのではないか。皆がそう思った、そのときであった。 「こっちですし!」  抑えた声で焔華が皆を促した。  邪竜を正面に見て右手に連なる、雪を纏った木々。その合間に、確かに道といえばそう見えなくもない、細い空間が奥へと続いている。ただ、獣道というにも頼りなく、通れるように見えるのはただの偶然で、途中で行き詰まるのではないかという心配も抱かせる。  それでも、せっかく見付けたのだから、という理由で、冒険者達は草木を掻き分けて細い道を進んだ。  邪魔な草木の多さに違和感を覚えなくもなかったが、異常というほどでもなかったので、気にせず先に進む。ナジクがこの場にいたら、「何者かが道を隠すために草木を寄せたのだろう」と看破したに違いない。  その理由が、道の先にあった。 「……まって」  ティレンが立ち止まり、その腕が道を塞ぐのに従って、他の皆も足を止めた。  そのあたりから、先が獣道であることが納得できるような道となっていた。それは、この場にいる者達には判断できなかったが、道を隠そうとして草木が寄せられていることがなくなったということでもある。  その代わり、冒険者達の足下、地面すれすれを、ばらばらの間隔を空けて、五本の紐が横切っている。  ごく初歩的な罠だ。獣がこの道を通ろうとして紐に触れれば、何かしらの罠が発動するはずだ。  第二階層で、マルメリが罠に掛かってしまったことを思い出す。あの時の罠は、殺傷力はさほどではなかったが、それでもマルメリの足は赤く腫れ上がった。今回の罠が、たとえば毒矢を放つ類だったりしたら、自分達が無事でいられる保証はない。  紐の間をまたいで避けようにも、絶妙に避けにくい間隔である。  ならば、と、罠を仕掛けた者には悪いが、解除しようと試みる。  この手の罠は、正確に言えば一本は罠ではない。その一本は、切ることで他の罠すべてを解除する役割があるのだ。罠を回収するときに手早く行うためのものである。もちろん、地面にある紐を直接切るわけではなく、近くの樹に巻き付けてある、紐の端のどれかを切る。  だったらそうと判る印が付いていれば、と思うが、そういうものはない。獣には意外と知恵が回るものもいて、それを目安に罠を解いてしまうものもいるのだ。また、罠を掛けた者の中には、「人の罠を解こうとする不届き者は罠に掛かっちまってもよし」という、物騒な考えの輩もいたりする。そういった者は自分以外にわかる目印など付けないだろう。難儀なことである。  目の前の罠が、どちらの理由で目印が付けられていないのかは、冒険者達の与り知らぬところだ。が、どちらにしても先に進むには、排除しなくてはならない。 「……とにかく、これのどれか一本を切ってしまえば、罠は解除されるんですね?」 「たぶんね。でも……」  パラスが不安げに白の天蓋を仰いだ。 「もし、間違っちゃったのを切っちゃったら、罠、動くよ。矢とかだったら、ここにも届くかもしれない。危ないよ、フィーにいさん」 「う……」  そう言われてしまうと、余計にプレッシャーが掛かる。  間違った紐を切れば、罠が作動する。動物を無力化して捕らえる罠が。生命そのものを破壊することで目的を果たすものかもしれない。それが、自分達に牙を剥く可能性があるのだ。  チャンスは一度だけ。そのチャンスに――紐を切ろうとする者の手に、自分も含めた皆の生命がかかっている。焦燥ばかりが先立ち、いつまでたっても紐を選ぶことができない。  ついにフィプトは重圧に敗北した。実験で「一滴多く落とせば爆発するかもしれない」と緊張しながら薬液を混ぜている時のほうが、まだ幾分かマシだと思った。 「これじゃ、すすめない」  ティレンが焔華を振り向き、朴訥な口調で訴えた。彼自身は罠の解除を試みる気はさらさらないようである。アベイやパラスにしても、自分達の手に負えない危険に手を出す気はないと見える。  焔華は肩をすくめた。  するべきことはただひとつ、正しい紐を一本切るだけだ。けれど、失敗の予測が、皆に萎縮を強いている。 「……みんな、離れていてくださんし」  何をする気だ、と無言で訴える仲間達を、焔華は遠くに下がらせた。万が一の被害から守るために。そして自分は、紐を巻き付けてある樹の前で、しゃがみ込む。否、背を伸ばして膝を折ったその姿は、東方の礼節である『正座』の体に間違いない。その状態で焔華はゆっくりと目を閉ざし、微動だにしなくなった。  何のつもりだ、と仲間達は訊きたかったのだが、焔華の雰囲気は、余人の口出しを許さない張り詰めたものに変化していたのだった。不用意に動けば、焔華の周囲に漂う空気の流れに両断されてしまう――冷静に考えればありえるはずのない、そんな考えに取り付かれ、誰も、一歩近付くどころか、唇を開くことさえ憚った。  その状態が、どのくらい続いただろう。体感的には数分はじっとしていたような気がする。  不意に焔華が動く。その手元で、きらりと白刃が閃いたが早いか、既に彼女は正座から片膝立てた体勢に移り、なぎ払いの終の型を取ったまま停止していた。それはあるいは、東方の剣術で『残心』と呼ばれるものだったかもしれない。見とれかけた仲間達の前で、五本の紐のうち、ただ一本だけが、はらりと切れて解けた。  どこか近くで、からん、と、何かが落ちた音がした。罠の紐を止めていた木の棒か何かが外れたのだろう。見ると、獣道に張り渡してあった紐は、だらんと緩んで地面を這っていた。これでは罠の体をなさない。  仲間達が焔華に目を移すと、ブシドーの少女は、すでに刀を鞘に収めていて、誇らしげに、にこりと笑んだ。 「いかがですし?」 「すごいですね、ホノカさん。あの紐が正解と見破れたんですか?」 「うーん、確率としては八割、くらいですわ」 「じゃあ、あと二割の方が当たってしまったら……」 「あの時は、そんなことは考えませんでしたえ」  恐るべきはブシドーの精神力。己の死を決定づけるかもしれない選択の前にあって、精神が押し潰されることなく、選んだ道を真直に踏み出す。『ブシドーは死を美徳とする』という言葉があるが、その真実は、死の重圧の中にあってさえ凛と起つ精神の強靱さを讃えるものなのだろう。  東方の剣士の実力を改めて思い知り、納得しつつ、一同は獣道を先に進んだ。  獣道を越えたところにも、開けた空間があった。その中を、冒険者達は、雪を踏み、時には氷上をソリで渡り、先に進む。  半時間ほど進んだ頃合いだろうか。  冒険者達の行く手を遮るのは、石がごろごろと転がる平原であった。といっても、ほとんどがうっすらと雪に覆い隠されているので、雪原の凹凸を見ての推測に過ぎないのだが。  容易に進めるものではない。足の踏み場によっては、雪の下に隠れた石に足を取られ、転倒を強いられるかもしれない。変な転び方をして足をひねったりする可能性もあるのだ。  そんな無理を押しても進むべきものだろうか。  せっかくここまで来たのだが、無謀は行わないに限る。領域として存在する以上、いずれは地図に起こさなくてはならないが、それは、対策を立ててからでもできることだ。そう思って引き返そうとしたのだが――何か、妙な気配を感じる。  誰かがいるのか?  気配の主を捜して視線をさまよわせた冒険者達だったが、その正体を知った時、あまりの奇妙さに言葉も出なかった。  冒険者達から見て左手やや遠くで、何かが蠢いている。  人に似ていると言えなくもないが、全体的には奇妙な形をした、黒くて小さな生き物だ。それが、列をなしている。もともと小さいものを遠目に見ていることもあり、アリの行列に見えなくもない。列をなして何をしているのかと思えば、それこそアリが角砂糖を運ぶかのように、平たい台座をいくつも運んでいるのだ。 「なにあれ……魔物?」  ティレンが斧の柄に手をかけながら呟くが、生き物達は襲ってくる気配がない。というか、そもそも冒険者達を気にしているのかどうか。それ以前に気が付いているのかも怪しいところだ。 「あれ……もしかして……」  パラスが前に出て、身を乗り出すように、奇妙な行列を遠望しつつ呟いた。 「知ってるんですか?」 「うん、遠いから、絶対って言い切れないけど……」  言葉を濁しながらも、厚手の手袋をはめた手が首から下げた鐘鈴に掛かる。呪いを響かせる金色の鈴を構えた呪術師の少女は、その音を遠くの生き物に聞かせるように、ちりんと鳴らした。  反応があった。雪原に鐘鈴の音が響き渡ると、ぞろぞろと列をなして奇妙な台座を運んでいた生き物達が、動きを止めたのだ。しばらく、人が何か相談事をするときのように、寄り集まっていたが――本当に相談していたのかもしれない――、やがて、数匹……いや、数十匹が列を離れ、冒険者の下にやってきた。その姿がはっきりするにつれ、パラスの顔が懐かしさに輝いた。 「やっぱりそうだ。コトダマだ! こんなところにいるなんて」 「コトダマ?」  パラス以外の者には何が何だか理解できない。ただ、東方の古い言葉にも似た響きが印象的だ。  ぽかんとする一同に気が付いて、パラスは苦笑いを浮かべた。 「うーん、なんて説明したらいいんだろ。生き物のはずだけど、そのあたりもはっきりしてないんだよね」 「結局の所、なんもわかってないってことですかえ?」 「まぁね」  焔華に図星を指されて、パラスは肩をすくめた。 「全然、ってわけじゃないけど、判らないことが多すぎるんだよね、この子たちは」 「逆に、判ってることって何だよ?」 「ふたつだけ、あるよ」  アベイの問いに頷き、パラスは答を返した。 「ひとつは、森の中、それもカースメーカーの集まって住んでるところの傍にたくさんいること。だから、こんなところにこんなにたくさんいるのは珍しいなって思って」 「そういや、歴史によれば」首を傾げながらフィプトが口を出す。「昔のハイ・ラガードは、よそで弾圧されていたカースメーカーやドクトルマグス達の隠れ里だったそうですけど。その名残って考えられたりしませんかね」 「確かに、アリかもね」  パラスは何度も首を縦に振った。「樹海迷宮の中にいるってのが不思議だけど、ま、この子たちじゃ、虚穴通って迷宮の中に入り込んでてもおかしくないかも」 「もうひとつは、なに?」  あどけなく疑問を口にするティレンだったが、対する答が返るには少しの時間が掛かった。パラスは何か思い詰めたような顔をしていたのだ。はばかっているというより、その答に関する苦い思い出を想起しているように見えた。  やがて、首を軽く横に振ると、表情を戻して、やっと口を開いた。 「もうひとつはね、カースメーカーの呪言で使役できるの。お願い聞いてくれるの。できることなら何でも――何でも、ね」 「何でも、ですかいや?」 「うん、だから、ちょっとお願いしてみようかなーって思っちゃったりなんかして」  自分の前にやってきたコトダマに対して、パラスは呪鈴を鳴らし、何事かをつぶやいた。未知の言葉というわけではないようだが、あまりに小声だったので、仲間達にはよく聞き取れなかった。ただ、コトダマにはきちんと通じていたようで、声を揃えて何かを答えた――こちらは本当に何を言っているのか理解できなかった――後、ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てながら、仲間達の下に戻っていった。 「なに、おねがいしたの?」 「うん、あの子たち、このでこぼこのところで、詰まったりしないで動けてるじゃない。だから――」  と話しているうちに、コトダマ達は戻ってきた。それも、最初にやってきた数十匹だけではなく、ほぼ全員だ。小さな黒い生き物がひしめいている様は、昆虫嫌いなら軽く卒倒できる光景だっただろう(コトダマは昆虫ではないのだが)。彼らが御輿のように担ぐ台座が数台、波間に浮かぶ木版のように揺れていた。  彼らの頭領が部下達を胸張って紹介するかのごとき様相で、パラスはコトダマ達を指し示し、目論見を明かしたのである。 「この子たちに、でこぼこしてないところまで運んでもらおうかなー、って」  ソリは一旦その場に置いて、台座に乗り換える。  乗り心地は、最高とまでは言えないが、それほど悪いものではなかった。  人間の足では、石を踏んでしまう可能性を考えて躊躇する道も、彼らの小さな身体では、石の間を抜けて歩いていけるので、何の問題もなかったようである。力を合わせて運んでいるとはいえ、人間(と台座)は重くないのか、と心配したが、少なくとも彼らは意に介していないようだった。 「パラスさん」  フィプトは、コトダマの列の先頭にいるカースメーカーの少女に声をかけた。人間達は一台の台座に一人ずつ、分かれて乗っていたが、離れていたわけではないので、会話程度なら問題なく交わせる。  ときどき鈴を鳴らしながら、台座の上よりコトダマに方向指示を出していた、カースメーカーの少女は、呼びかけられて振り向いた。 「酔った? フィーにいさん?」 「ああいえ、それは平気です。ちょっと興味本位で聞きたいことがあって」 「カースメーカーはコトダマとよく付き合ってたのか、って?」 「え、あ、はい」  返答を先んじられて、フィプトは少したじろいだ。ひとつには、先ほどパラスがコトダマのことを教えてくれた時の、ちょっとした表情が気になっていたからでもある。  フィプトの懸念通り、パラスは顔を曇らせた。それでも、答だけは律儀に返す。 「他の一族はよく知らないけど、私たちは、コトダマ相手に呪術の初歩の勉強をしたよ。この子たちに言うことを聞かせられなきゃ、カースメーカーとしてはまだまだだって」  言葉を切って、パラスは天を仰いだ。あるはずの天井が青に溶け込んで果てなく見える空の彼方に、見知った者を探すかのように。 「でもね、いくら呪術の修行をしても、どうしても命令できないことは、あるんだよ」  その手がそっと呪鈴に触れ、ちりん、とかすかに音を鳴らした。 「……今すぐ、死んだあいつのお墓の前に行って、『生き返れ』って命令しても、そんな命令は聞かせられないの。だって、死んじゃった人は、命令を聞くこともできないんだもん。……あはは、そういえば、これも、ずっとちっちゃい頃にあいつがやったから、身に染みたことだったんだ」 「あいつが、って?」  それはフィプトにとっては、『あいつ』が誰を指すのかピンと来なかったからこその、何気ない問い直しだった。しかしパラスは、それを詳しい説明の要求と取ったようであった。拒否することもできただろうが、彼女自身、つらつらと話しているうちに心が溢れていたのだろうか、そのまま、話を続けた。 「あいつはね、コトダマに命令したの。『死ね』って」  フィプトも愕然としたが、他の三人も息を呑んだ。話の主体である『あいつ』――パラスのはとこが、そのようなことを言うとは信じられなかったのだ。どれほどの聖人であっても、その幼少期、分別の付かない頃には、虫の羽をもいで遊んでいたこともありうるだろう。そう頭では判っていても、記憶の中にある穏やかな表情と、あどけないコトダマ達に対して『死ね』と告げる苛烈さが、結びつかない。 「やだなぁ、私たちは『そういうもの』だよ?」  仲間が驚く様を見て、パラスは笑声を上げながら断じた。「コトダマにはやらなかったけど、ご飯にする鶏とか相手に呪殺の訓練くらいはしたもん。ただね――」  一転、悲しげに顔を歪め、うつむく。 「それまで簡単な命令をかけて遊んでた相手が、あいつのコトダマでばたばた倒れていくのを見た時は、すごく怖かった。悲しかった。いくらあいつが『生き返れ』って呪言を掛けても、冷たくなっていくだけだった……」  しばらく、無言の時が続いた。  遠くから響いてくる鳥か何かの鳴き声が、更に寂寞(せきばく)を煽る。  はふ、とパラスが吐いた息が、周辺の冷気の影響を受けて白く立ち上った。息と共に、何かを吐き出したのだろうか、カースメーカーの少女は、手袋に覆われた両手で自分の頬をはたく。手袋の下から再び現れた顔は、いつものパラスの顔だった。 「……ごめんごめん、変な話、しちゃったね」 「……いえ」  きっかけを作ってしまったフィプトが、ばつが悪そうに応えた。他の仲間達も、言葉こそ発しなかったが、浮かない様子でいる。その様に、パラスもばつが悪かったのか、少し肩をすくめた。それでも、先程話していたときのような陰鬱な表情には戻らず、再び空の彼方に目を移した。 「でもね、今なら、思うんだ。あんな辛い経験でも、それがあったから、あいつは、ああいうあいつになったんだって」  空にも、地にも、もうこの世のどこにもいないと判っていても、その視線は親しい姿を探してさまよう。 「コトダマを殺しちゃったことは、あいつの経験になった。――あいつが死んだことは、私や、他の誰かの経験に、なるのかな」  紡がれた言葉は、未だ癒えていない、けれど、もう悪化することはない傷痕から滲み出たかのようだった。  コトダマ達の力を借りて進んだ雪原の果てには、特に何もなかった。宝箱があり、その中から蒼い羽根でできた飾りを見つけたという意味では、無駄足ではなかったが。その入手物がなかったらと考えても、どういうわけか、虚しい行程だったという気は起きなかった。  再びコトダマ達に運んでもらい、彼らに別れを告げると、罠を解除した獣道を戻り、邪竜の傍に抜ける。  どこからか差し込んでくる光には朱の色が混ざり、太陽が傾いてきていることを示している。竜が夜行性なら、そろそろ微睡みから目覚めても不思議ではない。それに、『計画』の予定時間も近いはずだ。一行は無駄な寄り道はせずに、氷の花の蕾が生える地へ足を向けた。  氷の花の、もっとも大きな蕾は、異物の混ざった水晶の結晶にも似たその姿を、天へ向けていた。その頭頂部分は、数枚の板を合わせて作られたドームが開きかけているように、微細な隙間が見えた。  ソリを椅子代わりにして、一同は蕾の前に陣取る。  近場に棒を立て、獣避けの鈴をぶら下げ、魔物が寄ってこないようにする。  フィプトが簡易的なかまどを組み立て、火を熾(おこ)す――錬金籠手ではなく火口で――と、その上で茶を沸かし始めた。  カップを差し出す仲間達に饗された茶が、暖かそうな湯気を立ち上らせた。  後は、『計画』の実行時刻まで待つだけだ。  現在の時刻は、午後五時。実行時刻までは、恐らく、一時間弱。 「始まったら教えますから、何か暇つぶししてても大丈夫ですよ」  とフィプトがメモ帳を手に言うので、仲間達はその言葉に甘えることにする。 「丁度ええわ。暇つぶし用具持ってきましたえ」  自分の荷物をごそごそと漁った焔華が、カード一式らしきものを取り出してきた。 「お、トランプか」  とアベイが看破する――かに見えたが小首を傾げた。トランプというには小さく、紙がやや厚い気がする。 「残念ですし。これは花札。『皇国』ではトランプより広まってるカードゲームですわ」 「花札?」  暇つぶし相手の三人は一斉に疑問を顕わにした。アベイもか、と思われるかもしれないが、さすがの彼も、前時代で花札までもを知るには至らなかったのだ。 「花ばっか描いてある。『はなふだ』だから?」 「そうですし」 「でもこれ、お月様だよ、ホノカちゃん」 「『すすき』が一緒に描いてありますえ。そのカードは点の高いカードですわ」 「お、これ面白いな、人に飛びつこうとしてるカエルが描いてある」 「ああもう、後ろで興味深い話をしてないでください! 気が散ります!」 「フィプトどのはおとなしく氷の花の観察日記を続けなさんし」  わいのわいのと騒いでいるうちに、周囲の光景は、ほの赤く染まり、やがて暗さを増していく。余談だが、花札はどうなったかというなら、勝負以前の問題で、参加者全員がルールを覚え込む前に時間切れになってしまった。「素直にトランプにしておきゃよかったんだ」とは、アベイのぼやきである。 「そろそろ始まりそうですよ」  フィプトの言葉に、皆は、花札を囲んでわいのわいのと騒いでいたのをやめて、氷の花の蕾を注視した。  樹海が闇に沈んでいく中、結晶の頭頂に入っていた、六条の星形の亀裂が、次第に大きくなっていく。  息を呑んで見守る人間達の前で、結晶は、六枚の板に分かれて開き、あまつさえ、くるりと緩いカーブを作った――無論、それは『結晶』がれっきとした植物だからこその現象である。六枚の板は、そのまま萼(がく)となり、内包していた、螺旋状に畳まれている花弁を寒冷にさらす。  そのころには、『外』では太陽がすっかりと沈み、月の光が、世界樹外皮の虚穴を通って、迷宮を照らし始めていた。意外と明るいのは、弱々しい光が、積もった雪に反射しているからだろう。常にはらはらと舞い落ちている細雪も、光に照らされ、きらきらと輝いていた。  ゆっくりと回る踊り子のスカートのように、畳まれた花弁が開いていった。ほどけた花弁は六方にその肢体を伸ばしていく。  そして、繊細な切り込みが入った、雪の結晶にたとえられる花が、その姿を顕わにした。  どういう構造かは判らないが、その花は、白いようで白とは言えない、煙(けぶ)った半透明であった。その上、不思議な艶があり、氷でできたような花と評されるのも納得できる気がする。  花弁に包まれていた数本の蕊(しべ)が、ひょこり、と伸びたのを最後に、氷の花の開花は終わった。同時に、ふわり、と涼やかな香りが漂う。  これが、『計画』だった。衛士達が総出で探しても、昼には決して見つけられない、珍しい夜行華・氷の花――おそらく、この樹海以外には存在し得ないであろう花の、艶やかに開くさまを見ること、見せること。同じように夜にしか咲かない『月下美人』という花のことを考え、それと同様に一般の植物よりも開花速度は速いのではないか、と見込んだ甲斐があった。もちろん、一瞬で咲いたわけではないが、開花に掛かった時間はおおよそ二時間。その間、フィプトは獣避けの鈴を途中で換えながら、スケッチを懸命に仕上げ、他の冒険者達は、ただ、秘めやかに行われる樹海の事象に目を奪われていた。もしも、獣避けの鈴を使い忘れ、魔物に背後から近付かれていたとしたら、最後の瞬間まで気付けなかったかもしれないほどに。  ついにフィプトが音を上げた。 「だめだ! 小生の画力ではとても再現できない!」  今まで描いてきたものは再現できていたとでもいうのか、と突っ込みたくなる発言ではあったが、それは置いておいて、皆にも心底理解できる心境だった。前時代にあった『カメラ』が羨ましい。時間を切り取って保持し、その間を好きな速さで繰り返すことができる、そんな秘術が存在するなら、手に入れて、花の咲く様を幾度でも繰り返したい、とさえ思った。 「……花が咲くって、すごいよね」  ようやく言葉を発したのは、ティレンだった。いつもなら『花より団子』の言葉に忠実なように見えるのに、今回も、花を見るというところよりも、樹海に入ることそのものの方に喜びを見いだしていたように見えたのに、蓋を開けてみれば、そんな彼ですら、氷の花の顕現に心を奪われていた。他の者は言わずともがなだ。 「エルにいさんは、私に、これを見せようと思ってくれたんだよね」  しみじみと、パラスが口を開いた。  そもそも、この計画は、身内の悲報が連続したことに打ちのめされた彼女を慰めようとして、持ち上がったものだった。その目的は十分に果たせたといえよう。迷宮の中を吹くかすかな風に揺れる、幻想的な花を見つめつつ、カースメーカーの少女は礼の言葉を口にした。 「ありがとう、みんな。エルにいさん達にも、帰ったらお礼言わないとね」  目論見がうまくいったのと、仲間の役に立ててほっとしたのとで、冒険者達の間には穏やかな気配が満ちあふれた。  これが、吟遊詩人が謳う『英雄譚』の一端であったなら、このあたりで『ひとまず、めでたし』と締められたことだろう。  しかし、今冒険者達がいるのは、現実の樹海である。『ウルスラグナ』達は、ぶぶぶ、という不吉な音を聞いた。しかも複数だ。その正体は容易に知れたが、疑問がある。獣避けの鈴は、かすかな風に音を鳴らし、その効果はまだ衰えていないはずだ。だというのに、何故、魔物が近付いてくるのか。いくら効果が完全とはいえないとしても、だ。 「……しまった」  理由に思い至ったフィプトは、愕然とつぶやき、すぐに気を取り直して仲間達に向けて叫んだ。 「この花も虫媒花なんです! きっとモリヤンマは、この香りに惹かれてきたんですよ!」  いかに獣避けの鈴とはいえ、繁殖のために虫を引き寄せようとする花の香りと、それを辿ってきた虫の執念には、敵わないらしい。そういえばエトリアでも似たようなことがあったな、と、ティレンとアベイは思い出した。体験したのは自分達ではなくライバルギルドだったが。ある依頼を受けて、樹海に種を植えて花を咲かせたはいいが、香りのために魔物がわさわさ寄ってくるので大変だった、と、『ウルスラグナ』の前で苦笑しながら語ったのは、パラスのはとこではなかったか。  さておき、花に寄ってきたのなら、放っておけば、蜜を吸うなり花粉団子を作るなりして去るかもしれない。だが、冒険者は、花のどこが薬となるのかを知らない。もしも蜜や花粉が必要なのだとしたら、このモリヤンマの団体さんに根こそぎ持っていかれるわけにはいかないのだ。  それに、仮に花弁だけでいいとしても、これだけのモリヤンマにたかられたら、ぼろぼろになってしまうかもしれない!  こうして十二階で『ウルスラグナ』の必死の戦いが始まったが、彼らは、まだ楽だったことだろう。  同じ頃、十五階で起きていた、ある出来事に比べれば。  その出来事に遭遇してしまった冒険者ギルドの名を『エスバット』という。黒を基調とした服に身を包んだ巫医アーテリンデと、黄金と黒銀、二丁の銃を携えた銃士ライシュッツの、ただ二人だけのギルドである。そんな彼らが、五人揃えて樹海に潜りながらも迷宮の闇に敗れ去ったライバル達のように、途中で挫折しなかったのは、もとより二人だけだったがゆえに、極力注意を払い、勝てない戦を避け、順調に力を付けていった結果だろう。その点は、三階下で戦いを繰り広げている後輩『ウルスラグナ』と似ているといえたかもしれない。  そんな彼らが、震えていた。  寒いからか。否、そんな感覚は、目の前にいるものを見た衝撃に比すれば、ものの数ではない。  勝ち目のない強敵に出会ってしまったからか。否、確かに目の前にいるものは、恐るべき力の片鱗を、黒いオーラとして漂わせているが、それが震えの理由ではない。 「そんな……そ、んな……」  アーテリンデが、寒さでも恐れでもない理由で凍えた唇を、わなわなと震わせていた。小動物めいた愛嬌を漂わせる顔は蒼白、滑らかな弧を描いていたはずの柳眉は、しかめられ、見る影もない。  ライシュッツは無言だった。隣の巫医に比べれば、まだ毅然とした態度に崩れはない。しかし、そんな老銃士も、瞳の奥に怒りの炎を宿していた。目の前のものに向けられたものか、いや、そうではない。『それ』に向けられた時の視線は、非業に斃れた者を見た時に似た深い悲しみを、同時に宿していた。苛烈な炎がむき出しになったのは、彼が遥か高き天を睨み付けた瞬間からだったのだ。 「まさか、伝説が本当だったとは……」  巫医の少女が雪原に膝を突く。理不尽を前にして震える身体を自ら抱いて、流れ落ちようとする涙を懸命にこらえる。その傍に跪いた銃士が、少女を支えるようにその身に手を回した。 「お嬢様は、天空の城の支配者の伝説を信じておられましたか」 「正直言うとね、半信半疑だったのよ」  そう答えた少女の顔は、自嘲に近かったかもしれない。 「でもほら、あたしは巫医、呪医者だから。伝説って名が付くものを頭から否定することもできないのよ。太古の術のヒントが、なにかしらの形で隠されているかもしれないから――だけど」  涙を振り払い、前を見る。その瞳に宿るは憎しみの相か。否、それが向けられるのは目の前ではなく、ライシュッツの怒りと同じ、空の彼方であった。 「こんなことなら、伝説なんか存在しなければよかったのに!」 「やはり、伝説通りのことなのでしょうか……」 「ただの魔物の姿なら、何も気付かずにいられたでしょうね。でも、こんな姿で見つけてしまった。あたしは……」  一度は押しとどめた涙が、再びあふれた。もっと寒ければよかったのに、とアーテリンデは思う。涙は凍って止まるだろう。そして、自分すら凍って、この辛い思いを感じずに済むだろう。憤る思いゆえに詰まりながらも、それでも吐き出した言葉が、途切れ途切れに、ライシュッツの耳に届いた。 「あたしは……戦えない。戦いたく、ない……」 「しかし、お嬢様――我々が討たずとも、いずれ、他の冒険者が到達するでしょう。その時に、彼らが、攻撃を仕掛けないとは言い切れませぬ。いや、必ず攻撃するでしょう」  この階の地図は、ほぼ埋まっている。現時点から先の未踏地に、上階へと続く階段があることは間違いない。だが、先へ行く道は、目の前で不気味な笑みを湛えた存在が塞いでいる。倒さなくては先には進めないのだ。 「わかってるわ! それでもよ! だから……あたしたちが守ればいい!」 「正気ですか、お嬢様!?」  ライシュッツは耳を疑った。 「守るということは、冒険者達に刃を向けるということですぞ! ひいては大公宮の障害となることです。そのような我々を大公宮は許しますまい!」 「不服なら、この場であたしを撃ちなさい、爺や」  据えた瞳と抑えた声で反駁され、ライシュッツは口をつぐんだ。  冒険者に刃を向ける――確かに、第二階層で、冒険者達に銃を突きつけたことはある。が、それはあくまでも脅しであり、彼らが脅されても動じないものかどうかを、ライシュッツなりに見極めたかったがための行為だった。しかし、今回、アーテリンデが成そうということは、まったく違う。ことの次第では、ハイ・ラガードという国家を、完全に敵に回す。その時、自分達は犯罪者となるのだ。自分はいい。お嬢様が望むのであれば、冥府魔導に堕ちる覚悟もしよう。だが、お嬢様を、そのような立場に置いていいのか。  けれど、結局、ライシュッツは折れた。アーテリンデが一度決めたことを簡単に覆すはずがないことを、これまでの付き合いから痛い程わかっているからだ。 「――承知しました、お嬢様。我は、いつでもお嬢様の傍にあると決めたのですから」 「ごめんなさい、爺や」  跪き、忠誠を誓う騎士のように頭を垂れた銃士に、アーテリンデは、やや柔らかさを取り戻した声をかけた。 「でもね、必ず戦う、ってわけじゃないわ。他の冒険者たちを説得してみるつもりよ。この樹海の危険度から考えれば、本当に空飛ぶ城を見付けたい者たちは、今はそんなに多くないと思うし。富や冒険心を満たしたいだけなら、この階層まででも十分なはずだから」 「それは、ようございます。しかし、それで引き下がらなければ……」 「ええ、その時は、覚悟ね。冒険者、大公宮、ハイ・ラガード――すべてを敵に回しても、あたしは」  言葉を区切り、アーテリンデは見た。  自分がすべてに代えて守ろうと決意したものを。  自分が知っていた頃の面影を留めながらも、形を変えてしまった、大事なものを。  という悲壮な決意を、三階下で苦戦している『ウルスラグナ』が知るはずもない。  ようやく、モリヤンマ達を追い払い、肩で息をする彼らだったが、守られた氷の花はといえば、それが当然、とすました貴婦人のように、かすかな風に揺れるだけだった。花の妖精というのは御伽話の中だけの存在だが、それが現実にいて、氷の花に宿っているとしたら、さぞ頭に来る性格をしていることだろう。それでも、彼女を見る者は、その姿ゆえに彼女の傲慢を許すしかないのだ。  焔華が氷の花を萼(がく)からすくい上げる形で手を差し込み、力を入れる。あまり力を入れすぎたら崩れてしまうのではないか、と、焔華自身も、周囲で見ている者達も、心配した――が、蕾の時の硬さが嘘のように、花は無事にぽろりと取れた。 「まあ、とにかく、花は守り切れましたね」  フィプトが安堵の息を吐く。彼ら『ウルスラグナ』は、さながら貴婦人を守りきった警護兵のようだった。任務を完遂したという誇りと喜びに満たされ、満足しきっていた。しかし、貴人の警護が、ひとつの危険を乗り越えた後でも続くのと同様、彼らにもまだしなくてはならないことがあるのだ。そうと思い出したのは、ティレンがぽつりと口にした言葉ゆえであった。 「あと、みっつ」 「あ」  思い出した。要求されている花の数は四つ。いくつか見つけた群生地のどこでも、咲きそうな蕾があったというから、もう咲いているかもしれないが、同時に今のようにモリヤンマの訪問を受けているかもしれない。なんというか、『四姉妹を夜這いしてくる不届き者から守るように言いつかっているのに、長女だけ守りきって安堵していた』ような気分になってしまった(そういう手のたとえに疎いティレンを除いてだが)。  さて、どうするか。必要なものが花弁であればいいのだが。そして、使い物にならないほどにぼろぼろになっていなければいいのだが。  結果としては、少なくとも見た目は損なわれていない花を各地で見つけることができて、ひとまずほっとしたのである。  探索班が持ち帰ってきた氷の花が四つ、応接室の卓の上に転がっている。  正確に言うなら、雪を載せた盆の上にである。寒いところで咲く花なら、あまり暖かい所に置いておくのもよくないか、と思い、一緒に持ち帰ってきた雪の上に載せているのだった。  『ウルスラグナ』一同が、その花を囲んで、それぞれ感嘆の念を示している。 「いやぁ、パねぇな大自然」  というエルナクハの言葉は、雪の結晶の形をし、氷のように見える、花の造型に向けられた賞賛である。『パねぇな』とは『半端ねぇな』の意らしい。 「けど、すいません、義兄(あに)さん。この花、もしかしたら、大公宮の眼鏡に適わないかもしれません」  フィプトは探索中のことを詳しく報告し始めた。コトダマのことについても報告され、探索に出なかった者達が興味を示したが、もちろん、それは本題ではない。重要なのは、花がモリヤンマに荒らされた後かもしれないという点である。期待される薬効が、花粉や蜜にあるのだったら、それらが虫に食われてしまった後の花は役に立たないということになる。  しかし、エルナクハはあっけらかんと言ってのけたものである。 「ま、しゃーねぇさ」  氷の花の蕾は、いくつか残っていた。それらが咲くのがいつになるかはわからないが、それほど遠い未来ではあるまい。少なくとも、大公の病が急変する前には咲くだろう。もしも目の前にある花が役に立たないとしたら、また摘んでくればいいことだ。  褒美に頓着しないのなら、夜にしか咲かないという氷の花の秘密を大臣にぶちまけてしまって、花の取得は衛士に任せ、自分達は迷宮の封鎖を解いてもらって先に進んでしまってもいい。  ハイ・ラガードにやってきた頃には、金に困ることも多かったが――それでも、私塾という拠点をほぼ無料で使える以上、宿を借りる必要がある者達よりは圧倒的に楽だったのだが――、今は、余程に高額な武具でも買わない限りは余裕があった。褒美は無視してもいい、と思えたのは、そんな背景あってこそだった。  といっても、もらえるものならもらっておきたいのも本音だ。せっかく花が手に入ったのだから、大公宮に持っていくだけいけばいいだろう。  不意にパラスが真面目な表情で皆に向き直った。しばらくは、心持ち下を向いて、どう切りだしたらいいものかと考えているようだったが、決心が付いたようで、顔を上げて口を開いた。 「エルにいさん、みんな、あのね――ありがとう。私に、氷の花を見せてくれて」 「少しは、慰めになりましたか?」  優しく返すセンノルレの腹は、なだらかに膨れている。その様を見てパラスは思う。  潰える生命があれば、新たに生まれる生命もある。世界はそうして廻っているのだ。はとこだって、無意味に死んだわけではない。そして自分には、気遣ってくれる仲間がいる。  だから、もう、このことで嘆くのはやめよう。  そう決心して、少し間が空いたけれど、「うん」と頷いたパラスだった。  のだが――上げた頭が、思わず止まってしまった。 「どうしたのぉ、パラスちゃん?」  問いかけるマルメリの声も、ほとんど聞こえていない。カースメーカーの少女の声は、壁際にある棚の上に飾られているものに注視してしまったのだ。  先日、酒場の親父の依頼を果たした礼のひとつとして渡された、金でできた小さな彫像であった。パラスはそれに近付き、そっと取り上げると、ひっくり返して底を見る。彫りつけてある作者の署名を確認すると、静かに置き直し、自分が元いた席に戻ると、身を乗り出さんばかりに大声を出した。 「ちょっと、なんで『神手の彫刻師』の駒がここにあるのっ!?」  先日のオルセルタとよく似た反応だった。とりあえず入手先を知ると、詳しい事情を仲間達が告げるより先に、やはりダークハンターと同じ反応を続けた。 「受け取っちゃったの!? そんなのあのオジサンの罠に決まってるじゃない! わざわざあんなの渡しておいて、私たちが、『こりゃー他の駒も探さなきゃねー』って言い出すのを待ってるのよー。あー、絶対的にはめられちゃったわ!」  すっかりいつもの調子を取り戻した呪術師の少女に、仲間達は苦笑した。そして、これまた以前と同じように、マルメリが『要はそんな挑発に乗らなきゃいいんだ』と告げることで、事態はやっと終息したのだった。  夜も遅いが、ひとまず大公宮を訪れることにした。  今のうちに花を届けておけば、ひょっとしたら翌朝から封鎖が解除されるかもしれないからだ。  花を丁寧に紗に包むと、センノルレを除いた冒険者達は私塾を後にした。  昼間は騒がしかった露天も、すっかりと引き払って、街は静寂に包まれていた。街灯の中では火が踊り、市街を輪状に囲む建物の窓では、ほのかな光がちらちらとまたたいている。  この時間にもかかわらず行き交う者のほとんどは冒険者だった。ときどき、すれ違うなり振り向いて、いつまでもこちらの動向を窺う者達もいた。どうやら『ウルスラグナ』の名と、よく目立つ黒肌の聖騎士の存在は、大分広がっているとみえる。  しばらく歩いて中央市街まで出ると、様相はがらりと変わる。昼も夜も区別なく訪れる冒険者を相手する商店は眠らない。シトト交易所を始めとした物品売買店、鋼の棘魚亭のような酒場、果ては、市街の奥、色街として設定された区域に立ち並ぶ娼館までもが、冒険者の財布を軽くしようと待ちかまえている。  極めて余談だが、中央市街付近にある娼館の類は合法だそうである。伝聞調になってしまうのは、『ウルスラグナ』の中でハイ・ラガードの色街に行ったことがある者は、一人しかいないからだ。 「建物内にある、その手のお店も、大抵は合法です」と、その一人であるフィプトは太鼓判を押したものだった。 「この手のものは規制するより、合法にして為政者の目が届いた方が健全だというのは、よくあることですからね。でも、当然、非合法の店もありますから、気をつけて下さい。いわゆる『ケツの毛までむしられる』ってことになりかねませんよ」  当たり前だが、女性陣がいない時――具体的には、まだ『ウルスラグナ』一同がこの街に来て間もない頃、男性陣全員で私塾の風呂に浸かりながら、やり取りした話である。もっとも、男が寄り集まってこそこそ話す内容など、それほど多くはない。女性陣は勘付いていただろう。が、少なくとも口に出しては、何も言われなかった。  ところで当時のフィプトが盛大に勘違いしていたことがある。『ウルスラグナ』男性陣は、春を買うということに興味がなかったのだ。信仰上の都合及び妻帯の身であるエルナクハはもちろんだが、『娼館』の意味が全く分かっていないティレン、己自身の失策で思考がいっぱいいっぱいなナジク、『時代違い』な自分の存在に対する悩みが実は尾を曳いていたアベイ、いずれもである。フィプトの情報に喜んだのは、後にやってきた、フリーランスのレンジャーであるゼグタントくらいのものだった。 「にしてもよ、アンタはお勉強ばかりしてて、そんなのに興味がないイメージがあったがなぁ」  とエルナクハが茶化すと、フィプトは睨むような表情をしたものの、それは冗談の範疇だったらしく、すぐに相好を崩し、頭を掻いたものだった。 「勉学に行き詰まってた時に、友人に連れて行かれたんですよ。嫌だって言ったのに」 「で、どうだったんだ?」と聞き出そうとするのは、その手の興味自体はあるアベイ。 「言えますか、そんなこと!」と拒絶するフィプト。  というわけで、『ウルスラグナ』の中には、積極的に色街に近付く者はいなかったのだが、今現在、氷の花を携えて大公宮に向かっている途上でも、そちらの方面に行くのだろう、と思われる冒険者達は幾人か見受けられた。互いが合意の上ならば、口出しする必要もそのつもりもないことではある。  話が大分反れたが、程なくして一行は大公宮に辿り着いた  出迎えた侍従長は、冒険者達が氷の花を手に入れたことを聞き、駄目押しで実物を見せられると、『ウルスラグナ』を、数名の衛士が見張る謁見の間に招き入れ、大慌てで按察大臣を呼びに走った。  大臣も多忙のようだ。そういえば少し前に、公女の誕生式典が近いために準備に忙しいとか話していたか。一国の王女の誕生を祝うなら、近いといっても数ヶ月前から準備が必要だろうから、まだ先になるだろうが。  待望の氷の花の発見の報が足を逸らせたのか、柱の影にある小さな扉から、侍従長と共に謁見の間に姿を現した大臣は、息を切らしていた。やや乱れていた服を整えながら『ウルスラグナ』に近付いてくる。 「よう、大臣サン」 「そなたらか……氷の花を入手したという知らせを聞いたのじゃが……」  エルナクハが頷くと、紗を手にしていたナジクが包みを解き開いた。  冷え冷えとした艶を宿す花が四輪、謁見の間の灯を受けて、その輝きを増した。 「……おぉ! 真であったか! 無事に手にいれてきてくれたようじゃな!」  手を伸ばしそうになって、慌てて引っ込める。冒険者達もそうだったように、初めて見る者には、花は触れると崩れそうなほど繊細に見えるのだろう。が、いくら丁寧に扱ったとはいえ、ここまで持ってきても崩れていないのだ、少し触れた程度で壊れるものでもない。  侍従長が花を受け取ると、大臣は、奇跡を目の当たりにした面持ちで深く溜息を吐き、しみじみと心境を言葉にしたのだった。 「これで……古き書物にあった材料が、またひとつ揃ったわけじゃな……大公陛下のご病気を癒すことができる日も近いわけじゃ……ううっ……」  突然、袖口を目に当てる。どうやら感極まって涙がこぼれそうになったらしい。しかし涙するのはまだ早いと思ったか、軽く目元を擦ると、『ウルスラグナ』一同に向き直る。 「そなたら、しばし待たれよ。報償を持ってこようぞ」  そう言い置き、大臣は侍従長と連れ立って、入室時に使った扉からいそいそと出ていった。 「……なんのつもりだ」  ぼそり、とナジクが声を出した。  大臣が何かよからぬことを自分達にするのではないかと懸念したのだろう。『氷の花入手』の連絡を受けているのだから、報酬をあらかじめ持参するなり侍従に持たせているなりすればよかろうに、というところだ。百歩譲って、報告に慌てて報酬を忘れた、とも考えられるが、だったら、衛士の一人に命じてもよいものを。侍従長に行かせてもよかったはずだ。だというのに、大臣は自ら『報酬を取りに行った』のである。  その懸念を、エルナクハはといえば、 「気にすんなよ、大方、大公サマあたりに報告ってとこだろ」  と解釈する。そもそも、大臣が『ウルスラグナ』に何かをする理由を思いつかないのである。  ところが、そんな呑気なエルナクハですら、およ、と表情を改めた。  何か様子が変だ。大臣が立ち去った扉の向こうから、かすかにやり取りが聞こえる。言い争い、とまではいかないが、何かを主張する者と、それをなだめる者と。なだめる方が大臣の声に聞こえるのだが……。 「……! 冒険者……花を手に入れ……!」 「……ですか!? ……まだ……間に? ぜひ……言葉を……」 「……ドリエルさ……それは……どうか……重くだされ……御自ら……!」 「……いのです、この……方々に……たいのです!」  主張している方は女のようだった。それも、大臣の様子からすれば、彼よりも高位の。その正体をはっきりと断定できないでいるうちに、扉が再び開き、大臣が戻ってきた。侍従長はいなかったが、その代わりに別の誰かが共にいた。  名乗られずともはっきりとした。豪奢ではないながらも上質なドレスを着るような人物など、そうそういない。否、襤褸(ぼろ)を纏っていたとしても、その正体はわかっただろう。紫紺の瞳に得体の知れぬ強烈な力を宿した娘の前にあっては、エルナクハすら、いや、人の身分に頓着しないティレンでさえも、とっさに膝を屈した。 「お立ち下さい。あなた方が膝を付く必要はありません」  麗珠を打ち合わせたような凛とした声が告げる。さらなる促しが発せられるにあたって、冒険者達はようやく立ち上がった。  改めて、目の前に立つ者の姿を見る。  瞳と同じ色の、癖ひとつない髪は短く切られ、すっきりした印象を見る者に与える。頭上に抱かれ、その髪を飾っているのは、その立場の証である宝冠(ティアラ)だ。片側の端に、尾をくわえない永遠の蛇(ウロボロス)を象ったハイ・ラガードの紋章が飾られていた。被服は先程見た通りの、豪奢ではないが上質なドレスだが、よく見ると、無骨な籠手(ガントレット)と鉄靴(グリーブ)を装備していた。まるで、部下を鼓舞する為に戦場に立つような装い。戦乙女を彷彿とさせる姿とは裏腹に、その人物は、花のように笑み、ドレスの両裾をつまんで辞儀をする。 「お初にお目に掛かります。ハイ・ラガード公女、グラドリエル・ド・ラガーディアと申します」 「……おひめさまなのに、ごつごつなんだ」  立ってよいと言われたことで、いつもの調子を取り戻してしまったティレンが、ぼそりとつぶやいた。彼自身には悪気は全くないのだが、今回ばかりは相手が悪かった。公女が何かを言うより前に、大臣が制した。老臣としてもソードマンの少年が無邪気なだけなのは判っているが、制しなくては示しが付かないのだ。 「無礼であるぞ、冒険者どの。口を謹まれよ」 「よいのです、爺や」  公女グラドリエルは軽く手を上げることで大臣を黙させると、静かに言葉を返した。 「わたしはそんなにごつごつですか?」 「うん……は、はい」  再び空気を読み直したか、ティレンは慣れない敬語を懸命に口にする。 「おかあさんに話してもらった、むかしばなしだと、おひめさまは、よろいなんか付けないもんだか……ですから」 「そうですね、わたしも、幼い頃は、大きくなったら綺麗なドレスだけ着ていればいいと思ったものですよ」  くすくすと笑いながら発せられた言葉は優しかったが、同時に、確固たる決意に充ち満ちていた。 「ですが、今、家来たちや冒険者のみなさまが樹海で戦っているのです。わたしも、本来ならば、父の病を治すため自ら樹海に赴くつもりでしたが……公女であり、一人娘であるという立場上、それもかないません。ですから、せめて家来と共に戦いの時にあるということを忘れないように、鎧を纏っているのです――一部分だけですけれどね」 「そうなのかー」  ティレンは納得したようだった。もちろん、他の冒険者達もである。  グラドリエルは軽く頷くと、改めて冒険者達に向き直った。わずかに雰囲気が変わる。 「……さて、本題に入りましょう。大臣から話は聞きました。高名なる冒険者、『ウルスラグナ』のみなさまが、氷の花を入手してきてくださったとのこと」 「おうよ!」  ついにエルナクハは傲慢不羈な声音で返事をした。初めてハイ・ラガード大公宮に参内した時と同様、ティレンの失言を庇ったのだ。大臣もそれは察したのだろうが、さすがに眉根をしかめて、「冒険者どの」と言いかけたところを、再び公女が制した。 「よい。わたしに対しては、冒険者のみなさまが敬語を使う必要はありません。これは命令です」 「しかし、姫さま――」 「爺やも、冒険者のみなさまと、いつも楽しげに、ざっくばらんに話しているではないですか」 「そ……それは……」  もどかしさを全面に表した表情で大臣はうなるが、ついに根負けした。 「ぎ……ギルドマスターどの!」と、エルナクハに向かって声を張り上げる。 「姫さまの命令ですから、今は敬語を使う必要はないが……どうか、空気は読んでくだされよ……」 「はっはっは、承知したぜ、大臣サンよ!」  ことさら不遜な返事をしたものの、内心でエルナクハは思うのだった――ティレンに『空気の読み方』を教えるにはどうしたらいいものか。  それはひとまずおいといて、エルナクハは改めて公女に声をかけた。 「なぁ公女サンよ、オレらはこうして氷の花を手に入れたんだがな……」 「はい、お礼でしたら、すぐに――」 「礼はいいんだ、別に」と口にしてから、エルナクハは慌てて訂正する。「じゃなかった、褒美はもらえるならもらうから、いらないわけじゃねぇ。でも、その前に訊きたいことがあってな」  なんでしょう? と小首を傾げる公女グラドリエルに、聖騎士が告げたのは、氷の花の採取にまつわる一部始終(もちろん関係ない所は除いて)であった。咲いた花の香に誘われてモリヤンマがやってきた由。香で虫を呼ぶからには、氷の花は虫媒花。己の生殖の手伝いの代償に、蜜を提供する。ひょっとしたら、薬として真に必要なのは、蜜や花粉ではないのか。だとしたら、冒険者達が守りきった一輪はいいとしても、他の花は役に立たない可能性がある。 「なるほど、確かに、頷ける話ですね」と公女は得心した表情を見せた。「先日、手に入れて頂いた羽毛にしても、今回の花にしても、具体的な使用方法は、まだ調べが付いておりません。しかし、今、あなたがお話ししてくださったことで、花の性質や入手方法ははっきりしました。もしも、みなさまがお持ちになった氷の花が使えなかったとしても、心配することはないでしょう」  そこまで口にすると、グラドリエルはにっこりと微笑み、再びドレスのすそをつまんだ。腰を低く落とし、さらりと髪が伝い流れるほどに首を下げる。さすがにそこまでは、と言いかける大臣や冒険者達を一瞥で制し、朗々と響く声音で宣した。 「病に倒れる我が父、ハイ・ラガード大公に代わり、娘にして公女たるわたしが、みなさまに御礼申し上げます。樹海という危険な場所での、生命を賭しての働きは、金銭には変えられぬもの。けれど、今のわたしが感謝の気持ちを伝えるためには、失礼ながら、金銭でしか表すことができません。せめて、みなさまの働きの幾分かに報いるためにも、お受け取り下さい……」  いつの間にか侍従長が戻ってきていて、その手に、報酬が入っているとおぼしき革袋を携えている。グラドリエルがそれを手に取り、自分達に差し出すのを、エルナクハは、少しだけうやうやしさを表して受け取った。 「ありがたき幸せ、だぜ、公女サマ」  大公が快癒した後ならともかく、今の時点で公女御自らが礼を言いに出てきたというのは想定外だったが、とりあえず報告はした。さて帰ろう、と思った冒険者達だったが、公女の様子が少し変だ。何かを言いたそうにしていながら、戸惑っているようにも見える。やがて、決心したように、こっくりと頷くと、麗らかな声を謁見の間すべてに響けとばかりに張り上げた。 「衛士たち、人払いをお願いします」  なんだなんだ、と冒険者が思う前で、謁見の間を警備していた衛士達が退出していく。侍従長も、大臣と顔を合わせ、その後、やはり退出した。残っているのは、公女グラドリエルと按察大臣、そして『ウルスラグナ』一同だけだった。 「なんのつもりだ」とナジクが不服そうにつぶやく。自分達の安全を脅かす不穏なものを感じたのだろう。他にも何人か、不安そうな顔をしている。  しかし、少なくともエルナクハの見立ては正反対だった。公女が何か――例えば、大公の病のことを知る『ウルスラグナ』を拘束する――を企んでいるのだとしたら、普通はもっと衛士(ひと)を呼ぶ。  とはいえ、ナジク以下数名の不安も、ある意味間違ってはいない。特定人物だけを残した人払い――それは、大概は他者には知られてはいけない密談だ。話を訊いたことで、何かしらの危険を背負うことにはなるだろう。  自分だって不安がないとは言い切れない。それでも、ここまで来てうろたえるのも癪だ。エルナクハは腹をくくることにした。そんなギルドマスターの覚悟が伝播したのか、不安そうだった仲間達も落ち着いていった。  その変化を待っていたかのように、公女は静かに口を開いた。 「氷の花の入手という危険を冒して頂いたばかりのみなさまに、申し訳ないとは思うのですが……さらにお願いしたいことがあるのです。聞いて頂けますか?」 「なんだ、公女サンよ」  とりあえず聞く気はあることを表明すると、公女はほころぶ花に似た笑みを浮かべると、語り始めた。 「お聞きになったこともあるかもしれませんが、ハイ・ラガード王家には、わたしたちが空飛ぶ城の民の末裔であるという伝承があります。いくつもの古き文献がそれを裏付けており、わたしたちもそう信じています。そんな古き文献の一つにわたしたちは、あるひとつの至宝の存在を見つけ出したのです」  わずかに間を空けて、公女グラドリエルは、宣言するかのように声を強めた。 「その名を――『諸王の聖杯』と言います」 「諸王の……聖杯?」  その名は、聞く者に、遥か遠けき伝承にある、騎士団の神宝探索の下りを想起させた。伝説の王(アーサー)と円卓の騎士が総力を結集し、七人の魔術師がその所有権を争うという伝説の聖杯を探索する、という話である。――何か別々の話が混ざっているような違和感を感じなくもないが、前時代以前からあるという古い話、異なる伝承の混入はやむを得ないだろう。  その聖杯がどうした、と思いかけ、冒険者達は気が付いた。  かの伝説の王の話に出る聖杯には、不思議な力があるという話だった。曰く、病んだ王を癒し、国土を祝福する。もちろん、伝承の存在と、王国の至宝は、別のものだろう。が、似たような性質を持つものに、伝承にちなんだ名が与えられるのは、よくあること。だとしたら――。  思わずグラドリエルを見つめると、公女も冒険者が何を考えたか察したのだろう、軽く頷いて話を続けた。 「古文書によれば、諸王の聖杯とは空飛ぶ城の中心にあり、その聖杯にはいかなる病をも癒す不思議の力備わっている……とのことです。さらに詳しく調査を進めた結果、判明したのが、病に苦しむ父と同じ症例と、諸王の聖杯の力で万能薬を調合し、その病が癒えた、という記録です――材料として挙げられていたのが、火トカゲの羽毛と氷の花。その二つを聖杯に入れて調合すれば、どんな病も治す薬ができるんです」 「それが、オレらが見つけてきたヤツってワケだな」 「はい。みなさまのお陰で二つの材料は無事に手に入れることができました。そこで……」 「……あとは諸王の聖杯を見つけ、材料を調合するだけ、というわけですね」  フィプトの言葉にグラドリエルは強く首肯した。 「そうです。先に、先程みなさまが仰っていたように、氷の花で必要なものが、花なのか蜜なのか……そういったことをさらに調べる必要はあるでしょうが、今となっては、それは大きな問題ではありません」  軽く息を吐いて、グラドリエルは上に視線を向けた。大公宮を抱いて枝を広げる世界樹を、そして、その上にあるという空飛ぶ城を見据えるように。 「……それ以上の問題は、聖杯を見つけること。諸王の聖杯は天の城の中心に、今も静かに安置してあるといわれています。ですから、みなさまにこのまま冒険を進めて頂いて、是非、天の城へと到達してもらいたいのです。ただ、みなさまの方がご存じでしょうが、数多のギルドが消息を断つ程の危険な迷宮です。生命を捨ててまで行け、と強要できるはずもありません」  薔薇水売りの少年の言っていたことを、冒険者達は思い出した。最近は帰ってこない冒険者が多い、と。どれだけのギルドが消滅したかは、『ウルスラグナ』の知る術はないが、大公宮で『数多』と把握できるくらいには、多いのだ。それを聞いて、探索を辞めた者も、辞めるまでにはいかずとも、低層で稼ぐだけにしようと考えるようになった者も、おそらくはいるだろう。天空城を目指そうと、本気で思っている者は、今はどれだけいるだろうか。 「それでも、わたしは、みなさまに望みを託したいのです。天の城で諸王の聖杯を発見して頂ければ、父は……いえ、この公国も救われるでしょう。なにとぞ、よろしくお願いいたします!」  公女御自ら頭を下げたとしても、生命には代えられない。そう思う者も多いはずだ。  『ウルスラグナ』一同が応えようとして口を開きかけた時、折悪しく――あるいは『折良く』かもしれないが――謁見の間の外から呼びかける声がした。 「グラドリエル様、院長殿がお帰りになるそうですが」 「……わかりました、今すぐ、参ります」  外の声に返答した後、改めて冒険者に向き直り、公女は退席の旨を告げる。 「一方的に申し上げることばかりで不躾かと思いますが、また機会がありましたら、お話しできればと思います。本日のところは、これで失礼させて頂きます」  そして、いかにも貴人らしい、深々とした辞儀を行うと、早足で謁見の間を立ち去った。  その様を見送り、しばらく無言でいた『ウルスラグナ』一同だったが、軽い咳払いで我に返る。  大臣はまだ謁見の間に残っていたのであった。 「……と、いう訳じゃ、『ウルスラグナ』の者たちよ」 「ご先祖サマのルーツ探しが、それどころじゃなくなっちまったってワケだな」 「うむ、伝承の真偽を確かめるだけなら、手に余る危険が現れた時点で、探索を断念することもできるのじゃがな……」  溜息を吐きながら、大臣は額に手を当ててうめいた。 「なにせ、かの『エスバット』とすら連絡が取れないのじゃ。まあ、彼らは以前も長いこと連絡がなかったことがあるゆえ、行方不明と決めつけるのは早いかもしれぬがな」  小動物のような印象のある娘と、付き従う老人の二人組のことを想起する。以前に思い起こしたときもそうだったが、彼らが樹海に呑まれる様は想像しにくかった。けれど、この世界に絶対はあり得ない。連絡が取れないのなら、あるいは、そんな最悪の結末もあり得るのかもしれない。 「だから、無理に……とは言えぬ」軽く頭を振りながら、大臣は言葉を続けた。「樹海探索の中で何かわかれば、この老体まで知らせてくれぬか。できる限りの報酬は出そう。すまぬがよろしく頼んだぞ」 「……そうだな、努力はするぜ、大臣サン」  さすがに、エルナクハの言葉も歯切れが悪かった。とはいえ、これは彼なりの思慮ゆえのことだった。ここで、「何が何でも天空の城を目指すぜ!」と言うことは簡単だっただろう。だが、そうした場合、大公宮の期待は自分達に集まる。少なくとも今の自分達に、その期待は負担でしかない――ギルドマスターはそう考えたのだ。  そもそも、天空の城が実在する証拠は、古文書の記述にしかない。共に記されていたサラマンドラや氷の花が実在したから、余計に期待が高まっているのだろうが、城や聖杯の記述も確かとは証明できないのだった。もう少し、天空の城にまつわる何かしらの事実がはっきりしなければ、安請け合いはできないだろう。  侍従長に送られ、大公宮を辞する。  帰り道の途中に小さな公園がある。昼間だとラガードの住民が思い思いに休息を取っているのを見かけるが、夜ともなれば誰もいない、静かなものである。中央市街という眠らない街の中にあるからこそ、その静けさは際だっている。公園の中央に灯る街灯にたかる羽虫達だけが、今の利用者だ。  いつもは歩きながら話を済ませてしまう『ウルスラグナ』だったが、今回ばかりは、なんとなく公園に寄って、腰を落ち着けた――とはいっても、文字通りベンチに落ち着いていたのは半数。パラスとオルセルタはブランコを一台ずつ占領して、ゆらゆらと揺らしていたし、ティレンは滑り台がわりに使われている奇妙なオブジェに上っては滑ることを繰り返している。エルナクハなぞは、大公宮に参内する際は『正装』として身につけている鎧を外し、鉄棒にぶら下がったりしている。ぐるぐる廻ってみたり、片手だけで身体を支えて逆立ちしてみたり、と、前時代にあったというスポーツの祭典(アベイ談)が現代にもあったとしたら、その選手として出場できてもおかしくない動きっぷりであった。そんな状態で話すものだから、見てる方としては、よくそんなことができるものだと感心することしきりである。 「なぁ、オマエら、どうするよ」 「どうするって、何がよ、兄様」  ゆらゆらとブランコを漕ぎながら、オルセルタが返す。  その時ちょうど前転を繰り返していたエルナクハだったが、それをぴたりと止め、鉄棒を掴んで突っ張った両腕に支えられた身体を揺らしながら、呆れたように声を上げた。 「何がってバカか。探索だよ探索。めっちゃ危険ってわかってて、それでも探索を続けるのかってこったよ」 「バカは兄様でしょ。何忘れてるのよ」  オルセルタは細い肩をすくめて続けた。「そもそも、アベイが、前時代人が何をしようとしたのか見届けたい、って言ったのに、乗っちゃったんだから」 「はっは、悪い悪い、半分忘れてたぜ」 「うわぁ、薄情者がここにいるわぁ」とマルメリが混ぜ返す。 「無理にとは言わないよ。言えないさ、生命の方が大事だ」  苦笑を浮かべながらも、今回の探索の言い出しっぺであるアベイが口を挟んだ。 「大臣さんの言葉じゃないけどな、無理にとは言えない。これは俺のわがままで……もう手の届かない過去の話なんだから、生命と引き替えてまで突き詰めるものじゃないと思うんだ」 「……それは、本音ではあるまい」  静かに割り込んだのは、ナジクだった。「ここまで来て、では止めようか、と割り切れるものではないだろう、本当は。割り切れるのなら、呪詛に捕らわれた時に、父母の幻など見なかった。違うか?」 「ジーク、それはお前が過去に囚われてるだけ――」  そう言いかけたアベイだったが、軽く首を振って言い直した。 「……いや、ジークの事情は関係ないよな。確かに言う通りだ。結局、ここでやめちゃうしかないのかって思うと、悔しくてたまらないさ。でも、生命あっての物種っていうのも本当だぜ。俺のわがままにみんなを付き合わせるわけには――」 「ね、話、していいかな」  パラスの声がアベイの言葉を遮った。あるいは、軽い呪詛を使っていたのかもしれない。話をしていたアベイは黙り込み、聞いていた者達はパラスを注視する。それだけではない、無邪気に滑り台に上っては滑ることを繰り返していたティレンも、滑り降りた後は動かず、エルナクハも鉄棒から下りて支柱に身体を預け、言葉を待った。  カースメーカーの少女は話し始める。 「危険、って、どこにでもあるよね。樹海探索をしなくなったとしても、安全な場所にいると思いこんでたとしても、何かの拍子に降りかかってくるよね――あいつや、お母さんみたいに」 「パラスちゃん」 「大丈夫だよ、マルねえさん。もう変なことにならないから」  心配げに声をかけてくるマルメリに笑いかけると、話を続けた。 「探索してても普通に暮らしてても、危ない時は危ない。だったら、危ないからって探索を辞める意味ってないんじゃないかなって、私は思うんだ。探索は、確かに普通に暮らしている時より、危ない目に遭うことは多いんだけど、わたし達は、注意して、そういうのを躱してきたじゃん。これからも同じだと思うよ――って、こういうのはエルにいさんが言いそうなことなのに、今日はどうしたの?」 「……かも、しれねぇな」  エルナクハはうなって頭を掻いた。パラスの言い分は、確かに、普段なら自分が口に出しそうな言葉だった。自分は一体どうしたんだろう。今回に限っては、殊の外に危険を避けようとしている。  ちらりと脳裏にひらめくのは、妻の顔。  あるいは、妻を置いて逝ってしまう可能性を強く予感し、恐れているのかもしれない。パラスの呪詛に影響された時に気が付いた、自分の本当の恐れが、まだ尾を曳いているのだろうか。  ――こんなことでどうするエルナクハ。ここまでやってきたのは、自分達が着実に力を付け、十分すぎる程注意を払ってきた賜物。これからも同じようにすればいいだけのことなのに、何をそんなに怯えるのか。  パラディンの青年が内心の葛藤にケリを付ようとしていた、その時のことである。 「あれ? 『ウルスラグナ』の皆さんじゃないですか?」  不意に声をかけられ、冒険者達は声の主を注視した。  公園の外から話しかけてきたのは、白衣に身を包んだ、薬泉院の院長、ツキモリ医師だった。  なんでこんなところにいるのかと訝しく思ったのも束の間、ふと思い出した。――そういえば、公女との謁見時に、『院長殿がお帰りになる』という言葉を聞いた。 「アンタは、大公サマの往診か? ご苦労サマなこったな」  エルナクハが近付き、周囲に人気がないながらも、ほとんど聞こえないような小声で応じると、ツキモリ医師は一瞬、ぎょっとして身を強ばらせた。が、相手(ウルスラグナ)がそういうことを知っていても不思議ではないことを思い出したか、力を抜いて頷く。 「その通りですけれど……よくわかりましたね」  今度は冒険者達が事情を話す番であった。 「そうですか、『万能薬』の材料が揃った、と公女殿下が仰せでしたが、やはり、あなたたちが……」 「まぁな。後は、調合するだけだっていうがな……」 「ええ。ただ、その調合方法は見つかっていないという話です。古文書に記されていればいいのですが」  おや、と冒険者達は内心で首を傾げた。ツキモリ医師は、諸王の聖杯のことを知らされていないらしい。大公宮も、情報の取り扱いには慎重を期していると見える。もちろん、ツキモリ医師が秘事を口外するはずもなかろうが、事は真偽の定まらぬこと、医師には現時点で知らせておくべきではない、と、大公宮は判断したのだろう。 「僕らの力のなさが悲しいですが、今は、時が来るまで大公陛下の病状を安定させておくのが、僕の使命です」 「悔しいですけれど仕方ないですね、こればかりは先人の知恵に期待するしか」  慰めるようにフィプトが口を挟んだ。似たような形で未知に挑む者同士、共感できるところが大きいのだろう。  ふと、ツキモリ医師が表情を改めた。 「話は変わりますけど……うちのメディックを私塾にお使いに行かせたんですよ。お会いしましたか?」 「会ってないよ、コウ兄」とアベイが首を振る。「入れ違いになっちゃったかな。なにか伝言なら、ノル姉が留守番してくれてるから、聞いといてくれると思うけど」 「なら安心ですね。でも、せっかくだから、ここでお教えしておいてもいいかもしれません」  ツキモリは微笑んだ。その笑顔は、これから告げる話が、少なくとも凶事ではないことを如実に示している。肩の力を抜いた冒険者達を前にして、薬泉院院長は続けた。 「薬泉院でお預かりしている、パラスさんのお母さんですけど――先程、意識を取り戻しましてね」 「ほ……ほんと!?」 「ええ、まだ安静が必要ですけど、もう大丈夫ですよ」  かぶりつかんばかりに詰め寄るパラスに、ツキモリ医師は頷いた。  カースメーカーの少女は仲間達を振り返り、何か問いかけたさそうな顔をしている。  言いたいことを把握して、エルナクハは答えてやった。 「行ってこいよ。話したいこととか、いろいろあるんだろ」 「……うん!」  パラスは喜色を顕わにし、大きく頷くと、若鹿が駆け出す勢いで走り出した。普段着ならまだしも、大公宮へ行くために着ていたカースメーカーの装束では、走りにくいのではないかと思われたが、少々危ういながらも転ぶことなく去っていく。夜に一人で行動というのは心配にも見えるが、なにしろカースメーカーである、ことさら手を出そうという者はいないだろう――もっとも、ハイ・ラガードの夜は、裏道にでも行かない限り、女子供の一人歩きでも大抵は安全なのだが。フィプトに聞いた話によると、冒険者の流入で治安悪化が心配されていたものの、やってきた冒険者のおかげで、ガラの悪い輩が却って鳴りをひそめたらしい。  さておき、少女を見送ると、冒険者達はツキモリ医師に向き直った。 「ま、これで、一件落着ってワケだな――オレらに関わる範囲では、だがよ」 「ですね。……座礁船に乗っていた方の中には、容態が急変して助からなかった方もおいででしたからね」 「そいつぁ、ご愁傷様なこったな……」  パラスの母親もそうなっていたかもしれないのだ、考えるだにぞっとしない話である。  ツキモリ医師は、そんな暗鬱を振り払うように、再び笑みを浮かべた。 「まぁ、それは、あなた方が気に病むような話ではありませんよ」  では、そろそろ行かなくては、と手を振り、背を向ける院長を、『ウルスラグナ』一同は見送った。  見送りながら、先程交わしていた話を思い出す。  ――探索してても普通に暮らしてても、危ない時は危ない。  もちろん、船旅は、普通の生活に比べれば危険である。開拓されている湾岸航路にしても、不慮の天候不順や、思いがけない凶悪生物の襲来に見舞われる。その危険は、ある意味では樹海探索にも匹敵するだろう。  ……なんだか、樹海の恐怖に怯えるのが馬鹿馬鹿しくなってきた。もちろん、危険を軽んじる気は毛頭ないが。 「で、結局のトコ」とエルナクハはツキモリ医師が来る前の話に戻った。「怖いから探索やめてぇってヤツは、いたりすんのか?」 「まさか。なんだかんだ言って、みんな樹海の真実を見たがってるってわけですえ」  焔華の言葉は皆の内心を代弁しているようにも聞こえた。 「けっきょく、みんなバカってことなんだ」 「バカたぁひでぇ言い方だな」  訥々としながら正鵠を突くティレンの言い分に、エルナクハは苦笑した。その前の焔華の言葉も的を射ている。自分達は樹海の危険を恐れ、生命の危険を感じながらも、それでも未知に焦がれて止まない冒険者(バカ)なのだ。アベイの願いに乗った、というのは、間違いではないが、ある意味口実に過ぎない。冒険者を辞める時が来るとしたら、体力や気力や情熱の限界が来た時を別とすれば、心の天秤に載せた『好奇心』と『危険』の釣り合いが大きく傾き、『危険』の側が勢いよく地に付いた反動で『好奇心』が明後日の方向に飛んでいった時くらいだろう。  そう気が付くと、『好奇心』が恐怖を抑えてくれた。今はまだ、怯える時ではない。  エルナクハはいつも通り、にんまりと笑って、公園の片隅で行われた臨時会議を締めた。 「ま、そんじゃ、これからも、命に別状がない範囲で、ぼちぼち、なるべく早く、探索しようか」  出迎えたメディックは妙にのんびりとしていた。なんでそんなに呑気なのよ、とパラスは腹を立てそうになったが、自分の不注意に気が付いて、慌てて負の感情を抑え込んだ。  焦るあまりに、薬泉院の扉をノックしてしまっていたのだ。『急患ではない』という合図を受けたメディックが落ち着いているのも無理はない。それに、母が回復した以上、自分も苛立つ必要はなかった。  メディックの方はというと、ここ最近、母の世話をしていたカースメーカーの少女の姿を見ると、おめでとう、よかったですね、と声をかけてきた。その調子が本当に心底から喜んでくれているのが判るだけに、パラスも心が落ち着いてくる。  ともかくも、病室にまっすぐ足を向けた。  閉ざされた病室の扉を叩く時、震えていたのは何故だろう。やはり返事がない、という事態が怖かったのだ、と気が付いたのは、翌朝に私塾に帰る途中の話である。その時には、時間帯的に眠っている可能性だってあっただろうに、と、今現在を振り返って苦笑することになるのだが。  心配に反して、病室内からは応(いら)えがあった。 「あら、また回診?」  母の声だ。間違いない! 「お母さん!」  パラスはすぐさま扉を開け、部屋に飛び込んだ。まさに『飛び込む』という表現がふさわしい勢いで。そのまま母に抱きついて、何度も何度もその名を呼んだ。母は、しばらく「ちょっと、苦しいわよ」とぼやいていたが、やがて、肩をすくめ、抱きつく娘の背を、とん、と軽く叩いた。 「……いろいろ、心配かけちゃったみたいね」 「うん、うん、お母さんも、あいつみたいに死んじゃうんじゃないかって、ずっと不安だった……」 「……そうか、あなたにも、もう連絡行ったのね。さすが速達は早いわねー」 「……やっぱり、ほんと、だったんだね」 「……ええ。お母さんは、その場にいたわけじゃないけど、本当よ」 「お母さんは、そのことを知らせるために、ハイ・ラガードに来てくれたの?」  てっきり、そうだと思っていた。他に、母がわざわざ北方まで来てくれる理由を思いつかなかったから。  しかし、パラスの推測とは裏腹に、母は首を横に振った。 「それもあるっていえばあるけど、別の用事もあったの。でも、別の用事のことは、もう少し落ち着いてから話すわ。それより……」 「それより?」 「あなた、エトリアでもこっちでも、ずいぶん冒険してるらしいわね。いろいろと聞いたけど、せっかくだから、あなたから直に、話を聞きたいわー。それとも、もう帰らなきゃいけない用事とか、あるの?」 「……大丈夫! 今晩一晩くらい徹夜しても平気!」  パラスは元気よく両手を広げ、はしゃぐ子供のように宣する。事実、母の無事をしかと確認した彼女は、ここ最近の精神状態を挽回するかのごとく高揚していた。それこそ本当に徹夜しても疲れないだろうほどに。  何から話そうか。やっぱり、エトリアに辿り着いたところから順番に話すべきだろうか。本来の目的である、かつて一族伝来の呪鎖を持ち去った――といっても奪っていったわけではなく、里長に力を認められて授けられたのだが――ツスクルから呪鎖を取り返した、という話は、その呪鎖を持ち帰ったはとこ(カースメーカーの方)から伝わっていると思うが、その経緯までは判るはずもないだろう。どうやって話そうか。自分がいろいろ活躍したのを、どう話したら伝えられるだろう。なにより、仲間達がいろいろ助けてくれて、自分も仲間達を助けたことを、どうやったら上手く話せるだろう。  夜が更けていく中、薬泉院のその個室の窓からは、ずっと灯が絶えることはなかった。  翌日、またも別のギルドから採集作業を頼まれ、早出をしようとしていたゼグタントは、私塾を出た所で、門から入ってくる人影に気が付いた。 「……なんだ、カースメーカーの嬢ちゃんじゃねェか。おはようさん」 「あ、おはよう、ゼグにいさん。お仕事?」 「おう。……にしても、久々にいい顔してンな。憑き物落ちましたーって感じな」 「そうかな?」  パラスの母が無事に意識を取り戻したことは、ゼグタントも、昨晩遅く帰ってきた時に聞いている。心底、よかったと思うばかりである。身内を一度にふたりも亡くしてしまっては、救われない。  が、表立っては、ゼグタントはその件には深く触れなかった。 「パラディンの旦那とソードマンの坊やがメシの支度してるぜ。早く行って、自分の分も忘れずに作れ、って突っついてこいよ」 「エルにいさんとティレンくんなら大丈夫だと思うけど……そうするよ」  フリーランスのレンジャーは、軽く手を振って、門を出て行く。  それを見送ると、パラスは私塾の扉を潜り、まっすぐ厨房に向かった。  思った通りだった。というのは、エルナクハとティレンが組んで料理を作っているのなら、『全部大皿に盛っておくから各自適当によそって食え』的なものになると踏んでいたからである。そんなものなら、自分の分を主張しなくても問題ないだろう。ともかくも、パラスはふたりに声をかけた。 「ただいま、エルにいさん、ティレンくん」 「……およ、パラスか」 「おかえりー」 「ん、オマエ、なんか、憑き物落としてきました、って感じな顔してるな」  エルナクハにも言われて、パラスは思わず苦笑した。最近の自分はそんなにも険しい顔をしていたのだと、改めて思う。  詳しい話は朝食の席で、ということになり、パラスも、できあがった料理を運ぶのを手伝った。  食堂にはすでに全員が揃っていて、パラスの姿を認めると、労いの言葉を掛けてきた。  外にいるハディードの食事を出しに行ったティレンが戻ってくると、「いただきます」の言葉が終わるが早いか、箸や匙が一斉に料理に伸びる。 「それにしても、相変わらず大味な料理ですこと」 「イヤなら食うなよ」 「わたくしが食べたくなくても、お腹の子供がせがむのですよ。母としては仕方ないことです」  そんな会話を交わしているのは、料理人とその妻であるが、文章から感じる険悪さとは裏腹に、実際は和やかな会話だった。センノルレが料理にユズ――南方からの輸入品――を絞っているのは、そうしないと食えたものではない、というわけではなく、妊婦特有の『酸っぱいものが食べたくなる』という理由からの行動である。  そんなやり取りを苦笑しつつ見ていたオルセルタが、ふと、視線をパラスに向けて問うた。 「母――っていえば、パラスちゃんのお母さん、どうだったの?」  とはいえ、表情から判断するのは簡単だっただろう。パラスはことさら答えなかったが、オルセルタも返答を催促したりはしなかった。ただし、食事が終わろうとした頃合いで、ひとつだけ、パラスが思い出したように付け加えたことがある。 「エルにいさんがいいって言ったから、お母さんにもちゃんと言っておいたからね」 「ん? 何をだ?」  首を傾げるエルナクハ。パラスは、よくぞ聞いたとばかりに破顔した。 「私がいたから炎の魔人を倒せたってこと」 「それかよ!」 「あと、一番格好よかったのはエルにいさんだって」 「だからオマエ混乱してて見てなかっただろ!」  仲間達の笑い声が食卓に響く。  この時、炎の魔人討伐の直後から『ウルスラグナ』の間に滞留していた、よどんだ気配は、完全に払底されたのかもしれなかった。起きてしまった不幸を逆しまに戻すことはできないが、それでも、全員が、樹海の先という目標に目を向けられるようになったのである。  樹海の先といえば、たぶん樹海の封鎖も解かれただろうから、『ウルスラグナ』も十三階に到達できるわけだ。まだ階段は見つかっていないとはいえ、十二階の地図は大分埋まっているから、到達に数日かかるということはないだろう――とんでもない強敵に道を塞がれていたら別だが。  翌、天牛ノ月十八日。  これまで昼の探索に出ていたメンバーに変更が加えられた。以前にエルナクハが依頼した通りに、フィプトが入り、代わりにオルセルタが抜けることになったのである。ついでに述べるなら、パラスは夜の探索に回り、力を付けることとなった。本人は残念がったが、しばらく探索に出ていなかった以上、最前線に立たせるのは酷だろう。  というわけで、エルナクハ、焔華、アベイ、ナジク、フィプトの五人は、第三階層に踏み込んだ。  『ウルスラグナ』が氷の花を回収した、という連絡は、十二階で野営中だった衛士に無事に届いたようで、凍った湖は見事に閑散としていた。今は誰の姿も見あたらない氷の上を、冒険者はソリを滑らせて進んだ。降りかかってくる魔物(ひのこ)を払い、途中で見つけた宝箱の中身を回収しながら先を急ぐ『ウルスラグナ』は、迷宮南東部、細い水路が凍ったような道の先に、少し開けた場所に出る。  そこで足を止めたのは、人影がひとつ、佇んでいたからである。 「ぬしさんは……」  焔華が声を上げた。その声音に、若干の警戒色が混ざっていたことに、エルナクハは勘付いた。同時に、なぜそんなに警戒するのかと疑問を抱く。  人影の正体は、黒を基調とした巫医服に身を包んだ少女――ギルド『エスバット』のドクトルマグス・アーテリンデだった。  手練れの冒険者達の多くが行方知れずと聞いていただけに、彼らはやはり無事だったかと安堵を抱く。どうやらフィプトも、エルナクハと同じように思っているようだ。が、アベイは若干緊張した面持ちを浮かべ、ナジクは焔華と同様に、むしろ彼女よりもあからさまに、警戒している。  そういえば、『エスバット』の銃士ライシュッツに銃口を突きつけられた時、フィプト以外は、今ここにいるのと同じメンバーだった。当時のことを考えれば、警戒するのも当然か。ということは、あまり警戒していなかった自分がおかしいのだろうか。いや、問題のライシュッツもいないことだし、別に変ではないだろうな――そこまで考えたエルナクハは、ふと思い当たった。  アーテリンデはひとりでいる。ライシュッツはどうしたというのだ。  なにより奇妙なのは、少女の表情が暗く、どことなく物悲しげな雰囲気だということだ。さすがに、焔華やアベイはもちろん、ナジクさえも、毒気を抜かれたような面持ちで警戒を解く。  アーテリンデは、その時やっと、『ウルスラグナ』に気が付いたようだった。 「……そうか、衛士がいなくなってたのは、大公宮のミッションを、あなたたちが果たしたからだったのね」  それは本当に、第二階層で出会った少女だったのか。仮に、『エスバット』のメンバーが実は三名で、目の前にいるのが最後の一人、アーテリンデとは性格が真逆な双子なのだ、と説明されたら、納得してしまうだろう。その真偽を確認するために、というわけではないのだが、誰かがアーテリンデの名を呼んだ。それが自分だったのか、他の誰かだったのかも、エルナクハには判らなかった。  名に反応して向けられた視線が、彼女が真にアーテリンデだということを語る。 「ね、『ウルスラグナ』のみんな、聞くだけ無駄かもしれない。……けど」  黒衣の巫医が口を開いたのに、一同は耳を澄ませた。  その言葉が、さらに自分達を驚愕させるものだとは、予想できないままに。 「一応聞いておくわ。世界中の迷宮の探索……。ここで諦めて、帰ってくれない?」  初めは、自分達を蹴落とす気かと思った。なにしろ『エスバット』には(本気だったか否かはともかく)前科がある。行動したのは目の前の少女ではなく、今は姿の見えない老銃士だったが。その経験が、アーテリンデの言葉に対する『ウルスラグナ』の警戒を再び呼び起こした。 「……ふざけるな」  抑えた言葉ではあったが、はっきりと言い切ったのは、ナジクだった。  その返事を聞いて、アーテリンデは寂しげに笑う。偏見なしで遭遇したのなら、見た通りに受けとれる表情だったが、今は、何か企んでいるのではないかという疑念が先立つ。『ウルスラグナ』が先に進めそうなことを知って、今度こそ排除に掛かる気なのではないか。  それでも、エルナクハは疑念を抑えた。噛み付かんばかりにアーテリンデを睨め付けるナジクを制するように、片腕を横に伸ばす。 「はい、そうですかって答えるって思うのか? 理由は何だよ?」  そう口にしながら、ナジクがひっそりと視線を左右に動かすのを見た。見あたらないライシュッツがどこぞに隠れているのではないか、と気配を探しているのだ。しかし、探査は徒労に終わったらしく、レンジャーの青年は長い金髪を揺らして否定の意を示すと、ついには直接恫喝に出た。 「隠れているのなら出てこい銃士。さもなくば――」 「やめろナジク!」 「無駄よ、爺やはいないわ」  エルナクハとアーテリンデの言葉が同時に雪原に響き、雪に吸われて消えた。ナジクはギルドマスターの制止に従って言葉を止めると、次には仲間達と共に、アーテリンデの言葉の内容に驚愕した。  ここにはいない、というのは本当らしい。ということは、まさか――。  冒険者達の疑問には応えがない。アーテリンデが語ったのは、別の話の続きであった。 「……当たり前か。ライバルからいきなり、冒険をやめろって言われて、それに従うような冒険者はいないわよね。じゃあ、ひとつだけ教えてあげる。あたしが知ったことの、片鱗に過ぎないけど」  冒険者達は無言で先を急かす。ライシュッツの行方も気になるところだが、アーテリンデが語る気がない以上、彼女の語りたいことを聞いた方が、実りがあるかもしれない。  雪降り積もる白い世界で、少女は天を見上げ、言葉を続けた。 「フィプト・オルロード師。あなたはこの国の出身だから、知っているでしょう? この公国の民に伝わる話。世界樹の上に空飛ぶ城がある、というおとぎ話。そして……その城には天の支配者とその眷属が住み、地上で死した魂を集めているという、言い伝え……」 「……はい」  錬金術師の青年は、しかと頷いた。仲間達も思い出す。第一階層で衛士達が虐殺された惨劇の後、ふとしたことで上った話題のことを。  ハイ・ラガードの天空の城に御座(おわ)すという神の性質は、黒肌の民(バルシリット)が崇める戦女神に似通っている。それが、死した魂を集めること。理由までが共通かは判らない。だが、戦女神(エルナクハ)とハイ・ラガードの『神』は共に、前時代より古い神話の神を根元として生まれたのではないか。そんな話をしたことがある。  それがどうしたのか、と問うような冒険者の前で、アーテリンデは、風に揺られ降り注ぐ粉雪を手の平にとらえ、見つめた。そのまなざしが、人間を塵芥としか見ていない神が浮かべるようなものに見え、冒険者は一瞬だが背筋に怖気が走ったのを感じた。しかし、ふと気が付けば、アーテリンデの容貌(かんばせ)には、負に由来するものとはいえ、確固とした表情が戻ってきていた。 「だけど、余程に神を信じる者でもなければ、ただの噂話と思ってるでしょう。君たちはどう? ……けど、それは噂なんかじゃないのよ」 「……『神』とやらが、本当にいるってか?」  エルナクハの言葉は、代理とはいえ神官の言葉としては奇妙なものだった。『自分達が崇める存在以外の神を認めない』という輩なら不思議ではないのだが、黒肌の一族はそうではないのだ。もっとも、天空の城の『神』が本当に神なのか、という疑念がある以上、当然の疑問とも言えるだろう。  だが、少なくともアーテリンデは信じているようだった。今まさに『それ』に遭遇しているかのように、杖と短剣を組み合わせたような巫杖を握る手が、かたかたと震えている。その震えを無理に抑えようとしてか、腕に力が入った。  巫医の少女は、軽く息を吐くと、言葉を続ける。 「……ここから先には、人の力が及ばぬ恐ろしいモノがいる……それをよく覚えておくのね」 「……そんなモノには、とうに会いましたわ」  反駁の声を上げたのは焔華である。  間違いではない。エトリアで、『ウルスラグナ』は人知を越えたものに出会い、それを下してきた。アーテリンデの言うモノを軽く見るつもりはないが、心情として『だからどうした』という感がある。そもそも、ハイ・ラガードにも既にサラマンドラという例がいるではないか。  それに気が付いたのだろうか、しかしアーテリンデは、悲しそうに笑うと、小さく首を振る。 「身の危険に関わる『力』だけが、恐怖じゃないわ。でも、説明するのは難しいでしょうね」  そして、雪の上で踵を返した。巫医のケープがひるがえり、明色ばかりの樹海に、闇の色を広げる。その背を見つめる『ウルスラグナ』に、さらなる声が掛けられた。 「危険を承知で、なお先に進みたいなら、止めやしないわ。……今、はね」  それは小さなつぶやきだったが、それまでの会話の中では最もはっきりした言葉の剣となって、『ウルスラグナ』一同の心を貫いた。  今は止めない、すなわち、いつかは止めるということだ。  大公宮に名の知れたギルド『エスバット』をもってしてさえ、先に行くことを恐れ、他の者さえ止めたいと思う程に、待つモノは強大なのか。第二階層で出会った時は自信に満ちあふれていたように見えた彼らが――。  いや、ライシュッツがいない以上、複数形にはできまい。あの銃士は、アーテリンデが恐れたモノに斃されたのだろうか。だからこその、巫医の態度なのかもしれない。  事実を問い詰めたくとも、「ひとつだけ教える」と宣言したアーテリンデが口を開くことはなかっただろう。無理に口を割らせたくても、すでにアーテリンデは立ち去っていた。 「……なぁ、ユースケ」と、エルナクハは背後のメディックに問うた。 「昔々の『オーディン』とかいう神サマは、勇者欲しさに死の運命を与える、とか言ってたよな」 「あ、ああ」 「ち、気にくわねぇ」  エルナクハは頭をがりがりと掻きながら、天に目を向け、そのまま唾するような勢いで声を吐き出した。 「勇者欲しさに人間ぽんぽん殺す神サマと一緒にゃされたくないだろ、と思ってたが……天空の城の神サマは根元の神(ごせんぞ)サマとご同類らしい。オレらの戦女神サマには親戚付き合いを自粛してほしいな」  神の系譜を人間の親戚付き合いのレベルで考えていいんだろうか、という疑問を、仲間達は抱いたのだが、それはともかく。 「ナックは、アーテリンデが言った『何か』が、天の城の神様の僕(しもべ)だって考えてるのか?」 「さぁな。アイツの話だけじゃ情報が足りねぇ」  アベイの問いに対するエルナクハの答は簡単なものである。 「くだらん、そもそもこの世に神などいるものか」とナジクが鼻を鳴らしたが、 「おいおい、神官サマを前にしてその言葉はねぇだろ」  とエルナクハが笑声混じりに突っ込むと、ナジクは失言に気が付いたらしく、あわてて「すまん」と頭を下げる。 「――少なくとも、あのおん方は、そう思ってるみたいですえ」と焔華がアーテリンデがいた場所を見つめながら続けた。「本当に神かどうか、そもそもいるのかどうかも判んない、天空の城の主人が、言い伝え通りに、自分たちに死の運命を差し向けてきた――とね」  結局のところ、アーテリンデが話したモノの正体ははっきりしない。だが、樹海探索の最先を行っていた冒険者の一人を倒した――というわけではなかったとしても、相対峙した者に恐怖を抱かせ、神の手先であると思わせる存在であることは間違いなさそうだ。  ……やっと、迷宮の封鎖が解けたと思ったのに、これか。  ギルドマスターとしてエルナクハは考える。道を塞ぐ強敵の存在を知ったのなら、無策で先に進むのは無謀の極みだろう。これから足を踏み入れる十三階で、十分に力を付ける必要がある。  そうしなくては、もしかしたら樹海の闇に呑まれたのかもしれない、ライシュッツの二の舞になるだろう。足踏み状態になるのは口惜しいが、自分達の誰ひとりとして、そんな末路を辿る気はないのだから。  さて、迷宮で通用する実力を付けるには、迷宮内の魔物と戦って経験を積むことが最もよい。  前々から行っていたことであり、そのついでに酒場で何かしらの依頼を受けることも、よくあることだった。  それにしても――と、十三階の磁軸の柱を起動させた後、街に戻って酒場を訪れた『ウルスラグナ』探索班一同は、思った。  なんだって、しばらく見ないうちに、こんなに依頼が溜まっているのだ?  街の上に広がる世界樹の枝葉のように、掲示板に掲示された依頼書の数々。 「お前らのせいだぞ、『ウルスラグナ』」  時間帯のせいか、『ウルスラグナ』以外に客がいないというのに、えらく機嫌のいい親父が、冗談交じりにそう口にした。なんでも賭け事で大勝したそうで、『ウルスラグナ』一同が口にしている酒も、親父のおごりである。 「お前らがいい勢いで樹海を制覇していくからな、うちを贔屓にしてる連中は、お前らのケツばかり追いかけて、街の連中の依頼にゃ目もくれねぇのさ」 「俺たちに責任を押し付けるんじゃないよ、親父」  こちらも冗談混じりで、親父の責任転嫁を批判するアベイ。  それにしても、この依頼の量は、受領する冒険者が少ないから、というだけで溜まるものではない。人間というものは、ちゃっかりしているもので、街の人間の中にも、かつては冒険者が国内に増えることに不安があった者も多かっただろうに、いざ状況に慣れてきたら、自分達の手足のように冒険者を使おうとする。その結果がこれだ。もっとも、ただ働きさせようというわけではないし(ごくたまに、そのような輩もいるようだが)、街の人間の歓心は金で買えないもの(プライスレス)だ。  どうせ、これからしばらく鍛錬に入る。そのついでに依頼を果たすのも――というより、依頼を果たすついでに鍛錬を行うことになるだろうが――悪くない。  エルナクハは依頼書の数々に目を通す。いくら『悪くない』といっても、これだけの数を『ウルスラグナ』だけではこなせない。そのあたりは、親父に他のギルドの尻を叩いてもらう必要がある。それに、一度にいくつもの依頼をまとめて抱え込むのは、依頼の目的となる品あるいは魔物が近い所にあるわけでもない限り、無理だ。 「――なんだ、こりゃ」  一枚の依頼書が目を引いた。依頼主の名が引っかかったものである。  フロースの宿の女将だ。その内容も変わっていた。なんでも、娘の誕生日のプレゼントになりそうなものを持ってきてほしいらしい。冒険者に頼むにしては筋違いのような気がする。 「あ、忘れてた」と、親父は、その依頼書を指し示されるなり、自分の額を叩いて迂闊を認めたものだった。「そいつぁご指名だ。『ウルスラグナ』、お前らに頼みたいんだとよ」 「ご指名をこんなところに貼っとくなよ。他のギルドが拾っていったらどうするつもりだったんだ」  半ば呆れたように吐き出すと、エルナクハは女将の依頼書を剥がし、アベイや焔華と共に席に戻る。 「おいおい、お前ら、たったひとつしか受けてくれないのかよ、依頼ちゃんをよぉ」  もう依頼を吟味するつもりがない冒険者の様子を見て、親父が渋い顔で、しかしその実は哀願するように声を上げた。  エルナクハは、手にした依頼書を、ひらひらと振ると、言ってやった。 「オレらで依頼を独り占めするわけにゃいかんだろ。それに、いっぺんにたくさんできるもんでもないさ」 「おいぃ、さっき言っただろ、どいつもコイツもお前らのケツ追ってるって――」 「だいじょーぶ」とエルナクハは人好きのする笑みを浮かべた。「樹海もそろそろ厳しくなってきたからな、先には進めないけどカネは稼ぎたいってヤツらも出てくるだろう。街の連中の依頼は、うってつけだろ、そういう連中にはよ」  ……冒険者は己の生命も顧みないバカばかりだが、かといって本当に生命を投げ捨てたい奴は、そうそういない。アーテリンデの警告を聞き、自分達が体験してきた危険と、先に進んでいる者達の行方が知れないという噂とを、己の好奇心と比べ、先に進むことを断念する者もいるだろう。  樹海に沈むよりは、余程お利口さんな決断だ。 「ま、そんなわけで、コイツだけもらってくぜ」  エルナクハは再び依頼書を振った。親父は顔をしかめたが、言葉にしては何も言わなかった。  フロースの宿に向かう道すがら、焔華が、そういえば、と声を上げた。 「娘さんの誕生日、って話でしたわいね。まぁ、そろそろなんでしょうけど、具体的にいつなんでしょうかいね」 「さぁなぁ」  訊いていないからわかるはずもない。ほとんど山勘でわいわいと推測していた冒険者達だったが、やがて、妙なことに気が付いた。  フィプトの様子が変だ。何と説明したらいいのか――重要なことを知っているのだが、それを言ったら怒られる、と思っている子供のような表情だ。  なんとなく、何を知ってるのか判った気がしたが、敢えてエルナクハは問いかけた。 「ん? 何言いてぇんだよ、センセイ?」  その声には若干の脅し(ドス)が入っていた。もちろん、言葉を発した当人としては本気ではなく、長らく共に冒険をしてきた仲間達にもそれがわかるのだが、フィプトがそう気が付くには少しだけ共にあった時間が短かった。錬金術師の青年は、初めて魔物の死骸を手に載せた時のような、微妙に怯えた顔を見せた。黙ってはいられないと観念したらしい。 「すいません、すいません義兄(あに)さん、宿の女将さんが言うだろうから、小生が言う必要はないと思ってたんですが……」 「思ってたけど、何だ?」 「フロースの娘さんの誕生日って、天牛ノ十九日――明日、です」 「何だって――!?」  その場にいた全員が異口同音に嘆き、天を仰いだ。もっとも、フィプトに罪はない。敢えて責めるなら、依頼が名指しだったにも関わらず、とっとと『ウルスラグナ』に振ってこなかった、酒場の親父ということになるのだろうが――実際に責められるかといえば、それもまた微妙なところだった。この調子で罪人を捜していったら、街の人間達からの依頼に目を通さなかった『ウルスラグナ』が悪い、そういうことに目を向けられなくなるほどに重大なミッションを冒険者に課した大公宮が悪い――と、際限がなくなる。そんな罪人探しをするような案件でもない。 「――とりあえず、さっさと宿に行って詳細を聞こうぜ」  アベイの言葉を歯止めとして、一同は不毛な思考を切り上げ、宿へと向いた足を早めるのだった。  ちなみに、何故フィプトがフロースの宿の娘の誕生日を知っているのかといえば、私塾の教師として彼女を迎え入れていたことがあるからだ。担任として必要な程度の個人情報は知っていてしかるべきであろう。 「おやおや、アンタたち、今日は、酒場に行ってからの、お越しかい?」  宿に到着すると、いつものように女将が出迎えてくれた――ということはなかった。女将は踏み台に乗って、高い所にある何かを取ろうとしているのだ。『ウルスラグナ』の中では最も背の高い(エルナクハが同じくらいだろうか)ナジクが近寄って、若干背伸びをしながらも、取ろうとしていたらしい箱状のものを危なげなく取り上げると、女将は破顔した。 「そうそう、ソレが届かなかったんだ。ありがとうね、助かったよ!」 「なんのことはない」  ナジクはぶっきらぼうな調子で応じると、仲間達の方へ戻ってくる。 「おばちゃん、何だよソレ?」  興味津々の体で問うエルナクハに、女将は笑いながら答えた。 「これかい? 良い食器が入ってるんだよ。使わないと思って片付けたんだケドね。急にお客さんがいらっしゃる事になってね。慌てて出したって話さ――ところでアンタたち、そこで娘に会わなかったかい? パン屋に行かせてるんだけど、まだ帰ってこなくて」 「いや、見てないケドよ」  女将が心配そうに顔を曇らせる。  ナジクが早くも身を翻そうとしていた。いつも難しい表情をしているが、殊に小さな子供達には情深い彼のことである、探しに行こうとしたのだろう。その様子に気が付いた女将は慌てて引き留めた。 「あぁ、大丈夫大丈夫、心配なのは娘じゃなくてパン! お客さんがお待ちでねぇ。あの娘は街中の人間と友達だからね、危ない目になんか合いようがないのさ!」  そして、いつものように、ウフフフフ! と笑って曰く。 「でも心配してくれてありがとうね。アンタたちが心配してくれたって知ったら、娘も喜ぶよ!」  ともかくも大事はないようで安心するところだ。一段落付いたところで、フィプトが切り出した。 「女将さん、小生どもは、酒場からの依頼を請けてきたんですよ。その、娘さんの件なんですが……」 「ああ! やっと来てくれたんだね!」  その瞬間の女将の顔は、大袈裟に表現すれば、長い曇の後に顔を出した太陽を見たものだっただろう。 「もう、アンタたちがずっと無視してたわけじゃないだろうから、酒場の人が忘れてたんだろうね! まあ間に合ったからいいさね。よく来てくれたねぇ、嬉しいねぇ、もう撫でくり回したくなっちまうよ!」 「撫でなくてもいいから、用事の詳しいトコを教えてくれや」  エルナクハが苦笑気味に返すと、女将は少し落ち着いて、話の続きを口にした。 「実はね、お馴染みのうちの娘が――」 「ちょっと待ってくれ」とアベイが話の腰の骨を折った。「お馴染みって言われても、フィー兄はともかく、俺たちは娘さんに会ったことないぜ?」 「あら嫌だ、アンタたちは会ったことなかったっけ?」  女将は意外そうな表情を浮かべる。 「そりゃすまなかったねぇ、コッチが知ってるモンだから、すっかり知ってる気でいたよ! ありゃ、困ったねぇ……」  困るのは冒険者(じぶん)達のほうだ。いつも世話になっている女将の頼みを聞くくらいなら造作もない。が、娘の誕生日を祝うなら、その相手の顔ぐらいは知っておきたいものだ。フィプトの知り合いである以上、他の者達は『フィプトを手伝う』という名目で動けばいいのだが……それはどうも、味気ない。  そんな時であった。背後にある入口から、かすかな物音を聞いたのは。  身の危険を感じたわけではないので、冒険者達は、ゆっくりと振り向こうとする。  物音の正体をはっきりと見定める前に、声がした。 「ただいま、おかあさ……きゃ」  ばたばたばた、と足音が遠ざかる。  声は少女のものだった。言葉からすれば、彼女こそが女将の娘だろう。  しかし、一体どうしたというのか。冒険者達が考えをめぐらせるより早く、 「こら、何隠れてるのさ」  厳しい口調、しかし声音には慈愛が籠もった、女将の叱咤が飛ぶ。 「お客様にはご挨拶、だろ?」  開け放された入り口を見つめる冒険者達の前で、動きがあった。入口の脇から、ひょっこり覗いた、淡い赤毛の束が、穏やかな秋の風に揺れていた。続いて現れたのは、幼い少女の顔。緑色の瞳を見開いて、冒険者達を不安げに見つめている――いや、『不安』とは違う、もっと別の感情が、少女の顔に浮かぶものだった。 「あ……」  少女の口が小さく開き、かすかな声を発する。  それが、意味のある言葉となるまでには、さほどの時間はかからなかった。 「その……こ、こんにちは……」 「はい、よくできました。いいよ、向こうに行って遊んでおいで!」  女将が笑みを浮かべて褒めると、少女はぱたぱたと宿に駆け込んできた。両手で抱えている袋の中身は、買い物を頼まれたというパンなのだろう。その袋を女将に預けると、少女は宿の奥に駆け込んでいった。その間、少女は、挨拶をした時を除いて、『ウルスラグナ』に視線を向けようとはしなかったのだった。  そんな逃げたくなるほど怖く見えたのか、とエルナクハが思いかけた矢先、女将は朗らかに笑って話を続けた。 「ウフフフフ! どうだい、可愛いだろ? ちょっと控えめなところまで、あたしにソックリだよ」  どこがそっくりだって!? 危うく吹き出すところだった。そんな女将の言い分は脇に置くとしても、娘の控えめさは、『控えめ』で収まるものではないように思える。むしろ、度の過ぎた『人見知り』だ。  前々からそうだったのか、という疑問を込めて視線を投げかけた仲間達に、フィプトは肩をすくめ、こっくりと頷いた。聞き分け自体はいい子なのだろうが、やはり、人見知りをするところで苦労があったと見える。  さておき、依頼の話だ。 「でね、大きな声じゃ言えないんだけど、あの子の誕生日が近いんだよ」 「明日、らしいな。今日まで気付かなくて悪かったな」 「まぁね、それでね……」  女将はさらに声をひそめる。普段の女将の声からすれば、格段の小ささだ。 「あの子、どういうわけだか、アンタたちが大好きでねぇ。最初は、フィプト先生がいるギルドだからよく見ているのかって思ってたんだけど、どうやら、ギルドまるごと好きらしいんだよ」 「そいつぁ光栄だな」  心底からエルナクハは応じた。「どの時代でも子供は『強いヒーロー』が好きだからなぁ」とアベイから聞いたのは、いつだっただろうか。女の子なら単純に『強さ』が好きではないかもしれないが、自分にないものを持つ者に憧れるのは同じだ。思えば自分も、『力』がほしかったから『百華騎士団』の門を叩いたのだったか。種類は異なれど、誰もが何かしら、自分以上の『力』を求め、だからこの世界は廻っているのかもしれない。 「それで、オレらに、娘サンの誕生日にプレゼントを持ってこい、と」 「そうそうそう、依頼ってのもなんだけど、アンタたちに何かあの子に贈り物をしてやってほしいんだよ」  話が早くて助かるねぇ、と女将は笑声を上げる。  娘にとって自分達が『憧れ』なら、誕生日に贈り物をすれば喜んでもらえるかもしれない。それぞれが、それぞれの経験を思い起こしながら、そう考える。  ところが、甘く考えていられたのは、そこまでだった。 「それで、何を差し上げればよろしいんですえ?」  と焔華が問うのに、女将はこんなことをのたまうのだった。 「なぁに、何だっていいんだよ。アンタたちがあげたいって思う物で全然構わないから。じゃあ、よろしく頼んだよ。ウフフフフ!」  そう言い残して、仕事のためか、宿の奥へ引っ込む女将。  『ウルスラグナ』一同は、どうしたらいいのか、立ちつくすばかりであった。  そのような状況だったから、私塾に戻った後、『で、結局、誕生日にもらったもので一番嬉しかったのは何だったよ暴露大会』が決行されたのは、なんら不思議なことでもなかっただろう。  エルナクハが嬉しかったのは、自分が育てる子山羊をもらったことだった。一生懸命育てて、隣の家の雄山羊と娶(めあわ)せ、子供を産ませ、乳を搾ったものだ。  オルセルタは、ダークハンターとしての修行の一区切りも兼ねて、師匠に衣装一式を買ってもらったことだという。  ティレンは「全部!」と言った。個々が何だったかはあまり覚えていないらしい。なんとも彼らしい答である。  アベイの『声』という答には、他の全員が首を傾げた。なんでも前時代には、声を保存しておく方法があって、その技術で保存された『強いヒーロー』の励ましの言葉をもらったそうだ。ちなみに、エルナクハによく似た声をしたヒーローだったらしい。  ナジクは「僕の答など参考にならないだろう」と言い、口をつぐんだ。  焔華は、初めて真剣を持っての修行を許されたことだったらしい。修行の区切りを兼ねて、という意味ではオルセルタのものによく似ている。  フィプトは、親にアルケミスト・ギルドへの留学許可をもらったことだと語った。――そういえば、彼の家族の話を聞いたことがない。彼の歳を考えれば、余程の不幸がない限りは、両親は健在だと思われるのだが。  この時点で、男性陣の答はまったく役に立たないとわかった。  女性陣にしても、焔華の答は参考になるまい。宿屋の娘が武芸の鍛錬をしているようには思えないからだ。むしろ、戦闘用の刃物を見て卒倒するタイプのような気がする(あくまでも思いこみだが)。  オルセルタの答は役立ちそうだ。さすがにダークハンター用の服とはいかないが、服飾品は女性の喜ぶものだろう。が、少し考えたところで頓挫した。服のサイズが判らない。娘の好みも判らない。いくら「あげたいと思ったものでいい」といっても、好みからかけ離れてしまったら、いかがなものか。この点では、前々から娘を知っている街の人間達には敵わない――勝ち負けの問題ではないが。 「ふたりはどう?」と、オルセルタが残る二人に問う。マルメリとパラスである。センノルレは授業中でこの場にいない。 「困ったわねぇ」と、バードの娘は肩をすくめた。「アタシだって、初舞台を認められて、衣装をもらった時が、一番うれしかったものねぇ」 「私もだなー」パラスは両手で頬杖を付きながら答える。「うちの一族、誕生日ごとに呪術師の刺青を少しずつ入れてくんだけど……いつだったかの誕生日に、一人前の印の呪鎖を一緒にもらってね。それがうれしかったかなあ」  服やら武具やら他の何やらという違いはあっても、多く共通することは、それらが、受け取る者の力量が認められた証として授けられたものであるところだ。つまるところ、人間は単純な物質より、自分が認められることを喜ぶものらしい。  ならば、宿屋の娘を認めるような何かをあげられればいい――が、そういうことは、母親である女将の役であろう。フィプトを除いた自分達は、まだそんなことをしてやれるほどの付き合いはない。  結局、振り出しに戻ってしまった。 「じゃあよ、今日が誕生日だったとして、もらえたらうれしいものって何だ?」 「兄様、そろそろ、新しい剣買ってよ」 「私も、そろそろ新しいローブがほしいって思ってたんだ」 「金ぇ」 「おいこら! そりゃ確かにほしいものだろうけど、誕生日関係ねぇだろよ!」  どうも、自分達で考えるのは無理だと理解できた。自分達は、受け取り主である娘とは、現年齢も、かつての生活環境も、あまりにも違いすぎている。少なくとも、環境の似ている者でなければ、宿屋の娘の好むものに近付くことはできないだろう。  昼食の後、探索班達が大公宮に向かったのは、もちろん、誕生日の贈り物に関する相談をするためではない。『エスバット』の、少なくともアーテリンデが無事であることを伝えるためである。  本来、ライバルである他のギルドの動向など、自分達が気を回す必要はない――人間として、窮地に行き合ったら助けてやることはあるが。それを敢えて知らせることにしたのは、『エスバット』が現状ではおそらく探索の最先端を行く者達であり、大公宮も彼らに最も期待を寄せているだろうからだ。連絡が取れないことを心配していた大臣も、状況を把握したいと思うだろう。アーテリンデ本人がとっくに連絡をしているかもしれないが、構うまい。  それにしても、あれほどの恐怖を浮かべながらも、アーテリンデがハイ・ラガードを離れようとしないのは、何故だろうか。二人組のギルドだった『エスバット』は、ライシュッツを失ったとしたら、ひとりだ。ひとりで樹海を探索するなど、無謀きわまりないというのに。  考えられることは、ライシュッツは無事、アーテリンデの言葉はライバル達を牽制する為の嘘、ということだ。が、ライシュッツの状況がどちらだったとしても、アーテリンデのあの態度が謀りとは思えない。  彼女(達)には、恐怖を越えてなお、成すべきことがあるのだろう。それが何かは、自分達に推し量れるものではない。  さしあたって、大臣に話したことは、『エスバット』に出会ったことと、彼らが何か強大な敵に出会ったらしいということだけである。それ以上は推測の域を出ないこと、話しても混乱させるだけだろう。 「なるほど、『エスバット』の者たちが無事であることはよかったが……」  大臣は、杖を持たない方の手を額に押し当て、苦悩の表情を見せた。「『たち』じゃないんだけどな」と『ウルスラグナ』一同は内心で思ったが、そのあたりをぼやかすために「『エスバット』に会った」という言葉を使ったのだ、口にはしない。 「彼らですら戦慄(おのの)く強敵が存在するというのか……。天の城への道は、まこと、厳しいものだのう……」 「そうですわ。ですから、わちらも、しばらくは足踏みですわ」  焔華が吐息と共に言葉を吐き出した。彼女の右手は、カタナを握り、数多の敵を切り伏せてきた、達人の掌。それが、『降参』とばかりに挙げられ、風吹く葦のように軽く揺れているのを見て、大臣も事の重大さを思い知ったようであった。 「そだな……大公サマがヤバくなるまでには、なるべく早く、天空の城を見つけてやりてぇとこだが……判るよな大臣サンよ、その前にオレらがくたばっちまったら、意味ねぇのさ」 「承知しておるよ。そなたら冒険者には危険に立ち向かってもらっておるが――我らとて『死ね』と命じているわけではないのじゃ」 「悪ぃな。鍛錬に納得いったら進むつもりだからよ」  『エスバット』がらみの話は、これで終わった。その後に、誕生日の話を切り出したのは、あくまでもついでである。 「そういや大臣サンよ」  エルナクハは、井戸端会議をする女たちが滑らかに話の転換を行うような自然さで、ついでの話に入った。 「公女サマの誕生日は、もうじきなんだよな。じきっつうても、もうちっとかかるんだろうがよ」 「そのとおりじゃ。支度もちゃくちゃくと進んでおる。当日は、そなたらも姫さまの晴れ姿をご覧じてくだされよ」 「晴れ姿、かぁ」  先日会った時は、ドレスはドレスだが、ごつい鎧付きだったからな、と思い出す。あれはあれで勇ましく、好ましかったが、民の前であの姿で出たら、何事かと思われるだろう。戦時中なら士気も上がるだろうが。華やかな誕生日の席では、粋を凝らした麗しいドレスの方がいい。 「こんなコト訊くのは野暮かって思うんだがよ、姫サンの誕生日って、どんなものが贈られるんだ?」 「ふむ、まったく野暮な話よの」 「はは、悪ぃな」  とはいえ、大臣も、訊かれたことを口ほどには疎ましく思っていたわけではないようで、笑みを浮かべながら説明を滔々と始めた。基本的に、『我らが姫』の自慢になるのは嬉しいと見える。 「そうじゃのう、今回のことは当日の楽しみとさせてもらおう。じゃが参考までに昨年のことを話すとしようか……」  そうして大臣が語り始めた『姫への贈り物』は、聞くだけでもくらくらするほどに豪奢なものであった。周辺の大国や小国が、それぞれの国力の幾ばくかを誇るために贈る、宝石や衣装、装飾品。殿上人達のオツキアイも大変なもんだ、とエルナクハは漠然と思った。それだけのものが贈られるなら、逆にハイ・ラガードが周辺諸国の誰かの生誕祝いを贈るのも大変だろう。  不意にティレンが顔をしかめた。ぼそりと呟くのを、エルナクハは聞きつけた。 「それ、おひめさまは、ほんとうによろこんでるのかな……」  黒い手をティレンの頭に乗せ、それ以上の言葉を封じる。  王族同士の誕生祝いなど、贈られた者が心の底から喜ぶか否かは、二の次なのだ。例えば、グラドリエル姫が「小さなテディベアがほしい」と望んだとしても、誕生祝いに届いたそれは、一抱えもあり、宝石で装飾したものになるだろう。送り主の力を誇示するために。大臣とて、そんなことは判っているのだろう。ティレンのつぶやきを聞いたその瞬間から、語る言葉に微妙な陰りが差し込んだ気がした。  やがて、大臣の話が少し途切れた折に、まだ続きはありそうだったのだが、エルナクハは話を締めた。 「いや、オレらの立場だとなかなかわかんねぇ話で、興味深かった。ありがとな大臣サン。でも、さすがにオレら庶民の参考にゃならねぇな、残念だがよ」 「参考、とな? どなたかに誕生祝いを差し上げる予定がおありか?」 「ああ、まあな。――大臣サンは、娘とか孫娘とかに誕生日の贈り物をやるなら、どうする?」 「……ふむ」  突然自分の身近なところに振られた質問に、大臣は面食らったようだった。そうよのう……と呟きつつ、視線を斜め上に向けて考え込むが、結局、何も浮かばなかったようだった。  おいおい子や孫に贈り物したこともないのかよ、薄情だなぁ、と、冗談交じりに思ったが、答は意外なものであった。 「いやはや、この老体、国と大公陛下にお仕えし、学問に身を投じて参ったが、うら若き娘の心はつゆ知らずじゃ」 「おいおい、大臣サンは一人身かよ!」  驚いたのは本気だった。大臣にまで上り詰めるほどの者なのだから、結婚相手くらい、いろいろな伝手(つて)から紹介があったろうに、と考えたのは、あるいは庶民の浅はかさなのだろうか。学問に身を投じた、ということは、本当になりふり構わず、女などにうつつを抜かす間もなかったのかもしれない。 「失礼ですえ、エルナクハどの。おひとりさまを馬鹿になさるとは」 「あー、いや、バカにする気はなかったんだがよ。……すまん、大臣サン」 「いやいや、構わぬ。しかし、なにゆえにそのようなことを知りたがるのじゃ?」  問われて『ウルスラグナ』一同は事情を説明した。 「何? 宿屋の娘への贈り物とな」  大臣もさすがに驚いたようである。 「なるほど、なかなかの無理難題じゃの。他ならぬ冒険者どののご相談じゃ、何か差し上げたい所ではあるが、国を治むる立場にあると、民草には平等を規さねばならん。はて、どうしたモノか……」 「どうしたものかー」  とティレンが真似て小首を傾げた。  それにしても大臣も人がいいことだ。いくら大公宮の依頼を何度かこなしている冒険者の頼みとはいえ、一庶民の娘への贈り物をどうしよう、という悩みに付き合う必要などないのに。他国なら、余程でなければ「そんなこと知るか」の一蹴だ。そう思うと、なんとなく嬉しくなる。と、 「何をにやにや笑っておられるのじゃ?」  エルナクハの表情に気が付いたのか、不審げに、というより苦笑気味に大臣が指摘してきた。 「いやまったく、そのようなたるんだ顔で樹海探索に出ておられるわけではあるまいが、少し心配になってくるぞ」 「いやいやいやいや、にやついた顔なんかで探索なんか出ねぇから!」 「どうじゃか。ふむ、この場にはおられぬようだが、いずれ伺ってみようかの、あの、目のやり場に困る服を着たダークハンターの娘ごに……そなたの妹君だったよの?」 「ちょ、オルタなんかに聞いたら返事はみえてらぁ! 勘弁してくれよ!」 「おいおい、真面目にやってる自覚があるなら、そんなに慌てることはないだろ、ナック」  エルナクハを呼ぶ愛称で察せられる通り、最後に混ぜ返したのはアベイである。大臣はどうしたのか、と気が付き、見れば、かの老賢人は頭を抱え、「おお、そうかそうか、そうじゃの」とつぶやいているではないか。変なお迎えでも来たんじゃないか、と不遜な想像込みで心配する一同を前に、やがて大臣は顔を上げ、新たな術式を発見した錬金術師のごとき笑みで声を上げた。 「そうじゃ、樹海じゃよ。その娘は冒険者であるそなたらに憧れておるのじゃろう? ならば、樹海で手に入るものを考えてみてはいかがか。そなたらでなくては差し上げられぬものかと思うのじゃがな」 「おお!」  冒険者は異口同音に感嘆の声を上げた。  盲点だった。自分達にとっては日常と成り果てている行為なので、却って思考が及ばなかった。  確かに、街の者、力なき少女からすれば、樹海からの贈り物は珍しく、喜ばれるかもしれない。――もっとも、いくら樹海産とはいえ、たとえば蛙の皮などをあげても喜ばないだろう、というのは、さすがのエルナクハにも見当は付く(ポーチなどに加工すれば別かもしれないが)。今度は『樹海産の何を』あげるべきか、という問題が生まれた。 「そうじゃな、あとは街の者の話を参考にしてみてはどうじゃ。民草の事は民草。良い考えも浮かぶかもしれぬぞ」  そんな大臣の言葉は敗北宣言も兼ねていたのかもしれなかった。「然して役にも立たず申し開きも無いが、この老体に免じて許したまえ」などという、小難しい謝罪の言葉が後に続く。  だが、『ウルスラグナ』からしてみれば、思いがけずいいアイデアを得られたと思えたものだった。  まだ考えるべきことは多いが、方向性が決まって満足し、一行は晴れやかな気分で大公宮を後にした。  日が傾き、天が朱の羅紗を纏う頃、夜組が鍛錬の為に樹海に入る。  ただし、今回は鍛錬の他に、宿屋の娘への贈り物探しという目的もある。  大公宮を辞し、私塾に戻った後、『ウルスラグナ』は手分けして、街の顔見知りに相談して回った。といっても、ただの街の人に聞いたところで、樹海に絡んだ物事はあまりわかるまい。有用な情報を得られる口は、やはり限られてしまう。  パラスは、聞き込みの途中で薬泉院へ母を見舞いに行き、そこでメディックのアンジュから、迷宮二階に綺麗な花を摘める場所があるらしい、と聞いた。余談だがアンジュ自身は、百草辞典やら薬用の冬虫夏草やらがほしいと列挙した末、寄生虫の標本などというとんでもないものを挙げてきた。薬泉院近くの触媒屋で売っているということだが、錬金術師は何の術式に寄生虫などを使うのか、知りたいような知りたくないような気がする。  シトト交易所に顔を出したナジクは、「世界樹様に入ったりするすごい人達が、まさか女の子への贈り物で困ってるなんて、何だか可愛くて」と笑われて辟易したが、長笛鳥という生き物の話を仕入れることに成功した。五色の羽と尻尾を持っていて、美しい声で鳴くそうだ。第二階層の探索中に、自分以外の誰も聞きつけられない程かすかに、名工の手による笛を吹き鳴らしたかのような音を聞くことがあったが、その正体はこれか、とナジクは納得した。衛士が見回り中に、十階に巣があるのを見つけたらしく、そこから、光るものを集めてくる習性のある鳥が蓄えている綺麗な石をもらってきたらどうか、とのことだった。  オルセルタは冒険者ギルドを訪ね、ギルド長に問うてみた。「そんなことを私に訊くことが見当違いだとは思わないのか」と言われたが、それでも、七階に上質のベリーが実る場所があると教えてもらった。数年前の探索時に発見されたもので、その場所まで到達できた衛士には、春期にのみ採集を許していたという。それは半年以上前から――そう、もう半年も経っているのだ――世界樹の迷宮の探索を始めた冒険者も同様なのだが、春期のうちに第二階層に辿り着けた者はいなかったという。その採集を特別に許可してくれるそうだ。  一方、なかなか収穫がなく、面倒になり(彼曰く、「みんなを信頼したんだよ」)、一休みのつもりで酒場を訪れたエルナクハは、意外な情報を得ることになった。  二日前に、迷宮九階で隊商が魔物に襲われてつぶされたという。人間は逃げ延びたが、荷物は捨ててきてしまい、そのままらしい。  しかし、なんでまた隊商などが樹海に入ったのか、理解に苦しむ。しかも、小型の荷運び用とはいえ馬車二台こみでだ。階段はどうやって上ったのかとか(幅は小型の荷馬車ならどうにか通れるだろうが)、よくそんなものが樹海に入る許可が得られたものだとか、突っ込みどころはいろいろあるが、一番突っ込みたいところは、樹海で取り引きが成り立つのか、というところだ。なにしろその馬車、酒場の親父が目の色を変える程にお宝満載という話なのだから。樹海の産物で満載にするために馬車を引き連れていった、なら、まだ判るのだが。 「ま、理由はともかく、自業自得だな」と親父が笑う。 「樹海にあるモノは見つけた者勝ちって話になってるからな、現場に行ってみて、なんかよさげなモノがあったら、失敬してきちまえばいいんじゃねえか。まだこのことを知っているヤツはほとんどいねぇ……っと、この件、内密に頼むぜ、ボウズ」 「なんでだよ?」 「なんでって……ヌフフフフ。こっちはこっちで動いてんだ、まぁ突っ込むなって」  突っ込みたい、正直言って突っ込みたい。しかしエルナクハは衝動を辛うじて堪えた。あまりに不自然な状況の数々は、一介の冒険者が突っ込むには危険すぎるだろう。ひょっとしたら、貴族同士の何かしらの取り引きのために、大公宮の目が届きにくい樹海が選ばれ――という件かもしれない。それが魔物のためにご破算、事情が事情のために衛士に宝物の回収を頼むわけにはいかず、こっそりと依頼を、ということなのか。  まあ、自分達が深く関わるべき話ではあるまい。ただ、せっかくだから、検討材料に入れよう、とエルナクハは思った。  夕刻になってから、一同は私塾に戻ってきて、得た情報を検討した。 「シトトの娘が客から訊いた話によれば」相変わらずの仏頂面でナジクが情報を披露する。「ある冒険者達が、十階で長笛鳥の巣を見つけたそうだ。見つけたところで何かの益にはならないと判断して、シトトの娘の土産話程度に披露したという事情らしい」 「光る石かあ……」  冒険者達はこぞって考え込む。子供の時分は、光る石でも宝物だ。樹海で調達してきた、というなら、なおさら、喜んでもらえるかもしれない。だが、必ずしも、鳥が石を溜め込んでいるとは限らない。運任せになるだろう。  なお、光る石を贈る前提になっているようだが、正確に言えば、そうではない。夜に探索に出る者達が、第三階層の樹海磁軸から入り、その近辺で鍛錬していることが多いため、そこから行きやすい場所ということで選ばれたものである。もしも鳥の巣の中にめぼしいものがなければ、別の場所で贈り物を探すことになるだろう。 「隊商の荷物ってのも気にはなるんだがな」とエルナクハが肩をすくめるが、 「あまり手を出さない方がよさそうよ、兄様。そりゃ、樹海の落とし物は見つけた人のものってことになってるけど」  妹にそう釘を刺されて、やめることにした。ひとつふたつくすねたところで、樹海の中でのこと、落とし主は諦めるだろうが、やはり、あんまり変な話は抱え込みたくない。  もしも鳥の巣で成果が上げられなければ、ギルド長が特別許可をくれたベリー摘みに行くか、花を摘みに行くかだろう。  そんな話し合いの結果、夜組は鳥の巣を探すこととなったのである。  シトトの娘に鳥の巣のことを教えた情報主は、あくまでも土産話として話したものだから、巣の場所はせいぜい『十階の南東』程度としか判らない。冒険者達は、襲い来る魔物達と戦い、いなし、倒しながら、南東を目指した。  樹海の赤の色は、隙間から差し込む夕焼けの色を受けて、いつもよりますます赤く燃え上がるようだった。ティレンの代わりに探索班入りしていたナジクが、かすかに眉根をひそめたが、第二階層に踏み込んだばかりの頃のように倒れたりはしない。アベイが心配げに視線を向けたが、心配するな、と言いたげにレンジャーが首を振ると、小さく頷いて探索に意識を向けた。  やがて、日が落ちるにつれ、鮮やかな紅の樹海も明度を落としていく。 「……出直した方がいいかしら」とオルセルタが心配げにつぶやいた。  少なくとも長笛鳥が夜行性だとは聞いていない。夜になれば普通にねぐらに戻って眠るだろう。そんなところを荒らして起こしてしまうのは気が引ける。明日の昼に出直すか、素直に花かベリーにするべきか、と考え始めた、その時である。  高い笛の音のような音が、あたりに響き渡った。  誰かが笛を吹いているのだろうか、と誰もが思った。情報を聞いていたナジクを除いて。 「これが、おそらく長笛鳥の声だ」  そうなのか、と納得しているうちにも、高い笛の音のようなその声は、断続的に数回響き、やがて止まる。 「しかし、これほどはっきりと聞こえたのは初めてだ。この近くに巣があるのかもしれない」 「そうなのか?」 「そろそろねぐらに帰る時間ならば、この近辺にある巣に戻ってきたからこそ、声がはっきり聞こえると考えられないか?」  言われてみれば、現在地は、『十階の南東』という条件には合っている。 「とりあえず、探してみましょうかぁ」  マルメリの声を合図としたかのように、一同は声を殺し、足音を殺し、声が聞こえてきた方へと歩を進めた。  行き当たった茂みを覗き込む。そこには、枝を組み合わせ、職人芸のように作ってある巣があった。その中に、色とりどりに光る石を見付けて、冒険者達は満足した。赤い光を受けて輝く石は、ただの石なのだろうが、まるで宝石のようにも感じられる。  産卵期ではなかったことが幸いだ。もしそうだとしたら、巣の中には昼夜問わず親鳥がいて、決して退かなかっただろう。 「ごめんねぇ、少しもらうわよぉ」  どこにいるか正確には判らない、巣の主に、通じないであろう謝罪を行いながら、マルメリが巣に手を伸ばした。  と、その時である。  頭上でかすかな羽音がした。何事か、と思わず視線を上に向ける冒険者達の視界を占領するものがある。それは、瞬く間に占領区域を大きくし、やがて、視界外に逸れて消えた。  ――マルメリを除けば。  吟遊詩人の娘は、まぶたの上に落ちてきた何かを振り払おうとして慌てていた。両目を覆い隠す程の見た目の割には相当に軽いらしく、それはマルメリの顔を滑って、前にある鳥の巣の中に落ちた。 「あああ、びっくりしたわぁ」  心臓の上を抑えて軽く息を吐くマルメリの隣に歩み寄って、パラスが、落ちてきた何かを拾い上げる。 「あれ? これは……」  美しい羽だった。形は、エトリア迷宮に存在した火喰い鳥やその類型の一族の尾羽に似ている。というか、この場合は、東方と西方の狭間の地域に生息するというクジャクのそれに似ていると言うべきか。それが、華やかな極彩色に色分けされ、光を受けてきらきらと輝いている。傾けたり軸を持って回したりすると、不思議な色の転移を見せた。 「……石は持ってかないで、これで勘弁して、っていうことかしら?」  オルセルタが見上げるが、鳥の姿は枝葉に隠されて見あたらない。仮に見えたとしても、その真意がオルセルタが冗談半分に口にしたことと同じかどうかは、確かめようがないだろう。ただ、はっきりしているのは、美しい羽は誕生日の贈り物にするのにいいだろう、ということだ。 「……わかったわ。石は持っていかない」  結局、オルセルタは肩をすくめて巣を離れた。ところが、入れ替わりにナジクが巣に近付いたので、慌てて引き留める。 「ちょ、ナジク、もういいじゃない!?」  しかし、レンジャーの青年は意に介さず巣に近付き、その中に手を突っ込んでいる。 「ちょっと!」  この上、石まで持っていこうというのか。憤慨したオルセルタは足早にナジクの背を追い、その肩を掴もうとした。  ……石は、ひとつたりとも減っていなかった。  むしろ、増えたものがある。きらきらと輝く五十エン金貨が二枚。  伸ばしかけた手の遣り所に困っているオルセルタを振り返り、レンジャーの青年は静かに口を開く。 「……礼だ」 「……ああ、そうなの。気が利くのね、ナジクは」  憤慨するべきは自分自身にだった、とオルセルタは自省した。ナジクは、巣の主の習性に則って、自分でできる礼を果たしただけだったのだというのに。  少なくとも表面上は取り繕ったつもりだったが、見抜かれていたのか、気にするな、とばかりにナジクに軽く背を叩かれる。  ともかく、宿屋の娘への贈り物になりそうなものは入手した。あとは、それを渡す時を待つだけである。  待つだけである、とはいうものの、それはあくまでも、宿屋の娘の誕生祝いに関わることだけで、探索と鍛錬はそうではない。  探索の方は、『エスバット』を戦慄せしめた存在を警戒して、やや速度を落とさざるを得なかったが、現状では、まったく止めるというわけにもいかなかった。  その理由もまた、宿屋の娘に関することである。  女将に頼まれていたことがある。病気の娘の療養のために、空気のきれいな場所を探すことだ。借りた調査具の反応は、今のところ芳しくない。もっと未知の場所に踏み込まなくてはならないだろう。どこまで行く必要があるのかは、まったく見当が付かない。場合によっては、女将には相当待ってもらわなくてはいけないかもしれない。  宿屋の娘への贈り物を入手した翌日。  昼の探索班は、せっかくだからと、ついでに請け負えそうな依頼を探しに酒場に足を向けたのだが、そんな『ウルスラグナ』を、親父は驚きの表情で迎えた。 「驚いたぜ、お前らの言う通りだ。第三階層の先を目指していた連中が、依頼を捜しに来たぜ」  どうやら、他の冒険者も、アーテリンデの脅しを聞いたらしい。  親父の感嘆が嘘ではないと示すように、昨日は山ほどあった依頼書は、半分くらいに減っていた。掲示板の下地があちこちに目立ち、どことなく物寂しさを感じられる。  まさか一日でこれほど状況が変わるとは思っていなかった。だが、よく考えれば、大公宮の氷の花探しによって、冒険者達の多くは道を塞がれていたのだ。封鎖が解かれれば、一斉に先を目指し、アーテリンデの警告を聞くのも、大体同じ頃になるだろう。さて、冒険者達は、彼女の警告通りに、小銭稼ぎに転向するのか、それとも――『ウルスラグナ』と同じように、今は力を蓄えよう、と考えているだけなのか。 「お、そうだ。お前らには伝えておかないとな」  何かを思い出したのか、親父がそう切り出す。 「どうしたよ、また七面倒な依頼でもあんのかよ」 「バカ、宿屋の嬢ちゃんの誕生祝いの話だよ」  この日、天牛ノ十九日の、夕方から、フロースの娘の誕生祝いが行われるのだが、その会場はこの酒場らしい。フロースの酒場と棘魚亭、意外と交流があるのかな、と冒険者は思った。 「そんなわけでだ、今日の夜の探索はすっぱり諦めて、『ウルスラグナ』全員、雁首揃えて、ここに来やがれ。こいつは命令だ――贈り物はしっかり用意しただろうな? 何、用意した?」 「内緒ですえ」  探りを入れるように問い重ねる親父を、焔華が、たおやかな言葉でさらりといなす。  昨日手に入れた羽は、留守番組が包装して贈り物らしくする予定である。少し前に私塾通いの子供達との雑談の中で聞いたことがある、紙屋に足を運んで、小鳥の羽を漉き込んだ厚紙で作られた細長い箱を買ってこよう、などという話をしていた。  それにしても、もらう方ではなく、あげる方なのに、何故、こんなにわくわくするのだろう。冒険者達は、それぞれの心の奥底にある、弾むような思いに戸惑いながらも、ふと、考えた。  自分達の親や、誕生日を祝ってくれた人達も、こんな気分を抱いていたのだろうか?  その日の夜の出来事は、『鋼の棘魚』亭開店以来の珍事だったかもしれない。  あまりにもひどい者は淘汰されているとはいえ、冒険者は荒事を担う連中である。そのような輩を多く迎え入れる酒場は、そこはかとなく、日常とは羅紗一枚で隔てられた雰囲気を醸し出しているのが常であった。  それが、この夜に限っては完全に払底されている。というか、もっと強力な雰囲気のせいで、荒い気配は抑えられている、と言った方がいいだろうか。 「……まあ、これじゃ、荒事起こそうって気にもならないよなぁ」  飾り立てられた店内をぐるりと見回し、アベイが苦笑しつつ感慨を口にした。  普段は冒険者達の憩いの場である酒場は、おそらく宿屋の娘の友人である子供達が手がけたのだろう、薄紙細工の花々に、すっかり寄生されていた。重ねた紙を細い蛇腹状に折り、中心部分を縛って、紙を起こすという、ごく簡単な方法で作られるものである。その合間を、やはり紙で作られた鎖状の飾りが這っている。マルメリが思わず「第零階層・帋(かみ)飾リノ酒場」とつぶやいた程であった。  すっかりと毒気を押さえ込まれてしまった酒場で、同じく普段の毒気を抜かれた様相の親父が、「まぁ今日ばかりはしょうがねぇよ」とばかりに肩をすくめた。 「普段もこれくらい大入りなら、収支計算に頭を抱えることもねぇだろうによ」 「うるせぇ」  エルナクハのからかいに渋い顔でそう返すと、親父は相好を崩した。 「それにしても、よく来てくれたぜ『ウルスラグナ』、さあ、奥まで入るがいいさ!」  誕生パーティの時間は、夕方から、という漠然とした指定でしかなかったが、それには理由がある。宿屋の娘の誕生日を祝う者が多すぎて、いっぺんには酒場に入りきらないからだ。また、それぞれが割ける時間帯にも幅がある。故にその指定の真意は『会場は夕方から開けるから、適当な時間に来て適当な時間に帰ってくれ』ということになる。現に『ウルスラグナ』一同(今日ばかりはセンノルレも含む)と入れ替わりに、「夜勤に備えて仮眠取らなきゃいけないから、これで失礼するよ」と帰っていく衛士の姿もあった。  中の様子は、ざっくばらんに表現すれば立食形式である。客が入れ替わり立ち替わりする状況では、それが最も理に適った形式だろう。誕生パーティ前から店内にいたらしい冒険者達が、開き直って参加している様子が、妙に微笑ましい。  それにしても、実に奇妙な空間だった。中央に座する娘と、背後から見守るように位置する宿屋の女将を中心に、幼い子供達から、妙齢の女性、恰幅のいい奥方、子供達なら一見して逃げ出してしまいそうに厳つい男、腰の曲がった老人――様々な人間達が入れ替わり立ち替わりする様は、この街の縮図そのものといっても過言ではない。宿屋の娘は街中の人間と友達だと聞いたことを思い起こした。  教会の牧師までいる。この国自体は世界宗教を国教としているわけではないが、国家行事に世界宗教の形式を借りているところもあるらしいし、教会も存在する。宿屋の女将からもらった防寒具を、自分達用のものができあがった後に、洗って寄付しに行った縁もあり、全くの初対面というわけではない。 「よぉ、父たる神の羊飼い。これだけ『羊』がいると、まとめるのも大変そうだなァ」  と、エルナクハが軽口で呼びかけたのも、初対面の時に『シャレが分かる相手』と見抜いたからこそであった。事実、壮年の、髪に白いものが混じり始めた牧師は、豊かな髭を蓄えた口元を歪め、同じような洒落で返した。 「なに、たまには『放牧』も必要ではないかね、大地母神の悪戯坊主殿」 「違ぇねぇ。がっちがちに檻に押し込めてたら、ストレスでバタバタ倒れるわな……酒どうだ? 今なら神サマも寝てるだろ」 「少しだけ頂こう。神はお目こぼしくださるだろうが、女房(やまのかみ)がおかんむりになるからな」 「おう、ソイツはコワイコワイ。山の神サマはサイキョウだからな!」  酌のやり取りを始める神職二人の後ろから、 「貴方こそ、自重するべきです」 と、エルナクハの山の神(にょうぼう)たる者からの神託が密やかに下る。  さしあたって『ウルスラグナ』一同は、銘々にくつろぎ始めた。ちょうど、宿屋の娘は友人達に囲まれ、贈り物とお返しのやり取りをしているところである。そこに割り込んで贈り物をする程、急いでいるわけでもなかったのだ。  しばらくは、料理をつまんだり、飲み物を嗜んだりしつつ、時を待つ。  程なくして、子供達は、保護者であろう大人達にそれぞれ連れられて、別れの言葉と共に、ぞろぞろと酒場を去っていく。主賓である宿屋の娘は例外として、子供があまり遅くまで酒場にいるのはあまりよろしくない。妥当なことだ。  宿屋の娘の周囲に空隙が生じる。贈り物を手渡すなら今だろう。  だが、重要なことを決めておくのを忘れていたことを思い出した。  ……渡すって、誰が渡すというのか。 「……センセイ?」  面子の中では最も宿屋の娘に近いところにいるはずの、元教師。  彼に役目を委ねようと決め、問題の贈り物の箱を取り上げ、手渡そうとしたところで、 「阿呆か」  背後から喝を入れられる。振り向くと、呆れ顔の酒場の親父が立っていた。 「なにしてやがるんだよ、ギルドマスター様とあろうものがよ。なぁに、エンリョする事ぁねぇ、ほれ、こっち来て直接贈り物を渡してやんな!」 「わ、こら、何しやがるんだ、親父!」  襟足を掴まれ、為す術もなく引きずられていくギルドマスターを、一同は、苦笑と憐憫を込めた眼差しで見送った。  誰が贈り物を渡すかという中で、エルナクハという選択は、渡される相手との取り合わせ的に、奇妙さを感じるところがあったのだ。かといって――他の誰がいいのか、と問われると、それぞれが頭を抱えることになっただろう。妥当な線では、エルナクハが選ぼうとしたフィプトなのだろうが。  どうであれ、ここまで来たらぐだぐだとごねていても意味はない。エルナクハは腹をくくって、宿屋の娘の前に進み出た。 「……ぁ」 「よ、よお」  傲慢不羈な黒肌の聖騎士の辞書にも、緊張という言葉はあったらしい。エルナクハは、普段の様相からはとても信じられない程にぎこちない動きで、手にした贈り物の箱を前に回し、 「ほ、ほらよ、コイツは、オレら『ウルスラグナ』からの、プレゼントだぜ」  押し付けるように、宿屋の娘に手渡す。 「ぇ……?」  まさか冒険者から贈り物をもらえるとは想像だにしていなかったのだろう、宿屋の娘は、あどけない瞳をぱちくりとまばたきしながら、黒い聖騎士を見上げた。  エルナクハは詳しいことを知らなかったが、実は、贈り物の箱からして大層高級なものであった。遥か南方の国アーモロードに生息するという色鮮やかな小鳥の羽を漉き込んだ紙箱なのである。ただ、『アーモロード』というのは十中八九眉唾だろうな、と皆が思っている。かの南方の国は百年程前に大災害によって沈んだという噂を耳にしているからだ。 「と、とにかく、開けてみろや」  聖騎士は箱の開封を促した。宿屋の娘は、こっくりと頷くと、箱に掛かったリボンに手をかける。  蓋を開けたその手が、しばし止まった。 「ぇ……? わぁ、キレイ……!」  感嘆の言葉を紡ぐ娘の、ふたつの瞳は、すっかりと箱の中身に釘付けになっていた。酒場のやや薄暗い照明の中でさえ、鮮やかな色を失わない、虹色の美しい尾羽。震える細い指が羽軸をつまんで、そっと取り出すと、羽は動きにつれて色を目まぐるしく変化させた。  その様は、娘だけではなく、母親である女将も、他の大人達をも、惚とさせるものだった。 「……も、もらっていいの……?」  我に返った娘は、このようなものを自分がもらってしまっていいのか不安になったのだろう、問いかける言葉を口にする。が、その言葉を受け取るべき聖騎士は、すでにいない。そそくさと席に戻って酒をあおっていたのである。 「なに、がらにもなく照れているのですか」  半ば呆れた顔で、妻たる錬金術師が溜息を吐く。  やれやれ、と苦笑いしつつ肩をすくめたマルメリが、逃げてきた従弟の代わりに、宿屋の娘に声を掛けた。 「いいのよぅ、『フロースの宿』にはいつもお世話になってるしねぇ」  さすがに『母親に依頼されたから』とは言えない。それに、きっかけは依頼だったとしても、いつも世話になっている宿の娘のために、何を喜んでもらえるだろう、とギルド総出で考えたことも確かだ。そして、そのどちらも、今この場で娘に告げても意味のないことである。 「へへ……やったぁ」  大人達の思惑はさておき、娘は、頬を上気させて目元を緩めた。しばらく、羽をくるくると回して色の転移を楽しんでいたが、ふと、その動きが止まる。どうしたのかと思う『ウルスラグナ』一同に、娘は真っ直ぐに顔を向けた。 「あの、あ、ありがとう。凄く嬉しい……」 「どういたしまして」  代表してオルセルタが返礼を口にする。彼女の兄であるギルドマスターはというと、まさに「礼なんか言われる筋合いじゃねぇよ」と嘯く頑固親父のような様相で、酒に口を付けている。何、こんなところで照れているのやら、と、先程の義姉の言葉のような感慨を抱く妹であった。  夜の九時を回ったあたりで、誕生会はお開きになった。  普段は眠っている頃合いなのだろう、うとうととして、まぶたを開けていることですら重労働といった塩梅になっている娘を、女将が連れて帰っていく。「今日は本当にありがとうね」という挨拶を残していった女将を、『ウルスラグナ』は見送った。  料理や酒には若干の残りがあるので、残って消費したい輩はそのまま酒宴に突入するのだが、その代償は、宴が終わった後の片付けの手伝いである。といっても、『ウルスラグナ』が酒宴を続けずに去ることを決めたのは、別に片付けがいやだったからではない。 「明日からも頑張って樹海の探索をしないとな」 とは、全員の意志を代表したアベイの言うところである。自分の好奇心のためだけではない、大公の病を癒すために『諸王の聖杯』を求めるためだけでもない。宴の主役であった宿屋の娘のために、できるだけ早く、空気のきれいな場所を探してやりたい、と改めて思ったのだった。特に、幼い頃は似たような病を抱えていたというアベイにとっては、他人事ではないだろう。 「おっと……お前ら、帰る前にコッチ来い」  酒場の外に踏み出そうとする一同を、酒場の親父が引き留めた。何事かと思いつつ親父の招きに応じた『ウルスラグナ』だったが、続く言葉に、自分達がどういう立場だったのかを思い出す。 「さてと、んじゃ依頼は完了ってことだ。仕事は仕事だからな、ホレ、報酬だ」 「む……」  そうだった。自分達は純粋に娘の誕生日を祝ったわけではない。いつも世話になっている宿の娘のために、何を喜んでもらえるだろう、とギルド総出で考えたことも確かだ。けれど、依頼として持ち込まれていなかったら、はたして今宵のパーティに顔を出しただろうか。 「ああ、なんて顔してやがるんだ、お前らよ」  ひょっとしたら、そんな『ウルスラグナ』の内心を察してしまったのだろうか、親父も、渋い顔をしつつ髪を掻きむしった。 「お嬢ちゃんも喜んだみてぇだし、いい事づくめじゃねぇか、めでてぇだろう、オイ! ……あーと、言い間違えたんだよ。こいつは報酬じゃねぇ、お返しだ。誕生祝いをくれた人に、ささやかなお返しをするのくらい、お前らにだって、覚えがあるだろ?」  ただの言葉遊びと言ってしまえば、そこまでかもしれない。だが、その親父の言葉で、少しだけ心が軽くなったのも確かだった。こんなことにいちいち一喜一憂するのは、冒険者としてどうなのだろう、と自分達でも思わなくもない。誕生日の贈り物を持ってきてほしいと依頼されたから、それらしいものを適当に調達し、誕生会の席で渡し、対価としての報酬を手にする――ただそれだけの話だと割り切れば、何の問題もないはずなのだが。 「だから、変な風に考えんなよ、な?」 「……ああ」  再三の励ましに、こっくりと頷いた。  報酬が、金ではなく、品物だったのも幸いした。ようやく市場に出回り始めて間もない、一度にパーティ全員の『封じ』を回復する薬だったのである。親父の言う『報酬ではなくお返し』という言葉が、すとんと道理に収まる。それがただの言い訳だとしても。  ……きっかけはともかく、自分達は宿屋の娘の誕生日を祝ったのだ。最終的に、冒険者達はそう考えることにした。それが一番、自分達の気持ちも安定する気がしたのだ。 「……ところでよ」  酒場から帰還後、応接室でくつろぎながら、エルナクハはぼやいた。 「今にして思えば、プレゼント、『アレ』でよかったんじゃねぇか?」  黒い指先が指し示すものを、全員が目の当たりにする。  それは、金色の小さな駒だった。精緻な彫刻で『衛士』を表現した代物である。 「ああ、あれね……」  一同、納得すると共に、それはどうか、とも思ってしまう。  かつて、酒場の親父から受けた依頼の報酬として授けられた、金の駒。込められた思惑を考えれば、宿屋の娘の誕生日の席で、駒が贈り物とされる様を見た親父は、さぞかし肩を落としたことだろう――それはそれで、その様を見てみたかった気もする。しかし、もらったものをたらい回しにするような行為はどうか。  それに、今さらの話である。『衛士』の駒が応接室の飾りとして活躍する期間は、まだ当分ありそうだった。  しばらくは、特筆することもほとんどなく、『ウルスラグナ』の探索は続く。  アーテリンデの話を警戒していたのは確かだが、それ以前に、十三階は難所だったのだ。魔物はもちろん、それ以上に厄介だったのは、迷宮の構造そのものである。細い経路が縦横無尽に走り、それだけならまだしも、ところどころにある凍った水路が相変わらず自由な行動を阻む。この階を脱出するのは随分と先になりそうであった。  さて、特筆することはない、と記したが、それはあくまでも『主たる探索』に限った話である。それ以外のことに目を向ければ、いくつかの出来事が発生していたのであった。  天牛ノ月も下旬に差し掛かった頃合い、その日の探索を終えて帰還した昼組は、私塾の門前に佇む女性の後ろ姿を目にした。おそらくは肩をやや越えたくらいの長さがあるだろう緑髪を、大きなピンで後頭部に留めて、うなじを露出しているその女性は、旅行に出る時に使いそうな大きめの鞄を、傍らに寄り添わせていた。地味な色だが上質の牛革のコートが、女性の身体のラインを適度に表している。探索班の誰よりも背が低そうだったが、女性としては平均的、おそらくオルセルタと同じくらいの背丈だろう。全体的な印象としては、『小金が貯まった若奥様が短期の旅行にやってきた』という感じであった。  後ろ姿ゆえに確証は持てなかったが、その女性に覚えがある。  エルナクハ、焔華、アベイ、ナジク、フィプトの五人は、しばらく顔を見合わせていたが、思い切って声を掛けてみることにした。代表してフィプトが声をあげたのは、彼が私塾の管理人だからである。 「……ナギ・クード・ドゥアトさん?」 「きゃ」  後背に全く気が向いていなかったのだろう、女性は短い悲鳴を上げると、恐る恐る振り向いた。  若々しい女であった。娘であるパラスの年齢を考えれば、三十路半ばには到達しているはずなのに、とてもそうは見えない。『ウルスラグナ』の誰よりも年上である印象を受けはするものの、それは全体的な雰囲気がそう見せるものであり、顔の造作の成せるものではないようだった。  これまで昏睡している姿しか見たことがなかったが、健常な彼女の姿を目の当たりにして、『ウルスラグナ』探索班一同は、等しく同じ印象を抱いた。  ――やはり、どこかのちょっと裕福な若奥様だ。  それは奇異な感想だった。彼女が一児の母であるという事実ゆえにではない。彼女は――怨と闇を纏い、恐怖と死をもたらす、カースメーカーであるはずなのだ。だというのに、彼女の娘と同じく、今の姿は、呪術に携わるものとはとても見えなかった。首から下げられ、かすかに音を立てる、カースメーカーの鐘鈴だけが、彼女の正体をつまびらかにしていた。  だが、カースメーカーは外見だけでは量れない。パラスがその実、優秀な呪術の使い手であるように、この女性もまた――。 「……あら? あらあらあらあら、あらぁ」  『ウルスラグナ』一同が女性を目踏みしている間に、当人は気を取り直したようであった。自分の背後からやってきた五人に向き直ると、感心したような声を漏らしながら、ゆっくりと眺め回す。そうして視線が五往復ほどした頃合いだろうか、女性は、ふと我に返り、赤面したのだった。 「あら、失礼……声を掛けて頂いたのに、無遠慮に眺め回したりして、ごめんなさいね」 「いや、別に構わねぇケドよ……」  無遠慮に眺めていたのは自分達も同じである。  ――カースメーカーは外見では量れない。が、この女性は、やはり外見で量ってしまう。らしくない、と。 「ところで、あなたが……冒険者ギルド『ウルスラグナ』のギルドマスター、エルナクハ君?」  女は、間違いなくパラディンを指して問いかけた。初対面であるにもかかわらず。とはいっても、『黒い肌の聖騎士』というのは、現時点のハイ・ラガードではエルナクハくらいしかいない。初対面でもまず間違えられないのが、このパラディンの特長でもあった。 「あ、ああ」  若干うろたえつつも頷くと、女は顔を輝かせた。まるで、評判の吟遊詩人や芝居役者に会えたとでも言わんばかりの笑顔である。あっけにとられるエルナクハの右手を両手で取ると、ぶんぶんと上下に振った。 「あらあらあらあらあらぁ、聞いた話通りなのねー。黒い肌してて、背高くて、強気そうな顔してる」  腕を勝手気ままに振り回されつつ、エルナクハは面食らう。なんというか、不躾なオバチャンに取り囲まれているような気分である。かといって、不快というほどに悪い気分にはならないのは、女の行動が無邪気な子供のようだからかもしれない。  やがて女は我に返り、またも赤面して、エルナクハの手を慌てて離した。 「あら、ごめんなさい、また失礼しちゃったわぁ。パラスやファリーツェちゃんから聞いた通りの人だわって思っちゃってね」  パラスはともかく、亡きエトリア正聖騎士の名を耳にして、一同(フィプト以外)は精神的に身構えた。何かよからぬことを感じたわけではないのだが、さらりと聞き流せるほどには、彼の逝去を聞いた時の衝撃による心の傷は治りきっていなかった。とはいえ、目の前の女性からすれば、単純に親族の名を口にしただけのようだった。女性がパラスの母で、パラスとエトリア正聖騎士がはとこならば、女性と聖騎士も、関係性を簡単に言い表せる単語があるほどに近い血筋ではないが、親戚には間違いないのだ。  女性は、冒険者達が軽く驚いた(と彼女には見えただろう)のは、そのあたりの関係性がはっきり認知されていないからと思ったのか、軽く微笑んで頭を下げる。 「改めて自己紹介しなきゃね。私はドゥアト。ナギ・クード・ドゥアト。パラスの母で――『エリクシール』のパラディンやカースメーカーの親戚でもあるわ」  動作に同期して、首から下げた鐘鈴が、からり、と音を立てた。  外で立ち話も何なので、冒険者達はドゥアトを私塾に招き入れた。  誰かしらが中庭にいるか、外に気を配っていれば、探索班が戻ってくる前にドゥアトの訪問に気付いたのだろうが、あいにく、昼時だったために全員が食堂に引っ込んでいた。私塾としてもちょうど休暇だったため、早めにやってきた子供達が気付くこともなかった。そしてドゥアト曰く「門に呼び鈴は付いてないみたいだったし、勝手に入口まで入っちゃっていいのか悩んでてねぇ」とのことである。ちなみに、私塾に用があるハイ・ラガードの人間は、門は勝手に通過して、気軽に入口までやってくるのが常であった。  最近はハディードも、知らない人間が来た程度ではうろたえなくなっていた。犬小屋の外に寝そべり、肉満載の餌皿を抱えながら、一同を一瞥すると、「おや、おかえり」とばかりに尾を一度打ち振っただけである。 「あら、大きいワンちゃんね」とドゥアトが相好をほころばせる。 「大きい?」  冒険者達はドゥアトの物言いに一瞬違和感を感じ、だが、結局は彼女の言葉が正しいことを受け入れた。  いつも見慣れているために、「成長早いな」程度にしか感じなかったことだが、ハディードは確かに大きくなっていた。思い起こせば、私塾に来た頃のハディードは、ティレンが覆い被さって守れるほどに小さかった。それが、今はティレンの武具を身体にくくって運べるほどにもなっている。これだけ成長が早ければ、犬小屋の頻繁な建て直しなどで気付いてもよさそうなものだが、あいにく、犬小屋は相当に余裕を持って建ててしまったものだから、これまでに直す機会もなかったのだ。 「おーい、オマエらー。飯食ってるのかー?」  エルナクハはそんな声をあげながら私塾に上がり、どかどかと廊下を歩く。仲間達とドゥアトは、その後を静かに追った。  そんな、一部騒々しい帰還者達が、食堂の入口に差し掛かった頃。 「――あーっもう! どっかどっかどっかどっかってうるさいのよバカ兄貴!」  食堂から飛び出してきたのは、黒い肌のダークハンターの少女であった。 「お休みで授業とかやってないからって、もう少し静かに歩く努力はできないの――って、あれ?」  琥珀色の瞳が客人に向く。オルセルタもまた、眠っている状態の彼女に会ったことはあるのだが、その女と、今元気に訪問してきた若奥様とが、一足飛びには結びつかないようだった。それでも、どうにか同一人物であることを認めると、兄への抗議はどうしたのやら、食堂に引っ込んだ。慌てて友達を呼ぶ声がする。 「パラスちゃん、パラスちゃーん! お母さんが来てるわよ! ほら!」  その後しばらく、ちょっとした混乱があったわけだが、そのあたりは語らずとも想像が付くだろう。  結局、留守番組がちょうど昼ご飯を食べていた途中だったこともあり、『ウルスラグナ』(留守のゼグタント除く)とドゥアトで、食事を囲んで話をすることになったのであった。  ドゥアトは、薬泉院から、「もう問題ない」という診断をもらったので、退院したのだそうだ。私塾を訪れたのは、娘や、娘が世話になっている冒険者ギルドへの挨拶のつもりだったそうである。 「挨拶って、水臭ぇな?」  そんな話を聞いた時、エルナクハは首を傾げたものだった。その物言いには、ハイ・ラガードに来た目的は、娘に会うためではない、という意志が滲んでいるように思えたのだ。  そう思われていることを正確に推し量ったのか、ドゥアトは、ころころ、と表現できそうな快活な笑声をあげた。 「あらあらあらあら、お友達と楽しそうにやってるところに、親が顔を出すのは、邪魔でしょ?」 「そんなことないよ、お母さん!」  パラスが必死に否定するが、ドゥアトが代弁した親の言い分は、判らなくもなかった。実際、自分達の力で一人歩きしているところに、親が首を突っ込んできたら、うざったいと思わなくもない。かといって、それは親を邪険にするというのとは、少し違う。なんとも言葉では表現しづらいものだが……。 「まぁ、でも」と、気を取り直したように、カースメーカーの母は言葉を続けた。 「実はね、今回、ハイ・ラガードに来たのは、パラスに会う目的も、あるにはあったのよ――あの子の件でね」  『あの子』という言葉が指すものに勘付いて、『ウルスラグナ』全員が押し黙る。 「まあ、でも、その件は、薬泉院に入院してる時に、パラスと話したから、もう済んだんだけどね」 「……やっぱり、本当だった、んだな」  ドゥアトはそのまま話を流すつもりだったのかもしれない。しかし、エルナクハはせき止めてしまった。そうしてから後悔したものの、いまさら「やっぱ、なし」というわけにもいかない。ドゥアトもそのあたりを酌んでくれたのだろう、簡単に触れてくれた。 「若長からのお手紙に書いてあったかもしれないけど、執政院が襲われたのよ。敵が誰だったのかは、あたしが知っている限りでは全くの不明。あたしはその時、若長に掛けられた呪詛の解除を依頼されて、執政院にいたのだけど――」 「若長の方は大丈夫だったのか?」 「ええ、それは大丈夫。呪いは、呪ってた輩に跳ね返してやったから。誰だか知らないけど、しばらくは高熱で動けなかったでしょうねぇ」  くつくつくつ、とドゥアトは笑声をあげた。  今までの『若奥様』然としたものとは、まったく違う態度。煉獄の蓋というものが存在していて、それをこじ開けたとしたら、中から吹き出してきた炎の影が笑い顔を形作り、今のドゥアトのような声を上げるのではないだろうか。改めて、『ウルスラグナ』一同(除パラス)は思い知る。この女性は、紛う事なきカースメーカーなのだということを。  しかし、笑い終えたドゥアトの表情は、元の『若奥様』の――近しい者を亡くしてうなだれる女のそれに間違いなかった。 「そうして、あたしが呪詛返しに必死になっていた時に、あの子は死んでしまったわ。――残念ながら、遺体は見てないんだけれどね」 「遺体を見てない?」  それは奇異を感じさせる発言だった。親族ならば埋葬前の最後の対面くらいするものではあるまいか。だが、ドゥアトの様子からすれば、対面したくなくてしなかったわけでもあるまい。とすれば、親族にすら見せられないほどにひどい状態だったのか、あるいは――遺体すら残らなかったのか。  ドゥアトの様子からは、どちらか判断できない。彼女もどちらなのか知らないのかもしれない。  どうであれ、これ以上は訊いても、納得できる答は返ってこないだろう。エルナクハはせき止めていた話を流すことにした。 「パラスに会う目的もあるにはあった、って話だったよな。てことは他にも何か目的があったってことか?」 「ええ、人を捜してるの」 「せっかくですし、協力できませんかえ?」  そう焔華が申し出るのには、カースメーカーの女性は、首を静かに横に振った。 「ありがたいけど、ちょっと、無理かしら」  いくら娘の仲間とはいえ、実質的には今日出会ったばかりの人間に、協力を願うようなことではないか――と思ったが、無理だという理由自体は、そうではないようだった。ドゥアトは軽く小首を傾げて少し考え込むと、決心したように頷き、再び話し始める。 「ひとりは、名前しか知らないの。で、名前だけ知ってても、捜しようがないみたい。もうひとりは……上手く説明できないわね。捜すつもりでここまで来たけど、見つけてどうするんだ、って思ったりもするの。だから、無理に捜したくないというか……何だかよく判らないでしょ?」  ドゥアトの言わんとすることはよく判らない。判らないが、しかし、なんとなく理解できるような気がする。なんであれ、はっきりしているのは、『ウルスラグナ』の手助けは人捜しの役に立たなさそうだということだ。……否、人捜しに直接関与できなくても、手助けできることは、ある。 「ドゥアトさんは、泊まる場所決まってるんですのぉ?」 「これから探そうと思ってたんだけどね」  マルメリの問いかけにドゥアトは肩をすくめた。その横から口を出してきたのはフィプトである。 「せっかくですから、ここに泊まりませんか? 部屋は余ってますし、人捜しも随分時間がかかりそうですから、宿泊料金も馬鹿にならない。さしたるおもてなしはできませんが、いかがですか?」 「あら……あらあらあら、いいのかしら? そんなご親切に」  ドゥアトにとっては思いもしない申し出のようだった。  一旦そうと決まれば、難しい話は必要ない。あれよあれよという間に、二階の空き部屋のひとつである、パラスの部屋の正面に手が加えられ、人が生活する室内としての体裁が整えられた。  こうして、『ウルスラグナ』の構成員が一人増えることになるが、当のドゥアトはこの時点では探索に出る予定はなかった。そも、『王国』に本籍を持ち、エトリア執政院の署名付きの旅券を持つ彼女は、冒険者ギルドの一員とならずとも、入国審査を容易に済ますことができるのである。そのようなわけで、冒険者ギルド統轄本部に保管されている『ウルスラグナ』の書類に、ドゥアトの名が載るまでには、いま少しの時間が必要であった。  それでも世間から見れば『ウルスラグナ』の一員であることに変わりはなく、私塾に通う子供達は、自分達が休みの間に冒険者がひとり増えていることに気が付き、一体何があったのか、増えた人の職(クラス)は何なのか、という疑問が彼らの間に飛び交うこととなったのである。  少なくとも、初見でドゥアトがカースメーカーであることを当てた者は、皆無であった。さもありなん、中庭で軽快な歌を口ずさみながら洗濯桶を泡だらけにしている女を見て、誰が呪術師だと思えるものか。  いまひとつ、停滞した探索の合間に発生した、奇妙な出来事がある。  それは、酒場でとある依頼を請けたことに端を発するものであった。  中央市街を取り囲む建物のひとつ、その中を、フードとローブを羽織った二人組が歩を進める。  ローブ越しでも体格のよさが判る片方と、その肩ほどの背丈しかない、ローブの上から呪鎖も巻き付けた相方。彼らが向かうのは、建物の下方であった。  中央市街と同じくらいの高さの階より上方は、一般人が暮らし、彼らのための商店が軒を連ねているのだが、階段を下っていくと、雰囲気が変わってくる。  ハイ・ラガードのような、統治が比較的行き届いている国であっても、暗部は存在するものだが、二人組が歩いている場所はまだ、そのような輩が姿を現すような場所ではない。現在地は、国家の表層を『光』、暗部を『闇』と表現するならば、『黄昏』と言える輩の巣窟であった。ハイ・ラガードが国家の体裁を整える前から、世界樹に寄り添うように生きてきた、まじないを生業とする者ども――カースメーカーやドクトルマグスが、ひっそりと暮らしているのだ。まさに、永遠の黄昏、逢魔が時で停滞しているような雰囲気を漂わせた場所であるといえよう。 「冒険者でもないアンタに、こんなこと頼んじまって悪いな」  体格のいい片方――エルナクハが、もう片方――ドゥアトに、ばつが悪そうに語りかける。 「いいえいいえ、こういうことはパラスよりあたしの方が適任だと思うわ」  カースメーカーの女は、無問題と言いたげに笑むと、目を細めて周囲を見回した。  犯罪に直結するような不穏な空気ではないが、一般人なら足を踏み入れることを躊躇うような雰囲気ではあった。ローブを着込んだ者どもがひそひそと話し合い、『失せもの捜し、呪い返し』と記された看板を掲げた家屋の奥で、何者かが、卓に置いた水晶球を凝視している。反対側の家屋に目をやれば、その軒先に吊されているのは、亀の甲羅やら黒こげの爬虫類やら、一般人にはよくわからないものばかり。 「あら、珍しいもの見たわー」と、ドゥアトが軒先に吊されたもののひとつを指して、問う。 「エル君、あれ何だかわかる?」 「……さぁ?」  見た目は細長い鞭のようなものだが、植物ではなく、動物由来のものだという直感はする。何というか、一言で言うなら『グロテスク』。巨大化した寄生虫といわれても信じてしまいそうだ。生きている『それ』が迷宮に出てきても違和感がない。  カースメーカーの女は、ローブにすっぽり収まった手を口元に持ってきて、くすくすと笑いながら正解を明らかにした。連動した鎖が、じゃらりと音を立てる。 「あれはね、『虎鞭』っていうの。ある種の呪いを掛けるのには便利なのよ。めったに手に入らないから、普段は使わないけどね」  そして、ちろりとエルナクハに視線を流し、おかしそうに忠告を授ける。 「エル君は誠実そうだから平気だと思うけど――奥さん泣かせちゃダメよ? 場合によっちゃ、あたしがあの『虎鞭』買ってきて、その呪い掛けちゃうかもしれないからね?」  ぞくり、と全身に悪寒が走った。特に、股の間がきゅっと半分くらいに縮んだような気分になる。具体的に言及されなかった『虎鞭』とやらの正体と、それを使う呪いが何なのか、本能的に悟ってしまった気がした。が、深く追及するのはやめておくことにした。  そのような珍品探訪めいたやり取りをする二人だが、もちろん、それが『黄昏の街』を訪れた主目的ではない。  外から来た見知らぬ二人組であったが、彼らを排斥する目で見る者はいない。ひとつには、ドゥアトの姿がカースメーカーのものだからということが考えられる。エルナクハとしては、住人の『同胞』を連れてくることで、不審さ(相手側から見ての)を和らげる思惑があったのは確かだ。が、余所者は余所者、動向を気にされているところはあるようで、ふとした瞬間に視線が集まっていることを実感する。  しばらく歩いた後に、二人は、小さな家の前に立った。家とはいうが、『集合住宅』めいた建物の中に存在する場所なので、ここに至るまでに見てきた家屋同様、いわゆる一軒家の体裁は成していない。見た目には、レンガ組みの中に独特の文様が描かれた扉があるだけである。  あらかじめ教えられたリズムで、その扉を叩く。  さほど待つ間もなく、扉は静かに開かれた。  向こう側にいたのは、まだ五、六歳ほどに見える少年であった。その装束は明らかにカースメーカーのものである。おそらくは家主の弟子兼小間使いというところだろう。ぺこりと頭を下げると、幼子独特の高く拙い声音で案内の口上を述べた。 「ようこそ、いらっしゃいました。長がおまちしております。どうぞ、こちらへ」  招き入れられて、狭い通路に踏み込む。一般的に冒険者が挑む『遺跡』や『地下迷宮』を彷彿とさせる狭さであった。壁に等間隔に下げられたカンテラの中に灯るロウソクの光は、いささか頼りない。といって、カースメーカー達の家が、太陽燦々降り注ぐ明るい場所、というのも、実際どうかはともかく、想像はしづらい、とエルナクハは思った。――自分の隣を歩く女の一族は例外として。 「どうぞ、お入りください」  迷宮のごとき廊下を抜けた末に、小部屋へと案内される。黴びた匂いがかすかに鼻腔を突いた。私塾で借りている部屋とどっこいどっこいの大きさの室内に、先程ドゥアトと冷やかした珍品のごときものが、所狭しと並べられている。その中に埋もれるように、カースメーカーのローブと呪鎖を纏った老婆が、ゆったりと座っている。その老婆が口を開き、声を発するまで、エルナクハは彼女を、珍品のひとつだと勘違いしていた。 「あんた達が、依頼を請けてくれたのかい。よう来てくれたね」 「ああ……」  エルナクハは言葉少なく肯の意を返した。  らしくないことだが、老婆を意識したその瞬間から彼は怯えていたのである。パラスやドゥアトと付き合い慣れている身は、カースメーカーというものが本来どういう者なのかを忘れかけていた。外に屯していた程度の輩には何も感じないが、さすが目の前の老婆は格が違った。自分達に敵意を持っていないことは分かる。むしろ歓迎してくれているだろう。それでも、何かの拍子に、こちらに呪詛を仕掛けてくるのではないかという、底なしの不気味さを感じさせる。そういう意味では、パラスにしても、はとこの死を知った時に荒れた姿が、カースメーカーとしては正しいものだったのかもしれない。平然としているドゥアトが隣にいなければ、恥も外聞もなく逃げ出しただろう。  かつてエトリアでツスクルというカースメーカーに相対峙した時も、同じような不気味さを感じたものだが、あの時は自分にも退けない信念があった。今は、変な言い方だが、逃げ場がありすぎるのだ。なにしろ、老婆の下を訪れた理由は、ただの――と言ったら語弊があるが――酒場の依頼ゆえに。  ともかくも、自分達の簡単な自己紹介の後、エルナクハは話を切り出した。 「この国の『裏』に属する話だから、依頼人から直接聞け、って言われてな」 「ふぁふぁふぁ、『裏』ねぇ。まぁ、市井の連中は、普段はワシらにゃあまり関わりたがらないからねぇ」  老婆は妙に楽しげに話す。  確かに、普通に生きていたら、カースメーカーなどに関わり合うことは、まずないだろう。ドクトルマグスの方とは、まだ接点があってもおかしくないだろうが、それでも場所によっては『妙な力を使う連中』として一緒くたに忌避しかねない。ハイ・ラガードにおける彼ら『魔導の輩』は、受け入れられている方なのだ。 「で、まぁ、どんなに我々を怖れ、迫害している連中だって、必要だと思えば我々の力を求めるものさ――おっと、別にハイ・ラガードの者達に迫害されているわけじゃないからね。市井と距離を置いてるのは、我々自身が望んだものでもあるのさ」 「あたし達とは大分違うわねー」 「『ナギの一族(ナギ・クース)』は変わり者らしいからねぇ」  ドゥアトの感慨に、老婆はあっさりと返す。若い女呪術師は否定しない。 「……まあ、ワシらも、故郷たるハイ・ラガードの危機に何度も力を貸したものさ。占ったり、呪いを解いたり、とね。そんなわけで、『呪術院』なんて呼ばれているがね、実情はこんなものさ」  諸手を広げ、狭い室内を指し示しながら、老婆は笑った。  表情が平静に戻った時には、老婆の手には、いつの間に取り上げたのだろう、奇妙にごつごつした棒のようなものがある。それは何かの木の枝だった。表皮がところどころ剥がされている以外には、何の変哲もなく見える。だが、老婆が目の前にその枝を置くと、今までに嗅いだことがない不思議な、しかし『甘い』と分類できる匂いが、かすかに鼻に届いた。 「香木……ですね」 「ああ、ワシらの儀式に使うものさ」  香木と言われれば、それが何かということくらいは判る。燻ることで芳香を放つ木だ(目の前の枝のように燻らなくても香るものもあるが)。カースメーカーやドクトルマグスのような『怪しい者』のみならず、一般的な宗教儀式でも使われることがある。そういう意味では、さして珍しいものではない。  しかし、老婆の表情と話しぶりからすれば、その手にあるものは、特別製と見える。そうでなくては、わざわざ冒険者に依頼を出したりしないだろう。 「世界樹の迷宮の中で手に入るもの、か……」 「察しがいいね、ボウズ」  ……そういえば、ふと思い出したことがある。  あれは、最初のミッションである地図の作製を乗り越えた直後だったか。ギルド長から聞いた話の中に、『呪術院』のことがあったはずだ。あの時聞いた話はどんなものだったか。確か――。  そうだ。もともと、ハイ・ラガードの迷宮の探索は数年前から始まっていた。大々的に探索者の募集がなされたのは半年程前のことだが、それ以前から、衛士や数少ない冒険者達が、現在の出入り口ではない虚穴から、迷宮に踏み込み、探索を行っていた。それは、人間が通れる程に大きな虚穴が発見されたからこそ、できるようになったことだが……。 「思い出した。アンタら『呪術院』は、ずっと昔から、大公宮に秘密で、虚穴を通ってこっそりと樹海に入ってたらしいな。で、何かをしていた……」 「……『世界樹の使い』との取り引き」  その言葉は、エルナクハと老婆が同時に口にしたものであった。 「ギルド統轄本部の女騎士から聞いたかい」  驚く様子も見せず、老婆は話を続けた。 「ああそうさ、この香木は、『世界樹の使い』との取り引きで手に入れてきた特別製。他の方法では手に入らないものさ。だがね、大公宮主導の探索が始まった頃から、『世界樹の使い』は、ワシらの前には姿を見せなくなった。人間がたくさん、ずかずかと入り込むようになったわけだから、気を悪くしたのかもしれないね」  皮肉を言うように、老婆は顔を歪めると、ふぁふぁふぁ、と笑った。 「まあ、実際は、『使い』に会えなくなったのは、探索の始まりより少しだけ前のことだから、別の理由かもしれないのだがね。どっちにしろ、香木はコイツが最後のひとつでね、ちょいと困ってるわけさ」 「……つまりは、あたし達に、その『世界樹の使い』を探してほしい、と」 「ああ、探索を続けている冒険者なら、どこかで『使い』を見かけることがあるかもしれないと思ってね。そして、この供物と引き替えに香木を受け取ってほしいのさ」  老婆の腕が再び棚に伸び、何かを取ってきて、冒険者達の目の前に置く。それは、青い色の石だった。掌に載る程度の水晶球に近い大きさの、ごつごつした塊で、何かの鉱石らしいが、正体は分からない。  それを何気なく手にして、エルナクハは思わず声を上げた。青い石は、あまりにも軽かったのだ。その中身の九割が空気でできているかのように。あまりに驚いたので、石が重いということを前提にして腕に伝えていた力が行き場をなくし、暴投してしまった。  まずい――しかし、エルナクハの懸念とは裏腹に、軽くて簡単に壊れそうだった石には、ひびひとつ入っていない。むしろ壁の方に傷が付いた。これはこれで別の意味でまずい。慌てて家主に頭を下げると、寛大にも許しの言葉が返ってきたので、内心で安堵の溜息を吐き、石を拾い上げた。 「……なあ、ばっちゃん、この石、なんだよ?」 「風石だよ。ま、知らないかもしれないだろうけどね」  風石……聞いたその名をつぶやきながら、改めて石を眺め回す。  軽さに比して、随分と硬い石のようだった。初見の印象通り、鉱石と見ていいのだろうか? ただ、どんな価値があるのかは、さっぱりわからない。精錬して金属を取り出せるなら、鎧を作るのには重宝するかもしれない。軽くて丈夫とは、夢のようではないか。ひょっとしたらシトト交易所の者達なら何か知っているかもしれないと思ったが、さしあたって彼らのことは頭の中から追い出した。自分達が考えることは、この石を『世界樹の使い』とやらに渡すこと。風石が何なのかということは、今はどうでもいい。 「ところで、『使い』がどんな者か訊かないと、話にならなかったですわね」  ドゥアトがそう口にするのを耳にして、エルナクハは我に返った。確かに、渡す相手が判らなければ、どうにもならない。  この時エルナクハが思い浮かべていたのは、エトリア樹海に住まうモリビトのことだった。『世界樹の使い』と言われて考えつくのが、彼らのような存在しかなかったのだった。前々から懸念していたように、やはり、ハイ・ラガード樹海にも、先住の民が存在し、それが『世界樹の使い』と呼ばれているのだろうか。幸いなのは、これまで『呪術院』との取り引きが成立していた、つまり多少なりとも話が通じるという事実である。 「交渉を担当していた者は、今、旅に出ちまっててね、それが、冒険者(あんたたち)に依頼を出した理由のひとつでもあるんだけど」  つまりは、老婆自身は相手の姿を知らないということか。 「ま、それでも、『会えばすぐに判る』と言っていた。それだけわかりやすい姿ってことだろうね」 「じゃ、渡す相手を間違える、って心配はしなくてよさそうね」  ……仮に、エトリアのモリビトと似通った姿なら、あの肌や髪の色を考えれば、間違える可能性はかなり低い。 「あと、大体どのあたりで会えるかわかりゃ、助かるんだけれど」  ドゥアトの問いかけに、老婆は隠すことなく答えた。大抵、第二階層での邂逅、時たま第一階層で出会うことがあったらしい。過去三度の接触に限っても、二度が第二階層。一度だけ第一階層でも見かけられたことがあるという。『世界樹の使い』との接触を鍛錬組に任せても、問題なさそうである。  依頼に必要な情報を得られれば、もう、このような場所に用はない。ありがたいことに、『使い』から受け取ったものと報酬のやりとりは酒場でやればいいとのことなので、二度と来ることもないだろう。  繰り返しになるが、他人が見ればいつも通りに見えるエルナクハは、その実、老婆に怯えていた。会話のほとんどをドゥアトに任せていたのも、そのためである。風石を飛ばして壁を傷つけた時には、呪い殺されるとさえ思った――老婆が別段怒っていなかったのはわかっていたにも関わらず、だ。  『呪術院』を辞すと、エルナクハは肺の中の空気を盛大に入れ替えた。普通の人がその様を見れば、よくこのような場所で深呼吸などできるものだ、と思うかもしれないが、老婆と同席した場所に比べれば、木漏れ日射す森の中で過ごしているようなものだ。 「はい、お疲れ様、エル君」 「……付いてきてありがとよ、アト母ちゃん」  ぽんぽんと背を叩いてくれるカースメーカーに、パラディンは素直に礼を言う。  知己を得てからまだ数日なのだが、彼女に対しては、エルナクハも含めて、呼び名として『母』を使う者が多い――というより、そう呼ばないのは、センノルレとゼグタントくらいのものである。驚いたことに、ナジクですら「かあさん、と呼んでいいか?」と申し出たくらいだ。もちろん、『パラスの母』という意味合いで呼ぶものを省略して『母』なのだろうが、ドゥアト自身もパラスのみならず『ウルスラグナ』全員の母であるかのように馴染んでいた。おかげで私塾の雰囲気は『冒険者達にも部屋を貸しています』ではなく『大家族で経営しています』という感じになってしまった。そんな雰囲気は嫌いではない。  死んでも口には出さないが、『呪術院』でのやり取りの際も、まるで、どうしようもない状況から母親が守ってくれているような気分になっていたのも事実だ。……実母(ダユラーガ)なら、守ってくれるにしても、一段落付いたら「情けない息子だね!」と拳骨一発食らわしてくるだろうが。  それにしても、あれがカースメーカーの真の力。自分を無理矢理にでも鼓舞するための『言い訳』がなければ、その前ではこれ程までに無力。この世界は、自分達のような武力一辺倒だけではどうしようもないのだと改めて実感した。 「大丈夫よエル君。普段からあれほどの人は、そうそういないから」  ドゥアトの言葉はあまり慰めにならなかったが、それでもありがたく受け入れた。  そして、『黄昏の街』を後にして、表の領域に戻ってきた時に、ようやく人心地付いたものである。  と、依頼を請けた時には(精神的に)散々だったのだが、それと、依頼そのものへの興味深さは別だった。エルナクハは『ギルドマスター権限』をちらつかせ、自ら依頼の遂行をすることを主張した。  が、言うまでもなく誰もが『世界樹の使い』に興味を持ったので、すったもんだの言い合いになり、結局、以下のように落ち着いた。  昼の探索班は一度だけ依頼の遂行を試みて、それでも『使い』に会えなければ諦める。  もともと探索班は、いつも、そうでない者より早く迷宮の先を見ることができているのだ。それを考えればこの落としどころは妥当だろう。  ちなみに風石のことはフィプトが知っていた。ハイ・ラガード近郊で稀に発見される鉱石で、予想通り軽くて丈夫な武具を作るために使われるという。ただ、滅多に見つからない代物なので、一般的に風石製の武具を見ることはない。 「たぶん、大公様の鎧は、風石が使われてるんじゃないですかね」とのことだった。  というわけで、その日の夕方に、本来は昼の探索に出る予定だった者達――その日はエルナクハが依頼の詳細を訊くために『呪術院』に出掛けたので、探索を中止していたのである――が、第二階層に踏み込んだ。  情報から得られる感触では、『呪術院』と『世界樹の使い』は、別に待ち合わせ場所を決めていたわけではなく、運良く出会えたら取り引きしていた、というような印象を受ける。だとすれば、これまでの接触場所に行っても見つかるとは限らない。  ただ、取り引きの際の顔合わせが偶然任せということは、逆に言えば、『使い』は別の理由でその場所に来ているということだ。その『理由』が、これまでの接触記録のある場所にある――そう考えれば、会える可能性は低くないはずである。  一言で言えば、「前歴を参考にするしかない」となるわけだが。  その『前歴』の中で行きやすいところといえば、六階である。言うまでもなく、入口か樹海磁軸から簡単に踏み込める階だからだ。少なくとも現時点の情報で『遭遇確率』に差がない選択肢なら、別の条件で楽なものを選ぶのは人間として自然であろう。 「確か……西側だった、な」  冒険者達は足を動かす。第三階層中盤で戦う身には、第二階層入口の魔物などは敵ではない。さすがに、例のカボチャの魔物は例外で、相手にしたくないから、注意深く衝突を避ける。  そうして、迷宮の西端を歩いていた時のことであった。  視界の先に、不思議な人影を見いだす。  正体を見極めるにはまだ遠い。輪郭だけで判る範囲では、少なくとも人間の姿をしていた。背に何か荷物のようなものを背負い、膝丈のやや膨れたズボンを穿いているようだ。冒険者の一人に見えなくもない。だが、現在地が、あるいは、という期待を抱かせる。 「おい、アンタ」  エルナクハは声を掛けた。人影は応じて、こちらに顔を向けたようだ。しかし、その後が予想と違った。人影は身をかがめると、次の瞬間には高く飛び上がり、姿を消してしまったのである。  ……『飛び上がった』?  人影が動きを見せたその瞬間に吹き付けた風に嬲られながら、冒険者達は、呆気にとられて上方を見た。梢は高く、人の手は届かない。いくらレンジャーでも、手か器具の届かないところには飛び上がれない。それを人影は、かがんで跳ねるだけでやってのけたのだ。人間業ではない。  ……いや、人間じゃない?  その予想は既に立てていた。エトリアのモリビトに相当する存在かもしれない、と。しかし、予想とは方向性が違った。  思い出したのは、以前の探索中に遭遇したこと。現在の探索班では、アベイとナジクとフィプトが経験した――。  まだ第二階層を突破していないある日、炎の魔人の不死性を聞き、『世界樹の芽』の関与を疑ったことがある。そして、第一階層の門番であった百獣の王キマイラにもその不死性が備わっているのかと予測を立て、確認に行った時のことだ。  運悪く、顔見知りの冒険者がキマイラに挑んで全滅しているところに出くわしてしまったわけだが、その件は今は関係ない。キマイラが臨戦態勢を保ち続けているのを、まだ冒険者に生き残りがいるためだと勘違いした『ウルスラグナ』が、その時に目の当たりにしたものは。  ティレン曰く、『とりにんげん?』。  その時は、確認する間もなく飛び上がって消えてしまったから、はっきりとした正体は掴めなかった。おまけに猛ったキマイラと戦わなくてはならなかったのである。ゆえに『ウルスラグナ』が調べられたのは、黒い羽と、人間のものとは思えない足跡。そして、冒険者達は、影が『二足歩行の魔物』だったのだろう、と結論づけていたのだが……。  その時に見たものが『鳥人間』だったとしたら、『世界樹の使い』も、そうかもしれない。荷物に見えたものが別の何か――翼だったとしたら、上方に姿を消すのも容易だろう。 「ティレンの言い分が大当たり、って感じかな」  アベイが幻でも見ている調子で声を洩らした。  もちろん、疑う余地なく、とは言えない。目の当たりにしたのはあくまでも輪郭、『飛び上がった』のも、目の錯覚ではないとは言い切れない。いずれにしても、供物を渡す必要がある以上、また『使い』を捜さなくてはならない。その時に、真実を目の当たりにすることができるだろう。 「さ、次の場所行くぜ次!」 「わちらが『世界樹の使い』を捜すのは一度だけじゃなかったんですかえ?」 「私塾に帰るまでが一探索です、だ」 「わー、ものすごく詭弁ですえー」  焔華は棒読みで気抜けを表したものだが、エルナクハの言い分を否定しているのかと言えば、そうではない。結局のところ、いち早く未知を体験できる機会を逃す気はないのである。  そして彼らは樹海を一度抜け、改めて第三階層の樹海磁軸から十階に入り直す。  幸いにも、つい先程も軽く思い出した炎の魔人は、蘇っていないようだった。残骸の残り具合を見ると、蘇ったが他のギルドに倒された、というわけでもないようだ。何にせよ余計な手間が掛からずに済んだ。  前歴のひとつ、十階北東。  正直、行きやすい場所ではない。六階からでも、第三階層から入ってきても、入り組んだ道は目的地点付近までの行程を塞ぐ。第一階層の方が格段に行きやすい。それでも敢えて十階に踏み込んだのは、六階での遭遇時に相手が『飛び上がった』からだった。だったら上の階に行ったのだろう、と考えるのは、果たして妥当か浅薄か。  完成している地図と磁軸計を頼りに道を進む『ウルスラグナ』だったが、程なくして奇妙なことに気が付いた。 「……この地図、変じゃありませんかえ?」  よくよく見ると、南東方面、やや南より付近の道が描きかけのままだ。行き止まりなのか、その先にある適度な空間まで続いているのか、はっきりとしない。どうして十階を主に探索している時に気が付かなかったのだろう。悪態を吐きたいが矛先が判らない。探索中に地図を書いているのは主にアベイだが、常に、ではないし、探索中のメモから羊皮紙に清書した者が書き忘れたという可能性も高い。そもそも、今さらどうしようもないことである。 「ま、いいか」  の一言で悪態を引っ込め、エルナクハは考えた。  地図の続きを描きに行くか、『世界樹の使い』を見つけるのを優先するか。  結論は程なくして出た。結局、地図は完成させなくてはならないのである。であれば、瑕疵に気が付いた今、仕上げてしまうのが一番楽。幸い、現在地から地図の空白までは遠くはないし、未確定区域いっぱいに迷宮が伸びていたとしても、さほど広くなさそうだ。  探索班全員が同意して、足を南東に向けた。  あいにく行き止まりではなく、未確定区域のほとんどを歩くことになったものの、あらかじめ思っていた通り、あまり広くはなかった。一時間程で地図を完成直前まで描き上げる。後ほんの少しを完成させれば、改めて『世界樹の使い』の探索に戻れる――つもりだったのだが。 「やっぱり『使い』を捜す方を優先すればよかった……かな」  今さらながらに後悔の念が沸いた。日はすっかりと沈んでしまい、迷宮内は、月明かりが若干差し込むとはいえ、闇に覆われていたのである。もちろん、自分達も最低限の光源を携えているが、この暗さでは、『世界樹の使い』に出会えても、どのような姿をしているか、あまり判らないかもしれない。  が、後悔先に立たず。とりあえずは、あとほんの少しだけの地図を完成させることに意識を向けた。  もしも、最後の最後で上り階段でも見つかったら、興味は湧くが厄介だ、という思いを抱きつつ探索していくと、行き止まりに突き当たった。終わりが見えてほっとしたと同時に、少しばかり残念な気持ちにもなる。  ともかく地図は仕上がった。さて戻ろうと思ったその時、冒険者達は行き止まりにあったものに興味を引きつけられた。  樹木である。樹海迷宮であるからには、そんなものは珍しくない。人間の目線の高さあたりで二股に分かれていたとしてもだ。ただ、その股の間には、種種様々な虫が集っていた。人間達が近付くと、虫達はぱっと散っていき、後には、ほんのりと光る液体が湛えられている。 「何ですか、これは?」  フィプトが興味を示したのは当然だったかもしれない。液体の正体に見当が付いた、冒険者歴の長い者達にしても、その現象は不思議なものだった。  液体は、いわゆる『猿酒』といわしむものの類であろう。樹の虚や窪みに木の実や露が溜まり、自然発酵したものである。ただ、光るというのが判らない。 「……飲んでも毒ってわけじゃなさそうだけどな」  興味が湧いたのか、アベイが簡単な毒性検査をして断じた。 「アルコール度数もそんなに高くないみたいだし、ちょっと飲むくらいなら問題ないと思うんだけど……」  だが光っている。検査で無問題と判明しても、躊躇する気持ちが起こる。反面、飲んだらどんな味がするのかという好奇心も湧き上がり、心の中でせめぎ合う。  結局、好奇心が勝った。エルナクハは手酌で液体をすくい取り、それを口に運んだ。  彼が瞠目するのを仲間達は目の当たりにした。 「うめぇな、コレ。意外と普通の味だ」  『美味い』と『普通』という感想は矛盾しているようだが、前者は『味がするもの』としての、後者は『口に入れて大丈夫だったか不安だったもの』に対してのものだろう。なんだかギルドマスターを毒味役にしてしまった気分だが、仲間達は安堵して、猿酒のような液体に手を出した。  どれほど魔物の心配がなくなった樹海だとしても、冒険者であるからには、水分や塩分の備えは万全にしてある。精神的に疲労した時に備えた甘味も持参済みだ。だから、疲労回復という一点から考えれば、いくらアベイが検査してくれるからといっても、怪しいものに手を出す必要もないし、そうしない方がいい。だが、最低限の注意を払うは当然としても、なにもかもに怯えて手出しせずに縮こまっていて、何が冒険者か。仮に、この光る猿酒で、アベイの検査で見つからなかった痛手を被ったとしても、いつかまた果物やらなにやらを見つけた時、彼らの心の中には、『最初から避ける』という選択肢は現れないだろう。  ともかくも『ウルスラグナ』一行は、ほのかに甘いその液体を堪能した。 強くはないといっても酒は酒、飲み過ぎれば泥酔し、心身が思うように動かないという意味で死を招く。だが、手酌で一、二杯程度なら程よい景気づけになるだろう。  こうして、猿酒の恩恵で元気を取り戻した『ウルスラグナ』は、改めて、『世界樹の使い』との接触を目指す。  樹海の真紅は闇に沈んで影と化し、冒険者達が携える光源の中でのみ、本来の色を取り戻す。地図の瑕疵に気付いた地点に戻るまでで三十分、そこから『使い』が現れそうな地点を目指しても、もういないかもしれない。仮に『鳥人間』なら『鳥目』で、夜はどこぞのねぐらに帰ってしまうのではないか、と思った者もいただろう。そう考えてさえ、探索を取りやめることを、ちらりとも考えなかったのは、強い好奇心の他に、猿酒のアルコールで軽い高揚状態にあったからかもしれなかった。 「おーい、出てこいよー『世界樹の使い』よぉ!」 「貢ぎ物があるんだ、あるんだよー」 「早く出てこい『世界樹の使い』、出なきゃ頭をちょんぎりますえー」  ……高揚しすぎな気もする。自制の賜物か黙したままでいるナジクを除いて、冒険者達はわいのわいのと騒ぎながら樹海を進んだ。少し箍(たが)が外れているのではあるまいか、と、フィプトなどは、帰宅後、酔いが完全に抜けてから、後悔することになったのだが、それはまた別の話である。  異変は、樹海北東付近に踏み込んでから、程なくして起きた。  森の中を進む『ウルスラグナ』一行の耳元で、不意に風がざわめいた。その程度の風は樹海の中でも吹くことがあるので、最初はさほど気にしていなかったのだが、程なくして一陣の風が辺りを震わせる。地面に落ちていた赤い木の葉が巻き上がり、冒険者達を打った。  思わず目を閉ざし、小規模の嵐と言ってもいい事象から身を守る。  やがて、風が静かに止んだことを肌で感じ、冒険者達はそっと目を開けた。  そして、あるものを目にして絶句することになる。  灯火の弱い光の中、その不思議な姿は見て取れた。六階で見かけたものと同じように、背には荷物、穿いているのは膝丈の膨れたズボン――否、違う。背にあるのは漆黒の猛禽の翼、ズボンに見えたものは、黒い毛に覆われた皮膚だ。わずかな装身具以外は何も身につけていない、その肉体は、男性のもの。素裸ということになるのだが、幸い、要所を覆う黒い体毛のおかげで卑猥には見えない  膝から下は、見た限りでは一本の毛すら生えていなかった。というより、人間の下肢ではなかった。肉が付いているような太さはなく、鱗のような凹凸を纏っている。足の甲は人間のそれよりも深く三つに分かれ、それぞれの先には大きく鋭い爪が光っている。踵側にも同じような形の指が一本。  よくよく見れば、腕も、指が五本で人間と同じよう――ただし細長く爪が鋭い――だということを除いて、下肢と同じようであった。  鳥人間。ティレンの観察眼は伊達ではなかったのだ。 「本物……かよ……」  あっけに取られる冒険者達の前で、人影は身じろぎもせず佇み、ただ静かに眼差しをこちらに向けている。やがて、少し首をかしげ、何事か小さく呟くと、語りかけてくる。声調からすると、まだ若いようである。寿命の縮尺が人間と同様かは判らないが。 「……見ない顔だが、土の民か。下階でも見かけたな。何故に私を追う?」  表情と語り口からは、敵対の意志がないことが、ありありと判る。同時に、こちらとの遭遇を疎ましく思っているらしいことも。『取引』は両者同意の上じゃなかったのか、とも思ったが、とりあえず依頼を果たさなくてはなるまい。エルナクハは、見た目よりも遙かに軽い青い鉱石を、ザックから取り出して、鳥人間に差し出した。相手はさらに訝しげな表情をする。 「何故私に風石を差し出す?」 「なんでって……アンタとオレらで、コイツと香木を交換してきただろ。オレらはいつものヤツの代理だ。驚かせたら悪かったな」 「『取引』……?」  にわかに、翼持つ男は顔を曇らせた。表情に人間と同じ意味合いがあるかどうかは判らないが、何か不都合があるようだ。一体どうしたのか――冒険者達には判断する術もない。思い切って訊いてみようと思ったその時、翼持つ男は、「そうか」とつぶやき、冒険者達に向き直った。 「……差し出されたからには、相応の対価を渡そう」 「お、おう」  物言いに若干の不穏さを感じつつも、エルナクハは男の促しに応じて、風石を投げ渡した。彼我の距離は手渡しできるほどに狭くはなかったのだが、現在以上に近付けば『取引』がご破算になってしまう、なぜかそんな気がしたのだった。  風石を確認した翼持つ男は、腰のあたりを探ると――こちらからはよく見えないが、巾着か何かを装着しているのだろう――、その中から取り出した物を、ゆっくりとした動作で投げてよこした。  受け取ったエルナクハは、それが、ところどころ表皮が破がされた曲がった木の枝で、『呪術院』で見たものと同じ匂いを放っていることを確認した。これを持ち帰れば、依頼は達成したことになる。  それ以上のことを行う必要はないのだが、ふと、フィプトが翼持つ男に声を掛けた。初めて見る樹海の『先住民』に興味が湧いたのだ。 「あなた方は――」  と言いかけて、しかし、こういう『未知』に食いつかないはずがない仲間達が黙ったままであることに気が付いたのだろう。フィプトは一旦口を閉ざした。ただ、相手の、続く言葉を待っている様子を見ると、言葉を中途で切るのは失礼だと思い直して、本来口にしたかったこととは別の言葉を紡ぎ出した。 「あの、以前からの取引相手――小生達の雇い主ですが、最近、あなた方に会えずに困っておりました。また、このあたりに参れば、お会いできますかね?」  その問いを訊いた翼の男は、眉根をひそめた。短く息を吐くと、言葉を続ける。まるで諭すように。 「覚えておけ土の民よ。我らとお前たちは、異なる種だ。本来交わらぬ道を歩んでいる」  望んでいた返答を得られずに困惑するフィプトに、駄目押しのように強く言葉が投げかけられた。 「――故に、古き土の民に伝えよ。これからは私を求むるな、と」 「待っ――」  こらえきれず手を伸ばしかけたフィプトと、それを「落ち着けセンセイ!」と止めようとするエルナクハ、そして、男が翼を広げて空気を強く打ったのは、ほぼ同時の出来事であった。  翼が巻き起こした一陣の風が、木の葉や砂を巻き上げ、冒険者達を打ち据える。痛痒を感じるものではないが、思わず目を閉ざしたその一瞬に、男は姿を掻き消していた。  ともかく依頼は果たしたのである。一行は酒場に行って、香木と引き替えに報酬をもらう。  親父は『世界樹の使い』が何者だったかを聞きたがったが、「意外と人間だった」と答えるに留めた。『翼を持つ人』のことを軽々しく語っていいものか、悩んだ末のことである。  そう、自分達は、彼について何も知らない。  樹海の先住民だろう、とは思うのだが、それも推測の域を出ない。問う言葉はにべもなく拒絶された。大公宮に保存されている記録に、彼らのことが書かれているかは、まだ不明だ。  エトリアのモリビトと同様に、先住民だったとしよう。だとしたら、今度は、『侵入者』に対する立ち位置がよく判らない。第二階層(おそらく第一階層も)を活動領域にしていながら、人間達を侵入者として敵視するわけでもない。  もっとも、モリビトも、人間が第三階層に踏み込むまでは何も言ってこなかった。翼持つ者達も、人間がもっと先へ踏み込んだら、あからさまに敵対的な態度を取るのだろうか。  それにしても、何故、今になって交流を拒む? 『呪術院』と昔から取り引きを行ってきたのだから、人間という種自体に敵意を持っているわけではないと思われるのだが。やはり、大勢の冒険者達が樹海に踏み込むようになって、事情が変わった、ということなのだろうか。  翼持つ者の言葉は、書にしたためて厳重な封を施し、香木と共に酒場の親父に託したが、『呪術院』の長は事情を知ってどう思うだろう。 「そういうこともひっくるめてぇ、いろいろ聞きたかったんですよぉ」  酒場で卓を囲んで雑談する中、仲間達に先んじて酒を口にしたフィプトの言葉遣いは、マルメリのように間延びしている。どうも深酔いしたようだ。酒量自体はまだ大したことはないし、フィプトも酒に弱いわけではないのだが。異なる酒を一緒に飲むと酔いやすい、というのは迷信と聞くものの、ひょっとしたら、『猿酒』の光る成分が酒場の酒の成分の何かと反応して酔いやすくなった、のかもしれない。 「なのに、義兄(あに)さんてば、止めるものですからぁ」  オレのせいにすんなよ、とエルナクハは内心で毒づいたが、それほど深刻にむかついたわけではない。  そもそも、自分は何故フィプトを止めたのか、自分でも判らない。アルケミストの青年が問い質そうとしたことは、おそらく自分も問い質したかったことだ。どちらが何を聞いたとしても、翼持つ者に返答を拒絶されただろうが、当時はそんなことを斟酌するような考えは浮かばなかったはず。だというのに、何故だ。  そんな考えは、フィプトの続く言葉を耳にしたときに、心の奥底に引っ込んだ。 「義兄さんは、ずるいですぅ」 「……ずるい?」  何がずるいのか、という疑問込みで返したものの、具体的な事例が錬金術師から出てくることはなかった。  状況から考えれば、彼含めた後発組を除く『ウルスラグナ』がエトリアで樹海の先住民に遭遇したことを言っているのだろう、と推測できる。ただ、『ウルスラグナ』とて、モリビトにはほとんど関わっていないのだ。彼らに対する驚異も、歓喜も、苦悩も、痛憤も、ライバルギルドが抱え込んでしまったために。 「ずるい、ずるい」と、呪術師の詠唱のようにつぶやき続けるフィプトの様に苦笑しつつ、エルナクハは酒をあおろうとして、やめた。自分だって『猿酒』を飲んだ。ここでフィプト並みに酔ってしまったら帰宅に一苦労だ。  仲間達も同じように思ったのか、他に酒を口にする者はいなかった。  代わりにリンゴジュースを飲みながら、フィプトの愚痴を拝聴する。 「小生だって、ずっと昔から、焦がれていたんですぅ。なのに義兄さんは、後から来て、取ってっちゃう。いや、そりゃ、小生が弱虫だったから、って、おっしゃるでしょうよぉ。でもね、仕方ないじゃないですかぁ。誰も彼もが、勇気ある一歩を簡単に踏み出せるわけじゃないんですからぁ……」  言葉が途切れ、錬金術師は無様に卓に倒れ込んだ。「あ、潰れた」とアベイが声を洩らす。  フィプトの言い分には苦笑するしかない。  冒険者に彼の主張は通じない。いくら、昔から世界樹を仰いで、その謎に思いを馳せていたとしても、樹海に躊躇なく踏み込む冒険者達に勝てるはずがない。「ぐちぐち言う前に動け」なのである。  ただ、フィプトは、そうではなかったはずだ。真実を知るためには、率先して動かなくてはならないことを察し、冒険者に加わったはずだ。それを考えると彼の愚痴は何かがおかしい。酔っていて、いろいろな思考が渦巻き混ざってるだけなのだろうが。  しかし、せっかく異種という驚異に見えたというのに、それ以上の情報を聞き出せなかっただけで、これだ。もし、聞いたところで返答を拒絶されていたら、もっと荒れていただろうな、と思い、エルナクハは再び苦笑いをした。  そして、自分があの時、何故フィプトを止めようとしたのか、なんとなく判った。  エトリアのライバルギルド『エリクシール』。彼らは異種に関わり、打ちのめされ、そのショックで探索すら滞り、解散してしまった。だから、フィプトが翼人に拒絶され、『エリクシール』のように憔悴するのを、見たくなかったのかもしれない、と。  冷静に考えれば、状況の先延ばしにしかならないのかもしれなかったが。  時は過ぎ、天牛ノ月も一日を残すところとなっていた。  その日の昼も十三階の探索を根気よく続けていた『ウルスラグナ』は、ようやく、上階へ繋がる階段を見つけ出す。  思わず安堵の息が漏れた。十三階では、戦闘中を見越して乱入してくる蟹の魔物『水辺の処刑者』に苦労させられたのだ。正直、もう少し力を付けるまでは、またこの階を方々まで歩き回れと言われてもごめん被る。蟹の出現場所が限られているのがせめてもの救いだが。  とはいえ、その蟹と、『災いの巨神』と呼ばれる象の魔物を除けば、大概の危機には対処できる。上階に昇っても大丈夫だろう。  意を決して、五人の冒険者は階段に足をかけた。  段を踏みつつ、益体もない雑談に花が咲く(いつものことだが)。そんな中、ふと、アベイがこんな話を切り出した。 「フィー兄、あの鉱石の研究は、どうなってるんだろうな」 「そうですね……」  昨日の悪酔いは日を跨いですっかりと消え去り、今日も元気に探索に参加しているフィプトが、思案顔で返す。  顔見知りのアルケミスト達が研究を続けているが、今のところ、報告はない。ある程度の結果が出てから纏めて報告してほしい、と通達していたので、全然挙がってこないこと自体は気にしていなかったのだが。  危険な運用実験は、『共和国』のアルケミスト・ギルドで済ませてある。現在行っているのは、主に冒険者達が戦う際に鉱石を運用する時の適量や安全設計の検証なのだが、これがなかなか至難らしい。少しでも間違えれば、敵もろとも冒険者達をも吹き飛ばしかねないのだ。味方を巻き込む危険自体は、一般の術式でもあるとはいえ、(聞いた話では)威力の桁が違う。 「まあ、まだもう少し掛かりそうですね」  と肩をすくめてフィプトはまとめた。  続いて話題に上ったのは、街で訊いた話だった。  ひとつは、大公宮での話。樹海内の情報の報告に参内した際に、大臣から耳に入れられた話である。 「『エスバット』の者たちのこともある、ひとつ、忠告しておこう」  それは、ハイ・ラガードに伝わる伝承、フィプトやアーテリンデが口にした、『天の城に住む神が地上の魂を集めている』というもの同じではあったが、付随する情報が違った。  ここのところ、先んじていたギルドがいくつも行方知れずになっているという話は、前々からあったのだが――。 「現実的には魔物に殺された……だけじゃろうが、中には、天空の城へ連れ去られた、と噂する者もある」  その時に頭に浮かんだのは、当然と言うべきか、かの翼持つもののことだった。天の城に住む者の眷属としては、空を自由に駆けめぐる種は、おあつらえ向きだろう。あの男が、冒険者を天の城に連れさらったりするのだろうか。だが変だ。『呪術院』の使者は何度も彼に出会っているのに、連れ去られずに戻ってきている。使者は冒険者ではないからかもしれない。天の城の支配者が、その伝承の大元である(と思われる)太古の戦神(オーディン)と同じ属性を持っているとしたら、それが求めるのは勇者、すなわち強い者であるはずだから。であれば、最近になってやっと噂が表面化したのも頷ける。天の神様とやらは、第三階層で戦えるくらいの者でなければ勇者と認めてくれないわけだ。  さて、そこでひとつの違和感が浮き上がる。翼持つものの置き台詞だ。彼が天の支配者の眷属だとしたら、言うべき言葉は「これからは私を求むるな」ではなく「第三階層まで私を追ってこい」とかいうあたりの、さらなる鍛錬を強いるものになってしかるべきだろう。「古き土の民に伝えよ」という枕詞が付いていたから、戦闘向きでない使者を呼び寄せたくないということかもしれない。が、代理である自分達は見るからに戦人なのだ。強者を求めるならお誘いがあってもいいではないだろうか。あったところで容易に乗る気はないが。  もっとも、あの翼持つものと天空の城を結び付けるのは尚早である。  というところで、思考が繋がらなくなってしまった。大臣の忠告はありがたく頂くことにして、結論を一旦棚上げした一行は大公宮を辞したのであった。  いまひとつは、冒険者ギルドで耳にした、ギルド長の忠告。 「といっても、私のカンなのだが」  相変わらず全身を鎧で固めたギルド長が、前置きして言うには。 「『エスバット』の時折の言動に不審な点がある。樹海の中で彼らに出会ったなら、警戒したほうがよいかもしれんぞ」  なにしろ『勘』である、『不審』を具体的に指摘することはできないようだった。それでも、短期間ながらも樹海探索経験を持ち、なにより数多の冒険者と毎日顔を合わせているギルド長の話を、冒険者達は笑い飛ばせなかった。  やがて、階段の出口が見えてくる。冒険者達は、向こう側に見える雪原に、少々うんざりしながら、新たな階に足を踏み入れた。  フィプトが第三階層に足を踏み入れたときの気持ちが判る気がするようになっていた。雪上での探索・戦闘行動には慣れてきていたが、長く続くと精神的に辛い。雪に対する心躍りは失せ、その大変さだけがのしかかってくる。 「……ああ、でも、ひとつだけ、ありがたいこともありますね」 と、暗鬱さを吹き飛ばそうとしてか、フィプトが冗談めかして言ったものだ。「今年、ハイ・ラガードに大雪が降っても、『今年もまたこの憂鬱が来たか』と思わずに済みそうです。憂鬱は既にここにあるんですからね!」  降ってくる方がさほどではないのが、救いである。  この階層を突破したら、依頼を請けて何かを取りに来るときは仕方がないとしても、あとは、夏の猛暑で冬の寒さが恋しくなったときぐらいにしか、足を踏み入れまい。冒険者達はそう思った。今は、『突破したら』ではなく、突破する前に朽ちる方を心配しなくてはならない身なのだが。多くの冒険者が斃れた樹海――気を緩めたら、無事で済むはずがない。  だから。  この階に上ってきてから最初に見つけた扉を潜ったとき、不意に強い殺気を感じ取った『ウルスラグナ』は、ついに『それ』が来たのか、と覚悟した。  単純に補食か侵入者排除の意を持つ魔物達のそれとは違う、生命を奪うも厭わぬ、という明確な意志。  大臣からの忠告にもあった、『天の支配者の僕』かもしれない存在か。  あるいは……。  ゆっくりと殺気の方向に視線を向け、『ウルスラグナ』は息を呑んだ。  やはり、生きていたのか。  『ウルスラグナ』は、数メートルほど前方に佇む老人の姿を認め、腹をくくった。  ガンナー達が愛用する、厚手のコートと、耳あて付きの円筒形の帽子は、雪原の迷宮においても体温を逃がさずにいるようであった。着用者は、どれほどの時間この樹海にいるのかは判らないが、寒気に辟易する様子を一切見せていない。まばゆい黄金の銃と三眼の黒き銃を持つ腕を交差させ、以前一度だけ会った時同様に、殺意をふんだんに混ぜ込んだ威圧を放っている。  ギルド『エスバット』のガンナー、魔弾の銃士・ライシュッツ。  まさか以前のような態度で立ち塞がられるとは。初遭遇の時の殺意は、あくまでも大公宮からの依頼で他の冒険者を足止めするためのもの(やり過ぎ)だったはずだ。  では、またも大公宮からの依頼による足止めか? 可能性は否定できない。だが、だとしたらいい加減にしてほしいと思う。何か先に進むに不都合があるのなら、街で布令でも出しておいてほしいし、樹海内で止めなければならない事情があるなら、せめてこの老人には任せないでほしい。  ……という、若干現実逃避を含んだ思考を刹那に行った後、『ウルスラグナ』一同は気を引き締め、いつでも戦闘に入っても問題ない体勢を取った。正確に言うなら、ナジクのみ、思考などせずに、既に矢をつがえている。そんな『ウルスラグナ』の態度を前に、強い殺気を放ったまま様子を伺っていた銃士は、十ほど数えた時間の過ぎた後に、ようやく口を開いた。 「久しぶりだな、『ウルスラグナ』の者たちよ」 「久しぶりはお互いサマだぜ、じいさん。アーテリンデには、ついこないだ会ったケドよ」 「うむ、ヌシらは、お嬢様に会った。――にもかかわらず、こんなところまで来おったのだな」  ライシュッツの言葉からは抑えきれない怒りが滲み出ている。個人的な怒りではなく、『お嬢様』の言うことを聞かない無礼者に対する従者のそれ、という方がふさわしく感じる。事実、この老人は、あの呪医の娘に何らかの形で仕えているのだろうが――。 「お嬢様……アーテリンデ様から、警告は伝えられているはずだ。樹海の奥に進むな! と……」  確かに、言われた。迷宮の奥には、人の魂を集める天の支配者あるいはその眷属、人の力及ばぬ恐ろしいモノがいるという。その存在に対してアーテリンデは怯えの色を見せていた。だが、彼女と共にソレに会ったはずの、この老人はどうだ。少なくとも目に見えては怯えてはいない。畏怖を心の裡に収めきっているのだとしたら、たいしたものだ。  逆に言えば、アーテリンデの怖れているモノは、決して人間が及ばないモノではない。少なくとも心の芯を砕ききるモノではない。エルナクハはそう判断した。もちろん、推論を元にして油断をするのは言語道断だ。が、鍛錬を続け、目の前の老人ほどの手練れになれば、そのモノと戦になっても、勝機を見失いはしないだろう。  では、結局のところアーテリンデは何にあれほどまでに怯え、ライシュッツは心身頑健に立ち続けていられるのか。若い娘と経験豊富な老人の差かもしれない。だが、それ以外の事情があるような気がした。  エルナクハは挑発してみることにした。  左腰に佩く剣に手を伸ばす。その様は盾に阻まれ、ライシュッツから見えない動作だが、柄を握っていつでも抜き放てるようにしたことは見当が付くだろう。だが、ライシュッツが判るはずもない動作がひとつだけ付随していた。柄頭(ポメル)を人差し指の先で三度、仲間達には見えるように叩いたのだ。それは、万が一に備えて決めておいた、「明らかな生命の危険が迫るまでは口も手も出すな」という合図。ナジクが顔を歪める代わりに、弓柄をより強く握ったのを察し、エルナクハは内心で苦笑いをした。  そうして仲間達の行動を抑制してから、聖騎士は銃士に向き直る。皮肉げに口端を歪め、嘲笑の言葉を発した。この黒肌の聖騎士にはそういった動作がよく似合う。 「そのお嬢様は随分とビビってたぜ? アンタらのやるべきこたぁ、いちいち他冒険者(たにん)に警告して回ることじゃねぇだろ。勝ち目のない敵に尻尾を巻いて樹海から逃げ出すことじゃねぇのか?」  ぎり、とライシュッツが歯ぎしりする音が響いたような気がした。やはり――あまり気が進むことではないが――ライシュッツ当人よりアーテリンデを皮肉に絡ませる方が挑発しやすい。 「相手がなんだか判らねぇがよ、前に言われた言葉もう一回返すぜ。……ソイツをぶっ倒すのはオレらに任せて、大人しく引退でもすればどうだ?」  その途端、恐ろしい程の殺気が銃士から吹き出した。雪の迷宮の中に巣くう邪竜が本気で自分達を殺しに来るなら、このくらいの殺気を放つだろう。手出し無用の禁を受け入れたにもかかわらず、ナジクがつがえた矢を銃士に放ちそうになった程だった。他の仲間達も自制はしていたが、いずれは耐えきれずに武器に手をかけたかもしれない。  人の形をした殺気が、二丁の銃を冒険者達に向ける。このまま、戦いになだれ込むのか。  だが、そうなることはなかった。ライシュッツがぴたりと殺気を収めたからである。どうしたのか、と訝しむ冒険者達を前に、銃士の老人は、銃口を下ろし、思いの外に落ち着いた声を上げた。 「……ヌシらの本音がどうかは知らぬ。だが、このまま進まれては我らが困るのだ」  その理由を知りたくて挑発したのだが、あいにく、その策(て)には乗らない、ということだろうか。残念に思いつつも表情には出さず、エルナクハは老人に目を向ける。  何かを言おうとしたのだが、口を封じられた。  ライシュッツが冒険者達に向ける視線は強く、けして揺るがない信念に満ちている。だが同時に、瞳の中に混ざるものは何なのだろう。例えるならば、固い決意の下に決行した長い旅の途中、星を仰ぎ見る時のものに、それは似ていた。けれど――指し示す感情が、安堵なのか、憧憬なのか、嫉妬なのか、あるいは別の何かなのか、そこまでは判断ができない。ただわかるのは、視線も、その中に混ざるものも、冒険者達の魂をえぐるようだったということだけだった。 「ここで大人しく引き下がればよし……だが、警告を無視して、このまま迷宮の先に進んだときは……」  ライシュッツは意外にもあっさりと踵を返した。呼び止めることもできたはずだが、その背中は投げかけられる言葉を頑健に拒否していた。口を開くこともできずに、退去を見送る冒険者達に、魔弾の銃士は静かに告げる。 「十五階……氷と雪の広間がヌシらの墓場となる。それだけは覚えておけ!」  強い口調でそう言い放った老人は、そのまま足早に立ち去っていった。  しばらくは、銃士が放っていた何かに呪縛されたかのように、『ウルスラグナ』一同は立ちすくんでいた。ようやく動けるようになった――というより動かざるを得なくなったのは、身体に寒さがじんわりと染み通ってきたからである。  吐息には、身体の中で暖められた暖気の他に、何か凝(こご)ったようなものが混ざっている気がした。  本当はもう少し探索を続ける気だったのだが、ライシュッツの出現で、そのような気分ではなくなってしまった。冒険者達は顔を見合わせ、アリアドネの糸を取り出して帰路に就くことにしたのだった。  その日の夜組は、素材採集のために、ゼグタントも含めたパーティを組んで第三階層に赴く予定だった。しかし、戻ってきたエルナクハに告げられたことは、 「悪ぃケド、素材が集まったら、鍛錬とか抜きですぐ戻ってこい」  何かしらで夜の探索が中止になることは稀にあることだが、今回のエルナクハや昼組の表情に、皆はただならぬものを感じた。  なんであれ、ギルドマスターの要請に背くつもりはない。夕方から樹海に出た冒険者達は、素材の採集を済ませ、結局、午後十時を回った頃に戻ってきた。  小休止を取り、小一時間程経った頃、応接室への招集が掛かる。  普段、全員が集まるときには、食堂が使われることが多い。応接室は全員が入るには少々狭いからである。まして、総勢十二人。本来は『ウルスラグナ』ではないゼグタント、さらには『冒険者』ではないドゥアトも加わるとなれば。  さすがにハディードまでを呼んだわけではなかったのだが、なぜだろう、外から吠え声を聞いて窓から確認すると、すっかり大きくなった獣の子は、窓の下にちょこんと座って応接室を見上げていた。 「ハディード、おまえはねる」  とティレンが命じたものの、一行に退去する様子はない。自分も『ウルスラグナ』の一員でいるつもりなのだろうか。結局、一同は諦めた。いたところで問題があるわけでもなし、眠くなれば勝手に犬小屋に戻るだろうと思ったのだった。  ところで、そんなハディードが何かをくわえていたのだが、確認できるほどの距離ではなかったので、その時点では、木の枝か何かだろうという結論で片付いた。  低い角卓を囲むソファは、十人までならなんとか座れるのだが、現在は人数超過、立ちっぱなしの者が出るのは避けられない。まずは寄ってたかってセンノルレを座らせた後、誰も何も言わないうちに、ナジクが無言で部屋の隅に身体を預けた。続いて、エルナクハが「説明するヤツが立ってた方が、らしいだろ」という名目で席を立った。  そして、時計が午後十一時を指した頃、『ウルスラグナ』の今後を決める話し合いが始まった。  さすがに全員、樹海での装備を脱ぎ、平服でいるのだが、まるで完全装備をして樹海に佇んでいるような緊張感。部屋の奥側に立つ聖騎士に、ほとんどの者は真摯な眼差しを向け、座る位置の関係で聖騎士の方を向けない者も、その表情(かんばせ)に真剣な色を浮かべている。  黒肌の聖騎士は、口を開く前に、側頭部に右手をやり、褪せた赤毛を掻きむしった。 「――ライシュッツが、やっぱり生きてやがった」  どう切り出せばいいか悩んだ挙げ句に、直球を投げた。  一同は、応接室の真ん中に、火術の起動符と氷術の起動符を同時に投げ込まれたように感じた。  生きているというだけなら、喜んでもよかった。初対面の印象が悪かったとはいえ、樹海探索に携わる同士なのだ。ライバルだとしても、その死を喜び、生存の知らせに舌打つような、下衆の思考は持っていないつもりだ。だが、エルナクハを初めとした、昼の探索班の態度が、不都合があったことを雄弁に示している。 「……生きていた、ということは、アーテリンデという人の話にあったという『人の力が及ばぬ恐ろしいモノ』に倒された、というわけではなかったのですね」  というセンノルレの言葉は、事態から容易に導き出される現実を述べただけである。とはいえ、彼女とて、事がそれだけで済むものではないと判っている。生きていただけで『ウルスラグナ』全員が招集されるような事態になるはずがないのだ。  ギルドマスターの次の言葉を緊張して待つ一同。しかし、ここで話の屋台骨に一撃が加えられた。 「……あのね、話が見えないから、最初から説明してくれるとありがたいなーって思うのよ」  ドゥアトである。  彼女は、『ウルスラグナ』がアーテリンデからの警告を受けた後で、私塾に来た。だから、雑談として、ライバルギルド『エスバット』という者達の存在とその受難を聞いていても、それ以上のことをよく知っているわけではなかった。疑問も当然だろう。  そもそも冒険者というわけでもないドゥアトが、何故、この対策会議に加わっているのかといえば、エルナクハが呼んだからであった。それなりの理由があるからなのだが、その話は後に回すことにする。  ともかく、エルナクハは要望に応えた。状況を纏めるためにも、これまでのことを振り返るのは、無駄ではないだろう――というのはセンノルレの受け売りである。  思い起こせば、ほんの一月ほど前なのだ。『エスバット』と初めてまみえたのは。  小動物のように闊達なドクトルマグスの少女と、彼女の従者のように振る舞うガンナーの老人、二人だけのギルド。彼らは、執政院の依頼を請け、第二階層の中途を塞いでいた。ガンナーに対する第一印象は最悪だったが、彼の態度も、迷宮の果てにいる魔人に対抗できないような者を通さないため――という説明をされ、いささかやり過ぎを感じつつも、納得した。  そんな彼らの様子がおかしくなったのは、『ウルスラグナ』が把握している限りでは、つい十日程前のことだ。『エスバット』のドクトルマグス・アーテリンデが、『ウルスラグナ』の前に現れ、警告を発したのだった。彼女は、第二階層で出会ったときの闊達な様子が嘘のように憔悴した顔で、「探索を諦めろ」と告げてきた。迷宮の先には、人智の及ばぬ恐ろしいモノがいるから、と……。  その際にライシュッツがいなかったから、ひょっとしたら銃士は『恐ろしいモノ』の犠牲になったのかもしれない、という可能性を『ウルスラグナ』は考えた。それはあくまでも可能性だったから、今日この日、ライシュッツの無事を確認できても、意外には感じなかったのだが――。 「生きていたのは、いい。よかったな、って感じだ。ケドな」  エルナクハは苦虫を噛み潰したような様相で話を続けた。 「みんなのその顔じゃ、だいたい感付いてると思うがよ、あのじいさん、初めて会った時みたいに邪魔してきやがったぜ」  エルナクハ及び探索班の、昼間の状況説明が終わると、応接室内は重苦しい空気に支配された。  ライシュッツの警告は、初対面の頃から、過剰とも取れる脅しによって成り立っていた。ナジクが反撃のために躊躇なく弓を取った程に。焔華が、ただの脅しと知った後も、彼ら『エスバット』との戦いを想定した思考を抱き続けた程に。  だが、それは、あくまでも脅しであった。  ならば、今回はどうだ。 「最後通告――宣戦布告かな」  アベイが怖気をこらえながら、そう口にした。  あの強硬な態度、あの殺気は、決して冗談ではない。『ウルスラグナ』が探索を諦めることを狙った脅しではあるだろうが、それが聞き入れられなかった時の対応もまた、本気だろう。  ――氷と雪の広間がヌシらの墓場となる。  『ウルスラグナ』が探索を続ければ、いつか必ず、『エスバット』は立ち塞がる。その時は、双方、死力を尽くした争いになる。当然ながら、勝者も敗者も等しく傷付くだろう。よもすれば、死人すら出ているかもしれない。彼らを相手に手加減できるとは思えなかった。  天空の城への道を塞ぐ、強大な障害。自分達は彼らにどう対処するべきか。 「……でも、なんか変よねぇ」  こんな状況なのに、やけにのんびりした、マルメリの口調が、一同の緊張を弛緩させた。マルメリの名誉のために補足するなら、この吟遊詩人の娘も、決して事態を甘く見ているわけではない。口調がどうしても真面目な話向きではないのだ。「せめて、真面目な歌に仕立てて、弾き語りで語ってくれた方がマシだ」とは、多くの者が思うことである。だが、非常事態に投じる一石に注目させるには、ある意味で非常に効果的だったかもしれない。 「何が変なんですえ?」  それはマルメリ除く全員の偽らざる内心だったが、口にしたのは焔華である。マルメリは小首を傾げながら、問いに答えた。 「何が、って言われてもねぇ……」  おいおいそりゃないだろ、と、全員が心の中で突っ込んだ。何かが変だと指摘したのは、マルメリ本人ではないか。とはいえマルメリも突っ込みには勘付いていたようで、せめて言葉にはしようと思っているのだろう、うんうんとうなりながら頭を抱えていた。その様を見ているうちに、他の者達も、何だかマルメリの言い分が判るような気がしてきた。明確な言語化はできない。けれど、もやもやしたものを感じるのだ。  やがて、マルメリは、ぽんと手を叩くと、これだ、と誇らしげに告げる。 「英雄譚向きじゃない!」  訳わからない、と、他全員が再び突っ込んだ。  しかし、言われてみれば確かに、マルメリの指摘もあながち間違いではない。仮に――気恥ずかしいことだが、『ウルスラグナ』中心の英雄譚を作ったとしよう。英雄譚の中の『ウルスラグナ』は、並み居る敵をばたばたなぎ倒し、時には困難に陥りながらも、聴き手の胸のすくような冒険を続けるだろう。しかし、その破竹が、『エスバット』との戦いに及んだところで、ぴたりと止まる。痛快活劇を貫くはずだった英雄譚に、何か別のものがもやもやと翳(かげ)る。  英雄譚では、敵や障害がなぜ『悪』としてそこにあるのか、あまり問題にされない。もちろん、敵の事情にも焦点を当てる英雄譚もなくはないが、それは『叙事詩』という大分類に含まれるべきではないか。  翻って、『エスバット』との戦いを英雄譚の障害として見てみる。『冒険の邪魔をする悪しき冒険者を成敗する』? そう単純に落とし込めるなら、英雄譚にはなるだろう。が、英雄譚の元となる『現実』に直面している身としては、そこに違和感を感じる。  そうだ、やっと判った。『エスバット』の真意が掴めないのだ。  ライシュッツは「ヌシらの本音がどうかは知らぬ」と言い放ったが、それはこちらの台詞だ。  老銃士の表面的な態度だけ取り出すなら、単純に『冒険の邪魔をする相手』と落とし込めなくもない。が、その場合、アーテリンデの態度にどう説明づければいいのだろう。あれが演技か? 直後にも思ったことだが、謀りとはとても思えない。  そして、アーテリンデの態度が謀りでないとすれば、ライシュッツの態度の意味が分からない。  先に進むことを止めるのは判る。危険だからだ。しかし、止められなかったら殺すとは過激に過ぎやしないだろうか。 「……話を聞いていると、貴方の考えは短絡です」  妻の声に、エルナクハは我に返った。 「……短絡だと?」 「ええ」  センノルレはきっぱりと返す。 「そのライシュッツというご老体は、十五階が墓場となる、と仰っただけなのでしょう」  つまり、別段『ウルスラグナ』の邪魔をするとは限らない、ということか。あの老人の殺気を知らないから、そんなことを言えるのだ――エルナクハはそう反駁しようとして、気が付いた。  むしろ、自分達の方が、ライシュッツの殺気に気を取られすぎて、真実を見誤っているのではないか。  確かに、ライシュッツは今回、『十五階が墓場となる』と言った。ただし、ライシュッツが冒険者達を片付けるからそうなる、と明言したわけではない。彼らしいやり方で、『恐ろしいモノ』が十五階にいるから『ウルスラグナ』の墓場になりかねない、ということを警告していただけかもしれないのだ。十階で出会ったときのように。  とはいえ、そういう『楽観的』な考えを全面的に採用する気になれない理由もある。それはギルド長が『エスバット』から感じたという不審。そして、やはりどうしても無視できない、実際にまみえた際の殺気の凄まじさ。 「……結局、『エスバット』が何考えてやがんのか、さっぱりわかんねぇな」  自分の考えを披露した後、エルナクハは降参と言わんばかりに肩をすくめてみせた。 「でもまぁ、どっちにしても、行く先に強敵が待っていることは間違いないですね」 「当たり前っちゃあ当たり前ねぇ」  フィプトの案外強引なまとめに、マルメリが苦笑しながら同意した。  『エスバット』だろうが、『恐ろしいモノ』だろうが、他の何かだろうが、天空の城への障害になるなら対策を立てなくてはいけないのは当然で、何が相手にしろ共通した対策法は、『もっと鍛錬すること』。弱点だの何だのは、相手が何なのかをもっときちんと把握してからだ。 「……となると、もっと素材を集めて、お金貯めないとだめね」 「どうしてです、オルタさん?」 「だってほら、強敵と当たるなら、武具もいいのがあった方がいいし、なにより薬がもっといるじゃない。ああ、アムリタみたいなの、いつできるのかしら?」  現状では、戦技や術式を使って疲弊した気力を癒すための薬は、先輩冒険者達が遺したらしいものを偶然に入手する以外にはなかった。そういった偶然で数本のアムリタが手元にあったが、安定した供給源であるべきシトト交易所には、いつも在庫がない。どうやら、材料が決定的に不足しているようだった。 「……何にしても、いろいろと考えるのは、準備ができてからだな」  そんな言葉で、エルナクハは話を締めた。  そうして、ゼグタントやドゥアトに顔を向ける。 「そんなわけで、二人とも、万が一ってこともあるからよ、もしも街で――まあ、あんまり街には来ないみたいだけどよ、『エスバット』に出くわしても、相手にすんなよ。もし向こうから『ウルスラグナ』の仲間だから云々ってイチャモン付けられたら、『ウルスラグナ』とは関係ねーから、って逃げてもいい。むしろ逃げろ」  ゼグタントは私塾に一室を借りているとはいえフリーランスだし、ドゥアトは『ウルスラグナ』の一員の母親ではあるが冒険者ではない。仮に『エスバット』が敵に回るとしたら、巻き込むわけにはいかない。彼らがそういったことをする手合いかどうかは判らないが、用心に越したことはないのである。 「ああ、悪ィけど、そうさせてもらうわ」  フリーランスのレンジャーは、全く遠慮することなくそう返してきた。一方、緑髪のカースメーカーは、どうしたというのか、難しい顔をして考え込んでいる。 「どうしたの、お母さん?」  娘であるパラスが声を掛けるも、母は心ここにあらずと言った塩梅で返事をしない。何か考えをまとめたいというなら待つのは造作ないのだが、ドゥアトの表情はあまりにも真剣で、彼女が抱えているものが何なのか、見ている者にさえ不安に思わせたのだ。  やがて、カースメーカーの女は、現実に戻ってきて、顔を上げた。 「ねえ、エル君、お願いがあるのよ」  真っ直ぐに見据える真剣な瞳に、エルナクハは内心でたじろいだ。単純に真剣さを感じただけなら、そんなに狼狽したりはしなかっただろうが、彼女の瞳の奥に暗い炎を感じ取ったのだ。彼女の本質のひとつである『呪術師』の象徴としての怨火が、宿ったかのようだった。  一体彼女は何を考えているのか、あまりいい予感がしない一同の前で、ドゥアトは続きを口にした。 「よかったら、あたしも『ウルスラグナ』に加えてくれないかしら。で、その『エスバット』とやらに会いたいのよ」 「……どういうこった?」  訝しく思い問いかけるエルナクハに、ドゥアトは理由を秘め隠すことはしなかった。 「……覚えてる? あたしがハイ・ラガードに来た理由が、人捜しだってこと」 「あ、ああ」  確かに覚えている。ドゥアトの捜し人は二人。一人は名前しか知らず、捜しようがない。いま一人については、見つけてどうするのかという気持ちが先に立っているという。 「実はね、お出かけしたりお買い物をしていたりするついでに、冒険者の人達に、捜し人のことを知らないか聞いていたりしたのよ」  ドゥアトは最近の『ウルスラグナ』の家事の多くを引き受けてくれるようになっていたが、合間にそのようなことをしていたとは。 「……それで、ひょっとして、捜し人が『エスバット』に関係するとか?」 「そうじゃないんだけどね」  ドゥアトは苦い笑いを浮かべた。その瞳の中には、いまだに暗い色の炎が燃えさかる。見つめた者を焼き尽くしてしまいそうなその眼差しは、しかしそれでも、『ウルスラグナ』に向けられたものではないのだ。 「あたしの捜し人のひとり、名前しか知らない相手はね、銃士なのよ」 「捜し人は、銃士……だと?」  『ウルスラグナ』は慄然として、突きつけられた言葉を繰り返した。  ドゥアトの捜し人が銃士だろうが何だろうが、別に何の引っかかりもないはずだ。しかし、その場に居合わせた者は、嫌なものを等しく感じ取った。言葉を発したときのドゥアトの態度から、無意識で『それ』に勘付いたのだろう。 「まだ見つかっていないのだろうけれど……手がかりくらいはあったの?」  おそるおそる切り出すオルセルタの問いに、ドゥアトは静かに首を振る。 「名前を知っている人は結構いたけど、やっぱり、それだけでは何も判らないわね」 「結局のところ、何なんですし、その捜し人の名前は?」  焔華に問われたドゥアトは、しばらくはためらっていたようであった。それでも、隠している意味はないと決断したのだろう。ややあって、唇がはっきりと動き、ひとつの単語を紡いだ。 「『バルタンデル』」  その刹那、室温が急激に下がったような気がした。  理由のひとつはドゥアトの態度。その名を口にしたときの彼女からは、まさに『呪詛』としかいえない気配が滲み出て、纏わりついていたのだ。それは、かつて、はとこの死を知ったパラスが纏ったものに酷似していた。  いまひとつは、その名の意味。古くから伝わる伝承にある、『バルトアンデルス』と呼ばれる魔物の名が、音韻の合体や脱落を起こしたものだろう。魔物の名の意味は『千変万化』。変身を得意とする太古の神の末裔で、先祖同様に変身能力に秀でているという。  ――だから、『名前だけ知っていても捜しようがない』のか。  自称他称のどちらかは判らないが、そんな名で認識されているのだ、おそらくは変装に長けているのだろう。  以上二点から、漠然と導き出された推論が、ひとつ。 「お母さん……」  震える声で、パラスがその『推論』を問うた。仮に彼女がしなかったとしても、『ウルスラグナ』の誰かが問うてしまったかもしれない。 「そいつが、その『バルタンデル』ってヤツが、あいつを殺したの?」  かつて『ウルスラグナ』のライバルの一人であった、金髪碧眼の少年騎士は、エトリア執政院を襲った戦いの渦の中で死に至った。そのことについての種々(くさぐさ)は、荒れたパラスが落ち着いたことで、一段落付いたはずだった。続きがあるなら、ハイ・ラガードの世界樹の制覇を為した後で、土産話を携え、エトリアに戻った後のことだと。  けれど、意外と長引くものなのかもしれない。運命を司る何かが膳立てたのか。否、そのような超常の力を及ぼすまでもない、必然なのだろう。去りし者が心の中に開けていった虚無を埋めるために、手段を求める者がいる限りは。  『復讐』は、一番わかりやすい手段だ――その果てにあるものは、必ずしも喜ばしいものではないのだろうが。このことについてドゥアトを責めても仕方ないだろう。  だが、一度は立ち直り、悲嘆の泥沼から這い出た呪術師の少女は、今度は憤怒の業火の中に自らの身をさらそうとしている。  母たる者は、自分がとてつもない過ちを犯したと、ようやく気が付いたようだ。自らの裡の憎しみに気を取られ、それが娘に飛び火し、消えかけていた熾火(おき)を煽り立ててしまったと知るのが遅れたと。娘を前にして答えをためらっていたのは、それをどうにか再び収めたかったからだろうか。  それでも結局は、ドゥアトは答えざるを得なかった。己が腹を痛めて産み落とした娘のことだ、もはや煽り立った火を消すことはできない、と判っていたのかもしれない。 「……ええ、そうよ。その『バルタンデル』が、あの子を撃ち殺した――そう聞いてるわ」  だから、と、呪術師の女は、息をついて続けた。 「名が知られていても、ほとんどの者が正体を知らない、あの銃士。けれど、『エスバット』の銃士――『魔弾』という通り名を持つ程のガンナーなら、もっと詳しいことを知っているかもしれない。だから、あたしはその男に会いたいわ。街を捜すより、迷宮の先を目指した方が会いやすいっていうなら、あたしは迷宮に潜る。先に進むために相応の修行が必要なら、耐えてみせるわ」  それが本気か否かを問うのは愚行だろう。そして、樹海探索に耐えられるか否かを問うことさえも。彼女達カースメーカーは、呪術を我がものにするために、遙かに苦しい修行に耐えてきたはずだから。  とはいえ、カースメーカーはすでにいるのだ。彼女と同じ修行をしてきた、彼女と違って樹海探索経験の豊富な者が。そして、その者――パラスは、言うまでもなくドゥアトよりも猛っていた。 「だったら、母さんは引っ込んでて! 私が! 私が、ライシュッツに、そいつのことを聞いてやる……!」  もはや熾火は盛大に燃え上がり、触れることすらできない程。消すことは不可能。できることは――。 「……て、わけだ」  ――うまく取り扱うしかあるまい。  エルナクハは溜息と共にドゥアトに声を掛けた。 「見ての通り、やる気満々でどうしょうもないのがいるし、しかもアンタより経験豊富と来てらぁ。こいつを差し置いてどうこうしようってのは、骨が折れるぜ、それでもか?」  というより、是非、『どうしても』と言ってほしい。  今は娘の方が『樹海探索に慣れている』という優位性を保っているが、同じ条件を整えさえすれば、娘が容易に母に勝てはしないだろう。戦いの実力ではなく、精神的な面での話。母親には、是非、娘の暴走を、最悪の結末を牽制してほしいのだ。いくら復讐に猛っているといっても、母の方にはまだ、周囲を見る余裕があるだろうから。  案の定、ドゥアトははっきりとした声音で宣する。 「当たり前よ」  その瞳に、娘より数段上の、現実を映す光を見て取り、エルナクハは安堵した。  ふと、あることに気が付いて、口にする。 「思えばよ、ライシュッツに話を聞くだけなら、別にアンタらじゃなくてもいいんじゃねぇのか。別にオレとかでも――」  そして後悔した。こういったものは理屈ではない。  大気が灼熱に変わって身をじわじわと侵すような感覚から逃れたくて、話を締めた。 「まあいいさ。だけど、どっちかしか連れてけねぇぞ。それだけはギルマスとして譲れねぇからな」 「わかってるわ」 「うん」  二人のカースメーカーが承諾の意を示したその途端、室内の灼けつく大気は正常に戻った。  皆、同じように感じていたのか、一斉に安堵の溜息が漏れる。  「あついあつい、窓あける窓あける」  ティレンが駆け足で窓際に近付き、ぱっと窓を開け放った。その様を見て、パラスとドゥアトは苦笑している。彼女達に配慮して、他の誰もが口にするのを我慢していたのだが、皆、部屋の空気を(主に精神的な意味で)入れ換えたいと思っていたのは確かだった。そういう意味では、真っ直ぐに、しかし嫌味や含みなく、自らの望みを主張できるティレンは責重なのである。  だが、次の瞬間、ティレンならぬ者達も、真っ直ぐに自分達の感情を吐き出した。 「寒っ!」  第三階層程ではないが、急激に吹き込んできた風は、冬の前触れのような寒気を含んでいたのだった。  既に秋は深く、夜の冷え込みも厳しくなってきていた。シトト交易所には一般人向けに冬に備えた服が並び始め、郊外の畑の多くは刈り入れを終えて閑散たる様となっている。そういえば、素兎ノ一日に収穫祭が行われるという知らせが街のあちこちに張り出されていた。催し物のほとんどは、ひとまず作物を刈り終えて空いている畑で行われるらしい。ただ、街の中を山車が練り歩くとかで、その日に冒険に出るときは道が混雑しているから注意するように、との達しが、冒険者ギルド統轄本部から届いていたか。豊穣を司る大地母神の神官(代理)たるもの、どうせなら探索を休んで収穫祭に参加したい、とは思うのだが、状況がそれを許してくれるかは、まだ判らない。  そんなことを考えているエルナクハの耳に、ティレンの訝しげな声が届いた。 「ハディード、なんでまだ、おきてる?」  話し合いが始まる前、窓の下にちょこんと座って応接室を見上げていた獣の子は、それからずっと同じ場所に居続けたらしい。ティレンの言葉に、くぅ、と鼻を鳴らすと、断続的に尾を振った。先だってくわえていた何かを、まだくわえたままでいるが、その正体はやっぱりわからない。 「もう話し合いは終わったぜ、ほら、オマエも寝れ」  ハディードは、ギルドマスターの言葉を聞くと、再び鼻を鳴らし、とぼとぼと、中庭の隅、犬小屋へと戻っていく。いっぱしに話し合いに加わりたくて待っていたのか。いや、まさか。単に遊びたかっただけだろう。こんな夜中にそんな要求をしてくることは今までなかったことなのだが、それ以外の理由には思い至れなかった。だからエルナクハは、こう声を掛けた。 「遊びたきゃ明日の朝だ。メシ食う前にひと運動すっか?」  実際、朝餉前に軽く鍛錬を行うのは日常行為だ。獣の子と戯れるのもいい運動になるだろう。  ハディードは、了承の意を示したのか、単なる気まぐれか、尾を大きく一振りすると、中庭の隅の暗がりへと消えていった。  それを見送りながら、言葉が漏れた。 「復讐、か……」  『ウルスラグナ』に親を殺されたはずの獣の子。だが、奇妙なことに、ハディードは最初こそ警戒したものの、今となっては『仇』にすっかり懐いてしまった。獣に『復讐』という概念がないからか? 否、獣とて、時には、復讐としか見えない行動を取るという。ひょっとしたらハディードは、『仇』を認識し、その上で『復讐』を捨てているのだろうか。  だというのに人間は、復讐を捨てられない。  復讐は何も生み出さない、などという綺麗事を言う気はない。自分だって、『バルタンデル』とやらが目の前にいたら、生命を奪うかどうかはともかく、数十発くらいは殴りたい。しかし――。  自分達は、復讐に猛って自滅する例を知っている。そのほとんどは伝聞でしかないが、ひとつだけ、身近な例があった。仲間を殺された復讐心に猛り、たった二人で仇に挑み、樹海の露と消えた、赤毛の聖騎士と黒い獣。  そして、唯一、自滅寸前で救えた例も、身近にある。エルナクハは、その『唯一例』に歩み寄り、他の者には届かない程度の声を掛けた。 「なぁ、ナジクよ」 「……何だ、エル?」 「オマエは――オマエだったら、一族の復讐を、まだ望むか」  それは、あるとわかっている罠を踏む行為だ。そう判っていて、敢えてエルナクハは踏み込んだ。予想通り、ナジクの瞳の中に、怨嗟の炎が舞い上がる。先程、パラスやドゥアトが抱いたものと同じ、暗い炎。だが、その炎は瞬く間に鎮火した。ナジクは顔を伏せ、静かにつぶやいた。 「今は――己の復讐よりも必要なことが、ある」 「そか」  エルナクハは応えて頷いた。その答は、一聴した限りでは、喜ばしいもの。だというのに、そういう時なら付随する不敵な笑みは、今回ばかりは浮かばない。ナジクが復讐を諦めたと言い切ったわけではないから、ではない。自らの復讐以上に、狂気のように傾倒する何かがあるような気がしたからだ。  気のせいかもしれない。答を発する直前、ナジクの瞳から暗い炎は消えていたから。が、顔を伏せた瞬間にも再燃しなかった、とは言い切れない。不条理に一族を奪われたこのレンジャーは、エルナクハの妹が危機に陥ったときに自分の生命すら投げ出す勢いで飛び出した彼は、不条理に親族を奪われたカースメーカー達に同調し、彼女達以上に激しく、金髪の少年騎士の復讐に動くのではないのだろうか。  気が付けば、部屋にはナジク以外の者がいない。寒さに辟易して個室に戻ったのだろう。レンジャーにも、戻れ、としぐさで伝えながら、ふと、数日前のことを思い出した。  とある依頼を請けたときのことだ。内容は『樹海で消えた恋人の仇を討つ』。正確に言えば、依頼人である女性は、最初は自ら剣を持って仇を討ちに行こうとしたという。冒険どころか、生活必需品以外の刃物を持ったことさえない女が、だ。端から見れば正気の沙汰ではないが、復讐の念とはそういうものだろう。見かねた親父が依頼の体裁を整えなければ、彼女は恋人と同じように、樹海の彼方に消えてしまっていたに違いない。  結局、恋人らしい者の遺体(の一部)を確保していた魔物を倒し、報告した『ウルスラグナ』だったが、その時、親父はこうこぼした。  ――こんな事して仇討ったって、好きな男が帰って来るワケじゃねぇんだ。恨んだって仕返ししたって、どっちにしろ余計に苦しくなるだけなんだ……。  その言葉には親父の実体験も込められていたのだろうか。そこまでは判らない。ただ、同意の念と共に、思った。  敵討ちには意味がない。仇討ちに成功しても、大抵は、さらなる感情の泥沼にはまるだけ。論理的に考えれば、そのはずだ。だというのに。 「……それでも」  開いたままの窓の枠に背を預け、エルナクハは、その時に親父が続けた言葉と同じものをつぶやく。 「忘れて幸せになれねぇのが人間、ってか? はは、辛気くせぇ」  話はそれより若干の時間を遡る。  犬小屋でまどろんでいたハディードは、気配を感じて目を覚ましたが、その正体を知ると再び夢の淵へ向かおうとした。気配を発していたのは、夜の樹海に向かった『ウルスラグナ』の冒険者達、すなわち、よく見知っている者達だったからだ。彼らが足早に建物の中に入る足音を子守唄代わりに、獣の子は、再度の眠りに落ちるまでの、ふわふわとした、不安定でいて、しかし心地よい感覚に身を委ねていた。  しかし、その耳が、別の何かを捉えた。  見知らぬ侵入者か、と思ったのだが、何かが違う。その『何か』は、確かにハディードの知らぬ何かだったが、敵対するべき者とは思えなかった。  気を取り直して気配を探ると、何故か、それが自分を呼んでいるように感じた。  その正体を確かめたく思い、ハディードは小屋を抜け出した。昔は、自分の相手に手慣れた人間がいないと、杭に繋がれていたものだが、最近は、そういった制約も取り払われていた(さすがに『首輪』とやらは付けられているが)。何に遮られることもなく、私塾の建物の入り口に辿り着き、そこで足が止まる。人間と暮らすようになってからの躾が、ハディードを呪縛した。建物に入るのが許されるのは、天候が荒れたときくらいだったからだ。  けれど、呼び声はさらに強く、ハディードを誘う。  意を決し、獣の子は、両前足を持ち上げた。人間達が建物の中に入るとき、突起を持ってひねっているのを、ハディードは知っていた。自分もその通りにすれば、扉を開けられるはずだ。  もちろん、人間達が鍵を掛けていれば、開けられなかった。建物内に誰もいなくなるか、全員が帰ってきて当分出掛ける予定がなければ、鍵を掛けられているものだから。だが今回はうっかり閉め忘れていたのか、多少の困難の末に、突起――ドアノブはひねられる。ノブをひねったまま、後足でよたよたと数歩下がると、扉は静かに開かれた。  隙間から、身体を滑り込ませる。  建物の中は、しんと静まり返っているように思えた。緊迫した空気がそこはかとなく漂い、大気を重くしている。いつもの人間達の様子とは違う。そういえば、さっき戻ってきた者達も、普段とは随分と様子が違っていなかったか。否、それは、彼らが探索に出掛けるときからだった気がする。  何があったのだろう。まさか――ハディードは鼻を上げて、漂う匂いを嗅いだ。全部で十二種、誰かが欠けたというわけではないらしい。とすれば、自分にはよく判らない何かがあったのだろう。少なくとも、危険に直結しているわけではなさそうだった。  だったら、自分が注意するのは、もう一つの懸念に対してだ。  声なき呼び声は、階段の上方から流れ降りてくる。  ハディードにとって、階段の上は、別世界というに等しい。それでも獣の子は、呼び声に答えて足を踏み出した。  ひたひたと、かすかな足音を立て、石の階段を上っていく。  未知なる意志に導かれ、辿り着いたのは、ある一室だった。ハディードには判るはずもなかったが、人間達が『応接室』と呼んでいる部屋である。一度誰かが入り、立ち去ったときに、きちんと閉め忘れたのか、わずかに隙間が空いている。ハディードは隙間に鼻面を突っ込み、室内に潜り込んだ。  室内は暗く、がらんとしていたが、灯に使ったのであろう蜜蝋の匂いと、少し前まで誰かがいたような気配がする。誰だったのかを割り出すのは容易かったが、そんなことをしても意味はないだろう。ハディードは人間の気配は無視し、今まで追ってきた方の気配を探る。この部屋のどこかから感じるのは間違いないのだが、少なくとも見て判る場所にはないようだ。  ふんふんと鼻を鳴らし、獣の子は室内を探った。  やがて、追っている気配が濃くわだかまっている場所を見つけた。壁沿いに並んでいる棚のひとつで、天板には、小さな金色の彫像が飾られている。だが、彫像が気配の大元ではない。もう少し下――一番上の棚の奥から、気配を強く感じる。  一体なんだろう? ハディードは棚に両前足をかける。本来なら触れるべきものではない、と、人間と暮らす上で植え付けられた知識が叫ぶが、とにかく、例の気配の正体を掴まなくてはならない、という思いが上回ったのだった。  前足の片方を伸ばし、棚の奥に差し込む。懸命に掻く蹠球(にくきゅう)は虚空を捉えるばかりだったが、やがて、硬い感触を探り当てた。本能的に、これが例の気配の正体だ、と悟る。  掻き出した『それ』は、細長い革と金属の角張った輪でできた、古ぼけたものだった。自分の首に巻き付いているものと、細部は違うが、構造自体は同じである。つまりは『首輪』なのだが、どうもおかしい。『それ』からは、大分薄れてはいたが、確かに血の臭いがしたのだ。  さて、自分を呼んでいたらしい気配の正体は知れた。だが、何故自分が呼ばれたのかは、さっぱりわからない。気配は『首輪』にまとわりついたまま、一向に、ハディードにその真意を知らしめようとはしなかったからだ。  ――いや、自分の方に真意を感知できないだけかもしれない。  ハディードはそう考えた。今いる場所は自分にとって『異界』である。馴染んだ人間の気配がするからまだいいのだが、それでも、全身の神経が、不慮の事態に備えて緊張している。この状態で、『首輪』の発する微弱な意志を感じ取ろうとしても、無理だろう。だから、ハディードは、自分の一番安心できる場所――犬小屋へ、その『首輪』をこっそり持ち去ることにしたのだった。  ようやく自らの寝室に戻ると、伏せたハディードは、持ってきたものを目の前に置いて見つめた。自らの領域に戻ってきて、落ち着いてみると、首輪について、いまひとつ気が付いたことがある。他にもまとっている匂いがあったのだ。  全く知らない獣の匂いだ。  人間ならば、首輪について様々な類推を行えるはずだったが、あいにく、獣であるハディードにはそんな真似は思いもつかない。辛うじて出せた結論は、『自分以外の獣が使っていた』というあたりであった。  首輪の持ち主がどうして今はいないのか、そこまではわかるはずもない。ただ、ハディードを呼んでいた気配は、未だにはっきりと残っている。  おまえは何を言いたいんだ?  人間の言葉にするならそのような意志を込めて、ハディードは首輪に向かって鼻を鳴らす。  次の瞬間に起きたことは、たとえハディードが人間だったとしても、現実との区別を付けかねただろう。  いつの間にか、森の中にいた。幼い頃に去って以来、これまで足を再び踏み入れることのなかった、故郷の森だ。感じる緑の匂いも、耳にする獣の声も、当時感じていたものと寸分変わらないものだった。  そして、自分は一人ではなかった。赤毛の聖騎士と共に歩んでいた。とはいっても、黒い肌を持つ聖騎士ではない、白い肌で、その赤毛も癖を持つものではなく、肩を越えて真っ直ぐに伸びている。ハディードの知る者の中には、彼の姿はない。だというのに、なぜか、とても懐かしい気がした。  やがて、自分達は、大きな扉を前にした。緊張している。心臓が普段の倍に近い速さで脈打っている。隣の聖騎士が背に手を当ててくれたので、少しは落ち着いたのだが、同時に、聖騎士の心臓もあり得ない速さで脈動しているのを感じた。  聖騎士が扉に手を当て、静かに押し開けた。  その瞬間、自分達を死の予感が包み込む。見えざる鉤爪が肉体を掴み、ようやく落ち着いてきた心臓をも握りつぶしにかかってきたような、おぞましい気配。しかし、自分達にとっては、初めての経験ではない。自分達は、ここで、三人の仲間を失ったのだから。  『ハディード』にとっても、そのおぞましい気配を感じるのは、全く初めてではなかった。自分が森を去ることとなった日から少し遡った頃から、森の気配はおかしかった。吹き抜ける風の中に、今感じている死の予感をごく薄くした気配を嗅ぎ取った覚えがある。その程度の認識で済んだのは、当時のハディードがまだ赤子だったのと、傍にいてくれた両親が守ってくれると信頼していたからだった。  その気配が、今は自分達の目前にある。獅子の頭、山羊の二つの頭、蛇頭の尾を持つ、有翼の怪物の姿をとって。  『ハディード』には、敵わないとは言わずとも、あまりに不利と見えた。だが、獣と騎士は、決意と共に怪物の魔宮に踏み込む。以前の戦いでも障害となった、周囲を取り囲む獣王のシモベを認識し、『引き寄せの鈴』で各個撃破を計る。後に『ウルスラグナ』が採ったものと同じ戦略であった。  しかし、前回より力を付けたとはいえ、二人だけでの緒戦は、彼らの肉体にも大きな負担を掛ける。そして、精神的な高揚は、愚かにも、その重大さから彼らの目を背けさせた。そうと気が付いたときは遅きに失した。疲弊した心身で仇討ちを完遂できる程、キマイラは甘い相手ではなかったのだ!  友であり主人である聖騎士が倒れ、その血を全身に浴びたとき、獣は、彼の生命が間もなく掻き消えると悟った。傷口を舐め取って癒そうとしても、もはや避けられない運命。遺された獣一人、それも重傷を負った身では、勝利は絶望的だった。それでも、自分は死せる友に殉じ、己の生命が尽きるまで共に戦うつもりでいた――この瞬間に至るまでは。  死にゆく主人と目が合ったとき、無性に口惜しさがこみ上げてきたのだ。本当は自分達だけでの復讐を望んでいた。他の誰もキマイラの生命に触れさせるつもりはなかった。どちらかが倒れても、残った方は最後まで抗うつもりだった。だというのに、今は、復讐が果たせぬまま潰え、自分達が樹海の土に還ってしまうことが、悔しくなった。たとえ誰かの手を借りてでも、以前失った三人の友と、今失った相棒の、忌まわしき仇を討ち果たしたかった。  これは、自分だけの考えではない。主人も、同じ思いを抱いている。  だから獣は、踵を返して跳ねた。戦闘の直前に主人が下ろした荷に鼻を突っ込み、丸めた羊皮紙を引き出した。魔宮までの道程を記した地図――これを、自分と共に仇を討ってくれる者に託そうと考えて。  そして、全力で走り出した。重傷を負っている身でそのような真似をすれば、傷が開いて大出血を起こしても当然の話だ。身体に灼熱する痛みを感じたような気がしたが、獣は意に介さなかった。扉を抜け、必死にひた走る。どこへ、とは具体的には考えなかった。とにかく、『彼ら』を待てる場所へ。敵性生物に邪魔をされない場所へ。場所の選択を為すは、獣の勘。具体的な思考にまとまらないそれを頼りに、獣は足を動かす。  そうして辿り着いたのは、袋小路。獣は、気を抜けば倒れかねない自らの身を、四肢を突っ張ることで立たせ続けた。  満身創痍の身を包むのは、先程まで体験してきた激闘が嘘のような、柔らかな朝の光。その中に、求める相手の匂いを嗅ぎ取り、彼らを呼ぶために声を張り上げる。遠吠えが、樹海にこだまして、静かに消えていった。  ――それが、首輪のかつての主がハディードに伝えてきた、記憶であった。  ハディードは、文字通り夢から覚めた様相で、呆然と首輪を見つめていた。  彼はあくまでもただの獣だから、『残留思念』だとかいうあたりの、人間が不可思議な事象を説明する概念は知らない。彼にできたのは、自分の知らない記憶が頭に流れ込んできたという事実の理解と、それがどうやら首輪の主のものらしいという推測だけであった。首輪には、素材の革の匂いと、染みついた血の臭いの他に、記憶を追う中で嗅いだ気がした、『自分』の匂いが混ざっていたのだ。それらの匂いの中に、ハディードは、記憶の中で見た無念と、記憶の中では知ることができなかった願いを嗅ぎ取った。  ――友を護れなかった私の代わりに、お前の友を護れ。  ――樹海の先を見られなかった私達の代わりに、天を目指せ。  樹海はあらゆる生命を育み、しかし、あらゆる生命を飲み込んでいく。自らを強靱だと信じていた、いや、信じたがった、樹海に挑む全ての者を。  どれだけ鍛錬を重ね、最善を期したとしても、それ以上の災厄が容易に現れる。否、期したつもりの最善が最善でなかっただけかもしれない。単純に運が悪かっただけかもしれない。理由は様々に考えられるだろうが、ともかくも、樹海から生還できる者でさえ、運と実力が織りなす細く脆い『橋』を渡っている。その『橋』は、いつ崩壊しても不思議ではない。そして――首輪の元の持ち主と、その相棒は、己の運と実力で編み上げた『橋』の崩壊に巻き込まれたのだ。  ハディードを養ってくれた『ウルスラグナ』も、いつか『橋』の崩壊に為す術なく巻き込まれる日が来るかもしれない。  それは、少なくとも今までのハディードには、関わりのないことだった。  けれど、今のハディードは、その事実に焦燥を感じていた。  ハディードにとって『ウルスラグナ』は、今や家族であった。実の父母を殺し、自分をも殺そうとした相手ではあったが、それが不幸な行き違いだったことは理解していたし、赤子だった自分をここまで育ててくれたのは、この『群』なのだ。成長した自分が為すべきことは、自分が属する『群』の崩壊を防ぐことだ。そのために自分ができることがあるなら、するべきだろう。そして、『ウルスラグナ』が崩壊しなければ、彼らと共にある自分は、首輪の主の代わりに、天に達することができるかもしれない。  そんなことを考えていると、建物に灯っていた明かりのほとんどが消え、やがて、ひとつだけ、建物の上方に、ぽっと灯った。かすかに流れてくる匂いから判断するに、『ウルスラグナ』の全員が集まっているらしい。  何の話をしているのかは、仮に声がはっきり聞こえたとしても、ハディードには判断できなかっただろう。  だが、獣の子は、今が自分の思いを主張する時だと感じた。  首輪をくわえて犬小屋を出る。明かりを目指して進み、その下に座り込んだ。一度、首輪を口から離し、わん、と吠えた。自分がここにいる、自分も『ウルスラグナ』の一員なのだ、と主張するために。  もっとも、そんな彼の思いは、 「ハディード、おまえはねる」 「遊びたきゃ明日の朝だ。メシ食う前にひと運動すっか?」 という言葉で、その夜には一蹴されてしまったわけだが。  こればかりは、互いに言葉が通じない異種だから仕方がない。心で通じ合え、といっても限度があるだろう。  そのような事情から、『ウルスラグナ』一同がハディードの思いを把握したのは、翌朝のことであった。  昨晩の約束を果たすべく、鍛錬を兼ねた遊びにハディードを誘ったエルナクハは、獣の子が喜び勇んで駆け寄ってきたときにくわえてきたものを目の当たりにして、驚くより他になかった。 「……おいおい、オマエそれどこから持ってきたよ」  なにしろ、それ――『ベオウルフ』のクロガネの首輪は、応接室の棚の奥に大事にしまってあったものなのだ。それが今ハディードの手元(口元か)にあるということは、誰かが持ち出して獣の子に与えたか、ハディード自身が私塾に入り込んで勝手に持ち出したということだ。前者の行為に及ぶ者には思い当たらない。とすれば後者の目算が高い。いつ入り込んだのか。  勝手に私塾内に入り込まないように躾たのを無視したのだから、叱るべきなのだろうが、エルナクハはそうする気にはなれなかった。  獣の躾は『現行犯』で叱らないと効果がない、というのも、もちろんある。  だが、それ以上の理由がある。  これまでのハディードは、いくら賢いといっても、ただの獣の一線を越えることはなかった。それが今、冒険者達を見据える黄金の瞳の中にには、ただの獣とは一線を画した、智慧の光が見て取れた。人間程に、とはいかずとも、理知的な判断を下し得る存在である、と確信できるような。  その瞳の輝きを持つ獣を、エルナクハは知っていた――首輪の元の主、クロガネだ。  黒肌の聖騎士は、呆然と立ちすくんだ。大地の女神が見えざる手で身体を引くのに抗わず、膝を付いて、ハディードと同じ目線を確保する。伸ばした両掌は獣の頬を包み、緑の瞳が黄金の深淵を覗き込んだ。傲慢不羈たる普段の態度が嘘であるかのような、か細くかすれた声が発せられた。 「……オマエは、還ってきたのか。クロガネ」  もちろん、言葉とは裏腹に、そんなことはありえないと判っている。大地母神の神官(代理)として輪廻転生を否定しないとしても、ハディードはクロガネが死ぬより前に生まれているのだ。憑依? 少なくとも『ありえない』とは証明『されていない』。が、己の信仰によって判断するなら、本来、生者の魂は死者の魂より遙かに強く、簡単に身体を明け渡すようなものではない。  ハディードはクロガネの死霊(たましい)に乗っ取られたのではない。クロガネの意志(たましい)を引き継いだのだ。  クロガネを知るはずがないハディードが、どうやって意志を継いだのかは、判らない。人間なら、例えば残留思念――いわゆる『幽霊』から意志を引き継いだとか、そういう例も考えられるだろう。エルナクハ自身はそんなものに出会ったことはないが、憑依同様に『ありえない』という証明は為されていないのだ。  しかし、獣にそういう概念が存在するのだろうか。こればかりは、永遠に理解できないことだろう。  だから、エルナクハは目の前の事実だけを事実として受け取ることにした。  獣の子は――否、もう『子』とは呼べない、立派に成長した青灰色の獣は、『ベオウルフ』のクロガネがそうであったように、探索者の意志を持ったのだ、と。  この目を持った者を中途で止められるものは、死神の手のみだろう。 「だがなぁ……」  そこで現実に立ち返り、エルナクハは後頭部を掻きむしった。  世界樹の迷宮を故郷とするハディードだが、まだ自分で身を守れないうちから森を出てしまった彼が、迷宮の脅威に立ち向かうのは、すぐには無理な話だろう。獣の本能がある程度の強さを保証するにしても、それを過信するわけにもいかない。生命はひとつなのだ。強敵との戦いを経験すれば、脅威に慣れるのも早いだろうが、たとえば探索の最先を行く昼組に組み込んだとしても、現状では面子がハディードを守るので手一杯になってしまう。  どうしたものか、と考える時間は、ごく短かった。  『ウルスラグナ』には、冒険者としてはハディードとほぼ同じ条件下にある者がいるのだ。  その者、熟れた南天(ナンディーナ)の実を映し出したような色の瞳を持つ呪術師、ナギ・クード・ドゥアトは、食事当番が朝食を完成させる間に洗濯物を片付けようとしたのか、布物を大量に積み上げたタライを抱えて中庭に出てきたところであった。 「そろそろ、朝早くから洗濯するのは辛くなるわねぇ」  と、ぼやきながら天を仰ぐ視線の先には、朝焼けの残滓が広がっている。  思えば日の出が遅くなった。今年の秋分の日は天牛ノ月二十五日に訪れ、その日を境に、昼の時間は夜の時間に侵食されていた。つまりは、日の出が遅くなり、日の入りが早まっているのだ。  ただでさえ冬に向けて寒くなっていく昨今、太陽の恵みの届かぬ早朝に水仕事をするのは辛いことだろう。 「中の水場でやりゃいいじゃんか。さもなきゃ昼に、とか」  エルナクハはあっけらかんと応じた。家事は女(に限らないが)を苦行に縛り付ける手段ではないのだ。少しでも楽ができるなら、質が疎かにならない範囲で楽をすればよかろう。 「まぁ、そうなんだけどね」  そう答えながら肩を竦めたところで、ドゥアトはハディードの様子に気が付いたようだった。すたすたと近寄ってきて、しゃがみ込み、黄金の瞳を覗き込んで言うには、 「あらあらあらぁ、ハディードちゃん、なんか違うわねぇ。なんて言うのかしら……んーと、人間に例えるなら、『男前』になったって言うのかしら?」  そこで言葉を切って、頭ごと目線を下げ、獣の腹部を覗き込む。雄だっただろうか、と心配したらしい。幸いにも立派な雄の印が存在するのに安堵した様子の彼女に、エルナクハは話を持ちかけた。 「コイツも樹海探索に入れてぇと思うんだがよ、いくら樹海生まれでも、いきなり連れて行くのはよくねぇ。アンタもこれから探索者の道を踏み込むんだ、どうせなら、しばらく一緒に行ってやってくれねぇか?」  五人まで限定の探索班を、素人が二人占めることになるが、第一階層なら、前衛二人と治療役(アベイ)を信じて任せても問題ないだろう。  ドゥアトはエルナクハには明確な返事をしなかったが、その態度は明らかに『諾』の意を示している。 「姉弟弟子ってことになるのねー。頑張りましょうね、ハディードちゃん」  と語りかけつつ青灰色の毛皮を撫でるドゥアトに返すように、ハディードも、おん、と吠え返したのであった。  『ウルスラグナ』は再び鍛錬の時を繰り返す。  その様は、周囲からすれば、まるで先に進むことを諦めたようにも見えるようだった。今すぐ十五階まで上っても問題ない実力を蓄えていながら、何故十四階で停滞しているのか、と思われているのだろう。「臆病者(チキン)達みたいに『エスバット』の言い分を信じて縮こまっているのか」と、あからさまに口を開く者達もいた。  しかし、『ウルスラグナ』を追い越した冒険者達は、次々とハイ・ラガードから姿を消していた。それを知るたびに、『ウルスラグナ』は、迂闊に十五階には上がれない、と肝に銘じたものだった。いなくなった者達は、『エスバット』の言っていた恐ろしいモノに破れたのか。あるいは、『エスバット』自身の手によって――?  否、今は変な思いこみに気を取られているわけにはいくまい。  自分達はまだ、第三階層の空を悠然と舞う敵対者(F.O.E)『飛来する黒影』すら倒せていないのだ。邪竜はまだ無理としても、黒影くらいは倒す自信を持てなければ、先の脅威に抗うことはできないだろう。  ところで『ウルスラグナ』が十五階に赴かないことには、納得いく力量を積んでいる他に、もう一つ、迂闊には外部に洩らせない理由があった。  ハイ・ラガードの七代前の公王の墓所を捜索せよ、という依頼を、大公宮から引き受けたのだ。  ドゥアトやハディードが迷宮探索に参加するようになってから、数日が過ぎた、ある日のこと。  午前中に探索を行うのは、相変わらず、エルナクハ、焔華、アベイ、ナジク、フィプトの五人だったが、探索を終えた彼らは、いつものように帰りがけに鋼の棘魚亭に立ち寄った。そこで、鍛錬ついでに請ける依頼を吟味していた時に、親父に手招かれたことから、一連の話は始まった。 「お前ら向きの依頼があるんだがよ」  真っ白に漂白された上質の漉紙に、尾をくわえない知識の蛇(ウロボロス)の浮き彫り。そんな体裁の依頼書が、大公宮関係からものだというのは、火を見るより明らかであった。 「下手な冒険者は派遣できねぇからな、お前らなら安心だ」  親父の表情を見る限り、拒否権は存在しないらしい。  冒険者側としても、余程手に負えない依頼でなければ、断る理由もない。とりあえず確認だけはしようと、依頼書を受け取り、目を通したのだった。  魔物退治か、ひょっとしたら以前請けた『大公宮の衛士を教育しろ』というものの続きか、と考えたのだが、文面は意外なものだった。  七代前の大公の墓所について書かれた手記が見つかった。是非墓を発見してほしい。  詳細は大公宮、按察大臣より聞かれたし。  そんな依頼に興味をそそられ、昼組一同は大公宮に足を運んだのである。 「そうかそうか、そなたらが請けてくれるのであれば、助かるわ」  謁見の間に控えていた按察大臣は、『ウルスラグナ』の姿を認めると、いつものように好々爺の笑みをもって迎え入れてくれた。依頼の件について切り出すと、満足したように何度も頷く。 「天空の城に関する件でも期待をかけておきながら、その探索を中断させてしまうようで恐縮じゃが」 「いや、オレらは、先に進む力を蓄えてる途中だから、そのついででいいんだが……そっちは平気なのか?」 「うむ、幸いにも、まだしばらくは大丈夫そうじゃ。それに、今回の依頼は大公さまも大変に興味をお持ちのことでな」 「そっか。じゃあ、詳細を頼む」  エルナクハが促すと、大臣はこっくりと頷いて、詳細を説明し始めた。 「そういえば、フィプトどの以外の者は、この国に来てから日が浅い。『氷王』の物語は知らぬじゃろうな」 「……いや、オレはちっとだけなら知ってる」 「なんと?」  大臣は大層驚いたようだが、実情はそれほど驚かれるようなものではない。要は私塾の授業には『歴史』もあり、七代前の名君『氷王』に関しての言及もあるわけだ。そのからみでセンノルレに話を聞かされたりして、若干の知識を得るに至ったわけである。 「当時の隣の国との戦のときも、随分と活躍したって話だな」 「さよう。隣国をして『ラガードに白き蔦の守りあり』と呼ばれた、雪原の様に白く美しき面立ちと、凛とした空気をお持ちになり、氷の冷静をもっておられた名君じゃ」 「隣の国、か……」  ハイ・ラガードの南にあるのは、国というより都市の集合体、『自治都市群』であり、かのエトリアもその中に含まれる。南西には、大国に挟まれ、滅びて吸収されたり、どうにか独立を保ったりしている、いくつかの小国。そして、地の恵みに乏しく寒い荒野を挟んで西にあるのは――全世界を征服しようという野心を持つのではないかと囁かれている大国『神国』。 「彼奴らの主張では、彼奴ら『神国』と我らハイ・ラガードは、共に、かつて存在した『教国』の一部じゃという。その主張をもって、我らを取り込もうと頻繁に攻め込んできておった時代が、『氷王』の御代じゃ」 「『教国』云々が事実としても、また征服されてあげます、ってわけにはいきませんしなぁ」  袖を口元に持ってきて、くすくすと笑う焔華に、大臣は心底同意したように頷いた。 「まったくじゃ。そういうことで、『氷王』を先頭に、激しく抵抗した我が国は、今日に至るまで、独立を保っておるというわけじゃ」  代わりに、隣国は『白き蔦』の強固な守りを思い知ったというわけだ。  そう考えたとき、ふとエルナクハは何かの疑問を抱いた。が、それが何なのかをはっきり認識する前に、大臣の話が続く。 「『氷王』は天寿を全うされたが、そのご遺体は、代々の大公が眠る墓所ではなく、『氷王』ご自身の遺言によって、どこか別の場所に葬られた、と伝えられる。その場所は謎のままであったが、先日、天空の城に関するものを書庫で捜索していた時分に、隠し部屋が発見されてな、様々な書物が出て来おった。その中に『氷王』に関する記述が見つかったのじゃ。曰く――」  固唾を呑んで耳を澄ます一同の前で、大臣は一節を朗々と読み上げた。 「“氷の王、古き樹に守られ、悠久の雪原に眠る。蒼き竜の御許、氷王の墓所なり”……とな。そなたらこれをどう思う?」  どう、と問われても、解釈は様々である。とはいえ、何のひねりもなく読み解けば、示される意味は狭まる。古い時代から存在する樹に関わる、かつ、常に雪の積もるような場所に、墓所はあるというのだ。竜云々はひとまず置いておくとしても、条件に合いそうな場所は――。 「……世界樹の中、か」 「うむ、この老体も、如何に読み解こうにも、古き樹とはかの世界樹様をおいて他を示すとは思えぬ」 「で、悠久の雪原っていうのは、第三階層、『六花氷樹海』……ってことか」  アベイが頷きながら口を開くのに、ナジクが続ける。 「竜は……例の邪竜どもが生息するところ、ということかもしれないな」  邪竜は青というより紫のような気がするが、そのあたりは細かく考えなくてもいいだろう。ともかく、注目するべきところは。 「伝説と思われておった氷の王の墓所が、あの森の中に存在するのかもしれん」 「……ということは、昔のハイ・ラガードの民は、世界樹様の中に迷宮があることを知っていたんですね」  フィプトが意外だと言いたげに結論を口にし、少し考えて言い直した。 「いや、むしろ……現在のハイ・ラガードが、世界樹の迷宮のことを忘れ去ってしまったと言うべきか……いや」  さらに考えて、ひとつの単語を脳内から弾き出す。 「『呪術院』……?」  冒険者も、大臣も、口々に合点の嘆息を漏らした。  『呪術院』は、はるか昔から世界樹の中に出入りしていたと、迷宮探索最初の試練を乗り越えた直後に、ギルド長から聞いたではないか。それがどれだけ昔からのことかは判らないが、七代前の大公の御代――おおよそ二百年前、その頃から既に『呪術院』が樹海迷宮内で活動しており、それを『氷王』も知っていたのか。  真実が判るはずもない。ただ、事実として、『氷王』の墓が迷宮内にある可能性を示唆する記述が、ここに残っている。 「どうかそなたら、氷の森を歩み、氷王の墓所を見付けては下さぬか」  その依頼を、今さら蹴る理由はないし、その意志もない。漠然とした情報を元にして探すのは難しいが、冒険者に持ち込まれる依頼など、解決の糸口が掴みづらいものの方が元々多かったりするのだ。  幸いにも、今回ばかりは、もう少し場所の候補を狭められる情報があった。 「書に、『悠久の雪原に分け入りて四日目、人の踏み込まざる道に至る』という一文がある。これを読み解くに、場所が迷宮の中である前提を加味すれば、日付は日付そのものではなく、階を進んだことの暗喩ではないかと思うのじゃ。そして、人の踏み込まざる道……」 「……場所は十四階、墓所に至る道は隠されている、ってことですか」 「正解かどうかは保証できぬがの。このような漠然とした情報しか用意できずにすまぬが、どうか、よろしく頼みましたぞ」  ……正解と判っている情報があったら、冒険者ではなく衛士に命令するんだろうに、とは思ったが、どうでもいいことなので誰も口には出さない。ともかくも、依頼を正式に受諾した旨を伝え、冒険者達は大公宮を辞したのである。  一行が十五階への階段に到達したのは、墓所探索の依頼を受諾して間もない頃だった。それからも諸事情でぐずぐずしていたために、他の冒険者に不審がられ、時に侮られる羽目になったわけであった。  ひとまず完成した十四階の地図は、迷宮内部の理論的最大面積に比すれば、北東に偏っていた。現時点では空白になっている区域のどこかに、墓所に通じる道が隠されているのだろう。だが、ここまで調べた限りでは、それらしい隠し通路はない。どこか見落としているのかもしれない。  墓所への道は未だ発見されていないが、別の重大な発見を、『ウルスラグナ』は為していた。  二週間程前に宿屋の女将から捜索を頼まれていた、清浄な空気に満たされた場所を、この階でついに発見したのだ。  宿屋の女将から預かった大気測定装置の中に浮かぶ小さな球体の全てが、赤い輪の作るラインより下がったのは、迷宮のほぼ真北に位置する区間であった。正直、安全な場所とは言えないが、そのあたりは衛士にしっかりと働いてもらうのを期待するべきだろう。  大気測定の報告を女将に行い、労いの言葉と共に、その日の風呂代を無料にしてもらった翌日、迷宮入りする前に、『ウルスラグナ』は再び十四階の地図を開いて考えた。 「……さしあたって、もう一度、しらみつぶしにするしかあるまい」  とナジクが溜息と共に言葉を吐き出すと、昼組一同が同じように嘆息する。ついでとはいえ、一度探索した区域を再び調べなくてはならないのは、精神的にめげる。それでも、十四階と区切られている分はましなのだろうが、 「まあまあ、大発見には地道な努力が必要よぉ、頑張ってぇ」  と呑気に囃すマルメリに、(本気ではないが)憎悪を抱きそうになったほどだ。 「……ま、とにかく、下り階段(いりぐち)付近から、潰すしかねぇよな」  朝飯後に出たデザートの焼きプリン(ドゥアト作)が美味しかったので、幾分か機嫌と元気を取り戻した昼組一同は、ともかく方針を固めると、いつ報われるかも判らない徒労の探索に出掛けた――はずであった。  しかし、努力は、十三階に続く磁軸の柱から迷宮に突入し、十四階に上がった後、一時間もしないうちに、報われたのである。  それは、階段のある小部屋の東にある小径に踏み込み、木々の壁をしらみつぶしに調べていた時のことであった。  手分けして通れそうな場所を探すも、普段は黙々と作業を続けるナジクでさえも眉根を寄せて首を振る程に、徒労の作業。それでも調べ続けながら、道を南下し、やがて西へと曲がる。  このような作業をいつまで行えばいいのだろう、と思いつつも、少し拓けた場所に差し掛かる。この場所には今来た方にしか道がない。調べ尽くして何もなかったら、引き返さなくてはならない。やれやれ、と溜息が出かけた、その時だった。 「……あれ、誰だ?」  不意にアベイが声を上げた。  誰だ、だと? 他一同は、ぎょっとして身構えた。  『誰か』などという代名詞で示されるような存在の気配は、全く感じなかった。ついでに言うなら『何か』さえもだが、アベイの言葉は、相手が少なくとも見た目は人間型であることを示している。  メディックの青年が視線を向けている方に、他の者達も目を向け、そして息を呑んだ。  それは白い人影だ。少なくとも魔物ではないのは確かだった。いささか遠いところにいるため、目鼻立ちどころか、髪型さえも判らない、茫洋としたものだった。が、人影の視線が自分達に向いていることは、どういうわけか、はっきりと判った。  人影は、辺りの景色に溶け込むように、気配もなく冒険者達を見つめている。  そこで、一同は背筋にそぞろ寒いものを感じた。  どのように感覚を研ぎ澄ましても、人影からは気配を感じないのだ。  気配が微弱なだけならわかる。たとえば第二階層に巣くっていた、カボチャの形をした魔物。あの魔物も、気配をほとんど感じさせず、磁軸計での捕捉ができない。しかし、それでも、訓練すれば、人間の感覚でその気配を捉えることは可能だった。  だというのに、目の前の人影は何も感じさせない。文字通りの『無』だ。  幽霊のように――とは言えない。幽霊も気配を持つ。だからこそ人間は、その気配を感じて怯えるのだから(実在の真偽はここでは置いておく)。  敢えて何かに例えるなら、幻灯機で投影した映像のよう。されど、人影は、投影のような扁平なものとは違う気がする。  用心しながらも、正体を確認しようと、一歩踏み出した、その時である。  ひょう、と一陣の風が吹いた。人間や魔物に踏み固められていなかったとおぼしき雪が巻き上げられて、視界を真白に染める。冒険者達は己の方向を見失ったが、それも、視界が晴れるまでの一瞬だけのことだった。  しかし、その一瞬で、人影は幻のように姿を消している。我が目を疑うも、もうそこには何もない。  一体あれは何者だったのだろうか。  やはり人間とは思えなかった。そんな思いは、人影がいたであろう場所に歩を進めた時に、確信と化した。  足跡が、わずかな痕も存在しなかったのである。  第三階層は、常に小雪がちらつく環境だが、かといって、冒険者達が今いる場所に来るまでに足跡が完全に埋もれる程には降っていない。先程吹いた風に巻き上げられた雪で埋もれた可能性もなくはないが、周囲に、自分達が人影を見る少し前にいたらしい、魔物の足跡が、多少なりとも残っていることを考えれば、人間の足跡が完全に埋もれたとは考えにくい。  つまり、人影は、浮いていたわけでもないならば、体重がないとしか考えられない。そして、体重のない生物など存在しないのである。 「実は、例の『翼持つもの』だったりしてな」  というのはアベイの推論である。確かに、地に足を付けずにいられる、という点では、条件に合っている。しかし、彼らは生き物なのだ、そうであれば気配くらいは感じ取れるだろう。そもそも、人影に翼らしきものはなかった。 「一番簡単な結論は、『化かされた』ってところでしょうかいな」  曰く、焔華。東方には、狐狸の類が人間に幻を見せるという言い伝えがあるという。狐狸やら妖精やらの仕業かどうかはともかく、自分達が化かされた――幻を見た、と考えるのが、心情的には納得しやすい。 「光の屈折の関係で、別のところにいる誰かの姿を見たのかもしれないですね」  とは、フィプトの推論だが、見渡す限りでは、人がいるなら樹木の壁の向こう側だ。推論を採用するには、少なくとも『ウルスラグナ』一同が人影を見ていたときに、樹木に遮られないところに誰かがいる必要がある。『ウルスラグナ』が目眩ましを受けた時にどこかに隠れたにしても、その痕跡が残っていなくてはおかしい。  一番腑に落ちた推論は、 「そこら辺の木が、光の屈折で蜃気楼に映ったのを、見間違えでもしたのだろう」 というナジクのものである。つまらない結論だが、説明は付く。 「なんだよ、『氷王』サマの霊が墓への道を教えに出てきてくれたと思ったのによ」  エルナクハの悪態は、もちろん冗談であった。しかし、ふとナジクが眉根を寄せて、近場にあった樹木の壁を調べ始めた。やがて、枝を寄せて壁の中に入り込んだレンジャーの青年は、再び現れたときには呆然としていた。 「……道がある。ひょっとしたら、これが『氷王』の墓に続く道かもしれない」  ――おそらくただの偶然ではあるが、『嘘から出た真』とは、このことを言うのだろうか。  若干通り抜けにくい木々の間を抜けた先には、細いながら、はっきりとした道がある。いささか曲がりくねっているその道は、少なくとも数十年は誰も踏み込んだことがないように見えた。  まったく足跡の残っていない雪を踏みしめ、道なりに南西方面へ進むこと一時間弱。  行き当たった扉は、第三階層のあちこちにあるものと変わりないものだったが、一同は漠然とながら悟っていた。  この扉の向こうに、『氷王』の墓所へと続く道が確かにあるのだと。  夜の樹海の恐怖など、これまでに自分達が感じてきた恐怖に比べれば、どうということはない。  あまり怖がらなくて済むのは、猛者達が護衛として付いてきてくれているためでもあるが、仮に自分一人だったとしても、ドゥアトは樹海を怖れることはなかっただろう。もちろん、恐怖を感じないのと、樹海に対抗できるのとは、別の話だ。本当に一人だったら、今のドゥアトはあっという間に魔物に食い殺されるに違いない。  それでも、怖いものは樹海などではない。  彼女達にとって、一番怖いものは、人間だ。  少し前までは仲間達と談笑しつつ鍛錬を行ってきた彼女だったが、その思い出に意識が至ったとき、目を細めて押し黙った。 「……休憩したいんだけど、いいかしら?」  共にいた仲間達――アベイ、マルメリ、ティレン、ハディードは、申し出を快く受け入れてくれた。  適当な場所に敷物(ラグ)を敷き、簡易的な獣避けを連ねた縄を張って、野営地が作られる。ついでだからと携帯食を取り出す仲間達だったが、しかしドゥアトはそうしなかった。 「……ちょっと怖がらせちゃうかもしれないけど、ごめんね」  そう言い置いて、思考の沼へと沈み込む。南天(ナンディーナ)の瞳は冥府の底に生える柘榴の果肉となり、まとう母性は鬼子母(ハーリティー)の悲憤と化す。仲間達がその豹変を怖れ、そっと距離を置くことさえ、目に入らず、古い古い神話の冥界の名を持つカースメーカーは、意識を過去に向けていた。  幼い頃は戦場にいた記憶がある。  従姉妹達とともに駆り出され、鋼に身を包んだ敵を相手に呪詛を手向けていた。  彼女達は幼くして絶大な負の力を得た呪術師。しかし、彼女達の一族はその信条により、感情を大事にする。だから戦場を離れたところでは、まだ二桁に遠く満たない歳の少女らしい愛らしさを見せ、味方を和ませ、元気づけた。  だが、一族の信条は、少女達を傷つけもする。凍らぬように暖め続ける感情に、無慈悲に刃を立てるのは、自分達の呪詛で死んでいく敵の殺意と、それを目の当たりにした味方達の抱く恐怖。それらを甘受してさえ戦場に立つのは、敵を殺さなくては自分達が滅びるからだ。  事実、里はもうない。敵の刺客の手によって炎の中に消えた。生き残りは、少なくとも自分達が把握している限りでは、自分達三人だけ。  が、それは過去の話だ。果てが見えなかった戦は、既に終わった。自分達は失った故郷を再建し、同士を再び集め、跡継ぎを得た。だから、かつての悲しみは、「昔はそんなこともあったわねぇ」と振り返れる程度には、自分達の中では昇華されている。  では、『昇華されている』と言い放ちながら、自分が今まとっている、この負の感情は何だ?  自問自答が真実を掴み出す。幼い頃の思い出は、あくまでも、負の感情をまとう原因となった記憶によって引きだされたものに過ぎない。  その記憶。エトリアで出会った一人のガンナーの少年のこと。彼のことを思い出すときに、怒りの雷挺を孕んだ暗雲が心を侵すのを感じる。決して彼自身に向けた怒りではないのだが――。  ガンナーの少年は、ドゥアトが仇敵として追っている銃士『バルタンデル』の弟子だ。  少年自身は師の企みを知らなかったらしい。だからドゥアトは少年自身に敵意を向けるつもりはない。ただ、思うのだ。 「あの子は、今頃元気でやっているかしら……」  少年は憤っていた。師の行動を、自分と自分達が属する組織に対する造反だと。組織に帰還後、背信の報いを受けさせるつもりだ、と語り、エトリアを去った。少年が今なお帰路の途中なのか、すでに師を追って旅立っているのかは、判らない。  ハイ・ラガードで再会することがあるだろうか。だが、『バルタンデル』が裏切った組織は、ラガードに比較的近い場所にあるという。それを考えれば、好きこのんで近付くとは思えない。ドゥアトにしても、ハイ・ラガードで仇敵を探すのは、あくまでも、『もう一人』を捜すついで。ここでは情報が掴めれば御の字で、本人を見つけられるとは思っていない。  そこでドゥアトの思考は跳躍する――そういえば、『あの子』はどこにいるのかしらねぇ。  探している『もう一人』。ハイ・ラガード近辺にいることまでは、はっきりしている。だが、以前『ウルスラグナ』一同に語ったように、見つけてどうするのだろうという気持ちもある。無理に探さず、『彼女』の好きなようにさせてやっておけばいいのではないか、と。とはいえ、遠目に見かける程度でいいから、無事は確認しておきたいと思うのだ。  そして思考は元の位置に跳躍する。  思えば、ガンナーの少年は、年齢的に自分の子供のようなものだった。エトリアに少年が来ていた時には、本当の息子のように構ったものだ。そんな子供が、まだ幼い頃から、事情があって、銃を手にして組織に身を投じていたというのだ。その様が昔の自分達と重なったから、自分は過去を想起した。  自分達の件は過去のことだが、ガンナーの少年のことは現在のことだ。  ――今回の任務を成功させたら、組織を脱退して自由になれるんです。  少年は、そう語っていた。それが、今回の件で、ご破算になってしまった。  正確に言うなら、任務は失敗ではない。少年の役目は『エトリアの長を守る』であって、『エトリアの聖騎士を守る』ではないのだから。だというのに、少年は、新たな戦いに身を投じてしまった。背信への報復なら、少年がしなくてもよさそうなものなのに。  ようやく手にするはずだった平穏を捨て、少年の戦いは続く。 「……馬鹿よねぇ、望んで縛られるなんて」  自分達は、可愛がっていた血縁を殺されたのだ。慟哭し、憤怒し、復讐を誓うのも当然だ。望みではある。が、それと同等に、流れる血が、『一族の未来を狩った者を狩り返せ』と叫ぶ。  が、少年が、『任務』を大義名分とし、憎悪と悲嘆の泥沼に自ら踏み込むことを望んでいるのだとしたら、そんなことはやめろ、と言いたい。けれど、少年は既にドゥアトの声の届かないところにいる。何を告げることもできない。  せめて、『任務』に徹してくれるなら、まだ救いがあるのだろうけれど……。 「……かあちゃん?」  囁くような、しかし、はっきりとした、少年の声が、ドゥアトを現在に振り戻す。  我に返って、声のした方を見ると、そこには、一人の少年の姿がある。  ガンナーの少年と同じくらいの年頃の――だが、明らかに別人の容貌だ。その顔を見て、ドゥアトは、自分が今どういう状況にあるか、はっきりと思い出した。 「だいじょうぶ? ぐあい悪い?」  赤い髪の少年――ティレンは、ドゥアトの足下に四肢をついた体勢から、心配げに見上げてきていた。その隣では、ドゥアトの『姉弟弟子』でもあるハディードが、やや尻尾を巻いた様相ながら、少年と同じようにカースメーカーの女を見つめている。  離れているところに視線を移すと、他の二人も、若干の怯えの色を見せながらも、やはり心配そうにドゥアトを注視していた。 「……あー……ホント、ごめんなさいね」  ドゥアトは目を閉ざし、ふう、と一息ついた。目が再び開かれると、現れた瞳は魔を払う南天(ナンディーナ)の輝きを取り戻し、恐ろしき鬼子母(ハーリティー)の悲憤は鳴りをひそめる。 「ちょっと、迷宮を歩いてるうちに、変なこと思い出しちゃってねー」  苦笑気味に微笑むと、仲間達も、ほっとした様子を見せた。  まったくなってない、とドゥアトは自身を制する。仮にもいい年の子を育てる程にまでなった身だというのに、感情の抑制くらいできないとは何事だ。これではパラスに顔向けできようもない。一族の信条は『感情を大事にする』だが、それは無造作に感情を発散してよいという意味ではないのである。  とにかく、『バルタンデル』のことはしばらく心の湖の底に沈めておこう、と彼女は決めたのであった。どうせ『エスバット』のガンナーに会うまでは、有用な情報はないのだ。苛立ったところで、何の益もない。だったら、それまでは一族の信条のよい部分を生かそうと――つまりは、期せずして行うことになった樹海探索を楽しむことにしよう、と思ったのだ。  数日を掛けて、公王墓探索班は、目的地まであと少し(推定)というところまで探索を進めていた。  推定、というのは、地図のほとんどが埋まっていたからである。十四階の隠された道から続く区間を埋めた後、奥にあった階段から十三階の未踏区域に踏み込んだのだ。その結果、十三階の地図上で少し空いていた北側が埋まりそうに見えた。完全に埋まったときには墓所も見つかるかもしれない。 「……まあ、十二階にも降りなきゃならない、ってことがあるかもしれませんけどねー」  昼食後、食堂の卓の上に載せられた地図を、外にいるハディードや不在のゼグタントを除く一同が覗き込んでいる前で、焔華が指摘した。十四階の地図が埋まる直前のぬか喜びを思い出したのである。てっきり同じ階に墓所があると思っていたのに。  しかも、十二階の地図にも空きがあるのだ。十三階の未踏地域を埋めた果てが墓所ではなく、また階段だったとしても、不思議ではない。 「それでも獣道が見つかった分、苦労は減りますよね」  そう言いながらフィプトが指したのは、十三階の地図の上、元・未踏区域の途中まで仕上がっているあたりと、迷宮本体の方の北側、その境目に、両区域を繋ぐように引いてある矢印だった。幸運にも見つけられた獣道。それを使えば、また十四階まで登って長い道を辿らなくてもいいし、それに、 「なにより、あのバケモノに会わなくてもいいしな」  うんうん、とエルナクハは頷いた。  墓所への道には、懸念していた邪竜こそいなかったが、もっと厄介な輩が現れたのだ。第三階層に進入して間もない頃に出会ったスノーゴースト――にそっくりだと見せかけて、全く異なる何かだ。それが近くにいるときに全身を駆けめぐった、嫌な予感。明らかに邪竜と同等以上の力を感知したそれに従って、正解だった。なにしろ、そいつはそれだけの力を持っていながら、磁軸計に反応がなかったのだ。第二階層のカボチャ――あの魔物とは今や対等に戦えるようになっていたが――のような強敵に違いない。  事実、逃げを打とうとしたときに遅れたアベイが、その魔物の吹き出す吹雪に巻かれて生命を失いかけた。いくら後衛職で肉体的に脆弱とはいえ、そこらの魔物の一撃二撃でへこたれない彼がだ。久しぶりに、這々の体で逃げたものである。  獣道を使えば、その魔物に遭遇した場所を通らずに済む――その先にも奴らが登場しない保証はないが。  そろそろ属性防御系の盾技の強化を視野に入れなければならないか、と考えるが、それはさておき。 「でよ」  エルナクハは、食後のデザート皿に積んである果物の中から、リンゴを拾い上げ、そのままかぶりつきながら、話を変える。 「そろそろ、十五階の脅威に備えたパーティを決めたいんだがよ」 「なに? お墓見つけたらすぐ十五階に乗り込むの、兄様?」 「その前に、『飛来する黒影』くらいは倒せるか試してぇけどな」  言葉を切ると、仲間達が一斉に身を乗り出す。ただし、元から留守番のセンノルレと、どう転んでも探索に加わるアベイは、相変わらず落ち着いたものである。  仲間達の前で、エルナクハは、新たなパーティ編成を口にした。ひとつ名前が挙がる度に、ひとつの歓喜の叫びと、多数の落胆の溜息が、室内を満たす。  ただし、五人目だけは決められなかった。その席はカースメーカーどちらかのものであるのだが、現段階で決めてしまうのはよくないだろう、と思ったのだ。  こうして決まった新たな探索班(未完成)が生かされるのは、もう少しだけ先のことになるはずだった。今は、墓所を見つけるのが最優先事項であるから。  とはいえ、目的は、その翌日に果たされることになるのだが。  昼組の冒険者達は、前日に見つけた獣道から、墓所への道へと踏み込んだ。  ソリを一台失敬して持っていっているのは、荷物をそれに載せて楽に進むためでもあるが、凍った水路があるかもしれないことに備えてでもあった。  曲がりくねった道を東へ進むこと、半時間程。『ウルスラグナ』は、ついに、道の最奥と思われる場所へ辿り着いた。  目の前に佇むは、大きな扉。しかし、その様子は、他の扉とは大きく異なっていて、真っ白だった。否、扉自体が白いわけではない。表面に、びっしりと霜が張り付いているのだ。  扉の向こうから、じんわりと漏れ出てくるものは、想像を絶する冷気。 「何だよこれ、センセイの作った壷みたいじゃねぇか!」  それも、長持ちする方ではなく、『アイスクリーム』を作る方のだ。  エルナクハは、あの壷をうっかり素手で掴んでしまったことがあるが、その時に掌にかかった負荷たるや、凄まじいものだった。冷たいというより痛いと表現した方がいい状況だったが、壷を落とすわけにもいかず、ゆっくりと元の位置に置くまでの間が永遠の地獄のように感じたものだった。  今は厚手の手袋もはめている。扉を開ける程度ならどうにかなるだろう。が、中はどうなっているのか。なにしろ、樹海は密閉空間ではないのだ。だというのに、これだけの冷気を蓄えているとは、ただ事ではない。  唐突に、フィプト以外の全員が、原因に思い至り、思わず身を固くした。  ――まさか、『あいつ』ではあるまいか。  エトリアの探索が一段落付いた後、遺都シンジュクのさらに下に新たな迷宮が発見された頃のことだ。  冒険者達が多く集う『金鹿の酒場』の常連客に、片腕のない男がいたのだが、その男が、女将に依頼を出した。曰く、エトリア樹海第三階層『千年ノ蒼樹海』に、蒼き竜が実在するか否か。男は、ひょんなことからその竜と一人で戦う羽目になり、腕を失ったという。  結論から言えば、竜はいた。蒼い鱗に身を包み、同色の翼を広げた、三つ首の竜。其は冷気の嵐を身にまとい、氷を操って冒険者達を苦しめた。『ウルスラグナ』はその竜を辛うじて倒すことができたが、それは此方に氷属性を無効化する手段があったからだ。  今感じているほどの冷気を操れるものは、かの竜か、それ以上のものとしか考えられない。  古文書にも『蒼き竜の御許』と、その存在を匂わせる記述があったではないか。今にして思えば、邪竜などより、かの『氷嵐の支配者』のことを指すと見るべきだった。 「……やっぱり、属性ガード系の技を鍛錬しとくべきだったかなぁ」  属性攻撃から身を守るには、『ミスト』と呼ばれる霧状の薬剤を利用する、各属性から身を守る特性を持つ鉱石を利用した護符を身につける、等の方法があるが、最も確実なのは、熟練したパラディンの盾技『属性ガード』を使用することである。とはいえ、パラディンが能動的に技を使う必要がある、熟練していなければ完全に防御できない、など、いくらかの欠点もある。  なにより、どの手段も今は持ち合わせていない。ミストは、第三階層で見つかった水仙人掌から精製できたし、護符も、雷を除けば、第三階層までに見つかった素材から作られていたが、それらを調達してきたとしても、今の『ウルスラグナ』では氷竜の攻撃に耐えきることはできないだろう。そして、属性ガードも、樹海で通用するだけの錬度ではないのである。  では、このまま尻尾を巻いて逃げ帰るべきか。  それも一手ではあろう。生命あっての物種だ。大臣には悪いが、依頼を放棄させてもらうのが一番いい。  だが同時に、せっかくここまで来たのだから、進みたい、という思いもある。  単なる物珍しさから危険を軽視しているわけではない。古文書に書かれているように、危険な存在が近くにいる、にもかかわらず、当時の関係者は、まさにその近くに『氷王』を葬ったのである。とすれば、墓所は辛うじて竜の縄張り外とも考えられるのだ。エトリアの竜も、縄張りに近付きさえしなければ、襲ってこなかったのだから。 「あ、あの……」  ただ一人、事情のわかっていないフィプトが、もどかしげに声を上げる。その二の句か継がれる前に、エルナクハは言葉を放った。 「センセイ。ひょっとしたら、これからオレらはとんでもねぇ魔物に出会うかもしれない。ちびるなよ」 「ちびるって……そ、そんなわけあるはずないじゃないですか!」  珍しく声を荒げたフィプトだったが、他四人が、これまでにもなかったような真剣な眼差しを扉に向けているのに気付き、一度は口をつぐんだ。やがて、おずおずと切り出す。 「……奥へ、行くつもりですか?」 「行かなきゃ、墓所も見つからないからなぁ」と、アベイが、表向きは飄々とした口調で答える。 「フィー兄は、興味ないのか? 墓所があれば歴史の大発見になると思うけど」 「あります! あります……けど、奥にそんなに危険な魔物がいるなら――」  そう言いかけたところで、フィプトはエルナクハと目が合った。黒い肌の聖騎士は、ニマニマと笑みを浮かべ、錬金術師の次の言葉を待っている。そう認識した瞬間、フィプトは反射的と表現してもいい程の速さで結論を口にした。 「――いえ、行きましょう。引き返すのは、魔物の気配をしっかりと感知してからでも、遅くはない」  フィプトの言う通り、魔物自体の気配は、今のところ感じられない。彼の言い分は一理あるだろう。 「……決まりだな」  全員の意志を代弁するように、ナジクが宣し、誰が動くよりも先に扉に手をかけた。慌ててエルナクハもそれに倣う。厚い手袋を通してさえも、ぴりぴりとする、火傷にも近い痛みが、掌に伝わってきた。だが、それが耐え難いものとなるまで、扉に触れている必要はなかった。力を加えられた扉は、これまでのものよりは鈍い速度ではあったが、低い音を立て、左右に分かれていった。  隙間ができた瞬間、内側から冷気が凄まじい勢いで流れだしてきた。エルナクハとナジクは悲鳴を上げて扉の前から飛び退き、他の三人はすでに待避していたが、慌てて縮こまり、身を守る。  しばらくは、冷気を孕んだ暴風が、場を支配した。  やがて、空気の流れは静かに止まり、雪に音が吸い込まれるために生まれる独特の静寂が戻ってくる。 「……終わった、か?」  冒険者達は、恐る恐る扉に近付いた。  全開になった扉の傍で、問題の冷気を感じることは、もはやなかった。その残滓か、若干の気温の低下を感じる程度である。  緊張しながら扉の向こう側に踏み込むが、これまでと大きく変わることのない光景が広がるだけだった。  いささか拍子抜けしたものである。だが、それも、ナジクが口を開くまでだった。 「――この区域は、いつも酷い冷気に晒されているようだな」  レンジャーは近くにあった枯れ木を調べていた。常人には判らないが、彼には何か判断の元となる事象を見つけられたのだろう。どうやら、警戒レベルを平常に戻すのは早いようだ。  ただ、冷気が緩んでいる今が、進み時とも言える。  一同は警戒だけは怠らないようにして歩を進めた。間もなく、第三階層のあちこちで冒険者達の行く手を阻んでいる氷の山と、その間に通る細い氷の道を見つける。ソリを持ち出してその凍路を越え、なんとか部屋の奥へ辿り着く。  そこには、他の場所とさほど変わらない雪原が広がっているだけであった。  だが、戸惑いながらもさらに歩を進めていたとき、ひょう、と風が吹いた。足下の雪が風に煽られ、渦を作って舞い上がる。やがて風が止み、舞った雪は再び地に降り落ちたが、元あった場所に完璧に戻ったわけではない。  雪を失った場所に、奇妙なものが顔を覗かせているのを見て取って、『ウルスラグナ』は表情を改めた。  雪と好対照を見せる、黒御影石(と思われる)で作られた足場であった。  だが、周囲の雪を払うも、墓石によくあるような鎮魂の言葉の一句も刻まれておらず、本当に墓なのかという疑いが首をもたげる。それでも、さらに雪をどけていくと、あるものが現れた。  尾をくわえない知識の蛇(ウロボロス)を想起させる紋章。  紛れもない、大公宮でも見た、ハイ・ラガード公国の王紋。  間違いない! この場所こそが話に聞いた『氷王』の墓所なのだ!  それにしても、本当にあったとは。  正直な話、こんなところに埋葬するなど、正気の沙汰ではないと思ったものだ。遺言だからとて、死んでしまった後のことなのだから、遺された方がその通りに実行する義理はないはずだ。だというのに、墓は存在した。託された方が律儀だっただけか。あるいは、そうしなくてはならない理由があったのだろうか。  まあいい、その件は、追々、記録の中から見つかるかもしれない。  もののついでに、周辺の地図を仕上げることにした。  その過程でも、何度か魔物と出くわしたが、全てが小物だった。心配していた『氷嵐の支配者』は、影も形もない。逃げたのだろうか? それとも、初めから存在せず、あの極低温は別の要因で引き起こされたものだったのか。 「いないですね、とんでもない魔物とやらは」  フィプトがつぶやく言葉が、なぜか妙に得意げに聞こえて、エルナクハは眉根をひそめた。だが、よくよく考えれば、いるかどうかも定かではなかった氷竜をダシにしてアルケミストをからかったのは、自分が先である。だから、首をもたげかけた不快感を抑え、無言で肩を竦めるに留めた。  やがて、付近を回り終え、顕わになった墓石のあたりに差し掛かったときのことである。 「……あら?」  最初に気が付いたのは焔華だった。  身をかがめ、雪の上を撫でた彼女が再び立ち上がったとき、一瞬、雪をすくい上げたように見えたのだが、そうではなかった。  ブシドーの娘の手にあるのは、一輪の花。雪ほどに真っ白な、一輪のアウラツム(ヤマユリ)の切り花だったのだ。  茎葉の部分は、風に飛ばされないようにか、半ば雪に埋もれるようにしてあったらしい。来た時に気が付かなかったのも無理はない。よく踏みつぶさずに済んだものだ。  それにしても奇妙な花だ。あの冷気の中にどれだけ放置されていたかは知らないが、凍ったような様子もなく、未だ瑞々しく、美しい彩りを保っている。『ウルスラグナ』の前に誰かが来ていて、鎮魂か何かのために、ここに置いたのだろうか?  ……大公宮の古文書の記述でやっと存在が知られたはずのこの場所に、誰が?  何か、墓所についてのさらなる事実を知る助けになるかもしれない。そう考えた冒険者達は、アウラツムを大事に持ち帰ることにした。ザックの中では潰れてしまいそうなので、アベイの医療鞄を整理して空きを作り、その中にしまうことにする。  これで、目的は達成した。後は街に戻り、大公宮から報告受付の委託を得ているはずの、棘魚亭の親父に、墓所発見の報を伝えるだけだ。  ――その前に、私塾に戻って、暖かいシチューでも食べたい。一同は、いつもにも増してそう感じたのであった。  そうして、一旦私塾に戻り、人心地付いた探索班一同は、酒場に顔を出し、親父に一部始終を報告する。  親父はどうやら、『氷王』本人を探しに行ったと思っていたらしい。正しい探索対象は墓所だったと聞いて、あからさまにつまらなさそうな表情を見せる。七代前という遠い過去の王が、樹海の中で未だに生きているとでも思っていたのだろうか。  が、そんな親父も、話が進むに連れて、興味津々の体を見せる。 「……ってこたぁ何だ、お前らより先に、何代か前の王様は、世界樹の中に入ってたってことか?」  ハイ・ラガード国民のほとんどにとって、樹海の入口は、数年前にその存在が明らかになったものである。さらに対外的には、樹海発見は数ヶ月前のことでしかない。  酒場の親父含む多くの者は、『呪術院』が、はるか昔から樹海を出入りしていたことを、知らないのだろうか。  そう考えたとき、果たして誰が『氷王』の遺言を果たしたのか、ふと判った気がした。だとしたら、花を供えたのも――。 「なぁ親父、報告すんのに、コイツいるかな?」 「あン?」  エルナクハが差し出したアウラツムの花を、親父は訝しげに眺めた。新種か、とでも思ったのだろうが、残念ながら、真っ白いこと以外は、ただのヤマユリである。興味を失い、肩を竦めて曰く。 「あー、要らねぇよそんなモン。何のために必要なんだ?」 「何のためって、墓があった証拠、とか?」  と答えるエルナクハにしても、自信なさげである。墓所に供えてあったとはいえ、究極的にはただの花。証拠なら、もっとそれらしいものを持ってくるべきだったのだ。持って帰れるようなものはなかったし、墓石を砕くわけにもいかなかったわけだが。  そんな聖騎士の肩を、親父はポンポンと叩き、慰めるように口を開く。 「なに、どうせ大公宮が衛士隊を送るんだ、王様の墓ってヤツがそこにあれば、誰でも信じるさ。別にウソ報告してるわけでもねぇんだろ?」 「当たり前だろう」と不機嫌にナジクが返す。  ともかくも、報告はすべて終えて、報酬も受け取った。これで、七代前の『氷王』の墓所に関することは、ひとまず終わりである。あとは大公宮から調査団が派遣される。隣国の侵略から母国を守りきった英雄の足跡だ。調査の時間が必要だろうが、余程秘する必要がある事柄以外は、いずれ公表されるだろう。  しかし、エルナクハにはやることがある。必要なことではない、だが興味に駆られたことだ。  そのためには、もう二度と行くことがないと思っていた『あそこ』に赴く必要がある。  相変わらず、並べられている珍品のひとつと間違えそうに枯れている老婆が、エルナクハを出迎えた。  案内してくれた少年も、室内の黴びた匂いも、以前と全く変わらないが、違うところがひとつある。 「おや、今日はひとりで来たのかい」  老婆の指摘通り、エルナクハがひとりで、この『呪術院』に足を運んだ、という事実だ。  対面する老婆に怯えを感じるのも、以前と同じであった。二度目の対面だからとて、容易く改善されないだろう、というのも予想していた。にもかかわらず、ドゥアトの同行も求めなかったのは、簡単に言えば『男の子の矜持』というものだろうか。本来なら調べる必要がない、しかし、己の好奇心に引っかかることだから、他人の手は借りられないというものだ。  しかして、老婆に「二度目なのに、まだお母さんの助けが必要なのかい?」と鼻で笑われるかもしれない、という想像に我慢ならなかったというのが、実情である。  虚勢の甲斐あってか、取り越し苦労だったのか、ひとりで来たことについてはそれ以上触れられずに、話は進む。  エルナクハが老婆に差し出したアウラツム。 「おやおや、花だなんて、あんたには奥方がいるのだろうに、浮気かい?」 「アホ」  老婆のからかいに、思わずエルナクハは反駁してしまった。相手の冗談に、一瞬、気が緩んでしまったのだ。慌てて気を取り直し、呪術師の老婆に改めて問い質す。 「この花を樹海内に置いてきたのは、アンタの同胞じゃねぇのか」 「おや、どうしてそう思うんだい?」  老婆の様子からは、とぼけているのか、どうしてそう思われたのか本当に判らないのか、判断できなかった。しかし、他にはいないのだ。公王を樹海に葬るという真似ができた者――公王家とそれなりの繋がりがあり、かつ、当時すでに樹海迷宮の存在を知っていた者。おおよそ二百年前の『呪術院』。  大公宮が墓所のことを忘れてしまっていたのなら、他にその存在を知る可能性を持つのは、『呪術院』を継ぐ彼女達以外に、誰を考えられるというのだろう。 「ふむ……確かに、『氷王』の遺言を受けて、かの王を樹海に葬ったのは、当時の『呪術院』さ」  事情を聞いて、『呪術院』の長は、しかと頷いた。その瞳には昔を懐かしむような輝きが宿っていたが、さすがに当時、彼女が生まれていたとも思えない、おそらくは想像しているだけだろう。だが、感情移入ができるという点を考えても、ある程度の記録が残されており、現在の長である彼女がしかと目を通したのは間違いあるまい。しかし、老女は静かに首を振った。 「でも、その花を供えたのは、ワシらではないよ。ワシらに伝わっていたのは、『氷王』に頼まれて、かのお方を樹海に葬った、という、それだけだからね」 「じゃ、場所も、『氷王』の遺言の真意も、なーんもわかんねぇってことか」 「ま、そういうこったね」  ふぁふぁふぁ、と笑うように、老婆は口を歪めた。 「……じゃあ、竜のことも、知らないわけか」  むしろ真に訊きたいのはそちらのほうだった。  エトリアの樹海にいた三体の恐ろしい竜。この世に『竜』の名を冠する生き物は数多存在するが、かの三竜に比すれば全てが紛い物であろう。普通の『竜』も、凡百の人間が敵う相手ではないが、三竜は桁が違う。  伝説やおとぎ話の中では、人口に膾炙し続けた、三界の支配者達。  その一体が、『氷王』の墓所付近にいるのかもしれないのだ。  話を聞いた老婆は、腕を組み、むぅ、と唸りながら、言葉を続けた。 「氷竜、とはねぇ。ひょっとしたら『氷王』は、何かとんでもないことに巻き込まれてたのかもしれないね」 「とんでもねぇこと?」  老婆への恐怖も忘れて、エルナクハは身を乗り出した。 「竜は、人に対する試練、って言い伝えが、ワシらのところにはあるのよ」 「試練?」 「そうさ、試練を越えさせることで何をさせるのか、ということは、さっぱりだがね。まあ、簡単に考えれば、『強くする』かね」  エルナクハは二の句も継げなかった。あの三竜の強さは『相手を強くする』などというものではない。ただ殺しにかかっているだけだ。少なくとも、人間の側から見たら、理不尽の権化という以外にない。  もっとも、三竜と戦い、生き抜くことで、自分達がさらに強くなったことも、否定できないが。あれが『試練』というなら、なんという拷問(スパルタ)教育だろう。  だが、何のために、人間を強化することを望む?  迷宮の先へ進むために強さは必要だ。エトリアでは、三竜と対峙した結果として手に入れた力で、樹海の支配者を打ち破ることができた。けれど、それが竜にとって何の意味があるのだろう? 「まあ、何にせよ、気を付けることだね。あんたの言う通り、世界樹様の中に三竜が存在するなら、いつか対峙することになるかもしれないだろうからね」 「……だな」  エルナクハは礼を言って、踵を返した。そして考える。  本当なら、あんな恐怖に対峙することがないほうがいい。自分だけなら、戦人として、強い相手に心躍らされるものがあることも、否定できない。仲間達も幾人かは同じかもしれないが、だからといって、対峙することが九割九分の死を意味する相手に、易々と挑むわけにもいかない。 「お待ち」  背後からの声に振り返ると、老婆は何かを差し出している。先程見せたきりだったアウラツムだ。 「こんなところにあっても、場違いだからね。持っておかえり」 「あ、ああ、悪ぃ」  エルナクハは頷くと、アウラツムを受け取り、部屋の前で待ち受けていた案内の少年の招きに応じて、帰還の一歩を踏み出そうとした。と。 「……やれやれ、前に来たときの方がいい男だったねぇ。今回が悪いってわけじゃないけど」  そんな老婆のつぶやきが耳に入った。  何のことだ、と思わずにはいられなかった。人が他人を評価することを止められるものではないが、よくない評価をあからさまに言われれば少しは腹も立つ。しかし、竜の話を終えた途端に戻ってきた、老婆に対する恐怖心が、軽い腹立ちを遙かに上回った。だからエルナクハは、反駁する気も起きず、黙って少年の後について、さっさと『呪術院』を辞することを選んだのだった。  七代前の氷王の墓所の探索も無事終わったので、『ウルスラグナ』は、ようやく十五階へと踏み込んだ。  この頃には、『ウルスラグナ』に比肩する冒険者達は、ほとんど存在しなかった。皆、十五階の最中で果てたのだろう。ただ一組、『ウルスラグナ』の少し前に十五階に踏み込んだギルドが、健闘しているらしい。  ぼやぼやしていれば、そのギルドに引き離されるだろう。しかし、『ウルスラグナ』は慎重さを捨て去る気はなかった。  『エスバット』に忠告された恐ろしいモノ――あるいは『エスバット』自身――を警戒し、探索班を組み直し、自分達のペースを崩すことなく、地図を埋めていった。  かねてより相談していた通りに組み直された、主軸の探索班は、エルナクハ、焔華、ティレン、アベイ――そして、結局はドゥアトではなくパラスであった。得意げな娘に対し、母は少し残念そうな表情を見せたものだが、文句を言うことはなかった。  十五階の探索を進めながら、酒場の依頼を請け、力試しに『敵対者(F.O.E.)』と対峙する。そんな毎日。懸念であった『飛来する黒影』を下し、復活の噂があった炎の魔人を再び打倒する。力は、確かに着実に身に付いている。  そろそろ、先に進むペースを速めてもいいか、と思い始めた頃。  『ウルスラグナ』と並んで十五階を探索していたギルドが壊滅したのは、王虎ノ月も三分の一を過ぎた、そんな折であった。 「……油断していたわ、どんな策(て)を使ったの!」  『エスバット』のドクトルマグス・アーテリンデは、今までにない焦燥を顕わにしながら、膨らみかけた月の光が差し込む迷宮を急ぐ。その後方を護衛するかのように、ガンナー・ライシュッツが無言で続いた。  十五階ともなると、世界樹を蝕む虚穴も大きく、多くなってきており、陽光や月光の差し込む度合いも、下階に比べれば遙かに強くなっている。  それが、『エスバット』にとっては好都合だった。  第三階層の各所にある、凍った水路が、十五階にも存在する。ほとんどの場所は昼夜問わず厚い氷に覆われているが、一部、差し込む日光のために他の場所より気温が高くなり、昼には張った氷が薄くなる場所があった。人が通れば割れ、水面下に放り込まれた者は二度と街に戻ることはできないだろう。そんな天然の罠が、奥への道を阻んでいるのである。  だから、『エスバット』は、大事なものを守るために、夜だけ注意していればよかった。昼には樹海を脱出し、身体を休めることができた。ギルド長が自分達に不審を持っているのを感じていたから、事情を聞くという名目で拘束されることを警戒し、表の街に寄ることはなかったが、『黄昏の街』で、所属している巫医扶助会(コヴェン)を頼ることができたのである。  言い換えれば、昼は油断していた。誰も先に進めない、と、高をくくっていた。  休息から戻ってきた時、渡れなかったはずの水路の両岸に足跡を見つけてしまった時の絶望感は、どれほど言葉を費やしても表せない。  足跡の残り具合からすれば、彼らが水路を渡ってから、数時間が経っている。『エスバット』は慌てて足跡の主を追った。  追う、といっても、後を追ったのでは追いつけそうにない。だから、現時点では自分達がだけが知っているはずの隠し通路を使った。十四階からの上り階段の傍にある獣道から、長い凍結水路を辿ったのである。  十五階の最奥は、大きな凍結湖である。十二階にあった湖からすれば半分ほどだが、大きいことには違いない。ただ、中央付近で東西に広がる陸地が、湖を分断しているため、さらに小さく見えることは否めなかった。  『エスバット』は、湖の西側に回り込み、湖を分断する陸地を注視した。  陸地の上にいくつも転がる、大きな氷塊に取り囲まれるように、『それ』はいた。  否、『それ』を取り囲むのは、氷塊だけではなかった。冒険者が五人、雪に埋もれて倒れている。  冒険者達の身体は、各所の関節を無視して折れ曲がっているようだった。――ただ一人だけ、片腕以外は無事な者がいたが、それ以外の四人は、確実に事切れているだろう。  冒険者達には悪いが、『エスバット』、特にアーテリンデは、安堵の息を吐いた。だが同時に、言葉では上手く言い表せない、やるせない思いが心に満ちていく。  我に返ったのは、新たな動きがあったからだった。  片腕以外が無事だった者が、辛うじて立ち上がったのだ。しかし、それもやっとのこと、息は乱れ、足取りはおぼつかず、もはや戦意はなきに等しいだろう。再び倒れ伏しながらも、無事な方の腕で雪原を掻き、戦線を離脱しようとしている。その動きが、妙にぎこちない。いくら片腕以外が無事だといっても、戦による疲労もあるだろうし、見えないところに負傷しているかもしれないだろうが、どうもそれだけでは説明できない。 「どうやら、麻痺しておるようですな」  ライシュッツが単眼鏡で現場の様子を観察し、判断を下す。「……助けますか、お嬢様?」  とはいうものの、今から助けに行くのは無理だろう。現場に到着した頃には、終わっている。冒険者達を殺戮した『それ』は、今は、足掻く冒険者を感情の見えない瞳で眺めているだけだが、いつ攻撃を再開するか、わからない。冒険者が氷湖のほとりに転がるソリに辿り着くまで、『それ』は黙って見送るだろうか?  案の定、『それ』が動きを見せた。強大な殺意が増大する。あまりにも強すぎて、常人では殺気が放たれていることすら気が付けないだろう。歴戦の冒険者だからこそ判るもの。  このままでは冒険者は殺される。仲間達同様、全身を砕かれた苦悶の中で死んでいくのだ。 「爺や、楽にしてあげて!」  反射的に叫んだアーテリンデの命に、ライシュッツは返事をしなかった。そんな必要はないのだ。ただ無言のままで、銃を構え、雪原でもがく冒険者の背に狙いを付ける。  高らかに響いた銃の音を聞きつけた者は、人間と定義できる者の中では、『エスバット』と狙われた冒険者以外にはいなかった。十五階を探索できる者は、氷湖で壊滅したギルド以外には『ウルスラグナ』だけであったし、その『ウルスラグナ』も、この時間帯では、階を区切る厚い『地面』のその下で鍛錬を積んでいたのだから。  探索を終えた昼組が、いつものように風呂を借りようと、フロースの宿に顔を出したとき。 「ねぇアンタたち、聞いたかい? 十五階のウワサ」  いそいそと近付いてきた女将が、眉根をひそめて、そんな話を切り出してきた。 「なんでも、手足がぐねぐね何本もある、氷漬けの女が出るって話じゃないか。全く気味が悪いねぇ。アンタたち、大丈夫かい? 十五階探索してるんだろ、そんな女に出くわしたりしてないかい?」  どこで聞いたのかと思えば、娘の検診のために薬泉院に行ったとき、耳にしたらしい。  そんな話が出回っているということは、その『氷漬けの女』に出会った者がいるということだ。自分達は出会っていない。おそらくは――自分達同様に十五階を探索していた者達か。  今までは接触を持たなかった。他者(よそ)は他者、と考えていたこともある。が、最大の理由は、先方が接触を拒んだからだ。最初は、せっかくだから共に飲み交わしながら情報交換しようと考えたのだが、例のギルドは、余程『ウルスラグナ』にライバル心を抱いていたらしい。  詳しい話を、といっても、女将はさほど知らなかったのだが、少なくとも、件のギルドが薬泉院に担ぎ込まれたことだけは判った。それ以上は、別のところで情報を集める必要があるだろう。 「エル兄、その、『こおりづけのおんな』が、『エスバット』が言ってた『おそろしいもの』なのかな」 「どうかなぁ」  ティレンの朴訥な問いに答えながらも、エルナクハは考える。  情報が街に流布しているということは、件のギルドは無事に戻ってきているということだろう――否、どうだろうか、『辛うじて』という接頭詞を付ける必要があるかもしれない。今の時点では、全員が無事かどうかは判らないからだ。  ……確認してみるか。  そういう結論になったのは、何らおかしい話ではないだろう。  一旦、風呂はお預けということにして(焔華とパラスが大層残念がったが)、『ウルスラグナ』は薬泉院に顔を出すことにした。  ノックをして様子を窺うと、程なくして、薬泉院に務めるメディックの女性が姿を見せる。話を聞くと、朝方までは随分とばたついていたが、今は落ち着いているらしい。ツキモリ医師を呼べるかどうか問うていると、折良く、会いたかった当の本人が奥から姿を現した。 「おや、アベイ君に――『ウルスラグナ』の皆さんでしたか」 「よう、ツキモリセンセイ」 「コウ兄、徹夜っぽかったみたいだけど、大丈夫なのか?」  ツキモリ医師の、いつもはそれなりに整えてある髪は、統制を失った兵士達の逃走路を形取ったかのようだった。白衣をはじめとする服も、やや崩れているところからすれば、徹夜の治療を終えた後にそのまま仮眠に入り、今やっと目覚めたというあたりだろうか。  アベイが話を切り出すと、ツキモリ医師は大きく頷き、口を開いた。 「詳しい話はギルド長が聞き取っていかれました。僕の聞いた話は――断片的なものでしかないですが、十五階の奥に、とても恐ろしい魔物がいるとか」  やはり、第三階層にもいるのか。世界樹の迷宮において、守護者のように先を阻む、大物が。  キマイラや炎の魔人がそうであったように、環境ががらりと変わる直前に立ちはだかるもの。エトリアにおいては、それらは文字通り樹海の守護者であったことが明らかになったが、ハイ・ラガードではどういう意味合いをもって『そこ』にあるのだろう。その理由は未だにわからない。  エスバットが言う『恐ろしいモノ』も、その魔物のことだろうか。 「あなた方であれば、大丈夫だと思いますが……、くれぐれも注意して進んで下さいね」  ツキモリ医師の心配する言葉を耳にしつつ、少しほっとした。どうやら『エスバット』は冒険者達の邪魔をするつもりはなかったようだ。件の冒険者が第三階層の奥まで到達しても、手出ししてこなかったのだから。つまりは、ライシュッツの『十五階が墓場になる』宣言は、単純に魔物の存在を示していただけなのだろう。  やはり、冒険者同士の反目までならまだしも、殺し合いなどないほうがいい。  そう思っていた『ウルスラグナ』。  だが、その安堵は、詳しい話を聞こうとしてギルド長を訪ねた時に、裏切られることとなる。 「来ると思っていたよ、『ウルスラグナ』」  相変わらず鎧に身を包み、素顔を見せないギルド長は、兜越しの性別不詳の声をもって、冒険者達を歓待した。 「第三階層の奥で謎の魔物にやられた冒険者の件、お前たちはそれを訊きに来たのだろう」  お見通しのようだった。  というより、よくよく考えれば変なのである。ツキモリ医師が徹夜で治療した程に重傷の冒険者。ギルド長がその者から何かを聴き取ろうとしたなら、院長であるツキモリ医師か、その次くらいに腕の立つメディック、そのうちの誰かが立ち会っていなくてはおかしい。立ち会っていれば、冒険者の話も聞いたであろう。だが、ツキモリ医師は「話はギルド長が聞いていったが、自分は断片的にしか聞いていない」と表明したのである。  たぶん、ギルド長が口止めしたのだ。心身どちらかに問題を抱えて不安定になっている者も集う、薬泉院という場所で、あまりに衝撃的な話をさせないように。  とはいえ、既に情報として流布している、人間の女に見えること、氷漬けであること(どういう意味合いかは不明だが)、手足が何本もあるように見えること――それ以外に衝撃的なこととは、何だろう? 「何があったんですし?」 「もう噂が流れているから、あらかた耳にしたことも多いと思うが……」  そう前置きして、ギルド長は語り始める。 「薬泉院に運ばれた生存者に聞いたが……問題の魔物は、どうやら、かなりの大物らしい。一見した限りでは、人間の女に見えるそうだ。で、近付いた際にいきなり……!」  ギルド長の強くなった口調に同調して、思わず『ウルスラグナ』一同は唾を飲む。 「たくさんの手足で、と……?」 「……って話さ。何も判らないままギルドは崩壊。生き残ったのは一人だけ、ということだ」  問題の魔物と直に当たったギルドの生き残りから見れば、これ以上のことを語りようがなかったわけだ。が、そのようなことは全て、噂として流れている。とすれば。 「何を隠してるんだ、ギルド長よぉ?」 「……不思議な点があったのだ」  ギルド長の表情は見えないが、口調には慎重さを増した印象がある。 「薬泉院に駆けつけ、魔物に襲われた生存者を見たのだが……その背に何故か銃創が残っていた気がするのだ」 「……!」  隠すわけだ。そんな話が噂として流れたら、どうなるか判らない。  剣の切り口に似た傷を負わせる魔物はいる。打撲傷を負わせる輩は数知れない。だが、矢や銃を使う魔物は存在しない。それは――紛れもなく人間に襲われたという証だ。  誤射の可能性もないとは言えない。魔物が武器を使っている可能性も皆無ではない(現に第二階層の『森林の覇王』は剣などを使っていた)。が、何者かが、謎の魔物と戦っている冒険者の背後から、その生命を狙った、と考える方が、しっくり来る。真偽はともかく、そう考えた者が噂を広めてしまったら、冒険者達の間には疑心暗鬼が広がるだろう。 「残っていた気がする、ってことは、弾自体は残ってなかったのか?」  アベイが問う通り、直撃したなら、体内に弾が残っていてもおかしくはないのだが。 「残っていなかったのだ。だから、まぁ、気のせいかもしれん。あの二人を警戒しすぎて、見間違えた可能性もある。それもあって、院長には内密に願ったわけだが……」  つまりは、単に魔物から攻撃された傷である可能性もあるのだ。  とはいえ、ギルド長がそんな話を『ウルスラグナ』にしたということは、『あの二人』の仕業である可能性を捨て切れていないのだろう。それは話を聞いた側の『ウルスラグナ』としても同じこと――いや、『あの二人』すなわち『エスバット』の仕業であると考える度合いは、恐らく自分達の方がギルド長より強い。  なにしろ、直接に言われたのだ――十五階、氷と雪の広間が自分達の墓場となる、と。  もしそうだとしたら、『エスバット』の目的は何なのだろう。  例のギルドの生き残りは、謎の魔物とまみえた際に撃たれたのだ。『エスバット』としては、その魔物を倒して先に進むのは自分達なのだから、手を出すな、ということだろうか。  それほどまでして、同業者を敵に回してまで、冒険者の栄誉が欲しいのか?  あの二人は、天空の城に魅入られて人間の心を失ったのだろうか?  ちりん。  不意に鐘鈴の音が響く。それが何を意味するかを考えるより先に、心の中の怒りを司る部分に、霧がかかった。『エスバット』に対する怒りが麻痺し、すうっと静まっていくのを感じ、全員が戸惑った。唯一戸惑っていなかったのは、鐘鈴を操って人の心を潰す呪をかけた本人、パラスだけだった。 「みんな、少し落ち着こうか……ま、私がこんなこと言うのも何だけどね」 「でもよ……!」 「『エスバット』が他の冒険者を襲ってた――そう考えたくなる状況だけど、そっちばっかりに気を取られたら、取り返しが付かなくなるかもしれないよ?」  確かにパラスの言う通りである。今のところ、全ては状況証拠。銃創に見えた傷痕も、本当に、魔物の攻撃によるものかもしれないのだ。それを、しっかりとした検証なくして決めつけては、心がそちらに引きずられ、どんな結果を招くか、想像もできない。 「……ま、一番落ち着きたかったのは、私なんだけどね」 「オマエかよ」  パラスの告白に突っ込んだところで、呪が晴れ、心が平静を取り戻してくる。  少なくとも『エスバット』の動向に注意する必要はあるだろう。だが、怒りに任せて対峙するのも、よいことではあるまい。  なにしろ、まだ最大の謎が残っているのだ。  十二階で顔を合わせたアーテリンデ、彼女のあの表情は、何を意味するのか。  それから状況の変化を起こすには、数日がかかった。シトト交易所から、十五階に出没する魔物から入手できる素材の入手を依頼されたためである。  それだけなら、迷宮の探索を先へと進めながら探してもよかったのだが、ひとつ問題があった。所々にある凍った水路の中には、下階に比べて強くなった日光の照射のために、昼間は溶けかけてしまうものがあったのである。それをどうにかしない限りは、先に進めないのだ。今までは、どうせ地図を作らなくてはならないこともあって、迂回していたのだが、ついに、迂回路のない水路に行き当たってしまった。  実は、夜になれば、再凍結した水路を通ることができるので、対策自体は簡単である。が、探索班は、どうせ塞がれているなら、と、現状で問題なく行き来できるだけの区域で、目的を達成したのだった。先に待ちかまえる何かに備え、鍛錬もできたので、決して無駄ではなかった。  そうして入手した素材を交易所に持ち込んだとき、一同は、シトトの娘が見覚えのある何かを磨いているのを目の当たりにした。  それは、金細工の駒だったのである。以前、酒場の親父から半ば押し付けられるようにもらった、戦駒の『衛士』の駒に似ていた。ただ、細工自体は違い、詳しくは判らないが、武人より文人を表しているように思える。  駒を集める気のない今の『ウルスラグナ』には、必要なものではない。おまけに、世間話ついでに値段を聞いたら、仕入れ値でも二千エンだというのだ。シトトの娘は、欲しければ仕入れ値で譲ってくれるというが、大金を出して要らないものを買うつもりはなかった。  酒場で依頼の報酬を受け取り、私塾への帰路に就く。  この日、王虎ノ月十五日は、ちょうど私塾の休暇であったため、静かなものだった。夏の間は、休みでも遊びに来る子供がいたりしたのだが、ここ最近は、家の農作業の手伝いをしたり、もうすぐ開催される収穫祭の準備に駆り出されたりしているのだろうか、学習後に中庭で遊ぶ子供達の姿もない。  私塾に帰り着いた探索班だったが、すぐに『お風呂セット』を手に、フロースの宿へと足を向けることになる。  シトト交易所の依頼を解決したら、探索班と鍛錬班の出撃時間を逆転させると、あらかじめ決めていたのだ。前述した理由で、昼間では探索範囲が限定されるために。  今日この日は、探索班達は昼夜どちらも樹海に潜ることになる。疲れは念入りに取っておかなくてはならない。迷宮の先に待っている何か、恐ろしい魔物か『エスバット』か、どちらに出会っても、遅れを取らないように。  夜の氷樹海は久しぶりだ、と、仲間達が口々に騒ぐ。 「オレは初めてだよ」  エルナクハは、若干の不機嫌を声に滲ませたが、実は口ほどには不機嫌ではない。  よくよく思い出せば、今の探索班は、十二階の氷の花を捜索した面子だった。フィプトがおらず、代わりに自分がいるわけだ。そのおかげで、仲間はずれになった気がしただけのことである。  今までの階では全く星が見えなかった頭上に、秋の星が広がっている。ところどころの黒い影は、生い茂る世界樹の枝葉のようだ。昼間は茫洋とした大気に遮られ、様子がわからなかったものだが、どうやら、十五階は、世界樹の主幹が終わり、多くの枝が分かれ始めるあたりに位置しているらしい。とすると、十六階はどのような迷宮なのか。まさか枝の上を渡り歩くことになるのだろうか。  東南の空低くにある南斗六星の傍に、満月になりきらない月が輝いているはずだ。その光が迷宮に差し込み、初めて十五階に足を踏み入れたときに活性化させた磁軸の柱の傍、南側に広がる木々の壁の合間にある獣道をも、淡く照らしていた。反対側から見つけて広げておいたものである。その道を通れば、前途を塞いでいた水路の傍には、三十分もかからずに辿り着ける。  人間が乗っても割れない程度に再凍結した水路の傍には、昼の探索の時にあらかじめ置いておいたソリがある。そのソリを使って水路を渡った『ウルスラグナ』は、さらに少し歩いたところで、扉に行き着いた。  普段なら、何のためらいもなく開けるところだった。しかし、今回はできなかった。  何か嫌な予感がするのだ。経験を重ねた冒険者としての勘が、何かを警告しているのかもしれない。そして、その警告に逆らえば、よくない結果を招くだろう、と感じる。  仲間達を振り返れば、等しく同じ思いを抱いているようだった。  けれど、ここで立ち止まっていても、何も始まらない。 「……行くか」  むしろ己自身を奮い立てるつもりで、エルナクハは声を上げた。仲間達が頷いた気配を確認すると、静かに扉に手を掛け、力を掛ける。  低い響きと共に、扉が左右に分かれ、その向こう側の光景を冒険者にさらけ出した。  雪に覆われた大自然の大広間である。  雪原に反射した月の光で、ほの蒼く照らされた空間に、冒険者達は慎重に足を踏み入れた。  さく、さく、さく、と、ワカンが雪を踏む音が響く。  大広間には、不思議な建造物が建ち並んでいた。今この場に至るまでにも、時折見かけたものである。『ローマ』風の柱にもあったものと同じ、組み編んだ紐の文様を施された、短い柱。それが四本集まって、天井のような石板を支えている。柱と天井に囲まれた内部には、艶のある黒い正方形の石が鎮座していた。その意味するところは、現代の人間には理解できない。  それが、四つある。大広間に見えざる十字路が敷かれていて、分断された区間にひとつずつ設置されているように感じられた。  冒険者達は、十字路を南から北へ向かって歩く。遠目に見える扉を目指して。建造物を回り込むように進む道もあるのだが、その道は取らなかった。さながら、堂々と凱旋する王者のように、赤い絨毯ならぬ白い道をまっすぐに踏む。  そして、大広間の中央、四叉の道がひとつに合流するところで、足を止めた。  謎の建造物に囲まれた空間は充分に広く、そこで戦闘行動を取るとしても、邪魔になるものは何もない。 「――なァ、出てこいよ」  エルナクハは深緑の目を細め、言葉を放った。  十字路の中心に足を踏み入れたその瞬間から、これまで感じていた何かがひとつに収束し、強い敵意となって突き刺さってきたのを、『ウルスラグナ』全員が感じていのだ。  案の定、北東にある建造物の陰から、静かに歩み出してきたのは、 「やっぱりアンタだったか、ライシュッツのジイサン……」  相手の殺気に呑まれないよう、不敵な笑みを浮かべるよう心していたエルナクハだったが、その一瞬、意外さに目を見開いた。  さぞ殺す気満々な表情をしているだろうと思っていた銃士ライシュッツは、強烈な殺気を放っていることは間違いないのだが、同時に、憂いを帯びた表情をしていたのだ。 「……とうとう、ここまで来てしまったか」  告げる声音も、表情が偽りではないことを表している。  その様は、かつて老銃士が『ウルスラグナ』に警告するために現れたとき、先へ進むことを強い口調で拒絶しながら、その瞳に判断しがたい感情を宿していたことを、思い起こさせた。  ライシュッツは、静かに雪を踏み歩き、自らの身体で北側の扉を『ウルスラグナ』の視線から隠した。その場で冒険者達に向き直り、鋭い視線で睨み付けてくる。 「我は警告はした。命惜しくば先に進むな! と。その言葉に逆らい、樹海を進むならば、相応の報い、覚悟してもらおう!」  そう強い言葉を放ち、二丁の銃を構えたときには、ライシュッツの表情には、既に憂いはない。覚悟を決めた男の姿が、そこにあった。  先に進みたいのなら、ライシュッツを殺すか、その精神を砕くか、どちらかしかあるまい。  こうならなければよいと願っていたが、覚悟は決めていた。なるべく殺したくはないが、火の粉どころではない大火が降りかかってくるなら、命懸けで振り払わなくてはならない。かつてエトリアの死せる都で、ブシドーとカースメーカーを相手取ったときのように。 「ここまで来て、いまさら、『諾(イエス)』なんて言うと思うか?」  エルナクハは『ウルスラグナ』の筆頭として、老銃士の殺気を真正面から受け止めた。 「だが腑に落ちねぇ。教えてもらうぞ。オマエら『エスバット』は何を考えてる? 同業者(おなかま)すら手に掛けようとして、そこまでして何をしたいんだ?」 「……そうね、理由は話しておくのが礼儀かしら。『冥土の土産』っていうべきかもね」  不意に背後から、『ウルスラグナ』に話しかける声が響いた。一瞬、心にぞくりとしたものが走ったが、『エスバット』のもう一人がこの場にいないはずがないのは当然だろう。『ウルスラグナ』は気を取り直して、声の主――巫医アーテリンデに向き直った。そして、今度こそぎょっとした。  アーテリンデは酷く憔悴していた。小動物めいた愛嬌を宿していた顔は、目の下の隈が目立ち、幽鬼のように変貌している。改めてライシュッツの顔をそっと見ると、もともとが老境だから気が付かなかったのだが、彼もまた、随分と疲れているようだった。  だが、それには触れずに、 「……ちゃんと最後まで聞かせろよ」  さりげなく、「話を聞いている隙にズドンは御免だ」と表明すると、『エスバット』の二人は、承知の意を表し、ライシュッツが銃を下ろす。  その様を見届けると、アーテリンデは小さく息を吐き、静かに語り始めた。 「……それは昔の話。この樹海の存在が、大公宮に知られ始めた頃の話。一人の優れた巫医が、この樹海に挑んだのよ」  まだ樹海の正面入口が開いておらず、大公宮が外部の冒険者を公募してもいない、数年前のことであった。  衛士だけでは樹海の脅威に対抗するには力が足りず、大公宮は、ハイ・ラガードやその近辺に存在する、巫医扶助会(コヴェン)と砲撃士協会に渡りを付け、助力を願った。  招致に応じた者の中に、アーテリンデの言う巫医がいたという。 「その巫医は、妹弟子と、妹弟子の実家に仕えていた銃士、そして銃士の師匠――四人で、順調に樹海を進んだわ」  アーテリンデが語るのは、淡々とした言葉。己の頭の中に残る辛い記憶を読み出し、感情に流されないように注意しながら声に出しているよう。それだけで、大方判った。巫医が探索に連れて行った妹弟子とは、アーテリンデ自身のことなのだと。 「巫医はとても腕が立ったから。第一階層、第二階層を越え、この第三階層までたどりついたの。そして……。この氷と雪の樹海で……」  不意に、アーテリンデの淡々とした語り口が、ぶれた。 「彼女は、命を落とした……。仲間をかばって……たった一人で……っ」  話が進むごと、次第に震えた声が、何かに耐えるかのように切れる。アーテリンデは、両腕で自らを抱いて、危うく雪原に膝を突きかけた。相手が自分達を害そうとしているのも忘れて、アベイが駆け寄りそうになったが、仲間の誰かが止める前に、背後からの声が動きを止めさせた。 「それだけならば、樹海に挑んだ冒険者の、よくある話だ。お嬢の悲しみはもっともだが――冒険者を害する理由にはならぬ」  背後からの声――ライシュッツの言う通り、アーテリンデの話だけなら、冒険者に日常茶飯事に降りかかる出来事。不運か、自業自得か、理由はいろいろあるだろうが、少なくとも、自分達以外の冒険者に責をなすりつけることのできないものである。アーテリンデの姉弟子の不幸には同情するが、そんな理由で自分達の前途を遮られるというなら、「ふざけるな」と吐き捨てても責められる謂われはないだろう。  が、続くライシュッツの話に、『ウルスラグナ』達は、付いていけずに、混乱しかけた。 「だが――『天の支配者』が樹海を支配している、という話は知っているか?」  『天の支配者』。  ハイ・ラガードの伝承に語られる、神のことである。  フィプトから世間話程度に聞いたこともあるし、大臣からも忠告された。曰く、天空の城には神が御座(おわ)し、勇者を求め、地上で死した者達の魂を天空の城に集めている、と。その性質(さが)は太古の戦神『オーディン』に由来すると思わしく、その点では黒肌民族(バルシリット)の戦女神エルナクハとも縁戚関係にあるのかもしれない。  だが、戦女神と同じ名を持つ聖騎士は、天に唾する勢いで『天の支配者』を嫌悪した。アーテリンデが怖れているらしい『恐ろしいモノ』の話を聞いたときに、『天の支配者』がかつての『オーディン』と同じく、己の戦駒とするために勇者を弑するという性質を持っているのではないかと感じたからだ。  実在の真偽はわからない。ただ、樹海で行方知れずになった冒険者が、実は『天の支配者』に連れ去られたのだ、と信じている者も多いらしい。  殺されて魂を抜かれるか、生きたまま連れ去られるか、その違いは、長く伝わってきたための乖離(ぶれ)と考えてもいいだろう。ひょっとしたら、どちらもあり得るのかもしれないが。  だが、『天の支配者』が今の話にどう関係するのか。アーテリンデが言う『恐ろしいモノ』が『天の支配者』と関係するものかどうかは、確信できるものではなかったが、少なくともアーテリンデがそう信じていたようだ。彼女の姉弟子である巫医を殺したのがその『恐ろしいモノ』だというのだろうか。そうだったとしたら、ここで話題に上るのも不思議ではないが、だが、冒険者達を邪魔する理由とはならない気がする。  結論。やはり話を聞くしかない。  『ウルスラグナ』は思考の混乱を収めると、無言のまま、先を促した。  ライシュッツの話は続く。 「天の城の神の話は、ハイ・ラガードに広く知られている。『いるかもしれない』と思っている者は多いかもしれないが、実在すると固く信じている者は少ない。無論、我らもそうだった。昔の『呪術院』や、それに力を貸した巫医達が、樹海で消息を断ったとき、そして、最近なら、衛士や力添えした者達が帰ってこなかったとき、現実から目を逸らすために口端に上る、慰めの偽神だと――そう、思っていた」  ……思っていた、である。過去形だ。では、今は違うというのか。ライシュッツに、そしてアーテリンデに、神の実在を信じさせる何かがあったというのだろうか。 「先程、お嬢が語った、巫医だが……彼女は、その死後に、天の支配者に魅入られてしまった」 「魅入られた?」 「この言い方では判らぬか。………奴らのいう、永遠の命を与えられたのだ。支配者の言う永遠の命。それは我らにすれば人であることをやめるに等しい話。――彼女は、支配者の手にかかり、人ではなくなってしまったのだ!」  その時、『ウルスラグナ』一同には、さしたる衝撃は訪れなかった。  脳裏に浮かんだのは、エトリア樹海で出会ったフォレスト・セルのこと。  フォレスト・セルは『死』を怖れ、己を守護するものを望んだ。そのために力を『芽』の形で相手に与え、属する種を超える力と、死んでもいずれ蘇る生命、そのふたつを授けるという。命の長さ自体がどうなるかは聞いていないが、あるいは『永遠の生命』と呼べるものを得られるのかもしれない。  ということは、『天の支配者』と伝えられているものは、フォレスト・セルと同種の存在なのだろうか?  だと、したら――。 「……驚きもしないのね、あなたたち」  今度はアーテリンデが、冥府に引きずり込まれた女神が放つような怨嗟に満ちた、ぞっとする声を上げる。 「衝撃的すぎて実感できない? それとも、他人事だからどうでもいいって思ってるの? ……まあ、どちらでもいいわ」  黒髪のドクトルマグスは、ゆっくりと冒険者達との間を詰める。その足取りは、幽鬼が人間をひたひたと追いつめるかのよう。  その様相に若干の恐怖を感じながらも、目線を逸らすことなく、巫医を見つめる冒険者。  一同を代表して口を開いたのは、焔華であった。 「街は、今、一見は人間の女に見える、ていうん魔物の噂で持ちきりですえ」 「……あら、そうなの。あの時の生き残りが話したのね」  その会話の裏に含まれた事実に、さすがの『ウルスラグナ』もおののく。  ひとつは、薬泉院に担ぎ込まれた冒険者を傷つけたのは『エスバット』らしい、という事実。  それ以上に驚いたのは、噂に上っていた魔物が、人間の成れの果てであるという事実。  『ウルスラグナ』の予想では、フォレスト・セルから力を得たとしても、姿形まで変わるものではないと思っていたのだ。少なくともナジクの例では、思考に若干の変化はあったが、彼自身の肉体が異形に変じたりはしなかった。ということは、『天の支配者』はフォレスト・セルではないのか? あるいはエトリアの同種とは違うのか? それとも、ナジクの例が特殊だっただけなのか? 「そうか……噂では、魔物って呼ばれてるのね、彼女は。そうよね、そうでしょうね」  アーテリンデは、ぶつぶつとつぶやくように言葉を紡ぎ続けている。 「でも……、それでも、あたしたちは、彼女を守りたいの」  ゆらゆらとゆらめく身体が、じわりじわりと彼我の間を詰めてくる。 「このままあなたたちが進めば、変わり果てた彼女と戦うことになってしまう。でも……、どんな姿になろうと、彼女はあたしにとって大切なの。だから……あなた達が彼女を傷つける、わずかな可能性も摘み取る!」  少女は、何かを決意した目で『ウルスラグナ』一同を睨み付けた。憔悴しきっていることを差し引いたとしても、宿る光が凶相を際だたせる、そんな眼差し。  手にした杖剣の切っ先が、凶運の女神の指先のように、冒険者達を指し示す。  背後からは、金属が触れ合うかすかな音。  呼応するかのように、『ウルスラグナ』一同も、それぞれの武具を構える。  互いの闘気が張り詰め、滞留し、その場にいる七人全員を凍り付かせた。誰かか行動を起こせば、瞬く間に硬直は解け、人間同士の戦い――否、殺し合いとなるかもしれない、凄惨な闘争が始まるだろう。あるいは、殺し合いを拒む細い一本の琴線が、皆の心の裡に残っていたのかもしれない。  しかし、そんな状況が長く続くことは不可能だ。  均衡を打ち破ったのは、憔悴し、追いつめられた、アーテリンデだった。 「ここで冒険を終わらせてもらう、『ウルスラグナ』!」 「右!」  アーテリンデの言葉が終わるか終わらないかの瞬間、弾かれたようにエルナクハは叫んだ。  『ウルスラグナ』は、前にアーテリンデ、後ろにライシュッツ、『エスバット』に挟まれた状態にあった。この状態のまま戦闘に入れば、後方からライシュッツの銃撃に遭うだろう。敢えて前方に進み、アーテリンデを相手取るにしても、隊列的に不利であった。巫医に対しては、本来後列であるアベイやパラスが相対しているのだ。  故にひとまずは離脱。戦場そのものからは逃げ出せないだろうが、距離を取って陣形を整えることを、聖騎士は選択した。  『ウルスラグナ』は、十字路の西へと延びる『道』に飛び込み、そこで陣形を本来のものに整える。  視線の彼方から迫ってくるのは、悪鬼のごとき威圧感を放つ『エスバット』の二人。  『ウルスラグナ』には未だにドクトルマグスもガンナーもいないが、彼らの特徴はよく耳にしている。どちらも、様々な技を有する、いわば万能職といえるものだ。ただ、裏を返せば『器用貧乏』、有限の時間しか持てない人間の身では、樹海でも通用する程に極めることができる技は少ないだろう。  そして、さらに裏返すなら、彼らがどのような戦い方をするか、わからない。たとえばパラディンなら基本的に仲間を守るように動くとわかる。ソードマンであれば単体攻撃一辺倒と言い切っても間違いではない。だがドクトルマグスやガンナーは、多彩な技を持つ故に、その中のどれを選んで極め、戦法に組み込んでくるのか、判断しづらいのだ。 「……だけど」  パラスが不敵に笑みを浮かべ、呪鈴を手にする。 「腕が動きにくくなれば、武器を使った技は使えなくなるよね」  絶対とは言い切れないが、自分達が有利になることは間違いないだろう。 「……頭、ねらう?」  斧を構えながら、ティレンが問うた。切っ先はアーテリンデを指している。巫医の技にはメディックとは違う系統の回復術がある、と、第一階層を探索していたときに知り合った巫医達から聞いたことを、覚えていたようであった。メディックの思考力が鈍れば治療に支障が出るように、ドクトルマグスも、意識が乱れれば、巫術を使うことがおぼつかなくなるだろう。  アーテリンデが回復術を使うかどうかは判らないが、思考を鈍らせることは、相手の攻撃を鈍らせることにも繋がる。狙って損はあるまい。 「ふふふ、巫剣というんがどれほどのものか、興味ありますえ」  すらりとカタナを抜いた焔華が、どことなく嬉しそうに口角を上げる。「刃を使う者同士の戦いですわ」  明確に表明し合ったわけではないものの、相手に影響を及ぼす技を使う者達は揃って、巫医の少女を攻撃対象と定めたようだった。攻撃方法からして、杖剣使いのアーテリンデが自分達に肉薄し、銃使いであるライシュッツが距離を置くことは、目に見えている。その状況に、『複数の敵は集中攻撃して数を減らすべき』という定石(セオリー)が組み合わされば、全員がそのような結論に至ることも当然のことだろう。  エルナクハも、異論はなかった。剣を抜き、戦を指揮する采配のごとく、剣を『エスバット』に向けた。かつてキマイラと戦ったときに、自分含めた味方を鼓舞するために行ったことだった。  ――が、今は、腹の底からの声を上げるのに躊躇する。  『エスバット』は本気だ。抗わなければ殺される。抗うためには自分達も相手を殺すつもりで相対峙しなければならない。それはわかっているのだが、不慮にでも人間を殺すかもしれないということに逡巡があるのかもしれない。エトリアでも人間と殺し合いに近い戦いを経験したし、もはや人間ではなくなっていたとはいえ顔見知りを弑したはずなのに。  むしろ、これは同情なのか? 魔物に変じたとはいえ、自らの仲間を必死に守ろうとしている、彼らへの。 「――殺さないようにしなくちゃいけません。しやけど同情は無用ですえ、エルナクハどの」  まるで心を読んだかの機で焔華が口を出す。 「これは彼らのためでもあるんですし。わちらが負けたら彼らは、『ハイ・ラガード国民を殺した罪人』になりますえ……ひょっとしたら、もう遅いのかもしれませんですけど……」 「……そうか、そうだよな」  エルナクハと同じ逡巡を抱いていたのか、顔色が悪かったアベイが、己自身に理解させるかのごとく、何度も相づちを打つ。  その様を見ていて、エルナクハも腹をくくった。 「ティレン、焔華、できるだけ守ってやるからな」  その決意を迫り来る『エスバット』にまで表明するように、盾を構えたエルナクハだが、ふと、後方に目をやって首を竦めた。 「パラスとユースケは……まあ、手が回らねぇから、スマン」  後衛にとっては、前衛自体が盾のようなものである――敵が直接攻撃しかしてこなければ。さらには、後衛に攻撃が届くこと自体は、魔物との戦いでもよくあることだ。しかし、今回の相手は銃だ。必死に攻撃を防ぐ前衛の間を易々とすり抜け、後衛の生命を狙うであろう、金属の弾丸なのだ。  後衛の二人は「覚悟の上」と答えるつもりだったかもしれないが、すでに時間切れであった。一時離脱した『ウルスラグナ』を追ってきた『エスバット』は、既に、銃撃なら有効射程距離と言えるであろうところまで迫ってきていたのだ。  積極的に近付いてきたのは、やはりアーテリンデの方であった。異形と化した姉弟子を守るという望みに突き動かされていることが、理由のひとつではある。同時に、それは彼女が『巫剣』使いであることを意味していた。  かつて知り合ったドクトルマグスから聞いたことがある。彼ら巫医の術は大別して二つ。祝詞(のりと)や薬を用いて、自分や仲間の能力を一時的に上昇させたり、傷を癒したりする、『巫術』。いまひとつは、己の霊力(オーラ)を祝詞の助けを借りて武器に乗せ、敵を攻撃する『巫剣』である。  ――万が一、我らの同胞が君たちに剣を向けることがあったら、注意するべきことがある。  そんなことは、そうそうあるまいがな、と前置きして、かつて第一階層で知り合ったドクトルマグス、イクティニケは語ったものであった。  ――状態異常攻撃を使えそうな者が共にいたら、警戒することだ。  状態異常とは、毒や麻痺、睡眠などを指す。戦闘中の肉体に害を及ぼし、生命を奪いかねない状態である。  生き物の身体には霊気(オーラ)が宿っている。プネウマ、ルーアハ、プラーナ、または簡単に『気』とも呼ばれるそれは、実は生き物のみならず自然のあらゆる所をめぐる、普段は不可視のエネルギーの流れである。不可視ながらも、知恵のある生き物達はその存在を無意識のうちに利用する。例えば、冒険者達が使う技も、その恩恵を受けていると言えるだろう。到底防御不可能と思える属性攻撃さえ、盾で防ぎきるパラディン然り。いくら摩擦で熱が発生するのが常識とはいっても、人間の腕力で振り下ろした刃に生じる程度の摩擦で炎までを発生させるブシドー然り。薬剤を調合して技とするメディックやアルケミストも、あるいは自然界に流れる霊気を間接的に利用していると言えるかもしれない。  人体に異常が起これば、霊気も乱れる。否、霊気を基準にして表すなら、霊気が乱れるから人体に異常が起きる、だろうか。  巫剣の最大の特徴は、霊気の乱れを利用することなのだと、知り合った巫医イクティニケは論じた。  ――霊気の乱れを突くことで、さらなる乱れを作り、別の効果を引き出す。それが巫剣の力だ。例えば――。  盲目状態に陥って乱れた霊気の流れを利用し、さらに掻き乱すことで、思考能力に乱れを生じさせ、言葉や思考を使うことが重要な技や、頭そのものを使う技を、封じる。毒状態ならば足を封じる技もある。それどころか、恐慌状態や被呪詛状態に陥った者の霊気を武器を媒介にして奪い、その霊気で自らの体力や精神力を補うという技すらあるというのだ。  今、アーテリンデが携える杖剣の刃には、紫炎のような光が宿っている。おそらくは霊気がその密度のために可視化されたものだろう。  ――状態異常に陥っていないとしても、霊力で補強された武器は侮れない威力を持っている。注意するがいい。  その警告は嘘ではなかった。前衛のみならず、後衛の者達ですら、杖剣の霊気を目の当たりにして、うなじの毛がちりちりと逆立つのを感じた。  アーテリンデは踊るような動きで距離を詰めてくる。雪原であるために若干のもたりが感じられるとはいえ、それは充分に、軽い足取りと表現できるものだった。憔悴して幽鬼のようだったドクトルマグスの少女だったが、その様はまるで真逆、現世の女神が現世ならざる魔を祓う舞踏のよう。ほんの一瞬、見とれかけたエルナクハは、しかし、その意味なすところを思い出し、慌てて盾を構えた。祓われる魔は、自分達の方なのだ!  鈍い音がして、盾に刃が当たった。アーテリンデは生者が死すべき者を侮蔑するような表情を浮かべ、一旦刃を引き、再び斬撃に転じる。舞踏の足取りを利用した、素早い複数斬撃。盾に遮られて動きを乱されたがために、喰らう側には急所を躱す余裕ができたが、それでも前衛達は肉を切り裂かれ、血を吹き出す。  先手を喰らった。ただし、いい方に考えれば、巫医を自分達の攻撃圏内に招き入れたということである。『ウルスラグナ』は反撃に出た。 「武器補強は巫医(マグス)の専売特許じゃありませんえ」  伝統を重んじるブシドーが為すべき『構え』を省略して振り上げた刃には、炎が宿っている。それは味方までもがおののくほどに勢いづいた豪炎であった。いつの間にそのような技を習得していたのか。 「鬼炎斬!」  己が技を誇るかの如く高らかに宣し、雪上であることが嘘のような軽さでアーテリンデに肉薄した焔華は、炎の刃を、当てる気がないように無造作に振るった。まともに当てればただでは済まず、相手を殺すことが『ウルスラグナ』の本意ではないためだ。ただし、炎は、赤く明るく見える部分よりも、その外側の方が高温なのである。外炎に晒されたアーテリンデの被服が、ぱっと燃えだし、慌てた巫医の少女は、雪原に身を投げ出すことでその炎を消した。わずかな時間ながらも火にさらされた皮膚は赤く腫れ、引きつり、重篤ではないとはいえ、力を削るだろう。  自分に肉薄したブシドーの娘を睨み付けるアーテリンデだったが、彼女の目の前にはすでに相手はいない。焔華は炎の刃と共に身軽に駆け出し、ライシュッツに突進していたのだ。同じように、刃ではなく炎だけを当てるように、カタナを振るう。  アーテリンデの目の前には、ブシドーの代わりに、赤毛のソードマンが肉薄していた。 「ごめん」  朴訥な口調で謝りながらも、やっていることはとんでもない。斧の石突をアーテリンデの頭めがけて振り下ろしているのだから。刃ではないことが不幸中の幸いとはいえ、それが慰めになることはないだろう。アーテリンデはこの攻撃も直撃を避けたが、まともに喰らえば脳震盪ぐらいは起こしかねない。  一方、アベイは、仲間達が受けた傷を癒すために、医療鞄から薬剤を探し出していた。ここ最近の試行錯誤の結果、現状で手に入る素材で、霧状に噴霧して広範囲に届く薬品の製法を完成させたのである。  調合を済ませた瓶を雪の上に置くと、反応を起こした薬剤が霧となって吹き上がり、味方のいる範囲程度に広がっていく。ライシュッツに見えざる炎の一撃を食らわせて離脱してきた焔華も含め、『ウルスラグナ』は癒しの霧の恩恵を存分に受けた。皮膚に降りかかった微少な雫は外側から傷を癒し、吸い込んだ霧は内側から自己回復力を引き上げる。  厳しくなるであろうこの戦い、アベイの治療がなくては、勝てないとは言わずとも、より苦戦を強いられることだろう。  己の役目を熟知し、だからこその事実を誰よりも理解しているアベイ本人は、少しばかり暗鬱な気分になり、かすかに息を吐いたのだが。 「ユースケ!」  エルナクハの警告の声に、我に返る。  焔華の攻撃で被服に移った炎を振り払ったライシュッツが、自分に黄金の銃の銃口を向けているのを見る。  銃という遠距離攻撃手段を持つ相手が、回復担当かつ防御力に優れていない敵を狙うのは、自明の理。そう理解したなら、次に為すべきは、回避行動である。少なくとも、急所に直撃されるという悲劇を避ける為に。だがアベイは、遠くにあるはずの暗い銃口に呑み込まれたかのように、動けなかった。  前時代人として当時の『銃』の威力を知っていたからこそ、それが事実、自分に向けられたときに、恐怖に凍ったのだ。  樹海に響く破裂音と共に、銃口から発射される弾丸。それが炎をまとって向かってくるのを、アベイは悟った。 「――!」  前衛達が、盾か防具、あるいはせめて、自分の肉体の致命的にならない箇所で銃弾を受け止めようと、動く。しかし間に合わない。前衛の間を縫い、銃弾はアベイの顔――おそらくは眉間を目指して進む。  はずだったのだが。 「……ぬう」  ライシュッツが無念の呻きを上げた。炎をまとった銃弾は、アベイの肩を打ち抜いて後方へ飛び去ったのだ。  前時代の技術の粋を集めきった銃ならまだしも、現代の銃は、狙いを付けづらく、外しやすいのが欠点である。だからといって、ライシュッツほどの手練れが、恐怖に凍っている敵を打ち抜けないほどの酷い腕前であるはずがなかった。  では、外したのはなぜか。  それはパラスの呪詛の存在ゆえであった。戦闘開始直後から、彼女が敵の力を削ぐ為に唱えていた、呪詛の声。力祓いの呪。最も基礎的であるが故に、その声に耳を傾けずに済む者は、呪術師自身を信頼しきった味方以外にはいない。それがライシュッツにも例外を許さずに効果を及ぼしたのだった。  力の抜けた手では銃を支えきること適わず、わずかに下を向いた銃口が、本来狙っていた眉間ではなく、肩口へと、弾を射出するに至ったのである。  それでも、アベイにとってはかなりの重傷。しかし、防具の防御力のおかげもあって、致命的ではなく、治療を施して持ち直すことは充分に可能だ。  さらには、その一撃は、アベイの体力だけでなく、恐怖心までも打ち抜いてしまったようであった。  そうだ、自分は一人ではない。前時代から一人だけ甦り、唯一の同時代の同胞さえ失った自分だが、仲間達はたくさんいる。皆が自分を何らかの形で守ってくれる。だから自分は、自分の力で皆を守らずにどうするんだ!  そんな勇気をもたげたアベイではあったが、 「ユースケ、物陰に隠れてろ!」  そんな忠告をギルドマスターから受けてまで、蛮勇を保持する気は、さらさらなかった。今回は呪詛のおかげで命を拾ったが、治癒能力以外は基本的に無力な自分が、必要以上に敵の銃口に身をさらしているわけにはいかない。何もない場所ならやむを得ないが、今はおあつらえ向きの隠れ場所があるのだ。メディックの青年は素直に、黒い石の建造物の陰に駆け込んだ。もっとも、仲間達を治癒する際は、ある程度戦場に近付く必要があるから、気休めに過ぎないかもしれないが。 「パラスどの、ぬしさんもですえ」  焔華が同じ忠告をカースメーカーの少女に向けるが、パラスは首を振った。呪術は相手に声が届かなければ意味を成さない。そのためには、極力、戦場にいる必要があるのである。彼女を護るのは前衛の役目であることは変わらないだろう。  ……さて、敵は、次はどう出てくるだろうか。  舞踏めいた斬撃で前衛の肝を冷やさせたアーテリンデは、『ウルスラグナ』から一旦距離を置いていたが、もちろんそれで終わるとは思えない。冒険者達は、彼女の唇がかすかに動いているのを見た。 「……奇怪千万、またまた生血が降り候。ただいま見れば壁に二カ所、床板に三カ所、ぺったりと血のしたたりこれあり候……」  ……なんだ、その言葉は? 要約すれば、『部屋にまた血が降った』。この戦いの中で発するものとは思えない。だがしかし、冒険者達は、アーテリンデの手の甲が、言葉に合わせてぼうっと光るのを見た。正確には、そこに描かれた、目のような文様がだ。被服に覆われた腕も、内側から光を発しているのが判る。  聞く分にはこの場にそぐわない言葉の連なり、だが、それは、巫医にとっては霊力を思うがままに振るう為の詠唱なのだ。  ――状態異常に陥っていないとしても、霊力で補強された武器は侮れない威力を持っている。注意するがいい。 「やべぇ!」  杖剣の刃にまとわりつく霊気、可視化したそれが、先ほどより強く輝いたのを目の当たりにして、エルナクハは背筋に怖気を感じた。  アーテリンデの巫剣は、エルナクハの渾身の防御をもってしても、完全には威力を殺しきれないものだった。盾の壁を縫って、とにかく攻撃を当てようとしてくる、巫医の危機迫る表情が、帰宅後の夢に出てきそうなほどに、目に焼き付く。  ――帰宅後の夢、とは……とりあえず、自分は勝って帰る意志を失っていないらしい。エルナクハはそう考えて内心で苦笑した。  もちろん、仲間達も同じ意志を共有しているようだった。アーテリンデに切り裂かれる前衛も、ライシュッツに狙い撃たれる後衛も、傷付きながら、屈せぬ意志を失っていない。霊力をまとった剣と、炎をまとったカタナ、斧の石突き、狙いがぶれながらも超速で飛ぶ弾丸、そして呪詛、それらが交差する戦場で、趨勢は、少しずつながら『ウルスラグナ』に傾き始めていた。 「……爺やぁ! どうして、どうして『月神(サレナ)』を撃たないのっ!?」  何度かの斬撃の際に、アーテリンデが、血すら吐きかねない大声で、己の味方に叫んだ。  察するに、ライシュッツが未だ攻撃に使わぬ銃――黒の銃のことを指しているらしい。おそらくは、現在の状況を一気に打破する(とアーテリンデが思っている)力が、その銃には秘められているのだろう。  しかし、少女の願いに、ライシュッツは応じない。その表情には焦燥の色が濃く現れ、アーテリンデの懇願に全く耳を貸していないわけではないと感じられた。それでも、黒い銃を持つ手は動くことはない。  その代わりにと言うべきなのか、黄金の銃から放たれる銃撃が激しくなった。これまでのように属性をまとったものではないが、数発が連続して射出される。だが、パラスが封じの呪言の合間に唱える力祓いの呪のおかげで、急所の狙いを外した弾丸は、致命傷にはならない。  奇妙だ。ライシュッツは、どうして『お嬢』の切なる願いに耳を貸さないのだろう。だが、アーテリンデの様相から察するに、黒の銃、『月神(サレナ)』と名付けられているらしいその銃身には、決定打となる威力が秘められているのだろう。使えばいいのだ。『ウルスラグナ』としては困りどころだが、『エスバット』の立場からすれば使うのは当然だろう。  なのに、魔弾の射手はそうしない。黄金の銃だけで充分だ、と言わんばかりに。舐められているのか、とも考えられるが、それも違うようだ。ライシュッツの表情は真剣そのもの、本気でないとは考えられなかった。間違いなく『ウルスラグナ』を殺す気でかかってきてはいる。  おそらくだが、黒い銃の攻撃には、威力と引き替えの不都合があるのだろう。ライシュッツに、みだりな使用を躊躇わせるだけの何かが。 「どうして、どうして、どうして! 『夢想(トロイメライ)』ばかり使って……姉さまを守るんじゃなかったの!?」  狂乱したアーテリンデの感情に呼応するかのように、杖剣がまとう霊力も、禍々しいほどに増大している。物語の一節のような言葉の連なりと共に、激情を叩きつけるかの勢いで、斬撃を浴びせかけてくる。  十数合の打ち合いが続き、両者共に疲弊の色が見えてきた。『エスバット』は体力的な問題が、『ウルスラグナ』には、主に精神力的な問題が。  アベイが、とろんとした疲れ切った眼差しで、それでもなお、懸命に薬の調合を続けていたが、苛立たしげに、出来かけの薬を雪上にぶちまけた。精神疲労のせいで調合を間違えたのだ。大きく溜息を吐くと、医療鞄の中からアムリタの瓶を取り出し、一気にあおる。  他の仲間達にしても、似たようなものだった。これまでに用意できたアムリタは、果たして足りるだろうか。『エスバット』の抵抗は、まだまだ続きそうなのだ。  しかも、状況が変わりつつあった。アーテリンデが、これまでのものとは様子の違う詠唱を開始したのである。 「おゝこの野の花は――」  これまでの詠唱がいずれも不気味な情景を思わせるものだったことに反して、今回のものは、麗しき花咲き誇る、風吹く丘陵で、諸手を広げて宣言する様を想起させた。しかし、その一瞬の幻覚が破れたとき、『ウルスラグナ』は、アーテリンデの空いた手に、霊気の輝きを見た。それは言葉の一言一句ごとに脈動し、彼女自身の身体を包み、無数の尾を曳いてライシュッツにも伸びようとしている。  対象者を包み込み癒すような、ほのかな輝き。巫術を知らずとも、判断できた。これは回復術だ、と。  術が完成すれば、戦いはさらに長引く。しかし、止める手立てはない! 「――絵の花の如く美し――きゃあ!」  詠唱完成直前のアーテリンデが唐突に悲鳴を上げたのは、ティレンの攻撃ゆえだった。突き出された斧の石突きが、彼女の側頭部を捉えたのだ。  骨も折れてしまったのかと思えるような鈍い音と共に、アーテリンデは操り人をなくした人形のように、言葉と動きを止め、雪上に倒れ込む。かに思えたが、それも束の間、雪煙と共に立ち上がった。しかし、頭部を強打された影響で、視線はおぼつかず、詠唱を紡ぐにも思考が追いついてこないのだろう、口からは荒い息が漏れるだけだった。  反撃を警戒して離脱してきたティレンは、一息吐くと、懐からアムリタの瓶を取り出して、中身を一息に飲み下した。彼も精神力の限界だったようだ。人心地付いたティレンを、エルナクハは早口で賞賛した。 「よくやったティレン、あれ使われたらヤベぇとこだった」 「ん」  だが、まだ問題は残っている。話をアーテリンデに絞るとしても、彼女にはまだ巫剣があるのだ。詠唱を伴うとはいえ、巫剣は、頭を封じられても使えなくなることはないらしい。  ――巫剣の詠唱は、まあ、『気合』のようなものだから。なくても何とかなる。逆に言えば、巫剣を封じたいなら、頭ではなく腕を封じることだ。 「……任せて、今ならあの女の腕を縛れそうだから」  つい、とパラスが進み出て、アーテリンデに歩み寄る。すかさず、ライシュッツが狙いを付けるが、彼女を狙った氷の弾丸は、力祓いによる筋力低下のせいで狙いを外し、パラスの頬をかすめていくに留まった。その痛みを感じていないのか、カースメーカーの少女は歩みを止めない。爛々と輝く瞳は、相手の弱みを見つけて舌なめずりする悪鬼のよう。パラスは今、忌まわしき呪術師としての本性を顕わにしているのだ。  ぼやける思考で、敵の接近を辛うじて察し、杖剣を構えるアーテリンデ。  その前で、パラスは鐘鈴を静かに鳴らす。  可視化されたなら同心円を描いて広がっていくのであろう、澄んだ音の余韻の中で、パラスは、アーテリンデの耳に口を近づけ、そっと囁いた。 「その腕、『姉さま』に伸ばしたのよね。でも、届かなかったんでしょ。ほら、もっと遠くまで伸ばさなきゃ、『姉さま』には届かないよ」 「え……あ」  巫医の少女は、呪詛に魅入られたかのように惚け、前に手を伸ばす。おそらく、今の彼女の前には、『姉さま』がいるのだ。その生命を失う寸前、『エスバット』の仲間達を、妹弟子を守るために、我が身を投げ出した、アーテリンデにとってはかけがえのない人が。その時、アーテリンデが手を伸ばしていたら――それは実際に動作することを必ずしも意味しないが――かの巫医の運命は別の方向に変わった可能性もあったかもしれない。  が、パラスは、嘲笑の笑みを浮かべ、ありえたかもしれない運命の枝葉を伐り捨てたのだ。これまでとは正反対に、他の者にすら聞こえる、張り上げた言葉の刃をもって。 「でも残念、無理よ。あなたの手は動かないの。あの時も、今も。だから、あなたは『姉さま』を失ってしまったの!」  同時に、鐘鈴が強い音を発した。  アーテリンデの両手の甲から血が流れ始める。そこにある目の文様が血涙を流しているかのように。同時に、赤い色をした袖も、水を含んだように重くなり、赤い滴りを落とし始めた。  それは、『あの時』、倒れた姉弟子を抱き起こしたときに付着した血に似ていた。 「あ、ああっ……あ……! 姉さま、姉さま……!!」  腕が震える。がくがくと。その血は、姉弟子を救うことはおろか、まともな力添えすらできなかった、無力の罪そのものだ。呪詛によって引き出された罪の重さに縛られた腕は、麻痺し、随意には動かせなくなっていた。杖剣を握るのがやっと、その他はただ、重さに耐えて震えるだけ。 「お嬢様!?」  異変に気が付いたライシュッツが呼びかけるも、アーテリンデは答えない。  彼含めた、アーテリンデ当人以外の者には、血は見えていなかった。アーテリンデの記憶に焼き付いた血が、彼女自身に見えているだけなのだから、それも当然である。  少なくとも、『ウルスラグナ』に理解できたのは、パラスが先の宣言通りにアーテリンデの腕を封じた、という結果であった。  別の意志を持つように震える腕では、まともな巫剣は振るえまい。  とはいえ、単調に杖剣を振り回す攻撃なら、できなくもなかろう。それを避ける為に巫医の攻撃圏内から離脱してきたパラスに、エルナクハは労いの言葉を掛けた。 「……よくやった、パラス。助かった」  だが、その言葉には生彩がない。助かったのは確かだが、同時に底知れぬ恐ろしさを感じていたのだ。それは、パラスが再従兄弟の死を知り荒れたとき、彼女から感じたものに、酷似していた。他の仲間達も同じく感じたようで、浮かべた表情が曖昧だった。  その様を見抜いたのだろう、パラスは力なく笑い、つぶやいた。 「――私たち『ナギの一族(ナギ・クース)』って、よく、らしくないって言われるけどね。これが本当の私たち。普通の人のように振る舞うから、人の心を効率よく弄べるの」  泣き出しそうなのを堪えるようなその表情に、エルナクハは思い出したことがあった。最近、オルセルタが言っていたことだ。パラスの母であるドゥアトの洗濯を手伝った折に、彼女達の一族のことを聞いた、と。  ――感情を忘れたカースメーカーが、どうやったら人の最大の搦め手――人の心を弄べるかしら? 自分が傷ついてどれだけ痛いかがわからなければ、相手に痛みを返すことも、効率よくはできない。  ――私たちはね、感情を普通の人以上に持とうとするあまり、別の方向に弱くなってしまったの。自分の『力』が引き起こした結果を心に降り積もらせていって、そのままだと、結局は他の一族よりもはるかに早く、潰れてしまう。  そうなのだ、アーテリンデと同じくらいに、彼女も辛いのだ。それを受け止めてやれず、何が仲間だ。  とはいえ戦闘中だから、大したことはできない。エルナクハは、パラスの頭に手を乗せ、ほんの短い間だけ、くしゃくしゃと撫で回した。 「早く戻れよ。危ねぇぞ」  同じことを考えたのか、焔華とティレンが、励ますかのように、パラスの背をぽんと叩く。 「……うん」  呪術師の少女は、まだ浮かない顔をしていたが、それでも少しだけ晴れた表情で、後衛に戻っていく。迎えたアベイが彼女の額を軽く叩きながら、銃弾にかすられた傷に薬を塗るのを見た後、前衛の冒険者達は改めて敵に目を向けた。  心身共に痛めつけられ、思い出すら辱められてなお、アーテリンデは立っている。しかし、その全身はがくがくと震え、初めてまみえたときの、公国有数のギルドとしての自信にあふれた姿は、見る影もなかった。仲間を守るという義務感と、救えなかったという罪悪感との、その狭間で、それでもなお立ち塞がるというのは、驚嘆に値するだろう。 「そろそろ、やめましょうえ」  構えた刃の先を『エスバット』からわずかにそらし、焔華がため息混じりに吐き出した。それは彼女の本心であると同時に、ブシドーとしてこれ以上の無様さを晒させたくないという『慈悲』、そして――挑発の一面も確かに持っていた。 「ぬしさんはよう戦いましたわ。しやけど、これ以上、わちらと渡り合えると思っておりますのん?」 「思ってなくても……!」  驚くべきことに、アーテリンデはなおも杖剣を構える。 「お嬢!」  ライシュッツの制止も聞かず、攻撃に転じた巫医だったが、しかし、己自身の罪悪感に封じられた腕は、動きもぎこちなく、まともに斬りつけてこられそうになかった。戦闘の最初に披露した、舞踏のような攻撃なら、足の動きを利用することで、何とか『ウルスラグナ』に一矢報いることができたかもしれない。だが、巫医の少女が選んだのは、たどたどしくも不気味な雰囲気を想起させる詠唱を伴う、巫剣の攻撃だった。震える腕では、まともな攻撃になりはしないというのに。  焔華は、初陣の子供のような攻撃を易々と回避すると、その名が意味する『炎の花』のような笑みを浮かべた。 「楽しゅうございました。思えばわちは、ぬしさんらと初めて会ったときから、戦ってみたかったんですわ」  アーテリンデに向けたのは、鋭いカタナの刃――ではなく、その柄。鳩尾(みぞおち)を狙うその攻撃を、巫医の少女は躱(かわ)しきれなかった。かすかにうめき、力の抜けた体を雪上に倒しかける。それを焔華が受け止め、手早く後列へ引きずり込んだ。  エルナクハはその様を見届けると、忌々しげな表情を浮かべたライシュッツに相対峙した。パラスに氷の弾丸を放った後、新たな弾丸の装填をしていたため、アーテリンデの窮状を救うのには間に合わなかったと見える。それが銃の弱点のひとつだ。前時代の同種はその弱点を克服していたのかもしれないが、現代の銃は、弾丸の装填に時間がかかり、挙動が遅れる。 「ジイサン! あんたのお嬢はこのとおり、だ。そろそろ降参しねぇか?」  だが、その申し出は受け入れられない。そんな気がしていた。  アーテリンデの狂気にも近い様相に、目を奪われがちではあったが、ライシュッツとて、かつての仲間を害しようとする者に対する敵意は同じはずだ。  アーテリンデを人質に取る――そんな考えもあるかもしれない。が、それは無駄だろうとエルナクハは思っていた。『ウルスラグナ』がアーテリンデを殺せないことを、ライシュッツは見抜いている。人質は生きていてこそ価値のあるもの、殺したら降伏勧告の意味もなくなる。そして、命を奪うという脅しが無効ならば、ライシュッツが勧告に応じる理由もない。  『ウルスラグナ』が『エスバット』では止められないことを完全に見せつけなければ、その敵意が折れることはあるまい。結局は、戦闘を続行するしかないのだ。  やれやれ、とため息を吐きかけたパラディンだったが、ソードマンの少年が、かすかに反応したのに気が付いた。どうした、と問うまでもない。ティレンは戦況の変化に気が付いたのだ。それも、自分達が苦境に立たされるかもしれない変化に。  ライシュッツが、もう片方の銃を構えていたのである――あれだけアーテリンデが懇願しても使うことのなかった、黒の銃『月神(サレナ)』を。  その構えに、力を弱められた影響は見られない。何度目かの力払いの呪術は、時間切れになってしまったようだ。パラスが再び呪鈴を構え、呪言をつぶやき始める中、焔華が何かに気が付いたらしい。鋭いまなざしは敵に向けたまま、味方に注意を喚起する。 「あの構え、金色のを使ってるときに比べると、ちと荒く見えますえ」  黄金の銃を使っていたときの銃士は、自分達(まと)が動くことと、力祓いの影響で結果的に狙いを定めきれなかったことがあるといえ、執拗に急所を狙っていた。それが、今回の構えは、「とりあえず当たればいい」とでも解釈するべきか。ただ、その差は微少であり、焔華のブシドーならではの観察眼と直感があったからこそ、判別できたことだろう。しかしどうして、そんな杜撰な構えなのか。殺す気で当たるなら急所狙いをやめてはいけないだろう。それとも――。  否! 次の推測が思い浮かぶ前に、全身が総毛立った。逆転の理論だ。ライシュッツは急所を狙うのをやめたのではない。黒い銃が、急所など狙わずとも十分に危険な代物なのだ! 「逃げ――!」  それが到底無理とわかっていても、叫ぶしかなかった。  弾丸はまっすぐにしか飛ばない。だからこそ、これまでは銃口の向きを見て、弾が急所から外れるように動き、被害を少なくすることができたのである。しかし、急所でなくても危険すぎるなら、敢えて受けるのは愚の骨頂だ。かといって完全に避けるのは、弾丸の早さを考えると不可能に近い。自分達の回避行動と、銃の構造上の問題による『外しやすさ』が、運良くかみ合えば、それも望めるだろうが――ライシュッツほどの手練れが、後者の問題を己の腕で補えないはずはない。  結果として、『ウルスラグナ』は誰一人として、ライシュッツの弾丸を躱すことはできなかった。黒き銃が破裂音を五度打ち鳴らし、備える三つの銃口から薄い煙をたなびかせたとき、冒険者達は、急所への命中こそ免れたものの、弾丸を飲み込んだ身体から細い血の流れを落とす。  そう、身体は弾丸を飲み込んだのだ。これまでのように貫通はしなかった。思えば、今回の弾丸は速度が遅かった気がする。『その瞬間』は対策することで頭がいっぱいだったから気にとめられなかったが、黄金の銃から放たれた弾丸とは違い、軌跡が見えていた気がする。もちろん、避けられるほど遅いものではなかったのだが。  速度の違いの理由はわからない。はっきりしているのは、遅さのために弾は貫通せず、体内に残っていることだった。異物感が『ウルスラグナ』達を苛み、口からうめき声をこぼさせた。  だが、それだけで済みはしなかったのである。 「……およ……?」  エルナクハは奇妙な感覚に気が付いた。  それは体内に飲み込まれた弾丸から染み出し、全身に広がり、あっという間に、身体の隅々を包み込む。  ……これは、何だ!?  言葉にするのは難しい。だが、最も近く、最も簡単な単語で表すなら、これは『快楽』に属するものだ。それも、全身を緩やかに撫で回し、心身を天上に誘うものではない。もっと恐ろしいもの――暴力的な多幸感で身体を縛り、意識を飛ばし、よもすれば、その快楽だけを求める廃人にすらしかねないもの。  受けた弾丸には、一種の麻薬が仕込んであったのだ!  ライシュッツがためらうわけだ。殺すつもりでかかってきている以上、気を回す必要はないのだろうが、銃士はそれでも、死ぬ前に死より辛い目に遭わせることをためらっていたのだろう。仮に『ウルスラグナ』側が生き延びられたとしても、これだけ強い麻薬に冒された肉体は重篤な後遺症を負う恐れがある。  だが、アーテリンデが倒され、状況が切羽詰まったことで、ライシュッツは手控えを放棄したのだ。  という細かい推測ができたのは、後のこと。今はただ、身を襲う感覚によって我を失わないよう、理性の崖に爪を立てるしかなかった。  麻薬といわしむものをたしなんだことぐらいはある。ただ、それは厳格な世界宗教が『麻薬』呼ばわりして禁止しているものだっただけだ。一族の宗教儀式に挑むにあたっては、人とは隔たった世界にあるという神々との交信のために、必須の薬品だったのである。それは穏やかな恍惚と浮き立つような幸福感をもたらす、悪影響を後に引くようなものではなく――今感じているような、強姦めいた感覚をもたらすものでは、決してなかった! 「みんな……大丈……夫、か……!?」  ただそれだけの言葉を発するのも、精神世界の奈落から手招くものとの戦いに挑んでいる最中の身では、重労働に等しかった。 「エル兄……、ホノカ……姉、どこ……」  最初に聞こえた応(いら)えは、ティレンのものだった。 「たすけて、おれ、おかしくなりそうだ。……なにかに、のみこまれそうだ」  おそらく『快楽』を知ったことのないだろう彼は、己の裡を荒れ狂う感覚が何か、理解できていないのだろう。ただ、気を抜けば『それ』に飲み込まれ、理性を飛ばされてしまうのは、本能的にわかっているようだった。 「落ち着け、オレは……ここだ、掴まれ」  身を犯す疼きに耐えながら、パラディンはソードマンに右手を伸ばす。身体は思うように動かず、伸ばした腕は、時折、痙攣して伸長を止めるが、どうにかティレンの手と触れ合えるほどには伸びきった。ところが、同じように伸ばしたティレンの手は、エルナクハの手の周囲を所在なげに彷徨うだけだった。 「見えないよ、どこ? まぶしくて、なにも見えない」 「……おい……?」  奇妙な状況の原因を、エルナクハは知った。ティレンの目――正確には瞳孔は、異常に拡大していたのだ。ベラドンナという毒草を摂取してしまったときと同じ症状、『散瞳』。それが急激に引き起こされたために、月明かりと雪明かりと照明とで確保された薄暗がりに慣れていた彼の視覚は、余計に飛び込んできた光を処理しきれなかったのである。おそらく同じような症状はエルナクハ自身にも起きているのだろうが、見えないというほどではない。症状の出方に個人差があるのだろうか。  目が見えなくても気配くらいは読めるはずだが、動転しているのだろう。ティレンの手がいつまでも戸惑っているので、エルナクハはさらに自分の腕を伸ばして掴んだ。もっとも、自分の方は自分の方で、震えが止まらず、なかなか掴むことができなかった。 「……よかった」  仲間がちゃんといるのを知って安堵したのだろう、ティレンの表情が緩んだ。  だが、それが急激に固まり、見えないはずの目が動く。  エルナクハもティレンの目線と同じ方を向いたのだが、同時に、同じ方向に盾をかざした。  薬の効果の一側面なのだろうか、拡大された聴覚。そこに、異質な音が届いたのである。  それは金属が触れ合う音であり、鍔鳴りの音を連続して発生させたものに似ていなくもなかった。だが、武器を納められるような状況ではなく、エルナクハ以外に鍔鳴りが発生するような武器の持ち主は焔華だけである。そして、その焔華の持つカタナは、構造上、自然に鍔鳴りが発生するような時は、整備不良を意味する。わざと鳴らすことは、その分武器の痛みを早めるため、少なくとも実戦用のカタナでは、ありえない。  エルナクハのとっさの予測通りだった。その音は、ライシュッツが黄金の銃に弾込めをする音だったのだ。雷をまとい飛来した弾丸は盾に当たって方向をずらされ、エルナクハの肩口をかすめていく。全身を電撃が走り、麻薬によって狂わされた感覚がその痛みを増幅した。 「大丈夫、ですかえ!?」  エルナクハの悲鳴を聞きつけたのだろう、焔華の鋭い叫びが耳に届いた。彼女自身はどのような症状に苦しんでいるのか、見ただけではわからない。散瞳の症状は現れているものの、エルナクハの方をしっかりと見据えているところを見ると、視力を失ってはいないようだった。 「ユースケ……!」  激痛にあえぎながらも、この状況をどうにか収めてくれるはずのメディックの名を呼ばわる。食らった麻薬に彼の治療が及ぶか、心許ないところではあるが、それでも頼れるのは彼だけだ。  後方に視線を向けたとき、まず視界に飛び込んできたのは、雪上にぐったりと倒れるパラスだった。肝が冷えたが、寝息は妙に穏やかだった。彼女の肉体は、異物からもたらされる悪影響を遮断するために、眠りに落ちることを選んだのだろう。自分が受けた影響を鑑みれば、よく眠れるものだ、と思うのだが、何かの要因で麻薬の効果の出方が緩やかなのかもしれない。  ひとまず安心したが、戦闘中に眠られるのは困る。何とかしないとと思い、メディックに目を向けたが――状況が思ったより悪いことをエルナクハは知った。  アベイの目の前の雪上が赤く染まっている。彼は麻薬の毒性そのものに耐えられなかったらしい。断続的な咳と共に、新たな血を吐き出し続けるメディックの青年。だが彼は、それでも、向けられたまなざしに笑んで応えたのだ。 「すぐ、治療するから、待ってろ……!」 「てめぇを優先しやがれ!」  アベイは仲間達を見回し、自分以外に危急の者がいないと見て取ると、忠告を無視し、味方の体力を一度に回復する薬の調合を始めたのである。毒に冒された自分の治療は後回しでいい、と言わんばかりに。  感情を極力廃して考えるなら、アベイの行動は決して間違いではない。麻薬の効果ばかりに目が向きがちだが、それが撃ち込まれた際に負った銃創も、軽視できないほどに冒険者達の体力を削り取っていた。この傷を癒しきる前に、また冒険者全員を一度に狙う銃撃を放たれたら、その瞬間が五人全員の命日になりかねないのだから。  とはいえ、アベイが受けた毒を放ってはおけない。もちろん、他の者達が受けた状態異常もだ。問題は、アベイ自身の治癒能力も、ハイ・ラガードで出回っている薬も、味方全員の状態異常を一気に回復させるほどの力を、まだ持たない、ということ。結局は、一人分の状態異常を回復する薬を、それぞれが服用するしかないのだが――アベイは治癒専念のため、エルナクハは防御優先のため、眠っているパラスを除いた二人に駆け回ってもらうしかない。 「……ティレン、ユースケに、薬、飲ませてやってくれ」 「ん」  エルナクハは手持ちの状態異常回復薬(テリアカβ)をティレンに持たせた。ソードマンの少年の手にしかと持たせるまでには、震える手が邪魔して、いささか苦労したが。薬は皆が一本ずつ持っていたが、ティレンの持ち分は後でティレン自身に使わせる必要がある。  ところで、視力を失っているティレンではあったが、先にも記したとおり、彼を含めた大抵の冒険者は気配を読む術を心得ている。同等以上の相手とやり合うには心許ないが、移動しない味方の下に到達する程度なら、動転(パニック)を収めたティレンには、さほど難しい話ではないだろう。テリアカβを受け取ったティレンは、麻薬の影響下であるためだろう、つたない足取りで、それでも間違いなくアベイの下に向かった。  それを見送り、正面に視線を向け直す。耳にはライシュッツが弾込めをする音が届き、神経に障る。 「……ほのか」  呼びかけた先には、身の裡の衝動を抑えるように身体を縮めながら、自分の持ち分のテリアカβを飲もうとしている、ブシドーの娘がいる。 「一発分、来たら耐えてくれ」 「……わかりましたえ」  通じたはずだ。パラディンは、これまで守っていた前衛をではなく、後衛を守ることにしたのだ。今、回復の要であるアベイを狙われたら厳しい。もしも次弾が単体攻撃で、前衛を狙ったものだったら、無為な行動になってしまうが、仕方がない。  エルナクハは敵陣に視線を向けたまま、じりじりと下がり始めた。身の裡から己を叩く感覚と、静かな戦いを繰り広げながら。  途中、霧となった薬剤を浴び、先ほど受けた銃撃の傷が癒されるのを感じた。だが、完全ではない。先程受けた銃弾、それがまとっていた雷で受けたダメージが消えていない。さらに、麻薬による感覚が軽減されることは、残念ながら、やはり望めなかった。  それと同時に、次弾充填を終えたライシュッツが、黄金の銃を冒険者たちに向ける。  悪ぃ、頼むぜ――前衛に向けて、内心で祈りめいた謝罪を繰り返していたエルナクハは、しかし、次の瞬間、己の推測が大いに外れたことを悟った。  銃声は五連――全員を狙ったものだったのだ。  後衛の方に飛来する弾は、どうにか盾で遮れた。弾道を反らされた弾は、それでもアベイやパラスをかすっていくが、まともに食らうよりは遙かにましなのである、許容してもらうしかない。  しかし、なんとかアベイにテリアカβを飲ませ、前線に戻ってくる途中のティレンと、飲もうとした薬を取り落として愕然としていた焔華、その二人を守ることはできなかった。彼らは彼らでどうにか身をひねり、急所への直撃を避けたことだけが、救いであった。  何よりも、最大の問題は、自分自身を守れなかったことだった。  エルナクハは右腿に灼熱の感覚を得た。それは一瞬、麻薬による『快感』すら忘れさせる程の激痛を身に奔らせると、鼓動のような疼きを残す。腿には太い血管がある。おそらく、それを貫かれたのだろう。  行動の激しい場所ゆえに鎧は薄いが、普段通りなら、むざむざ狙わせる場所ではない。癒えきらなかったダメージと麻薬の効果で、身体がうまく動かず、逸らしきれなかったのだ。 「ナック!!」  背後にメディックの叫び声を聞きながら、パラディンは雪上に崩れ落ちた。  腿の銃創から、形も残らぬ程に混ぜ合わされた内臓までが血と共に流れ出していくような感覚がした。視界がすうっと暗くなり、身体が冷えて、雪と同化していくような気がした。  以前にも何度か経験がある。死にゆく感覚だ。  自分はここで斃(たお)れるのか。  期待はしている。仲間の誰かが適切な治療をして、流れゆく血を止め、自分を絶命の淵から引き上げてくれることを。事実、これまでにも幾度も目前に開いた死の運命の虚穴にはまりこんできたが、仲間によって助けられてきた。だから今まで、しかと立ってこられたのだ。とはいえ、今回も仲間の助けが間に合うかどうか、それは神のみぞ知ることである。 「我が、神々よ(オン テムリ アデム)……」  自分にすら聞こえないほどにかすれた声で、黒肌のパラディンは己の神々に祈る。自分が今回も、生死の狭間を隔つ薄膜を掴み、生者の側に這い上がれることを。だがそれ以上に、自分という守りをなくした仲間たちが、自分の生命を踏み台にしてでもいいから、この危地を切り抜けられることを。  赤く濡れた雪を握りしめようとした指は、もはや動かなかった。  パラスが目を覚ましたのは、焼け付くような衝撃を身体のどこかに感じたからだった。  自分は眠っていたようだ。戦闘中に何をしてるのか、と自身を叱咤するが、おそらく、意識を失う直前に受けた弾丸、それに催眠剤か何かが含まれていたらしい、と結論した。  ……のだが、その結論は早々に覆された。  全身が疼き始めた。傷の痛みにではなく、正体不明の快感で。それは、気を抜けば、戦闘中にもかかわらず、すべてを放棄して、身を委ねたくなるような感覚。逆らうには、強大な圧力を感じる。  どうやら、弾丸は催眠剤ではなく、催淫剤か麻薬の類だったようだ。  ともかく、このままでいるわけにはいかない。巫医は倒したが、銃士は健在なはずだ。力を殺ぎ、腕を封じなければ、仲間に大きな被害が出る。  だが、快楽に喘ぎながらも、それに逆らって身を起こしたとき、パラスは、自分の覚醒がすでに遅かったことを知ったのである。  エルナクハが力なく倒れている。アベイが懸命に手当をしているが、雪上に広がった、目の覚めるように赤い色を見るに、その努力が報われるのかどうか、わからない。そもそも、アベイ自身の白衣も、自分が血を吐いたかのように染まっているのだ。何があったのだろう。  他の二人は無事なよう……に見えて、何か不都合があるようだ。テリアカβの瓶をくわえ、中身を飲み干している。  不都合――考えるまでもなかった。催淫剤か麻薬、その弾丸を受けたのは、自分だけではなかったのだ。  無意識に銃創をなぞる。たった今受けた傷。意識を失う前に受けて、アベイの薬のおかげで塞がりつつある傷。すべて、まともに受けていたら、パラスの生命の一つや二つは簡単に吹き飛ばすものだった。そうならなかったのは、もちろんメディックの治療のおかげでもあるが、何よりも、パラディンが盾をもって守ってくれていたからこそだ。  そのエルナクハが、倒れている。アベイが力を尽くしているのだから、まだ生命の火は尽きていないのだろうが。それでも、パーティの支柱として常にどっしりと構えていた聖騎士の、変わり果てた姿は、パラスに衝撃を与えてあまりある光景だった。  口から叫びが飛び出しかかる。――否、、そんな醜態をさらす前に、なすべきことがある。  私はカースメーカー、怨と闇をまとい、恐怖と死をもたらす者。それが、仲間を襲う死の前に屈して、どうするのか!  呪をまとう少女は、身体を貫く震えに耐えながらも、ゆっくり立ち上がった。脳の頂点から足先までを犯す、電流のような快楽は、パラスを容赦なく引き倒し、雪上で打ち震えるだけの肉人形にしようとする。が、カースメーカーの精神はその誘惑にも似た衝動に屈しようとはしなかった。  どうにかテリアカβを服用し、視力や体の自由を取り戻した前衛の二人が、何をしているのか、と言いたげに視線を向ける。後衛のパラスが前列に出てくるなど、自殺行為以外の何物でもない。しかし、声と挙動で歩みを阻止しようとする仲間達に、かすかな笑みを向けると、パラスはさらに前へと進み出た。広げた両腕の動きに呼応して、右手に握られた鐘鈴が、ちりん、と音を立てた。口からこぼれた言葉は、呪詛ですらない。 「逃げて、逃げるのよ。ここは、私が食い止めるから」  馬鹿な。声なき叫びが焔華とティレンから発せられる。本来ならそこにアベイが加わるはずなのだが、メディックはエルナクハの生命をつなぎ止めることに全力を傾けていて、それどころではなかった。だが、たとえ百人の友人から愚行をとがめられても――ただ一人の愛しい死した又従兄弟にとがめられたとしても、パラスはこの行為をやめようとはしなかっただろう。その意図を説明する言葉はなく、ただ、その身体が内なる衝動に耐えて震えるのに合わせ、呪鈴がちりちりと震鳴するだけ。  いつしかパラスの心は過去に飛び、その中では、ライシュッツも、仲間も、本来の形を失った。ただ、前に敵を、後に守るべきものを認識し、カースメーカーの少女は、もう一度静かにつぶやいた。 「ここは、おねぇちゃんが守るから」  この戦い、ライシュッツにとっても苦戦に違いなかった。ただ殺すより仁義にもとる、と思っていた、快楽(けらく)の弾丸を使うほどに。  厄介な者は手早く無力化するに限る。しかし、ここまで上り詰めた冒険者相手では、一筋縄ではいかないことはわかっている。実際、秘蔵の弾丸をその身に飲み込んでも、彼らは容易に屈せず、抗ってきたのだ。快楽に身を委ねるような相手なら、その効果が切れる前に、夢心地のまま命を奪ってやれたのだが。  時間を稼げば、何もせずとも、彼らは自動的に苦痛の底に堕ちる。もはや『彼女』を倒すどころではない、二度と戻れぬところへ。その効果こそが、快楽の弾丸(ハッピーショット)が禁じ手である所以。そこまでの苦痛を味わわせるのは、銃士としても本意ではなかった。速やかに生命を断ち切るのが慈悲だ。  だから、ライシュッツにとって、カースメーカーが歩み出てくることは、望んだことではあった。  後列にいる者は狙いにくい。前列の者達をかいくぐらなくてはならないし、距離的な問題による狙いのぶれ、それに起因する破壊力の低下が問題として存在する。結果的に殺しにくい――逆に言えば、苦しめる時間が長くなってしまいやすいことになる。それが自ら狙いやすい位置に歩み出てきたのだ。  ライシュッツは狙いをつける。両目の間より少し上、頭蓋を砕き、脳を裂き、苦しみなく生命を絶てる場所へ。  カースメーカーの娘は、退こうとしない。ならば都合がいい。力祓いの呪の影響なき今は、自分の腕力低下による照準のぶれもない。寸分の狂いもなく、わずかな苦痛もなく、葬れる。  自分が守ってきた巫医達とさほど変わらぬ年頃の少女。その命を絶つに、良心がとがめない、とは言わない。しかし、良心は、これからも巫医達を守り続ける、と決めたときに、凍らせた。  生命の導火線は、ほんの数糎(センチ)。引き金に掛けた人差し指を、わずかに動かすだけの長さ。  ――だが。どうしたことだろう。  その数糎を、ライシュッツは引けなかった。それどころか、一粍(ミリ)も指が動かない。  ライシュッツは狼狽する。その理由は、すぐにわかった。カースメーカーの少女が進み出てくるとき、呪鈴を鳴らしていなかったか。つまり自分は呪にかかったのだ。とはいえ、呪にかかったと認識できたのなら、目の前に見えるものが何であれ、引き金を引けばいい。そう、頭ではわかっている。  しかし、できなかった。  ライシュッツが見ているものは、すべての冒険者と公国を敵に回してでも守りたかった、『彼女』だったのだから。  冷え切った肌、神がその存在に唾棄したかのごとき異形、そうなってさえ変わることのない、整った顔立ち。親しい者を歓迎するかのように広げられた諸手。一瞬の希望と、底なしの絶望を、『エスバット』に知らしめた、その姿だったら、あるいは、そのような無惨を見せられたことに憤り、呪をふりほどくことができたかもしれない。だが、目の前に見える『彼女』は、巫衣に身を包み、輝く金色の髪を樹海の風になびかせながら、さっそうと皆の前を歩んでいた頃の、生前の姿。  運命が決した瞬間を、ライシュッツは、その原因となった魔物の視点から見ているようだった。  消耗しきった自分と師、そしてアーテリンデ。その三人をかばうように仁王立ち、強固な意志を秘めた瞳でこちらを睨め付ける『彼女』。自身も長い探索と激しい戦いで消耗しきっているだろうに、自分を犠牲にしてでも皆の無事を確保しようとする、まるで聖騎士のような強靱な精神。 「ここは私に任せて、早く逃げて!」  その言葉に、自分達は拒否を示したつもりだ。その身を贄として皆を逃がすのは、前途ある娘達ではなく、老いぼれの為すべきことのはず。しかし彼女は、味方の誰の言葉にも耳を貸さなかった。ライシュッツの請願も、師の理ある言葉も、アーテリンデの懇願も。あるいは、彼女自身、心身共に疲れ切り、ただ『守る』という一点にのみ集中しなければ、立ち続けることすらできなかったのかもしれない。  結局、銃士二人を決意さしめたのは、彼女の言葉だった。  つまるところ、彼女はアーテリンデをこそ守りきりたかった、ただそれだけだったのだ。幼い頃から共に同じ巫医に師事し、血の繋がりはなくとも実の家族のように育った、ただ一人の『妹』を。  その時、銃士達は腹をくくった。彼女の願いを果たすためには、彼女自身を見捨てなくてはならない。  アリアドネの糸は不注意から失っていた。同じ階とはいえ、樹海磁軸は遠い。アーテリンデを一人で行かせたところで、逃げ切れるとは思えない。銃士のどちらかだけが付き添うにしても、消耗しきっている今では同じ運命をたどる。少しでもアーテリンデを無事に逃がす確率を上げるなら、銃士達両方が共に行かなくてはならないのだ。  ゆえに。銃士達は、せめてもの援護射撃だけを残し、彼女を見捨てた。  そんな残酷な選択を自分達になさしめた、彼女の言葉が、未だに耳に残っている。 「ここは、おねぇちゃんが守るから」  奇しくも、カースメーカーの少女が放った言葉は、『彼女』のそれと同じだった。だからこそ、その言葉は、ライシュッツの思い出を呼び覚まし、鎖とせしめ、腕を縛った。みすみす死なせてしまった者と同じ言葉を放ち、同じ行動をしているカースメーカー。それを殺したとき、ライシュッツは『彼女』を失ったに等しくなるだろう。  ――けれど。  ライシュッツは優秀な銃士だった。アーテリンデを守るために、『彼女』を、本人の願いとはいえ切り捨てたことと同様、今もまた冷徹な判断を取り戻そうとしていた。すなわち、 「『彼女』は――死んだ」  ならば、目の前の幻は、紛うことなく幻だ。目の前の『彼女』は、ただの敵、『ウルスラグナ』のカースメーカー。  それが、ライシュッツの破綻となった。  『彼女』は死んだ――。  ならば、自分達『エスバット』が守ろうとしている『彼女』とは、何者になるのか。  ライシュッツにとっても『彼女』は大事な者だったが、銃士の老人はアーテリンデほどには感情的ではなかった。魔物に変じた彼女を見出し、事ここに至った今も、その心の奥底には、実は迷いがあった。  自分達が為していること、死者を守り、生者を葬ることに、大儀があるのか。  迷いながらも、アーテリンデのためには、泥どころか、熱したマグマであろうと、かぶるつもりでいたのだが――。  ――少なくとも、『ウルスラグナ』のソードマンとブシドーには、その迷いは『隙』以外の何物でもなかった。  我に返ったライシュッツは、豪炎をまとったカタナの刃が肉薄してくることに気が付き、回避しようとした。  が、わずかに遅かった。  見えざる炎が肌を焼き、ライシュッツをひるませる。畳みかけるように襲い来るのは、赤毛の少年が繰り出す斧。斧の重い刃をまともに受け止めたら、ライシュッツの躰など、簡単に両断されるだろう。幸い、ソードマンが攻撃に使ってきたのは、刃の背の方であったが、それでも肋骨の数本は覚悟する必要があった。  衝撃と苦痛が、ライシュッツの身体を雪原に引き落とした。力を失った手から二丁拳銃を取り落とし、『魔弾』の二つ名を持つ老銃士は、静かに雪の上に身を横たえる。  それは同時に、長らく樹海探索の最先を譲らなかった『エスバット』の敗北と、新鋭たる『ウルスラグナ』の勝利を意味していた。  呆然と天を見つめ続けるライシュッツの側に、焔華とティレンは歩み寄った。  逆手に持ったカタナが、垂直に立ち、ライシュッツの眉間ぎりぎりに突き付けられている。覚悟はできているのだろう、ライシュッツは、冷ややかに刃先を見た。老いによって濁り始めた瞳ゆえ、本当に刃先を見つめているのかは、『ウルスラグナ』には判断しづらかったが。 「……やめましょ」  幾ばくかの間の後に、焔華はあっさりと刃を引く。 「わちらは、殺人者となって大公宮に追われるつもりはありませんし」  ティレンが、いいの? と言いたげに視線を向けるのに構わず、焔華は身を翻す。着物の袂が、ふわりと浮き上がり、ちらちらと舞う雪を孕んで、主人の後を追った。ティレンは、ほんのかすかに憎悪を宿した瞳を、ライシュッツと、焔華の背の間で、交互に動かしていたが、やがて意を決して、焔華に続いた。子犬のようなソードマンの姿に、焔華は笑いを誘われながらも、言い聞かせるかの口調で続ける。 「幸い、エルナクハどのも、持ち直したようですし」  向かう味方の陣営には、膝を突いて荒い息を吐くパラスと、ぐったりと横たわるエルナクハ、彼の治療を安堵の表情で続けるアベイがいる。 「……ほんと?」  ティレンの裡の憎悪は、あっさりと潰えた。  その様に、焔華は再び柔らかい笑いを誘発される。  一方パラスは、緊張の糸が切れたようで、雪原にへたり込み、荒い呼吸を繰り返している。焔華は、パラスの側をすれ違いざまに、彼女の背を労いの意を込めて軽く叩こうとした。  その手が止まったのは、意外な方から声が掛けられたからだった。 「……待て」 「……ぬしさんらのことなど知りませんわ」  ライシュッツの言葉に、焔華はつれなく応える。 「ほんとはそのまま勝手に朽ちてもろうたほうが、後腐れなくていいのんけど、二度とわちらに刃を向けなきゃ、御の字ですわ」 「そういう話ではない」  自分の予想とは違う返答を得て、思わず焔華は足を止めた。  ライシュッツは口角をかすかにゆがめ、ゆっくりと手を腰のポーチに掛けた。黒い銃も黄金の銃も彼の手元を離れているにもかかわらず、まだ隠し弾があるのか。警戒し、カタナを持つ手に緊張を奔らせる焔華だったが、幸い、ライシュッツがポーチから取り出したものは、『ウルスラグナ』を傷つけることはできないものだった。弾丸ではあったのだが、弾倉入りのそれが、現状で殺傷力を持つとは思えない。  ライシュッツは弾倉を焔華の方に差し出すと、招くようにかすかに動かした。 「これを持ってゆけ」 「……ティレンどの、他の皆を頼みますえ」  ソードマンの背を仲間の方に押すと、焔華は一人、ライシュッツの下へ引き返した。  さく、さく、さく、と雪原を踏むうちに、ふと気が付いた。耐え難い快楽は、その残滓であるかすかな身の疼きを残し、いつの間にか消えている。内心で安堵の息を吐いた。人前、しかも戦闘中だから必死に抗ったが、もしも私塾へ戻ってからも続いていたら、どうなっていたことか。  代わりに、体内に残る弾丸が、ずきずきとした痛みを誘発している。痛み自体には耐えられるが、街に戻ったら薬泉院で摘出してもらわなくてはなるまい。  それにしても、ライシュッツはどうして弾丸などを寄越す気になったのか。  いぶかしく思いながらも銃士の傍にたどり着き、弾倉に手を伸ばした焔華は、ライシュッツの言葉を聞いた。 「『ウルスラグナ』よ、我らの負けだ。ヌシらを止めることはできぬ。自由に……進むがいい」 「言われませんでも」 「だがその前に!」  銃士の言葉が、強制力を孕む。 「今すぐ街に戻り、その弾丸を持って薬泉院に赴け。進むのはそれからの話だ」 「ぬしさんに命令などされたくありませんえ」  焔華は反発の意を露わにした。傷の治療をすることは、今し方自分自身でも考えていたことである。にも関わらず、ライシュッツに行動を規定されると、心の裡にもやもやしたものが溜まる。これまで何度も居丈高に接せられたことが、反発の原因になっているのかもしれない。アーテリンデに言われたのなら、まだ聞き入れられただろうか。 「とりあえずは聞け」  焔華の内心を読んでいるのか、ライシュッツは、それでもなお有無を言わせずに語る。 「我がヌシらに撃ち込んだのは、その弾……その効果は、今は収まっているやもしれぬが――それでは終わらぬ……」  続く言葉はなかった。痛みに耐えかねたのだろう、ライシュッツは意識を手放していた。  焔華は思わず左手を左肩口に伸ばす。彼女はその位置に弾丸を受けていたのだ。鎧の隙間を貫いた弾丸は彼女の美しい着物を朱に染め、かすかな痛みと疼きを残していた。この程度の違和感は冒険者として日常のこと、早めに治療するに越したことはなかろうが、今すぐにというほどではない。ライシュッツへの反発から来る感情が、焔華に我慢を選ばせていた。  だが、ブシドーの娘は愚かではない。その心の奥底には冷静な判断力を残していた。それがライシュッツの言葉を反芻し、感情で動いている場合ではないと告げる。  あのような強力な効果を持つ楽なら、時をおかずに反動が来る。  簡単に言えば、今ここにいる『ウルスラグナ』は全員、強制的に中毒患者にされてしまった。  苛立ちはある。よくもこんな穢れた手段を攻撃に使ったものだと。しかし、本来、生きるの死ぬのという戦いに、手段を選ぶ余力はない。ブシドーやパラディンの信念はむしろ綺麗事に過ぎないのだ。それによく思い返せば、ライシュッツはアーテリンデが倒れるぎりぎりまで、この魔弾の使用を躊躇っていた。使え使えとわめいていたのは、むしろアーテリンデの方だった。 「……治療などしませんえ。持ち直す前に魔物に食われても、自業自得ですし」  魔弾の銃士を一瞥すると、焔華は踵を返し、仲間達の方へと歩を進める。  治療が終わったのか、既にエルナクハは半身を起こしている。若干ぼうっとしているように見えたが、焔華が近づいてくるのを見定めると、軽く手を挙げて応えた。傍にいたパラスやティレンも遅れて反応する。 「無様なところ見せたみてぇだな」  護り手としての自負を打ち砕かれた様相を苦笑として表し、エルナクハは自嘲混じりの声を上げた。焔華からしてみれば肯定も否定も難しいものだったが、さしあたって手刀を聖騎士の頭頂部に食らわせる。 「てっ」 「そう思うなら、修行、修行、修行! ですえ」  それは自分自身にも向けた言葉だった。自分の力はまだまだエトリア全盛期に戻っていない。戻っていたら、『エスバット』程度は片手でひねりつぶせただろう。穢れた弾丸の登場など許さずに。焦りは禁物だが、まだまだ鍛錬の必要がある。  ところで、一人足りないようだが。  頭を巡らせた焔華は、少し離れたところでアベイがしゃがみ込んでいるのを見た。例の黒い建造物の傍だ。まさかもう彼には麻薬の反動が出始めたのだろうか。心配したが、幸いにもそうではなかった。  アベイはアーテリンデの治療をしていたのである。そういえば、アーテリンデを倒したとき、焔華は彼女を自陣営の後列に引き込んだのだが、その時に黒い建造物の陰に横たえておいたのだった。  アベイのことは置いておいて、他の仲間達に手早く説明する。 「……だろうな」  話を聞き終えたエルナクハは難しい顔をしていた。『エスバット』を打倒したまではいいが、このまま探索を続ける余力はない。それどころか、下手をすれば長期にわたって、ここにいる五人は探索どころか日常生活すら危うくなる恐れがある。それは焔華も覚悟していたことだ。  そして、ライシュッツが魔弾を寄越してきたのもそのためだ、と気が付いた。ツキモリ医師が薬品を調査すれば、対応する治療薬を特定できるかもしれない。あっという間に治るという奇跡は望めなくとも、長期的に服用することによって、生活に大きな支障が出ないようにするくらいなら。ツキモリ医師の腕なら、探索もこれまでとほとんど変わらずできるようになるかもしれない。それでも、長時間の探索を続けるという無茶は望めないだろうが――これまでもほとんどやらなかったことだが。  とにかく、急いで帰らなくてはならない。 「ユースケ、そろそろいいだろ?」  エルナクハの呼ばわる声に、アベイは後ろ髪を引かれているような表情を浮かべながら、しぶしぶと戻ってきた。  敵となった相手でも、殺さずに済んだからには、ちゃんと治療してやりたいらしい。平常時なら認めてやってもいいのだが、今は他人のことに気を裂いている場合ではない。最低限の治療はしたようだから、程なく目を覚ますだろう。あとは自分達でどうにかしてほしいものだ。  メディックの青年が荷物の中から磁軸計とアリアドネの糸を取りだし、糸の起動を開始する。繰り出された糸が描く緩やかな円の中に、磁軸の歪みが形成される。揺らぐ空間の向こうに見える光景が、ぐねぐねと踊っていた。  冒険者達は、歪みの内側に足を踏み入れる。パラスが少し遅れたのは、ライシュッツに聞きたいことがあったのに叶わなかったことが、わずかな未練となって足を止めたからだろうか。  立ちくらみにも似た感覚を感じた後、見覚えのある石畳が視界に飛び込んできた。世界樹入り口と一階を結ぶ緩やかな階段の途中、踊り場脇の空間である。  世界樹から外に出ると、思わず吐息が漏れた。呼気は秋深い冷気を孕んだ風に混ざり、吹き散らされていく。冷たく凝り、さらには敵意と殺気に塗りつぶされた、氷樹海の空気に比べれば、なんと爽快な風だろう。  この風の爽やかたることを感じる余裕がなくなる前に、薬泉院に行かなくては。  そう考えた焔華は、不意に、何か重量のあるものが倒れる音と、うめき声を聞いた。  たった今まで、今すぐにでも起こりえるという心構えをしていたというのに、その瞬間、一体何が起こったのか、焔華は理解できなかった。  どうしたのか、と振り返りざまに口にしようとしたその時、感じたのは、四方八方から斬りつけられたような激痛。脳内が深紅に染まり、背後で起きたことに関する心配も朱に塗りつぶされた。  無論、爽やかな風を感じる余力などありようはずがない。それどころか、焔華が斬りつけられたと感じたものは、その風が、羽毛が肌を撫でる程度の柔らかさで吹き付けてきたものだったのだ。  ……死んだはずの聖騎士の姿を見た気がする。  黄金の花の色をした髪と、深い空の色をした瞳の。  迎えなのか、と思ったことは否めない。だが、それは変だ。かの者が神を信じているとは聞いたことがなかったが、仮に信じていたとしても、その神は大地母神(バルテム)の一族ではないはずだ。ならば、大地母神の信徒である自分の迎えとして現れるはずがない。  ということは、死に際に見るただの幻覚か。  なんでだよ、と苦笑気味に思う。オレはその気はないんだぞ。自分は妻持ち、だったらこういう場合は妻の面影を見るのが定番じゃないのか。戦闘中に倒れたときは、仲間の無事を願うことで頭がいっぱいだったから、仕方がないにしても。  いずれにしても、意味のある思考を巡らせられたのは、客観的な時間としては、ほんの一瞬だった。肉体を寸分と残さず刻みつくすがごとき痛みは、精神すらその凶刃の下に切り刻み、思考を細かく寸断する。結合力を失った諸事は、暗黒の中に沈められ。  後に残るのは、ただ、無のみ。  己の裡にて轟く異音だけを聞いていた耳が、その雑音の中に、意味のありそうな言葉を見つけ出す。  そういえば、この轟きからして、自分はいつから聞いていたのか。それを突き止めるのは、朝の覚醒がいつから始まったのかを知るに似た徒労だろう。だからその件について考えることは早々に諦めた。  怠(だる)い。もっと寝かせろ。いっそ永遠にでもいい。本当は声に応えたくなどないのだ。だというのに、心の奥底にある理性が、起きろ、とざわめく。  わかったよ。少しだけ付き合ってやる。  そう思って、薄目を開けた。本来なら、えいや、と、思い切って目を開けるところだったが、外から入ってきた光が、思いの外に目を刺したのだ。  狭まった視界の中に、人影が見える。  自分をのぞき込んでいるようだが、逆光になっていて、目鼻の造作はよくわからない。だが、そんなあやふやな光景の中にも、はっきりとわかる特徴がある。  色をなくした世界の中の、ただひとつの、輝ける色。  黄金の花の色をした髪が、光を照り返して輝く様。  まさか。ほんの数分前に見たような気がする知人の姿を、思い出す。  あいつは死んだはずだ。エトリアの執政院からもそう連絡が来た。死の瞬間を直に見たわけではないにしろ、証人もいる。だから、生きているということはあり得ないはずだ。  そうわかっていながらも、もしかして、という思いを抱かずにはいられなかった。  目を刺す光を我慢して、一気にまぶたを開く。色の奔流が網膜に飛び込んできて、脳を混乱させる。そんな中で、確かに見た。色彩の嵐に邪魔され、細かい造作はまだよくわからない、人影。それは、金色の髪だけではなく、深い空の色をした瞳をも持っていたのだ。  冷静に考えれば、金髪碧眼の人物など、ごまんといる。  けれど、その時は心が高揚して、彼を二度と死の世界に落とすまい、と、手を伸ばした。  そこで、意識がはっきりと覚醒した。  それは細い腕だった。もう少し力を込めれば、ぽきりと折れてしまいそうだった。その細さと、象牙の色に似た肌が、妻を思い起こさせる。  ひょっとしたら、金髪碧眼なのはただの見間違いで、人影はセンノルレだったのだろうか。  そう思ったエルナクハは、しかし、時を置かずして、誤りに気が付いた。  目を刺すほどにまぶしく感じられた光は、窓もないその室内をかすかに照らすカンテラのそれ。そんな光の中でも、その人物が確かに金髪碧眼で、どう見てもセンノルレではないとわかる。かといって、もう一人の錬金術師でもなかった。  緩やかに波打つ髪は長く、側頭部の髪は、いわゆる『縦ロール』と言わしむ、縦巻きにされた髪型となり、肩口から身体の前方に下げられているようだった。『ようだった』というのは、その人物がケープを着用していて、縦巻きの髪はその陰に見え隠れしていたからだ。濃赤色のケープと、同じ色のカートル(ワンピース)は、ついさっき(とエルナクハには思える程度の過去に)見た者を思わせた――アーテリンデの被服によく似ている。さらに言うなれば、以前出会った、ウェストリという名の女巫医にも似ている。彼女達のように三角帽子はかぶっていないが、おそらく脱いでいるだけだろう。  彼女は紛うことなきドクトルマグスだ。見知らぬ彼女が何故、エルナクハの傍にいるのかは、わからないが。 「……そろそろ、離してくれる?」  その少女――と言える年齢に見えた――が、ぼそりとつぶやいたので、エルナクハは慌てて手を離した。そんな簡易な動作を行っただけだというのに、身体の内側が、罅(ひび)が入ったかのように、ぴしぴしと痛んだ。  耐えられないほどではないが、不快感にエルナクハが眉根をしかめると、少女は心配そうにまたたいた。その様に、何故か、金髪碧眼の聖騎士の姿を重ねてしまい、今度は胸のどこかが痛んだ。よく似ている。ひょっとしたら姉や妹だったりするのだろうか。パラス以外に年の近い女性の親族がいるとは聞いたことがないのだが。 「オマエ、誰だ?」  不躾を承知で問いかける。巫医の少女は返答を拒否しなかった。 「ルーナ。そう呼んで、『ウルスラグナ』のエルナクハ」 「オレを知ってんのか?」  その問いは愚かだったかもしれない。今や樹海探索の最先を往くギルドのひとつとして、『ウルスラグナ』の名は『エスバット』と並び称されるほどになっている。そのギルドマスターであり、黒い肌の聖騎士として目立つ、エルナクハのことを、知っている者がいても不思議ではない。  少女は少し寂しげな表情を浮かべると、続けてつぶやいた。 「ええ、『ウルスラグナ』のことは、よく知ってるわ。エトリアの頃からね」  それでエルナクハは合点がいった。彼女は以前エトリアにいたのだ。住人としてか、冒険者としてか、はたまた観光客としてかは、知り得るところではないが。ともかくも納得してしまったために、それ以上の言及を必要としなかった。――後になって考えれば、このときにさらに問いつめれば、いろいろなことがわかったはずなのだが、それはまた別の話である。 「そか。……で、その姿は、ドクトルマグスだろ。冒険者なのか? それがどうして――」  こんなところにいるのか、と続けようとしたのだが、それは叶わなかった。  こつこつ、と扉を叩く音が耳に届いたからである。  返答をする前に扉が開いた。入室してきたのは、ツキモリ医師と、もう一人、見知らぬ少年であった。  思わず少年の方に目が向く。どこかの制服のように見える、折り目正しい深緑の服を着用した彼は、ちょうど、子供から大人の男へと変貌する過渡期のような、無邪気さと決意が同居した顔立ちをしていた。まだ若干子供の方に傾いて見えるのは、大人の男にしては低いと言える背丈ゆえか。ルーナと名乗った少女とほぼ同じだけの高さしかない。『ウルスラグナ』の女性陣と比較しても、パラス以外の皆とほぼ同じではなかろうか。ましてエルナクハと比すれば、少年の頭は聖騎士の胸元あたりにしか届かないだろう。  それ以上に思考を巡らせようとしたところで、ツキモリ医師の言葉が耳に届いた。 「……よかった、気が付いたようですね」 「ああ。……世話掛けたな、ツキモリセンセイ」 「いえ、冒険者の皆様の治療を行うのは、僕たちの仕事であり、理念ですから」  穏やかな笑みを浮かべたツキモリ医師は、エルナクハが一番問いたいことを敏感に察したか、その答えを口にする。 「他の皆さんも無事ですよ。ただ、いろいろと治療が必要でしたので、皆さん、別々の病室にいていただいていますけど」  言われて気が付いた。自分が収容されているこの部屋は、いつもの病室ではない。ギルドの数人が怪我を負ったときに放り込まれる団体部屋でもなく、キマイラと戦った後のフィプトや海難事故にあったドゥアトが収容されたような個室でもなく――薬泉院の奥にあるという、集中治療室、その一室。地下の霊安室(モルグ)を除けば、最も死神の腕(かいな)に近い部屋。 「そんなにも――」  自分達は、深く傷ついていたのか。  ふと、気が付いた。ツキモリの左頬が、皮膚の色ではあり得ない紫色に染まっていることに。治安の悪い区域に迷い込み、柄のよくない輩に殴られでもしたような。否、殴ったのは……。 「迷惑、ずいぶんかけちまったようだな」  深々と頭を下げる。目覚める前の、記憶が断絶した時間の中、何かと戦っていた気がする。全身を襲う激痛から逃れるために。 「いや、なかなか効きましたよ、エルナクハさんのパンチは」  はは、と笑いながらツキモリは応じた。何もなかった、と答えたところで納得されるはずがなく、しかし医師である彼としては『恐縮されることなどないこと』ゆえに、そのような冗談めいた物言いをしたのだろう。  とはいえ『ウルスラグナ』は冒険者で、戦闘能力の低いメディック達に押さえ込める相手ではない、本来は。弱っていなければ、青痣では済まなかったはずだ。そう気が付いたエルナクハとしては、ただただ感謝の一言以外に浮かぶ言葉がなかった。  彼ら薬泉院のメディック達のおかげで、この世に留まれた。  仲間を生かせるなら、自分の命を踏み台にされることも厭わなかった。とはいっても、生きて戻れたのは純粋にうれしい。妻や、まだ見ぬ子を、この世界に置き去りにせずに済んでよかった。  ……だが、ライシュッツによってこの身に撃ち込まれた麻薬が、この程度で暴虐を潜めるだろうか。いや、正確に言うなら、薬ではなく、もたらされた快楽に味を占めた自身の肉体そのものが暴れるわけだが。  先のことを考えて暗鬱たる思いに苛まされるエルナクハに、ツキモリが声を掛けた。  隣にたたずむ少年を、少しだけ聖騎士の方に押し出して。 「紹介します、エルナクハさん。この少年と、そちらの少女が、あなた方の生命の恩人になります」  生命の恩人。その言葉の意味するところを、すぐには掴めなかった。  しかし、記憶の奥底から、じわじわと何かが染み出してくる。それが言葉と触れ合い、融合を果たしたところで、やっと得心がいった。同時に、目にした気がした、死んだはずの聖騎士の正体も。 「……そうか、オマエらが、オレらのことを薬泉院に知らせてくれたのか」  聖騎士だと思ったのは、彼に似た雰囲気がある、ドクトルマグスの少女だったのだろう。自分の意識も錯乱しかけていて、見間違えたのだ。 「それだけじゃ――」 「それだけじゃないわ」  ツキモリ医師が口を開くところを、当のドクトルマグスの少女が言葉で遮る。 「あんな麻薬に冒された身体、たった一晩でそこまで健常にできたのは、誰のおかげだと思ってるの? 私が用意した薬草がなかったら、あなた達は今も、苦痛によだれを垂らしながら散々暴れてたはずよ。くすくすくす……――いえ、アベイやパラスなら耐えきれなかったでしょうね。そんなことにならなくてよかったわ」  ――前言撤回。彼女は聖騎士に似てはいるが、その中身は似ても似つかない傲然たるもの、嗜虐思考すら覗いた気がする。ただ、言葉の後半に、ただ傲然たるだけではない、彼女の内心が、垣間見えたような気がした。  一方、ツキモリの隣にたたずんでいた少年は、慌ててルーナの隣に並ぶと、少女をたしなめる。 「ルーナさん、何もそんな言い方しなくても……」  二人がどこのギルド所属かは知らないが、どうやらルーナが尊大に振る舞い、少年がたしなめる、というのが、この二人の間の役割のようだった。  そんなことを考えていると、少年がくるりとエルナクハに向き直る。精神的に身構えかけるが、何のことはない、ただの自己紹介だった。 「あ、申し遅れました。ボクはヴェネス、ヴェネス・レイヤーと申します。以後、お見知りおきを」  ぺこり、と頭を下げるその様が、彼の印象を、第一印象よりもさらに年下へ押し下げる。 「あ、ああ、世話になったな、サンキュー」 「いえ、初めて樹海に入ろうとしたら、皆さんが苦しんでいましたので。当たり前のことをしたまでです」 「……初めて? てぇと、オマエら、新人(ルーキー)か?」  それはなんというか、第一歩目で躓かせてしまったような気がする。エルナクハは気まずい気分になって、ぽりぽりと頭を掻いた。そんな内心はさておいて、質問に答えたのはルーナの方である。 「ええ、『花月(フロレアル)』っていうの。よろしく、先輩」 「お、おう」  『花月(フロレアル)』とは珍しい単語を聞いた。  知る限り全世界に広まる現行暦とは別に、世界随所に太古から伝わっているとおぼしき、廃れた旧暦がいくつかあるが、そのひとつ、確か『共和国』の一地方のものに、そんな名前の月を有した旧暦があったはずだ。三十日からなる月を十二と、鬼乎ノ一日のような余日を五日、束ねて一年としたその暦を称して、「我らが先祖のことながら、余日を五日も出すなど合理的ではないものだ」とぼやいたのは、その地方出身の、『百華騎士団』でのエルナクハの同僚であった。この娘も同じ地方の出なのだろうか? それはそれとして、『花』というのは、どことなく彼女にふさわしい気がした。  そんなことに思いをはせた後、エルナクハは、舌端を制されて所在なげにしていたツキモリに目を移す。 「しっかし、よくココまで治せたもんだ。麻薬の治療ってのは、ほら、タバコ中毒に無理矢理禁煙させるのとおんなじなワケだからよ、時間がかかる上にめちゃくちゃ辛ぇもんだと思ってたぞ」  ツキモリは寂しげに笑った。 「実を言うと、僕には手の施しようがありませんでしたよ。集中治療室(このなか)にいて頂いて、あなたたち自身の身体が麻薬の誘惑に打ち勝つまで、ずっとお世話をすることになるかと覚悟していました。でも……」  羨望に似たまなざしが、ルーナに向く。  ヤマブキの花の色の髪をした巫医の少女は、えっへん、とでも言うかのように胸を張り、講師の様相で後を引き継いだ。 「頭がっちがちのメディックじゃどうしようもないことでも、私達ドクトルマグスにかかればどうにかなる、ってことはあるわよ」  メディック達の努力は凄まじい。並々ならぬ情熱で薬を研究し、病を引き起こす『細菌』という微生物を突き止め、いくつもの死病を克服してきた。だが、そんな彼らですら匙を投げるしかない病変を、ドクトルマグスは、時にたやすく癒す。それも、薬草を使うまではともかく、それらを一晩満月の光に当てるだの、薬効があるわけでもない鉱石粉と共に処方するだの、メディックから見れば信じがたい手法でだ。霊気(オーラ)を癒すことで肉体を癒す、というマグスからすれば、理にかなっているのかもしれないが。 「まぁ、でも」  と、ルーナは、己が最も偉いと言いたげだった表情をゆるめた。 「ヴェネスに感謝しなさい、エルナクハ。この子が、焔華が持っていた弾倉を見て、麻薬の正体を特定しなけりゃ、私が薬を調合するのにも時間がかかったでしょうね」 「……弾、倉?」  ……そうだった、『エスバット』を下した直後、ライシュッツが寄越してきたものだ。 「あの弾倉の元々の持ち主は」  後を引き継ぐようにヴェネスが口を開いた。「直接ではないかもしれないけど、ボクが所属しているガンナーギルドと、何かしらの関係があったのかもしれません」 「……ガンナー? ……オマエ、銃士なのか」  己の正体を明らかにした少年は、その質問には無言でうなずくと、弾丸に関する説明を続けた。  もともとは少年が所属するガンナーギルドで、敵を攪乱するために使われたものだという。もともと大抵のガンナーギルドに伝えられている、弾丸に薬剤を仕込んで味方に撃ち込み、その状態異常を癒す技――それを応用した技。特に敵が多数で、通常手段ではどうしても対抗できない時の切り札。  エルナクハは苦々しさを感じ、だが、それを隠し通した。  少年の語ったことは口数少なかったが、彼の所属するガンナーギルドが、何を狙ってそのような『切り札』を使うのか、わかる気がしたからだ。それはすなわち内部崩壊。麻薬の味を知ってしまった身体は、この世ならざる快楽を再び味わうために、本能を手なずけ理性に苦悶を授ける。そうしてできあがるのは、麻薬のためなら何にでも手を染める輩だ。たとえば、護り固い城塞のなかに、そのような人間が生まれてしまったら、そして、その者の下に、矢文などで、こんな一文が届いたら――貴君の大将の首を取ったなら、貴君の苦しみを和らげる品を進呈しよう。  敵の内部の裏切りを誘うのは、戦の常套手段ではある。だが、それは手段選ばずしていいものではなかろう。とはいっても、そのようなことを目の前の少年に詰問する意味はないし、彼の所属ギルドに文句を付けたところで聞く耳持たれることもあるまい。  とにかくも、少年は麻薬の正体を知っており、おかげでルーナが調薬を行う時間も大いに短縮されたということらしい。 「……はは、なるほどな。確かにオマエらは、オレらの生命の恩人だ。礼を言う」  エルナクハは素直に頭を下げた。体内がぴしぴしと痛みを発するが、このくらいは甘受もしよう。『花月』の二人がいなければ、自分達は『人間』にすら戻れなかったのかもしれないのだ。  ルーナと名乗った巫医は、エルナクハが頭を下げる様を満足げに見届けると、しかし、それでも足りぬと言いたげに口を開く。 「感謝してるのなら、見返りが欲しいわね」 「ルーナさんっ!?」  咎める口調で横やりを入れるヴェネスが、ルーナが弾いた指に眉間を攻撃されて呻く。そんな状況を目の当たりにしつつ、エルナクハは苦笑しつつも問い返した。 「カネか?」 「悪くはないわね。でも、それより欲しいものがあるわ。物体(モノ)じゃないけど」 「ほう?」 「私達二人を、『ウルスラグナ』に加えてくれないかしら?」  エルナクハは瞠目した。まさかそんな条件を呈示されるとは思わなかったのだ。  諾か否かというならば、自分としてはまったく問題ない。ドクトルマグスもガンナーも、今の『ウルスラグナ』にはいない。縁があったら仲間に加えたいと思っていたが、残念ながらその縁にはとんと恵まれなかった。だから最近は特別に探したりもしていなかったのだが、向こうからやってくるなら拒否する理由もなかった。仲間達も、別にかまわないと言うだろう。  しかし、『花月』はそれでいいのだろうか。ギルド員の進退は彼女達だけで決めていい問題ではないはずだ。現にヴェネスの方は、『一体何を言い出すんですか』と言いたげに、あたふたとしている。  そんな内心を先読みしたかのように、すました顔でルーナは続けた。 「気にしなくていいわ、どうせ『花月』は私達二人だけだもの」  そう聞かされてさらに仰天した。  初めて樹海に挑むギルドには、『自分達の力だけで一階の地図を完成させる』という試験が課せられたはず。様々なギルドから話を聞くに、地図が完成されていなければ決して街に帰してもらえなかったという。どうしてもというなら冒険者としての登録を放棄することが条件だということで、数組のギルドが何とか生命を拾ったものの、強情を張ったいくつかのギルドは二度と帰らなかったらしい。入国試験としても、あまりにも厳しすぎるのではないか、と思ったものだが、ハイ・ラガードの市民権が欲しいだけの不届き者を振り落とすには、他に策(て)がないのかもしれなかった。  『花月』の二人、ドクトルマグスとガンナーは、たった二人だけで樹海に挑もうと考えていたのか。不可能ではないかもしれない。だが、あまりに無謀ではないだろうか。  仮にも自分達の恩人、事情を聞かされては、どうにかしなくては、という気分になる。  しかし……。 「ギルドマスターとして言わせてもらうんなら」  わざと顰(しか)めっ面を作って、エルナクハは疑問を呈した。 「一人や二人、新しく加えるくらいは、べつに構わねぇ。仲間達(みんな)も、別に反対する理由はねぇだろうさ。ただ……」  何を聞きたいのか、と言いたげな二人に、口調強く続ける。 「オマエらの考えてることがよくわからねぇ。なんでたった二人なのか。冒険者の流入も落ち着いた、って言っても、オマエらくらいなら迎え入れてくれるギルドもあっただろ? ギルド長あたりが余計な世話焼いてくれたりはしなかったのか?」 「それは……」  言いにくそうに切り出したのは、あわてふためいていたガンナーの少年の方だった。 「ボクがハイ・ラガードに来た本当の目的は、樹海探索じゃないからなんです」 「おい?」  まさかそんな話になるとは思わなかった。  ハイ・ラガードに入国する際には――ラガードに限らない話だが、それなりの手続きが存在する。本籍がはっきりしている者はまだいいが、そうでない者はさらに面倒な手続きに晒される。犯罪に関わっている可能性が高くなるからである。ちなみに、まだ冒険者として起つ気がなかったドゥアトが入国審査を行った際には、比較的簡易に済んだが、これは彼女が、本籍である『王国』の旅券を持っていた他に、エトリア執政院長オレルスの署名付きの旅券を携えていた、つまりふたつの国のはっきりとした後ろ盾を持っていたからである。  現在のハイ・ラガードにおいては、『世界樹の迷宮の探索にやってきた』という理由がある者に限っては、例の入国試験の通過を条件として、手続きが簡略化される。例外はゼグタントのような採集専門活動をするフリーランスの冒険者の場合である。彼の場合は、その活動内容の特殊さと、やはりエトリア執政院長の署名付きの旅券の威力、そして『ウルスラグナ』の知己であることが手伝って、冒険者でありながら入国試験を免除されていた。そんな彼の実績を鑑み、後続の採集専門フリーランスの入国条件も緩和されたわけである。  どれだけの犯罪を他国で引き起こしたのだとしても、迷宮に挑む冒険者であれば、手続きの簡略化は変わらない。笊(ザル)法のようにも見えるが、実際、元犯罪者でも、ハイ・ラガードで犯罪行為を続けるような輩は、まずいない。大概の者は、犯した罪から再起する手段を求めてラガードの地を踏む。ただ己の罪からの逃げ場にするだけというには、迷宮の危険にさらされることは、あまりにも分が悪いのだ。  さて、このヴェネスという少年は、まずいないはずの、その手合いなのだろうか。何かしらの罪を犯し、それから逃れたくて、ハイ・ラガードを利用しようとしたのか。それゆえに、最低限の『冒険者である』という体裁さえ整えば良し、と思ったのか。  違うな、と思い直した。少年はそのような輩には見えない。第一、そのような事情があったとしても、隠しておけばいいのだ。「ルーナと二人だけで試練を突破する自信があった」と豪語しても、エルナクハにはその真偽は確認しようがない。 「ヴェネスを誘ったのは、私よ」  二人のやりとりをどこか面白そうに眺めていた、ドクトルマグスの少女が、助け船とばかりに口を出した。 「なんだか入国手続きに手間取ってたから、教えてあげたの。私が迷宮に挑む助けをしてくれる、って建前なら、もっと簡単に入国できるわよ、って」  それなら、判らなくもない。では、ルーナの方は、他に仲間を得ようとは思わなかったのか。 「私は一人で樹海なんか踏破できると思ってたわ。だから探索用の仲間なんかいらないって思ってた。ヴェネスを迷宮の下見に誘ったのは……まあ、建前上、樹海探索者として入国したんだから、樹海について少しは知っておいた方がいいかしら、って。でも……」  そこまで口にすると、ドクトルマグスの少女は、やれやれ、と言いたげに肩をすくめた。 「エトリアの迷宮を踏破したあなた達が苦戦してるなら、考え直した方がよさそう、って思ったのよ。寄らば大樹の陰、ってね」 「……なるほど」  事情は把握した。何をどうしたら樹海探索を一人で成し遂げられるという大言壮語を吐けるのかとは思ったが、考え直したようで何よりだ。こうして知己を得た仲、しかも生命の恩人、妙な過信と共に自滅するのは見たくもない。エルナクハは一息吐くと、二人の『花月』に頷いてみせた。 「変な奴らじゃないのはわかった。確かに、助けられた恩もある。いいぜ、オマエらを『ウルスラグナ』に加えてやる。ただ、『花月』の名は捨てることになるがよ?」 「成り行きで名乗っただけだから、別に惜しい名前でもないわ」  あっさりとルーナが言ったので、エルナクハは多少の肩すかしを感じた。まあ、一度も樹海に踏み込んでいない以上、愛着が沸いたギルド名というわけでもないのだろうが。以前、『ベオウルフ』の二人を仲間に加える云々という話をしていた時の、「ギルド名を失うのは惜しい」とフロースガルが語っていたことを思い出し、目の前の少女との差に苦笑した。  ところで、彼らがハイ・ラガードに来た目的は何なのだろう。  ルーナは一人ででも樹海踏破を為すつもりだったようだし、ヴェネスの目的は探索ですらないようだ。  だが、エルナクハはそれについては後でいいかと考えてしまい、結局、後の『ある時』まで聞きそびれた。それを聞かなくても樹海探索自体には何の弊害も出なかったのだが、それでも、『その時』になって、最初から聞いておけばよかったか、と後悔したものだった。  人間としての尊厳は取り留めたものの、『ウルスラグナ』探索班の身体は完治したというわけではなかった。しばらくは発作に見舞われる可能性もあるため、ルーナが作った薬を飲み続けなくてはならないし、ちょっと身体を動かしただけでぴりぴり痛む今は、ほんのわずかな不調が死に直結するような探索は控えた方が無難であろう。かといって、探索自体を控えていたら身体が鈍る。当分は、第二階層や、第三階層下層で、身体能力を維持する程度の鍛錬に留めておいた方がよさそうだ。  各々が収容されていた集中治療室から出て、互いに顔を合わせた『ウルスラグナ』探索班一同は、そう結論づけたのであった。  この時に、ルーナとヴェネスを『ウルスラグナ』に加える旨が、ギルドマスターから通達されたが、反対する者はいなかった。強いて言うなら、アベイがかすかに不安げな表情を浮かべたものである。エルナクハはふと、いつだったかの探索中にガンナーの話題が出たときのことを思い出した。確か前時代のどこかでは、無理矢理さらってきた子供達を大人の代わりに戦わせる、という、神の怒りをも恐れぬ制度があったとか何とか。アベイの不安はそのあたりに基づくものだと思われる。だがエルナクハの見立てが正しければ、ヴェネスは自らの考えをもってガンナーとして起っているようだった。古き時代の忌まわしくも哀れな者どもとは違うだろう。  さて、集中治療室を出た探索班一同だったが、即退院できるわけではない。念のため、あと一日は薬泉院で療養する必要があった。これから一般病室――五台のベッドがある団体用病室――に移り、安静にしなくてはならない。記憶にないとはいえ、夜通し暴れたためか、疲れが取れていないのは、各自自覚しているところである。ここはおとなしく医者の判断に従うべきだろう。  一般病室の扉を開けたところで、中にいた人物と目線が合った。思わず声が漏れる。 「おっ」  ドゥアトである。呪術師であるはずの女は、病室の窓から柔らかく差し込む朝日に包まれて、ともすれば背中に白い羽根が生えているような幻視すら感じさせた。他者に恐怖されなくてはならないカースメーカーとしてどうなのか、と、いつものように思わなくもなかったが、この時ばかりは、彼女の佇まいに安堵を誘われたことも確かだった。 「あらあらあら、みんな、無事なようで何よりね」 「お母さん!」  完全に『ウルスラグナ』一同すべての母のように笑う女に、実の娘が抱きつく。 「ごめんなさい、お母さん。私、あいつに聞けなかった。『バルタンデル』ってヤツのこと、聞けなかった……」 「いいのよ」  娘の背をそっと撫でながら、母は優しくささやいた。そうしながら、他一同に目を移したドゥアトだったが、仲間達の後から入室してきた二人を見て瞠目する。その口が、名前を紡ぎ出した。 「ヴェネスちゃん……!?」  知り合いだったのか。『ウルスラグナ』一同が驚くと共に振り返ると、呼びかけられたガンナーの少年の表情も、驚きに満ちていた。一方、彼の後にいたルーナは、ちらりとドゥアトを見はしたが、自分には関わりのない話と判断してか、そっと離れて調度品を観察し始めた――とはいえ病室だから、せいぜい花が飾ってある程度でしかないのだが。 「お久しぶりです、ドゥアトさん」  ヴェネスは礼儀正しく言葉を返すと、ドゥアトをまぶしそうに見返した。カースメーカーが朝日の中にいるからではない。ガンナーの少年のまなざしには、久しく離れていた母を目の前にしたら浮かべるような、愛惜の色が浮かんでいたのだ。加えて、何に由来するのか見当も付かないが、哀惜の色もほんのひとしずく。  まさか実子――それも隠し子だったりするのだろうか。少年に見覚えがありそうではないパラスの様子から、他の『ウルスラグナ』一同は、そんな益体もないことまで考えてしまう。  だが、さすがに違うようだった。ドゥアトとヴェネスの間には、ドゥアトとパラスの間には決してない、見えざる帳(とばり)がある。気が置けない親子ならざる、特にヴェネスの側からの謙抑たる態度が、二人の間に氏族関係がないことを示している。  とはいえ血族であろうとなかろうと関係なく、ドゥアトの側からしても、少年との思わぬ再会は、喜悦の域に属するものであるようだった。『ウルスラグナ』と初顔合わせをしたときのような喜色をあらわに、ドゥアトは諸手を広げて笑んだ。 「あらあらぁ、ヴェネス君、久しぶりだわ。元気だった? こんなところで会うとは思わなかったわ」 「……はい、ドゥアトさんもお元気そうで。あの……」  何かを言いかけたヴェネスを、ドゥアトは、自らの唇の上に人差し指を置くことで制した。 「思い出話はまた後で、ね。今はこの子達を寝かさなくちゃ」 「どこで知り合ったの?」  単なる興味なのだろう、深刻ではない口ぶりで、パラスが疑問を呈する。母は、いささか曖昧な笑みを浮かべると、実娘の背をぽんぽんと叩いた。 「そんな話は後よ、後。アナタ達がちゃんと退院してから教えてあげるから、今はちゃんとお休みすること」 「えー」  パラスは不満のうめき声を漏らしたが、不承不承ながら、言いつけられたとおり、気に入った位置のベッドに上がり込んだ。それを合図としたかのように、『ウルスラグナ』の他の者達も、ベッドを適当に選んで潜り込む。その様を眺めながら、ドゥアトは楽しげにヴェネスに話しかけた。 「今、どこに滞在してるの? よかったら、拠点(うち)に遊びに来なさいよ。場所教えてあげるから」  まるで自分が拠点の主であるかのように、堂々と告げる。エルナクハをはじめとした一同は苦笑するばかりだったが、ギルドメンバーが知人を招くぐらいのこと、咎めるようなことではない。  そもそも、ドゥアトがまだ知らない事情もある。 「かあちゃん、そいつら、おれ達の仲間になったんだ」  というティレンの言葉は、その事情を理解させるには、いささか舌足らずに過ぎたが。きょとんとする緑髪のカースメーカーに、アベイが補足情報を告げた。 「その二人はさ、『ウルスラグナ』入会希望者なんだよ、母さん」 「えっ、そうなの? どうしてまた?」  ドゥアトの態度は不審に満ちていて、新入りを疎んじる者に似ていたが、予想外の報に驚いたからそうなっただけで、他意はないだろう。  『ウルスラグナ』の誰かやヴェネス本人が返答するより早く、答えた者がいた。  今まで我関せずとばかりに花を眺めていた巫医、ルーナである。 「私が要求したのよ。強い者の力添えをもらえれば、天空の城に達するのも簡単になるわ。生命の恩人に対して、それくらいの都合はしてもらってもいいでしょ?」  まったくもって傲慢な言い分である。聞いた方のドゥアトは、やれやれとばかりに肩をすくめると、何かに合点がいったのか、軽く頷いた。 「そっか、メディックさん達が言ってた、いろいろな意味でみんなを助けてくれた人ってのは、アナタ達二人だったのね」 「ああ、オレらがこんなに早く回復の目処が付いたのも、ソイツらのおかげらしいぜ。そこの巫医が調合した薬で、麻薬もだいぶ抜けたらしい」  エルナクハがそう続けたことで、ドゥアトの疑問は完全に解消されたようである。 「なるほどね。じゃあ、私塾に帰って、早くみんなを安心させた方がいいわね」 「そういやみんな、どうしてんだ?」 「すごく心配してるわ。ノルちゃんなんか、とても授業できそうになさそうだったから、フィプト君がれ……連絡網、だっけ、それ回して、授業お休みにしたわ」  皆で薬泉院に様子を見に来たら収拾がつかなくなりそうだったので、とりあえずドゥアトだけがやってきた、ということのようだ。 「あんまり長く心配させ続けるのも精神(こころ)に悪いから、吉報は早いところお知らせ、ね」  有言実行、ドゥアトはのんびりと見舞いを続けるつもりはないようであった。朝日差し込む窓にカーテンを引くと、ベッドに潜り込んだ仲間達や軽く身をかわす元『花月』の二人の視線を受けながら、つかつかと病室出口の扉に歩み寄る。一旦外に出ると、頭だけを病室に突っ込んで、声を上げた。右手が人を招く形に動いている。 「ほら、ヴェネス君、ルーナちゃん。一緒に来るのよ。みんなに紹介してあげるから。それとも、薬泉院でやらなくちゃいけないこと、まだあるの?」 「え、いえ、ありません。はい」 「預けた武器を返してもらわなくちゃいけないわね……」  ヴェネスはあたふたと、ルーナは悠然と、ドゥアトの招きに応じて病室の外に姿を消した。緑髪のカースメーカーは、その様を視線で追うと、改めて『ウルスラグナ』一同に向き直り、 「じゃ、今日一日、ちゃんと養生するのよ。ばたばたしちゃダメよ!」  にこやかな笑みと、釘を打つように強い忠言を残して、今度こそ本当に病室を辞したのである。  ドゥアトはことさら喧(やかま)しい女性ではないのだが、彼女が辞した直後の静けさは、まるで突風が去った後のそれのようだった。  朝を迎えて鳴く小鳥達のさえずりが聞こえるだけの中、暖かく感じられる日の光を浴びていたベッドに潜ることで、改めて気が緩み、疲れが出たのだろうか、『ウルスラグナ』一同は、誰も言葉を発することなく、混濁した意識の中にとろとろと沈んでいく。  そのような状況では、気が付くはずもなかった。  ドゥアトの発した言葉に、一ヶ所、彼女の状況認知からすれば発言されるはずがないものが混ざっていたという、その事実に。  ――はい、ちょっとすみません! 患者さんが通ります、道を空けて下さい!  薬泉院が俄然慌ただしくなった。今日も、無茶をしたか運が悪すぎたか、生命を失いそうになっている冒険者が出たのだろう。彼ないし彼女が生きて明日の朝日を見られるかは、神のみぞ知る話。  喧噪とは次元の違う場所にあるかのように、『ウルスラグナ』の部屋は静かだった。外からの声が通らないわけではない。そもそも一般病室は、患者の急変を聞き逃さないため、声が通るようにできている。しかし、そんな騒がしい声を耳にしても、深い眠りに落ちた『ウルスラグナ』一同が目を覚ますことはなく、部屋自体の時間が止まっているような雰囲気が崩れることはなかった。  それでも、実際の時は刻々と確実に動き続けている。安静にしている冒険者達の体内では、損なわれた肉体を元の状態に戻そうと、組織が活発に活動しているのだ。  体内組織の活動が一段落し、肉体の修復以外のことに生命活動を振り分ける余裕と必要ができた頃――『ウルスラグナ』達が目を覚ましたのは、そんな頃合いであった。  有り体に言えば、空腹に耐えかねたのである。  弱った肉体に突然の重い食事は禁物だが、ここは薬泉院、適切な食事を出してくれるだろう。  冒険者達は周囲を見回して、それぞれのベッド脇に赤い紐が下がっているのを見つけた。紐は壁の隅を這って、細い穴から外に出ているようだ。エトリア施薬院にも同じ仕組みがあったが、紐を引けばメディック達を呼び出すことができるのだ。  エルナクハが赤い紐に手を伸ばした、その時だった。  室外が妙に騒がしくなった。急患か、と思ったが、どうも様子が違う。騒ぎの大元は、どうもこの部屋を目指しているようなのである。 「ちょっと、今は安静にしていますから、面会はご遠慮頂ければと……」 「こちらにはそうできぬ事情がある。ヌシらの腕だ、話を聞ける程度には回復しておるだろう?」  意味の掴める言葉を耳にした瞬間、『ウルスラグナ』一同に緊張が走った。  騒ぎの中に聞こえた声は、『エスバット』のガンナー・ライシュッツの声に相違なかったからだ。  一体、何をしに来たのか。  十五階で打倒した意趣返し、と考えなくもなかったが、言葉尻を捉えるに、その可能性は低いようだ。聞く限り、自分達に会いに来たのは間違いなさそうに思える。  だが、今更何の用なのだろう。  いくら考えても判らないので、結局、『ウルスラグナ』の誰もが思考を放棄した。実際に聞いてみるのが手っ取り早い。  メディック達とライシュッツの口論は未だに終わらない。メディック達は通さぬの一点張り、ライシュッツも引き下がる気はないらしい。放っておいても埒があかない。  やれやれ、と一息吐くと、エルナクハは声を張り上げた。 「通してやってくれ。ソイツはオレらに用があるんだろ?」  途端に口論は止んだ。メディック達の戸惑う様子が、病室にまで伝わってくるようだった。 「いいから、ほら、いいからよ」  再三にわたって促すと、気配に変化が生じた。二言三言交わされたらしい会話を最後に、メディック達は不承不承ながら引き下がり、ライシュッツが病室に近づいてくるのが判る。銃士の放つ気配は強力で、やはり意趣返しかと思えなくもなかったが、よくよく感覚を研ぎ澄ませば、敵意や殺気は混ざっていないのが感じ取れた。何かの決意だろうか。  訝しく思う『ウルスラグナ』一同の前で、病室の扉が静かにノックされた。 「入れよ、ジイサン」  エルナクハが声を掛けると、程なくして扉が、躊躇いがちに外に開かれた。  ゆっくりと入室してきてきたのは、思った通り銃士の老人であった。昨晩、殺さないように注意したとはいえ、ずいぶんと痛めつけたはずだったのだが、傷や痛みで動作が鈍っている様子はほとんど見受けられない。こちらはまだ薬の影響が残っているのに、負かした相手の方が元気なのはどういうことだ、と、若干の不公平さも感じる。  しかし、そんな他愛のない思考も、もう一人が入室してくるまでだった。  ……ライシュッツ一人ではなかったのだ。考えずとも当然だったかもしれないが。  新たな入室者、黒色に身を包んだ巫医アーテリンデもまた、昨日の戦いの傷はほとんど癒えているようだった。メディック達の様子から考えるに、薬泉院で世話になっていたわけではなさそうだが、どこで身体を癒したのだろう。ドクトルマグスには回復術があったはずだが、戦闘後のアーテリンデの状態では、それを使うのもままならなかったに違いない。ということは――やはり『黄昏の街』、マグスやカースメーカー達が肩を寄せ合う、ハイ・ラガードの地下浅層に身を寄せていたのだろうか。  が、どこであれ、『エスバット』達の肉体を癒すことができても、精神(こころ)までは癒せなかったようだった。  始めて顔を合わせた時には小動物めいた愛嬌を浮かべていた顔は、すっかりと憔悴していた。十五階の氷雪の中で顔を合わせたときのような鬼気は削げ落ちていたが。『ウルスラグナ』達に顔を向けることもなく、ライシュッツがいなければ立っているのさえ危うい様子に見えた。 「見舞いに来てくれたのか、殺そうとした相手をよ」  エルナクハの言葉には若干の皮肉が混ぜ込まれていた。そのぐらいの意趣返しは許されてもいいだろうと思ったのだ。だが、アーテリンデが身をすくめ、不安げにカートル(ワンピース)を掴むのを見て、少し後悔した。  一方、ライシュッツは表情を変えない。今の皮肉に何かしらの反発があると思っていたのに。  これまでは出会うたびに敵意や殺意を向けられていたので、今の静謐さには、却って身構えそうになる。  先方からは返事もなく、『ウルスラグナ』も若干の困惑と警戒から声を上げなかったから、しばらくは沈黙だけが場を支配した。  とはいえ、用があるからこそ『エスバット』は来たのだ。ゆっくりとした口調で話を続けたのはライシュッツであった。 「ヌシらに一つ、頼みがあって来た」 「……頼み、だと?」  想定外の切り出しであった。もともと、『エスバット』の来訪の理由を掴めなかったのだが、あらゆる可能性をあげたとしても、最も予想外の言葉である。仲間を失ってなお、他者の力を借りず、二人だけで探索を続けた強者達、そんな彼らが、何を求めるというのか。  ともかくも先を聞かなければ何も判らない。エルナクハは無言で先を促した。 「……ヌシらはこれしきで歩みを止める気はあるまい? 明日にでも、揚々と樹海の先を目指すであろうな」  ライシュッツは、薬泉院のメディックが麻薬に冒された身体を完全に癒した、と思っているようだった。実際には、肉体は完調ではないし、発作の出る可能性もある。当分は、樹海の先を目指すのは、この場にいる五人以外の者達になるだろう。しかし、そんなことをつまびらかにしても、話がややこしくなるだけなので、黙っていることにする。  ゆえに、銃士の話は邪魔するものなく続いた。 「先に進めば、ヌシらは必ず氷姫に出会うであろう――冷たく凍ったあの階層の奥に座する者にな」  その瞬間、アーテリンデが、びくりと身体を震わせた。  それで判ってしまった。氷姫とは、人間の女に似て異なる魔物、『氷漬けの女』――すなわち、かつて『エスバット』が失った巫医の娘であることに。  居所は未だにわからない。が、ライシュッツが『必ず』と言ったからには、天の城を目指すには避けられぬ場所にいるのだろう。樹海の先を目指すなら、戦いは避けられない。  ……この期に及んで、『彼女』に手を出すな、というのだろうか。  『ウルスラグナ』は、どちらかといえば、降りかかる火の粉を払うつもりで『エスバット』と戦ったところがあるから、その先をしっかりと考えていたわけではなかった。まして、道の先に、元人間の魔物が存在することさえ、『エスバット』との戦いに至るまで知らなかったのである。  樹海の制覇を望むなら、『彼女』を制圧しなくてはならないだろう。話の通じる相手ならよかったのだが、そうだったら『エスバット』の悲劇は起こらなかったはずだ。仮に、『ウルスラグナ』が『エスバット』の言い分を聞き入れて、探索をやめたとしても、別の冒険者が取って代わり、『彼女』と対峙するだけのこと。あるいは、衛士隊も加わるかもしれない。なにしろ、大公の病を癒すためには、諸王の聖杯が必要だ。一介のドクトルマグスと大公と、どちらが選ばれるかといったら、話は明白――。 「彼女を倒すな、とは、今更言わぬ」 「……は?」  ライシュッツの、想像とは真逆の言葉に、『ウルスラグナ』一同は、しばしの思考の空白を味わった。  いいのか、それで。  誰もがそう思った。もちろん、いいはずがない。『エスバット』からすれば。ライシュッツとて、その言葉を、決して安楽に口にしたわけではなかった。苦渋の決断を思い切って口にし、その想像以上の苦さに涙をこぼしそうになっている――ライシュッツはそんな表情を浮かべていたのだった。  ましてアーテリンデは、言葉を聞きたくないとばかりに身を縮めている。もしも『ウルスラグナ』が、「いいのか」と口にすれば、「いいわけないでしょう!」と爆発しかねないように見えた。  ゆえに『ウルスラグナ』は、腫れ物を放置するような気持ちで、余計な言動は慎み、目線でライシュッツの真意を問う。そのころには、銃士の表情は、元に戻っていた。 「彼女を倒すな、とは言わぬ」  むしろ無表情を心がけたかのような固い顔立ちで、ライシュッツは言葉を繰り返す。  予期せぬ発言に呆然としたままの『ウルスラグナ』に向かい、さらなる続きを口にした。 「ただ……頼みたいことがある。今の『彼女』は、天の支配者の所行で、人ならざる身となっている。その苦境から、『彼女』を救うため……我らにはできなかった、天空の城の発見と――そして、城に座する天の支配者の討伐を、だ」  先だってのものに輪を掛けた衝撃が、『ウルスラグナ』一同を襲う。  『エスバット』の言い分が確かなら――謀っているとは思えないが――天の支配者は実在する。少なくとも、かつて『エスバット』にいたドクトルマグスを、生死はともかくとして連れ去り、その仲間だった者達が絶望する程におぞましい存在へと作り替えた、正体不明の何者かが。  それを、倒せというのか。無論、自分達が天の城へ辿り着いたとき、それが敵意を向けてくるなら、否応もなく戦うことになるだろうが。 「オマエらは、どうするんだよ」  支配者打倒の是非はさておき、エルナクハは別の疑問をライシュッツにぶつけた。彼の言葉をよく咀嚼すれば、『エスバット』は先に進まない、と言っていることが明らかだ。まさか、自分達よりは壮健に見えるその身体は、先の戦いによって深く傷ついているのだろうか。襲いかかってきたのが『エスバット』の方だったからとはいえ、少しばかりの罪悪感を感じる。  ライシュッツは静かに首を振った。『ウルスラグナ』からすれば、自分達が考えていた彼らの肉体状況に対する否定にも感じられたが、実際にはそうではなかった。 「ヌシらは知らないようだな。今、この国で我らがどう呼ばれているか。……ヌシらと我らの戦い、見届けていた者がおったらしい」  その後は明確に語られなかったが、大まかな事情を『ウルスラグナ』は推測した。  自分達の戦いを見ていた者が、どこからどこまでを見ていて、どう判断したのか、現時点では断定できない。だが、深く傷ついた『ウルスラグナ』のことを知ったとしたら、こう判断したのではなかろうか――『エスバット』は、自分達が樹海を制覇するために、邪魔になる冒険者を殺そうとしたのだ、と。開いた口には戸は立たぬ。まして今後の探索の『背後の安全性』にも直結することだ。たった一晩でも噂は飛ぶように広がって、衛士を通じてギルド長や大臣の耳にも届いたに違いない。特にギルド長は、兼ねてから『エスバット』に不審を抱いていた。その懸念が正しかったと思うだろう。そして、『エスバット』が、理由はともかく、『邪魔な冒険者を殺そうとした』という事実は、まったくもって正しく、反論の余地はないのだ。  探索をするという条件付で、罪人すら受け入れるハイ・ラガードだが、『国民』を害した者を放置するはずもない。  先のメディック達の騒ぎも、そんな事情によるところがあったのかもしれない。 「アンタら……」 「ヌシらの案ずるところではあるまい」  そうかもしれない。そもそも『エスバット』の自業自得の面が強い。おまけに被害者は自分達だ。だがそれでも、少なくともエルナクハは、『エスバット』の末路を、もやもやとした行き場のない思いと共に想起するしかなかったのだった。 「我らのことより――」  ライシュッツは、再び首を横に振り、話を締めた。 「先の頼み、しかと伝えたぞ。ヤツの犠牲になったであろう、多くの者達のためにも……」  銃士は頭を下げる。そして、一言も言葉を発しなかったアーテリンデの肩に手を置き、 「待ちなさい!」  張りつめた固い声が、病室を辞しようとした『エスバット』を引き止めた。  ライシュッツとしては、この期に及んで『ウルスラグナ』から自分達に用があるとは予想していなかったのだろう、半ば不審を表して振り返る。  声を上げたのは、茶髪のカースメーカー――パラスであった。 「ガンナー! アンタには訊きたいことがあるの!」  ……そうだった、と、『ウルスラグナ』一同は思い出す。  パラスのはとこを死に至らしめたという、謎のガンナー。死した者の縁者であるカースメーカー達は、そのガンナーの行方を知る手懸かりを得ようと、ライシュッツと対峙する時を望んでいたのだった。本来なら戦闘後に聞き出すつもりだったのだが、自分達がそれどころではなかった。そして今、ライシュッツを目の前にして、パラスが機会を逃すはずもなかった。  呪術を使う少女は、その目を魔眼と為して『エスバット』を呪い殺さんばかりに睨み付けた。 「ガンナーの世界で名の知れた、『バルタンデル』という名のガンナー……私はソイツを探してる。どこにいるのか知ってるなら、教えなさい!」  返答はない。拒絶というよりは、アーテリンデは何も知らず、ライシュッツは名を記憶の中で反芻しているように見えた。そのあたりはパラスとしても理解していたのだろうが、勢いづいた彼女は、『相手が黙秘している』という前提で用意していた言葉を放ったのであった。 「黙っているなら……この呪鈴の力をもってしてでも、聞き出す! ……あ」  最後の、間が抜けた声は、呪鈴が手元にないことを思い出したためのものである。  気まずい空気が、ほんのわずかな間、病室を満たす。  その空気をそっとぬぐい去るかのような静かな声で、ライシュッツが返事をした。 「答えるに、やぶさかではない。だが、知らぬのだ」 「……知らない、の?」 「数度、会ったことはある。ヌシらに撃ち込んだ例の弾丸も、その際に『バルタンデル』から譲り受けたものだ。だが、会うたびに違う姿をしていた。『バルタンデル』を騙る別人か、と思ってしまうほどに、破綻のない変装であった」  カースメーカー達の追うガンナーは、その名の由来である、変身を得意とする太古の神の末裔と同様に、変装に長けているという。ここで、ライシュッツが会ったときの相手の姿を聞き出したとしても、捜索の役に立つ可能性は、かなり低いだろう。 「少なくとも、我が出会った姿の者には、二度と会うことはなかった。ヌシが何故、ヤツを探しているかは知らぬが、ヤツが姿をくらますつもりでいるなら、今まで纏った変装を再び使うような愚は冒さぬだろう」 「そうなんだ……」 「役に立てず、すまないな。では、我らは行くぞ」  ライシュッツは話を締め、アーテリンデを優しく誘導する足取りで、病室を出て行った。  その様に、『ウルスラグナ』は誰一人として、別れの挨拶をしない。  『エスバット』に含むところがあるからではない。  まずは、知人の仇である『バルタンデル』の足取りを掴めなかった、という無念ゆえだった。  話は振り出しに戻ってしまった。少なくとも現状での『ウルスラグナ』の知識で、かのガンナーを探し当てることは不可能に近いだろう。つまり、復讐を望むにしても、数十発殴るに留めるにしても、その鬱憤を向ける相手には手が届かない。いくら『仕方がない』と思っても、心にはじくじくと淀みが溜まるだろう。その感情とどうやって折り合いを付けるかは、今後の課題となる。  だが、その無念をひとまず脇に置いた後も、『エスバット』の言う、多くの者達が天の支配者の犠牲になった、という話が、『ウルスラグナ』の心を激しく揺さぶっていた。  それは、元『エスバット』のドクトルマグスのような末路を辿った者が、他にもいることを示しているのではないか。  真っ先に思い浮かんだのは、炎の魔人のことだった。第二階層の最奥に座し、自分達含む数多の冒険者を苦しめた、恐るべき魔物。だが、それが、人間に似ているだけではなく――もともとが人間なのだとしたら。  魔人だけではなく、他にも人間に似たところがあるような魔物、例えばアクタイオンや森林の覇者などが、人間が『変えられた』ものだとしたら。  真実だとしても、自分達は樹海を探索するために、彼らを打倒し、踏み越えなくてはならない。自分達が降りたとしても、他の誰かがそうするだろう。  そこで脳裏に浮かんだのは、ある存在のことだった。人の上半身と、鳥の下半身、そして翼を持つ、『世界樹の使い』。彼らも『犠牲者』なのだろうか。しかし、彼らは一線を画した存在だ。魔人や魔物とは違い、確固とした自意識と交流手段、おそらくは文化も持っている。  結局は、さらに探索を進め、天空の城に到達しなければ、何も判らないだろう。至る途中で『世界樹の使い』と再び会うことがあれば、話を聞けるかもしれない。  これ以上は考えてもまとまらない。それは、単に情報が足らないためではあるのだが、もうひとつ理由がある。  ちょうど折良く、二番目の理由を解決するもの――食事を携えたメディックが、病室を訪れた。  ドゥアトが元『花月(フロレアル)』を引き連れて戻ってきた私塾は、不自然にも思える静けさに包まれていた。  臨時休校になったことがひとつ、滞在者が昨晩の探索で倒れた仲間達を心配するあまりに鬱屈しているのが、もうひとつの理由である。他の『ウルスラグナ』の者なら、まるでパラスのはとこの死を知った時のようだ、と思い返しただろうが、ドゥアトは当時、ハイ・ラガード到着の矢先に事故で昏倒していたので、その様子を知らない。 「お、大きい犬ですね……!」  中庭の隅の犬小屋に寝そべる獣を、目ざとく見つけたヴェネスが、感嘆の声を上げた。彼としては、静寂に耐えられず、何か気の紛れる対象を見つけたかったのかもしれない。 「ハディードっていうのよ。あとで紹介してあげるわね」  緩やかに尾を振る獣に軽く手を振りながら、ドゥアトは答える。  残る一人、巫医のルーナは、ちらりとハディードを見たが、興味なさそうに目をそらした。  ふと私塾の入り口に目を移すと、扉は開いていて、その奥に、今にも倒れそうな様相で佇む人影がひとつある。 「あらあらあらぁ、ノルちゃん、そんな具合悪そうな顔して、気分悪いなら寝ていなきゃダメじゃない。アナタ一人の身体じゃないのよ」 「ドゥアトさん……」  その人影、夫がどうなったか心配でいてもたってもいられなくなったセンノルレは、よたよたとドゥアトに近づいてくる。足取りがおぼつかないのは、夫を心配するからというだけではない。彼女の腹部は、すでにはっきりと目立つほど膨らみ、その中にはもう一人が静かに息づいているのである。 「……大丈夫よ。本調子になるまでは少しかかると思うけど、元気そうだったから」  そうドゥアトが告げると、センノルレは安堵のあまり、膝を落とした。カースメーカーに寄りかかるような形になってしまう。ドゥアトはそれを、嫌な顔どころか嫌な思いすら浮かべずに抱き止めた。  しばらく涙なき安堵の嗚咽を揚げ、気が落ち着くと、アルケミストは、見知らぬ者達に気が付いたようであった。 「……この方達は?」 「ああ、『ウルスラグナ』入会希望者。エル君の了承済みよ。ついでに言うと、エル君達の恩人でもあるわね」  元『花月』の二人が、いかにして『ウルスラグナ』探索班と出くわし、助けることになったのか、伝聞の形だがドゥアトが説明すると、当然ながらセンノルレは頭を深々と下げて礼を述べる。恐縮するヴェネスはともかく、薬泉院では傲慢だったルーナも、曖昧な笑みを浮かべつつ、礼をやり過ごすだけだった。ちなみに、この日の夜、薬泉院から戻ってきたエルナクハが、その様を聞いた後に突っ込んだとき、ルーナは、 「あそこまで深々とお礼言われると、逆に調子狂うのよね」 と肩をすくめたものである。  さておき、私塾内に入ると、玄関先でのやりとりに気が付いていたのだろう、オルセルタやマルメリが駆け寄ってきて、センノルレを引き取った。その際に見知らぬ二人についての説明も交わされる。  そんなところに背後からナジクが顔を出した。彼も出かけていたらしいが、樹海にでも行ってきたかのような武装をしている。 「かあさん、街中で『エスバット』を見かけなかったか?」  見つけたら殺す、と言わんばかりの殺気満々である。ドゥアトは眉根をひそめ、ため息と共に言葉を返した。 「もうやめなさい、そういうことは」  気持ちは判らなくもない。なにしろ街中では「『ウルスラグナ』探索班が『エスバット』に殺された」などという噂が飛び交っている。まだ死んでいないことは判っていたし、現に持ち直したのだが、だからといって噂を何度も耳に入れられて、落ち着けというのは難しい。第一、『エスバット』が『ウルスラグナ』を害したのは事実なのだ。 「それに、『エスバット』なんて見かけなかったわよ。まあ、まずは落ち着くのね」  ナジクの暴走を止める嘘ではない。薬泉院ではちょうど入れ違いになってしまったため、彼女自身、『エスバット』が『ウルスラグナ』探索班を訪ねてきたことを知らないのである。  レンジャーの青年は、不承不承の様子で、それでもドゥアトの忠告には従うことにしたようだった。軽鎧の留め金を外しながら階段の方へ歩いていく。見知らぬ二人には興味もないようだ――ったが、ふと振り返った。その表情には驚愕が浮かんでいる。 「……ガンナー……!?」  ヴェネスの銃は見えない。超長距離射撃に使う銃身を携えてはいるのだが、十重二十重に布でくるんであるからである。もちろん、見る者によっては中身の推測も付けられるだろうが。といっても、ナジクがヴェネスの正体を推測した理由は、ハイ・ラガードに集う多くのガンナーが身につけている、その被服によるものだったようだ。  ナジクがガンナーに含むものがある――個々人に怨みがあるわけではないにしろ――ということはドゥアトも小耳に挟んでいたが、それは明後日の方向に置いておいて、新入りの紹介を行う。  エルナクハ了承済み、ということを聞いて、ナジクも感情の落としどころを付けたようである。 「そうか……」 とつぶやいて、他には何も言わず、こつこつと階段を上っていった。 「……ボク、歓迎されてないんでしょうか」  レンジャーの後ろ姿を見送りながら、ヴェネスが心細げな声を上げる。『ウルスラグナ』個々人を知らない彼としては、そう考えてしまうのも仕方あるまい。実情としては、ナジクは『他の者達がよければどうでもいい』のである。(そうなった理由は詳しく知らないとはいえ)そんなナジクの性格を熟知しているドゥアトとしては、苦笑するほかになかった。 「『エスバット』の件もあったからねぇ、ちょっと警戒してるだけなのよ」  実情とは違う答を、ドゥアトは口にする。どのような経緯であれ、仲間になった者を無下に扱い続けるナジクではあるまい。それも、かのレンジャーの一面である。  これで、新たな仲間を紹介していないのは、相変わらず他ギルドの採集作業に駆り出されているゼグタントを除けば、フィプトだけとなった。  しかし本人は見あたらない。どこに行ったのだろう、と困り果てていると、センノルレを部屋に送り届けてきた女性二人が戻ってきた。フィプトのことを問われて曰く、 「ああ、フィプトさんなら、ほら、例の鉱石の研究を任せてる錬金術師さんのところに行ったわよぉ」  何か思うところがあったのだろうか、とドゥアトは訝しく思った。うまく制御すれば樹海での戦力になりそうな触媒の研究を、知人の錬金術師に頼んでいる、という話は聞いている。だが、今のところ報告は彼ら任せで、フィプトが出向くことはないはずだったのに。 「本人に聞かないとわからないわねぇ」  そんな一言で、フィプトの件はひとまず棚上げとなった。  続いて話題に上ったのは、新入り二人が使う部屋のことである。  残念ながら、『好きなところを使え』というわけにはいかなかった。  私塾――元・ラガード市街拡張工事員宿舎の地上部分は、三階建てである。一階は私塾としての機能と食堂が置かれており、冒険者達それぞれの個室は二階になる。三階は二階と同じ間取りだが、現在は大半を倉庫として貸し出している。  『ウルスラグナ』がハイ・ラガードを訪れたとき、ほぼ空き部屋だった二階の各部屋を、冒険者達は各自好きなように占拠した。残る空き部屋のうち一室を応接室と定め、別の一室は倉庫となった。後にゼグタントやドゥアトがやってきて、その時の空き部屋のうち適当な場所を自分の部屋とした。結果、現在残る空き部屋は、応接室から見て正面と、その右隣の部屋だけとなった。ルーナとヴェネスには、せいぜい、どちらの部屋を使うか程度の選択肢しかないのだ。  しかも、その選択肢すら、ドゥアトが奪ってしまった。 「じゃ、ルーナちゃんが応接室前の部屋ね」  ドゥアトの意地悪ではない。並ぶふたつの空き部屋の(応接室から見て)右隣はフィプトの、左隣はドゥアトの部屋である。ドゥアトの決定と逆になるとすれば、ルーナは男性に挟まれ、ヴェネスは女性に挟まれることになる。だから何か問題になる、というわけではないが、加わったばかりの二人である、部屋のどちらか片方だけでも同性なら、少しは安心できるのではないか、と思ったためだった。  当の新人達としては、その部屋割りに不満はないようである。案内された部屋に荷物を置いて一息吐く。  空き部屋だった室内には何もない。『ウルスラグナ』がハイ・ラガードにやってきた時は、あらかじめフィプトに連絡をしていたので、私塾の管理人である彼が人数分の家具を用意してくれていた。借用(レンタル)品だが、貸し手に三階の一部を貸し出すことで、差し引きゼロとしている。三階が倉庫となっているのはそのためだ。ゼグタントやドゥアトがやってきたときも、三階の貸し出し領域を広げることで、家具を借りてきた。今回もそうなるだろう。フィプトには頭が上がらないところである。  なお、椅子は私塾備品の余裕があるので、ひとまず数脚ずつを新人の部屋に運び込む。  薬泉院で夜通し探索班の手当をしていた――のは、基本的にルーナだけなのだが、ヴェネスも眠れなかったらしい――彼らのために、せめてベッドが調達できればよかったのだが、フィプトが戻ってこないと何とも言えない。仕方がないので、ルーナにはオルセルタの部屋を、ヴェネスにはナジクの部屋を、一時睡眠用に貸し与えた。  新人達の正式な紹介は、傷ついた探索班が退院して戻ってくるであろう、夜に行われることになる。それまで、『ウルスラグナ』一同は、睡眠を取るはずの新人達を放っておくことにした。  ――ドゥアトがルーナの下を訪ねたことを除けば。 「……話があるの、ルーナちゃん」  そう切り出されたルーナは、意外そうな様子も見せずにドゥアトと対峙した。 「……私は、どう立ち回ればいいのかしら?」  不適にも見える笑みを、うっすらと浮かべて。  王虎ノ月十七日。  エルナクハの目覚めは強烈な悪寒と共に始まった。彼の場合は同室に他の人間がいる分、まだ救いがあるだろう。慌てたセンノルレが差し出した瓶の中身を飲み干すと、悪寒はどうにか我慢できる程度にまで和らいだ。  当分は、この手の後遺症と付き合っていかなくてはならないのだ。そう思うと暗鬱な気分になる。  第三階層は自分にとって鬼門なのか。思えばエトリアでも、自分は第三階層で重傷を負った。そのために、自分達の少し後から追ってきていたライバルギルドに先を越される羽目になったのだが――今となっては、それも神々の思し召しだったのかもしれないと思っていた。あの件がなければ、自分はただ野放図なだけなままだったかもしれない。  そんな考えに基づくなら、今回の件も、ひょっとしたら神々の導きに分類されるものなのだろうか。  もしそうだとしたら、その導きに従って手に入れたものは何なのだろう。  自分達を災厄から救いだし、現状に繋ぎ止めた存在――元『花月』の新米冒険者達、だろうか。 「なあ、ノルよ」 「どうしました?」  落ち着いた夫の呼びかけに、妻は通常の冷静さを取り戻し、少し冷たくも聞こえる返事をする。だが、困惑したような微妙な表情のエルナクハを目の当たりにし、険の取れた表情で訝しげに首をかしげた。 「どうしました?」  先程と同じ言葉だが、その声音は驚くほどに柔らかい。  エルナクハは思い切って言葉を続けた。 「……ルーナだがよ、やっぱり、アイツの親族だったりするのかな」 「それはおかしいです」  センノルレは、柔らかい言葉だが、しかし即座に否定する。 「親戚だとしたら、そのことについてパラスやドゥアトさんが何か言うと思うのですが」 「……そういや、そうだな」  今の話をエルナクハが蒸し返したのは、昨晩、戻ってきたゼグタントがルーナを見て、困惑した表情を浮かべていたからだ。  ――あんた、ひょっとして、兄貴か弟にパラディンがいなかったか?  その場にいた皆が、そういえば、と感じたようだった。薬泉院でエルナクハが感じたとおり、ルーナはどことなく、エトリアでのライバルギルドのパラディン、パラスのはとこだった少年に似ている。しかし、ルーナが、親兄弟はいないと告げたこと、そして、かのパラディンの親族であるカースメーカー親子が否定したことからすれば、他人の空似というか雰囲気似というか、そんなところなのだろう。  新しい仲間であるドクトルマグスのことは、ひとまずここで終わり。  エルナクハとセンノルレは階下の食堂へ足を運んだ。  既に三名が席を占めていたが、探索班だった者達はまだ誰もいない。体調不良を、いつもより長い眠りで、一刻も早く取り戻そうとしているのだろうか。 「よう、旦那に姉さん」 「おはようございます、義兄(あに)さん、姉(あね)さん」 「あら、エル君、ノルちゃん、おはよう」  挨拶に軽い返答をして、適当なところの席を占めると、厨房からひょっこり顔を出した者がいる。マルメリであった。 「あ、おはよぉ、エルナっちゃんもねぇちゃんも」  挨拶返しついでに耳にしたところによると、今朝の食事は昨晩の残りの温め直しが主になるらしい。  前日の夕方、薬泉院を辞した『ウルスラグナ』探索班は、何事もなく私塾に帰り着いた。そして、帰ってきたフィプト、他ギルドの依頼から戻ってきたゼグタントも含めて、新人達の歓迎会となったのである。探索班達の予後が心配なので、料理の量も酒も控えめで、いつもの夕餉に少しだけ毛が生えた程度でしかなかったが。  それでも、探索班達の食が細かったことと、新人達が、遠慮したのかあまり食べなかったために、料理が余ってしまった。全員分の朝食に饗するほどの量ではないだろうから、具材を足して調整するのだろう。  エルナクハが、自分の朝食は軽めでいいと告げると、その理由を察したのだろう、心配げな顔をしたマルメリは、しかし極力明るく答えた。 「まぁ、無理はしないでねぇ。本調子が出ないのに無理したら、生命に関わるからねぇ」 「……そうだ、生命に関わる、って言えばよ」  エルナクハは起き抜けのことを説明した。撃ち込まれた麻薬の後遺症の発作。度合いによっては、身体を思うように動かせず、薬を飲むこともできないかもしれない。  ドゥアトが、盲点だったとばかりに深く頷いた。 「それじゃあ、みんなはしばらく、誰かと一緒に寝起きした方がいいかもしれないわね。朝ご飯の時に相談しましょ」  ところで『誰かと相部屋になる』といえば、ちょっとした小話がある。  昨晩、結局のところ、追加のベッドは間に合わなかった。だから新入りの二人をどうするかという問題が残留したままとなっていたのだが、ドゥアトとナジクが新人達それぞれと相部屋となることで、ひとまず解決を見た。  ところがその夜、ナジクの部屋からは口論めいた対話が続いていた。何事かと思ってこっそり扉を開けて――個室の鍵は、よほどのことがなければ皆かけないものなので――部屋を覗くと、ナジクとヴェネスが言い争いをしていた。しかも理由が、『どちらがベッドを占領して眠るか』。奪い合いではない、譲り合いだったのだ。 「一緒に寝りゃいいじゃねぇか。アト母ちゃんとルーナはそうしてるみたいだぞ」  呆れたエルナクハがそう助言すると、両者とも「その発想はなかった」とばかりに、ぽんと諸手を叩いたものである。 「ナジク君っていえば、今日は珍しく遅いですね」  言われてみれば、フィプトが口にしたとおりだ。普段なら、ナジクはこの時間に余裕で起きているはず。 「なんかあったのかな」 「起きようとしたら、ヴェネくんがお寝間着の裾を掴んでたとかでぇ、起きるに起きれない、とかだったりしてぇ」  マルメリは本気でそんなことを言ったわけではないだろうが、ともかく、何かあったとしたら大変だということで、エルナクハは様子を見に行くことにした。探索班達が発作を起こしたりしていないかも、一緒に確認することにする。  ナジクの部屋は階段のすぐ隣だ。軽くノックした後、返事を待たず、そっと扉を開ける。  はたして、エルナクハが初めに見たのは、赤ん坊にすがりつかれた犬が見せるような、困惑の表情だった。 「……助けてくれ、エル」  問題を指し示すように動いたナジクの視線の先を見ると、彼の寝間着の裾を掴む手。その先をさらに辿ると、比較的小柄な少年の、猫のように丸まった寝姿が目に入った。  冗談のつもりだっただろうマルメリの想像が、面白いほどに大当たりであった。あるいは、冒険者となる前、幼い頃から吟遊詩人として諸国を遍歴していた彼女は、従弟の想像以上に人間観察力を培ってきていて、その経験が正鵠を射たということなのかもしれない。  そんな話はともかく、 「ヤだね」  エルナクハはニマニマ笑いながらレンジャーを見捨てた。  面白がったのは確かである。だが、ひょっとしたら、しばらく彼らを放っておくことで、何かのきっかけになるのではないか、と無意識のうちに思ったのかもしれない――何がなのかは、自分でもはっきりしなかったが。  ともかく、探索班達の様子を見に行き、ちょうどアベイが発作を起こしていたので薬を飲ませてやった以外には、重篤な事態が起きていないことを確認できた。胸をなで下ろして皆を起こし、食堂に戻ろうとしたエルナクハは、ナジクの部屋から、ガンナーの少年が必死に謝っている声がするのを聞きつけたのであった。ヴェネスは何か悪いことをしたわけではない、わざわざ取りなさずとも平気だろう、そう思ったパラディンは、彼らを無視して、階下に降りたのである。 「やべーやべー、ユースケがまずかった。こういうの『医者(メディック)の不養生』っていうんだっけか?」  その慣用句を使うにはいささか不適切な状況かもしれないが。  軽口を叩きつつ席に着いた頃合いで、起こした者達が次々に食堂にやってくる。  改めて挨拶を交わし合ったところで、エルナクハは、一つ忘れていたことを思い出した。 「……ルーナ、起こしてねぇや」  様子を見る対象は、あくまでもナジク達と探索班だったものだから、ルーナがいるはずのドゥアトの部屋には寄らなかったのだった。事実、ドクトルマグスの娘は、降りてくる気配がない。ちなみに、他に現時点で顔を見ていない相手に、オルセルタがいるが、彼女は単に、今日の料理当番のため厨房に籠もって姿を現していないだけである。  同室だったドゥアトに目をやると、緑髪のカースメーカーは静かに首を振った。 「あの子も疲れてるのよ。眠いなら寝かしておいてあげて」  そうか、とエルナクハは得心した。疲れが意外な時に吹き出すのは、よくあることだ。  ちょうど、そんな頃合いで、食事の支度が整ったので、ルーナを除く一同は、朝食を口に運びながら、各種事項の相談を始めるのであった。  真っ先に話題に出たのは、西方のアルケミスト・ギルドから預かり、フィプトの知人の錬金術師に研究を委託していた、鉱石のことである。結果については先方の報告を待つことになっていたのに、昨日、フィプトは何故か、わざわざ実験場に赴いたのだ。  センノルレが口火を切り、弟弟子に問いただすと、フィプトは苦笑気味に肩をすくめ、説明を始めた。 「いえ、皆さんが『エスバット』に重傷を負わされたと聞いて、いてもたってもいられなくて。すいません、頭に血が上ってしまったんですよ」  つまりは、探索班達が同じ冒険者に襲われたという状況に直面し、もっと力があったら、と焦ったようである。まだ実用の目処が立たないのか、確認しに行ったというのが、真相らしかった。  しかし、『塔一つ吹き飛ばす』ほどの――そこまで行かないように制御するとはいえ――力、『エスバット』相手に放ったら、洒落にならなかったのではないだろうか。自衛とはいえ、相手を跡形もなく吹き飛ばしてしまったら、さすがに良心の呵責を覚える程度で済む話ではない。 「それにしても、探索を競り合ってるからって、同じ冒険者に手を出すなんて……」  探索班達は顔を見合わせた。『エスバット』が『ウルスラグナ』を襲ってきたのは、その程度の理由に基づく行動ではない。しかし、当事者でもなければ、そこまで理解できるものでもないか。事実、街では、二つのギルドの激突の理由として、探索の主導権争いであると噂されていた。ついでに言うなら、敗れたのは『ウルスラグナ』で、仕掛けた『エスバット』は『殺人未遂』で大公宮に追われる身となった、と。  不本意だが、しばらくはその噂を流しておくのがいいだろう。だが大公宮や身内には真相を話しておく必要がある。  とはいえ、今は鉱石の研究結果の話である。 「で、なんとか冒険に使える程度に落とし込めたのか?」  アベイが薄ら寒げに問いを発した。件の鉱石に似た『毒石』の真価を知る者として、気が気でならないのだろう。他の一同にしても、同じ思いではある。  フィプトは自信ありげに口角をあげたが、にもかかわらず、首は否定の形に振られた。その真意を掴みかねて微妙な表情をする一同に、アルケミストの青年は笑んでみせる。 「残念ながら、まだ実用に供するには心許ない。でも、時間の問題だと思います」 「では、何か突破口が見いだせたのですか?」  姉弟子の言葉に、疑問をぶつけられたこと自体を喜ぶように表情をほころばせ、フィプトは話を続けた。 「義兄(あに)さん、風石――覚えてますか? ほら、『呪術院』の依頼で預かったという」 「『呪術院』の……あ、ああ、あの軽いくせに硬い石か」  即答できなかったのは、真っ先に『世界樹の使い』――翼を持つ異種族の方を思い浮かべてしまったからである。  フィプトは小さく頷く。 「あの風石は、滅多に見つからない、って話を、以前お話ししたと思いますが……」  件の依頼の後に、風石について教えてくれたのは、フィプトその人であった。 「正確に言えば、風石と言えるものは、そこそこの量見つかるんです」  ずいぶんと遠回しな言い分である。真意を促す一同のまなざしを受けて、フィプトは先を続けた。 「風石を精製して武具と為すためには、ある程度の大きさがなければならないんです。ところが、見つかるもののほとんどは、砕けて、粗い砂のようになったものばかりで……」 「あんなに硬ぇのに砂みたいに砕けんのか、妙なもんだな」 「人では無理なことでも、自然の作用は長年を掛けてやり遂げてしまう。恐ろしいものです」 「ねえ、その砂状のものを溶かせばいいんじゃないの? 砂鉄みたいに」  パラスが疑問を呈した。もっともだが、そうであったらフィプトはいちいち引き出さないだろう。案の定、フィプトは首を横に振って、言葉を続けた。 「砂状になった風石には奇妙な性質がありまして、熱を加えると爆発するんです。昔はそれで、精錬用の反射炉が何台もおしゃかになったそうです」 「火薬とか粉塵爆発とか……みたいなものですか?」  と口を挟むヴェネス。ガンナーとしては当然の連想だろう。だが、何かに思い至ったのか、すぐに取り消す。 「でも、粗い砂じゃ、粉塵爆発にはならないか……」 「そうですね。まあ、一応の可能性として挙げられてはいましたけど……研究の結果、異なる現象だってわかったんですよ」  その後にフィプトから為された説明は、アルケミストならぬ者には、さっぱり理解できない、あるいは信じがたい話であった。が、説明自体を簡単に噛み砕くと、以下のようになる。  風石なる鉱石の内部には、目に見えるものから見えないものまで無数の空洞が空いていて、それが大きさの割に軽い原因だそうである。空洞の中には空気が封じられているが、空気中には微量の水が含まれている。  さて、世の中に存在する物質の特徴の一つに、『熱を加えると膨張する』というものがある。いくらかの例外はあるにしても、少なくとも高温の水に関しては誤りではない。そこがこの度の問題であった。  水は摂氏百度を境に気体となる。塊状の風石が熱せられた場合、内部の水は気体となり、細かい隙間を通って石の外にゆっくりと飛び出していく。しかし、砂状の風石の場合、内部まで熱せられる時間は一瞬と言っていいほどに短く、その中に封じられた水分が熱によって急激に気化・膨張し、石(というか砂)そのものを吹き飛ばすのである。一粒を見ればさほどではないにしても、精錬するつもりで炉に詰め込んだ砂が連鎖的にその状態に陥れば、凄まじい威力となるのも不思議ではない話だ。 「つまりは、水蒸気爆発です」 「……わからん。わからんが、とにかく『砂になった風石は燃やせばドッカン』って思えばいいんだな」 「……い、いえ、ちょっと違うんですが、ま、それでもいいです」  風石と呼ばれるようになったのは、内部の空洞に空気を含んでいることもさることながら、熱したときの爆発が、封じていた風を一気に放出しているように見えたからだという。 「そうとわかれば、精錬する際に注意すればいいのですが、取り扱いの難度が高すぎてですね、割に合わない、ってことで、砂からの精錬は放棄されたんですよ」 「……で、その風石と、例の鉱石の研究と、どんな関係があるんだよ?」 「……はは、すいません、前置きが長くなっちゃいましたね」  フィプトは苦笑いを浮かべるも、すぐに、議論を語る学者の面持ちに戻って話を続けた。 「例の鉱石の力はある程度まで制御できましたが、それでも冒険に用いるには危険が強い。けれど――爆発を、風石の砂から生み出した強力な風の力で封じて、被害を狭い範囲に抑えることはできないか、と」  にわかに信じがたい話である。なにより、最大の問題がある。そもそもの強風をどうやって制御するのであろうか。  だが、錬金術師の表情から察するに、そのあたりは解決の目処が立っているようだった。方法を聞いてもおそらく理解できないから、説明してもらうまでもないだろう。  それにしても、と、エルナクハは、話を聞いている際に思ったことを正直に話した。 「風石の砂の力を制御できるなら、そっちを使った方が、戦いでもまだ安全に使えるんじゃねぇのか?」  精錬用の反射炉を破壊する威力があるのだ、敵に手傷ぐらい簡単に負わせられそうである。 「……あー、確かに、それは盲点だったかもしれません」  とはいえ、件の鉱石の使用は実験を兼ねているのだ、風石の砂があるから使わなくてもいい、というわけにはいくまい。  何にしても、鉱石の研究は最終段階に近づいているようで何よりである。 「これで『エスバット』みたいな不届き者が現れても、返り討ちにできますよ、きっと」  やけに嬉しそうに顔をほころばせて締めたフィプトに、エルナクハは再度声を掛けた。  先程も考えたことだが、探索班ではなかった者達に、噂と現状の違いを説明しなくてはならない。  ルーナが食堂の入り口に姿を現したのは、そんな時だった。 「よう、遅いお目覚めで」  皮肉、という程ではないが、茶化しを含ませてパラディンが挨拶すると、ドクトルマグスの娘は平然と返したものである。 「おはよう、みんな目覚まし掛け間違えたんじゃないの?」 「探索休みでもなきゃ大体こんな時間だよ」  余談だが、『ウルスラグナ』で目覚まし時計を使っている者はいない。  ルーナが起きてきたのはいい頃合いだったかもしれない。新入りの二人にしても、『ウルスラグナ』がどんな現状に置かれているのか、知っておく必要があるだろうから。ルーナが空席に座ったのを見計らって、ギルドマスターたる青年は、表面的にはフィプトに、その実、ギルドメンバー全員――特に探索班ではなかった者に向けて、口を開いた。 「勘違いしてるみてぇだけど、『エスバット』がオレらを襲ってきたのは、探索の邪魔目的じゃなかったぜ」  説明しながら、件の戦いと、薬泉院を訪ねてきたライシュッツの話を思い起こす。  『エスバット』は、言っていた。『天の支配者』が、かつて『エスバット』の一員だった一人のドクトルマグスを、人間ではないものに変えてしまったと。魔物と化した者は、今は第三階層の奥深くで、その犠牲者となるであろう者を待ち続けている。既に、『ウルスラグナ』に先んじていた数組のギルドが、その魔手にかかったと思われる。  樹海の先を見るためには、彼女を倒さなくてはならない。もともと人間だったからといって、手心を加えれば、自分達こそ生きて帰れないだろう。ひいては、『エスバット』が最も辛い思いを押さえつけてまで『ウルスラグナ』に託してきた願いを、叶えることもできない。 「……そうでしたか、そんな事情が……」  話を聞いて、フィプトも、他の仲間達も、何があったのか納得できたようだった。 「……あなた達がボロ負けしたんだと思ってたんだけどね」  とルーナが嘆息したので、しっかりと釘を刺すことも忘れない。 「だから、あんな無様をさらしたけど、一応勝ったのはオレらなんだって!」  卓を乗り越える勢いで主張したものの、すぐに真剣味を取り戻して、エルナクハは続けた。 「でもまあ、こんなことになっちまったら、ヤツらに勝った負けたなんてどうでもいいや。事情も大公宮以外にはうかつに漏らせねーから、言いたいヤツには言わせときゃいい。今は――『氷姫』のことだ」  事態が深刻たることは、皆にも既に明らかである。一同は、ギルドマスターに負けず劣らずの深刻な表情を浮かべ、話の続きを待った。  今のオレらでは勝てない、とパラディンは切り出す。 「実力云々はさておいて、『エスバット』と戦ったオレらは、麻薬の効果がもうちっと薄れてくれなきゃ、強敵となんか怖くて戦えねぇ。他のオマエらは、強敵に当たるにはちと心許ねぇ。どっちにしても、少なくとも数日はいるし――回復役をどうするかって話もある」  改めて一同は気付く。探索に欠かせない回復担当であるアベイもまた、『エスバット』との戦いを経て、傷ついていることに。ましてアベイは他の者に比べて若干身体が弱い。今までのように一日に複数回の樹海探索を行うのは、難しいだろう。  彼もまた探索班の一員として、身体能力を維持する程度の鍛錬を行わなくてはならないから、他の者達が樹海に潜るときの回復役は不在となる。  薬品を大量に持ち込むことで代わりと成すか? だが、資金はもちろん、持てる手荷物の数にも限りがあり、専門の回復役がいるときのような利便性を感じるほどに多彩な薬品を揃えるのは、難しいだろう。なにより、出来合いの薬品は、効果より保存性と安定性に重きを置いているため、現状では、アベイの代替とするには少々心許ない。  幸い、鍛練を重ねたハディードが、舐めた傷を治す能力に磨きを掛けているのだが、彼の力は一度に一人にしか及ばない。  できれば、第二のアベイ・ユースケ・キタザキが欲しいところだが……。 「……ん?」  ふと、探索班だった者達は気が付いた。  ごく最近、メディックではない者が自分と仲間を同時に回復しようとするところを見た。不発に終わらせたため、実際の効果を見ることはなかったが、おそらく間違いないだろう。  真っ先に己の記憶を鮮明化し、得た結論を元にして、該当者に質問を投げかけたのは、焔華であった。 「ルーナどの、ぬしさんはドクトルマグスでしたわな。ひょっとしたら、回復術も――?」  そうだ、巫医なら、傷の回復は得意分野ではないのか。 「私はまだ見習いよ?」  注目された当のドクトルマグスは、さも謙遜しているかのように返答をした。しかして、その容(かんばせ)に浮かぶのは、真逆の自信。実戦の機会さえ与えられれば、すぐにでも要望に応えてみせる、とばかりの、自らの能力を疑わない者の姿であった。  それからの数日、樹海探索の最先より、『ウルスラグナ』の姿が消えたことを、多くの冒険者(どうぎょうしゃ)達は当然と見なした。  『ウルスラグナ』の数名が殺されたという噂こそ、すぐに立ち消えたが、かなりの痛手を負った、あるいは、『エスバット』に敗れて自信喪失した、という話が、未だにハイ・ラガード内を徘徊し、『ウルスラグナ』脱落の理由を喧伝している。それを退治するのにもっともふさわしい当事者は、放置を決め込んでいた。ただし、先に決めたとおり、大公宮には事情を説明すると決めている。  王虎ノ月十七日、正午を回った頃。鍛錬のために第二階層に出かける前に、元探索班を引き連れたエルナクハは、大公宮に足を運んだ。  『ウルスラグナ』が面会を望んでいる、と聞いて、按察大臣は気が気でなかったようだった。街に流れる噂を鑑みれば、訪ねてきた冒険者達が暇(いとま)を告げに来たのでは、と思いこんでしまっていても無理はない。それだけに、訳あってしばらくは探索速度を落とす――樹海探索自体を辞める気はないことを冒険者達が告げたときに、あからさまに安堵を見せたのも、当たり前のことだろう。 「時に、エルナクハ殿」  大臣は今までにない真剣な表情で話題を変える。 「『エスバット』の二人が出頭してきおった。後から来るそなた達が邪魔になったから殺そうとしたのだとな」  ……あの二人は、罪を償う道を選んだわけか。  それなのに、自分達からは真実を話さなかったようだ。大公宮に件の話を伝えるかは、どうやら『ウルスラグナ』に委ねられたらしい。  大公宮には事情を話しておこうと決めていたのだが、ふと気が変わった。  別にやましいことを考えたわけではない。自分達で『氷姫』のことを確認してから報告した方がいいだろうと思い直したのだ。  人間が魔物に変えられているという話は衝撃的に過ぎる。事実確認のないまま報告しても、眉に唾付けられるだろう。『エスバット』が大公宮に真実を語らなかったのも、似た理由ではないか。  『ウルスラグナ』にしても、彼らの迫真の表情を見て、話が真実だと判断したが、逆に言えば、事情を確認できたのは『エスバット』の話でのみということである。実は謀りだった、という可能性は、無ではない。  彼らが冒険者を殺そうとしたこと自体は事実だ。自分達だけに限らない。薬泉院に、銃で狙撃された冒険者が運び込まれていたはずだ。彼(彼女)の生死は聞いていないが、その仲間達はどうか。  そこまで考えてから、エルナクハは口を開いた。 「大臣サンよ。『エスバット』はどうなる?」 「そうよのう……」  按察大臣の表情は苦い。 「そなたたちに対する殺人未遂も、決して軽い罪ではないが、もし他の冒険者を殺(あや)めていたとしたら、樹海探索を主導する大公宮としては許せるものではない。あるいは、極刑ということもあるやもしれぬな……」  衛士達を第三階層に派遣して、そのような事態がないか調査中だという。もしも、銃撃された痕跡のある冒険者の遺体が発見されたら、『エスバット』の運命は最悪の方面に転がるだろう。事情を加味しても、因果応報としか言えないところだが。 「なあ」  再び少し思考した後、エルナクハは、声の調子を少し落として切り出した。 「オレは法に口出しできる立場じゃねぇ。立場じゃねぇんだが……ヤツらを処断するのは、ちぃと待ってくれねぇか」  訝しげに見返す大臣に対して話を続ける。 「気になることがあってな。ヤツら、オレらを襲ってきたときに、妙なこと口走ってやがったんだよ。なんでも……樹海の奥には人間に似た魔物がいる、てなぁ。ソイツを確かめたい。その途中でヤツらに何か聞きたくなることもあるだろうよ。だから、ヤツらの罪が確定しても、刑罰はちいと待ってくれねぇか」 「人間に似た魔物、か……街にもそんな噂が流れているようだがのう……」  大臣にも心当たりがあるようで、考え込む時間は長くなかった。 「……あいわかった。彼らの処罰はしばらく待とう。しかし、大公宮の方で彼らに話を聞いておいた方がよいかもしれぬがの?」 「……いや、ここらへん、冒険者同士じゃなきゃ判らない話になるかもしれねぇ。ここらはオレらに任せてくれないか」  『エスバット』は、現状では大公宮には真実を語るまい。だからといって、強引に自分達への委任を迫るのは、少し苦しいか、と自分でも感じる。  幸いにも、大臣は納得したようだった。何か現時点では話せない事情がある、と看破した上で。 「……わかった、その件はそなたたちに任せる。ただし、納得できる結論が出たら、我らにも報告してもらうぞ、よいな?」 「ああ、そりゃ、もちろん」  エルナクハは破顔した。なんとか『エスバット』のしばしの助命は果たせた。これで、さらなる助命のきっかけを掴める。  彼らの罪をなきことにせよ、というわけではない。魔物に変えられた人間の先、『天の支配者』とやらの実在を確かめ、打倒する、その顛末をしかと『エスバット』に見せるために、だ。  ドクトルマグスにしては重装備ではないか、と、見ていた誰もが思った。  彼ら巫医にも様々な流派があるのだろうから、かの少女の一門では標準の装備なのかもしれない。違和感を感じるのは、先に矛を交えた『エスバット』のアーテリンデが、『魔導の徒』の色眼鏡(イメージ)どおりの軽装だったからだろう。  バードでも扱えるとはいえ、それでも似つかわしく見えない吊盾(タージェ)を、ルーナは躊躇うことなく左手に持つ。本来は肩から吊して関節を守るためのものなのだが、持って使えないこともないから、咎めることもないだろう。  続いてルーナは、ねじれた木と輝石と剣を組み合わせた、アーテリンデも持っていたような形の杖に手を伸ばした。だが、ついにその手は杖を掴むことはなかった。肩をすくめたルーナは、誰にともなく独りごちたものである。 「……普通の剣を使った方が、よさそうね」  改めて、武装を待つ仲間達の方に振り返り、声を上げる。 「樹海に行く前に、シトトに寄っていいかしら? 剣を新調したいの」 「その巫剣でもいいんじゃないのぉ?」  ルーナの部屋を覗き込む者のひとり、マルメリが疑問を呈すると、ルーナは苦笑に似た表情を浮かべた。 「これ、実はちょっと使いづらいの。私にはね。普通の剣の方が楽に動けるわ」  冒険者としてはまだ『初心者以前』のルーナは、どう考えても後列にしか配置できない。今の時点で剣を新調してもあまり意味はない。とはいえ、馴らす、という意味では、使うつもりの武器を現時点から手にしていた方がいいだろう。  なお、ヴェネスも『初心者以前』だが、ガンナーはもともと後列に配されるべき者である。  そのヴェネスの方はどうするのだろう、と、ルーナの様子を覗き込んでいた、マルメリ、オルセルタ、ドゥアトの頭に疑問がよぎった。残念ながら二部屋を同時に見ることはできない。右隣のヴェネスの部屋を覗いているのはフィプトである。センノルレは授業中、ゼグタントは既に出かけており、ナジクは新人の装備に興味がないらしい。  と、フィプトが声を上げた。 「その銃を使わないのは、なんでですか?」  どうやら、ヴェネスも持参の武器を使わないらしい。  興味をそそられた女性陣はヴェネスの部屋を覗き込む。ガンナーの少年は、自分の身長近くの長さがある銃に布を巻き直しているところだったが、はにかみながら、自室を覗き込む仲間達に答えた。 「これだけ長い銃身じゃ、森の中で使うには向かないと思うんで」  ヴェネスの銃は、おそらく、ひとつところに腰を据え、目標を一撃で撃ち抜くためのものだ。なるほど確かに、樹海探索に向いているとは思えない。  結局、新人達は二人とも武器を新調する必要があるわけだ。 「まあ、もともと防具も揃えなきゃいけないものね」  とオルセルタが笑んだ。 「あの、ボク、そこまでお金ないです。お貸し頂けるならありがたいですけど……」  恐縮を全身で表してヴェネスが申し出るが、フィプトが笑って言葉を返す。 「きみ達は小生達の仲間なんです。ギルドマスターたる義兄(あに)さんも、きみ達の武装の新調に金を惜しむなって言ってましたから、遠慮はいらないですよ」 「ほ……ほんとですか!?」  ヴェネスは年相応の少年らしい――いや、もう少し幼く見えるが――喜びを全身で表した。 「金惜しむなって兄様言ってたけど、そのお金もそんなにないわよ」  オルセルタは頭の痛い思いをしつつ、ルーナの反応を気にする。 「ありがたいことね」  巫医の少女の反応は、至って冷静なものだった。ずうずうしいを通り越して、さっぱりしていて却って胸が空く。 「まあ、今回は思い切って初めから第二階層だから、お金が許す限りでいいものを揃えるしかないわねー」  ギルドの大蔵大臣の面持ちでドゥアトが口を挟んだ。余談になるが、『ウルスラグナ』全体の金銭管理は彼女ではなく、センノルレが担当している。無駄遣いするな、と口うるさいが、それは樹海探索用の出費ではなく、個々人の小遣いとして分配された金に対する忠告であることが常だった。  いずれにしても、今現在の樹海探索費用で、二人分の最新装備を揃えるのは、少しきつい。  今までだって、優先的に探索に駆り出されることが多いエルナクハやアベイの分が真っ先に用意され、特に防具は、他の者は順繰りにお下がりで対応してきたのだ。お下がりが余っていればよかったのだが、あいにく売り払ってしまっていた。  武器はともかくとして、種類の多い防具の中で何を優先させるかというなら、やはり鎧だろう。比較的値が張るが、防御力という恩恵は他の防具の比ではない。 「どうせなら、私は盾をいいものに買い換えてもらった方がいいわ」と曰くルーナ。  あんたはパラディンか、と、女性陣は内心で突っ込んだ。  ところで、『思い切って第二階層』という話が出たが、新人を鍛えるというのに第一階層からではないのは、理由がある。要は時間が惜しいのである。アベイという回復役の代わりを急いで育てなくてはならない状況なのだ。  ゆえに、より過酷な戦場に最初から投入して、急激な成長を期待する。鍛えられる者はルーナとティレンの他に、元『花月』よりは先輩だとはいっても、『ウルスラグナ』としては新入りの卵殻からようやく這い出た程度のドゥアトだ。時間に少し余裕があれば、ドゥアトの代わりにハディードを入れて鍛えることにもなろう。  無論、死なれては元も子もないから、経験を積んだ前衛――初日たる今回はオルセルタとナジクが同行する。実戦の何たるかを肌で感じ、先輩冒険者の戦い方を目の当たりにするだけでも、成長は期待できるだろう。  エルナクハ達が戻ってきた後の夕方、その五人でシトト交易店に赴く途中、鋼の棘魚亭に顔を出す。せっかくだから、第二階層あたりで完結できる依頼があったら受けようかと思ったのである。 「おう、ちょうどいいところに来てくれた!」  折しも親父が掲示板の前にいて、依頼書を貼り付けようとしていたところだった。それを目の当たりにした新入り以外三名は、そこはかとなく嫌な予感を感じた。親父が貼り付けようとしていた依頼書は白い。何も書いていないという意味ではなく、紙が上質なのだ。大公宮とまではいかないだろうが、どこかの金持ちの依頼か、と感づいたのである。  別に依頼が金持ちからだろうと貧乏人からだろうと、難易度と報酬の釣り合いが取れていれば、文句はない。時に、感傷に駆られて、割に合わない依頼を受けることもあるだろうが。  しかし、『ウルスラグナ』は、貴族から無茶な依頼を振られたことを、心の奥底にしかと記憶していた――正確には、『ウルスラグナ』に振ってきたのは依頼人たる貴族ではなく親父なのだが。  『神手の彫金師』の最後の作たる戦駒一揃い。  ただし、『女王』に当たる『公女』は一体しか作られておらず、それだけに価値は高い……というより、現在の所有者が手放さなければ、他の者の手に入るはずがない。よりによって、その『公女』を所望されたのである。当然ながら、『ウルスラグナ』はそんな割に合わない依頼を受けなかった。ただし、ちょっとした依頼の報酬として、『衛士』の駒をひとつだけ持っている――というより押しつけられた。  当然、戦駒がらみの依頼であれば請ける気はない。そのつもりだったが、酒場の親父は、我が意を得たりとばかりに近づいてきたのである。 「おう、お前ら! ちょうどいい! この依頼見て見ろよ!」  『ウルスラグナ』一同があからさまに嫌な顔をしていることにも意を介さず、親父は依頼書を突き出して見せた。 「報酬は金細工の駒の『城兵』 だぜ!」  いや、いらないから、と口を挟む余裕も与えず、矢継ぎ早に言葉を続ける親父であった。 「依頼主ぁ居住区の商人でな、結構な収集家らしいんだ。何でも奴は『衛士』と『学者』の駒が欲しいんだそうだが 、お前ら『衛士』の駒持ってたよな? ほら、俺が前に報酬としてくれてやったヤツがよ」 「あるわよ。必要ならお返しするわよ」  オルセルタはつれなく応じた。『衛士』の駒は、確かに素晴らしい細工であり、アウラツムの一輪挿しと並んで、応接室に華やぎを添えてくれている。世界樹探索が終わって、他の誰かが駒そのもの、あるいは売却金分配を希望しなければ、自分が持ち帰ってもいいとは思っている。が、何が何でも手放したくないわけではない。返せというならそうしても構わなかった。行き先も判らない他の駒を探すという徒労を押しつけられるくらいなら。 「いやいやいや、俺に返さなくてもいいよ。でもよ、あとは、どっかで『学者』の駒さえ探してくりゃいいじゃねぇか、こりゃラッキーだろ。ま、そうは言っても『学者』の駒がどこにあるか知らなきゃ、意味ぁねぇんだが……」  きっちり突き止めろとまでは言わない、せめて目処ぐらい付けてから仕事を振ってほしい。 「まぁ知り合いでも当たってみて、どうにか手に入れてみてくれや」  いい加減なことを言う。さすがのオルセルタも、鞭でしばいたろか、と思いかけた、その時だった。  不意に思い出したことがある。ごく最近、兄から話を聞いた記憶がある。昨日今日ではないのは確かだが、それほど前の話でもない。シトト交易所で、金細工の戦駒をひとつ見かけたとか言ってなかっただろうか。無料(ただ)ならともかく、必要ないからなぁ、と話を締めた兄に、オルセルタも賛同したものだった。  ……なんだ、金細工の戦駒はあったんじゃないの。  手に入る当てがあると思えば、引き受けてあげようか、という気分になる。ダークハンターの娘も、何だかんだ言ってお人好しなのだった。しかし、口を開く寸前で、危うく思い直した。そもそも、シトトで発見された駒の種類も、まだ残っているかすら判らない。それが判明するまでは、うかつに引き受けられない。  結局、オルセルタはつれない態度を崩さないまま、踵を返した。第二階層で完結できそうな依頼を探し損ねたが、留まっていたら、どれだけしつこく言い寄られるか、判ったものではない。 「私たち、これから新人育てなきゃいけないの。面倒ごとには付き合ってられないわ」  酒場の親父は、あからさまに肩を落とした。 「新人育てって……なんだよ、樹海の先に進む気満々じゃねぇか。諦めて、依頼事専門の冒険者になってくれるんじゃなかったのかよ。そんな噂聞いてたんだけどなあ」 「そんなの噂ですら流れてないわ! 勝手に決めるんじゃないわよ!」  シトトに顔を出し、いつもより多めの薬品も含めて買い物を済ませる。金細工の分の二千エンを取っておかなくてはならないので、予定通りの買い物はできなかったが、それでも、ルーナに鎧刺剣(エストック)と小型円盾(アスピス)を、ヴェネスに火炎砲(フレイムキャノン)を買い与えることはできた。  ちなみに『砲』といえば、一般的には、携帯できない大型射出武器、その中でも火薬を利用して弾丸を射出するものを指すのだが、ハイ・ラガードでは、携帯できる銃、普通のものより大型の口径を持つものを指すこともあるようである。銃身こそ狙撃銃よりはるかに短いものの、全体的にがっしりとしていて、ガンナーの少年の手には余る印象がある。しかしヴェネスは危なげなく新しい武器を構えて見せ、感嘆の声を上げた。 「すごい、似たようなコンセプトの銃は、ボクがいたガンナーギルドでも開発を試みてましたけど、材質の強度不足でうまくいってなかったんです。やっぱり、ハイ・ラガードには、良質の素材と、その素材を加工できる職人が揃ってるんですね」  ひととおり、鍛錬に赴くための準備が揃ったところで、オルセルタはシトトの娘に声を掛けた。 「……エルナクハさんにお見せした駒、ですか? ……ああ! あの金細工のですね!」  とん、と出された金細工の駒の正体を、『ウルスラグナ』の誰も、すぐには特定できなかった。鎧を付けていないから文人か、とアタリを付けられた程度である。なにしろ、『神手の彫金師』作の駒が示す地位は、通常のそれが示すものとは微妙に違う。  とはいえ、さほどの時間もかからずに正体は察することができた。戦駒の駒の意匠として鎧を付けそうにないものは、三つ。『王/公王』『女王/公女』『僧正/学者』。そんな中で、明らかに女性の顔立ちではなく、本らしきものを携えているとしたら、正体は火を見るより明らかだろう。  なんとも、不自然なほどに運のいい話である。 「売れちゃってたと思ってたわ」  肩をすくめて心情を素直に吐露するオルセルタに、シトトの娘は苦笑いめいた表情で応じた。 「実は、一昨日、エルナクハさんがお帰りになった後、武具の入荷が多くてですね……ここって、冒険者の方たちのご来店が多いじゃないですか。だから、そういうもののお手入れと展示に時間がかかっちゃって、この彫像のことは後回しになっちゃって……」 「まだ売り物にはなってない、と? ねえ、それ、譲ってもらってもいいかしら」 「もちろんです! 『ウルスラグナ』さんが欲しいっていうなら、お譲りするつもりでいました」  ただ、とシトトの娘は言葉を続ける。 「仕入れ値でお譲りしないと、お金が合わなくなっちゃうから、ちょっとお高いかもしれませんけど……」 「兄様が、二千エンって聞いたって言ってたけど、それでいいの?」  オルセルタが金額分の五十エン金貨をカウンターに積み上げると、シトトの娘は、ひぃ、ふぅ、みぃ、と勘定した後、顔を輝かせた。 「はい、ちょうどありました! お買いあげありがとうございます!」 「水を差すみたいだけど、ちょっといいかしら?」  不意に、オルセルタの背後からドゥアトが顔を出して問うた。 「いろいろ便宜図ってもらっちゃってありがたいけど、大丈夫? 倉庫(バックヤード)商品を直接売っちゃったり、儲けも出ない値段にしちっゃたり、商売としちゃ大変だと思うのだけど?」 「大丈夫です! お父さんには私から説明しますから。私、頑張ります!」  むふー、と、鼻息も荒く、シトトの娘は決意の相を見せる。  そこまで言われたからには、こちらから余計な気を回すのもよくない、と『ウルスラグナ』は思い、好意を素直に受け入れることにした。  これから冒険に出る身、柔らかい金細工を理由なく持ち歩くのも破損が心配なので、戻ってくるまで店に預けたままにしておくことにする。  交易店を辞しようとする『ウルスラグナ』の背後に、シトトの娘の声が届いた。 「あ、そうだ。新製品情報です! 明日か明後日くらいには、『精神力回復薬(アムリタ)』が並ぶ予定です。よかったらお買いあげ下さいね!」  興味をそそられたのか、ドゥアトが振り返って、こんなことを聞く。 「ハイ・ラガードのアムリタって、材料は何?」  エトリアのアムリタの材料は、コケイチゴだったり蜜だったりと、甘味が強かった。果たしてこの地では、どのような調合をなされているのか。コケイチゴはこの地にもあったのだが――。 「はい、コケイチゴと、蒼石の腕です! ドクトルマグスの皆さんが調合してくれました!」  ドクトルマグスを除く『ウルスラグナ』一同は、思わず顔を見合わせた。  巫医達の療法に鉱石粉を使うものがあることは承知している。明らかに薬効があると判っていたら、メディックも使うだろう。実際、エトリアでも、ある病気の特効薬を作るために、施薬院の院長が、遺都シンジュクの壁材を所望したことがある。しかし、よりによって『蒼石の腕』。第三階層上層に出没する『危ない石像』と呼ばれる魔物の腕である。そんなものに薬効があるんだろうか、と、  調合者や、彼らに信を置いた交易店を、疑うわけではない。頭ではそう思うのだが、心の方が納得するには、少し時間が必要なようである。  第二階層に赴くのは久方ぶりだった。最近は鍛錬組も第三階層の低層を使うので、よほどの用事がなければ足を向けないのだ。  樹海磁軸より、『常緋の樹林』と呼ばれる、一面紅の地に踏み込む。  到達した途端、一同は――少なくともオルセルタやドゥアトは、何か違和感を感じ取った。改めて何かと問われると返答に詰まる。目に見えた変化があるわけでも、強大な敵の気配を感じるわけでもない。ただ、何かが違うと肌で感じたのである。危険を感じさせるものではなかったので、十中八九些事であろうと結論した。もちろん、重大なものである可能性も捨てきれないので、記憶の片隅には留めておく。まして今は新人もいるのだ。  踏み込んでからの最初の数戦は、新人達には防御に徹させておき、三人で当たる。  三人でも、今となっては、第二階層低層の敵に遅れをとるようなことはなかった。  オルセルタやナジクが強くなっていることもあるが、特筆するべきはドゥアトである。娘とは違い、敵を操る言霊と体調を狂わせる言霊を得意とするという彼女は、その言葉でもって敵の体内に毒素を発生せしめる――正確には、敵の肉体そのものに『体内に毒が入った』と錯覚させるらしいが、理屈はともかく。  魔物が苦悶し、口から血泡を吐いて絶命していく様は、常人だったら呪術師なる者の力のおぞましさを強く感じるものだったかもしれないが、現在の鍛錬班一同は別にどうとも思わなかった。魔物とはいえ哀れだという感慨は抱かぬでもない。だが、狩りを行うにしても、討伐にしても、手段を選ばないことは多いのである。  種別云々はさておき、現在の鍛錬班で、一度に大多数の敵を相手取れるのは、ドゥアトの力くらいだ。新人を抱えている今は、普段に増してありがたい。  樹海のなんたるかが新人達の肌に染みこんだ頃合いで、攻撃にも参加させることにした。  ただ、白兵戦も可能なはずのドクトルマグスとはいえ、ルーナを前衛に放り出すのはまだ早い。彼女には補助的役割を果たしてもらうことになる。  現状、新人達が樹海という異境の中でも臆することなく使える、あるいは技術的に可能な技は、ルーナは『巫術:鬼力化』という、味方ひとりの攻撃力を引き上げる技、ヴェネスは『アイスショット』という、氷の属性を纏った弾丸を撃ち出す技である。余談だが、ガンナーが属性攻撃の効果がある弾丸を作成するには、アルケミストの協力が不可欠らしい。昼下がりに、フィプトが自分の術式にも使う素材を調合して弾丸作りを助けていたものだ。  フレイムキャノンは、弾に火炎を纏わせて射出できる機構を備えた銃だ。が、炎属性が効かない魔物を相手取るには、機構を切り替えて、別の属性の弾丸を射出しなくてはならないのである。 「アト母さん、『病毒の呪言』はナシよ。あ、『睡眠の呪言』もナシ!」 「あらあらあら、敵を眠らせちゃった方が楽じゃない?」 「楽だけど、それじゃ鍛錬にならないでしょ!」 「じゃ、せめて、『恐れよ、我を』」 「しょうがないわねー」  そんなことを言い合うオルセルタとドゥアトの傍らで、ナジクは黙々と矢の手入れをしている。近接武具と違って、矢は飛ばしてしまったらそれっきりである。戦闘が終わる都度に回収できる分はしているのだが、鏃を固定する糸『沓巻(くつまき)』が緩んでしまったり、鏃そのものが鈍ってしまったりする。探索中には直しようがないもの、例えば箆(シャフト)が折れてしまったものは仕方がないが、直せるものは再度の使用に耐えうる状態にしておくのである。 「数が多い分は減らしてしまってもいいのだろう?」 「そうね。最初のうちはあまり危険がないように、できれば一匹から」  魔物達は団体で現れることも多い。そうなったら、余分な敵を掃討するのが先輩の役目だ。 「それじゃ、私は『鬼力化』でヴェネスを補助すればいいのね」  己が成すべき鍛錬を指示され、ルーナは得心した表情で確認した。精神集中や祝詞(のりと)の正確さ、使う薬をどれだけ早く、効果的な調合で準備できるか、巫術にはそれらが必要だ。樹海の中、敵意に晒され、一瞬をも無駄にできない戦闘中に、力を発揮する手順をつつがなく執り行えるかが問題となる。殴り合うような派手さはないが、これも立派な鍛錬なのである。  そうこうと会話を交わしているうちに、新たな魔物の群れが現れた。エリマキトカゲが三体。おあつらえ向きな状況である。 「じゃあ、打ち合わせ通りに」  オルセルタの合図と共に、『ウルスラグナ』一同は、即座に戦闘態勢に入った――驚いたことに、新人達もなかなか、様になっている。確かに、戦闘に慣らさせることが目的だったが、ここまで早く順応するとは思っていなかった。  エリマキトカゲが攻撃に入るより早く、オルセルタとナジクが一体に集中攻撃を掛けた。弦を強く引き絞って放たれた矢と、敵の急所目がけて真っすぐ奔る細剣が、叫ぶ間もなくエリマキトカゲの息の根を止める。  残る二体が殺意を孕む吠え声を上げるが、勇猛もそこまでであった。 「……『恐れよ、我を』」  カースメーカーの言葉と鈴の音は、天敵の咆哮が与える以上の恐怖を、トカゲ達に与えた。くるるる、という、先の吠え声が嘘のようなさえずりと、後ろ足の間に巻き込んだ尻尾が、彼らの感情を雄弁に語る。『外』の生き物なら大抵逃げるんだけどねぇ、と、カースメーカーの女は語っていたものだが、魔物の異常な闘争心を思えば、ここまでおびえさせるのも大したものである。  逃げない魔物は、窮鼠と化した。一体は尾を巻いたまま動けずにいたが、もう片方は自暴気味の突進を試みる。オルセルタが阻止を試みるも、左腕に牙がかすったようで、短い悲鳴を上げた。  一方、後列では、そのような状況とは隔てられた静けさが続いていた。  静か、といっても無音ではない。ヴェネスが銃の発射準備を淡々と行い、その傍らでルーナが祝詞を唱えている。 「『虎よ虎よ、なれはなぜに強いのか 其の力、彼の者に宿りて、敵を討つ助けとなれ!』」  ドクトルマグスの右手に宿るのは、可視化された霊気。若葉から得たかに見える、うっすらと明るい翠色の光。  光に満ちた右手が挙がり、人差し指がヴェネスを示すと、爪に灯がともるように、指先に小さな光の粒が集まる。それらは蛍の飛行するがごとく浮遊し、次々とヴェネスにぶつかった。  と、ヴェネスの身体は、ぶつかった光と同じ翠色を纏う。ほぼ同時に、励起された彼自身の霊気なのか、身体の裡から滲み出る光があった。暗い金色のそれは、翠色と混ざりかけたところで、諸共に、人間の目からは消えた。残滓なのか、ほんの数秒、ヴェネスの身体全体が鈍く光っていた。  ルーナはにんまりと笑い、同じ年頃の少年をけしかけてみせる。 「さあ、見せてごらんなさい。あなたの腕を!」 「……はい!」  ヴェネスはフレイムキャノンを構え、環孔照門(ピープサイト)内に、恐怖に動けないでいるエリマキトカゲを捕捉した。  幼く穏やかな顔つきが、一瞬にして切り替わる。ぞっとするほどに冷たく空虚な瞳が、最大の変化である。これから射抜く対象が、生命あるものではなく、ただの的だと見なしている、冷徹な兵士の目だった。  変貌に戸惑う仲間達を意に介さず、ガンナーの少年は静かに引き金を引く。  轟音と共に銃口から飛び出したのは、炎をまとった銃弾であった。その一撃は、あやまたず、エリマキトカゲ目がけて真っ直ぐに飛び、そして――。  思い切り外れた。  弾丸はトカゲにかすりもせず飛び続け、そのうち薬剤が切れたのか、鎮火する。やがて一本の木に命中し、穴を穿った。  森林火災に発展しそうにないことに安堵しつつ、速やかにエリマキトカゲ達を片づけ、一同は改めてヴェネスに向き直る。 「……おかしいなぁ……」  すっかり平常時の幼げな顔立ちを取り戻したヴェネスは、銃を矯めつ眇めつ眺め回していた。本人としても不本意だったようだ。わざと外したわけでもなければ当然だろうが。しかし、本人以上に不本意そうなのはルーナの方で、不機嫌な様相で相棒に食ってかかっていた。 「何よ、今の無様なのは! あなた、今みたいな状況で外すようなへっぽこな腕の持ち主じゃなかったはずよね? それとも何? 前の方がまぐれで、今のが実力!? そうだったら殺すわよ!」  物騒極まりない言葉であった。  噛みつくルーナと萎縮するヴェネス、両者の仲裁役として割って入ったドゥアトが、まぁまぁ、と、なだめに回った。未だに不本意そうな二人、特にルーナに曰く、 「思ったんだけど、ヴェネス君って、狙撃専門じゃなかったかしら?」 「……あ」  ヴェネス本人は気が付いたようだが、他の者には訳が分からない。ルーナは再び噛みつこうとしたようだが、 「どういうことなの?」  オルセルタに割り込まれ、感情が抑えられたのか、とりあえず口を閉ざす。  ドゥアトは仲間達の疑問に簡単に答えることにした。本来ならヴェネス本人が答えた方がいいのだが、本人は気付かされた事実に意気消沈していて、それどころではなさそうだったのだ。 「あのね、ヴェネス君は狙撃手なのよ。もうちょっと遠くから、じっくりと狙いを付けて、敵を確実に仕留めていくのが、ヴェネス君の戦い方なの。こんなに敵が近くて、銃も使い慣れたものじゃなかったら、うまくいかないのも当たり前よねぇ」 「だが、うまくいかない、で済む問題でもあるまい」  どこまでも冷徹に、ナジクがつぶやく。  ヴェネスは耳の先まで赤く染めて、口惜しげにうつむいた。その様を目の当たりにして、ナジクは戸惑いにも似た表情を浮かべる。言い過ぎた、と思ったのかもしれない。 「……まあ、初めからうまくいく人間はいない。精進することだ」 「……は、はい!」  返事をしたヴェネスは、どことなく嬉しそうだった。 「あら、なんでそんなに嬉しそうなのよ?」  オルセルタがからかうように問いかけた。が、実のところ見当は付いている。ナジクとヴェネスのやりとりに、まだ幼い頃の自分と兄のやりとりを思い出したのだ。物事がうまくいかなかった時でも、「次、またがんばれよ」と励ましてもらえるのが、どれだけ励みになったか。  しかし、予想とは逆に、ヴェネスの表情は、みるみる暗くなっていく。オルセルタは慌てて取り繕おうとした。 「ごめん、ごめんなさい、余計な詮索だったかしら?」 「あ、いえ、すみません。うまく言えないけど、いろいろなことを思い出しちゃって……」  弾が当たらなかった理由を指摘された直後に戻ってしまったヴェネス。  オルセルタはどうしたらいいのか困り果てて、ヴェネスから目を逸らした。左腕、服の袖が裂かれてしまったところ――先程エリマキトカゲから受けた傷に視線を落としたのは、ただ目を逸らすだけでは落ち着かず、視線を余所に移す格好の理由を求めたからかもしれなかった。  が、次の瞬間、オルセルタは思わず声を上げた。  何事かと注目する仲間達に、腕をまくり、傷口を見せて興奮する。 「治ってるわ! メディカも塗ってないのに!」  驚くのも当然だった。確かに、大した傷ではなかっただろう。だが、この短時間なら、生々しい赤色のかさぶたくらいは残っているのが当然だ。それが、ない。周辺の皮膚より薄い色の、楔形の引きつれだけが、傷があった痕跡を示す。生物には自己治癒力があるが、それにしても治りが早すぎである。  実は、今が初めての現象ではない。エトリアでの冒険の頃、マルメリ達、世界樹を探索するバードの中には、肉体を活賦する『癒しの子守唄』という呪歌を会得したものがいた。それは冒険者達の肉体に何らかの働きかけを行い、自己治癒力を引き上げるものだった。その力を受けたときも、傷の治りが異常に早かった。精神力を活賦する『安らぎの子守唄』と共に、樹海迷宮の中、かつ、戦意が高揚しているときでないと、ただの子守唄でしかないという欠点があったが、その不便さを差し引いても絶大な助けだったことは確かだ。  とはいえ、今回の治癒は、バードの歌の仕業ではない。マルメリは同行していないし、それ以前の理由があった――エトリアで冒険者の守護を果たした二種類の子守唄は、どういうわけか、ハイ・ラガードの迷宮では、何の効果も発揮しないのだった。  では、何がオルセルタの治癒力を高めたのか。 「……そうか、私の『声』は届くんだ」  どこか寂しげに、そうつぶやいたのは、ルーナだった。ということは、この力はドクトルマグスの領域なのだろうか。  皆の問う表情に気が付いて、巫医の娘は、こくりと頷いた。 「皆には見えないでしょうけど、世界には『精霊』と呼ばれる存在がいるわ。……もっとも、私達がそう呼んでるだけで、実体は『気』の塊が浮遊してるだけだったりするのかもしれないけれど」 「『声』が届く、っていうことは、アナタ、その『精霊』を操れるってこと?」 「多分違うわ、ドゥアト」  ドゥアトの問いに首を振るルーナ。余談だが、センノルレを除く『ウルスラグナ』の皆が、緑髪の呪術師のことを『母』を意味する名で呼ぶのに、どういうわけか巫医の娘は呼び捨てる。 「『声』って言っても、音声じゃなくて、気持ちね。力を貸して、って思うと、自然に『精霊』は集まってくる。でも、何かをさせようとしても、私にもできないわ。――私の『声』に応じて集まってくる『精霊』は、火にも氷にも雷にもなりきれてない、弱くて中途半端な『気』なの」 「じゃあ、私の傷を治したのは……?」 「弱い『気』は強い『気』に引かれるわ。人間の強い感情、例えば戦いの時の高揚した気分にね。引かれて、人間に群がって、その中に吸収されて、『内なる気(オド)』の一部となる。そのために自己治癒力が活性化した……理屈としてはそういうことだと思う」  そんな説明を受けて、オルセルタやドゥアトは、第二階層に踏み込んだときの違和感の正体を見当づけた。それは、ルーナの力に呼応して集まった『精霊』――弱い『気』だったのではないだろうか。 「ボクには、にわかに信じがたい話なんですけど……」  控えめに、ヴェネスが口を挟んだ。ルーナの話の最中、しきりに視線を彷徨わせていたのは、『精霊』を見ようとしていたのだろう。残念ながら叶わなかったようである。 「どっちにしても、ルーナさんがいれば戦闘中に傷が治りやすくなるってわけですね。鍛錬が楽になりそうで、ありがたい話です」 「それが、そうもいきそうにないわねぇ」  くすくすくす、とルーナは意地悪く笑う。 「この樹海の『精霊』や『気』は、どうも弱っていってるみたい。今はまだ、あまり意識するほどのものでもないけど、エトリアの樹海に比べると、かなり力が弱いわ。精霊を呼ぶ力をもっと鍛えるとしても、本当に少しずつ傷を治す程度にしかならないかもしれない」 「そうですか……」  ヴェネスはがっかりしたようだが、ほんの少し落ち込んだ後は、「まあ、仕方ないですね」と明るく微笑んだ。ルーナに、気に病むことはない、と伝える意志もあるのだろうが、基本的に、使えない物をどうこう言っても仕方がないと割り切る性格なのだろう。  逆に、ドゥアトは未練たらたらのようだった。「しょうがないかもしれないけど、ホント残念ねぇ」と、笑いながらも嘆いている。むろん、過度な期待をルーナに押しつけるつもりはないようだったが。  一方、オルセルタは、背筋の凍るような思いをしていた。ただし、ルーナの力に関する不満ではなく、別件で。 「……オル」  自分を短く呼ぶ声に振り向いた。レンジャーの青年が、危機を自覚した鋭い瞳を、ダークハンターの娘に向けてきている。  ナジクも気が付いているのだ。  他の三人は、『例の件』をよく知らないから、わかるまい。  奇妙に立ち枯れた、灰色の木々のことを。  今のところ、薬泉院の院長からの経過連絡は来ていないから、現状は判らない。ノースアカデメイアにサンプルを送って検証を頼んでいるらしいが、返事はまだのようだ。何を検証しているのか、と、昨日入院していた探索班達が戯れに院長に問うたところ、どうやら、薬剤の完成次第の使用許可を求めているようだ。なんで許可などいるのか、と素人は思うのだが、薬は裏を返せば毒である、環境への影響の恐れがあるため、過度な薬剤使用は禁ずる、というのが、アカデメイアの方針らしい。世界樹の迷宮の生態系はアカデメイアにとっても貴重なデータ、それを崩しかねない決定は極力避けたいと見える。  人間の都合はさておき、今、迷宮は――迷宮の礎である世界樹は、弱まっているのではないか。  数千年前から営々と営みを続け、自分の生存だけではなく、大地の汚染の浄化をも引き受けた、世界樹の一柱(と思われるもの)。役目が終わったからなのか、単純に時に耐えられなくなりつつあるのか、その身に数多の虚穴を抱え、枯れゆき始めている。それでも、新たな生命の苗床となりつつある姿は、死ではなく継承を印象づけられるものだった。  あの灰色の木々は違う。あれらの印象は、滅びと虚無だ。もしも、あの症状が世界樹全体に広がったら、ハイ・ラガードの民に敬意を抱かれるこの巨木は、冷たく脆い廃墟と化すのではなかろうか。そのような病を抱え、自力で治せなくなっているのが、この偉大な木の衰弱を顕著に表しているのではないだろうか。そして、樹海内の『気』の弱まりも、そこに起因するのではないか……。 「あの、どうかしましたか?」  声を上げたヴェネスを始めとする、心配そうに先輩を見やる新人達に、オルセルタは肩をすくめて返した。 「大したことじゃないわ。でも、世界樹も相当古いから、弱り始めてるのかな、って、そう思っただけ」  一冒険者たる『ウルスラグナ』に何かができるわけでもない。オルセルタとナジクは、そう考えて、考察を打ち切った。  しかし、ナジクはともかくとして、オルセルタは、やはり気が気でならなかった。後輩達の手前、不安の素振りを見せないように努力したものの、頭の中は、かの灰色の立ち枯れだらけの森のようだった。とうとう、気丈なふりをした仮面が剥がれ掛けたときに、辛うじてそれを取り落とさずに済む方法を発見した。  ――鍛錬が一段落付いたら、薬泉院に行って、あの灰色の木のことがどうなってるか、ちゃんと聞いてみよう。  些細な決心だったが、方針が定まったことで、心に落ち着きが出てきた。思考の中に根を張っていた灰色の木々は、それが嘘だったかのように、次々に新芽を付け、鮮やかな若葉を広げ始めた。ゆえにオルセルタは、その日の鍛錬を破綻なくやり遂げて、仲間と共に街に帰還できたのだった。  偶然とは皮肉なものである。  オルセルタの決心は、彼女自身が出向く前に、先方からやってきたのだ。  ただ、その日は別件で重大事が起きてしまい、立ち枯れの森どころではなくなってしまったのだが。  王虎ノ月二十二日――新人達の鍛錬に付き合い始めてから六日目。  数値で見ると決して長期間ではないが、冒険者が力を付けるには十分な時間だった。  先輩達に守られてとはいえ、生死の境という細い足場(キャットウォーク)を、足を踏み外さないように駆ける、そのような毎日である。新人達は自らの役目を悟り、あるいは自ら決定づけ、新たな技能を覚えたり、既知の技能を樹海探索用に改良したりして、環境に対応した。  ルーナは前衛に立つようになった。パラディンやソードマンに匹敵するとまではいかないが、それに次ぐ程の戦闘技術の向上を見せている。とはいえ、その戦法は守りを志しているようで、技を見ると、巫医達の戦闘技術である巫剣は最低限しか訓練せず、ヒーリングを初めとした巫術への偏重が明らかであった。実際、『ウルスラグナ』がルーナに望んだ主な役目は、アベイに代わる回復役だったから、この傾向は間違っていない。  ヴェネスは攻撃一辺倒で技を磨いていた。最初の鍛錬時に仲間達を悩ませた、命中率の低さは、精密射撃に重きを置くことで解決した。精神力の消耗は激しいが、絶対命中の技能を手に入れることで、一端の攻撃主としての立場を盤石としたのである。他の技を使う時や通常攻撃時の命中率については、相変わらずだったが、それも成長に付随して改善の兆しを見せ始めていた。  先輩達にしても、成長の早さとしては、新人達には遠く及ばないが、付き合ったなりの経験を積んでいる。  三日目からは第三階層低層を舞台として鍛錬を続け、満足する成果を得ていた。そろそろ、第三階層高層に踏み込んでも、普通の魔物相手ならば後れを取ることもないだろう。  一方、かつて『エスバット』と相対峙した者達も、回復の予兆を感じていた。身体の痛みも柔らぎ、発作の間隔も長くなりつつある。該当の五人全員で探索の最先端に戻るには、まだ不安も否めないが、復帰の日も遠くはあるまい。  そんな状況の中、『ウルスラグナ』は、この日を迎えたのであった。  新人含めた鍛錬班が出発したのは、夕方のことである。昼間に十五階に踏み込むと、行動範囲が著しく制限されるためだ。  今回の顔ぶれは、元『花月』の新人二人、オルセルタ、マルメリ、フィプトである――いや、もう、新人とは呼べないだろう。古来より曰く、同じ釜の飯を食った何とやら。探索や生活を共にしてきた彼らは、すでに昔から『ウルスラグナ』に所属していたも同然だった。 「なんか、とても楽しそうですよね」  街のあちらこちらに視線を投げかけながら、ヴェネスが口を開いた。  気候はだんだんと寒冷さを増し、木枯らしが世界樹の枝葉をさらさらと鳴らしているのに、街は奇妙な高揚感に支配されつつある。  そういえば、収穫祭まで一週間足らず。私塾の生徒達も、塾の休みである今日は、先週に引き続き、誰も遊びに来なかった。  街の建物の屋上や見張り塔から俯瞰できる、刈り入れ後の畑にも、整然と並ぶ露天村のごときものができつつあった。片隅では山車となる巨大な人形が作られているようだが、周囲を柵で囲って見えなくしていることもあり、遠くからではどんな形か判別付けられない。花屋では、秋の生花の他に春夏の乾燥花や造花が並び、街の娘達が篭いっぱいに買っていく姿がよく見られた。祭の時に自宅に飾る花細工を作るのだろうか。 「わざわざ造花や乾燥花作るのって、不便じゃない? 世界樹の迷宮ならいつでも満開の花が手に入るのに」  そんなことをルーナが口にしたが、乾燥花や造花には生花とはまた違う味があるものだ。 「いいなあ、収穫祭か。ボクも――」  ヴェネスがそんなことを言いかけて、はたと口を閉ざした。  マルメリが、からかうように問いかける。 「遊びたいのぉ?」 「あ、あの、いや、そんなことは、いえ、確かに遊び……いえいえいえ、探索の方が重要ですから」 「構わないと思いますよ」  微笑ましさに相貌をゆるめて、フィプトが返す。オルセルタがその後を引き継いだ。 「どうせ、うちの兄様が真っ先に遊びに出るのよ。構わない、構わないって」  少し前、元『花月』の二人が加わる以前に、収穫祭についての話題が仲間内で上ったことがある。その時から、収穫祭の日には探索を休んで参加したいと思っていたものだ。ただ、状況次第では望みが叶うか否か、という話も、当時から懸念されていた。それまでに――嫌な想像だが、『ウルスラグナ』の誰かが、あるいは全員が、この世にいない、などということさえあり得るのだ。  が、そんなことでも起きなければ、せっかくの収穫祭、大いに楽しむことになるだろう。 「ありがとう、ございます」  ガンナーの少年は、嬉しそうに、本当に嬉しそうに、目を細めた。 「お祭りを楽しむのは、久しぶりです」  祭の気配は、当然ながら酒場にも波及していた。一同が鋼の棘魚亭を訪れると、酒場の親父が、店の前で、荷車いっぱいの樽を前に、荷車の主との交渉を終わらせたところだった。収穫祭に備えて、酒の仕入れを増やしたと見える。 「稼ぎ時だからなぁ。やっぱり、祭に酒は必要不可欠だろうよ!」  そう豪語する親父に、オルセルタが、若干気乗りしない様相で問いかけた。 「前に張り出してた、『神手の彫金師』がらみの依頼、誰か受けてくれたの?」 「いいや、ちーとも、な」  親父は渋い顔で声を返した。「お前らが受けてくれないから、それはもう、さびしそーに、掲示板上で揺れてるぜ」  まなざしには、あからさまな期待の色がある。正直、この期待に応えるのは重すぎて気乗りがしない。それでもオルセルタは――というより『ウルスラグナ』のほとんど全員が――性根のところではお人好しなのであった。 「仕方ないわねぇ。今回は、私たちが受けてあげるわ。ついでに、解決してきたから」  オルセルタはあからさまな溜息を吐きながら、ウエストポーチから布でくるんだ何かを出す。  訝しげに受け取った親父は、その包みを開けた途端に相好をほころばせた。  包みの中身は、金細工の駒、『衛士』と『学者』だったのである。  『学者』の入手自体は数日前だったのに、なぜこの日に渡すことにしたか、その理由には、大した意味はない。単純に、「せっかく手に入れたんだから、数日は鑑賞させてもらおう」というだけのことだったのである。私塾の応接室に飾られた『学者』は、数日の間『ウルスラグナ』の目を楽しませ、この日の朝、『衛士』もろとも、晴れて本来の役に立つこととなったのであった。 「ったく、ずいぶんもったいぶったモンだな」  咎める口調ながら、目元に漂う満足感は隠しきれず、親父は『学者』の駒を確認するように眺め回した。 「なるほど、コレが『学者』の駒か、知的な雰囲気が、どことなく俺みてぇだな、ははははっ!」  どこが、と思った者もいただろうが、誰もおくびにも出さない。余計なことである。  間違いなく『神手の彫金師』の駒だと確認できたのか、親父は機嫌よく笑みを浮かべつつ、いそいそと店内に引っ込もうとした。 「よしよし、じゃあ報酬をやるぜ。『城兵』の駒――」 「いらないわよ!」  反射的に返したオルセルタだったが、一瞬、親父が浮かべた悲しそうな顔に、思わず心が揺れてしまった。慌てて補足する。 「あのね、これから樹海で鍛錬なのよ。金細工なんて柔らかいもの、持ってけないわ」 「ああ、そうか、そりゃそうだな。じゃあ、そこらの見回り衛士捕まえて、私塾に届けといてやるよ」 「え、あ、ああ、ありがとう」  生返事をするしかなかった。 「まぁ、もらえるものはもらっておきましょうよぉ、オルタちゃん」 「マル姉さん……」  マルメリの言い分が正しい。自分だって、もらえるならもらってもいいかな、とは思っている(『衛士』の駒の時も思ったが)。そう思いつつも気分が乗らないのは、どうも自分達が、金細工の駒に取り憑かれているような気分になるからだった。ここで『城兵』をもらったら、今後もずるずると、金細工の駒集めを押しつけられていくのではないか、と。  案の定、親父は機嫌よく宣うたのであった。 「また駒集めの依頼が入ったら、頼りにしてるぜ!」 「もうやらないわよ!」 「すみません! 助けてください!」 「敬語で頼まれても嫌なものは嫌!」  ぴしゃりと言い切ったオルセルタではあったが、不意に違和感を覚えて戸惑った。  今、敬語で頼んできたのは、親父ではない。声は背後から聞こえてきた。 「ああ、よかった、『ウルスラグナ』の皆さん、あなた達になら安心してお願いできそうだ……!」  声のした方向を振り返ると、全力疾走の直後なのか、身体を折り曲げ、ぜえぜえと喘ぐ、白衣の人物が目に入る。  フィプトに背中をさすられているその人物、薬泉院の院長コウスケ・ツキモリは、ようやく顔を上げて、言葉同様の安堵の表情を見せた。  ツキモリ医師の助手・アンジュが、帰ってこないらしい。  初めはマルメリあたりが「なに、痴話喧嘩じゃないのぉ?」と混ぜ返したりもしたが、詳しく話を聞いて、それどころではないと確信した。  恐ろしいことに、ひとりで樹海に赴いた可能性があるという。  その証拠は、ツキモリ医師の研究室にあった灰紋羽病の試験薬の消失である。 「多分アレを持って森に入ったんです! でも薬はまだ効くかどうかも判らないし、ひとりで森へ入るなんて自殺行為です!」  仮にそうだとして、どのあたりに行くか見当が付くか、と問うたら、幸いにも明確な答が返ってきた。 「一番最近の灰紋羽病の症例報告は十五階です。彼女はきっとそこへ向かったに違いありません!」  エルナクハ達探索班が十五階を探索していたときに、件の灰紋羽病発見の報告はなかった。ここ数日の間に発生したのだろう。第二階層までにしか症例がなかったものが、第三階層にも波及している。それも、最上階に――その事実は、数日前にも想起した、世界樹自体が弱まっている、という不安をさらに強くさせた。 「ほんと、おバカさんねぇ、あの助手は」  樹海へ向かう道すがら、ほとほと呆れ果てた様子でルーナがぼやいたものである。 「エトリア有数の聖騎士でさえ、ひとりで樹海に潜って、ろくなことにならなかったのに」 「迷子になって数日間出てこられなかった、とかぁ?」  というマルメリの言葉は、混ぜ返しではなかった。パラスのはとこのことを思い出したからである。  エトリアでは、冒険者ギルド統括本部長からの試練として、『ひとりで樹海に潜り、指定の魔物を討伐してくる』というものが課せられることがあった。もちろん任意ではある。いかに該当の魔物を倒せる冒険者ギルドでも、その中のひとりが同じ魔物に勝てるかどうかとなると、話が違う。  パラスのはとこは、その試練を受けた。ただし、魔物を打倒すること自体は簡単だったらしい。対象の魔物は第二階層に巣くうものであり、かの聖騎士が所属するギルド『エリクシール』は、既に第五階層、強力な魔物の徘徊する遺都に足を踏み入れていたのだから。ただ――道に迷った。磁軸計が故障したらしく、正しい帰路を見失って、数日の間、樹海を彷徨っていたらしい。特例として予備の磁軸計を借りた仲間達が救助に向かったときには、相当衰弱していたという。  それが、『ウルスラグナ』が、先達である『エリクシール』を追い抜き、樹海踏破を成し遂げた原因だったのだ。 「違うわ」  ルーナは首を振る。どうやら、彼女の語るものは、パラスのはとことは別のことらしい。山吹色に輝く髪の巫医は、意地悪そうな笑みを浮かべると、きっぱりと言ってのけた。 「喰らったのよ、魔物が」 「――!?」  それは静かな爆発に等しい発言だった。樹海で死んだ冒険者の末路のひとつに、そういうものはあり得る。それは覚悟の上だ。実際、斃れて食われた痕のある死体も見てきた。だが、こうして改めて言葉にされると、おぞましさが先に立つものだ。一同は、見知らぬ聖騎士の末路と、あり得るかもしれないアンジュの末路、そして自分達の行く末を重ねて、身震いせざるを得なかった。  ヴェネスだけは、まだ樹海に赴くようになって日が浅いせいか、『パラスのはとこ』という要素(ファクター)を知らないゆえか、ルーナの言葉に完全に同調することはなかった。だから、語り手の方に気を向ける余裕があった。  彼が引き込まれたのは、ルーナの瞳。冬空の色をした彼女の瞳は、悲しそうに揺らいでいたのだ。  彼女が語っているのは、知り合いのことなんだろうか。  けれどガンナーの少年は、余計なことを聞こうとは思わなかった。それが彼が、かつての生活の中で培ってきた、後天的な性質だったから。 「キャーッ! ちょっとコッチに来ないでよっ! 何なのよもうっ!」  磁軸の柱を使って十五階に降り立った瞬間、そんな悲鳴が聞こえてきた。  振り向いた『ウルスラグナ』は、その視界の中に、見慣れた白衣を見た。  ただの白衣ではない、その上腕には、医神の蛇杖(カドゥケウス)の意匠が縫い取られている。紛うことなき、公国薬泉院の制服である。 「アンジュさん!」  フィプトが叫ぶ声は、アンジュ自身の金切り声に敢えなく掻き消されてしまう。 「どうして、どうしてなのっ! ちゃんと獣避けの鈴鳴らしてるじゃないのっ!」  どうやら、アンジュは手に鈴を持っているようだった。実は獣寄せの鈴だった、ということではない。今まさに、アンジュを取り囲んでいる魔物が、『規格外』なのである。事実、磁軸計には、『敵対者(F.O.E.)』を示す印が数個、うごめいている。『敵対者』には獣避けの鈴は効かない。 「アンジュさん! こっちに来てください!」  フィプトは再度叫んだ。しかし、フィプトの指示とは裏腹に、アンジュの声は遠ざかっていく。『ウルスラグナ』には気が付かず、とにかく魔物から逃げようとしているのだろう。だが、彼女の向かう方向は森の奥。さらに悪いことに、『逃げる者は追う』という習性を持つものだったのか、魔物はアンジュに引きずられるように森の奥へと迫り始めた。 「と、とにかく、早く連中を始末しなきゃ」  ヴェネスが、焦る声ながらも冷静なまなざしで、森の奥の方を注視しながら、声を上げた。「『始末』とは物騒な言い方だなぁ」と先輩達は思うものの、行動自体には同意であった。アンジュを救うには、魔物達が彼女に追いつく前に仕留めるしかないのである。  冒険者達は猛然と走り始めた。やがて、その視界には、見慣れた姿の魔物が入る。計三体、いずれも、第三階層上層でよく見かけるレッドフィッシュである。紅白まだらの金魚を大きくした上に足を生やして二足歩行させたような姿をしている――通常の魔物のはずだ。しかし、磁軸計の反応は、明らかに奴らを『敵対者』と示している。  おそらく『突然変異』なのだろう。  ごくまれなことだが、通常の魔物の中に、他の個体より著しく強力なものが生まれることがある。通常の魔物と比べて『規格外』であることに変わりはない。磁軸計はそれらをも等しく『敵対者』として、その存在を自らの上に刻むのである。大抵は通常の『敵対者』よりは弱く、油断は禁物ながら必要以上におびえる相手ではない。  『ウルスラグナ』は声を掛け合うこともせず、まずは一体に集中攻撃を仕掛けた。 「聞くがよい! 剣の鳴動、盾の軋み、風切る刃は戦の始まりを告げる!」  マルメリの掻き鳴らす弦の調べに合わせるかのごとく、冒険者達の凶器が魔物を穿つ。オルセルタの細剣が鱗を抉り、ヴェネスの銃弾がヒレを的のように撃ち抜いた。フィプトは雷の術式を駆使して魔物の身体を内から焦がす。ルーナは仲間達の間を駆け、巫術を掛けて回った。  難なく最後の一匹を仕留めると、フィプトがもう一度声を張り上げた。 「アンジュさん! 『ウルスラグナ』のフィプトです! もう安全ですから、返事してください!」  ふと、近くの木の影に動きがあった。ひょっこり顔を覗かせたのは、間違いなく薬泉院の助手アンジュその人である。肩で大きく息をしているものの、目立った怪我はないようだった。 「ふ……フィプト、先生……?」  たった今『ウルスラグナ』の存在に気が付いたアンジュは、きょとんとした表情で冒険者達を見回した。 「助けに……来てくれたんですか?」  確認するように、凍えた唇をゆっくり動かすアンジュ。ぐるりと冒険者達を見回した目は、その顔に呆れた表情を見出して、ばつが悪そうに伏せられた。なにしろ、白衣は耐寒仕様ですらない、薬泉院で日常的に着用している、ごく普通のものだったのだ。無我夢中で樹海に突っ込んできたのである。 「あの……ごめんなさい、私……」 「馬鹿じゃないの、あなた!?」  おずおずと謝罪の言葉を発するアンジュに、強い叱咤の言葉が降りかかる。  他の誰が何かを言うよりも先に、厳しい口調を発したのは、巫医の娘だった。 「樹海の恐ろしさも知らない娘が一人、のこのことやって来て、五体満足のまま出てこられるほど甘いところじゃないのよ! 聞かせてあげようかしら、あなたと同じように甘いこと考えてて魔物に喰われた者の話を。聞けば、あの歩く金魚どもに追い回されたことさえ幸いに思えるでしょうね!」  ルーナの矢継ぎ早の叱咤に、治療士の助手はビクッと首をすくめ、固く目を閉じる。 「ごっ……ごめんなさいっ! でも折角、先生が薬作ったのに……」 「薬……灰紋羽病の?」 「は、はい。せっかく作った薬なのに、学会の先生達は試させてもくれなくて……」 「木を治す、ただそれだけのために、生命張ったわけ?」 「だって、人も森も、どっちも生きてるはずなのに、治そうともしないなんて、私、許せなくて……!」  固唾を呑む仲間達の前での数度のやりとりの後、ルーナは心底呆れて溜息を吐いた。 「人も森も生きてる……ねぇ。はぁ、メディックの頑固さには頭が下がるわ」  ふるふると首を振ると、馬鹿に付ける薬を先に開発しろ、と言いたげに、ルーナは続けた。 「で? そんな命懸けで樹海に突っ込んできてまで試した薬は、どうだったの?」  一瞬後、ルーナは、しまった、と言うような表情を浮かべた。  アンジュの顔が、みるみるうちに輝き始めたのだ。ルーナの質問が何らかの起動装置、否、起爆装置として機能したようだった。先程体験した怖い思いは、どこへ消えたのだろうか、そんなものは初めからなかった、としか思えないほどの明るさで、アンジュは怒濤の言葉を吐き出したのである。 「そうなんです! 先生のお薬はよく効きました! 全部を治すってわけにはいかなかったんですが、ほら、特徴的な傷があったじゃないですか、あれと同じ傷の箇所に、すごくいい反応があったんです! ちゃんと開発をすれば、朽木も全部治せちゃいますよ、きっと! やっぱり、××××××(注:小難しい名前の薬剤)と△△△△△△△△△△△△(注:もっと小難しい名前の薬剤)を○○○○○○○○○○○○反応(注:常人にはさっぱり理解できない化学反応名)で合成させたのか効いたのかもしれませんね!」  冒険者達はもはや呆れるばかりであった。フィプトだけは例外で、アンジュの言葉に含まれた専門用語をすべて理解できるのか、「なるほど、そういう方法で開発したんですか」と感心することしきりだったが。  ひとしきり説明を終えると、実証実験の完了も含めて満足したのか、薬泉院の助手は、大きく息を吐いて、ぺこりと身体を折り曲げた。 「今日はご迷惑をおかけしました! 私はこれで帰ります。本当にありがとうございました!」  今回は、磁軸計とアリアドネの糸を忘れなかったようだった。余談だが、磁軸計は薬泉院所属のメディックが共同で利用しているもので、衛士に付いて樹海に入る者達もいるため、今回、アンジュが十五階の磁軸の柱から進入できる縁(よすが)として機能したらしい。そこから検証地点までは、獣避けの鈴を鳴らしながら自力で踏破したようだった。本来なら、鈴を使うといっても、魔物との遭遇確率は絶無にはならない。アンジュは強運にも守られたようである。  糸を起動させたとき、薬泉院の助手は、ふと思い出したように、腰のポーチを外した。 「そうだ、これ、私にはもう必要ないものですから、お礼代わりに差し上げます。有効に使ってください!」  差し出されたものを受け取り、アンジュがアリアドネの糸の力場内に踏み込んで消えるのを見届けた『ウルスラグナ』は、果たしてポーチの中身は何なのか、と思い、開けてみた。  ――獣避けの鈴がたくさん、詰まっていた。  一同は顔を見合わせた。もらって嬉しくないものではない。しかし、今回は鍛錬のために来ていて、傷ついたらアリアドネの糸で帰還することもできるのである。量も相まって、大変に微妙なお礼であった。  アンジュの帰還を見届けたあと、『ウルスラグナ』一同は、本来の目的である自分達の鍛錬を始めた。  狭い区間をうろついて、魔物の襲撃を待つ方法もあったが、一行は樹海の先に進むことにした。深い意味はなく、単に好奇心に導かれてのことだ。もちろん、少しでも危険があれば即時退却の構えである。  幸いにも、大きな危険に直面することはなく、一同は、とある地点に差し掛かった。  雪に覆われた大自然の大広間、その前を塞ぐ水路。  ただし、夜を迎えて既に凍り付いているため、ソリで渡るのは容易だった。  冒険者達は大広間に踏み込んだ。そこは、数日前に『ウルスラグナ』探索班が『エスバット』と激闘を繰り広げた場所である。しかし、その痕跡はもはや見つけられず、十五階を歩き回れるようになった後続の冒険者や、斃れた冒険者達を捜索する衛士のものなのだろうか、いくつもの足跡が、北の扉へと向かっているだけだった。  アンジュを救助したときにはまだ夕焼けの朱の色を広げていた空は、すでにとっぷりと暗くなっていたが、二十夜(ふけまちづき)となった宵の月は、まだ地平線の下にあり、姿を現す気配はない。この時間は手持ちの明かりだけが頼りだ。余談だが、アルケミストの技術による灯火は、持続時間も長くなり、アルケミストではない者でも再点火できるような改良がなされていた。  冒険者達は、十字路を南から北へ向かって歩く。遠目に見える扉を目指して。建造物を回り込むように進む道もあるのだが、その道は取らなかった。さながら、堂々と凱旋する王者のように、赤い絨毯ならぬ白い道をまっすぐに踏む。  ためらいなく北の扉を開け、大広間を後にした。  小さな広間があり、その西から狭い道が北へ続く。探索班ですらまだ足を踏み入れていない場所である。冒険者達はソリを引きつつ、注意を払いながら雪を踏んで歩を進めた。 「ルーナちゃん、なんか嬉しそうねぇ? どうしたのぉ?」  ふと、後列のマルメリが、前列のルーナに声を掛けた。のんびりした声はマルメリの特徴だが、今のところ魔物の気配が感じられないので安心しているのも事実だ。もちろん、精神の芯まで油断しきることはあり得ないが。  ルーナの隣を歩いていたオルセルタも、その指摘に興味を動かされ、ドクトルマグスの顔を覗き込む。 「そう?」  問われた方は、自分のことを言われたと気が付かない様相で、きょとんと目をまたたかせた。んー、と考え込む仕草を見せ、ようやく何かに思い当たったのか、軽く手を叩く。 「……あの娘のこと、かしらね」 「アンジュさん?」 「まあね、人間のくせに、木の一本や二本のためにあそこまで身体を張れるとはね」 「それが、嬉しいのぉ?」 「嬉しいっていうか、変な人間もいたものだ、って感じかしら」  正直なところ、ルーナがアンジュの行動のどこに嬉しさを感じているのか、彼女ならぬ者には判らない。マルメリとオルセルタは、自然の諸々を借りてその術とするドクトルマグスならではか、とアタリを付けた。  そして、そもそもルーナが嬉しそうだったということ自体に気が付かなかった者もいる。後列の男どもである。 「……嬉しそう、だったんですかね?」 「……さあ?」  フィプトとヴェネスは、さっぱり判らない、という様相で、互いの顔を見合わせたのであった。  そのような雑談を交わしつつ、狭い道は三十分程度で抜けた。出口直前で魔物と鉢合わせたが、切り抜けることに危なげはない。  問題は、その後である。  道の出口から扉を介して続くのは、巨大な広間だった。ただ、広さ自体はあるのだが、所々に氷の小山が屹立していて、人間が通り抜けるには、曲がりくねった通路でしかない。そこまでならまだいいのだが、しばらく進んだところで、一同は、うげ、と、カエルが潰れたような声を漏らした。  やや遠くに『敵対者(F.O.E.)』の姿が見える。  比較的低空を、悠々と、悠々と飛んで来るそれは、『飛来する黒影』だ。狭い一定範囲を、円を描いて飛び、おそらくは縄張りを見張っている。  第三階層高層の『敵対者』を、探索班達は倒すことができるようになっていた。が、現在の鍛錬班ではとても無理だ。しかも、改めて周囲を見回すと、見える範囲に限っても三体いる。 「あれは、ちょっと……まずいわね」  オルセルタの顔にも焦燥が浮かんでいた。ダークハンターの隣では、巫医の娘が、同じように『黒影』を眺め、はぁ、と口惜しそうに息を吐いた。  無策で進めば、追われて殺されるだけだ。一行は速やかに道を戻ると、扉から脱出し、狭い道に戻る。  簡単な野営の支度の後、作戦会議が始まった。 「奴らがこっち向いてないときに、こっそり抜けますか?」  というヴェネスの提案は、悪くはない。だが、うまくいくのだろうか。しばらく磁軸計とにらみ合いながら、機を計ってみたが、どうも成功図が描けない。『黒影』達は、一度敵を発見すると、可能な限りどこまでも追ってくる。それが複数である。危険度は極めて大きい。  そんな危険を冒して先に進む必要はないのだ。目的は鍛錬であるがゆえに。  しかし、理性を、好奇心と情熱が覆した。起爆剤となったのは、フィプトの言葉だった。 「できれば、先に進みたいです。ある程度でも先の地図ができていれば、探索班も復帰しやすいでしょうし――何より、小生自身が先を見てみたい」  できれば、という冠言葉が付随するとおり、無理をする気はなかった。それでも、触発された一同は、どうにかして先に進む手段はないかと考え始めた。フィプトの言葉は全員の内心でもあったのだ。探索班の復帰が容易いように、先を確認したい、という思いは真実であり――だが、それ以上に、自分達が探索班とならなければ踏むことのできない、『ウルスラグナ』の未知たる地への第一歩を、自らの足で刻印したい、という強い思いも、事実に違いなかった。 「まあ、この広場での鍛錬は、諦めるしかないわねぇ」  マルメリが、アンジュからもらったポーチの中身を吟味しつつ、溜息を吐いた。普通の魔物と戦っているところに、『黒影』の猛威に晒されては、生命がいくつあっても足りない。獣避けの鈴を大量にもらえたのは、最初こそ微妙に思ったが、結果として助かったところだ。  ふと、吟遊詩人の、ポーチをまさぐる手が止まった。 「どうしたんですか?」  ヴェネスが問いかけたときに、マルメリが上げた顔に浮かべていた表情は、どう表現したものか。本人に「手持ちの曲で表現しろ」と要求したら、おそらくは『熊踊り』と題される曲を弾き上げたに違いない。そんな要求は誰もしなかったので、マルメリは、表情を作るに至った原因を仲間達に直接見せることで、己の感情を表した。  仲間達も等しく、頭の中を熊が踊ってしっちゃかめっちゃかにしていくような気分を味わったのである。  黒肌の吟遊詩人の手に握られていたのは、いくつもの眠りの鈴だった。『敵対者(F.O.E.)』を眠らせ、動きを止めるための代物である。もちろん『ウルスラグナ』も何度も世話になっているものだ。  それはいい。却って助かったくらいだ。冒険者達には手持ちがなかったのである。だが、その存在が明らかになった今、冒険者達の内心には、どうしても口にせざるを得ない思いが湧き出していた。それが、頭の中の熊踊りの理由であった。 「眠りの鈴あるなら使えよ!」  元の持ち主であるアンジュがそれを適切に使用すれば、魔物に追いつめられるということはなかったのだ。とはいえ、冒険者ならざる者に、ああいった状況で冷静な判断を求めるのも無茶なのかもしれないが。  ともかく、これで方針は決まった。  獣避けの鈴で一般の魔物の襲撃を防ぎつつ、『黒影』に対しては随時、眠りの鈴で行動を封殺しながら先を急ぐ。  前途が開けた冒険者達は、意気揚々と、氷塊が林立する広間に足を踏み入れた。  結局、『黒影』は広間全体では五体もいて、『ウルスラグナ』の肝を氷点下にまで冷やしてくれた。  広間の出口を区切る扉を出て、緊張が解けたあまりに大きく息を吐く。  改めて道を確認すると、三叉に分かれていた。  一つは北、磁軸計と照らし合わせると、さほど行かずして迷宮の最北端に至る。ただし、そこから先がどうなっているかは謎である。  二つ目は南。この通路は、どこまで延びているのか、判らない。  ちなみにこの二つの道は、凍った水路のようで、ソリで滑ることになりそうだ。  最後は東。現在地から見る限り、狭い通路は長くは続かないようだ。その先がどうなっているかは、今のところは未知数である。  という見解をオルセルタが述べると、ルーナが呆れたように言葉をこぼした。 「結局、どの道も全部謎なのね」  初めからすべてが判っているなら冒険者は必要あるまい。  どの道を先に調べるかは、満場一致で決まった。南である。その理由は、磁軸の柱周辺にある。磁軸の柱の北側には、獣道の気配があった。だが、奥に行けそうで行けず、結局開くには至らなかった。その道の反対側が、南へ至る道の先で発見できるかもしれない。そうすれば探索も楽になるはずだ。  すっかりと馴染みの氷の床をソリで滑り、冒険者達は南への道を進んだ。  ――思った通りであった。途中で西に折れた道の突き当たり、その袋小路の南側に、さらに南へ続く獣道が見つかったのである。  だが、鬱蒼とした枯れ枝や常緑の葉の合間を縫い、道を辿った一同は、驚くべき障害に行き当たった。  障害自体は、至極単純なものである。ただ、一般的な状況を考えれば、目の前にあるそれは『やりすぎ』と言えた。  話は少し逸れるが、獣道を利用すれば、次回の探索から、樹海の入り口――つまり樹海磁軸や階段などだ――から再び迷宮の奥へ行くことが容易くなる。しかし、そのような獣道は、先駆者が見つけた痕跡があってもおかしくないのに、簡単には見つからない。何故か。それは、様々な理由が推測される。  ――同じ階でも迷宮の奥の方が魔物が多く出現するので、未熟な者が不用意に危険地域に足を踏み入れないように、見つけた熟練者が隠した。  ――魔物の通行、自然現象、その他人間が介在しない理由で、一度開けた獣道が判りづらくなった。  ――単純に、これまで誰にも見つけられていない道である。  一番考えられるのは、見つけた者が、他の者に使われたくなくて隠した、というところであろう。当然と言える。最も早く最上階に辿り着き、天空の城を見つけた者、その者にこそ名誉と報償が与えられる。他の者を利してどうするのか。  実のところ、『ウルスラグナ』にしても、多少はそのような感情を持っている。未熟者への配慮が七割、後続者への警戒が三割といったところか。  だが、どんな理由にしても、道を隠す手段は、周囲の草木を寄せて見づらく通りづらくする、というのがせいぜいだ。あまりきつく隠すと却って不自然になるし、そこからさらに自然に近づけるとなると余計な手間がかかりすぎる。  まして、寄せた枝葉を退けられないように、目立たないところを縄で結い、さらに自然に見せかけて道を強固に塞ぐ――今目の前にあるような、そんな手の込んだことまではしない。  結び目も固く、解きづらい。そもそも隠れたところで結んであるため、結び目の存在に気が付かない者がどうすることもできないのだが、逆に自分達が獣道を通りたいときでさえ苦労するだろう。刃物で切るにしてもかなりの労苦だ。この仕掛けをした者は、そこまでして他の者を奥に行かせたくなかったようである。  正体はおそらく、『エスバット』だろう。  この獣道さえなければ、『エスバット』が待ちかまえていたという広間を通る以外に、奥へ踏み込むことはできないのだ。しかも、昼には、氷が薄くなって通れない水路が、自然の要害となる。『エスバット』は、日夜樹海に張り付いて、奥へ進む者を見張らなくてもよかったのである――本来ならば。 「それでも無理矢理進むんなら、昼のうちに、何とかして氷が薄い水路を通るしかないわけね」 「自殺行為ですが……それでも、何とかしてしまった方達がいたかもしれませんね」  全員で手分けして縄を切りながら、オルセルタとフィプトはそんなことを言い合った。  だからなのかもしれない。『エスバット』――特にアーテリンデが、『ウルスラグナ』と退治したときに、憔悴した顔をしていたというのは。『氷姫』を守りたかった彼らは、誰も奥に行かれないはずだった昼間に難所を突破した者達に出くわして、まともに眠ることもできない樹海生活に突入してしまったのだろう。  障害を除去して、獣道を抜けると、一同は思わず安堵の吐息を吐き出した。  目の前に磁軸の柱が見える。ぼうっと光るその様は、夜虫を引きつける誘蛾灯の輝きにも似ていた。もちろん、誘蛾灯とは違って危険ではない。ただ、「一度帰りたい」という思いを皆の心の中に等しく沸き立たせた。  結局、鍛錬は大してできなかったが、今日はここまでにしてしまおうか。氷樹海の寒さに加え、今日の晩飯当番であるドゥアトが作っていたシチューの想像が、帰宅願望に拍車を掛ける。  誰ともなく思考を言葉に表そうとした、そんな時だった。  北東の方から、かすかに悲鳴が聞こえてきたのは。  その時に真っ先に行動を起こしたのはフィプトだった。あるいは、第一階層三階で遭遇した衛士虐殺の件が、まだ心の奥底で尾を引いていたのかもしれない。そんな彼の後を、仲間達もすぐさま追いかける。例外はルーナで、彼女も後を追うには追ったが、「とっとと帰っていれば面倒ごと背負わなくて済んだのにねぇ」とひそやかにつぶやいた。  これまで来た道を逆走する。マルメリが気を利かせて獣避けの鈴を鳴らしていたためか、魔物に遭遇することはなかった。  五体の『黒影』がいた広間を出た地点、三叉路まで差し掛かったところで、冒険者達は足を止めた。  磁軸の柱付近の北東から、悲鳴は聞こえた。つまり、現在地からは未踏破の東方面ということになる。ただの未踏破領域ならまだいい。問題は、この先に何が待ちかまえているか、だ。  『エスバット』は第三階層の奥に恐ろしいモノが待ちかまえていると言っていた。その正体云々はさておき、強大な力を持っていることは明らかだ。『ウルスラグナ』を追い越した者達が、数少ない例外を除いて、ことごとく戻らないのだから。そして、その存在とは未だに遭遇していないのだ。  つまりは、これから向かうところに『それ』がいる可能性は極めて高い。  まだ樹海探索に慣れたばかりの者もいる現一行では、『それ』と出くわして生きて帰れる可能性は極めて低い。  今更ながらにそのことを自覚して戸惑う一同の耳に、再び悲鳴が聞こえた。明らかに東から聞こえた、それは女性のものだ。  そう認識した途端に、『ウルスラグナ』は迷いを振り切った。『それ』と出会って生き延びられる可能性は低い。が、悲鳴の原因が『それ』とは限らない。どちらにしても、悲鳴の主を助けるだけならどうにかなるかもしれないのだ。 「行きましょう!」  フィプトの言葉に弾かれ、一行は誰ともなく東へ走り出した。さすがにルーナも、今度は何も言わなかった。  東の道は急激にすぼまり、獣道ほどの狭さではないが隘路となっていた。幸い、その道は抜け出すのに数分とかからない程度に短く、冒険者は視界が急激に広がったのを感じた。  広大な氷池が広がっていた。  実際には十二階の凍湖の半分程度しかない。しかも中央あたりが、東西に渡る岸で分断されているので、さらに小さく見える。それでも広いことには違いない。  湖を分断する岸には氷の塊が乱立しており、距離の関係もあって、他に何があるのかを冒険者達から見ることはできない。  が、その近辺から強烈な殺気が放たれているのを感じた。  悲鳴の主はどうしたのだろうか。争いの音らしいものは聞こえない。悲鳴ほど通る音ではないから聞こえづらいだけなのか、あるいは、すべてが終わってしまったのか。池を分断する岸の北側にソリが停まっていることからすれば、誰かがいる、あるいは『いた』のは確かだろう。  湖畔を走り、湖の北端の岸に回り込む。とにかく、現場であるだろう、氷の塊に囲まれた場所が、どういう状況か確認しなければと思ったのだ。  だが、問題の場所の真正面に回り込んだ時点で、どうにもならない、と、一同は確信した。  現在地に至るまでは心の中に確固としてあった、『生きている者がいたら助ける』という決意の芽は、強烈な殺気に中てられて枯れ果てた。皮肉にもそれは、『ウルスラグナ』が生き延びるために必要なことだった。救助隊を気取って踏み込めば、誰かを助ける前に自分達が果てるだろうから。  それほどまでに、殺気は強かったのだ。現在形だろうが過去形だろうが、殺気の源の近くにいる者は、生きて戻れないだろう。  犠牲者に心の中で何度も詫びながら、一同は背を向けた。今救助すれば助かるだろう者をも、自分達は見捨てるのだ。特にフィプトは、かつての死んだ衛士達の惨状が脳裏にちらつくのか、何度も殺気の源を振り返ろうとしては、意志の力で押しとどめていた。  だが、唯一、背を向けなかった者がいた。 「どうしたん……ですか?」  訝しく思いながら、ヴェネスがその者に声を掛けた。  心ここにあらず、といった様相で佇むその者――巫医ルーナは、ヴェネスにその手を差し出した。掌を上に向けて、何かを要求する動きを見せる。 「単眼鏡……持ってたでしょ」 「え? ……ええ」  一体何をしたいのかと疑問を抱きつつも、ヴェネスは、催眠にでも掛けられたかのように、ゆっくりと単眼鏡を取り出して、ルーナの掌に載せた。  金の髪の少女は、銃士の少年から借りた単眼鏡を右目に当て、南を――氷の塊の間、殺気の源があるはずの方向へ向けた。  立ち去るつもりで殺気に背を向けたはずの仲間達も、巫医の少女の真意を測りかね、戸惑いながらも同じ方向に目を向ける。  視力を倍加させる術を持たぬ者達には、問題の地点の状況を見ることはできない。そのはずだが、ルーナの顔がだんだんと青ざめていく様を目の当たりにして、思った通り、否、それ以上の恐怖が在ることを悟らざるを得なかった。  しかし、それだけではなかった。思いも寄らない謎が、その時、ルーナの言葉を借りて、衣を脱いだのである。  後に考えれば、その謎は、現時点から始まっていたわけではなかった。その出発点は、『ウルスラグナ』の誰も知らないところで、エトリア樹海探索の頃から発生していたのだ。だが現時点では、『ウルスラグナ』達はルーナの言葉の意味することがわからず、困惑した表情を互いに向け合うだけであった。 「……昔の私が、いるわ」  かたかたかた、と、単眼鏡の部品を己の戦慄(おのの)きで打ち鳴らし、巫医の娘は茫洋とつぶやいた。 「あそこには、昔の私がいる。私の昔の罪を、過ちを、私に見せつけてる」 「どういうことなの!?」  ただならぬ様相に、とにかく落ち着かせなくてはならないと判断したオルセルタが、ルーナの正面に回り込んで、単眼鏡を取り上げた。  しかし、ルーナの視線は、オルセルタの向こうにあるものを凝視したままだった。 「笑いながら人間を殺してきた私の罪を、樹海が突き付けてきた……助けて、お願い助けてファリーツェ! いえ、助けてくれるわけないわよね……でもお願い、助けて、ファリーツェ!」  巫医の少女は、直視を拒むように己の手で顔を覆い、その場にへたり込む。  慌てて支えようとするオルセルタも、どうしたらいいのか判らずに棒立ちになる他の者達も、突然耳にしたひとつの名に、意識の半分を攫われた。  それは、エトリアでのライバルギルドの聖騎士の、パラスのはとこの、ドゥアトの親族の、ひとりの少年騎士の名前。  なぜその名がここで出るのか、理由は分からないが、少なくともルーナにとって縋るに値する者であるのは確かだった。  が、今はその名にこだわっている場合ではない。ルーナ除く『ウルスラグナ』は、意識のすべてを現実に引き戻して、今後の対策を即座に立てた。  簡単なことだ。今すぐ帰還する。  充満する殺意の中心に突撃するわけにもいかないのは当然だし、今の状態では軽い鍛錬すらも死出の旅路になりかねない。知人の名を呼びながら泣き叫び助けを乞うルーナを、不意の危機から守るように囲みながら、冒険者達は帰還の準備を始めた。といっても、準備自体は一人でできる。アリアドネの糸の起動を担当したのはマルメリである。  フィプトはオルセルタから単眼鏡を受け取って、殺気の源を見ている。少なくともどういう姿の者なのか把握した方が、多少は戦略も立てやすいだろう、との判断からである。先のルーナのように、顔は青ざめ、震えで単眼鏡や錬金小手をかたかたと鳴らしていたが、膝が折れることはなかった。  オルセルタは、ルーナをなだめながら、ヴェネスに声を掛ける。 「えーと、状況、把握できないわよね。まあ、私も上手く説明できないんだけど。ファリーツェっていうのはね」 「知ってます」硬い表情で、ヴェネスは応じた。 「え? 知ってる……って?」  オルセルタはさらに戸惑うしかなかった。そんな彼女に言い含めるように、ヴェネスは硬い声で続ける。 「ボクのかつての雇い主で……よくしてくれた人です。……ボクが死なせてしまった人です」 「って、ちょっと、どういうことなのよう?」  糸の起動を終えたマルメリが割り込んだ。ヴェネスは悲しげな笑みを浮かべると、静かに制した。 「今は話してる場合じゃない。帰ったら、お話しします」 「やめて」即座にオルセルタは答えた。 「話してほしいけど、不用意には話さないで。聞きたいときには、そう言うから」  ヴェネスとて状況を選ばずに話すような少年ではないだろう。頭ではそう理解していても、オルセルタは敢えて釘を刺さずにはいられなかった。もしも今の話をパラスが聞いたら、どうなる? ひょっとしたら、ドゥアトもどうにかなってしまうかもしれない。そう考えると、カースメーカー達のいる場所で不用意に話をさせるわけにはいかなかった。少なくとも、兄の判断を仰がないと――!  単眼鏡での観察を切り上げ、青い顔をそのままにフィプトが戻ってきたところで、足下すらおぼつかなくなったルーナを支えつつ、一同は糸が生んだ磁軸の歪みに踏み込んだ。  フィプトが見たものについても早く聞きたいところだったが、それも、落ち着かない場所でできる話ではないだろう。安心できる場所――つまりは私塾に戻らなければ、何も進まないのだ。  尻尾を巻いて逃げたという屈辱と――それは自己生存のためには必要なものだが、悔しいことには変わりない――、沸き上がり続ける疑問とを、心の裡に抱えながら、鍛錬班一同はどうにか私塾に帰り着いた。  ただならぬ様相を察知してか、何者かが足早に玄関に姿を現す。こんな時にいち早く出てくるのはドゥアトだろうか、と思いきや、正体は戸惑うセンノルレだった。ドゥアトは家事の続きで手が離せないようである。 「ドゥアトさんが、何か様子が変だから見てきてほしい、と仰ったものですから……」  だが、青ざめたフィプトや、もはや声を上げる余裕もなく泣き続けるルーナを見て、表情を険しくした。いかに錬金術に傾倒した彼女の優秀な頭脳でも、彼らの心を傷つけたものをどう解決するかは、浮かばなかったようだった。その口をついて出たのは次善の策であった。 「とにかく、全員、風呂に入りなさい。暖まれば少しは落ち着くでしょう」  冒険者達は普段はフロースの宿の風呂を借りるため、私塾備え付けの風呂の出番はあまりない。そして風呂ほどの湯が短時間で沸くはずもない以上、鍛錬班はかなり待たされることを覚悟した。しかし、センノルレの頭がよく回ったおかげで、簡単な湯浴みは早めにできそうだった。水汲み桶二つ分の湯がとりあえず用意されたのである。 「これで身体を拭けば、少しは落ち着くと思うよ」  タオルで身をくるみつつ待つこと二十分ほど、ティレンと共に湯の入った桶を下げてきたパラスが、心ここにあらずといった様子で俯くルーナを見つつ、心配げに口を開いた。 「お風呂で身体拭こうよ。ルーナちゃんは私がやったげる」  かつてのギルド『花月(フロレアル)』の二人が『ウルスラグナ』に加わって以来、パラスはルーナによく構っていた。ヴェネスにも、そして以前同様にティレンにも構っていたところを見ると、自分より年下ということで保護欲をかき立てられていたのかもしれない。つまりは「弟や妹みたい」と思っていたということに尽きる。今回、ルーナの面倒を申し出たのは、そんな心理が働いてのことだろう。 「おれも、ふたりのめんどう、みる?」  木訥な口調でティレンが男性陣に申し出たが、こちらは自分の面倒を見る程度の精神的余裕が残っていたらしい。フィプトは「大丈夫、大丈夫です」と固辞しつつ、湯の入った桶を受け取った。  鍛錬班一同に一人を加えた一団が風呂場に消えたのを見送って、ティレンは湯沸かし場に走った。先に行って風呂を沸かす準備をしているエルナクハを手伝う気なのである。  一方、厨房で翌朝の下ごしらえをしていたドゥアトは、センノルレの「湯を持っていってもらった」という報告を受けて、安堵の溜息を吐きつつ、まだ消していないかまどの火の上に、晩飯のシチューの残りの入った鍋を載せた。 「どうしちゃったのかしらね、みんな。『エスバット』の言っていた『恐ろしいモノ』に出くわしたのかしら」 「……かも、しれません」  錬金術師と呪術師は、重さを孕んだ言葉を交わし合う。もしそうだとしたら、鍛錬班達はよく生きて戻ってこられたものだ。不用意に敵の至近距離に近づいたとは思えないが、広範囲を移動する(かもしれない)『それ』と偶発的に出会ってしまった可能性もある。帰ってきた鍛錬班の様子は、問題の敵を遠くから確認するだけで戻ってきた、とは考えられなかった。何かがあったのだ。比較的落ち着いて見えたオルセルタ、マルメリ、ヴェネスの様子も、決して平静ではなかったのだ。 「おはようございましたえー」  そんなところに、時制の怪しい挨拶と共にやって来たのは、焔華であった。この日の昼頃に、件の麻薬の副作用が発現して、対抗薬を飲んだあとに伏せっていたのである。センノルレから水の入った木のコップを渡され、さもうまそうに飲み干すと、ブシドーの少女は満足げに息を吐いた。 「鍛錬班の皆、戻ってきたんですし?」 「ええ」くつくつと煮えていい匂いを振りまくシチューをかき混ぜ、煮詰まりすぎたのを伸ばすために牛乳を投入しながら、ドゥアトは答えた。 「あんまりいい雰囲気じゃありませんえ」 「あら、焔華ちゃんもそう思う?」  どうやらブシドーの娘もカースメーカーの女と等しく、鍛錬班が私塾に持ち込んできた雰囲気に気が付いたようだった。 「予想ですが、例の『恐ろしいモノ』に出くわしたのかもしれません。……全員、無事ではありましたが」 「……そりゃ、難儀ですえ」  眉根をひそめながら、焔華は肩をすくめた。  現時点で『恐ろしいモノ』を倒せるだけの力量を育んでいるのは、『エスバット』と対峙したメンバーであることは間違いないだろう。他の者には多分、荷が重い。  早くこの厄介な障碍(しょうがい)を、せめて戦闘中に発作が出ない程度にまでは抑えないと。改めて焔華はそう思うのだった。思うだけでどうにかなるものではないが。  気を取り直し、ブシドーの娘は話題を変えた。 「そういやぁ、パラスどのはどうしましたのん? 花札の相手しとってくれてたんですけど、『おかあさん手伝ってくる』って下降りてったはずで……」 「あら、そういえば戻ってこないわね……」  パラスと、たまたま牛乳を求めて厨房に顔を出していたティレンに、ひとまず湧いた湯を入れた桶を持っていってもらったのだが……。 「ひょっとして……」  ドゥアトは娘がやりそうな行動を次々に脳裏に浮かべ、あるひとつに至ったその時、顔色を変えた。 「まずいわ……! パラスが『あれ』を見ちゃったら……!」  まさに、その時。  風呂場から、カースメーカーの少女の悲鳴が聞こえてきたのだった。  厨房にいた三人が風呂場の入り口に駆けつけたとき、既にその場には、ゼグタントを含めた男性陣七人全員が、困惑の表情を浮かべた雁首を並べていた。悲鳴の出所が女風呂なので、覗いていいのかどうか躊躇っているようである。明らかに生命の危険に関わることだったら、有無を言わさず押し入るのだろうが、中から聞こえる声はそういうものではなく、どうも女性陣同士の言い争いの体を成している。ドゥアトは軽く溜息を吐くと、男性陣の疑問と懇願のまなざしを浴びながら、女風呂の中に踏み込んだ。後からセンノルレと焔華が続く。  風呂場――正確に言えば脱衣場にいた者達の、一人を除いて三人が、風呂に踏み込んできた三人に気が付き、顔を向けてきた。  顔を向けなかったのは、進入者達から見て右手にいるルーナだった。脱衣室の床に座り込み、ぐったりとうなだれている。脱いでいる、否、脱がされている途中だったのか、上半身は肌が露わになっていた。その肌には、よく見なければ見分けられない程度に肌の色に似た、若干明るめの染料で、巫医達には意味があるのであろう、曲線で構成された紋様が描かれている。手の甲や肘には目に似た形が見うけられた。  一方、顔を向けてきた三人は、まだ服を着ていて、ルーナと向かい合う位置に立っている。中の一人、パラスは、両手をオルセルタに、腰をマルメリに押さえつけられていたが、母に気が付くと、憤懣やるかたなしといった風情で声を張り上げた。 「お母さん! 何なの!? コイツ、何なのよ!?」  新入りの巫医を妹のようにかわいがっていた娘が、今はその相手を不倶戴天の敵のように糾弾する。その足が一歩、ルーナに近づいたところを、マルメリが引き止め、その片手が振り上げられたところを、抑えを振り切られたオルセルタが再び押さえようと自分の腕を伸ばす。 「落ち着いてよぉ、パラスちゃん」 「一体どうしたのよ!?」  幸い、パラスは相手を叩こうとして手を挙げたわけではないようだった。掌は平手でも拳でもなく、相手を示す形でルーナに突き付けられたのである。 「あり得ないのよ! コイツの左肩……なんでこの刺青が、コイツの肩にあるの!?」  何を言ってるのか。当事者達以外は、そんな表情をしている。  だがドゥアトは、やはり、とやり切れない思いに囚われた。彼女は『知っていた』のだ。それも、『花月』を名乗る者達がハイ・ラガードに姿を現す、ずっと前から。ルーナが、ある一人以外が持ち得るはずがない紋様の刺青を、左肩に持っていることを。そして、他の者はまだしも、パラスがそれを見てしまったら、必ずや疑問を抱くであろうことを。どうやら最悪の機(タイミング)で秘密は明らかにされてしまったようだった。 「ねぇお母さん、お母さんなら判るでしょ!? これ、どういうことなのよ! ねえ、答えて!」  パラスはドゥアトがすべてを知っていると心底思っているわけではないだろうが、やり場のない怒りをぶつける勢いで母に突っかかる。  ドゥアトは軽く目を閉ざし、かすかに溜息を吐いた。  一呼吸の間の後、くわっと開かれた眼の奥には、普段は魔を払う南天(ナンディーナ)の輝きを秘めた瞳が、冥府の底に生える柘榴の果肉の鈍い艶を放ち、収まっている。 「黙りなさい、パラス」  怒鳴ったわけではない、むしろ静かな口調と、冥府の果実の光を前に、パラスは押し黙った。他の三人、ルーナまでもが顔を上げ、吸い込まれたかのように視線をカースメーカーの女に向けてくる。  ちょっと呪掛けすぎたかしら、と内心で苦笑しつつ、ドゥアトは三人と、自分と共に来た二人を、促した。 「オルタちゃん、マールちゃん、それにパラス、応接室に行ってなさい。ノルちゃん、焔華ちゃん、二階に行く前にお台所の火を消してきてくれないかしら? それと、ねぇ誰か、応接室の暖炉に火を入れてくれない?」  後半は外で様子を窺っている男性陣に向けたものである。暗に、全員応接室に行っていろ、という意を込めたその言葉を、皆は正確に読み取ってくれたらしい。おとなしく風呂場を出た女性達の分も含め、あっという間に仲間達の気配が遠くなる。  再び目を閉ざし、一呼吸の後、いつもの自分を取り戻したドゥアトは、うなだれたままのルーナの前に立ち、ゆっくりと腰を落とした。目線を巫医の少女とほぼ同じ高さに保ち、優しく声を出す。 「……バレちゃったのね」  ルーナはゆっくりと顔を上げた。涙を溜めた空の色の瞳が、ドゥアトの存在を認識する。その金色の髪と相まって、ドゥアトは巫医の娘の顔立ちに、懐かしい者の面影を見た。 「私……私は……」  『ウルスラグナ』の前で普段見せていた小生意気な態度とは裏腹な涙声で、何があったのかが語られるのを、ドゥアトは黙ったまま頷きつつ最後まで聞いていた。  結果、現状のような事態に陥った原因が、樹海探索時の出来事にあることを、ようやくドゥアトは知ることができたが、それは解決の糸口にはならず、むしろ、さらに頭を抱えたくなるような出来事を引き起こしていたと知る羽目になったのである。  パラスは刺青の謎を仲間達に明かし、仲間達は、ルーナのことを疑念の目で見るだろう。そうなったら、探索にも悪しき影響を与えてしまう。  下手な隠し事はしないに限る――そう判っていながら、問題の件を、ルーナと共に隠し通すと決めたのは、事実があまりにも信じがたいことだったので、明かす方がよくない影響を引き起こすと考えたからだった。しかし、それも潮時だろう。 「話すしか、ないわね」  ドゥアトは腹をくくった。その言葉を聞いたルーナも、こくりと同調したのであった。  ドゥアトとルーナを除いた全員が揃う応接室内には、なんとも表現しがたい、ぴりぴりした雰囲気が満ちていた。  ルーナやヴェネスの分の家具を借りたときに、ついでに応接室の卓と、それを囲むように置かれていたソファも、大きめのものに換えて、全員が座っても余裕があるようになっていたはずだ。だが、精神的には、以前のものより狭いところに座らされ、ぎゅうぎゅう詰めにされているように感じる。  エルナクハは軽く息を吐いて、凝視しないように注意しながら、オルセルタがパラスの隣に座り、なだめようとしているの観察した。オルセルタの方は小声だったので、何を話しているのか詳しくは判らないが、パラスの憤慨が的はずれであるということを、当たり障りがないように説明しようと、苦慮しているようだった。残念ながらパラスの方は聞く耳を持たず、「オルタちゃんに判るわけない」と拒絶していた。  アト母ちゃんが来るまで黙ってようぜ、と妹に忠告しようとした兄だったが、オルセルタの言葉の中に、親しかった人物の名を聞き取って、眉根をひそめた。それまでに考えていたことはすっかり吹き飛び、エルナクハは思わず大声を上げてしまうこととなる。 「……なんで今、ファリーツェの名が出るんだよ?」  思えば、やはり心のどこかで、彼の死が後を引いていたのかもしれない。それは、フィプトを除く他の仲間達にとっても同じようだった。意外にも、ゼグタントも目を見開いて、「パラディンの坊ちゃんがどうしたよ」とつぶやいていた。単なる取引相手のひとりに対する態度とは思えなかったが、よくよく考えれば、ライバルギルド『エリクシール』は彼にとって有力な取引相手、そういう縁もあるのだろうな、とエルナクハは思い直した。  一方、オルセルタは、ひそひそ話していたことを聞かれてしまっていたということで、頭を抱えていたが、結局は知られること、と腹をくくってか、思い切って口を開いた。 「あのね、ルーナちゃんと、あとヴェネ君は、ファリーツェ君と知り合いだったみたいなのよ。パラスちゃんがこうなるかもって思ってたから、みんなには黙ってよう、って、樹海に行ったみんなと決めてたんだけれど」  エルナクハは肩すかしを食らったような気がした。彼らが知り合いだったというのには確かに驚かされたが、もともとルーナはエトリアにいたという、その縁があったかもしれないことは想像に難くない。ヴェネスについては本当に初耳だったが、『ウルスラグナ』の知らないどこかで、かのパラディンと知己を得ていても、何らおかしい話ではない。  敢えて低劣な言い返しをするなら、「それがどうした」というところである。  しかし、パラスは、エルナクハの態度からそんな気持ちを読み取ったのか、感情的に返すばかりだった。 「判るわけないよ、『ナギの一族(ナギ・クース)』じゃない人には何もわかんないよ!」  鍛錬班が今回の件を黙っていたくなった気持ちが、よく判った気がした。  事実とは異なるだろうが、女同士の痴話喧嘩のように感じてくる。パラスは自分のはとこのことが女として好きだったのだが、彼と深い関係にあったらしい女が現れたので――というやつだ。刺青云々というのが、男への愛の言葉を彫り込んだものだとしたら、まさに『的確(ドンピシャ)』な状況ではないだろうか。  案の定、そんなわけないだろ、という警告(ツッコミ)が、脳内のどこかから湧き出した気がした。これ以上、事実と異なる方向への思考を続けるのもどうかと思ったので、取りやめて、ドゥアト達がやってくるのを待つことにした。 「あと、ヴェネ君は――」  深刻な顔でオルセルタが言いかけたのと、ヴェネスが何かを言いたげに自分の方を見たのを、エルナクハは軽く手を挙げて制した。これ以上『部外者』が考えても珍妙な推測になるばかり、きっとドゥアトがきちんと説明してくれるだろう、と確信に近い何かがあったのである。オルセルタやヴェネスも、きちんと話がまとまるときに話した方がいい、と判断したのか、押し黙って、精神的な苦痛を伴う雰囲気におとなしく身を任せた。  ドゥアトとルーナが応接室にやって来たのは、それから十分ほどが過ぎた頃合いだった。  既に集まっていた者達もそうだが、ルーナも平服に着替えていた。否、着替えさせられたのかもしれない。先程よりは持ち直したようだが、それでも足取りはおぼつかず、彼女の精神的な衰弱の度合いを明確に表していた。  仲間達が奇妙に思ったのは、ドゥアトが、布をかぶせた大きな篭を肩から袈裟懸けに吊していたことであった。  二人は、入り口側の辺に当たるソファが、ナジク一人だけが座っているだけで大きく開いていたため、そこに席を占めた。ドゥアトは座る前に篭を下ろし、ソファに囲まれた卓上に置く。布を外されたそれの中には、バケットやジャムやバター、瓶入りのジュースやワイン、食器などが収められていた。 「ふう、重かったー。……長い話になると思うから、必要かなって思ってね」  手早く中身を卓上に並べ、食器類を各自の前に置きながら、ドゥアトはどことなくおどけた様子でそう口にした。彼女としては雰囲気を和らげたかったのかもしれないが、そう上手くはいかなかった。ほとんどの者は、卓を凝視して動かなかったからである。特にパラスの態度は、顕著だった。 「お母さん」 「……はいはい、わかってるわ」  娘のただならぬ様相に、母は溜息を吐きながら、リンゴのラベルが貼ってある瓶を取り上げ、中身を自分の杯に注ぎ入れる。その目の前に、エルナクハは、思い切って、自分に割り当てられた杯を差し出した。 「母ちゃん、オレにも注いでくれねぇかな?」 「はいはい、お安い御用よ」  心細さを感じる蝋燭の火を照り返して、黄金の液体が、とくとく、と杯に移る。  エルナクハの行動が皆の呪縛を解いたのだろうか、それを契機として、いくつもの杯がおずおずと差し出された。同時に、雰囲気が少しだけ和らぐ。ドゥアトは苦笑しながらも飲み物を注いで回ったが――それでもパラスが杯を差し出すことは、終ぞ、なかった。恨めしげに母を睨み付けるだけである。 「……じゃあ、話を始めましょうか」  ドゥアトは杯の中身を一口含み、喉を潤すと、静かに声を滑り出させた。  軽やかに立ち上がる様は、怨と呪をまとう呪術師には到底見えず――それどころか、中年の域に達しているとすら思えなかった。年頃の奔放な娘が、結ばれてもいいと思った若者の前で己の肉体をひけらかすかのように、彼女は服を一枚、また一枚、と剥ぎ取っていく。その裸体は、適度な膨らみと適度なくぼみで構成された、とても一児の母とは思えない均整を保っていた。  だが、すべての服が捨て去られたその段になって、ドゥアトの行為を固唾を呑んで見つめていた一同は、改めて彼女がカースメーカーであることを思い知るのであった。  服を脱いだ彼女は、『一糸まとわぬ』とは言えなかった。その身体を、まだ包むものがあったからだ。  『忌帯』と呼ばれる、カースメーカーがその力を使う際に、下着のようにまとう、暗い色の帯である。色はともかく、荒く巻いた包帯のようなそれは、ドゥアトの肉体のきわどいところを隠したまま、彼女の首から上を除いた全身に巻き付いていた。  それだけではなかった。忌帯の合間から見える肌には、びっしりと、主に朱色で構成された刺青が施されていたのだった。  ドゥアトがくるりと回る様は、華やかな被服展示会(ファッションショー)でもやっているかに思えたが、展示対象である刺青は、禍々しく光を照り返し、皮膚の上で蠢(うごめ)いていた。 「ご覧なさい。これが、カースメーカーの刺青。一族ごとに、それぞれ独特の紋様があるわ。刺青入れてない一族もいるけどね。どんな役を果たしてるかは――ここでは省略、ね」  確かに、カースメーカーの力については、主題とは関係ないだろう。一同は釣られて頷いた。  皆が話に耳を傾けていることに満足するように、ドゥアトは頷き、話を続ける。 「うちの一族は――他にも同じような事してるところがあるかもしれないけど――、個々人で違う刺青を入れるの。力あるものの誕生日、誕生時刻、父母、血の属性、その他いろいろな属性から、入れる紋様が違ってくるのよ」 「ちのぞくせい、ってなに?」とティレンが話の腰を折る。  しかし、ドゥアトは機嫌を損ねることなく、明快に答えを返した。 「血にいろいろな薬を混ぜると、それぞれいろいろな反応をするの。それで属性を知るのよ」 「そうか、血液型か!」  アベイが、ぽんと手を叩いて得心するものの、周囲は訝しげに首をかしげるばかりである。 「けつえきがた、って何だよ、ユースケ?」 「そりゃ、そのまま血液の型(タイプ)で、ABO式とか――ああっ、今の世界じゃ調べようがないのか!」  どうやら、見た目同じに見える血というものが、幾つかの属性に分かれるというのは、前時代では常識だったらしい。頭を抱えたアベイを見て、仲間達はそう判断した。それとドゥアトの言う『血の属性』が同じものかは、わからないが。 「はいはい、話を戻すわよ」  ドゥアトの言葉に、一同は再び襟を正して傾聴した。 「というわけでね、紋様が全く同じになる者は、二人といないわ」 「アト母ちゃん、双子とかどうなるんだよ」今度はエルナクハが話の腰を折った。 「ちょっと、双子が同時に生まれるって思ってるの? 母さんを殺す気?」  ドゥアトは冗談めかした口調で答える。 「いくらなんでも、二人同時に出てくることなんてないからね、生まれた時間っていうズレが出るわよ。つまり――」  口調が戻った。  否、これまでよりも低く、真剣味が増している。一同は、今こそが話の核心であると、無意識に悟った。 「同じ紋様を持っている者は、いたとしても、天文学的な確率。うちの一族、そんなにたくさんいるわけじゃないから、絶対いない、って言っていいわ」  カースメーカーの女の言葉が暗に示している事実を、一同は取り違えた。それ以外の理由は、常識的にあり得なかったからだった。代表するかのようにアベイが口を開いた。 「つまりは……ルーナちゃんが、そんな大事な刺青をそっくり真似して自分の身体に入れてた、ってのが、気にくわないんだろ?」  パラスが怒り狂う理由にも一応の説明が付く。仮に本当に『女同士の痴話喧嘩』だったら、男が持っているはずの刺青を真似されて入れられたという事実は気にくわないだろう。  それ以上に、自分達の一族が意味あるものとして入れている刺青を、部外者が真似したというのは、怒りを抱くに当然のことかもしれない。だが、変だ。仮にそうだとしたら、一族の年長者であるドゥアトの方が怒りを抱いていなければおかしい。抑えて秘めているということがあるかもしれないが、そんな様子も感じられない。どういうことなのだろうか。  ドゥアトは静かに首を振り、皆の思い違いを否定したのである。 「そうじゃないの。この子が持っている刺青はね、この子が生まれたときから持っていたものよ」 「それおかしいよ、お母さん!」  ついにパラスが怒声を上げた。ソファを蹴り倒すかの勢いで立ち上がった彼女は、罪人を糾弾する検察官のように激しく、ルーナに指を突き付けた。指先から針なり閃光なりが飛び出して、物理的な殺傷力すら持ちそうに、皆には感じられた。 「生まれたばかりの子が、痣ならともかく、刺青なんか持ってるわけないじゃない! 『生まれてすぐに刺青を入れた』っていうのも、ありえないよ!」 「……こういうことじゃありませんか?」  あくまでも冷静に声を上げたのは、センノルレである。 「あの方とルーナは双子の兄妹である……と」 「ノル、双子でも生まれるときには時間差があるってよ――」 「帝王切開――ではありませんでしたか?」  それは合点がいく説明だったかもしれない。母の腹を割く出産方法であれば、呪術師一族の刺青の決定方法に影響が出ない程度の時間差で双子が取り上げられることも、ないわけではなかろう。そして、天文学的な確率を無視した存在となった彼らを、呪術師達なりの魔除けとして、引き離して育てることにした、ということも、ないわけではないのだ。  しかし、ドゥアトはそんな仮説をすら否定した。 「残念、ファリーツェちゃんは一人っ子よ。あと、訂正するわ。ルーナちゃんは、刺青を『生まれたときから持っていた』ってより、『刺青を持って生まれてきた』のよ。ついさっきパラスが『ありえない』って言ったとおり、あたし達『ナギの一族』が刺青を入れるのは、五歳の誕生日からなの」 「……わけがわからん」  ナジクのぼやきは、等しく、ドゥアトとルーナを除いた全員の内心であった。そして、遠回しに攻めるのはやめて、いい加減に事実を話してほしい、と感じたことも同様である――が。 「……そうね、そろそろ、正解を言いましょうか」  そう告げたドゥアトの表情に苦渋の色があるのを見て取って、分かった気がした。カースメーカーの女は事実を知っている。真実も知っている。しかし、それらは彼女をしても信じがたいものなのではないか。何も知らない皆に遠回しに情報を与えていたように見えて、それは、彼女がすべてを話すべく、自らの心境を落ち着かせるためにこそ、必要な行為だったのではないか、と。  だが、続けて口を開こうとしたドゥアトを、ルーナが制した。 「……ドゥアト、これくらいは、私が自分で言うわ」 「でも」 「これぐらい自分で言わなくちゃ、私はただの卑怯者だわ」  呪術師の女と巫医の少女、両者の間に緊張が走る。しかし、すぐに折れたのはドゥアトの方だった。 「……そう」  呪術師の女の表情には憐憫の様が現れていた。  ルーナはそんな相手に二言三言、他の者には聞き取れない小声で何かを告げると――後にマルメリが語ったところによると、唇の動きからすればたぶん『ごめんなさい』だろうとのことであった――、改めて皆に向き直った。その青いはずの瞳が紅に見えたのは、明かりの具合による錯覚だったのか、彼女の本性が瞳に現れたのか、正解を断定することは、誰にも、おそらく本人でさえも、できなかった。 「私は――」  巫医の少女は告げる。  一同は固唾を呑んで彼女の言葉を待った。仮に彼女の正体が何者であっても、そう簡単に驚くつもりはなかった。だが、そんな考えは、どうあがいても人間の常識を越えられるものではなかったのだ、と、皆はすぐに思い知ることとなる。 「私の本当の名前は、アルルーナ」  その答を聞いてすぐには驚かなかったのは、単に、その意味を掴むのに時間がかかったからだった。 「かつてエトリア樹海第二階層で、数多の冒険者達を毒牙に掛けた、樹海の華王。モリビトの変異種。追放者。長きに渡る暴虐の末、あなた達のライバル『エリクシール』に退治された、恐るべき『敵対者』……」  かつてエトリアで活動していたとき、樹海の奥底に前時代の遺跡『遺都シンジュク』が発見されて間もない頃のことだ。  ライバルギルド『エリクシール』が、とある依頼を受けた。樹海の中から助けを呼ぶ少女の声が聞こえる、という話だった。救出に向かった『エリクシール』だったが、結局のところ、それはアルルーナという魔物の罠だったのだ。助けを呼ぶ声で人を招き、生命果てるまで弄ぶ、そんな残酷な魔物だったと聞く。  少なくとも『ウルスラグナ』が知っているのはそこまでだ。アルルーナを打倒したのは『エリクシール』であり、他の者は執政院の魔物図鑑に残る記録しか知らない。彼女もまた、世界樹よりその身に『芽』を授けられていたかもしれないが、しばらく後に確認しに行った『エリクシール』により、復活の気配はない、と報告された。  が、現に、アルルーナを名乗る少女は、ここにいる。様々な事情をすべて無視して簡単に言うなら、『復活した』のだ。どうやって? 『芽』を持っていたのだとしたら、何故、『エリクシール』が確認した時に復活していなかったのか? それ以前にも疑問がある。アルルーナは――図鑑の記述を信用するなら――下半身が蔓の集積体のようになっているはずだし、それが何かの間違いだとしても、さらなる疑問がある。 「赤い瞳と緑の肌、例外がいるとしても大体は緑の髪――変異種といってもモリビトなら、そんな特徴があるはずだが」  ナジクが指摘したとおり、モリビトには確固とした特徴がある。赤い瞳と緑の髪なら人間にも持つ者がいるが、緑を帯びた肌は決定的だ。魔物図鑑のアルルーナにもそんな特徴が記されていた。が、ルーナにはどれもない。彼女が持つのは、多くの人間が持つのと同じ象牙色の肌と、冬空を映したような碧眼、そして、山吹色に輝く金の髪――。  そこまで考えた途端、正体不明の強い警告を感じた者も、多かった。少なくともエルナクハはその一人だった。無意識下で辿り着いた、ルーナの正体に隠された真実。常識を捨て去れば、モリビトのはずのアルルーナの特徴の齟齬も、先程まで話題に上っていた刺青の謎も、『そうなった仕組み』までは理解できずとも、『そうなった理由』には説明が付く。けれど、それより先を聞いてはいけない。いや、自分が聞くのはまだしも、パラスに聞かせてはいけない。  そんな強い警告も、真実を知りたい、という欲求の前には無力だった。無意識下でもやもやと渦巻く形なき仮定に、確定という名の姿を与えるべく、エルナクハは目線でルーナの話を促した。  ルーナは大きく深呼吸をすると、口を開いた。それまでより乗り出し気味になった身体を支える右腕と、胸の前で握られた左手、双方がかたかたと震えているのは、彼女にとっても重大な話だからだろう。 「私は、復活したの。二度と目覚めるつもりはなかった、深い眠りから」  続く言葉の衝撃に備え、唾を飲んだのは、誰だっただろうか。 「その時の私には『核』しかなかったから、私の『敵対者』としての本能は、すぐ傍に偶然あったモノから肉体を作ったわ――あなた達がファリーツェって呼んでいた、金髪碧眼の聖騎士の死体から」  いえ――と、ルーナは小さく首を振って言い直した。 「偶然じゃないわ。私は、ファリーツェ(あのひと)が死んだから、目覚めてしまったのよ」  誰も何も口を挟めなかったのは、常識ではとてもあり得ない事象に対する衝撃と、やはり、という確信に似た思いからだった。  後にエルナクハが皆に聞いたところ、全員が、ルーナとの初対面の時に、かの金髪碧眼の少年騎士のことを思い出したという。巫医の少女は、あまりに少年騎士に似ていた。髪や瞳の色の問題だけではない、まとう雰囲気が似すぎていた。  それが、かの者の肉体を己のものにしたというなら、一応の説明は付く。唯一無二であるはずの刺青を『生まれたときから』持っていた、という、含みのある言葉ですら。だが、それでも疑問は残る。一同を代表してその疑問を口にしたのはナジクであった。 「つまりは、他者の肉体から自らの肉体を再構成した、というわけか。その割には粗末だな。何故、本来のお前に戻らなかった? 『アルルーナ』である印を消して、人間に紛れて、何かを企んでいたわけか?」  ナジクの声には隠そうともしない棘が生えている。『ウルスラグナ』に害を為すために近づいたのなら容赦はしない、という意思の表れだろう。  しかし、アルルーナと名乗った少女は頭(かぶり)を振った。 「まさか。あなた達に何かしようなんて、そんな興味はなかった。この姿になったのはミスよ。いえ、私の心が影響したのかもしれないわね。私は妖華には戻れず、モリビトにすらなれず、見た目自体は辛うじて私だけど、髪や目の色も、肌の色も、あの人のもののままになってしまった――女の身体になれたのは幸いかしらね」  くすくすと笑うと、自嘲気味にルーナは溜息一つ。 「今の私には妖華の力はほとんどない。強いて上げるなら――植物が何を考えているのか、すこし判って、ちょっと上手く早く育てられるくらい。巫医の力は、適性はあったのかもしれないけど、そこそこの才能がある人間なら頑張れば習得できる程度だわ」 「そんなこと、信じられるわけないじゃない!」  ようやく、パラスが震える声を上げた。その声音には、狼狽と、それを上回る怒りが込められている。ルーナはそれをいなすかのように、くすくすと笑った。 「証明できるわよ。例えば、ほら、そこのアウラツム、今日、水取り替えてもらえなかったって不満そうよ」 「あ、おれの当番忘れてた。ごめん」  ティレンが恐縮して頭を下げる。 「そっちじゃない!」  当然ながら、パラスはますます憤怒を露わにした。 「なあ、結局のところ、何があってそうなったのか、話しちゃくれないかね?」  話の先を促したのは、意外なことに、ゼグタントである。採集専門レンジャーは眉根にしわを寄せながらも、声音は冷静さを保ちつつ、ひとつの提案を俎(そ)上に載せた。 「事実だけ放り出しといちゃ、カースメーカーの嬢ちゃんもワケ判んないで怒るしかないンじゃないかな。オレとしても、エトリアで世話ンなったお得意様に何があったのか、気になるところさ。どうだい、話す気はないか? エトリア樹海の魔物だったっていうマグスの嬢ちゃんが、何の目的でこのハイ・ラガードに来たのかってのもさ」 「長い話になる、って言ったでしょ」  ルーナではなく、ドゥアトが、目元に憂いを浮かべて答えた。 「エトリアで何があったのか、説明しなくちゃ、納得してもらえないって思ってたもの」  彼女としては、最初からそのつもりだったらしい。 「できれば、最後まで――目的を果たし終えるまで、隠し通せればよかったのだけど」  ルーナは軽く息を吐くと、腹をくくったかのように頷いた。こちらは、気乗りはしないまでも、説明の必要性は理解しているようであった。 「私の記憶の中には、完全じゃないけど、あの人の記憶も残ってる。ドゥアトの話と合わせれば、あの時のことを大体は話せると思う」 「そうね」  頷いたドゥアトは、『ウルスラグナ』のほとんどの者にとっては意外な方面に、話を振ったのだった。 「ヴェネスちゃん、アナタも話をしてくれるかしら。あたしは『現場』を知らないから」  ヴェネスがかの聖騎士と知り合いだったのは、既知のことだったが、さらに『問題』にも関わっていたことを、この時、ほとんどの者は始めて知ったのである。当事者以外で、漠然とながら知っていたのは、オルセルタとマルメリくらいのものだった。彼女達の前で、ヴェネスは少年騎士を『死なせてしまった』と語っていたのだから。  パラスがはっとした表情でヴェネスに視線を向けるのを見て、オルセルタは、樹海で聞いた話を話していなくてよかった、と心底ほっとした。とはいえそれも時間の問題だろう。ヴェネスが話すのであれば、必ず、その問題に触れるだろうから。 「……はい、わかりました」  鍛錬中の出来事を反芻しながらはらはらする二人の前で、ヴェネスは静かに頷いた。  そして、エトリアでの出来事を体験した三人による話が始まった。  『ウルスラグナ』がハイ・ラガードに向けて出立した後の話から始まるのかと思いきや、意外にも、それより前から始まるようだった。  一同は、心の裡にそれぞれの感情を秘めつつも、話に耳を傾けたのである。 第三階層――もう人間じゃない(前) END