世界樹の迷宮:Verethraghna ハイ・ラガード編;第二階層――見よ、かの魔人を! 「まさか、お前達の顔を再びここで見るとは、思わなかった」  ハイ・ラガード冒険者ギルド統轄本部のギルド長は、おそらくは、その言葉通りの驚愕を、兜の下に浮かべていたことだろう。  ギルド長に相対するのは、二人組の冒険者であった。  黒い髪を長く伸ばした、小動物めいた印象のある少女と、その背後に執事のように佇む、長い髭を編んだ老人。装備からは、少女が巫医(ドクトルマグス)であること、そして、老人が銃士(ガンナー)であることが、はっきりとわかる。 「……答えたくなければ答えなくてもいいが、ひとつ訊きたい。今まで、何をしていた?」  ギルド長の質問を聞いた二人は、目を伏せ、答えにくそうな様相を現していた。しかし、答えない理由はないと思ったのだろう、互いに顔を見合わせ、小さく頷くと、再びギルド長の顔を真っ直ぐに見据える。口を開いたのは少女の方であった。 「姉さまの仇を捜していたの。あの飛竜(ワイバーン)をね」 「……そうか」  ギルド長は、目の前に佇む冒険者達の、かつての構成を思い起こした。  彼らは四人で構成されたギルドであった。樹海探索の適正人数よりひとり少ないが、その不利をものともしない勢いで樹海を探索していったのだ。まだ樹海の正面入り口が開いていない頃、突発事故に弱い衛士達を補助するために、巫医扶助会(コヴェン)と砲撃士協会に渡りを付け、助力を願った結果、公都に集った者達――二人の巫医と二人の銃士は、期待通り、否、それ以上の働きを見せてくれたものだった。  だが……彼らは、強大な魔物に襲われた。  仲間を逃がすために、巫医の片割れが犠牲となり――生き残った者も大怪我をして、長らく療養をする羽目になったのだった。  傷が癒えた後も大公宮主導の探索に協力してくれてはいた。だが、迷宮の正面が口を開け、一般の冒険者を求める布令が出されたとき、彼らは、これからは一般の冒険者として樹海に挑む、と決め、そのための手続きを冒険者ギルドで行った後、姿を消した。以来、今日この日まで、彼らが冒険者ギルドを訪れることはなかった。  そこまで思い出し、ギルド長は気が付いた。登録されたメンバーは三人。だが、目の前には二人。もう一人は、どうした? 「……ライシュッツ、師匠はどうした?」  ギルド長の問いに、ライシュッツと呼ばれたガンナーは目を伏せたが、しばらくの後に、重々しく口を開いた。 「我らとは別行動を取って、飛竜を追い、樹海に消えた。もう長いこと姿を見ていない。おそらくは……」 「……そうか」  しばらく、沈痛な雰囲気がギルド内を覆った。  書類整理を行っている衛士達も、身動きすら憚られる空気の中で、手にした書類を読むかのように目を伏せている。  その雰囲気を静かに払ったのもまた、ギルド長の言葉だった。 「巫術で、彼の行方を占ったりはできないのか?」 「試してみたわ」と、少女が答える。「だけど、関わっているのがあの飛竜だからかしら……普通に占うだけじゃ、上手く結果が出ないの。第二階層より下にいるはず、ってわかったくらい。もっと正確に知りたいなら、まず、強い力を持つものを触媒にしないとだめだと思うわ」 「そういうこともあって、我々は今まで、第一階層と第二階層を歩き回って、あやつめを捜していたのだ」  老ガンナーが、少女の言葉を引き継いだ。 「だが、いくら捜しても見つからぬ。開かない扉の向こうにおるとしたら、今の段階では手が出せない。そこで、我らは本道に戻ることにした」 「本道?」  疑問を言葉にしたギルド長に、少女が頷いてみせる。 「ええ。私たちの本道。樹海探索。私たちはもともと、そのためにここにいたのだから。そろそろ先に進まないと、姉さまが私たちを庇ってくれたことも無駄になってしまうと思ったの」 「そういうわけで、我らは探索を再開したのだが、問題がひとつ、現れた」 「問題、だと?」  話を引き継いだライシュッツに、ギルド長は言葉を鸚鵡返しにすることで先を促した。  そうして語られた問題は、ギルド長を驚かせるに余りあるものであった。  事は、二人の冒険者が第三階層に行こうとしたことから始まる。十階の最奥の階段を上れば、到達できたはずなのだが。 「……魔物が階段を塞いでいた?」 「ええ、黒髪でオカッパ、角を生やした魔物よ」 「……よくわからんが、珍妙そうな姿の魔物だな」 「そうね。でも、姿はともかく、あいつは炎を操る強敵よ。言うなれば『炎の魔人』ってとこね」  ともかくも、二人の冒険者は、その魔物を辛くも撃破した。仲間の仇を捜して樹海をさまよっている間に、多大な経験も積んでいたことが、勝利を後押ししたのだろう。そうでなければ、倒れていたのは二人だったかもしれない。 「それが、十日ほど前のこと。私たちは、その後、第三階層の探索を進めている。ところが、よ」  つい昨日、冒険者達は、第三階層から階段を使って第二階層に降りたという。第二階層に棲息する魔物から採れる素材が欲しかったからなのだが、第二階層に降り立った瞬間、恐ろしい気配を感じたというのだ。 「まさか、炎の魔人とやらが復活していた、などとは言わないだろうな」 「その、まさか、よ」  半ば冗談の様に口にした言葉を肯定され、ギルド長は、呆気にとられて黙り込んだ。  しばらくの後、気を落ち着かせるように大きく息を吐くと、再び問いかける。 「で、そいつは、また倒したのか?」 「いいえ、まだよ。私たち二人だけじゃ、苦戦は避けられない。素材は、遠回りだけど六階から回り込んで取ったし、今の私たちの邪魔になる位置にいるわけじゃない。放っておくに限るわ」 「確かに、お前たちがそいつを倒す必要性はないが……」 「ええ。――と言いたいところだけど、かわいい後輩達には邪魔になるわ。そこで提案。ギルド長、有能なギルドに力を借りたいの」  少女の提案は、現状で最強と思われるギルド数組と協力して、炎の魔人の脅威を取り除くというものであった。少女と老銃士だけでも不可能ではない――現に一度倒している――のだが、返り討ちに遭う可能性もないとは言えない。そこで手勢を増やし、被害を少なくして勝利を掴む算段を付けたいと思ったのである。 「……わかった、至急、眼鏡に適いそうなギルドを選別しておく。そうだな、昼までには済むだろう」 「お願いね」  ギルド長の答えに、微笑んで頷いた少女は、しかし、すぐに表情に翳(かげ)を浮かべた。 「――そういえば、『ベオウルフ』が全滅してしまったそうね」 「ああ、第一階層の最奥にキマイラという魔物が現れていただろう。あれに倒されてな……」 「そう。……残念ね、生きていたなら、力を借りたかったものだけれど」 「ああ、あのキマイラには、『ベオウルフ』のことだけではない、だいぶ煮え湯を飲まされたよ」  手元にある登録ギルドの書類をめくりながら、ギルド長は嘆息する。 「せっかく第一階層をくぐり抜ける実力を付けた者たちも、あのキマイラに殺られてしまってな。だいぶ、人材を失ってしまった。あれが現れなければ、第二階層を探索するギルドももっと増えていただろうに」 「でも、街の噂じゃ、キマイラも倒されたって話じゃない? えーと、『ウルスラグナ』っていう新人さんの働きだって聞いたけど。第一階層の突破も、一月ちょっとしかかからなかったみたいね。結構優秀じゃない?」 「……彼らは出せんぞ。まだ第二階層に踏み込んだばかりで、お前たちへの協力は荷が重いだろう」 「残念。まあ、とにかく、キマイラが倒されたのは安心だわ」 「だと、いいのだが」  愁いを帯びたギルド長の声に、少女は無言で疑問の意を表す。  ギルド長は再び口を開いた。 「第一階層のキマイラ、第二階層の炎の魔人……まだ正面入り口が開いていなかったときにはいなかった魔物が、どこからか姿を現し、我々の探索を妨害するようになった。私には、この二体が無関係ではないように思えるのだよ」 「無関係じゃ、ない?」 「ああ」  少女の疑問符付きの返答に、ギルド長は大きく頷く。何気なく窓に目線を向け、その向こうに見える世界樹の枝を凝視した。 「樹海に、我々の侵入を快く思っていない何者かが潜んでいて、そいつが魔物を仕向けているんじゃないか、そんな気になるのだよ。だとしたら、先に進んでも、また、キマイラや炎の魔人のように、我々を妨害するものが現れるのではないかとな……」 「かもしれないわね。でも、そのために、私たち冒険者がいるんじゃないかしら」  少女は笑みを浮かべた。小動物を彷彿とさせる愛らしさは損なわれていないが、その眼差しは、冒険者の持つ『蜘蛛の糸』を狙うリスのように、いや、猛禽のような鋭さも垣間見える。それは少女の背後に控える銃士ライシュッツにも言えること。彼は笑っていない分、なおさら厳しく見える。  少女は、ギルド長に、そして、実在するなら、探索の妨害を試みる何者かに、宣言するかのような、はっきりとした声音を口にするのであった。 「何者が立ちふさがったとしても、私たちは、それをくぐり抜けて、空飛ぶ城の伝説を確かめてみせるわ。それが、姉さまや、じいやの師匠への、せめてもの手向けになるもの」  笛鼠ノ月十二日。  第一階層の最奥に座するキマイラを撃破し、一日かけてその疲れを癒した『ウルスラグナ』は、ついに第二階層に挑むことにした。  先鋒を務めるのは、護りに特化したエルナクハと、治癒を担当するアベイ、『攻撃は最大の防御』を自負する焔華、樹海の危機を先んじて察知する能力に長けたナジク、そして、歌声で味方を鼓舞するマルメリである。ちなみに女性陣に関しては、昨日に口にした「あんまり『昼の部』に出てないヤツを入れてやりたい」という話を、ギルドマスターが実行したのであった。 「ハディードも、行ってくるぜ」  中庭の片隅に設えられた犬小屋で寝そべる、樹海で拾った獣の子に、エルナクハは声をかけた。途端、獣の子は、ぴくりと耳を立てて目を覚ますと、うう、と低い声でうなり、牙を剥く。  人間に敵意がないというのを悟ったか、牙はすぐに引っ込めたが、その瞳と、尾の動きは、ハディードがまだ警戒していることを如実に現している。  昨日の今日である、ハディードはまだティレン以外には慣れていない。 「まあ、時間をかけるしかないし」  と、苦笑いを浮かべて焔華が評した。  ちょうどその時、生肉を盛りつけた浅皿を持ったティレンがやってきた。 「ハディード、ごはん」  唯一心を許す相手を認識した獣の子は、きゅうきゅうと鳴き声を上げて甘えにかかる。  探索班一同は、少年に手を振りながら私塾を後にした。 「ジークが一生懸命、育て方を教えてたよなー」  私塾の方を振り返りながら、アベイが感心した面持ちで口にした。  レンジャーの青年は、獣の子を連れ帰ってきた後、ティレンに懇々と狼の育て方を伝授したものであった。曰く、狼の習性を持つ相手には、こちらが上位であることを認識させよ、曰く、己が親であるという愛情をもって接せよ、曰く――万が一、ハディードが私塾の子を害する様な事態が起きたら、ティレン自身の手でけりをつけよ――。  どちらかというと、育て方よりも、その際の心がけを叩き込んでいたようなものだ。今のところ、ティレンはその教えをしっかりと心に刻みつけているようだった。  さておき、自分達の今の役目は樹海探索である。  世界樹の迷宮入り口に辿り着いた探索班一同は、心を切り替えると、内部に入り、五階にある磁軸の柱へと飛んだ。  一時間ほどを掛けて、百獣の王が支配した魔宮に辿り着いた。  王が権勢を誇っていた時の、月なき夜の静寂は、冒険者達を圧迫し、その心に恐怖という毒を注ぎ込むかのように広がっていたものだった。だが、夜明けの光の中に広がる光景はどうだろう。下草は貴人を迎える緑の絨毯のように柔らかくそよぎ、朝露が、縫い込まれた宝石の様に光を宿す。広場を取り囲む様に生える木々はそのまま柱にたとえられる。点在する瓦礫の山すら、それが完璧な姿であった日の幻影をほのかに映し出す。  前々夜の激闘の痕は、他の生き物に食い散らかされたキマイラの屍と、周囲の下草に跳ねた血の痕跡、王が炎を吐いたときに焦げた跡、それくらいだった。  冒険者達が王の屍に近付くと、その陰から、小さな生き物が顔を出し、慌てふためいて逃げていった。口にくわえていたのは、王の腐肉だろうか。 「王サマも死んじまったら無惨なもんだ」  漂う腐臭に眉根をしかめながら、エルナクハはつぶやいた。  この腐臭の元が自然消滅するには数日かかるだろうが、実際には、じきに他の生き物がきれいさっぱり骨だけにすることだろう。 「ねぇ、エルナっちゃん達が持って帰ってきた『おみやげ』って、こいつの尻尾、って言ったわよねぇ?」 「ああ、そうだよ?」とマルメリの問いに答えたのはアベイである。  戦いの後で、キマイラの身体から持って帰れた素材は、それだけだった。翼は硬くて取れず、他の部位は、ことさら持って帰らずともいいようなものだったのだ。ちなみに今なら根元が腐っているので外れそうな翼だが、翼自体も腐り始めているので意味がないだろう。  さらに余談だが、キマイラの蛇尾は、その骨と皮を加工されて優秀な弓となり、ナジクの手に納まっている。おかげで探索費用は限りなく空であった。またゼグタントに売却用素材の採集を頼まなくてはなるまい。  冒険者達はキマイラの屍から意識を外し、その先、魔宮の北のはずれを見た。  もはやお馴染みとなって、存在自体に疑問を抱かなくなってきた、大きな扉がある。その向こうには、細い道が真っ直ぐに延び、さらに先に、扉ほどではないが見慣れた、かっちりとした石組みの機構があった。階段である。石造りの建造物の内部に設えられた形のそれは、この樹海がハイ・ラガードの人間達に発見されるより遙かに昔から、知恵持つ何者かが、樹海に関わっていたという証左になりうる、人工物。  ご丁寧にも、それが上りか下りかを示す文様まであるのだ。もちろん、ハイ・ラガードの探索者が設置したものではない。  目の前の機構に備え付けられている文様は、上りを示している。  満足げに頷いて、階段に最初の一歩を踏み出そうとした冒険者達は、異変に気が付いて首を傾げた。 「……なんだ、この色……?」  階段上方の壁が、赤く染まっていた。  その壁に伸ばした手や武具までもが赤く染まり、しかし、引っ込めたときには元に戻っているところからすると、上方から赤い光が差し込んでいるらしい。たとうなら、夕焼けや朝焼けの光のような。だが、朝焼けの時間はとうに過ぎた。  では、何が、と考える冒険者達の下に、上方から、ひらり、ひらり、と何かが舞い落ちてきた。  焔華が手を伸ばしてそれを受け取り、正体を確認すると、嬉しそうに顔をほころばせる。 「あら、紅葉」 「へえぇ」  おそらくは、第二階層の入り口付近に紅葉があり、その反射光が階段を染めているのだろう。  よくよく見ると、階段にも、紅葉の葉が降り積もっている。  紅葉そのものは決して珍しくない。  が、『外』は今は夏。木々は緑濃く、未だ色づく気配はない。  秋になれば、あちらこちらに赤く色づく樹木が点在し、その下で酒宴が開催されることもままあるだろう。エトリアにいた時も、ちょうど第三階層に挑んでいた頃だろうか、仲のいいギルドを誘って、紅葉の園で酒宴としゃれ込んだことがある。名目上は、無茶をして重傷を負い、しばらく施薬院に入院していたエルナクハの、快方祝いだったが。やはりその時のことを思い出したか、焔華が通る声で吟じ始めた。 「秋深まれば、朱(酒)に紅葉、長尾の鳥も、羽染めて……」 「冬来たりなば、雪景色、寒気に凝(こご)る、氷酒……」 「春麗らかに、花見酒、桜散る散る――」  焔華の後を継いだマルメリに倣い、さらに続きを吟じたエルナクハだったが、一旦口を閉ざし、疑問を呈した。 「夏の酒って何だっけ?」 「わちの唄ったのなら、蛍酒ですし」 「おう、そうだったそうだった。まあ、いい景色見ながら飲めるなら、蛍でも月でも川でもいいや」 「メディックとしちゃ、飲み過ぎはだめだぞー、と言っておくぜ」 「ドクターストップが入りましたえー」  わいのわいのと(ナジクを除いて)騒ぎながら、ひらひらと落ちてくる紅葉の中、階段を上り行く冒険者。  やがて、ぽっかりと口を開けた階段出口が見えてくる。その向こうには、予想通りの紅葉の立木が――。 「うわ!」  誰もが驚きの声を上げ、目の前に広がる光景に意識を奪われた。  予想以上であった。  そこにあったのは一面の紅。見渡す限り、真っ赤な葉を茂らせた樹ばかりが立ち並び、見事な紅葉の園を作り出していた。天を見上げても、延々と連なる朱が、空の彼方の白霞に消え行くまで続いている。地を見ても、ところどころで舞い落ちた紅葉が土を覆っている。どこまでも、赤に支配された領域が広がっている。  不意に、ナジクがくらりと身を揺らがせ、それにいち早く気付いた焔華が、その背を支えた。 「大丈夫ですし、ナジクどの?」 「……すまん、驚かせた」 「おい、顔色が悪いぞ、どうしたんだ!」  アベイが血相を変えるのを、軽く片手を上げて制することで落ち着かせ、ナジクは周囲を見て目を細めた。 「何でもない……と言っても信じないか。――すまん、あまりにも赤が鮮やかで、あたりが燃えさかっているように見えた……」 「いっぺん帰るか?」 「いや、少しだけ休ませてもらえれば、問題ない」  というナジクの言葉を踏まえて、『ウルスラグナ』は休息を取ることにした。敷物(ラグ)を敷き、簡易的な獣避けを連ねた縄を張って、野営所と成し、そこにナジクを横たわらせる。アベイが介抱に取りかかり、残る三人が見張りに立った。 「エルナっちゃん、ほのちゃん、あれ見て」  ふと、マルメリが声を上げて前方を指す。  エルナクハと焔華が、何事かと指先を辿ると、果たしてそちらの方向には、エトリア探索経験者には馴染みの物があったのだった。  それは樹海磁軸であった。  ハイ・ラガード樹海でこの場に至るまでに、三階と五階で見付けてきた、磁軸の柱と、似たような働きをする仕組みである。  形はほぼ同じ。外見から違うところを捜すとなると、樹海磁軸から吹き出す磁軸の流れの色が紫色である、というあたりしかない。しかし、樹海側からは磁軸の流れに乗ることができない柱と違って、樹海磁軸からは糸を使わずして街に戻ることができるはずだ。やはり、一度戻るべきか。 「涼しいな」  ふと、ナジクが天を仰ぎながら口を開いた。 「そうだな」  何気ない返事としてエルナクハは答えたが、確かに涼しい。第一階層が、比較的過ごしやすいとはいえ夏そのものの気候だったことに比すれば、今いる第二階層の気候は、夏の熱をほのかに残しながらも、冬に向けて風が冷たくなっていく、秋のそれである。 「本当に燃えているなら、こんなに涼しいはずもない……か」  それは自分の心に決着を付けようとした言葉だったのか、ナジクは眉間を軽く揉みしだき、上体を起こす。 「無理するなよ」 「もう大丈夫だ」  慌てて制止しようとするアベイに、ナジクは頷きながら答えた。 「そろそろ出発しよう。昨日のうちに何組ものギルドがここに踏み込んだらしいから、遅れを取るわけにはいかないだろう」 「……そうだな」  正直、ナジクの様子は心配でないとは言えない。だが、彼とても冒険者ならば、己が冒険を続けられるか帰還するべきかの判断はできるはずだ。誤れば、最悪、全隊崩壊に繋がるその判断を、ナジクが偽るはずもないだろう。ゆえに仲間達はレンジャーの自己申告を全面的に信じることにしたのであった。  樹海磁軸に銘々が軽く触れた後、『ウルスラグナ』はさらに先に進んだ。  空気さえ紅く染めていそうな、鮮やかな紅葉が、迷宮の壁となって、どこまでも続く。時折、はらはらと地に散り落ちて、緋毛氈のような堆積となる。紅葉樹の幹は、緋色の闇の中に埋もれ、ともすれば存在自体を忘れてしまいそうだった。 「……って、ちょっと待ってぇ」  間延びした声でマルメリが仲間達を止めた。 「ほら、これ。樹じゃないわぁ」  吟遊詩人の女性が、扉をノックするかのように、こつこつと叩く樹の幹。  それは確かに幹ではなかった。  その実体は、明らかに人の手が入った、細い塔のような建造物。形に様々な違いはあるけれど、総じて似たような風情の装飾を施され、天を突けよとばかりに高く伸びている。茶色い石でできていて、それがさながら保護色のようになり、紅葉の中に紛れると、樹の幹のように見えたのだ。  第一階層の人工物とは、まるっきり違う文明に属するような、異質な建造物。……否、第一階層の方が異質なのか。それは冒険者達には判断が付かない。ただ、同じ集団が双方を作ったとは思えないのは、確かである。 「随分と精緻な細工をしとりますわ……」  感心した声を出し、焔華が柱を睨め回す。 「現在の文化では不可能、とまでは言えないが……やはり、前時代の産物と言うべきか?」 「どうだろうなぁ」  いずれにせよ、年月相応の崩壊具合を見せていた第一階層の人工物とは違い、柱群は、若干の風化が見られるだけで、未だに堂々たる佇まいを見せている。建築方法の違いも影響しているのかもしれない。  残念ながら、現探索班には、それ以上を類推する力がない。  小難しいことはアルケミスト達に任せよう、と結論づけて、冒険者達は先を目指した。  第二階層に踏み込んでから、一時間ほど経っただろうか。樹海磁軸の南にある丁字路を東に曲がってから、曲がりくねった道を辿り、東西に延びる道にぶつかる二つ目の丁字路に着いた一行は、今度は西へと歩を進めた。  そこまでに二度ほど、魔物との遭遇を経験したものの、現在のところ、致命的な被害はない。  出くわしたのは、動くキノコと、首下に襟巻のような皮を持つ直立トカゲであった。キノコは毒や麻痺の効果を持つ胞子で冒険者達を苦しめ、トカゲは鋭い爪で防御の弱いところを掻き取りにかかってきたが、焔華の絶大な攻撃力と、エルナクハの堅牢な防御の前では、死をもたらす使者とはなりえなかったのである。  とはいえ、傷を癒すアベイの精神的な疲れは大きい。あと一戦交えたら、帰還するべきだろう。  今回はマルメリが磁軸計の反応を見張り、地図を書いている。しばらくは、一度北へ大きく曲がる角があったものの、総じて一本道、地図を書くのも楽だったようである。  油断はしないものの、軽い雑談を交えながら、冒険者達は再び丁字路に行き着いた。磁軸計の反応からすれば、現在地は迷宮内では北のはずれに位置する。再び西の道を選び、『ウルスラグナ』は再び雑談を交わしながら歩を――。 「!?」  背後で小さな音がした。足下の小枝を折って歩くような音だった。  自分達の誰かの足音、そう思えてもおかしくはなかっただろう。が、冒険者の直感は、「そうではない」と判断する。一斉に振り向き、各々の武具を構えた。  丁字路の交差点、つい先程まで自分達がいた場所に、異形の姿がある。  そいつは生き物とは到底思えない姿をしていた。棘のある蔓を寄り合わせ、その先端に三つのカボチャを括りつけたような魔物である。これまでに動くサボテンやら眠りの花粉をばらまく歩く花を見た経験がなければ、見なかったことにしようと試みたかもしれない。  カボチャとは反対側の蔓の先を器用に動かして、じりじりと這うように移動している。先程の音は、その進行方向にあった枝に乗って、折ったためのものだろう。  だが、これだけの大物が、こんなにも至近距離にいれば、必ずや気配を感じ取れるものを。だというのに、魔物からは全く気配を感じ取れない。マルメリが磁軸計を見ながら目を白黒させているところを見ると、磁軸計上の反応もないようだった。冒険者が足を踏み入れたことのある場所にいる『敵対者』の気配を感知できるはずなのに、だ。  今までにない事態に冒険者達が呆気にとられている傍を、魔物は悠々と通り過ぎ、東へ曲がって、遠ざかっていった。 「……なんだよ、ありゃア……」  地域によっては秋の収穫祭時に行われる『カボチャオバケ祭』を具現化したような、魔物の実存を前に、『ウルスラグナ』はしばらく呆然と佇んでいた。  非実体の存在、いわゆる『幽霊』といわしむものとは、一線を画するようではある。  ひとつ、先程の魔物には気配はないが、実体はある。  ひとつ、『幽霊』――という存在が実在するならば、だが――は、風聞を信用するなら、『気配』を持つはずだ。だからこそ人間はその『存在』を信じ、恐れ、怯えるのだから。 「気配を出さない魔物、かいや?」  焔華がそうつぶやいたが、その顔は、自分の発言に自信がないことを示している。  確かに人間、訓練次第で気配を消すことができるが、それは『限りなくゼロにする』であって、『一切合切を消し去れる』わけではない。気配読みの達人にかかれば見つけ出されることもあるのだ。  しかし、先程の魔物は、自発的に気配を消しているのだとすれば、それをほぼ完璧にやってのけている。小枝を折る音がしなければ、『ウルスラグナ』も気が付かないほどに。もし、『ウルスラグナ』が丁字路で行き先に迷い、ぐずぐずしていたら、忍び寄ってきた魔物に血祭りにされていたかもしれない。  だというのに、だ。 「……あり得ませんえ」  焔華は表情を改め、言い切った。 「気配を持たないものなど、完全に動かんものしかあり得ませんし。無機物やても、動けば気配を持つものですし」 「……そういうモンか?」  いくらなんでも、とエルナクハは問い返す。気配を持たない生物はいない、ならまだしも、無機物にも気配がある、は言い過ぎではないか?  聖騎士の疑問を表情から読みとったか、武士の娘は大きく頷いて答えるのだった。 「確かに無機物は、それ自体の気配は持たんし。やけど、動けば大気を掻き乱す。大気の乱れなら、わちらでも感じることができますえ。それが容易か至難か、の違いしかありませんわ」 「つまり、ヤツの気配……ヤツ自身だけじゃなくて、ヤツの動作も含めたモンは、『限りなくゼロ』かもしんないけど、『一切合切無』じゃねぇ、ってことか」 「そうですし。それが証拠に、わちらは、あの魔物が小枝を折る音で、あの輩に気付きましたえ」  焔華のその言葉は、それまでで一番、仲間達にもわかりやすい答だったかもしれない。「ああ」「確かに」と、得心する言葉や、軽く手を打ち合わせる音が、そこかしこで発生する。  焔華は満足げに頷くと、改めてエルナクハに向き直る。 「エルナクハどの、ギルドマスターたるぬしさんに進言しますえ。今さっきの魔物の気配を感じ取れるように、軽く訓練するべきですし。そうでなくては、他に似たような輩がいたとき、うまく気配を感知できないままだと、突然に襲われて、慌てている間に全てが終わることにもなりかねませんわ」  エルナクハは頷いた。焔華の進言に異論はない。  ただ、彼自身として不安だったのは、そんなにも無に近い微弱な気配を、自分自身が感知できるようになるのか、というところだ。  が、樹海探索者としては、それが生死に直結する。やるしか、ないのだ。  とりあえず、『ウルスラグナ』は先程の魔物を追うことにした。  話し合っている間に魔物の姿は遠くへ消え、今はどこを移動しているとも知れない。だが、幸いにも行く先は一本道だ。  樹海の『敵対者(f.o.e.)』の傾向として、縄張りと定めた(らしい)場所を往復する事が多い。行き止まりに突き当たったら戻ってくるだろう。  しかし、一本道をどれだけ行っても、魔物が戻ってくる様子がない。  道が南へ折れ曲がる所に行き着いた一同は、頭を寄せてマルメリが書いた地図のメモを覗き込み、別の可能性を見いだした。 「コイツぁ、道が環になってるかもしんねぇなあ」  だとしたら、人が歩く速度と同じ程度で移動していたあの魔物を後から追っても、相手が止まらない限りは追いつけない。その仮説を支持するなら、魔物を追おうと思った時点で、それまで来た道を戻るべきだったのである。それだったら、どこかで鉢合わせたはずだ。  もっとも、まだ明らかでない場所に脇道があり、あの魔物はそちらへ動いている、という可能性もある。 「脇道といえば」とナジクが口を開いた。 「先程、南側に、通れそうな茂みがあった」 「マジか?」 「ああ。あの魔物が通ったような痕跡はなかったが」 「ならいいけど……その茂みも調べんの忘れないようにしねぇとな」  今は例の魔物の話である。  南に足を向け、数分ほど歩いたところで、案の定、東の方に脇道が口を開けているのが発見された。件の魔物が、構わず直進したのか、この脇道へと入っていったのか、現状では『ウルスラグナ』には判断のしようがない。  エルナクハはしばし考え込み、頷く。突然抜いたのは鞘に入ったままの剣である。『ベオウルフ』を弔うときには錫杖代わりに使ったそれを、エルナクハは地面にまっすぐ立て、手放した。倒れないように固定したわけではないから、当然倒れる。黒い聖騎士は満足げに再度頷くと、声を上げた。 「大地母神(バルテム)の神託が下った。こっちだ!」  倒れた剣の柄が指したのは脇道の方である。  仲間達も賛同した。というか反対する理由がなかった。「何やってるんですか」と突っ込みたかったのだが、では直進する方に合理的な理由があるかといえば、正直言って、ない。だったら神の御名でもただの棒倒し占いでも、納得できる選択の助けになるなら何でもよかろう。そう思ったのである。  結論から示すならば、例の魔物は脇道の中には入らなかったようだった。  しかし、その脇道には、後々の重大事の先駈けともいうべき異変があったのである。  否、それは、はるか昔から始まっていた異変が、ようやく人間の目に触れるようになったもの。  全てが終わってから振り返ってみれば、エルナクハの他愛もない行き先決定方法も、確かに大地母神の神託だったのかもしれなかった。  脇道は、その途中でさらに二股に分かれていた。  周囲は相も変わらず赤に染め抜かれているのだが、その合間から鮮やかな青がちらちらと見え隠れする。磁軸計の反応から見るに、現在地の付近は迷宮の端。木々の隙間からわずかに見える、『外』の空の色が、美しい色合いを誇っている。  最初に選んだ先には、蟻塚があり、そこで猪の姿をした生き物が懸命に塚を壊していた。中に溜まっている蜜を求めているらしい。エトリア第五階層、真実の中心地で出会った、黄金の猪を思い出し、冒険者達は慎重になるが、幸いにも、かの猪と目の前の獣は、よく似ているだけで、強さ自体は天地ほどに違うようだ。それでも無駄な争いを避けようと、様子を見ているうちに、猪は蜜を舐め終え、満足して立ち去った。すっかり崩された蟻塚で、冒険者達は蜜のおこぼれに与ったものだった。  問題はもう片方であった。  その道は、少し拓けたところで行き止まりになっていた。  吹き込む風は夏の朝の熱を孕んだものだったが、迷宮内の秋の気候に混ざると、程よい暖気となって、冒険者達を包み込む。  先程の魔物の姿は、結局、見あたらない。  引き返そうとした一同だったが、視界の端に違和感を感じ、足を止めた。  迷宮の紅と、『外』の空の蒼。色相は違えど、共に鮮やかな色彩。なのに。  一ヶ所だけ、妙な違和感がある。 「……あ!」  その違和感の正体に、最初に気が付いたのは、マルメリであった。震える黒い腕がゆっくりと上がり、前方を指差す。  腕の指す方へと視線を移動させた仲間達は、吟遊詩人と等しく、違和感に得心した。  紅の樹木の中、一本だけ、妙なものがある。  灰色の樹。色を司る神がその樹にだけ色を与え忘れてしまったような、寒々しい灰色をした樹である。周囲の木々が誇らしげに燃えるような紅葉を広げる中で、灰色の樹は、緑の葉の一枚すらなく、骸骨のごとき様相をさらしているのであった。  ただ、樹木が一本枯れているだけだ。だというのに、どこか空恐ろしいものを、『ウルスラグナ』は感じた。  とりあえず近付いてみる。新種の魔物の可能性もあるので、注意しつつ足を運んだ。  水分のほとんどを失い、石のように枯れ果ててしまった樹だった。用心しつつ、至近まで近付いたが、魔物として反応する気配はない。本当にただの樹か、さすがに死んでしまったかのどちらかだろう。 「珍しいなぁ、樹海で枯れ木に出くわすなんて」  アベイがうなるが、正確には少々違う。たとえば、エトリア樹海の第四階層に生える木々はほぼ全てが枯れていた。だが、周囲の木々が健やかな中にあって、一本だけがこのような枯れ方をしているというのは、樹海の中ではこれまで見たことがなかったのであった。  ……いや、一本だけではなかった。  あまりに違和感がありすぎたので、遠目からは、それらが一本に見えてしまっただけだった。  その樹を中心として、他にも数本の樹が、同じように枯れている。 「なんだよ、こりゃあ」  さすがの傲慢不羈たるエルナクハも、背筋に寒いものを感じ取り、そう口にしたきり押し黙る。  もうちょっと建設的な枯れ方をしないものか。変な表現だが、そんなことを思ってしまう。建設的というのは、つまり、枯れたは枯れたにしても、小動物のいい住処になってます、とか、倒れた枯れ木から次代の双葉が顔を出しました、とか、そういう、生命の螺旋を感じさせる枯れ方のことだ。目の前の灰色の木々からは、そういったものを完全拒否しているような、冷たいものを感じてしまうのである。もっと簡単にいうなら、そこだけ『世界樹の迷宮』ではない、異空間である、という違和感があるのだ。  いずれにしても、一介の冒険者にどうにかできるものではない。 「……一応、メモ取ったわよぉ。帰ったらノルねぇちゃんやフィプトさんに訊いてみる?」  暑さに由来するものではない汗を額に浮かべながら、マルメリが声を上げる。  その言葉が、この場から離れる大義名分を与えてくれたような気がした。  冒険者達は互いに何度も頷き合うと、枯れた灰色の木々がいきなり動き出したら嫌だ、とでもいうかのように、そろりそろり、と足を運び、その場を後にしたのであった。  ところで彼らはすっかり忘れていた。  自分達が、『気配のない魔物』を追っている途中だったということを。  脇道から本道に最初の一歩を踏み込んだその時、北の方の至近距離に、何かざわりとした音声未満のものを感じ、冒険者達は顔を向ける。  ちょうど、そちらからは、例のカボチャの魔物がにじり寄ってくるところだった。 「やっべ!」  エルナクハが押し込むように仲間達を脇道へ戻らせる傍を、魔物は悠然と通り過ぎていく。  しばらくは魔物が立てる、音とも言い切れない音が、冒険者達の耳に届いていたが、ある程度離れたところで、それもふっつりと途切れた。  なるほど確かに、かなり近くにいれば、奴の立てる『音』でその存在が分かる。  目視も可能だ。ちゃんと周囲を見ていれば、接近に気付く。  だが……。 「磁軸計はどうですかえ?」 「ダメぇ。全然反応しないわぁ」  焔華の問う傍でマルメリが溜息を吐く。  磁軸計は、既踏地に存在する強力な魔物の気配を読みとって表示する。それが読みとれないほど、あの魔物自体の気配は微弱なのだ。凡百の雑魚の気配と錯誤しているのかもしれない。  人間の感覚では、遠くの気配を捉えきれず、磁軸計も頼れない。そういう『敵対者』の存在も念頭に置いておかないと、気が付かない間に至近距離にまで詰め寄られ、手遅れということもあり得る。特に戦闘中は危険だ。目の前の相手に気取られ、『敵対者』の動きを掴む術は磁軸計頼りになる。それが頼れないとしたら……。 「……帰る、か」  厄介な『敵対者』に、奇妙な立ち枯れの樹。いろいろと厄介事が増えた。一度気分を切り替えようとギルドマスターは思い、それに仲間達全員が賛同したのであった。  その日の夜、明け方からの探索に出なかった者達を中心として組んだ探索班が、闇に沈んだ樹海に足を踏み入れた。  いつも通り、磁軸を使って第二階層に跳躍する。  余談になるが、かつて磁軸の柱を聖騎士フロースガルから教えてもらった後、わき起こった疑問があった。エトリアでの場合、樹海入口側から各樹海磁軸に飛ぶための起点である光柱は共通で、触れたことのある跳躍先の光景が、光の中に緩やかに切り替わりながら映し出されたものだった。ひるがえってハイ・ラガードの磁軸の柱の場合、光の中には何の光景も見えなかった。それが何を意味するのかが謎だったのだ。  が、五階で二本目の磁軸の柱を起動したとき、ようやく理解できた。磁軸の柱は一本しか起動できないのである。三階の柱にしか触れていなかった者と、五階の柱に触れた者、両方を揃えて樹海入り口に赴いても、後から触れた者の方が優先されるのか、五階にしか飛ぶことができなかった。  行き先が常に一ヶ所ならば、光景を映し出して行き先を示す必要はない、と、磁軸機構の発明者は考えたのだろう。あるいは磁軸の流れそのものの性質で、跳躍先の光景が見えないのかもしれない。  そして、樹海磁軸が起動した今、樹海入り口の起点はどうなっているかといえば。  どうやら、『柱』と『磁軸』の起点は共通になっているようで、うっすらとした第二階層の光景を抱いた紫色の光柱と、何も移さない黄金色の光柱が、緩やかに切り替わりながら立ち上っている。  起点の光柱が紫色に変わったとき、『ウルスラグナ』は光の中に飛び込み、磁軸の流れに乗って第二階層に辿り着いたのである。  前衛にティレンとオルセルタ、後衛にフィプトとパラスとアベイという配置の彼らは、樹海磁軸のすぐ南にある丁字路を西へ向かった区間の探索を当初の目的としていた。しかし、その道がさほど行かずして行き止まりであると判明したため、結局、『昼の部』と同じ道を辿ることになったのである。 「せっかくだから、フィー兄にも直にアレを見てもらおうか」  とは、アベイの弁。 「アレ、とは、妙な枯れ方をしてるっていう木々ですか?」 「ああ」  環になっているかもしれないと思われる区域に踏み込む丁字路の傍で、例の、磁軸計に捕捉されない『敵対者』をやり過ごす。アベイを除けば、昼の探索から戻ってきた者達から話を訊いただけだったが、いざ実際に目の当たりにすると、気配がどうのこうのというより先に、その姿の奇妙さに声が出ない。 「なんていうか、『樹海ではなんでもあり』ってわかってても、蹴りたくなるわね」とはオルセルタの言葉。  もちろん『敵対者』は油断ならない強敵、そんなことはしないが。  それはともかくとして、現在の探索班一同も、昼の探索班と同様に、自らの気配が希薄な魔物を直に目にし、それが磁軸計に捉えられないことを実感し、近くにいるならば注意していれば存在を感知することはできる、ということを思い知った。今後、誰が探索班として樹海に入ったとしても、磁軸計に捕捉されない『敵対者』に翻弄されることは少なくなくなるだろう。実力行使はまだ叶わないとしても、『恐怖』を感知し、把握できる脅威へと落とし込むことは、冒険者が生き残るためには重要なことだ。  件の魔物が目の前を通り過ぎた後、一同は丁字路を東へ辿る。  この区間が環になっていることを実証するため、そして、実証が正しければ、立ち枯れの木々のある場所へと向かうには、東から向かった方が早いからである。  しばらくは、時折現れるキノコやトカゲと矛を交える以外は、軽く話をしつつ、それでも油断なく歩を進める。防御に優れたエルナクハがいない分、前衛の負担は大きいが、フィプトの術式やパラスの呪詛が補助となり、つつがなく戦いを切り抜けることができていた。  そして、問題の灰色に枯れた木々がある区間へ続く、脇道に辿り着いた。  後方でパラスが喜声を上げたのは、彼女が記している迷宮地図の道が見事に繋がったからだろう。今まで歩いてきた道が予想通り環になっていることが証明されたのである。  一同は脇道に入り込み、一路、立ち枯れの木々の下に向かった。  樹海が闇に包まれている中、冒険者達が携える灯の中に浮かぶ、鮮烈な赤の広がり。そのただ中に現れる、生命なき灰色。 「これは……また……」  フィプトは絶句した。  彼自身には樹医の真似事はできないが、植物の病に関する知識は若干ながらある。しかし、目の前にある事態は、彼の知識外のものだった。  立ち枯れた木々に、彼は、生命の循環から弾かれてしまった印象を抱いた。言ってみればエルナクハと同じ感慨に行き着いたわけなのだが、もともとハイ・ラガード人であるせいか、フィプトの思考はその先に続いた。  ――まさか、このまま広がって、世界樹そのものを病に巻き込んでしまわないだろうか。  幼い頃から、世界樹を神樹として見てきたフィプトには、信じられない話だった。数百年続くハイ・ラガードの歴史の勃興期から、この国をずっと見守ってきた世界樹が、病に朽ち果てるなんて。そもそも、『世界樹計画』とやらを考えた前時代の賢者達は、そういった病の対策を取らなかったのだろうか。否、取ったはずだ。数千年はかかる大計画の途中で、地球を再生するはずの木々が病で全滅したら、笑うこともできない話だ。  ――ああ、しかし、すでに世界樹の『役目』が済んでいたとしたら、枯れ行くのも生命の宿命なのかもしれない。事実、世界樹には次々と虚穴が開き、それを世界樹の上に生えた木々が癒していっているような状態だ。だとしても、こんな『終わり』はありなのか? ただの病ならまだしも、こんな、得体の知れない状態になって枯れていくなんて。  考えすぎかもしれない。この病は、あくまでも、迷宮にある『普通の木々』に感染するものであり、世界樹そのものには蚊に刺されたほどの被害すら与えないのかもしれない。それでも、放っておくのは大ごとだ。樹海内の産物はハイ・ラガードの貴重な資源。樹海の木々が枯れたら、それらにも大きな影響が出るだろう。 「……とりあえず、資料を採取しましょう」  フィプトにはそう声を出すことしかできなかった。  迷宮内でぽかんと立ちすくんでいても、意味はない。だったら、木片のひとつでも持ち帰って、ちゃんと調べた方がいくらか建設的だ。 「朝のうちに取って帰ってくりゃよかったかぁ」  アベイがばつが悪そうに肩をすくめた。フィプトは首を振り、病の木の枝にナイフを入れながら返す。 「いいえ、こういう状態をちゃんと目にできてよかったです。資料だけだと、判ることに限りがありますから」 「そう言ってもらえると、気が楽になるけどな」  軽く言葉を交わす間にも、切り取られた枝は、試験管の中に収まり、フィプトのウエストポーチにしまわれる。余談だが、フィプトは樹海の草花を資料として持って帰ることが今までにもあり、試験管などはそのために常備しているのであった。 「なんか、やなかんじ」  立ち枯れの木々をまじまじと見つめていたティレンが、ぼそりとつぶやいた。エトリア樹海で生まれ育った少年にも、本能のどこかで、この事態に不穏なものを感じているのだろうか。  女性二人もそれは同じようで、うそ寒げに互いの顔を見合わせている。 「なんていうか、呪いっぽいよね」とパラスが口にした。 「呪い、ですか?」 「ああ、本当に呪いってわけじゃないよ、フィーにいさん」  呪術師の娘は首を横に振る。 「ただね、なんて言ったらいいのかな。無理矢理こんな状態にされちゃった、っていうか、ただの病気にしちゃ違和感ありまくりだなぁって。私の同業者(おなかま)がここらへん一帯呪いましたー、って説明した方が納得いっちゃう感じ」 「でもパラスちゃん、樹なんか呪って枯らしても、意味ないじゃない」 「そうでもないよオルタちゃん。作物を呪って枯らすのはカースメーカーの脅しの常套手段のひとつだよ。……まあ、私たちはやったことないけどね。『作物を枯らす何者か』を呪う豊作祈願の呪は、よく頼まれたけど」 「でも、世界樹の迷宮を呪ってもねー」  苦笑い気味にオルセルタは続ける。 「迷宮が枯れたら冒険者もハイ・ラガードも困るけれど……いちいち迷宮を呪うより、公宮とかを直に呪った方が早い感じ」 「そうなんだよねー。ま、本当に呪いじゃなくて、それっぽい、って話だから」 「何にしろサンプル取ったんだから、帰ってから調べればわかるんじゃないか?」  アベイの言葉に「それもそうか」と全員が頷いた。  ともかくも今の『ウルスラグナ』にできることは、朝の探索と同様に、この場を後にすることだけだったのである。  脇道の出口付近を、例のカボチャの魔物が通り過ぎていくのを、しかと確認してから、冒険者達は探索に戻った。  環状であることを確認された道を、北回りに辿り、『昼の部』の探索班が到達したところ――小枝を踏む音で例の魔物に気付いたあたりだ――に辿り着いた。  余談だが、経路の途中にあった抜け道――『昼の部』の際にナジクが気付いた、通れそうな茂みも、きっちりと調査した。これまでにも樹海内でいくつも見かけた、浮遊する箱があり、その中には誰が納めたのか剣が一振り入っていたのだが、それはオルセルタがありがたく使うことにしたのであった。  さて、ここから先は、未知の区域だ。  冒険者達は、これまでにも増して警戒を強めながら、紅の道を往く。  木々の向こうを、数体の鳥が走っていくのが見えた。『外』のダチョウのような鳥だが、夜闇の遠目の中では、それ以上の姿形は判らない。今はまだ敵として出会っていないが、もしも人間に襲いかかってくるような類なら、その脚力は圧倒的な脅威になるだろう。  ごくり、と誰かが唾を飲み込んだ。  キノコやトカゲは、遅れを取る相手ではないが、それでも彼らが第一階層に巣くう生物とは段違いの強さを持つのはよく判る。あのダチョウのような鳥は、どれだけの力で自分達を苦しめてくるのだろう。  鳥の群を遠目に見ながら、途中の脇道に入り込み、二十分ほど進むと、行き止まりに突き当たる。  そこには、広大な平地が広がっていた。みずみずしい草花が、赤の暴虐から身を守ろうとするかのように群生している。闇によって和らげられているとはいえ、赤ばかりを見てきた冒険者達には、ほっとさせられる光景であった。  もちろん、目に優しいだけではない。こういったところは採集にも適している。  群生しているということは、その場が生育に適しているということ。生えている中から質のいい物をより分けられるということだ。人間の益になる物が、他の場所に生えていない、というわけではないが、乏しい資源を探し回るよりは、こういった場所で素直に入手した方がいい。無闇に取り尽くさなければ、生育に適した場のことである、また生えてくる可能性も高いのだった。  草花の効能に若干の知識がある、アベイとパラスが、仲間達が差し出す灯の中で、群生を吟味し始めた。採集専門レンジャーのゼグタントには及びも付かないが、この群生地でどんな素材が手に入るかを検証する程度の能力は、冒険者にもある。 「見て見て、ミントがあるよ」 「こっちは苦艾(ニガヨモギ)だ。薬に使えるかな」  それは持って帰ってみないと判らない。ミントも苦ヨモギも、『外』では普通に手に入る代物で、並の薬の材料にはなる。しかし冒険者が求めるのは、もっと効能のいい薬(や武具)の材料になる素材なのだ。そのためには、これらの素材が、既知の物ではなく、新種――樹海固有種である必要がある。余談だが、エトリア樹海産の素材は(今はほとんど手に入らないが)、例えばミントなら『Mentha Etoriae』などという学名を付けられ、『外』のミントとは明確に区別されるとか。 「オルタちゃんオルタちゃん、帰ったらミントティ飲もう!」  摘み取った痕から漂うミントの香に刺激されたか、パラスがそんなことを言う。  しかし、どう見てもそこらの女の子めいたパラスの動きが、不意に止まった。その瞳に宿るのは、敵意を察知した戦士の相。それは他の仲間達にしても例外はなく、冒険者達は武器を取り、錬金籠手の起動機構に手をかけ、呪鈴を掴み、医療鞄の蓋を開ける。  それにしても、敵意の主は何者なのか。『それ』を目の前にした冒険者達は、その分類に困った。  『それ』は、どう見ても石像にしか見えなかったからである。  大きさは人程度。伝説に謳われる、コウモリの翼を持つ悪魔のような容貌。世界に多数の信者を抱える一神教の神域では、番人として設置される、魔除けの石像。『それ』は、簡単に説明せよと請われるならば、そんな形をしていた。けれど石像が、古来から生命を繋いできた生き物のように動くものなのか。  いや、よくよく思い出せば、『ウルスラグナ』は既にそのような存在に出会ったことがある。エトリア樹海のゴーレム。錬金術の、今では失われた技によって、おそらくは前時代に作られた、動く石像。何故迷宮内に存在するかは不明だが、前時代の技術の『生き残り』ではないか、と推測される。  目の前の不思議な石像も、その類かもしれない。  動作原理などは、興味が湧いた者がいずれじっくり調べればいい。今は、この敵からいかにして身を守るか、だ。  迫りくる不思議な石像は一体。だが初見の相手だ、様子見、などという生やさしいことは言わず、全力で当たるべきだろう。 「ちょっと、剣とか斧とかは、効きにくそうよね」  とオルセルタ。 「石相手じゃ、属性攻撃が効くかどうかも、謎ですね」  嘆息しつつフィプトが返す。 「とにかく、全力で、殴るよ」  ざらり、と足下の地面を踏みにじりながら、ティレンが斧を構える。 「力払いくらいなら、ゴーレムにも効いたから、こいつにも効くと思うけど……」  やや懐疑的にぼやきながら、パラスが呪鈴を構える。 「みんな、無理するなよ」  やや後方に下がってアベイが薬品をいくつか掴む。  オルセルタとティレンは視線を交わし合った。大気を震わせる言葉なき意志が合間を飛び交い、百の言葉を連ねて説明するよりも明確な戦術を伝え合う。やがて、双方同時に正面を向き直り。  同時に、地を蹴った。  動き出したのは同時だが、身軽なオルセルタの方が速い。  剣の刃が灯火を反射し、何かの属性の付与がされているかのように輝く。その白刃が、身を躱そうとする石像の表面を叩く。きぃん、と鋭い音がして、オルセルタは顔をしかめながら飛びずさった。 「……っ、やっぱ、関節狙わないと、きつい、かも」  腕に伝わった衝撃を耐えながら、ダークハンターの少女は言葉を吐き出した。  一方、ティレンは石像の前に立ち、気を引いている。その隙に、フィプトが錬金籠手に触媒を仕込んで、反応を発動させた。白化(アルベド)である彼が得意とする氷の術式が、石像に降りかかるが――しかし、効いている気配がない。些少なダメージくらいは与えたかもしれないが、それはオルセルタの剣が石像に与えた衝撃に比しても微弱なものだろう。 「氷は、だめか……」  フィプトは歯ぎしりしながら新たな触媒をウエストポーチから探し出す。傍目からは判別しようがないが、それは地電石(トルマリン)と琥珀(エレクトロン)を砕いて混ぜた術粉である。次は雷を浴びせるつもりなのだ。  しかし、石像も黙って攻撃を受けたままではいない。  その片腕がティレンを襲う。ソードマンの少年は斧の腹でそれを受け止めた。双方の膂力がぎりぎりと均衡するなか、オルセルタが背後に回って敵の弱点を探ろうとする。  しかし、石像は、腕の力を抜いた。勢い余って転げそうになるティレンをよそ目に、もう片腕を伸ばしたのだ。 「え?」  振り下ろされる爪の先には、呪言を唱えるカースメーカーの少女がいた。自分の顔に落ちかかる影に気付いたが、既に遅い。もっと早く気付いたところで、体術に明るくない彼女が避け得ようもない。  頑丈な爪がパラスの身体を紙のように裂いていった。  噴き出す血でローブをさらに濃く染めながら、カースメーカーは崩れ落ちる。 「パラスちゃん!」 「俺が助ける! 攻撃に専念しろ!」  アベイがオルセルタを叱咤しながらパラスに駆け寄った。  ためらいもなくローブを脱がすと、カースメーカー独特の、『忌帯』と呼ばれる戒めの帯布を申し訳程度に巻いた、裸同然の姿が現れる。その下にある皮膚は、首より上と両前腕を除いて、朱の刺青で覆われている。帯も皮膚も、石像の一撃で無惨に傷つき、血の臭いを濃く漂わせている。  ここまでの傷は、いかに自己回復力を底上げするネクタルでも、癒しきれない。  アベイは麻酔用の水薬をパラスに飲み込ませると、傷口にヒールゼリーを塗り込んだ。針と糸、そして己の手もゼリーに潜らせる。ヒールゼリーとは、メディックの間で使われる、止血や消毒の役を果たす薬だ。本格的な処置には欠かせない。  第一階層での冒険の合間、アベイは、ネクタルに頼らず自分でも瀕死からの蘇生処置ができるように、研究に余念がなかった。樹海探索に常に同行する彼にとって、それは睡眠時間もかなり削るきついものだったが、メディックとしての情熱がその研究を支えたのである。キマイラ戦には間に合わなかったが、昨日――フィプトの見舞いをめぐる騒動があった日の夜に、努力は報われた。ハイ・ラガードで手に入る素材で、樹海での戦闘中でも満足できる時間と精度で、蘇生処理を行う目処が立ったのである。  とはいえヒールゼリーは彼の研究ではない。古来からメディック達に愛用されていたものだ。その元型が、前時代の『世界樹計画』の副産物であることを、今のアベイは知っている。助けられない生命をひとつでも減らそうと、はるか昔の医師達や科学者達が情熱を傾けた成果が、何千年も後の世にも確かに伝えられているのが、嬉しかった。 「……所長先生、俺に力を貸してくれ……術式、開始!」  エトリアでも経験があるとはいえ、久しぶりの処置に、アベイが緊張しながら挑もうとしている頃。  前線では、後衛に手を出させまいとする必死の攻防が続いていた。  翼を広げて威嚇する石像の動きは、鈍重なことを除けば、なまじの生き物以上に滑らかだった。  斧を振りかぶろうとするティレンの動きに合わせ、翼を盾のように使い、その曲面で巧妙に威力を削ぎにかかる。ただでさえ効きづらい攻撃が、石の上に火花を一瞬散らすだけで終わってしまうのだ。それでもティレンは諦めず、怯むことなく斧を振るう。  ほんの一瞬、石像の動きに異常があった。道具も使い続ければ『疲労』する。石像にもそれが当てはまったのだろう。ティレンの瞳はその一瞬を逃さなかった。決死の一撃が敵を捉える。その威力は、構造的な弱点を外れたというのに、衝撃地点を粉砕し、砂礫をばらまいたほどだった。  関節が砂礫を巻き込んだか、石像の動きが目に見えてぎこちなくなる。  そこを、ダークハンターの剣が突いた。  オルセルタが狙ったのは首の根元だった。目の前の石像の駆動中枢がどこにあるかは判らないが、仮にも二足歩行の人型をしている以上、頭部が重要な役割を果たしている可能性が高い。そこに衝撃を与えて、一時的にでも活動不能状態――生物でいう『睡眠』状態に落とし込めないかと思ったのだ。  残念ながら、そう上手くはいかなかったが、構造上弱いところを突かれた石像の動きがさらに鈍る。  いける!  飛びずさり、体勢を立て直したオルセルタは、勝利の光明を見た――そう思った。  しかし、彼女が実際に見た光は、石像の目の奥に灯ったものであった。石像はオルセルタに顔を向け、口を開けたのである。そこから勢いよく、煙のような何かが吹き出し、オルセルタに浴びせかけられた。 「オルタさん!?」 「オルタ姉」  フィプトとティレンが名を呼び、パラスの傷の縫合を手早く終えたアベイが声もなく見守る前で、オルセルタは倒れ――はしなかった。ただ、その場に凍り付いたかのように立ちすくむだけだ。 「……『石化』か……っ!」  アベイが声を押し出すように呻いたとおり、オルセルタは『石化』の状態にあった。  『石化』というが、実際に身体が石になるわけではない。身体組織が硬化し、五感が鈍り、ぴくりとも動けなくなるだけだ。しかし、自然治癒した例はなく、探索者全員が石化などしたら、生還は絶望的となる。無抵抗のまま魔物に殺される道を免れたとしても、何かの拍子で倒れたときに、打ち所が悪く死に至ることもあるかもしれない。何より、この状態でも意識はあるのだ。長時間放置されれば、確実に気が狂う。 「治せますかっ!?」 「悪い、今は無理だ!」  フィプトの焦燥混じりの問いかけに、アベイは臍を噛む思いで返した。  石化をはじめとする状態異常の特効薬として、『テリアカβ』というものがあるが、探索班は不注意にも、その薬の携帯を忘れていた。メディックの治療にも『リフレッシュ』と呼ばれる技術があるが、石化の治療はかなりの高難度、ものにするまでには時間がかかるだろう。そもそもアベイは、蘇生技術を優先して研鑽していたために、状態異常治癒技術はまだ樹海で実用できるものではない。 「コウ兄に頼まないと!」  アベイのその短い叫びに含まれた、数多の意味を読みとって、フィプトは頷いた。  コウ兄――ツキモリ医師に治療を頼むためには、帰らなくてはならない。帰るためには、この戦闘を終わらせなくてはならない。戦闘を終わらせるには、逃げるか、敵を倒すかだが、この状態で逃走を選ぶのは分の悪い賭けだ。ならば。 「ティレン君!」  フィプトの呼びかけに、ソードマンの少年が反応し、石像の正面から退く。  石像はティレンの後を追おうとし、目をそちらに向けたが、その時には、フィプトの術式は完成していた。 「喰らえっ!」  術粉の反応によって励起した小規模の雷が、錬金籠手によって増幅され、掌の、魔物の目玉を思わせる噴出口から、紫電となって弾ける。それは狙いを外すことなく石像に絡みつき、そのエネルギーをもって、火も冷気も効果のなさそうな石を冒す。内部を走った電圧が、石像を動かす錬金術式か、あるいは未知の何かか、どちらかに致命的な影響を与えたのだろうか、石像はぐらりと倒れ、もがくように地を掻いた。  そこにティレンの斧が、とどめとばかりに振り下ろされる。  砕けた石片がばらばらと散らばり、石像は活動を止めた。  安堵の息を吐いたのは、男性陣の誰だっただろうか。 「あいたたたた……」  アベイに処置をされたパラスが、縫合された傷のあるあたりを押さえながら体を起こした。既にローブを羽織っていて、傷痕はよく見えないが、かなり重篤な傷のはずだ。痛み止めが処方してあっても、多少は痛いことには違いあるまい。しかし、パラスの頭からは自分の痛みのことなど吹き飛んでしまった。石化したオルセルタを目の当たりにしたからだ。 「オルタちゃん! ……っあっ! 痛い痛い痛い!」 「大声出すからだ、馬鹿」  傷口をかかえてうめくパラスに、アベイは駆け寄り、傷が開いたりしなかったか確認する。  その横ではフィプトがアリアドネの糸の起動準備を行っていた。これ以上の探索は危険きわまりない。一刻も早く帰還して、オルセルタの治療を薬泉院に頼まなくてはならない。パラスの傷も安全なところで再度見直す必要があるだろう。  現れた磁軸の歪みに、ティレンとフィプトがオルセルタを運び込むのを確認し、二人の姿が消えるのを見ながら、アベイはパラスを肩に担ぎ、溜息を吐いた。 「今度は、状態異常の治療技術も勉強し直さないとなぁ……やることいっぱいだ」  薬学研究自体は苦ではない。自分はメディック、誰かを癒したいと願ったからその道を選んだ。だが、前途に広がる『やらなくてはいけないこと』があまりにもたくさんあるので、どこから手を付けようかと考えあぐねていたのだった。 「アベイ君のことですから、もう判ってるとは思いますけど、敢えて言わせてもらいますからね」  薬泉院の院長ツキモリ医師は、叱るというより、悲しそうに見える表情で、口を開いた。 「テリアカを忘れるとは何事ですか。メディックは、仲間達の体調の異変に備えなければならないんですよ。自力で薬品調合ができなければ、代わりの手段が必要です。それを、持っていったのを使い果たした、ならまだしも、忘れた、とは、何事です?」 「……まったくもって、返す言葉がないぜ……」  アベイは身を縮め、しゅんとしながら頷いた。  持てる荷物量には限りがあるし、薬品を揃えるには金もいるから、テリアカを無限に持っていけるわけではない。必然的に、探索中に使い果たして足りない、ということはあり得る。しかし、自分の大ポカはそれ以前の問題だ。  メディックの青年は、ひとしきり反省した後、くるりと後ろに向き直って、頭を下げた。 「すまん、オルタちゃん」  詫びを入れられたオルセルタは、運び込まれたときには石像のように硬直していたが、治療を受けた今は元気そのものだった。むしろパラスの方が、縫われた傷がしくしく痛む、と訴えてきていたりする。 「わ、わたしは大丈夫よ。だけど、今度から、忘れ物しないように、みんなで気を付けないとね」  まったくである。冒険者の『忘れ物』は生命に関わる。  例えばアリアドネの糸。これを忘れてしまえば、迷宮の奥深くから無事で脱出できる可能性は、がっくりと低下する。どれだけ探索慣れした冒険者でも、否、探索慣れしたからこそか、糸をうっかり忘れることは意外と多いのである。  事実、『ウルスラグナ』も、何度か糸を買い忘れたことがあった。正確に言えば、フロースガルの忠告以来、常にふたつ持つようにしている糸を、補充し忘れ、荷物の中にはひとつしかなかった、ということになる。そのため、実際には無事に街に帰ることはできたのだが、フロースガルの忠告を聞いていなければ、自分達の荷物の中には糸がないはずだったのだ。そんな事態が起こるたびに、冒険者達は肝を冷やし、今は亡きフロースガルに感謝しつつも、シトト交易所で糸をふたつ買い求めるのであった。  エトリア樹海でも、必要なものを忘れたために危機に陥ったことはある。同じ轍を踏むとは何事だろう。 「ところで、皆さんに伺いたいことがあるんですが」  ふと何かを思い出した、というような表情で、ツキモリ医師が切り出した。 「大変に個人的な話で恐縮なんですが、今は夜ですので、思い切って伺いたいのです」  夜ですので、というのは、薬泉院は夜は閉めている(当然、急患は随時受付だ)からであろう。冒険者の治療のために作られた薬泉院だが、昼は一般人にも開放しているのだ。個人的な話だから仕事中に切り出すわけにもいかない、と、この生真面目な院長は思ったに違いない。  冒険者達に話を聞く気があると見なしたツキモリ医師は、続けて話し始めた。 「……実は、このところ、冒険者の方や衛士隊から、妙な報告が挙がってるんです」 「妙な、報告?」 「あなた方は見た事ありますか? 樹海の所々で樹木が不自然に枯れ、朽ちているというものを」  『ウルスラグナ』探索班は思わず顔を見合わせた。  自分達も、その奇妙な事象を目にしてきたばかりなのだ。  フィプトがウエストポーチをあさって、一本の試験管を引き出した。樹海の中で、立ち枯れた木の枝を納めたものだ。  ツキモリ医師の目の色が変わる。 「これが、そうなのですか!?」  石化――文字通りの意味で――したかのような色をし、冷え冷えとした気配を漂わせるその枝を、薬泉院の院長は矯めつ眇めつ観察していた。ようやく気が済んだのか、試験管をフィプトに返しながら、口を開く。 「もしよろしければ、ひとつ、お願いがあるのですが」  院長の依頼は、他にも同じような枯れ方をした樹を探してほしい、というものであった。 「これまで報告してくれた皆さんは、一過性のものとして、気にしていないようです。ただ、僕には、世界樹全体に関わる重大な何かの兆しかもしれない、そんな気がしてならないんです。思い過ごしならいいんですが……。そこで、ノースアカデメイアに調査を依頼したいと思っているのですけど……」 「ノースアカデメイア?」 「ああ、大陸北方のメディック達が協力する、民間の医療研究機関です。今、フィプト先生にサンプルを見せて頂いて、決めました。僕はそこに、この症例の調査を依頼したい。けれど一ヶ所ではサンプルとして心もとありません。ですから、最低でも三ヶ所、症例の確認された場所を知りたいのです。お願いできませんか?」 「別に構わないと思うわ」  オルセルタが明るい声で答えた。「樹海探索のついでに見付けていけば、そんなに手間でもないと思うもの」 「おれも、別にいいよ」 「個人的にも興味がありますしね」 「いいんじゃないかな?」 「じゃ、決まりかな」  仲間達の声をアベイが取りまとめて返事をした。 「いいぜ、コウ兄。その頼み、引き受けた」  この場にいない四人分の意見は聞けていないのだが、とてつもない危険を伴う依頼でもない、特に反対の声は上がるまい。 「お手数おかけします」  ツキモリ医師は静かに頭を下げると、再び言葉を発した。 「それで、大変勝手な話かと思うんですが、この依頼にあたって、ひとつお願いしたいことがあるんです」  何事だ、と視線を向ける冒険者達に、ツキモリ医師は申し訳なさそうに話を続けるのであった。 「この依頼は正式な調査依頼にはできません。何の確証もないのに、変な噂にするわけにはいきませんから。ですから、どうか内密に――そうですね、酒場のご主人に話をしておきますから、報告はそちらにしておいて頂けませんか?」  翌日、笛鼠ノ月十三日。  ナジクの代わりにゼグタントを編入した『昼の部』探索班は、一路、採集場に向かって出発した。  昨日の夜の探索班が持ち帰ってきた、ミント草やニガヨモギが、どうやらものになりそうだと判ったからだ。 「――奇妙に立ち枯れた樹、奇妙に立ち枯れた樹、ねぇ……」  ゼグタントはそうつぶやきながら首をひねっていた。私塾に仮の宿を得て以来、時折、『ウルスラグナ』の食事の席にちゃっかり混じっていることもある、フリーランスのレンジャーは、この日の朝もさりげなく朝食の席に混ざり、その場で交わされた、ツキモリ医師からの依頼の話を聞いたのであった。  フリーランスとしてあちらこちらのギルドに関わり、樹海の方々を行き来する彼なら、立ち枯れの樹を他の場所で見かけたことがあるかもしれない。そう思った『ウルスラグナ』一同の問いかけには、朝食の席では思い出せなかったようで、いい答は返ってこなかった。  そして今、彼はまだ律儀にも思い出そうとしてくれているのだ。  ふと足を止め、ぽん、とゼグタントは両手を打ち合わせた。 「……おお、やっと思い出した」 「マジか?」 「確証はねぇけどな。昨日の依頼は、やっと五階に辿り着いたばかりのヤツらのだったンだがよ、採取手伝ってやったあと、先に進むのちょっと手伝ってやったンだよ。その時に、なんか枯れた樹を見かけたような……」 「どこで見たのよぉ?」 「あー、確か、北西だったよ。正確な位置まではよく覚えてねぇが……おっかないデカトカゲの縄張りを抜けたのは覚えてるぜ」  五階北西、と、エルナクハは己の頭の片隅に記憶した。第二階層にある(としたら)分は、これからの探索で見付けていけばいいが、すでに探索した第一階層(にもあるとしたら)で探すのは、正直面倒くさい。断片的にでも手がかりがあれば、大変にありがたいのであった。  それはまたいずれ確かめに行けばいい。今は第二階層の探索と採集が先である。  採取場にたどり着くと、冒険者達は早速、採集を始めた。といっても、エルナクハと焔華は、質の善し悪しを見極められる知識がないので、魔物の襲撃に備えて周囲を見張っている。  アベイやマルメリが、ぷちぷちと草花をより分け、やっと数本摘む間に、ゼグタントは手早く採取を行い、素材袋の半分をミントやニガヨモギで満たす。採集専門レンジャーの面目躍如である。 「そろそろ、いいかな」  と、冒険者が採取を終わらせようとしたとき。 「お、いいモン見っけ」  ゼグタントが喜声をあげて草むらに手を伸ばした。  何を見付けたのか、と注目する皆の前に差し出された、ゼグタントの掌には、ころんとした木の実のようなものが乗せられている。  否、『ようなもの』ではない。確かに木の実だ。というか、何の変哲もない木の実にしか見えない。  問うような目で見つめる『ウルスラグナ』一同に、ゼグタントは講師のような顔で告げたのであった。 「こいつぁ、『三色の木の実』って呼ばれるヤツでね。加熱したり冷却したりすると色を変えるのさ。別ギルドのオシゴトをやってた時に、交易所で錬金術師の姉ちゃんにお会いしてね、こういうのを見付けたら是非、交易所に売ってくれ、って言われてたンだよ」 「へえ、何かいいモノの材料になんのかな」 「さぁなぁ、オレは錬金術師じゃねぇからわからねぇよ。まあ、とにかくこの木の実をたくさん手に入れれば、先方も喜ぶだろうぜ」  だが、さしものゼグタントも、そのひとつしか『三色の木の実』を見付けられなかった。他の者は言わずともがな。  しゃがんで採集作業ばかりしていると、腰が痛くなり始めた。冒険者達はひとまず採集作業を中止すると、探索の続きに取りかかることにしたのであった。  曲がりくねった道を進んだり、行き止まりに突き当たって戻ったりした後に、冒険者達は『扉』を見付けた。  この階層にも、どう考えても人の手が加わったとしか思えない建造物がある以上、扉があるのもおかしくはない。  この際、扉はどうでもいい。問題はその先である。  拓けた場所に出た冒険者達は目を見張った。広場に点在する立木の一本の傍に、件のカボチャの魔物がいるのが見えたのである。人間どもには目もくれず、ただ移動しているだけだが、相変わらずの不気味な姿と、やはり磁軸計に反応が現れないことが、冒険者達の心に寒風を吹かす。 「へぇ、こんな魔物もいるンだねぇ……」  陽気なふりをしたゼグタントの声も、心なしか震えていた。  いずれにしても今の『ウルスラグナ』の手には負えない魔物、避けるに越したことはない。一行は魔物の進行方向を塞がないように移動し始めた。当面の移動先は西である。  しかし、西への道は、進むほどに細くなり始め、しまいには南に折れたところで行き止まりが見えてきた。詳しく調べないと何とも言えないが、獣道が見つかる気配もない、ただの突き当たり。カボチャの魔物と出くわす危険はないが、先に進めないのでは無意味だ。だがとりあえず悪あがきして調べてみようか、と思った、その時である。 「これは何ですし?」  焔華が上げた声に、冒険者達は集い、ブシドーの娘が見付けたものを目の当たりにする。  それは、木の実であった。  ゼグタントが「ふうん、木の実だねェ……」と至極普通の反応をしているところを見ると、先ほどの『三色の木の実』のような珍しい代物ではないようだ。というより、それくらいは『ウルスラグナ』の皆も判る。それを何故、焔華がわざわざ目に留め、皆を呼んだのか。  木の実はひとつだけではなかった。点々と並んで落ちていたのだ。その並び方は明らかに不自然、どう見ても人の手で並べられたとしか思えない。 「……コイツも、柱とかを作ったヤツらの仕業かな?」 「んなわきゃないだろ」  そんなに昔からあったなら、獣や自然現象によって、こんな配列などとっくに崩れている。どう考えても、ごく最近並べられたとしか思えない。では何者が?  ……木の実の配列を見ているうちに、並べたものの正体に行き当たるような気がするのだが、どうも、あと一歩のところで確証に至らない。  知らずのうちに、エルナクハは木の実の配列を追いかけていた。 「待ってよぉ!」  マルメリの声と共に、四人分の足音が追ってくる。  木の実の列を追ううちに、エルナクハはこの列が何かの示唆ではないかと思うようになっていた。  例えば、古典童話で言う、親に捨てられそうになる子供が、帰り道の目印代わりに撒いた小石のように。  帰りの目印? アリアドネの糸があるのにか?  否、なかったとしたら?  そして、目印は目印でも、『帰り』の目印ではないとしたら?  糸を忘れ、重傷を負った冒険者達が、獣に襲われにくいところに身を潜め、誰かに見付けてもらうように木の実で目印を付けたのか。  木の実の列は、突き当たりで途絶えていた。赤の葉の茂みで塞がれた道は、しかし、その向こうに続いているのかもしれない。エルナクハは固唾を呑みつつ、ゆっくりと茂みに近付いた。  そのときである。 「きゃあ!」  後方で女の悲鳴が聞こえた。焔華かマルメリか、あるいは別の何かか。そんなことを考えるまでもなく、エルナクハは弾かれたように振り返り、何が起きたのかを目の当たりにした。  悲鳴を上げたのはマルメリの方だったようだ。その右足を、二本の若木がきつく挟み込むようにして捉えている。その見事な捕らわれように、エルナクハは一瞬にして状況を把握した。二本の若木の正体だけではなく、木の実の役割も。 「……ああ、そっか、こいつぁ狩りの罠だったんだな」  どうりで、そこはかとない既視感があったわけだ。餌を撒いて罠まで誘き寄せる狩りは、自分だって何度もやったことがある。 「よかった……重傷を負った冒険者はいなかったんだな……」  アベイが安堵の表情を浮かべて息を吐いた。彼もまた、ここまでにエルナクハが浮かべていたものと同じ予測を立てて、見知らぬ冒険者達の心配をしていたようである。そんな二人に、罵声の旋律……とは言い切れない音価の塊がぶつけられた。 「重傷者はここにいるわよぉ! アンタ達の目は節穴かあっ!」  マルメリの足は見事に腫れ上がって、右足が左足の倍近く太く見える。重傷、とまで言えるかどうかはともかく、ひどい怪我には違いない。 「ん……っ、結構、きついわいや……」 「いやぁ、コイツを仕掛けた奴さんは、かなり手練れの狩人だねぇ……」  せっかく、どこかの誰かが仕掛けた罠である。できれば壊さずに外したかったが、残念ながらそうもいかない。仕方なく、罠に犠牲になってもらうことにした。二本の若木でできた素晴らしい罠は、しばらくの後には、二本の若木の残骸となり、引き替えにマルメリは自由を取り戻したのであった。  アベイの応急処置を受けながら、マルメリはぶーぶーと文句を垂れ流す。 「狩りをするな、なんて言わないわよぉ。でも、お願いだから、ここに罠があります、って書いておいてよぉ!」 「無茶言うな」  とエルナクハは答えたが、今回の罠を仕掛けた者がこの場にいたら、ああもあからさまに木の実を並べているのだから察しろ、と言いたいところだろう。 「……ちょうどいい頃合いだし、帰るか?」  応急処置を終えたアベイが顔を上げ、一同を見渡しながら問いかけた。  皆の意見を待つ態度だが、その本音は『帰りたい』だと読める。歌による支援を役目とするマルメリは、誰かがしっかり護ってやりさえすれば、今しがた負った怪我がその役割に影響することはない。しかし、メディックの本音としては、街に戻って安静にさせたいはずだ。  さらに、マルメリのことがなかったとしても、アベイの精神的な疲労は限界に近いのだろう。  実のところ、エルナクハは悩んだ。他の三人は元気である。ぎりぎりまで樹海を歩いて、少しでも地図を確定させることはできるのではないか、と。  そこまで考えておいて、だが頭を振る。そんな高望みをしてはいけない。第二階層は、『ウルスラグナ』にとってはまだ危険地帯だ。まして近くには、例の『磁軸計にひっかからない魔物』がいる。 「……そうだな、素材も売らなきゃなんねぇし、帰るか」  黒い聖騎士は統率者として決断した。  仲間達がアリアドネの糸を準備しているのを待つ間、エルナクハは少々名残惜しげに周囲を見渡す。いや別にこれが最後の冒険というわけでもないのだが。 「――!?」  思わず目を凝らす。ばさっ、という翼の音と、鳥の影を、感知した気がしたからだ。しかし、視線の先にはそれらしきものは何一つ捉えられない。  まあ、樹海にも鳥がいるのだから、翼の音自体は珍しくないのだが。  ただ、一瞬見たような、あの影は。  何かの錯覚か、人間のようにも見えたのだ。  翌日、笛鼠ノ月十四日、『ウルスラグナ』は七階に足を踏み入れた。  しかし、この階から現れるようになった猪は強敵で、その突進力は防御力に優れたエルナクハをも簡単になぎ倒す威力を誇っていた。もはや戦意を失った者達を抱えながら、探索班達は辛うじて逃げ出し、アベイの手当で事なきを得た後、薬泉院で養生している。 「というわけで」  大した怪我を負わなかったために回復が早かったアベイは、残りの面子――同じく怪我が軽かったマルメリと、夜の探索に出る一同である――を前に口を開いた。 「ナックが倒れるほどの相手がうろつき回ってる階、このメンバーじゃ、死にに行くようなもんだ。この機会だから、夜の探索のみんなには、第一階層で鍛え直すことを提案する」 「えー」と残念そうに声を上げるのはパラスである。  その隣に座っていたオルセルタは、同じように残念そうだったが、未練を払うように首を縦に振る。 「そうね、力及ばずに生命を失うよりは、マシだと思うわ。でも、どれくらいまで?」 「そうだな」  アベイは少しばかり考え込んだ後、ぽん、と諸手を叩いて宣言した。 「狂乱の角鹿どもを軽くひねり潰せるようになるまで、かな」 「あの鹿を、ですか……」  気乗りしなさそうにつぶやくフィプトの顔は心なしか青い。あるいは彼の頭の中には、三階で目の当たりにした惨禍の記憶が、生々しく蘇ったのだろうか。しかしフィプトはふるふると頭を振り、力の入った声で賛同の意を示した。 「――いいでしょう。確かに、強敵を乗り越える力がなければ、我々の旅は進みません」 「ね、ね、アベイ兄」  卓から身を乗り出すように、ティレンが口を挟んだ。 「鹿倒したら、みんなで鹿肉パーティ」 「やってもいいと思うぜ」 「やった」 「そん時ゃ、俺にも少しはお裾分けしてくれるんだろうなぁ?」  さらに『ウルスラグナ』の者ではない何者かの言葉が挟まった。なんのことはない、人数分の飲み物を運んできた、鋼の棘魚亭の親父である。  冒険者達が話をしていたのは、酒場の中。  実は『ウルスラグナ』が酒場にいるのは、件の話をするのが主目的ではない。今こうして話しているのは、来たついでである。では何故酒場に来たのかといえば、それはツキモリ医師の言葉を確認するためであった。  奇妙な枯れ方をした木々を確認するという依頼の話だが、その報酬を酒場に預けたので、調査が済んだら受け取ってほしい、との由。  昼の探索班を薬泉院にぶち込んだときに、その話を聞き、酒場に確認を取りに来たのである。ツキモリ医師の話を疑ったわけではないが、酒場に持ち込まれる話は大層多い、その噂話に埋もれて忘れられていないか確かめたかったのだった。 「なんでオッサンにお裾分けしなきゃいけないんだよ」  大口開けて笑いながらアベイは応じた。 「ち、ケチどもめ」  わざとらしく悪態を吐くと、親父は飲み物を冒険者達の前に置いた。  ふと声をひそめて、問いかけてくる。 「で、例の、朽ちた木ってのは、どうよ?」 「七階で一ヶ所見付けたのよぉ」  朝方の探索を思い出しながら、マルメリが答えた。イノシシに出くわして壊滅寸前になったのは、その直後だったのだ。 「これから、第一階層にも枯れた木がないか探しに行くのぉ。ゼグタントさんが見かけたって、昨日言ってたからねぇ」 「ご苦労さんなこったな」  親父は笑みを浮かべて冒険者達を労ったが、すぐに小難しい顔つきをして首を傾げる。 「しかし、ツキモリの坊主も、何をそんなに気にしてるのかね? 生きとし生けるもの、いつか朽ち果てるのは摂理だろうによ。迷宮の木が枯れてたからっていっても、世界樹が全部枯れちまうワケでもねぇんだし、何の問題があるんだろうな」  親父の言い分は矛盾している、と、朽ち木を見付けた時のフィプトの仮定を共有している『ウルスラグナ』の誰もが思っただろう。『いずれ朽ち果てるのが摂理』というのは、その世界樹も例外ではないかもしれないのだ。まだ枯れると決まったわけでもないが。 「ま、アイツ、昔から何考えてんのかイマイチ判らねぇところがあるからな」  自己完結して席を離れていく親父を、『ウルスラグナ』一同の視線が見送った。 「……まあ、しかし、実感できないのも無理もありません」  と肩をすくめながらフィプトが息を吐いた。 「小生とて、冒険者でなかったら、世界樹が枯れるかも、なんて話は想像も付かなかったでしょう」  だが、それでいいのかもしれない。その可能性もあるなどということが、ハイ・ラガードの住民の間に広がってしまったら、古来から世界樹を神木として扱ってきた者達は混乱に陥るかもしれないのだから。  大公宮などに知らせるにしても、ツキモリ医師が相談を持ちかけるという、ノースアカデメイアの判断を待つのがいいだろう。  今は他言しないに限るのである。  一旦私塾に戻ってから、一同は樹海へと足を向けた。  道程の途中まではセンノルレが一緒だった。下腹の膨らみが目立ち始めたアルケミストは、何かを詰めた籠を手に、一同の後から付いてきていた。持とうか、という仲間達の申し出にも静かに首を横に振る。  やがて薬泉院の前に着くと、センノルレはノブのない扉を軽く叩く。探索班達も並んで反応を待った。  世界樹の探索に入る前、街の中を軽く回ったときにもやったことだが、薬泉院の扉を叩くということは、中の院長以下メディック達に、急患ではないから慌てなくていい、と知らせることになる。  やがて、「どうぞ」という女性の声がしたので、『ウルスラグナ』一行は扉を押し開け、薬泉院の中に足を踏み入れたのであった。 「あ、フィプト先生」  返事をしたものと同じ声が、軽い驚きを孕んで投げかけられた。  見ると、声の主は金髪のメディックの女性のものであった。女性、といっても、少女に近い年齢だろうか。パラスやアベイに近い年頃と推察される。 「おや、アンジュさんですか」  フィプトも金髪のメディックに気軽に声を掛けた。 「久しぶりですね。うちに学びに来ていた頃から、もう……何年経ちましたかね」  どうやら彼女も、過日はフィプトの私塾の生徒だったようである。 「久しぶりって、私はずっと薬泉院にいましたよ?」  苦笑いに近い表情で、アンジュと呼ばれたメディックは返してきた。 「他の冒険者の方の手当とかで忙しくて、フィプト先生にはなかなか声をおかけできませんでしたけど」 「これは失礼」 「それで今はどんなご用件――ああ、なるほど」  問いかけたアンジュは、センノルレの様子を見て合点がいったようであった。にこやかに笑むと話を続ける。 「旦那様がたは、極めてお元気ですよ。明日にはまた樹海探索に出られます」  それまではどこか陰りがあったセンノルレの表情に、ぱっと光が差す。 「本当ですか? ありがとうございます、ありがとうございます……」 「アベイさんの応急処置と、うちの先生の処置がよかったからですよ」  アンジュは笑みを消さないまま、冒険者一同を奥の部屋に導いた。  奥にあるいくつかの病室には、回復待ちの冒険者達が収容されている。かすかに聞こえるうめき声が心配を催さなくもないが、本当に重篤な患者は、さらに奥の集中治療室に収容されているはずだ。  並ぶ病室の中でも、手前側に近いところに、『ウルスラグナ』の怪我人――エルナクハ、焔華、ナジクはいた。各所に巻かれた包帯が痛々しいが、戦闘不能になった最大の原因は、イノシシの突進を食らってショック状態に陥ったことによるものであり、その危機を脱してしまえば、肉体的な怪我の度合いはそれほど大きくなかったのだ。といっても、特にエルナクハなどは、肋骨にヒビの一本や二本は入っているに違いない。  ところで、センノルレが持参してきた篭の中には、私塾の厨房で焼き上げた菓子と、数種のジャム瓶が入っていた。エルナクハの容態は、ハイ・ラガード探索を始めて以来、類を見ないほど重篤なものだったから、治療のおかげで翌日には復帰できるといっても、今は待つことしかできない彼女としては、大層に心配だったのだろう。様子見に来たかったわけである。 「おいおい、そんな心配そうな顔すんなよ」  肋骨と右腕をギプスに固められたエルナクハが、苦笑気味に声を上げる。 「せ、聖騎士である貴方のことなど、さほど心配してません! それよりも焔華やナジクの方が心配です」  夢から覚めたような顔をしてセンノルレは反駁した。エトリア時代の彼女だったら、そんな態度も心底からのものだっただろう。しかし、聖騎士と契を結んだ今となっては、ただ強がっているようにしか見えない。一同は苦笑いしつつも、口とは裏腹にせっせと菓子にジャムを塗り、夫の口元に差し出す、女錬金術師の姿を眺めていた。  センノルレ、再び我に返り、『夜の部』探索班一同を、困惑と冷徹が入り交じった目で見据える。 「み、見せ物じゃないんです。貴方たちは探索に行くのでしょう? さあ行きなさい、そら行きなさい、今すぐ行きなさい!」 「はいはい、言われなくてもー」  パラスが探索班全員を代弁するように声を張り上げ、くすくす笑いながら踵を返した。カースメーカーの呪鎖が触れて鳴る音までもが、彼女の笑い声に引きずられ、大層愉快そうに聞こえる。他の探索班達も彼女の後を付いて病室を辞しようとした。 「気を付けろよ。月並みな言葉だがよ」  エルナクハの言葉は、月並みゆえに真剣みを色濃く帯びていた。今の彼は、仲間達がこれから行くのが第二階層ではないことを、まだ知らない。が、第一階層であろうと第二階層であろうと、気を付けないことはありえない。  探索班達はギルドマスターの言葉を真摯に受け取って、薬泉院を後にしたのだった。  木々の合間を縫って、ぽつぽつと樹海に投げかけられる、淡い月光の中、冒険者達は夜の古跡の樹海を往く。  まだ起動している樹海の柱を通ってきた五階、目的地は北西である。  ゼグタントがこの階の北西で立ち枯れた樹を見かけたと言っていた。おまけに、北西には鹿の縄張りが一ヶ所ある。目的を果たすためには好都合だ。  枯れ木がないかどうか注意しながら進むうち、鹿の縄張りに近付いてきたので、一行はさらに注意しながら歩を進める。 「……先手取るのは、ちょっと無理よね」  縄張りに踏み込む直前、オルセルタが鋭い目で前方を見やりながら、口を開いた。背後を突くことができれば、少しは有利に戦えるのだが、それはかなり難しい。眠りの鈴で眠らせれば簡単だが、今は持ってきていない。というより、そんな小細工なしで相手を叩きのめすのが今の目標だ。  腹をくくって進もうとする一行だったが、ふと、ティレンが立ち止まった。どうしたのかと無言で問う仲間達に、迷いを宿した目を向ける。 「おれ、また混乱したらどうしよう」  ティレンは第一階層で角鹿と戦ったときのことを気に病んでいるのだ。  まだ暦が『笛鼠』に変わったばかりの頃、自分達にキマイラに挑む力があるかを試すために角鹿に挑んだ。その一人であるティレンは、その蹄が醸す怪しいステップに呑み込まれ、思考を掻き乱された。そうして味方を敵と取り違え、アベイやフィプトを凶刃に掛けてしまった。  それはどうしようもないことで、アベイやフィプトにしては責める気は毛頭ない。だからといってティレンが「ならいいよね」と納得することはないだろう。  アベイは軽く息を吐くと、ソードマンの少年の肩を、あやすように、ぽんぽんと叩いた。 「大丈夫だ、俺たちも前みたいに簡単に倒れないよ。ちゃんと回復してやるから」 「ん。たのむ、アベイ兄」  心配の種は完全に払拭されなかったのだろうが、それでもティレンは素直に頷いた。  そんな会話をしていたちょうどその頃、『ウルスラグナ』一同の視界から見えるところに、問題の角鹿の姿が現れた。ゆっくりと、しかし鈍重さの欠片もない優美な足取りで、自分の縄張りを侵す不届き者がいないかどうか、見回っている。たぶん『ウルスラグナ』の気配にも気付いているのだろう、だが「それ以上近付かなければ攻撃の意志はない」と言いたげに鼻を鳴らすと、ゆったりと歩を進めようとした。  しかし、そうは問屋が卸さない。  冒険者達は銘々に気合いの声を上げながら、鹿に肉薄した。 「無駄殺しはしないわよ、肉も皮もちゃんと糧にしてあげるから!」 「明日は、鹿肉パーティ」 「鍋もいいよね! 私、味噌! 味噌味がいいな!」  ……いまいち勇猛さには欠けるが、気合いには違いない。  アベイとフィプトは苦笑いをしながら、鹿に襲いかかる仲間達の後を追った。 「明日は鹿肉、明日は鹿肉、明日は鹿肉パーティー」  よっぽど嬉しいのか、ティレンが歌のような旋律を付けた声で斧を振るう。  既に鹿はこときれていた。鼻歌交じりの楽勝、とまではいかないが、よくやったと言えるだろう。その獲物をティレンは大まかに解体しているのである。  その傍では、オルセルタとアベイがナイフを振るって、部位ごとに肉を切り分けている。  フィプトとパラスは、その肉を笹の葉でくるんで、牛革の袋にせっせと詰めていた。  肉を取り、皮を剥ぎ、胃から腸やら心臓も食用として回収し、ついでに角やタテガミもザックに収める。角やタテガミはさして売り物にはならないが、ものはついでということで持ち帰って、交易所に引き渡すのが常だった。シトトの娘が、引き替えに、なんだかんだと、作ったポプリ袋をくれたり、たくさん買いすぎたから、と果物を分けてくれたりするのだった。最初にリンゴをくれたときは、今回限り、という話だったのにもかかわらず、だ。冒険者としてはそれを期待して持ち込んでいるわけではないのだが。  オルセルタが残った食べられない内臓や骨をきれいにまとめて、茂みの奥にそっと押し込んだ。ぱん、と両手を合わせて声を張り上げる。 「ごちそうさま。あなたの魂が無事に大地母神の御許に帰れますようにっ」  あの兄にしてこの妹というか、さすがは元神官候補というか。 「ごちそうさまー」隣でティレンが真似をして手を合わせる。  樹海で敵を倒すたびにいちいち祈ってなどいられないが、今回は完全にこちらから襲う気で行ったのだ、たまには祈ったっていいじゃないの、というのが、ダークハンターの少女の言い分である。  もとより、樹海に関わる大概の者は、意識的にか無意識にかの違いはあれど、樹海にそれなりの敬意を持っているものだった。もともとハイ・ラガードの民だった者は、特にその傾向が大きい。魔物に襲われたときはともかく、糧として狩り取った時には、心のどこかで世界樹なり神なりに感謝を捧げるものだ。  ……神といえば。  以前フィプトが言っていた。ハイ・ラガードの伝承に曰く、天空の城には神が御座(おわ)し、勇者を求め、地上で死した者達の魂を天空の城に集めている、と。世界樹の上の城に神がいるなら、樹海の生き物の魂の引き取り手はそっちだと思った方がいいんだろうか。そんなことをオルセルタは考えたが、その神が本当に神なのかもわからないので、とりあえずは現状維持、自分達の神に願っておくままにしたのである。  一息吐いたところで、鹿の縄張りだった区域を後にして、北西の探索にかかる。鹿を倒して自分達の実力を量る、という目的は果たしたが、枯れ木はまだ見つかっていないのだ。時折現れる魔物をいなしながら、冒険者達は奥へ奥へと歩を進めた。  やがて、北西でも隅の方に近付いていく。木々の隙間から差し込む月の光が増えた中、『ウルスラグナ』は、地響きに似たものを感知した。磁軸計でも、現在地の近くに『敵対者(f.o.e.)』がうごめいているのが判る。地図――羊皮紙に転記した方――を開いて確認すると、近場に大トカゲ『駆け寄る襲撃者』の縄張りがあると記されていた。  一同は顔を見合わせた。  襲撃者は角鹿以上の強敵だ。そいつを軽く倒せるなら、自分達の力は間違いなく第二階層でも通用するだろう。しかし、角鹿との戦いで、勝ちはしたものの楽勝とはいえず、体力も気力も消耗した。そんな現状で襲撃者に挑むのは無謀だ。今回は避けるに限る。  というわけで、冒険者達は襲撃者が遠くに行ったのを確認し、東西に延びる縄張りを横断する。正確に述べるなら、縄張りを西に進み、襲撃者が戻ってくる前に、突き当たって北に折れる道へ抜けたのであった。 「鍛練を積んだら、次の目標はあいつだね」  襲撃者の吠え猛る声を耳にして、パラスが挑戦的な声を出した。 「あいつ、食えるかな」とはティレンの返し。 「トカゲ案外いけるわよー。鶏肉っぽいけど、もっとしっかりした味してるのよ」 「その経験から行けば、襲撃者も食べられなくはなさそうですね」 「どこかに麻痺毒の袋とかありそうだから、解体するときゃ注意しないとな」  他の仲間達も乗じて口を出し、冷たい光の中に賑やかな会話が弾けるか、と思いきや。  一同は前方を見て、一斉に口を閉ざした。  月の光に照らされた、青い影の中にある森の一角に、それはあった。  不自然に色を失い、冷え冷えとした木々の一群。  ゼグタントの目撃証言は、気のせいなどではなかったのだ。  灰色に朽ちた木々は、やせ細った枝を晒していた。  その様はまるで、訪問者達に何かを訴えようとしているようだった。  それは救援か、警告か。  どちらでも違和感のない、その不気味さ。 「やっぱり不気味だな……」  顔を引きつらせ、後ずさりしつつ、アベイが言葉を吐き出した。  他の冒険者達は、すでに彼の数歩後ろまで後ずさっている。  今の自分達には、何もできない。冒険者達は異常のある場所を地図に書き留めると、そそくさとその場を立ち去った。  しかし、後ろ髪を引かれるかのように、頭の中には、立ち枯れの樹のことが引っかかり続ける。  自然に起きたとは思えない、この不気味な現象。原因は何なのだろう。  次の日の夕刻、私塾の中庭に設置された物を見た者は、一体何が始まるのかと思っただろう。  コの字型に積んだ煉瓦の上に渡された、大きな金網である。その直下にはもう一枚の金網が付随していて、そちらには炭と薪が乗せられている。火がつけば上の金網にも熱が伝わるだろう。  傍には食堂から運んできた角卓が、二台くっつけられた状態で設置してあり、その上に載っているのは、何枚もの皿に山積みにされた肉や野菜、傍らにあるのは何種類もの酒瓶。  肉は、昨日狩ってきて、低温貯蔵壷で保存していた、角鹿の肉である。他にも、この日、『昼の部』探索班が全力で狩ってきた、エリマキトカゲや猪の肉もある。野菜も、街で買い求めてきた他に、迷宮で見付けたものもいくらか混ざっていた。  言うまでもなく焼肉パーティの様相であった。  狙ったわけではないのだが、本日は十五日、私塾は休みだ。生徒に気兼ねする必要はない。  フィプトが薪に火を――錬金籠手を持ち出すほどではないので、火打ち石を使って――点け、赤熱した網の上にセンノルレが肉を落とす。じゅう、という音と共に香ばしい匂いが広がると、誰からともなく歓声が上がった。 「野菜もちゃんと食うんだぞー」とはアベイの言である。  そのアベイの忠告を、生物学的な問題で聞けない者もいる。獣であるハディードだ。  そのハディードは、ティレンの足下にぺっとりとくっついたまま、怯えたような目で煉瓦積みを見つめている。樹海の獣は、『外』の獣に比べれば火を恐れない傾向があるが、やはり初めての経験、尻尾を巻いて逃げないだけ勇気があるというべきところだろう。  エルナクハはそんなハディードに、生肉の一片を差し出してやった。 「ほら、食えよ」  ティレンと親しげな人間、つまり自分に害意のある相手ではない、ということを学んできたのか、牙を剥くことはなかったが、それでもハディードは身を強ばらせる。すがり付かれているティレンは、口に運んでいた焼肉を呑み込むと、獣の子の背を、とんとん、と優しく叩いた。 「食べても平気」 「ほら」  ティレンの促しと、食べ物の誘惑に惹かれたのとで、ハディードは生肉に口を伸ばす。あくまでも四肢はティレンの傍から離さないのが、微笑ましいのか勇気が足りないのか評価に苦しむところである。  伸ばした口吻が生肉に届き、ようやくハディードはご馳走にありつくことができた。 「よくできましたえー」  たおやかに微笑むのは焔華であった。しかし、彼女の表情をよく見ると、どことなく引きつっているのが判っただろう。常日頃の、凛として佇む彼女らしくなく、折を見ては身体をもぞもぞと動かしている。あくまでもたとえだが、背中に放り込まれた毛虫を追い出した後、まだいるのではないか、と身体をうごめかせて追い出そうとしているようにも見えた。 「……まだ痒(かゆ)いか?」とアベイが心配そうに口を開く。  焔華は苦笑いめいた表情を浮かべ、こっくりと頷いた。  むー、とうなりながら、アベイは考え込む。 「調剤ミスったかなぁ……」 「樹海の植物やから、効きにくいのかもしれませんし」  ぬしさんのせいじゃないえ、と言いたげに手を軽く振りながら、なおも苦笑いの表情で焔華は答えた。  事情を知らなければ何のことやら判らない会話だが、焔華はこの日の探索時に、ひどい目に遭ったのだった。  鍛錬を兼ねて六階を再探索中に、なぜか木の枝に引っかかっている麻袋を見付けたのである。中身も残っているようだった。どこの冒険者のものかは判らない、だが、置き去りにしている以上は、見付けた者の所有物になるというのが、樹海探索の不文律。  ナジクが取りに行こうとするのを制したのは、焔華だった。 「わちは小さいときなぁ、『猿(マシラ)のほのちゃん』と呼ばれてましたえ」  胸を張って宣すると、焔華は樹幹に手をかけた。と思うが早いか、するすると登っていく。東方の民族衣装は、そのようなことをするには向かないように見えるものだが、ブシドーの娘は意に介さず、あっという間に太い枝まで上り詰めた。 「気を付けろよ!」 「なあに、鎧で重いぬしさんが登るよりは安全ですし……っとと」  枝の根元から、麻袋のあるところまで行くまでが大変だった。焔華は何度も足を滑らせかけ、その度に仲間達の肝を氷点下近くまで冷やしたものだ。それでもブシドーの娘は、無事に枝の先端近くまで辿り着き、麻袋を手に取ると、自分が身軽に地面に飛び降りるより先に、下で待つ仲間のところに袋を落とした。  麻袋の中には、赤木松の木片が入っていた。武具には使えないが、木目の美しさから細工物の材料になる。特に脂(ヤニ)を多く含んだ部位は値打ちものだ。交易所で、かつて衛士隊が第二階層に踏み込んだときに持ち帰ってきたサンプルで作られた、木目模様の見事な椀を見て、誰もが溜息を吐いたものだった。  その木片は、枯れたものが自然に乾燥したもののようだった。高品質の松細工は、脂を含んだ部位を、年単位の時間を掛けて自然乾燥させてから作られるという。いわば樹海が、面倒な作業をあらかじめやっておいてくれたようなものだろう。  永久に栄えるように見える樹海迷宮にも、『枯死』はあるのだ。だが、普通の『枯死』は、それがあって当然のものとして、違和感なく受け止められる。  ……あの奇妙な立ち枯れの木々は、やはり変なのだ。  そんなアベイの感慨はさておき、エルナクハが焔華に労いの言葉を掛けた。 「お疲れさん、ほのか」 「どういたしましてー」  思いがけない儲けものだった。それにしても、どうしてまた木の枝なんかに引っかかっていたのか。推測すればきりがなく、意味もないので、深くは考えないことにして、冒険者達はその場を立ち去った。  ところがである、数分とおかずして、焔華が顔を歪め、着物の合わせ目から手を中に入れた。もぞもぞと動いているのは、どうやら身体を掻いているらしい。 「どうしたの、ほのちゃん?」  マルメリの問いかけに、ようやく、といった風情で、焔華は応える。 「身体……妙に痒いですし……というか、ぴりぴり痛いくらい……?」  そう答えるが早いか、焔華はうめいてその場にしゃがみ込み、身体を抱えるように縮めた。慌ててアベイが検診すると、焔華の全身は真っ赤になっていたのだ。どうやら、麻袋を得るために登った木の樹液にかぶれたらしい。  もちろんアベイは膏薬を処方した。しかし、夜を迎え、今現在の焼肉パーティの段になっても、未だ完全には治っていないのであった。 「なんなら今、薬塗ってやるけど」 「いやですし」  アベイの申し出を、真朱ノ窟に住まう魔鳥顔負けの反応速度で断る焔華。 「……いや、ここでじゃなくて、ちゃんと俺の部屋でやってやるから、恥ずかしがらなくても」 「今席を立ったら焼肉食いっぱぐれますえ!」  たおやかでしなやかなブシドーの面影はどこへやら、焔華は自分の皿に大量の焼肉を載せて、縄張りを死守する獣のような鋭い目で周囲を見渡した。あまりに急いで肉を回収したせいか、ほとんど生のようなものまである。  肉を切り分けたときに、目に見える寄生虫は取り除いたが、もう少し火を通してくれないかな、と、げんなりと思うアベイだった。  とりあえず、焔華が独り占めしようとしたところでしきれないほど、肉はたくさんある。  こんがり焼けた鹿肉を食みながら、エルナクハは煙の行方を目で追った。  香ばしい匂いのする煙が、上方へ昇り、闇に落ちかける朱の空の中で影のようになりつつある世界樹の、枝の合間を通って、さらに上へたなびく。  世界樹の頂にある天空の城。さすがにそこまでは煙は届かないだろうが――。 「皆さん、何をなさってるんですか?」  不意に訝しげな声が上がったので、エルナクハを始め、その場にいた者達は皆、声のした方を見た。  私塾の敷地を囲む塀越しに、一同を見ているのは、衛士の一人であった。ヘルムをかぶっていて声が籠もっているので、どうやら男性らしい(もっとも女性の衛士を見たことはないが)、ということ以上のことはわからない。そして衛士がなぜこんなところにいるのかも――いや、煙が上がっているのを見て、何事かと駆け付けたのかもしれないが。 「焼肉パーティをしていたんですよ」  私塾の管理責任者として、フィプトがそう説明しながら衛士に近付く。 「火事に見えて紛らわしかったですかね。申し訳ないことをしました」 「ああいえ、煙の様子から、危険はないのはわかっていたんですが」 「では、なぜ、こちらに?」  冒険者達全員が浮かべる疑問を受け止めつつ、衛士はヘルムに手をかけ、外しながら言葉を返した。 「実は、大公宮からの伝言を伝えに参りまして」 「大公宮の?」  口を揃えた冒険者達は、その話とは別の理由で驚愕した。ヘルムの下から現れたのは、見覚えのある顔だったのである。 「あ、アンタは……」  忘れもしない。その衛士とは三階で出会った。つまりは――キマイラに呼ばれて上階からやってきた、狂乱した鹿どもの殺戮の園で、唯一生き残った、彼だ。 「確か、バイファー……だったな」 「はい、お久しぶりです。その節は世話になりました」  かつて私塾の生徒だった衛士バイファーは、笑みを浮かべて軽く会釈を返してきた。  ざっと近況を聞いたところによると、あの探索以降、彼は公宮付に回されたという。例の一件以来、樹海を前にすると身がすくむ彼を、迷宮巡回役には戻せない、と見なされたのだろう。今日この日に私塾に現れたのは、公宮付の役目ゆえらしい。 「伝言とは、何だい?」  という、かつての恩師の促しに、バイファーは口を開いた。 「すみません、一介の衛士ですから、詳しい内容までは。ただ、依頼したいことがあるから、明日、顔を出してほしい、という按察大臣からの要請です」 「何でも屋さん大臣サンがねぇ……」  『ウルスラグナ』一同は顔を見合わせた。  自分達は新規新鋭のギルドとして認知されている。それは自惚れではない事実として判っていることだった。同時に、自分達より迷宮の先を行くギルドが、いくつもあることも判っている。その優秀なギルドの数々を差し置いて、名指しで自分達に依頼とは、どういうことだろう。  しかしバイファーは内容を知らないと言った。ここで問うことは無意味だろう。明日、大公宮に行けばいいことだ。  断ることもできるだろう。だが、そうする意味もない。わざわざご指名頂いたのなら、せいぜい依頼を上手くこなして、お眼鏡に適うとしよう、という計算もある。もっとも、とても自分達の手に負えないようなことなら、一考しなくてはなるまいが。 「わかった、りょーかい」  と頷くエルナクハの隣で、焼けた肉を皿に少し載せたフィプトが、フォークを添えたそれを衛士に差し出す。 「せっかく来たんだ、よかったら少し食べていかないか?」 「えっ、いいんですか?」 「仕事中によくないなら、無理に勧められないけど」 「ああいえ、仕事に差し障らない程度の休憩は許可されてますが……」  バイファーは皿とフォークを受け取り、いそいそと肉を口に運びかけたところで、ふと問いを発した。 「この肉、やはり樹海の、ですか?」 「おう、そいつは鹿肉だな。猪やトカゲもあるけど、そっちも食うか?」 「鹿、ですか」  衛士の朗らかな顔が崩れ、冷たく強ばる。件の惨状を思い出したのだろうか。 「……仲間の仇を取るつもりで、ぱくっといけや」  エルナクハは強気な言葉で促した。あの惨状からとっとと立ち直れ、とは言えない。だが、死んで肉となった敵に対してまで影を引きずっているような状況は、決してよくはないだろう。 「は、はい」  衛士の青年は慌てて頷いて、フォークで肉を突き刺し、口に運んだ。もぐもぐもぐ、と咀嚼し、嚥下し、夢を見るように溜息を吐く。 「……美味しい」 「だろ?」  にまにま笑いながらエルナクハは応じた。 「あんなに恐ろしい獣なのに、なんでこんなに美味しいんだろう」  泣くような笑うような顔で、衛士の青年は皿に残った肉を平らげる。  差し出された空の皿を、フィプトが受け取った。 「伝言ありがとう、バイファー君。大公宮には参内すると、大臣閣下に伝えてくれないか」  恩師の言葉に頷く青年だが、すぐには立ち去ろうとしない。何かまだあるのか、と訝しく思う一同の前で、青年は思いきったように口を開いた。 「……あの、あと八人分の仇、取らせてもらってもいいですか?」 「現金なヤツだなぁ」  エルナクハは苦笑しながらも、衛士の青年の要望を叶えてやることにしたのだった。  ハイ・ラガードの朝は早い。  冒険者が訪れるような施設は、いつ彼らがやってきてもいいような態勢を整えているものだが、それを抜きにしても、太陽が上り始めた頃から街は動き出す。郊外の畑を管理する農民達が、日の出より前から畑に出て刈り取った作物を篭や荷車に積んで、市街の門が開くのを待っているのだ。必然的に、そういったものを迎える商店も早い。  大公宮に向かう『昼の部』探索班の五人――エルナクハ、アベイ、ナジク、焔華、マルメリ――は、小さな荷車を一頭のロバに引かせる少年とすれ違いそうになった。その荷車の中には、驚いたことに、色とりどりのバラが満載されていた。思わず見とれる一同に、少年は得意げな笑みを浮かべ、バラに埋もれていた何本もの瓶の一本を取り上げ、差し出しながら口上を述べる。 「冒険者の兄ちゃん姉ちゃん達、毎日、獣の血や樹海の土にまみれて大変だろ。たまにはバラの香りをまとってみたらどうだい?」 「へぇ、薔薇水ねぇ」  瓶を傾けて中身を少しだけ掌に取ったマルメリが、その香りを確認して感心したように声を上げる。 「ラガードじゃバラも売り物にしてたんし?」 「一番の旬は戌神ノ月から怒猪ノ月ぐらいだけとな」と少年は答える。晩春から初夏の頃だ。 「今は四季咲き品種の二番花が咲いて、そいつから精油や薔薇水が取れる。一番質がいいのは、戌神の頃に咲く一季咲きのヤツなんだけど、今のコイツも、悪くないと思うぜ」  マルメリの手の上にこぼれた雫は、少年の言葉が嘘ではないことを、そのかぐわしい香りで証明している。  少年の話によれば、精油はほとんどが大公宮や貴族が買い上げているらしい。そもそも庶民の手が届きにくい値が付くのだ。そのかわり、というわけでもないのだが、花弁から精油を精製する過程で生まれる薔薇水は、比較的安い値が付いている。それでも、庶民が衝動買いするには少々値が張るものだが。ちなみに、一緒に荷車に積んであるバラの花は、精油用とは別の品種で、花屋に卸す切り花、兼、荷車の飾りだそうである。 「お手軽なのがいい連中には、こっちだな」  と少年は別の瓶を取り出す。その中に入っていた水は、薔薇水のような深い香りではないが、心が軽くなるようないい香りだ。この香り、どこかで嗅いだことがあるような気がするのだが。 「樹海の中に咲いてるっていう小さい白い花のだぜ」 「……ああ!」  なるほど確かに、ネクタルがこのような香りを放っていた。今目の前にある香水のものより、ずっと強い香りだったが。 「兄ちゃん達みたいな冒険者が増えて、あの花の精油を使った薬もたくさんいるからって、おれの家に精製する仕事が持ち込まれてるんだよ。こいつは、そのときの副産物。お手軽な値段つけられるから、庶民の奥さん達が買ってくれる。おれ達にとっても儲けが増えて万々歳だぜ」 「そうか、薬の材料をか。はは、言ってみりゃ、オマエらもオレらの生命の恩人ってことだな」 「生命の恩人って思ってくれるなら、恩返しのつもりで薔薇水の一本でも買ってくれよ」  少年の切り返しに、エルナクハは苦笑した。  結局、ナジクは興味を示さなかったものの、他の全員が少年から薔薇水を買い上げた。女性達は言わずともがな、アベイは薬学研究に役立てるらしい。エルナクハは妻の土産にするつもりだった。おまけ、ということで、拳の中に隠れてしまいそうに小さな瓶に入った、バラの精油ももらい受けた。いわゆる香りのサンプルで、大公宮で確認のために開封し、中身は半分ほどに減っているのだが、ちゃんとした未開封商品だったら冒険者達が買った薔薇水四本以上の価値はあるらしい。  冒険者は薔薇水売りの少年と別れを交わし、改めて大公宮へと足を向けた。  按察大臣は謁見の間に踏み込むなり、小首を傾げて、すんすんと鼻を鳴らした。漂う香りの大元を見いだすと、ほっほっほ、と笑い声を上げ、そちら――訪ねてきた『ウルスラグナ』に近付く。 「ご足労感謝する。よく参られた。――それにしてもこの香り、どこぞの貴族が参られたかと思うたぞ」 「はは、途中で成り行きで薔薇水買ったからな、ちょっと付けてみた」  とエルナクハは悪戯っぽく笑う。正確に言うなら、付けたのは、精油を薔薇水で希釈したものである。ちなみに薔薇水は、アベイが買った物を開封したものだ。 「まぁ、樹海に入ったら、すぐ土と獣の匂いに消されちまうんだろうけどよ。で、オレらに用事ってなんだ、何でも屋さん大臣サンよ」 「うむ」  聖騎士の促しに、大臣は頷くと、口を開いた。 「そなたら、樹海の七階まで足を踏み入れたそうじゃな」  冒険者達は一斉に頷く。事実である。八階へ通じる階段はまだ先だろうが、厳しかった魔物の猛攻に対処することも、どうにかできるようになってきていた。 「ふむ、それはよきかな。そなたらもさらなる力を付けてきておるようで、頼もしいことこの上ない」  『ウルスラグナ』の反応に、大臣は満足げに頷き返すと、不意に声を潜める。  好々爺の表情が、この時ばかりは、国家の安寧を図るべく務める厳格な古老のものに変わっていた。その表情に気圧され、エルナクハすらも思わず口調を改めた。 「いかが、なされましたか、按察大臣閣下」 「あらかじめ申しておく――」  ぴんと張った弦から響く低音のような声が、有無を言わさぬとばかりに冒険者達に投げかけられる。 「これは、ごく一部の冒険者にしか話しておらん話、公国の秘事と思ってほしい」 「む……そいつぁ、随分と重いな、大臣サンよ」  エルナクハは元の口調を取り戻した。否、普段通りの平静を装うしかなかった、という方が正しい。  冒険者なるものは、本来、国の裏側だの陰謀だのとは無縁の存在だ。正確に言えば、そうあるべきだ、とエルナクハが思っているだけだが。そういった裏ごとに巻き込まれた者が、無事で済んだ試しがない(と勝手に思っている)。  事実、『ウルスラグナ』はエトリア迷宮の真実に近付きすぎたために消されかけたことがある。だから按察大臣の口調に警戒し、その真意を汲もうと神経をめぐらせた。もしも彌危(やば)い話だったら、自分はギルドマスターとして仲間を護らなくてはならない。いくら鍛錬を積んでも、竜すら倒せるほどの強さを得ても、抗いがたい、『人間の意志』という魔物の牙から。 「そんなに強ばるでない。そなたが思っているような話ではないわ」  大臣は目の前の聖騎士をなだめるように口を開く。平素なら「そなたらでも腰が引けるということがあるのじゃのう」と、軽口混じりに言ったであろう大臣の、真面目な受け答えが、事の重大さを却って引き立てる。しかし、冒険者の手に負えない話ではない、というのは事実のようだった。エルナクハは肩の力を抜いた。彼の態度に影響を受けて強ばっていた仲間達が、聞こえるかどうかというほどに静かに溜息を吐いたのを、背後に聞いた。  冒険者達が落ち着いたのを確認すると、大臣は続きを口にする。 「この公国が世界樹の迷宮探索を進めておる理由は、当然、空飛ぶ城を見つける為。我らが父祖の根元を知るためじゃ。しかし、実はもう一つ、もっと切実な訳がある」  次の言葉が発せられるまでには、少々の間が空いた。 「それは……大公さまご自身の為なのじゃ」 「大公自身の?」  大公、すなわちハイ・ラガードの支配者である。冒険者達は一度も会ったことはないが、迷宮探索に冒険者の力を借りる――ないし『利用する』と決めた上で、その待遇や対価をきちんと整備している。それで充分。  一国の支配者が、そこまでして『夢物語』を追うのは、現実的な計算もきちんと行っての決断だろう。事実、世界樹の迷宮という呼び水に集った冒険者達は、いろいろな意味で国を潤わせている。弊害対策をきちんと行えば、国力を飛躍的に伸ばすことになるはずだ。  根元(つまり歴史)の探求、国力増強――それらは『国』のため。しかし、他にも大公自身に関する理由があるというのか。 「聡明な大公さまじゃが……、実は、重い病に侵されておる」 「……!」  冒険者達は瞠目した。そんな話、ハイ・ラガード人のフィプトからも聞いたことはない。  本当に、秘事なのだ。限られた者しか事実を知らず、大半の国民は、大公の息災を信じて、あるいは大公のことなど気にも留めずに生活を営んでいる。しかし、国家元首の病臥は、時にはそのような平穏を破壊する種となりかねない。病人自身がどうというわけではない。その機に乗じて何かしらを企む輩がいるかもしれぬ、ということだ。 「……そなたらが考えているようなことの真偽は、敢えて言うまい。それこそ、『真』であったら、そなたが心配したようなことに巻き込んでしまいかねんわ」  そう述べる大臣の瞳の中に誠実さを読みとり、エルナクハはひとまず安堵した。とはいえ、自分達が直に巻き込まれないにしても、知らぬ振りを続けていられないのも事実だ。現大公に何かがあり、別の者がその座に着いたら、政策を一転させ、冒険者を追い出しに掛かる、という可能性も否定できない。それは面白くない話だ。  もちろん、自分達にできることがなければ、指をくわえているしかあるまい。だが、冒険者として何か成せることがあると見込んだからこそ、大臣は自分達を大公宮に呼んだのだろう。 「病状は、どんなんだ?」 「今は、さほどではない。時折の発作を除けばの。しかし、多くの治療士や巫医に頼ったのじゃが、みな、サジを投げてしもうた」 「ツキモリ先生は?」 「同様じゃ。彼の者の師のキタザキ医師を呼んだこともあるが、完治には至らなかった。といっても、かの医師が病状を大幅に抑えてくれたのが、今の状態じゃ。いずれはまた病状も進むじゃろう、という話じゃが、さすがは『医神』、現状でもまことにありがたいことじゃよ」  かの『エトリアの医神』でも、大公の病を完全に叩き伏せることはできなかったのか。  冒険者の無言の驚きに、大臣は眉根を寄せて頷き答えると、話を続ける。 「そして……そんな大公さまを見て心を痛めておられるのが、まだお若い公女さまじゃ。樹海探索は、公女さまが大公さまの病を治すために、推し進められたものなのじゃよ。無論、樹海の力を国力と成すべく開拓する、ということも、嘘ではないがの」 「……それ、ちょっと変じゃないか?」  アベイが疑問を呈した。  樹海探索に裏の事情があったというのは、別にどうでもいいことだ。手ひどく裏切られたわけでもない。ただ、不可解な点がある。『医神』キタザキにすら根絶できない病、それを、どういう思考を経て、樹海探索を行えば治せるという結論に至ったのか。もちろん、樹海産の素材には、不治の病に対抗できる未知の薬剤の原料となりえるものがあるかもしれない。だが、一国の主の生命を賭けるには、あまりにもか細い希望ではあるまいか。  大公が、国力増強のための探索のついでに、その存在を期待する、というのなら、まだわかる。しかし、今の話からすれば、探索の提唱者は公女で、しかも、病の治療手段を求めるという理由が先である。  ……ひょっとして、公女は、樹海の中に求める素材があると『知っていた』? 「この公国は、数百年前に、一人の女王によって建国されたものじゃ」  冒険者達の疑問を読み取ったか、大臣は静かに語り始めた。 「天空の城より、人々を引き連れ、世界樹を伝い、降りてきた女王。その方は、素晴らしい知識をお持ちであった。その知識をもって、多くの病人を救ったと、伝承にはある。そして、その女王が遺した、多くの書物が、いまも公国王家には伝わっておる。公女さまはそれを目にされての」 「確かに古い伝承は知識の宝庫って言えるけどぉ」  マルメリが肩をすくめながら割って入る。 「古すぎて、ウソかホントかもわからないこともあるわよぉ」 「確かにの。だがの、絶望の淵におられた公女さまが、その書物を唯一の希望としてすがるのも、仕方あるまい?」  大臣の眼差しは、まるで、血の繋がった孫娘のことを語っているかのようであった。 「なにしろ公女さまは、幼い頃に母君を亡くされた。もう、父である大公さましか、ご家族はおられぬ。だから、否定はできなかったのじゃよ。剣を手に樹海に挑もうとする公女さまを止め、冒険者に望みを託しましょうぞ、と、説き伏せるのがやっとであったわ」  力なく首を振りながら語ると、大臣は顔を上げ、真っ直ぐに冒険者達を見据えた。 「……すまぬのぅ、話が長くなった。そこで本題なのじゃが……」 「要は、その書物に書いてあった何かを、樹海の中から探して持ってこい、ってこったろ?」 「話が早うてありがたいわ」  大臣は何度も頷くと、手にした杖の頭を、ぽんぽんと己の掌に軽く叩きつける。それはさながら、どこかの権威ある学会で、名にし負う賢者が、多数の弟子を前に講義を始める時、注目を誘うために行う動作のようだった。 「さて、件の書物には、万能の秘薬について記されておっての。その素材になるものに関しても記述があった。それが、樹海の第二階層で手に入るものであろう、という情報が、書物の解読班から伝えられた」 「解読?」 「古い言葉で書かれておるからの。以前より、解読作業がされておったのじゃよ。それはともかく」  大臣は、じっと『ウルスラグナ』一同を見据えた。 「秘薬の素材を手に入れるために、そなたらの力を貸してはくれぬか?」 「いいぜ、大臣サンよ」  一同を代表するエルナクハの返答は、あっさりしたものである。もとより昨日、衛士バイファーからの連絡を受けたときに、場合にもよるが依頼を断る理由もない、しっかり受けて、心証をよくしておこう、と考えたばかりだ。 「とんでもないヤツと戦え、とかいうのは難しいけどよ、できるとこまでは力を貸すぜ」 「すまぬのう。では早速、詳細を説明するとしよう」  大臣は嬉しそうに頷くと、状況の説明を始める。  建国の女王が遺した書物の、解読が済んだ箇所に曰く。  ――あらゆる病を癒す秘薬あり。その名を『エリクシール』と名付く。其は、慈愛の主コリモスが、樹海の探査の過程において提唱し、知識あるものの手によって製法が確立されたものである。その薬の力によって、数多の者が病より救われたが、貴重なものであるがゆえに、使用には注意を払う必要がある。他の方法で治る者にまでその秘薬を使うならば、万一、他の治療法のない者が現れたときに、肝心の秘薬が底を突いている可能性もあるからである――。 「そのコリモスっていうのが、ハイ・ラガード建国の女王サマなのか?」 「わからぬ。少なくとも、史記に記された女王の名はそうではなかったが……通称、あるいは、コリモスの方が本名、ということもありうるからの……」  さらに書物に曰く。  ――秘薬の材料は、炎をまとう幻獣の羽毛である。その獣を、精霊の名にちなみ、『サラマンドラ』と名付く。かの獣は脱皮により成長を遂げるが、剥がれ落ちた皮には、鳥の羽毛のような毛羽が残されている。その羽毛には、幻獣サラマンドラのような不可思議な生命体を支える基礎となるエネルギーが残されており、それが、秘薬の素材として適する理由である――。 「サラマンドラ?」  冒険者達は期せずして声を揃えた。  この世界には、森羅万象に宿る生命である『精霊』の存在を信じる者がいる。  それが実在するにせよ、そうでないにせよ、普通の者には確認できない。だが、力の象徴としての概念は広く知られ、精霊の力を宿したという触れ込みの武具も存在する。大抵、その正体は、付与錬金術によって炎や雷などの力を得た武具なのだが。  『サラマンドラ』とは炎の精霊の名である。  かの精霊の名にちなんで名付けられたという幻獣『サラマンドラ』。そんなものが第二階層にいるのだろうか。 「冒険者達を公募する前に、大公宮主導の探索があったことは、耳にしておるじゃろう」  と大臣は話を続ける。 「その当時、樹海の八階に、恐るべき魔物が発見されたことがある。調査に出た衛士隊が何十も全滅し、協力してくれていた、当時最強と言っていい冒険者も、その姿を見るなり、手を出さぬ方が吉だと言うたほどの魔物じゃ。じゃが、書物の記録を参考にすると、どうやら、その魔物がサラマンドラらしい」 「そいつを倒して、羽毛を手に入れろ、てか?」  エルナクハは眉根をひそめた。他人に倒せないから自分達も無理、などと思っていたら、冒険者はやっていけない。だが、当時最強の冒険者が『無理』と喝破したというのなら、一考するべきであろう。  しかし大臣は首を振る。おぞましい話を聞いたかのように、こちらもまた眉根をひそめ、諫める口調で話を続けた。 「必要なのは脱皮した皮に残された羽毛じゃ。くれぐれも、魔物に手を出して、優秀な冒険者が一組消滅するような末路は迎えんでくれ」 「優秀な冒険者、といえば」  仲間達とは違い、表面的には顔色ひとつ変えずに話を聞いていたナジクが、声を上げる。 「なぜ、この話を、『ウルスラグナ』に持ち込んだ? 他にも優秀な冒険者は何組もいると思うが」 「その者達には別の頼み事をしておる」  大臣は渋ることなく答を返した。 「状況次第では、そなたたちにも同じことを頼むやもしれぬが、ともかく、そういう理由で、彼らの手は塞がっておる。残された者で、今回の任務を成功させる可能性が一番高そうなのが、そなたたちじゃよ」 「ふむ……」  納得はしたのか、ナジクは引き下がった。  大臣は懐から何かを取り出す。一瞬、報酬の先払いか、などとエルナクハは思ってしまったが、もちろんそんなことはない。取り出されたのは丸められた羊皮紙である。手渡されたそれを広げると、迷宮の地図のようなものが記してあった。いや、まさしく迷宮の地図に違いない。『ウルスラグナ』が行った覚えのない地形ではあったが。 「それは、件の調査を通じて明らかになった、サラマンドラの巣付近の地図じゃ」 「めずらしいな」  大公宮から冒険者に地図が提供されることは、まずない。地図を作る役を担う冒険者達が、権威から渡された地図が完全だという先入観を抱いてしまい、まだ存在するかもしれない隠し通路などを見落とす、という可能性を極力防ぐためである。それが今、破られた。それだけ、事態は深刻だということか。 「先に言うておくが、その地図が地図として完璧だという証明はできぬ。それでも、サラマンドラとの戦いを避ける一助にはなるじゃろう。その地図も使って、どうか、この老体や公女さまのために、頑張ってくれぬか?」 「……いいぜ」  エルナクハはしばらく沈黙していたが、腹を決めたかの様相で口を開いた。 「他でもない大臣サンが、オレらを買ってくれてるんだ。突き放すわけにゃいかねえな」 「ありがたい、よろしく頼む」  大臣の言葉に、軽く頷いて了承の意を示すと、『ウルスラグナ』一同は大公宮を後にした。  その三日後、笛鼠ノ月十九日。  七階には棘を持つ下草の繁茂地が点在していた。いくら注意していても装備の隙間から刺さってくるのだ。迂回しようとすれば、強敵とまともに鉢合わせることになる。現状では下草の方がまだまし、と一行は思うことにした。  そんな道をなんとか踏み越えた先、上り階段付近で、上階から恐ろしい気配が漂ってくるのを察知した。十中八九、サラマンドラのものだろう。そんな事情が分からなければ、足を踏み出すのを躊躇したかもしれないほどに恐ろしい気配。それでも八階に踏み出した先人、かつての衛士達や、先行する冒険者達は、褒め称えられて然るべきだろう。  そんな先人達を追って、『ウルスラグナ』は八階の地を踏む。 「……ちょっと、気温が上がった気がするな」  アベイのつぶやきは、その場にいる全員が等しく感じていることでもあった。温度計は携行していないから、正確なところは分からないが、二、三度は上がっている気がする。気温の上昇『だけ』が認識されていたのなら、そんなこともあろう、と、さして気にも留めなかっただろう。しかし。  サラマンドラは炎の性を備える幻獣。その力が、この階全体の気温を上げているとしたら。 「赤竜にゃ敵わないかもしんねぇけど、相当な力を持ってやがるんだろうな」  赤竜とは、『偉大なる赤竜』と呼ばれる竜族の魔物である。エトリア樹海の第二階層、亜熱帯の森『太古ノ大密林』の奥に潜み、盾突く者を炎の吐息で消し炭にしてきた、樹海の中でも恐るべき魔。樹海の真の支配者というべきフォレスト・セルを別格とすれば最強である、三竜が一角であった。一度は制した相手だが、今の鈍った腕で――ここまでの探索で多少の勘は戻ってきているとはいえ――勝てるとは、到底思えない。  サラマンドラの気配は、その赤竜よりは弱く感じる。それは間違いない。が、その二者の強弱を比べる意味は、今の『ウルスラグナ』には、ない。 「こういうの、なんて言ったっけ。軍師危うきに近寄らず、だっけ」 「君子ですし、エルナクハどの」  焔華が呆れ気味の表情で訂正した。「ま、君子も軍師も、近寄らないにこしたこっちゃないのは、間違いありませんけどな」 「だが、ある程度近付かなければ、目的のものは手に入らない」  深刻な眼差しを浮かべてナジクが評する。  大臣から受け取った地図によれば、サラマンドラには縄張りがあるらしい。ある程度近付くと、侵入者を排除するためにやってくるのだ。その縄張りの奥に、細く短い区域がある。おそらくは、という注釈付きだが、それこそがサラマンドラの巣であろう。  サラマンドラが脱皮した跡があるなら、そこ以外には考えられない。脱皮直後の生命体は概して弱々しい。安全が保証された己の巣があるなら、その中で行っているはずだ。  つまり、『ウルスラグナ』は、サラマンドラの隙を突いて縄張りの奥へと入り込み、その中から羽毛を手に入れなくてはならない。 「ということは、やはり、何らかの方法でおびき出さなくてはならないか」  鋭い目で地図上を睨め付けながら、ナジクはつぶやく。頭の中では、その方法を目まぐるしく考え続けているに違いない。  エルナクハはにんまりと笑うと、宣うた。 「我に秘策あり」 「そういや、昨日の夜、なんかごそごそやってたみたいだけどぉ……?」  だが、この時点では、黒い聖騎士は『秘策』とやらを明かすことはなかった。  襲い来る魔物達との戦いを何度か繰り広げながら、一同は問題の区域に近付く。  目の前に立ちふさがるのは、樹海ではお馴染みの扉であった。  その付近では、気温の上昇は、すでに『気のせい』では済まされないほどに顕著になっていた。 「サラマンドラは奥やいな?」 「おそらくは……だが、入り口両脇のものが何か気になる」  ナジクの指摘は、大公宮からの地図に記してあるものについてであった。扉から踏み込んだ区間の両脇、部屋の両隅に、色線が記してあるのだ。部屋の奥に記してある、別の色の線が、サラマンドラの縄張りなのは見当が付く。しかし、その縄張りとも繋がっていない、これは、なんなのだろう。 「サラマンドラの子供、だったりしてぇ」  マルメリの軽口もありえる。だが、とりあえずは確認してみなくては始まらない。  『ウルスラグナ』は腹をくくると、扉の内部に踏み込んだ。  光景は、これまで歩いてきた第二階層とさほど変わらない。しかし、この場に踏み込んだからこそ、はっきりとわかる差異がある。  気配は三つあったのだ。  ひとつは、正面やや遠くを塞ぐ木立の向こうから漂ってくる。他のふたつとは桁違いのそれは、間違いなくサラマンドラであろう。残りのふたつは、サラマンドラよりは遙かに弱いが、今の自分達では敵うとは思えない気配。位置的には、自分達の両脇。  まさかマルメリの軽口が真実だったのか、と思いつつ、冒険者達は自分達の両脇を確認した。  地図上で言えば、まさに件の謎の色線のあたり、その中でも自分達の現在地に一番近いところに、魔物がいた。巨大な爬虫類だが、第一階層に居着いた『襲撃者』とは威厳が違う。まるで竜の一種と見紛うようなその様相は、冒険歴の浅いものなら、腰を抜かしてしまっても不思議ではない。身体の色は燃えさかる炎のよう。その足下の草がところどころ焦げているところを見ると、この魔物にも炎を扱う力があるのかもしれない。  それが、冒険者の両側に一体ずつである。どらも、感情の見えない目で、じっと人間達を見ている。  さしもの『ウルスラグナ』も息をひそめ、相手の出方を待つ。地図が正しければ、この二体の縄張りは踏んでいない。しかし、明らかな異物を目の前にして、襲いかからないという選択肢を取るかどうか。そもそも、地図の色線は、そこに入らないから襲われない、ということを保証しているものでもないのだ。  だが、しばらくの後に、魔物は二体とも、ふいっと顔を背け、身体の向きを変えた。そのまま、のそのそと去っていく。  どうやら、縄張り荒らしとは思われなかったらしい。あるいは、襲うまでもない、と思われたのか。赤い下草を踏み散らして消えていく炎王達を見送って、冒険者達は、盛大に息を吐いた。 「あれが子供だとしたら、親はどんなんか想像つかねぇな」  さらに奥へと足を踏み入れる途中で、エルナクハは溜息を吐く。しかし、言葉とは裏腹に、その瞳は未知を目の当たりにする期待に爛々と輝いていた。 「依頼だからしょうがないけど、勘弁してくれよ」とぼやくのはアベイである。 「オマエは、秘薬の材料って聞いて、わくわくしねぇのか?」 「するさ、するけどよ」  問われて、治療師の青年は弱気気味に首を軽く振った。 「それ取りに行くのに危険があるっていうんなら、二の足踏むぜ、ホントなら」 「らしくねぇな」 「らしくない?」 「治療師の夢みたいなモノを前にして、オマエがその程度のことで尻込みするなんて思わなかったんだがよ」 「その程度だと?」  アベイの瞳の中に、苛立ちの火花がちらついた。 「降りかかる危険が、『その程度』だと!? ナック、お前はそんな風に考えてるのか!?」 「……おい?」  突然、態度を変えた仲間に、聖騎士だけではなく皆が戸惑う。  冒険者とは未知なる危地に挑むものである。ある程度の危険は当然のようにある。それなりに長い、冒険者としての経験で、全員がそれを覚悟しているはずだった。だから、今回の依頼も、『どうにか対応できる危険』であると判断した上で受けた。エルナクハの言う『その程度』とは、そういうことだ。ハイ・ラガードから加わったフィプトならまだしも、アベイがそれを分からないはずはない。 「落ち着け、アベイ」 「これが落ち着いていられるか! 第一、お前達が――」  早口で言いかけて、はたと言葉を切るアベイ。心を落ち着けるために目を閉ざし、深呼吸を数度。やがて、弱々しく笑うと、つぶやくように声を出した。 「……悪い、ちょっとイライラしてたんだ。気にするな――なんて言えないけど、とりあえず、依頼済ましちまおうぜ」  そんな治療師に、エルナクハは何かを言おうとして、結局やめた。  彼の言うとおり、今は依頼を済ませる方が先決だ。そのために切られた言葉尻を捉えて、なんやかんやと返すことは、事態を蒸し返すだけになる。  何か言う必要があるなら、街に戻ってからにする方がいいだろう。  もちろん、探索が続行できないほどに雰囲気が悪化していたなら、再考する必要があるが。  ギルドマスターである聖騎士は、ぐるりと仲間達を見渡す。不承不承という態度が見え隠れする者もいるが、さしあたって、今の話を一旦封じることに異論がある者はいないようだ。 「……先、進むぜ」  黒い聖騎士は、そう声を上げることで、己と仲間達の気分を探索に引き戻した。  冒険者達がぴたりと足を止めたのは、サラマンドラの縄張りに踏み込む直前であった。  両脇を挟む木立のうち、右手のものは、扉から正面遠方に見えた木立の側面である。それに身を隠すようにした冒険者達は、首だけを伸ばして、縄張りを窺う。  この区域の奥部を帯状に占める縄張りの中央に、見たことのない生物がいる。  炎の精霊の名を付けられたにしては、炎とは程遠い姿をしている魔物であった。所々に灰色の外骨格を備えていながらも、合間に見える皮膚はトカゲのよう。大型の襟に似ていなくもない、後頭部に張り出したものの縁には、いくつかの穴が間隔を空けて開いている。  纏う気配は、明らかに桁違いの強さを示す。キマイラなどお話にならないだろう。  先ほど見た二体の魔物とは姿が違うから、あれらとは親子ということは、おそらくない(絶対とは言い切れないが)。 「さて、どうする?」  しばらく無言で魔物の様子を窺っていた一同に、ナジクが問いかけた。 「囮で誘き寄せるなら、僕が行ってくる」 「おい」  エルナクハは呆れたように声を上げた。またこのレンジャーは、自分が進んで危険を冒そうとしている。囮作戦自体はエルナクハも考えていたことなのだが、レンジャーの態度には「最悪の場合は奴が僕を喰らっている隙に行け」とすら言い出しそうなものが見え隠れしている。まったくもって自分の生命を軽んじるばかりの男だ。  だからエルナクハは、わざと陽気に声を張り上げ、ナジクの発言を封殺することにした。 「せっかくのオレの秘策、オマエに動かれちゃ、おじゃんになっちまうだろ」  背負っていたザックを下ろす。普段もザックは背負っているのだが、この日はことさらに膨らんでいた。だが、聖騎士がそれに重さを感じていた気配はない。単に力があるから、と皆は思っていたのだが、真の理由は違った。  エルナクハがザックから引っ張り出してきたのは、あまりにも奇妙な物体。一言で述べるならば、羽根の塊である。確かに、嵩のわりには重くないはずだ。 「何ですし、それは?」 「見て判らねぇか? 囮だよ」  判らない、と聖騎士以外の全員が心の中で突っ込んだ。  全容を現しても正体がよく掴めない塊を、羽衣のようにエルナクハはまとう。いや、正確には、まとおうとした。 「……あれ?」  聖騎士は首を傾げる。着られないようである。 「おっかしいなぁ、ちゃんと全身測って作ったのになぁ」  どうやら鎧分を計算に入れなかったようだ。  着ようとして広げたために、少しは判ったのだが、どうやら、第二階層に出没するジャイアントモアの羽根を連ねて作ったもののようである。計画では、それを着込んで、モアのように振る舞ってサラマンドラの気を引くつもりだったのだろう。 「おい、エル。それのどこが秘策だ?」 「秘策だぜ? オレが睡眠時間削って一生懸命作ったんだ。戦闘中にもモアの動きを観察してたんだぜ」 「おいコラ、一昨日にぼーっとしててモアに蹴られたのは、そのせいかよ!」 「だから、ぼーっとしてたんじゃねぇって! 観察してたって言っただろ」 「観察などなら、僕に任せればいいんだ。前衛のお前がそんなことしてて、戦線が崩壊したらどうする」 「ちょっと油断しただけで、大丈夫だっただろ!」 「ちょっと待てよ、普段、これでもギルドマスターとしていろいろ考えてるんだぜ、みたいな態度してて、それか!」  ぎゃあぎゃあと言い争い始める男性陣を目の当たりにして、女性陣は肩をすくめた。  言葉ほどには深刻なものではなく、どちらかといえば突っ込み合いのようなものだが、普段は軽口を叩いていても油断しないはずの彼らが、すっかりと言い争いに没頭している。どうも、『モアの羽根衣を着込んで囮になる』という、突っ込みどころ満載の計画(ネタ)を目の当たりにして、戦場にいるという緊張感がすっかりと崩壊してしまったようだった。『疑似餌』の振りをして獲物をだます、というのは、狩りの一手段だが、エルナクハが羽根衣を着込んだ想像図は、命懸けの騙し合い(コン・ゲーム)というより、祝祭の宴会芸にしか思えないのである。  だったらナジクが羽根衣を着込めば万事解決、とは、女性陣も思わなかった  マルメリはさておき、焔華は、己が死すら容易に受け入れるブシドーとしての鍛錬を積んだものとして、ナジクの行動の裏に、一部の同族が持つものと同じ精神構造、破滅願望のようなものをはっきりと読み取っていた。原因や、そのために彼が以前とは変わったことは、『ウルスラグナ』全員が周知だったが、いざとなれば他人を、そして自分すら代償にしてでも仲間を助ける、という狂信に近いものを抱くようになっていることを掴んでいるのは、焔華とエルナクハぐらいだろう。そんなレンジャーが囮になれば、最悪の場合、自分自身を生き餌にしかねない(とは、エルナクハも考えたことだが)。 「はいはい、痴話ゲンカはそこまでにするし」  いずれにしても今のままでは話が進まないから、焔華は仲裁を試みる。  しかし、注目を集めるために彼女が手を打ち鳴らしたその瞬間。  巨大な角笛をめいっぱい鳴らしたら、響く音はこうではないか、と思えるような、低い音が、あたりに響き渡った。  巻き起こる大気の震えに、木立が同調して、ざわざわとざわめきだす。  金属鎧が共鳴して、びりびりと音を立てる。  さすがの男性陣も、はたと言い争い(つっこみあい)を止めて、音の正体を掴もうとした。  言うまでもなく、それはサラマンドラの吠え声だった。  大口を開けたサラマンドラは、眠そうに目を細めながら次第に口を閉ざしていく。単なるあくびだったようだ。 「……で、エルナクハどの。『秘策』とやらを立案した以上、ぬしさんが行くんですし?」  すっかり静かになった男性陣の前で、焔華は『エルナクハどの』を強調して言う。口調こそ、馬鹿げた姿になること必至のギルドマスターを揶揄しているようだったが、その実、死地に身を投じたがるナジクへの牽制であった。  エルナクハの方は、焔華がそこまで考えているとは読み取れなかったものの、最初から自分が行くつもりでいたわけだから、ブシドーの娘の言葉に深く頷いた。 「着れないのは予想外だったけどなー。ま、これでも囮にゃなるだろ」  聖騎士は羽根の塊を手に持った。見た目は、玉房(ポンポン)を持った応援者のようだった。まったくもって、これから強敵の目の前に飛び出そうとしているようには思えない格好である。  冷静に考えれば、そんなものがなくても囮になるには充分なはずなのだが――現にナジクはそのような準備をなにひとつしていない――、もはや誰にも突っ込む気概はなかった。  羽根の玉房(ポンポン)が震えて、さわさわと音を立てた。  サラマンドラの縄張りに踏み込んだ黒い聖騎士は、玉房を前方に突きだして、小刻みに振りながら、炎の精霊の名を冠したトカゲに近付いていく。  それにしても、目の前のサラマンドラには、羽毛と呼べるようなものは何ひとつ生えていない。だというのに、脱皮した皮には羽毛が付随しているのだと、記録は述べている。もとより『脱皮』という言葉があったことで、『羽毛』という言葉から連想される鳥類とは違う、とは思っていたが、一体どういうことだ、とエルナクハは悩んだ。  もっとも、脱皮することで、がらりと姿形を変える生き物は、この世にごまんといる。そう考えれば、サラマンドラが脱皮前には羽毛で覆われているのだとしても、奇妙ではないかもしれない。  サラマンドラは、この区間を区切る扉のある方向、東を向いている。その背中側に、小道が続いているのがはっきりと判った。巣へと続く道に間違いない。  エルナクハは、じりじりと近付いていく。  サラマンドラが、縄張りに踏み込んだ不届き者に反応した。正面を向いていた首を、ぐるりとこちら側に向ける。仮面のような灰色の外骨格に覆われた奥から、爛々と光る目が、侵入者を睨め付ける。  敵と思ったか、餌と思ったかは、判らない。いずれにしても襲われる方の運命の帰趨は同じである。  太く長い尾が、ゆらゆらと揺れて、突然、その先端が閃光を発した。一瞬にして光度は落ちたものの、色と形をゆらゆらと変えつつ先端に灯り続ける。  それはどう見ても炎だった。 「火蜥蜴……?」と後方でつぶやいたのはアベイのようだった。  見たまんまのこと言うなよな、と苦笑しつつ、エルナクハは、さらに近付いた。  と、今度は何かが勢いよく噴出するような音がするではないか。 「おわっ!?」  突然のことにエルナクハはつんのめりそうになった。  サラマンドラの襟の穴から煙のようなものが噴出している。否、煙ではない、湯気だ。かなりの高温なのだろう、周囲の気温と湿度が明らかに上昇した。 「わったったった!」  どうにか体勢を立て直そうとする聖騎士だったが、残念ながら努力は報われなかった。  鎧が立てる派手な音と共に、彼は前のめりに倒れ込んだ。弾みで手から離れた玉房が宙を舞う。  残された冒険者の誰かが息を呑んだのは、サラマンドラが口を大きく開けたからだ。近付いた侵入者に対し、実力行使を行うつもりだろう。その喉奥から、紅蓮の炎が舌のように伸び、絡め取られたものが、じゅっ、というかすかな音を立てて、燃えつきた。 「エルナっちゃん!?」 「ナック!?」  目の前で最悪の結果を見届けてしまった冒険者達は、ギルドマスターの名を呼ぶのが精一杯であった。  しかし、サラマンドラの目の前の地面で、何かがうごめくのを見定め、胸をなで下ろす。  エルナクハは無事だった。燃えつきたのは手から離れた玉房だけで、本人は辛うじて火炎の射程外にいたようだった。しかし、自分の目の前の地面の下草が、ものの見事に焦げ付いているのを見て、どれだけ危ういところだったのかを自覚したようである。 「おーい、全員、いっぺん逃げろぉ!」  聖騎士は全力で走る。その後をサラマンドラが追う。そのまま上手く誘導すれば、最初に計画していたとおりの展開に持ち込めたのかもしれないが、心情的にそれどころではない。幻獣の口から、ちろちろと炎が漏れだしているのを見て、冒険者達も仰天した。 「こっちに来るな! 別のルートから逃げてこい!」  とはいっても別のルートなどない。死にものぐるいで、全員が扉へ向かって駆けた。いくらなんでもそこまで遠くまでは追ってこないと判断したのである。  幸いにして予想は外れることなく、サラマンドラは冒険者達が扉の近くまで逃げると、ゆっくりと踵を返した。その前に炎を軽く空打ちしたのは、「これに懲りたら二度と来るんじゃないよ」という意思表示だったのだろうか。  少なくとも今すぐには、その警告に逆らうつもりは、冒険者にはなかった。震える手で扉に手をかけ、文字通り転がるようにその向こうに身を投じた。いつもは勝手に閉じていくので放っておく扉を、わざわざ手動でぴっちりと閉めたりする。  誰からともなく、笑声が上がった。  もちろん、面白いから笑っているのではない、極限の緊張が切れたための空笑いだ。普段は滅多に笑わないナジクでさえも、邪霊に取り付かれたかのように声を上げて笑う。  そのまま進んでいたら、エルナクハは焼き尽くされていたところだった。そういう意味では、あの場でつまづいたのは、怪我の功名、黒い聖騎士風に言うなら『大地母神の加護』であろう。  今の精神状態で探索を続けるのは、極めて危険だ。そう判断したのか、アベイがアリアドネの糸を荷物から出して、起動させた。その判断に異論がある者は、誰もいなかった。  迷宮から帰還した探索班は、一も二もなくフロースの宿に駆け込んだ。探索の疲れを心身共に充分に癒すと、ようやく私塾に帰り着く。時間は昼を回っていた。 「おかえりなさい、兄様! ……って、どうしたの?」  中庭で剣の鍛錬をしていたオルセルタが、一同の憔悴しきった顔に気が付いて、訝しげに問うた。宿で心身を癒したとはいえ、危うく焼き尽くされかけた衝撃が完全に醒めたわけではない。奇妙な空気を察したか、中庭の隅でハディードと遊んでいたティレンも駆け寄ってきた。その後を追ってきた獣の子は、相変わらずティレンにぴったりくっついて離れないものの、心配げに鳴いて鼻を鳴らす。 「大丈夫だったの!?」  と鋭い声を投げかけてきたのはパラスだった。私塾の二階に確保した自室の窓から、帰ってきた探索班を見下ろしている。その表情に険しいものを見て取り、マルメリが苦笑い気味に返した。 「そりゃ危ないところだったけど、ちゃんと帰ってきたわよぉ、パラスちゃん」 「うん、よかったぁ……」  窓からカースメーカーの姿が消えたのは、その場でへなへなと座り込んだからだろう。そんなにまで心配してくれたのか、と思う一同に、再び窓から顔を出したパラスが、今度は心底安堵した表情で笑った。 「占いしてたら、とてつもなく悪い徴(しるし)が出たから、心配してたんだよ」 「占いはただの占いだろう」  切って捨てるようにナジクが返す。樹海探索などに手を染めていれば、危険な目に遭うことが多いに決まっている。  しかし、占いなど気にしないだろう、と回りからは見られることの多いエルナクハは、うむ、とうなった。  仮にも神官候補である以上、人知を越えたものに運命を問う、という行為について、気休めだ迷信だと切り捨てる気にはなれなかったらしい。事実彼は、時折『大地母神の導き』という言葉を口にする。もっとも、その上で悪い結果を踏み越えようとするのもまた、この黒い聖騎士の性なのだが。  ちなみにオルセルタやマルメリも、真剣にパラスの言葉に耳を傾けている。元来が流浪の民であった黒肌の山岳民族(バルシリット)にとっては、当てのない旅に導きの光明を照らしてきただろう占いは、理に適っていなくても軽視できないものなのかもしれない。そして、大概の人間は、ただの占いと笑い捨てながらも、案外とその結果を信じたくなるものなのだ。  パラスとしては、あくまでも回避可能な未来として凶兆を捉えつつも、それでも心配を拭えずに、探索班の無事な帰還を待っていたようだ。よかったよう、と気が抜けたような声を上げながら、再び窓際から姿を消した。 「ま、どのあたりを『とてつもない』って取るかにもよるからな……」  アベイがつぶやいた。エルナクハが危うく焼き尽くされかけた、というのを『とてつもなく運が悪かった』と取れば、確かにはずれてはいないのだ。  占いの話とは別に、アベイの様子に違和感を抱いた焔華が、心配そうに話しかけた。 「……アベイどの? 大丈夫ですかえ?」 「ん? ああ、平気だけど、なんで?」  どことなく疲れているのは、サラマンドラに翻弄された探索班全員に言えることだが、アベイはことさらのようだった。思えばサラマンドラと対峙する前、彼の様子は変ではなかったか。治療師の夢、万能の秘薬の素材にお目にかかれるというのに、それを目指して日夜奮戦していたはずの彼は気乗りしない様子だった。何か心に引っかかっているものがあるのではないか。だが、当人がは隠そうとしている――樹海の中での反応を見る限り、あまり触れられたくはないのだろう。焔華はそう判断し、少なくとも今この場で何かを言うのは止めることにした。  ところでセンノルレとフィプトが姿を現さないが、いつものことだ、と、皆は気にしなかった。私塾は笛鼠ノ十六日から――その前日が七日ごとの定休にあたるので、実質十五日からだが――夏休みに入っていて、生徒達が私塾に姿を見せることはなかったが(たまに遊びに来ることはある)、だからといって講師達が暇になるわけではなく、休み明けからの授業に関しての準備をせっせと行っている。もちろん、樹海で役に立てるための触媒の研鑽にも余念がない。そのあたりの事情から、アルケミスト達が探索班の帰還を出迎えることはあまりなかったのだが、だからといって仲間を大事にしていないはずがない。実際、私塾の中に入った探索班一同の姿を見るなり、アルケミスト達も驚いた。 「一体、何があったんですか!?」  異口同音の問いかけに、樹海であった一部始終を語ると、留守番組の顔に、明らかに『阿呆』と言いたげな表情が浮かんだ。ティレンでさえもだ。 「そんな馬鹿げたことをした割には、無事で何よりでした」  ここ最近にしては珍しく、センノルレが皮肉げに吐き捨てたが、瞳が口調と相反する表情を浮かべているのは、誰もが気付いている。エルナクハは苦笑したが、すぐに真面目に表情を引き締めた。 「だけどまぁ、囮作戦自体はよ、ヤツの巣穴に潜り込むのには必要だと思うぜ」  エルナクハは馬鹿みたいに玉房を振っていただけというわけではない。一応は、相手の隙を探っていたのだ。仮に相手の動きが鈍ければ、隙を突いて相手の横をすり抜ける余裕もできただろうし、そうして巣の中に潜り込めただろう。しかし、サラマンドラにはそういう隙がなかった。動きはかなり素早かったし、横をすり抜けようとしたが早いか、あの炎を浴びせられるだろう。となれば、巣穴から遠くまで引きつけて、上手く誘導しながら巣穴に飛び込まなくてはなるまい。そして、安住の地を荒らされて怒り狂う炎の幻獣が戻ってこないうちに、羽毛を探し出すのだ。 「考えれば考えるほど、やめたくなるなぁ」  とアベイが頭を抱えた。まただ、と探索班は思い、留守番だった者達も、メディックの意外な反応に軽い驚きを感じた。周囲の視線に気付いたアベイは、苦笑いの表情を湛えて、否定の形に手を振った。 「いや、ちゃんと行くぜ、ミッション受けたからな」  その態度に詰問の拒否を見て取った仲間達は、内心で溜息を吐く。  アベイの態度は、今すぐに探索に悪影響を及ぼすわけではなさそうだが、憂いごとは断てるなら断った方がいい。だが、それが何か、どうすれば解決できるのか、仲間達には探る糸口すら判らないのだ。 「囮作戦なら、また、道具に頼ったらどうですか?」  ひとまず本題に戻ろうと判断したか、センノルレが口を開いた。 「道具?」 「ええ、三階の鹿の王をおびき出す時も、そうしたのではなかったですか?」  幾人かが得心した顔を見せた。思えば三階で激情の角王に相対したときは、引き寄せの鈴でおびき出したのだった。  鈴が容易に手に入るようになってから、探索中に何度か試したことがあるが、あの鈴はかなり離れたところから敵をおびき出せる。当然、安全度は格段に増す。そして、対になる眠りの鈴で、その場に眠らせることができれば……。 「なるほど、な」  問題は、サラマンドラに鈴が効くかどうかだ。大臣も言っていた。『全ての魔物に効くわけではない』と。しかし、こればかりは試してみないと判らない。  とりあえず、方針は固まった。 「なぁ、今晩の探索はヤメにしねぇか?」 「どうして、兄様?」 「明日、戦わないたぁ言っても、強敵とまたお会いするんだ。ちゃんと休みてぇ」  エルナクハ自身が休みたいわけではないのは、問うたオルセルタにも、他の者達にも判った。そもそも、『昼の部』の者達は、一人を除いて夜の探索には出ないから、そちらが実行されても基本的に関係ないのだ。つまり関係するのは常に探索に出る者――メディックである。 「残念。でも、しょうがない」とティレンが頷く。 「悪い」  気を使ってもらったと分かったアベイが目を伏せる。その後しばらく、何かを言いたげに口を動かしていたが、ついに観念して声に仕立てた言葉は、 「悪いついでに、薬泉院行ってきていいか?」  薬泉院にお世話になるほどの怪我は残っていない。つまりアベイは、自分の相談事を先輩に持ちかけたいのだろう。仲間として力になれないのは残念だが、蛇の道は蛇、メディックの道はメディックだ。ここは彼自身の判断に任せる方がいいだろう、と皆は判断した。 「おう、何したいかわからんけど、行ってこいや」 「軽食ぐらいは取っていくといいでしょう」  センノルレがカップに冷製スープをよそってアベイに差し出した。樹海の昼食のつもりで持っていってそのまま持ち帰ってきた黒パンを、スープと共に腹に収めると、アベイは仲間達の気遣いに感謝しつつ席を立つ。 「夕ご飯までに戻って来なきゃ、アベイの分、食べちゃうよ」  日常っぽいことこの上ない言葉に見送られ、メディックの青年は私塾を飛び出し、薬泉院に足を向けた。  薬泉院の扉を、こんこんと軽くノックする。急患ではないという意思表示だ。 「……コウ兄、今忙しいか?」 「……アベイ君、ですか? 大丈夫ですよ、どうぞ」  穏やかな声に誘われ、薬泉院の入口ホールに足を踏み入れる。  かすかに薬の匂いが漂う院内は、アベイの心を過去へと引き戻す。人生の大半は『病院』と共にあった。成長するに従って、『患者』から『医者見習い』へと立場は変わり、ついには『冒険者』となって飛び出すこととなってしまっても、そこはアベイの原風景に間違いなかった。 「一人で、とは、珍しいですね」 「ん、ちょっと兄貴分に愚痴聞いてもらいたくてさ」 「はは、そういえば昔のアベイ君は、愚痴ばかり言ってましたっけ。外(おんも)に出たい、早く出たい、もうすぐ外に出られるようになるよ、って教えてもらったのに、いつになったら出られるの、って」 「そんな昔の話、勘弁してくれよ」  アベイはコウスケ・ツキモリに頭が上がらない。前時代で得た病によって弱った身体を、そのまま引きずって現代に再誕してしまった彼は、エトリア施薬院での庇護なくして今まで生き延びることは叶わなかっただろう。主に治療に当たったのはキタザキ院長だが、院長が急患に手を取られている間の面倒を見てくれたのは、アベイがエトリアに来たときには既に治療師の修行をしていたツキモリ医師だったのだ。 「昔、っていえば、ご両親は、見つかったんですか?」  とツキモリは話を振った。施薬院に引き取られた頃のアベイは、行方不明になった両親を求めていたが、それらしい人物はエトリアにはなく、冒険者ギルドの登録帳にも関係しそうな人物の記載はなかったのだった。そもそも、エトリア樹海の地下一階などという場所を子供一人でさまよっていたこと自体が奇妙な話なのだが。  アベイは少し口ごもる。当時子供だったゆえにあやふやで、成長と共に忘れていった記憶は、エトリア樹海の探索の中で、ある程度は思い出した。しかし、共にいた仲間ならともかく、ツキモリに信じてもらえそうな話ではない。さしあたって真実の一片だけをアベイは告げた。 「うん、ガキの頃の話だから、詳しいとこまでは覚えてないけど……死んでたの、思い出した」  数千年前の人物が、生身のままで今も生きているとは思えない。自分が現世にある理由と同じ方法を取っていれば、あるいは、とも思ったが、それらしい痕跡は、エトリアにも、樹海にもなかった。 「……そう、ですか」 「……しけた顔するなよコウ兄。俺は大丈夫だからさ!」  目を伏せるツキモリを元気づけるように、アベイは声を張り上げる。 「ところで、今ここにいる俺の愚痴なんだけどさ」 「はいはい、どうぞ。患者さんが来るまでは聞いてあげますよ」  ツキモリは応接室にアベイを招き入れた。アンジュという名の助手が、茶を出してくれる。青い色をしたアイスラベンダーティーだ。添えられたレモンを搾り入れてピンク色に変えると、アベイは一口飲んだ。ツキモリも口を付けたが、レモン汁は入れなかったようだ。  アンジュが部屋を出て行ってからしばらくして、アベイは話を始めた。 「コウ兄は知ってたはずだから、ぶっちゃけるけど――」  句を継ぐ前に、声をひそめる。 「この国の大公様、治療法が見つからない病気に罹ってるだろ」 「どうしてそれを――!?」  国家の秘事である。一介の冒険者が何故知っているのか、と、ツキモリの目に動揺が垣間見えたが、『ウルスラグナ』がミッションを受けたと説明すると、薬泉院院長は落ち着きを取り戻した。 「なんだ、そういうことでしたか」 「うん。……それにしても、まだホントかどうか判らないけど、俺たちが探し求める『万能薬』の材料が実在したなんてなぁ……」  その割にはアベイの顔は浮かない。ツキモリは訝しげに声を掛けた。 「どうしたんです? 全メディックの夢にぐーんと近付く手がかりの実物を、誰よりも早く目にできるというのに」 「喜んでばかりじゃいられないよ」  アベイは憂いの混ざった溜息を吐く。 「サラマンドラ……あいつは、とんでもなく強いんだ。少なくとも、今の俺たちじゃ敵わない。戦って素材を手に入れてこいっていう話じゃないから、まだいいんだけどさ……」  卓の上に組んだ手の上に額を伏せる。 「今回は大公宮の依頼だからしょうがないけど……そうじゃなかったら、行かなかった。……そう思うんだけど、やっぱり仲間に頼み込んで行ったかな、とも思う。薬のために、仲間たちをピンチに追い込んじまうなんて馬鹿をやりそうなのに……なのにアイツら、『その程度』とか言うんだぜ。危ないのは自分たちだってのにさ」  と、アベイが真剣に悩んでいるというのに、ツキモリは話を聞き終えると、くすくすと笑い出したではないか。 「何がおかしいんだよ、コウ兄」 「あ、すみません。いや、ね。アベイ君も僕と同じこと考えてるんだな、と思ったもので」 「同じ、こと?」 「ええ、冒険者の方々の樹海探索のおかげで、今まで僕たちが知り得なかった原料の研究が進んでいるんですが」  ツキモリは懐から人差し指くらいの小さなビンを取り出す。中には、薄い緑色をした液体が半分ほど入っていた。 「これ、何だと思います?」 「薬? 何のかは見当つかないけど」 「ついこの間、樹海で発見された植物があるんですが、それから抽出されたエキスですよ。かなり高い解熱作用を持ってます」 「へえ」 「樹海には、まだまだ僕たちの知らない効果を持つ様々な成分の薬草が眠っていると思いますよ」 「そうだな、エトリアでもそうだったからなぁ」 「ええ。ハイ・ラガードも探索が進めば、いろいろなものが発見されて、医術の大きな助けとなるでしょうね」  そう語るツキモリの表情は、先程のアベイ同様に浮かない。今度は訝しげに思うのはアベイの番だった。 「どうしたんだよ、コウ兄」 「アベイ君が思ってるのと同じなんですよ。新薬の発見には冒険者による樹海開拓が不可欠。傷を治す成分を発見する為に傷を負う方を増やすという、どうしても避けては通れないジレンマがあるんです」 「兄……」 「僕はどうもソレが許せなくて……いつもアベイ君がうらやましいんです」 「俺が、うらやましい?」  何を言い出すのか、とアベイは目をしばたたかせた。  ツキモリは緩やかな笑みを浮かべながら目を伏せる。 「僕には樹海に潜る勇気もありませんから、街でこうして冒険者のバックアップをしているんですが」 「ああ、いつも助かってるよ」 「街に戻ってきたときには手遅れになっている冒険者を看取るたびに、思うんですよ。せめて、この人が傷を負ったその時に傍にいられて、応急処置ができたなら。そうしたら、この人は助かったかもしれないのに、って」  アベイはパラスのことを思い出した。少し前に動く石像と戦ったときのことだ。その戦いで深手を負ったパラスは、放っておけば街に戻るまで保たなかったかもしれない。もちろんアベイが治療を施したのだが、あれだけの傷は、治療を専門的に学んでいる者、つまり『ウルスラグナ』なら自分でなければ、応急処置も叶わなかっただろう。もしも自分がいなかったら、あるいは敵の攻撃で倒れていたら……。 「知った口を、って言われるかもしれないけれど、僕は思うんですよ。君がいるから、君の仲間達は、危機を『その程度』って言えるんじゃないかって」 「……」 「もちろん、本当に手に負えない危機なら身を引くんでしょうけど、君がいる分、君を信頼しているから、多少の危機は問題ない、って思ってるんじゃないかって……もっとも、過信されて大怪我負われたら、メディックとしちゃたまったもんじゃないですけどね」 「……まったくだよ。どうして冒険者って、あんなに危険に身をさらしたがるんだろうな」  アベイは苦笑する。  迷宮での苛立ちの原因がようやくわかった。つまりは自分(アベイ)の後ろめたさと勘違いが最大の原因だったのだ。  今回の探索の目的がメディックの究極の夢である『万能薬の材料』だったことと、エルナクハの「治療師の夢を前にしてその程度のことで尻込みするのか」という言葉のために、つい、仲間達が自分のために危地をを覚悟して探索に挑んでいる、と思ってしまった。ひるがえって、アベイ自身は脆弱だ。一人では敵と戦うことも身を守ることもできない。仲間が誰もいなければ、おそらく数分と樹海に立っていることはできないだろう。自分が何もできないのに、仲間達が自分のために傷つく。その事実が、自意識過剰と劣等感を呼び起こしてしまったのだ。  冷静に考えれば、馬鹿げた話だ。誰もアベイのためだけに探索などしていない。  言い換えれば、アベイ自身とて、誰かのために、ひいては自分自身のために探索をしているのだ。  そして、仲間達が樹海にあるためにも、アベイの力は必要で、逆もまた真なのだ。  そう考えると、心がすっと軽くなった。 「ありがとう、コウ兄。やっと心の整理が付いた」 「おや、僕の話は憂いを払う役に立ちましたか?」 「おう。コウ兄は心理士(カウンセラー)見習いを名乗ってもいいと思うぜ」 「残念、見習いですか」 「俺以外にうまくいくか、わかんないからな」  とアベイが答えたのは、コウスケ・ツキモリという男が意外と精神的に打たれ弱いところがあることを知っているからだった。下手すれば相手の心理に引きずられて自分も沈んでしまう可能性がある。もっとも、今目の前にいる男はその弱点を既に克服しているのかもしれないが。  その後しばらく他愛のない会話を交わし、アベイは席を立つ。 「もう帰るんですか?」 「ああ、夕飯までに帰らないと、俺の分食べちゃうって言われてるし」  アベイは笑みを漏らしながら席を立つ。ツキモリが薬泉院入口まで送ってくれた。  戸口で振り返り、兄に等しい青年に、別れの挨拶をする。 「今日はほんとにありがとな、コウ兄。おかげで、もやもやが晴れたよ」 「お役に立てて何よりですよ。あとは、樹海では充分に気を付けてくださいね」 「ああ、それじゃな」  アベイは手を振って踵を返そうとした。その動作が途中で止まったのは、思い出したことがあったからだ。改めてツキモリに向き直ると、『ウルスラグナ』のメディックは口を開く。 「そうだ、コウ兄。例の話だけど」 「例の……?」 「今のところ、四階から七階までで一箇所ずつ、だ。サラマンドラの件が片付いたら、座標とかもちゃんとまとめて、酒場の親父に報告するけど」 「……そんなにも、あちこちに……?」  それは、以前ツキモリから捜索を依頼された、不自然な朽木のことだった。ここまでの冒険で見つかったものは四箇所。ちなみに四階にあった分は、五階にあったものと同様、他のギルドに採集作業のために雇われたゼグタントが、その最中に目にして、『ウルスラグナ』に情報を提供してくれたものだ。『ウルスラグナ』が第一階層を探索しているときには、そんなものはなかったはずだ。あんなに違和感のある枯れ木、見付けた時点で嫌でも心に引っかかる。同時発生なのか、どこかを中心に拡散したのかは、今の時点では判らないが、仮に拡散したのなら、理論上、八階のどこかにも、あってもおかしくない。アベイは念のため、そのあたりも確認してから報告に上げようと思っていたのだった。 「予想以上に広がっているんですね、こちらも、以前頂いたサンプルでだけでも、検証を進めておくべきか……」  ツキモリは口元に手を当てて考え込む。こうなった『コウ兄』は、当分、夢と現の狭間をさまよってしまう。院内に戻ろうとする兄貴分に、「どこかにぶつかるなよ」と心配の声を投げかけて、アベイは薬泉院を後にした。  私塾が視界に見え始めた頃には、太陽が沈もうとしていた。透き通るような朱に染まった西の空には、今日は雲ひとつ見あたらない。しかし、アベイのみならず、この国に関わる皆が知っている。世界樹の上方には常に厚い雲の層がある。街の日照に直に関わることはないのだが、その発生原理は謎だ。世界樹に添って発生した上昇気流の仕業ではないか、という説もあるが、本当のところは判らない。何であれ、その雲の存在ゆえに、空飛ぶ城の実在が外部から証明できないのは明らかだった。 「『すごいや、天空城(ラピュタ)は本当にあったんだ』……」  幼い頃に見た冒険絵巻の主人公の口まねをしながら、帰り道の残りを辿る。  思い出したとはいえ所々にほつれのある記憶の中でも、『それ』の印象はひときわ強く残っている。  中央に大樹を擁した多重階層の城。細部の記憶こそ薄れているが、ハイ・ラガード全域が空に浮いたらこうなるのではないか、という姿をしていた。もし、天上から降りてきた始祖達に、あの物語の記憶が継承されていたのだとしたら、彼らは地上の街を、かの物語に似せて作ったのではないか。そうと思えるほどに。  お話と判っていても、見ている方がはらはらするような危地を乗り越え、少年達は天空の城を見いだした。  現実の自分達も同じだ。未知を目の当たりにするには、危地を切り抜けなくてはならない。  改めて思う。ひとりでは切り抜けられない危地を、共に切り抜けるからこそ、仲間なのだ。  ひとりで難局にさらされることは、想像するだに、辛い。  ふと、アベイは、ある男のことを思い起こした。床に伏せることしかできなかったアベイのところに、「君の国の文化は素晴らしいね」と言いながら、あの話の映像記録媒体(DVD)を持ってきてくれた男のことを。 「なぁ、所長先生……」  その後は言葉にならなかった。  もしも空飛ぶ城の住人が前時代人なのだとしたら、どうしてヴィズルは彼らと手を組まなかったのだろう。単純に互いを知らなかっただけかもしれない。けれど、もし、互いを知っていて、手を組んでいたら――地上の再生を見守るヴィズルの、長い長い時の旅も、孤独ではなかっただろうに。  翌日、笛鼠ノ月二十日。  『ウルスラグナ』にとっては、戦うわけではないにしろ、今の自分達の力量では計り知れない強敵に再び挑む日である。  しかし、彼らの意識の及ばない別の地で、後々彼ら自身にも関わってくる、あるひとつの惨事が引き起こされようとしていた。  それを――彼らはまだ知らない。 「……ええっ、今日も凶相!?」  パラスは言霊輝石を前に首を傾げていた。  彼女が占いに手を染めることは、あまりない。実は昨日が、ハイ・ラガードに来てから初めての呪占だった。どうしてそんなことを始めたのかといえば、これまた合理的ではない理由なのだが、『なんとなく胸騒ぎがしたから』である。  昨日に出た凶相にも胸が掻き乱されたが、全員が無事に戻ってきたことで安堵できた。  では、今日は? 今日こそ何か起きるのではないだろうか?  しかしパラスは心配を心の奥底で打ち消した。職業柄、占いも信じる方だが、盲信することは却って危険だと判っていたからだ。この手の占いは指針に過ぎない。よきことが起きるという結果で安堵を、悪しきことが起こるという結果で注意を、それぞれ促すものだ。  そういう意味では、そもそも、胸騒ぎがしたからという理由で占いに手を染めるのが、間違っているのだろう。自分の心に不安を抱えた状態で結果を見てしまえば、指針に過ぎないそれを過信してしまうことは目に見えている。凶相が出れば動揺してしまうに決まっている。ちなみに『占い師は自分を占えない』というが、それは正確には『自分のことになると雑念が入りやすくなるから結果を正確に読めない』ということである。 「ああっ、もう、私のバカバカバカ」  パラスは言霊輝石を収納箱に流し込んだ。こんな不安定な状態での占いの結果を真に受けて戦々恐々しているのは、実際に現地で戦う探索班を馬鹿にしているも同然じゃないか。昨日のナジクの内心を読めたわけではないが、『樹海探索などに手を染めていればいつも危険に決まっている』のである。それを「凶相が出たから今日は特に注意しろ」と、探索班に警告できるならともかく、一人で悶々としているだけでは、文字通り机上の空論だ。  言霊輝石の収納箱の中から別の何かを取り出す。エトリアのはとこから送られてきた記念硬貨だった。それをはじき、机の上で静かに回転するのを見つめながら、パラスは盛大に溜息を吐いた。 「だけど、心配なのは、心配なんだよね……」  探索班は再び炎の幻獣にまみえる。  サラマンドラは、昨日初めて見たときと同じような位置に陣取っていた。  飼うとしたら個室ひとつ占拠しそうなほどに大きな爬虫類である(それでもエトリアの三竜には遠く及ばない)。それだけの身体を維持するのに食べているのは、やはり肉か、と思えば、首だけを自分の前方にある木立に伸ばし、何やら果物のようなものをくわえては飲み込んでいる。  その様を、木立の側面に身を隠し、縄張りに踏み込むぎりぎりのところから観察しつつ、冒険者達は互いに頷き合った。  エルナクハの手にあるのは引き寄せの鈴。初めて使ったときには、失敗が許されない状況のため、至近距離で鳴らしたものだった。素材が街に行き渡り、金さえあれば好きなだけ手に入れられるようになった頃に、いくつか買い込んで、角鹿で実験を試みたことがある。結果、対象を中心にしておおよそ四百メートル弱の範囲内で鳴らせば、その場所に誘き寄せ、少しの間だけ釘付けにできる。眠りの鈴の場合は、効果範囲は同等だが、対象をその居場所でしばらく眠らせることになる。  では、(サラマンドラにも効果があると仮定して)眠らせて、その隙に巣に潜り込むのはどうだろう。  否、眠りの鈴の効果そのものは弱い。至近を通れば気配で目覚めさせてしまう。そうなれば、巣に潜り込むどころか、逃げるより先に黒焦げだ。少なくとも、巣の入口から引き離してから眠らせなければ、意味がない。  エルナクハは鈴を垂らした。静かに揺らすと、からから、ころころ、と素朴な音がする。その音が、樹海の魔物の神経を刺激して、何らかの反応を起こさせるはずなのだ。  しかし――サラマンドラは反応しない。 「あれ?」  からんからん、ころんころん、と音が激しくなる。  さすがにサラマンドラも首を傾げ、音の出所を探るかのように視線をさまよわせたが、その身体は一歩も動かない。  やはり、と言うべきか、サラマンドラは鈴鉄の音に刺激されない種のようだ。  冒険者達は顔を見合わせた。想定範囲内のことだから、戸惑ったりはしない。しかし、結局こうなるのか、という感慨が、複雑な表情を彼らに浮かばせたのであった。 「囮は、わちが引き受けますえ」  ナジクが口を開こうとするよりわずかに先に、焔華が言葉を横取りした。ナジクは臍を噛むような顔で焔華を睨め付ける。そんなレンジャーに、少なくとも表面的には朗らかに、ブシドーの娘は声を掛けた。 「わちだって結構身軽なんですえ。なにせ、『猿(マシラ)のほのちゃん』ですし」 「今回は樹液にかぶれる程度で済めばいいがな」  ナジクの声は挑発するかのような響きを帯びていたが、焔華は意に介さない。レンジャーの青年は、そうして脅して、焔華を引き下がらせておいて、自分が囮を引き受けようという魂胆なのだろうが、そうはシトト交易所もシリカ商店も卸さない。 「ブシドーを甘く見るものじゃありませんえ」  たおやかに笑い、余裕の様を見せる焔華。  まさにその時である。  背後から響いた咆哮に、一同は飛び上がった。  後方には竜のような魔物――先達には『樹海の炎王』と呼ばれている――の縄張りがあった。もちろん、冒険者達は今はそこに足を踏み入れていない。縄張りを侵していない以上、炎王も人間どもに干渉する気はないらしく、日がな縄張り内を歩き回っているだけだったが、それが冒険者の背後から吠え掛かったのである。  炎王には、人間達に含みがあったわけではなく、たとえば前日のサラマンドラがやったような、あくびかなにかの類だったのかもしれない。が、人間達にその真意を知る意味があるだろうか。  油断していたわけではないが、意外なところからの意外な横槍に、冒険者達は警戒して飛びすさる。炎王から距離を取って、様子を見るつもりだったのだ。幸いにも炎王は、それ以上の何かを仕掛けてくるつもりはなかったようで、縄張りから離れた人間達を意に介さず、のそのそと去っていく。  ほう、と安堵の息を吐いた冒険者達は、しかし、付近の温度と湿度が急上昇したことを知った。  周囲を見回すと、サラマンドラが遠くから自分達を見つめ、襟から湯気を噴き出し、口からは舌のように炎を漏らしていることに気が付く。  そう、冒険者達は、炎王から距離を取るための咄嗟(とっさ)の行動で、逆にサラマンドラの縄張りを侵してしまったのである。 「は、はは、お邪魔するぜ」  エルナクハの挨拶も人間相手なら通用しただろうが、魔物には通じるはずもない。  サラマンドラは、口をくわっと広げて、足を踏み出した。意外と速い。人間の速度は、探索の装備分の重さと、地面の凹凸に対応するために、舗装された地面を走るよりも遅い。だが、サラマンドラは匍匐(ほふく)という移動方法の関係上、地面の障害を人間ほど気にしない。その上、身体の大きさに由来する歩幅の広さがある。総合すれば、人間の方がほんの少し速い程度である。余程の距離を稼がなければ、引き離すことはできないだろう。 「と、とにかく逃げるぞ! 計画通りにな!」  この期に及んで誰が囮をするかなどと論議している暇はない。全員が丸ごと囮のようなものなのだ。ただ、昨日に引き続いて二度目の状況、計画を頭の中に留めておく余裕は辛うじてあった。  サラマンドラの縄張りの半分以上を、扉の方向(東)から遮るように、帯状に南北に繁茂する木立。その向こう側に行くには、両端から回り込む必要がある。昨日と本日、冒険者達がサラマンドラの縄張りに踏み込む前に様子を見ていた場所は、木立の南端側面に当たる。そこからサラマンドラの気を惹きつつ、木立伝いに北上し、北端を回り込んで縄張りに侵入、巣に潜り込む――それが、冒険者達の計画。  ただ、サラマンドラの縄張りに近付くには、どうしても炎王達の縄張りに踏み込む必要があった。落ち着いていれば、炎王達が背を向けていてこちらには気付かないタイミングを測ることもできるが、今の状況ではそれもままならない。とにかくサラマンドラに追いつかれないように走り続け、行く先の炎王がこちらに顔を向けていないことを祈るしかない。もしも炎王がこちらを見ていたら――万事休す。アリアドネの糸を素早く起動させれば逃げられるだろうが、計画はまたやり直しだ。  南側の縄張りにいる炎王は、さっき去っていったから、まだ戻ってこないだろう。こっちはいい。  北は、どうだ?  祈るような思いで冒険者達は走り続けた。  左手に見える木立の、北側の終点が見え始めた頃、右手前方に魔物の姿を発見する。  北側の縄張りに座する炎王だ。冒険者達の方に顔を向けている。一瞬、冒険者達は心の臓を握りつぶされるような感覚を味わった。  だが、冒険者達は炎王の縄張りに踏み込んでいない。そんな人間達には炎王も興味がないらしく、両者は互いにすれ違うだけに留まった。  行ける!  安堵の息を吐きながら、冒険者達はさらに走り続けた。炎王は当分、人間の邪魔になる場所には戻ってこない。  ようやく、木立を回り込み、サラマンドラの縄張りに入り込むことに成功したとき、一行は息も絶え絶えに地面にへたり込んでしまったのだった。 「まだ油断はできないぞ」  誰よりも先に息を整えたナジクが、木立を見透かすかのように睨み付けた。  サラマンドラを撒いて縄張りに入り込んだはいいが、幻獣は当然、戻ってくるだろう。ぐずぐずしていては、戻ってきた家主と顔を合わせることになる。 「もうちょっと、休ませてぇ……」  すっかりと尻に根を生やした風情のマルメリが、ぜいぜいと息荒く懇願する。さもありなん、四半時間程、緊張にさらされながら走っていたのだ。アベイも、言葉にはしないながら、マルメリ以上に消耗した様子だった。前衛やレンジャーほど身体能力に優れない後衛の者達には、かなり辛い一時だったのだろう。 「――五分。それだけなら待てる」 「ありがたい!」  アベイが心底安堵した面持ちで言葉を吐き出した。医療鞄の中から出したのは木製の容器である。薬かと思いきや、そうではないようだった。中に入っている何かを、メディックは口に含み、もぐもぐと咀嚼(そしゃく)する。 「そりゃ何だよ、ユースケ?」 「プラムの蜂蜜漬けだよ。少しは疲れが取れればって思って」  差し出された容器に、銘々が手を突っ込んで、お裾分けに預かった。  そうして、束の間の休息に突入すること、しばし。 「……そろそろ、まずい」  北の方に油断なく視線を投げかけていたナジクが、警告の声を発した。磁軸計の反応も、サラマンドラが木立を回り込んできつつあることを示している。 「あと五分んー」 「羽毛を探す時間も要る」 「ああん」  しかし焼き殺されるわけにもいかない。未練がましいマルメリも含めて、冒険者達は立ち上がる。  やや早足で、サラマンドラがおびき出す前にいたあたりまで足を運んだ。  大公宮から預かった地図のとおりに、西の方に道が続いている。  いや、道に見えるが、間違いなくサラマンドラの巣だろう。下草を整えて居心地のいい場所を作ろうとした跡が明らかにわかる。紅の葉も、絨毯のように敷き詰めてある。  だが、奇妙なことがある。巣の中には白っぽい灰が所々に降り積もっていたのである。  炎で周囲の木々を燃やしたのか、とも思えたが、どうも勝手が違うようだ。灰は、単純に何かを燃やした後にできたとは思えないほどに緻密だったのだ。粉と言ってしまってもおかしくはあるまい。 「あ、あれ、見てくんなまし」  焔華が何かに気が付いて指差した。見ると、入口にほど近い隅の方、降り積もる灰の上に、何かふわふわしたものが堆積している。近付くと、それは重なり合った羽毛状のものだった。 「サラマンドラの羽毛?」  堆積した灰とほぼ同じ色合いで、あやうく見過ごすところだったが、これで依頼は解決だ。冒険者達はそそくさと手を伸ばす。しかし、指先が触れるか触れないかのところで、その羽毛は儚く崩れ去ってしまったではないか。崩れた後の羽毛は、粒子となって、下の灰の上に降り積もる。同化してしまい、もう、灰と羽毛の区別はつかない。 「ちょ……!?」  虚しく宙をさまよう指を引き戻し、冒険者達は愕然とした。  周囲に降り積もる灰は、サラマンドラが脱皮した後の羽毛(らしきもの)が崩れた成れの果てだったようだ。こんなに儚いのでは、とうてい持って帰れない。それとも、崩れ去った後の灰を持ち帰ればいいということか。 「なんか、秘薬の材料、って思えないよな」  ありありとした落胆を声に含ませ、アベイが肩を落とした。 「でも、他にないよな。とりあえず持って帰って調べてみるか」  メディックは小瓶に灰を回収し始めたが、彼と同じような思いを他の冒険者達も抱いていた。見た目で判断しても仕方なかろうが、どうも、『あらゆる病を癒す』という大上段な口上と、目の前にある灰とが、上手く結びつかない。 「いや、でもなぁ……」  エルナクハは妻のことを思い起こした。正確には妻ではなく、錬金術師としてのセンノルレのことをだ。  アルケミストは、どうしたらそうなるのだ、としか思えない方法で、素材を精製し、術式に使っているではないか。  メディックとアルケミストの技術の系統は、逆しまに辿っていけば同じ根に行き着く、と聞いた気がする。だったら、アルケミスト達にも調べてもらえば、医学的にも納得いく何かがわかるかもしれない。  しかし、古き記憶に記された素材は、あくまでも『羽毛』だ。灰だけ持って帰っても徒労になる可能性も、またある。もう少し調べてみなくてはならない。  ひとまず、手分けして探してみることにした。サラマンドラの動向を掴むために、ナジクに磁軸計を見てもらって、残りの四人は、白い灰がそこかしこに積もる巣の中を捜索し始めたのであった。  這いつくばって地面を探し回る冒険者達の頭上から、騒がしい鳥の声がこだまして降り注ぐ。サラマンドラの怒気に当てられているのかもしれない。ばさばさという羽ばたきの音と共に、羽根や羽毛がはらはらと落ちてくる。 「ややこしいなぁ」と、奥まったところを探しつつエルナクハはぼやいた。  この分だと、灰にならない羽毛を見付けて喜び勇んだとしても、実はただの鳥の羽毛でした、というがっかりもあり得るだろう。そもそも、自分達はサラマンドラの羽毛の色さえ知らないのだ。炎の精霊の名を冠されているくらいなのだから、赤、と決めつけたいところだが、しかしサラマンドラ自身はといえば緑色だったりする  とりあえずは、羽毛と見れば片っ端から拾い上げてみた。こうなったら質より量である。サラマンドラが戻ってくるまでに手当たり次第集めて、検証は街に帰ったら行えばいい。眼鏡に適わなかったらまた明日出直し――。 「……およ?」  手が止まった。目の前の地面、白い灰に半ば埋もれるように、ひとかたまりの羽毛がある。羽毛の核の中に七色の炎が灯り、その柔らかな光が外側に漏れだしているような、不思議な輝きを持っていた。震える指先で慎重に掘り出し、掌に載せると、ほのかに暖かみさえ感じるような気がした。  本能的に悟る。これが捜し物、サラマンドラの羽毛であると。 「おい、見付け――」 「来た! サラマンドラだ!」  喜び勇んだ報告の声は、警告の声に虚しく掻き消された。  せっかく見付けたのに何だよ、と水を差された気分になったが、刹那の後には気を取り直す。  巣の入口から、サラマンドラが中を覗き込んできているのだ。その口元から炎を漏らし、喉を撫でられた猫のような声を――もちろん猫とは違って不快の表明だろうが――上げている。追い払ったはずの賊が我が家に押し入っているわけである、不機嫌にもなろう。  エルナクハは即座に撤退を決意した。捜し物(らしきもの)は既に手に入っているのだ、未練がましく居座る意味もない。仲間達はまだ捜し物発見については知らず、残念そうに眉根を歪めていたが、ここで意固地に居座ってサラマンドラに殺されるのは愚かなことだ。撤退については異論ないはずである。本当は見付けたものを披露して安堵させてやりたいところだったが、そんなことは後でもできる。今はこの場を逃れることが先だ。 「ナジク、糸のセットアップ頼む!」  ギルドマスターとして退却準備を頼んだのだが、しかし、レンジャーの青年は首を振る。なんだよ、と言いそうになったエルナクハに、ナジクは巣の南の方に広がる木立を指しながら口を開いた。 「皆が羽毛を探している時に、気になったから調べてみた。通れる場所がある。どうする?」 「そっか!」  糸を用意して転移する方が、安全かつ楽に逃げられる。だが、それ以外にも逃走経路があるということに、エルナクハはいたく興味を惹かれた。  今日、サラマンドラの巣に来るまでは、極力体力や気力を消耗しないように考えてきた。サラマンドラとの追いかけっこで疲れはしたが、その疲れが取れれば、探索を続行するにはさしたる問題がない程度に活力は残っている。だったら。 「みんな、こっちだ!」  仲間達を呼び寄せる。匍匐して近付いてくるサラマンドラの、怒りに燃える瞳を、視界の片隅に認めながら。  すでにナジクは南の木立の傍にいた。そのあたりが、発見した抜け道なのだろう。 「早く!」  抜け道の先は未知の領域だ。それでも冒険者達は身を投じる。当然、サラマンドラから逃げ切るためだが、その先に何があるのか、という好奇心も否定はできない。  自分とナジク以外の全員が抜け道に潜り込んだのを確認し、エルナクハはレンジャーの青年に目を向けた。 「オマエも行け」 「いや、お前が先に」  また、そう来るか。エルナクハは内心うんざりとした。しかし、ここでぐずぐずしている余裕はない。聖騎士は頷いて、ナジクの言うとおりに先に抜け道に入り込んだ。  ナジクもすぐに後を追ってくるのに、安堵する。  サラマンドラはすぐ近くまでやってきたのだろう、気温と湿度が明らかに上昇する。抜け道にもその効果が波及し、木々の合間に熱が籠もって蒸し風呂のようだ。  その異常な空間から一刻も早く離れようと、冒険者達はできる限りの早足で木立の合間を行く。 「炎とか吹かれてきちゃったらどうしようぅ」  焔華、アベイに続いて先を行くマルメリが震える声を上げた。 「おそらく、それはあるまい」  殿(しんがり)を務めるナジクが答える。「自分の巣を破壊しかねないからな。そんな馬鹿な真似はしないだろう」  樹海の木々に炎は禁物だ。炎を吹く魔物達も、アルケミスト達も、木々の密集地で火を扱うことはしない。そもそも、そんな場所を主戦場にすること自体、互いの動きの自由度の関係上、まずないのだが。 「それも、そうかぁ」 「きゃあ!」  マルメリが納得するのとほぼ同時に、戦闘を行く焔華が悲鳴を上げた。 「どうした!?」 「皆、止まってくださんし」  何があったのだろう。冒険者達は行軍速度を緩め、既に立ち止まっている焔華の隣に並ぶ。  ……焔華が悲鳴を上げるわけだ。  木立を抜けた先は崖だった。といっても、人の身長より若干高い程度、気を付けて降りれば怪我もしないだろう高さ。ただし、降りてしまえば、引き返すことはできないだろう。もとより、現時点では戻るつもりも必要もないのだが。 「ともかく、降りねばならないな」  ナジクが荷物の中から長いロープを取り出し、頑丈そうな一本の樹に引っかけ、結んで輪にした。それを使ってナジクは崖を降りていく。下に異常がなかったら知らせてくれるだろう。残された冒険者達も、上からも異常がないかどうか、目前に広がる緋の樹海と、その合間合間にある拓けた地を見据えた。 「……あれ?」  と焔華がまたも声を上げた。何事かと視線を向ける一同に、ブシドーの娘は、前方左よりの方向を指差す。  広がる樹海の一点、緋の合間に、奇妙に色が抜けた場所がちらちらと見える。 「あれは……ひょっとして……」  その正体の断定を口にする前に、ロープが不自然な動きをする。崖の下に問題はなかったようだ。  冒険者達はロープ伝いに崖を降りていった。 「……何かあったのか? 妙な顔をしているが」  下で待っていたナジクが、仲間達を出迎えるなり、珍しく少し驚いた表情を浮かべる。顔に出ていたのか、と、エルナクハは苦笑いをした。さもありなん、あの朽木のことを思い浮かべると、なんとも嫌な気持ちになる。皆も同じだろう。崖上で気が付いたことを手短に説明すると、ナジクもまた、同じように思ったのか、眉根をしかめた。 「やはり、この階にもあるのか」 「ちらちら見えただけだから、朽木かどうか決まったわけでもねぇけどな」  しかし、これまで発見した朽木の分布を考えれば、あってもおかしくはない。  先ほど見た『色の抜け』は、現在地からすれば、南東方面にあるはずだ。ひとまず向かってみよう、と決めた、その時である。  なにやら悲鳴のようなものを耳にして、冒険者達は緊張を露わにした。  現在地の南側から聞こえたようだが、遠くて、音の正体は定かではない。  仮に人間の悲鳴だったとしよう。駆け付けたとしても、その時には手遅れかもしれない。  かといって、見過ごすわけにもいかないだろう。  『ウルスラグナ』は駆けだした。途中から鬱蒼と茂る低木に阻まれて、若干速度が落ちたが、それでも可能な限り早く駆け付けようとした努力は讃えられてもよかっただろう。とはいっても、現場に駆け付けた時には、悲鳴を聞いてから十分以上が過ぎている。その顛末を目の当たりにし、エルナクハは舌打ちした。 「やっぱ、ダメだったか……」  低木の茂みが不自然に切れたその場所は、何かに踏み固められてできたらしい空間だった。その中央に一本だけ、すっくと伸びる樹木がある。その根元にあったのは、ぐったりと座り込む衛士の姿であった。力なく垂れた腕や、投げ出された足は、遠目に見ても、あまりにも不吉だった。  無駄を承知で、近付いて脈を取るが、やはり手遅れだったようだ。鎧の内部に溜まっているのか、血が、腕に赤い筋を何本も作っていた。  先ほどの悲鳴の主は、この衛士に間違いないだろう。何かしらの命令で、この地に赴き、生命を落としたのだ。ただ、樹海入り口付近ならまだしも、第二階層で一人きりというのは無謀だ。隊を組んで入ったが、何かしらの事故で一人きりになってしまったのかもしれない。  使おうと思って出したが間に合わなかったのだろう、磁軸計とアリアドネの糸が、近くに転がっているのを見て、冒険者達はいたたまれなくなって目を伏せた。 「……すぐに離れた方がいい」  ナジクが警告の声を放つ。 「ここは何かの縄張りのようだ」 「縄張り?」  ふと、衛士がもたれ掛かる樹の幹に目を向けると、人の頭を越えた場所に、削られたような傷があるのに気が付いた。それは、熊の類が縄張りを示すために樹に付ける傷に似ていなくもなかった。その傷痕から判断するに、熊かどうかはともかくとして、かなりの力を持つ巨大な魔物が付けたものだろう。  そんな思考は数秒にも満たない短いものだったが、状況の変化に対応するには遅すぎた。  背後に草ずれの音が響くのを耳にして、振り返ったときには、巨大な魔物が、そこに姿を現していたのだ。  それは割れた蹄を持つ四足動物の姿をしていた。苔色をした体毛の上に、所々に青い長毛を生やし、青いたてがみをなびかせていた。頭の上には、幾重にも枝分かれした、古木の枝のような角。その角の存在だけで、冒険者達は相手を『鹿』と認識した。だが、その顔は鹿とは似ても似つかない。鹿や馬の類が持つ、縦に細長く伸びた様相ではなく、どちらかといえば猿に似た顔――それは、一瞬、人間の顔を想起させて、冒険者達をぞくりとさせた。  見たことのない魔物だ。それも前後に一体ずつである。幸いにして『敵対者(f.o.e.)』のような手に負えない輩ではないようだが、手こずることは間違いないだろう。  奴らは口を開け、鹿に似た姿からは想像できない牙を剥きだした。片方の角が血に塗れているところを見ると、衛士を殺したのは間違いなくこの魔物達だ。縄張りを侵した者を殺し、今もまた、再び縄張り荒らしを排除しようとしている。  踏み込んだ人間が悪いと言えば悪い。それでも、ここで殺されるわけにはいかない。戦うしかない。  『ウルスラグナ』は、それぞれの武具を構えて、魔物達が迫り来るのに備えた。  地面に横たわった二匹の魔物を前に荒い息を吐きながらも、冒険者は倒れることなく立っている。  心に抗いがたい恐怖を湧き起こさせる咆哮や、角を向けて突進してくる強力な一撃に、手こずったが、どうにか善戦したと言えるだろう。  せっかく倒したのだから、荷物に余裕もあるし、肉でも――と、解体用のナイフを握ったはいいのだが、人間に似た顔が気になって、どうにもこうにも食欲が湧かない。そう思うのは『ウルスラグナ』だけではなく、彼らより先んじてこの魔物に遭ったことがある者達も同じだったようだ。後に大公宮に報告しに行った『ウルスラグナ』は、先達がこの魔物を『アクタイオン』――古い神話で、女神の逆鱗に触れて鹿に変えられた人間の名――と呼んでいることを知ることとなる。  結局、肉は諦める。次に目に付いたのは立派な角だった。戦いの際には人間どもを苦しめた角は、剣を叩きつけても折れないほどに堅い。いい素材になるかもしれない。しかし、あまりにも堅くてなかなか取れず、一匹分を取ったところでくたびれた。ちなみに、肉を取るのには躊躇したのに角は平気で取るのか、と問われれば、「そんなもんだ」と答えるしかない。  そうしてから、せめて衛士の形見になる品でも持って帰ってやろうとして、ふと気が付いた。  脈を取った方とは反対の手――陰に隠れてよく見えなかった方の手には、羊皮紙が握られていた。垂れ落ちた血にまみれたそれを広げてみると、中には地図が描きかけのまま残されている。どうやら八階の地図らしい。間違っている箇所も少しあるが。 「衛士が、地図を描いてる……?」  かつて公国の衛士や騎士を動員していた時代ならともかく、今は冒険者の探索を頼りにしているのが実情だったはずだ。それが、また自ら探索し、樹海の様相を探ろうとしている。 「今更、外部の冒険者はいらん、というわけか?」 「いやナジク、そりゃ飛躍しすぎじゃねぇか?」  普通に考えれば、単に『樹海の知識をなるべく多面から知りたい』がゆえの行動だろう。そもそも遺された地図の間違いようからすれば、冒険者を廃して探索を続けようとしても、行き詰まりそうな気がする。もっとも、間違った地図を描く衛士ばかりではないだろうが。 「なんにしても、お仕事なら、届けてあげないといけませんえ」 「そうねぇ」  女性陣の言うとおりだ。ここで行き会ったのも何かの縁、生命を賭して成した仕事の成果を打ち捨てるのも薄情だろう。 「せめて、アンタのやり遂げようとした証は、届けてやるよ」  エルナクハは短い祈りの言葉をつぶやきながら、地図を畳んで自分のザックに収めようとした。その動作が止まったのは、地図の上に気になる書き込みがしてあったからだ。閉じかけた地図を慌てて広げ、その書き込みを確認する。場所は――現在地から少し南東に位置する地点。書き込みは――不自然に枯れた木々。  崖の上から見えた、色の抜けを思い出す。位置的には合致する。やはり、あの朽木なのか。  見たことのない魔物との戦いで消耗したこともあるから、サラマンドラの羽毛を届ける前に倒れないよう、ひとまず帰ろうと思っていたところだった。だが、件の朽木の存在の可能性が跳ね上がったところで、確認しなければ、という気持ちが湧き上がる。 「……周囲に魔物の気配はなさそうだ」  エルナクハの考えを読んだか、ナジクが囁いた。 「そか」  朽木がある場所には、衛士の地図を信用するなら、約十分。その位の間に、新たな魔物と対面する可能性は低いだろう。仮にあったとしても一度くらいと思われる。  それに最近、ある技のコツを掴んできたところだ。力尽くで退路を開き、大概の魔物からは逃げられる、パラディンの護衛技『全力逃走』。七階で手痛い目に遭ってから、いざというときのために研鑽を始めたものだ。それを使えば、ひとまず逃げてから糸を使って街に戻ることもできる。ちなみに、普段の逃走時に使わないのは、気力を消耗することに加えて――なりふり構わず逃げるために、探索していた地点から大きく離れてしまうこともままあり、探索作業中の使用には向かないからだ。まさに危機時の奥の手である。  ともかく、結論としては、「行けるところまで行ってみよう」ということに尽きる。  景気づけの軽口を叩きながら、冒険者達は歩を進めた。再び低木の茂みを掻き分け、目的地を目指す。  その場所が見えるまでには、ほぼ想定通りの時間で済んだ。しかし、その後が問題だった。冒険者達の足は明らかに鈍っている。少し歩いては立ち止まり、少し歩いてはまた立ち止まり。すぐそばまで行かなきゃいけないか? と互いに目線で会話し合う。  然(はい)とも否(いいえ)とも結論が出ないまま、結局、一行は朽木の傍まで来てしまった。  たぶん気のせいなのだとは思うが、この朽木の傍では、鳥の鳴く声も聞こえず、風さえも止んでいるように感じられる。初めて朽木を発見したときにも思った、そこだけ異空間に見える、という違和感に拍車が掛かる。たぶんこの気持ちは、何度朽木を見ても、慣れて薄れることなく付きまとうだろう。 「……ひとまず、そろそろツキモリ先生にお知らせした方がいいでしょうし」  焔華の言うとおりだろう。もとより、サラマンドラの件が片付いたら酒場の親父づてに報告するつもりではいた。これで、見付けた朽木は五箇所。もしもこの『症状』が拡大するものなら、手をこまねいているわけにはいかないだろう。あまり待たせると、ツキモリ医師を後手に回らせることになる。 「ま、サラマンドラの羽毛は、また明日だな」  はぁ、と溜息を吐きながらアベイが言う。  そういえば皆に羽毛を手に入れたことを言い忘れていたのだったか。エルナクハはザックの脇ポケットから、革袋を取り出して開けて見せた。内側から虹色を放つ羽毛のひとかたまりが、一同の目を惹く。ひとしきり美しき色の転移を堪能すると、仲間達は、眉根を吊り上げてエルナクハに詰め寄るのだった。 「見付けたんだったら先に言え!」  いやだから、そんな余裕なかったんだってばよ、と、ギルドマスターは弱々しく反駁した。  糸を繰り出して迷宮入口に戻る。  糸による磁軸遡行の出口である、踊り場脇の空間に、一同が帰り着いたとき、階段を挟んで向かい側に見える、樹海磁軸(と磁軸の柱)の起点の空間に、一組の冒険者がいた。ハイ・ラガードで知り合った、付き合いは短いが気が合う連中で、街で出くわしたときに、屋台で軽く一杯――必ずしも酒ではない――交わすこともままある。当然、挨拶ぐらいしてもよかったのだが、タイミングが悪かったのだろう、彼らは立ち上る磁軸に飛び込もうとしているところだったのだ。そのまま『ウルスラグナ』に気付かずに光の中に消えてしまった。 「……ま、しゃーねぇな」  エルナクハは肩をすくめ、だが気を悪くしたわけでもなく、自分達が本来成すべきことに意識を引き戻した。  まずは一度私塾に戻って、ちょっとした用事を済ませた後、フロースの宿で一休みだ。樹海探索で汚れ疲れたままの姿で大公宮に参内するわけにもいかない。大臣はもはやそんなところは気にしないかもしれないが、最低限の身だしなみは整えるに越したことはないのだ。それに、単純に自分達が疲れを取りたいということもある。  それから大公宮に参じて、サラマンドラの羽根を引き渡す。それが終わったら、鋼の棘魚亭で、朽木に関する報告だ。  という予定の下に、『ウルスラグナ』探索班一同は、今となっては我が家にも等しい私塾への帰路を辿った。  早朝から探索を始め、帰り着いた今は、常ならば年少組の授業が始まる頃合いである。が、夏休みなので、子供達はいない――と思ったら、私塾の裏庭で、年少組と年長組の入り交じった子供達が十人ほど、固まっている。 「……なんだオマエら、遊びに来たのか?」  と黒い聖騎士が声を掛けると、「おっすエルナクハ!」と偉そうな態度の子供(ガキ)から、ぺこりと会釈をする十五歳ほどの少年まで、各自それぞれに挨拶を返してきた。 「血が出てる? だいじょうぶ? ねぇ、だいじょうぶ?」  と、心配げな眼差しを浮かべつつ、さえずる小鳥のように声を上げる小さな女の子達には、 「心配せんでも、大丈夫ですし」  と焔華がたおやかに答える。嘘でも何でもない。傷そのものはアベイの応急処置であらかた塞がっている。少女達が見た血は、処置直後に包帯の上に滲んできたものに過ぎない。  ところで子供達はハディードを構いたがっていたようだ。しかし、樹海で拾われた獣の子は、中庭の片隅に設えられた犬小屋から出てこない。中からじっと見つめてきている眼差しに、敵意のようなものは感じられないから、様子を見ているといったところだろう。思えば『彼』を連れてきてからまだ一週間程しか経っていないのだ。  ちなみに、ハディードの小屋がある場所の傍には、花壇と数本の立木があり、周辺には雑草が繁茂している。その雑草の中に奇妙なものを見付けたマルメリが、それを拾い上げた。紙でできた人形である。いくらかボロボロになっていた。 「……何、これぇ?」 「……む、拾い忘れか」 「なんだぁ、ナジクくんの?」 「僕の、というのは違うが、どっちにしても、もう要らないものだが」 「なんだぁ、じゃ、捨てておくわよぉ」  やや間延びした口調で話を締めると、マルメリは紙人形をくしゃりとまるめて拳の中に納めた。部屋に帰ったらくずかごに放り込むつもりだろう。その様を見ていたエルナクハが小首を傾げてナジクに問うた。 「何だよ、ありゃあ?」 「パラスの呪術人形だ。ちょっと前に訓練に付き合ってもらった」 「アレを的にしてか? アレじゃあんまり訓練にならねぇんじゃねえか?」 「そうでもない。パラスの呪術でよく動く」 「マジ?」  「ああ、髪の毛を使った呪術――」  と言いかけたところでナジクの言葉が切れたのは、話題にしてたカースメーカーの少女が入口から飛び出してきたからだ。 「お帰り、みんな!」  その表情は彼女の常日頃の明るさそのままに見えたが、しかし、どこか引きつったような違和感がある。  なんとなくだが、昨日、サラマンドラの下から命からがら戻ってきたときに出迎えてきた彼女の様子に、近しいものを感じる。 「……なんか、また悪い徴が出たか?」 「……うん」  おずおずと尋ねるアベイに、パラスはためらいながら、それでもしっかりと肯定した。 「だがハイ・ラガードよ、オレらは帰ってきた!」  気まずさを含む空気を吹き飛ばさんかの勢いで、やや戯け気味にエルナクハは言い切る。 「そうだね、無事に帰ってきたよね。うん、お帰り、みんな」  ようやくパラスは微笑んだ。確かに占いはよくない兆しを示したが、仲間達はそれをくぐり抜けて帰ってきた。占いの囁く結果は傾聴するべきものだが、あくまでも警告、決まり切った未来ではない。判ってはいながらも動揺すると忘れてしまう、当たり前のことを、改めて思い知ったのだった。  そんな彼女の頭を、くしゃりと掴み撫でると、エルナクハは仲間に先だって私塾の中に踏み込んだ。  あるいはパラスの様子に感化されて不安を抱いたのだろうか、ティレンやオルセルタならまだしも、あまり出迎えをしないアルケミスト達までもが、入口で固まっている。「大丈夫だってばよ」と、半ば呆れ気味にエルナクハが声を掛けると、やっとそれが嘘ではないと判った、と言わんばかりに胸をなで下ろす。 「でもちょうどいいや、オマエらに頼みがあったんだ」  アルケミスト達にそう言いながらパラディンが取り出したのは革袋、サラマンドラの羽毛が納められたものである。口を開けて中を見せると、アルケミスト達のみならず、他の二人も、後から入ってきて覗き込んだパラスも、一様に溜息を吐いたのであった。内側から虹色の光を滲ませる羽毛には、有無を言わさず人の心を掴む何かがあるようだった。 「これが、サラマンドラの羽毛、ですか」 「ああ。それで、コイツのことを軽く調べてほしいんだよ」 「大公宮に持っていかなくてはならないのではないんですか?」  若干咎めるような眼差しを向ける妻に苦笑を返しつつ、黒い肌の青年は、悪戯小僧のような口調で答えた。 「これだけあるんだ、ちょっとくすねたところで問題ねぇだろ」  それに、かのキタザキ医師さえ根絶できなかった病を治せる可能性がある秘薬『エリクシール』、その材料となるこの羽毛の成分構成がどんなものか、興味ないはずはないだろう。そんなパラディンの言葉に、アルケミスト達は、反論する気も、取り繕う余裕もなく、こくこくと頷くしかなかった。万能薬『エリクシール』は、メディックのみならずアルケミストにとっても至上の夢なのだ。  フィプトが「シャーレ、シャーレを」とつぶやきながら奥へ戻っていくのを見送り、今度はアベイが革袋を取り出した。 「そっちは何です?」  とセンノルレを始めとした一同が覗き込むが、その中には細かい白い灰の入った瓶しかない。訝しげなアルケミストにメディックの青年は告げた。 「ちょっと気になることがあってさ。ついでだから、この灰の成分も調べてほしいんだ。できれば、時間が経つと成分がどうなるかも」 「はあ、わかりました」  意図が掴めずに生返事をするセンノルレだったが、やると答えたからには違えることはあるまい。「こっちは袋ごと持っていっていいから」と渡された革袋を両手で包むように持って、奥へと戻っていく。入れ替わりにガラス製の蓋付き小皿を持ってきたフィプトが、同じく持ってきたピンセットで羽毛の一片を掴むと、ふるふると震えながら小皿に収めた。全身をがくがくと震わせながらまた奥へ戻っていくフィプトだったが、誰も見ていなかったら、震えるのではなく、謎の素材を誰よりも先に調べられる喜びに、奇声を上げながら舞い狂っていたのかもしれない。  これで『ちょっとした用事』は済んだ。探索班は一路、フロースの宿に向かうのであった。  宿で疲れを癒している間、女将が簡単にだが装備の汚れを落としておいてくれた。それ自体は、手が空いていたらよくやってくれることだったのだが、女将に言わせれば今回はちょっとだけ違うらしい。何が違うのかと問えば、女将は、ウフフフフフと笑ってタネを明かしてくれたのだ。 「今日はね、ウチの娘が手伝ってくれたのさ」  さすがに見ただけでは判らないこと、どう反応したものか困る一同に、女将は「ついでにコレ食べてみないかい」と皿を差し出す。盛りつけてあったのは厚切りされたパウンドケーキらしきものだ。素直に頂いて口に入れると、バターの香りと蜂蜜の甘さが口に広がる。 「どうだい? フフフ、美味しいだろ? コレもね、娘が作ったんだよ」  豊満……といっていいのかどうか微妙なのだが豊かには違いない胸を張る。 「我ながら出来の良い娘でね、気立ても良いし、要領も良い、大抵の男はイチコロだろうね!」 「へー、そんなに美人さんか」  感心したようなアベイの言葉に、にこにこ笑いながら女将は返す。 「そうさ。あたしの若い頃にソックリだものね」 「……………………へ?」  空気が固まった。  ちょっと待ってくれ女将の若い頃にソックリって何なんだ!? ああまぁ女将が醜女(しこめ)だと思っているわけではないのだが。それに、あくまでも『若い頃』だ。その頃の女将が今のように恰幅がよかったとは限らない。しかし、どうしても想像できない。想像しようとしても、目の前の女将がそのまま縮小したようなものを思い起こしてしまう。自分達の貧相な想像力に絶望する中、アベイだけが平然と「なるほどなぁ、ドーラおばさんみたいだなぁ」とつぶやいていた。ドーラおばさんって誰だろう? 「おや、アンタたち何だいその顔は」  女将は目をしばたたかせると、にやりと笑う。 「あたしは今でも充分魅力的だろ? ウフフフフフ!」 「はは、まぁ、な」  否(ノー)と言えるはずもなく、冒険者は生返事でその場をやり過ごした。もっとも、女将自身も、今の自分が実際にどう見られているかは判っていて、冗談交じりに一連の会話を繰り広げたのだろうが。  さておき、いつも世話を焼いてくれることには多大な感謝を。冒険者達は女将と娘が整えてくれた装備を再びまとい、疲れの癒えた身体も軽く、大公宮に向かう。  大臣との面会を望む旨を伝えると、侍従長の案内に従って謁見の間に足を踏み入れる。 「サラマンドラの羽毛を手に入れたから」という謁見理由は、一足先に伝えられていたのだろう。大臣は、安堵と歓喜が入り交じった表情で、冒険者達を出迎えるのであった。 「おぉ、『ウルスラグナ』の者たちか。ご苦労であった、無事に幻獣の羽毛を持ち帰ったようじゃな!」 「おうよ、大変お待たせいたしました、だぜ」  相変わらず高位の者との謁見に臨んでいるとは思えない態度のエルナクハであったが、ともかくも革袋を取り出し、広げてみせる。 「……どっか、こいつを空けるとこはねぇか?」 「う、うむ、しばし待たれよ」  大臣は革袋の中を注視していた顔を上げ、何者かを呼ぶ。入室してきた者は、学者であると断定したくなる雰囲気を湛えた壮年の男であった。その手には浅い皿のようなものを捧げ持っていたが、その皿は天鵞絨(ビロード)を敷いてあったり金縁の装飾がなされていたりと、どう見ても只物ではない。ともあれ冒険者側としては、それに空けろというなら拒否する理由もないことである。エルナクハは革袋を逆しまにして、軽く振った。  革袋の中に収まっていた羽毛のひとかたまりが、ふわり、と皿の天鵞絨の上に舞い下りた。  内側から虹色の光を滲ませる羽毛を目の当たりにして、その場にいた誰もが、夢見るように溜息を吐いた。既に見ている『ウルスラグナ』ですらそうなのだ、大公宮の者達には耐えがたいものだっただろう。  大臣は涙を流しそうな表情で、虹色の羽毛を堪能すると、何度も感慨深げに頷いた。 「……見事じゃ、『ウルスラグナ』よ。見事な働きである。そなたらに衛士たちを鍛えてもらいたいくらいじゃ」 「依頼とあらば、いつでも承るぜ」  真意というより、賞賛の表現に過ぎないかもしれないのだが、エルナクハも無難に返した。 「……あ、あとコイツ。アンタのとこの衛士サンが行き倒れてて……こいつは、形見みたいなもんだ」 「……そうか、感謝しますぞ」  地図について簡単に事情を訊いたが、やはり大公宮でも樹海を把握しようと、衛士を派遣したものらしい。冒険者の助力も得ようと、酒場を通じて依頼を出したが、それは別の冒険者が受けたそうだ。聞いたギルドの名は、糸で戻ってきたときに見かけた連中のものだった。  そこで改めて、かねてよりの懸念を大臣に問うてみる。 「ところで大臣さんよ。オレらちょっと心配なことがあってよ」 「報償の件か?」 「はっはっは、そっちは心配ってより期待だな。そうじゃなくて、羽毛のことだがよ」  羽毛の『消費期限』のことだ。あくまでも推測だが、あの羽毛は、放っておけばいずれ力を失うのではないだろうか。その成れの果てが、サラマンドラの巣の中で見た『羽毛の形をした灰』であり、ちょっとしたことで崩れ去って白い灰粉になってしまった残骸ではないだろうか。迷宮から私塾へ帰り着く間に、探索班一同はそんな懸念を取りまとめ、それゆえに、アルケミスト達に、羽毛のみならず、灰の調査も頼んだのである。  材料が発見されたからといって、薬がすぐできるかは分からない。いにしえの記録どおりに行っても、必ずしも上手くいくとは限らない。試行錯誤の合間に、羽毛が肝心の力を失ってしまったら、どうすればいいのか。また取りに行けと? 行くこと自体は構わないのだが、今回もなかなか見つからなかった羽毛が、次回も見つかるかどうか。 「その件に関しては、ご心配なさいますな」  と、羽毛の載った皿を捧げ持つ学者が微笑む。 「記録には、羽毛を保管する方法が記されておりました。永遠に――とまではいかないのでしょうが、一年や二年は保たせることができるそうです」 「それはなによりですえ」  一同を代表するかのように、焔華が目を細めて安堵の息を吐いた。  学者が謁見室を立ち去ると、大臣は、冒険者達を失礼にならない程度に眺め回しながら、安堵した様子で口を開く。 「無論、幻獣との戦いはうまく避けたのじゃな?」 「まぁな。今のオレらに勝てる相手じゃ、ない……」  本当に、本当に、数ヶ月前、エトリアの深層に挑んでいた頃の自分達なら勝てたかもしれないのに。  悔しげな思いが表層に出ていたのだろうか、大臣がなだめるように言葉を続けた。 「あの魔物には勝てぬとて恥ではない。勝敗を決したいのなら、ゆっくりとでも確実に力をつけ、いずれ再び戦いを挑めばよかよう」  そうだろうな、と冒険者達は思う。力試しに急いて生命を落とすなどという馬鹿げたことはしたくない。……過去にサラマンドラに挑んで散った者達の復讐? 人生の半ばで散った彼らは確かに哀れだが、その復讐を果たしてやる義理は『ウルスラグナ』にはない。勝算が高ければ無念を晴らしてやってもいいのだが、現時点では、誰かがそれを望み、ミッションとして提示してきたとしても、一も二もなく断るだろう。  そんな思考を読んだわけではあるまいが、大臣は穏やかに笑んで頷いた。 「今は、あの危険な地域から羽毛を持ち帰ってくれたことで十分じゃ」  差し出された報酬はキマイラを退治したときのものより重かった。  片や魔物退治、片や捜し物――といっても、どちらも生命の危険があったことは間違いないし、実際『捜し物』の方が危険な魔物と相対峙した。理性ではそれがわかるのに、感情的にはどことなく納得がいかないものを感じる。  ……そうか、やはりフロースガルのことが引っかかっているのだ。  自分達の見知った者の死を重く見すぎて、理論的に考えればおかしくもない報酬の差に、その死を軽んじられたような気がしてしまったのだ。  まったく馬鹿げた考えだ。大臣は別に、フロースガルはじめキマイラに殺された者達を軽んじているわけではないだろう。それに、サラマンドラに殺された者も多い。それらを加味して、危険度と重要度を吟味して報酬を決めただけだ。敢えてそれ以外の報酬の差の理由を挙げるなら、それが国家元首の生命に関わることだという一点だ。それを批判する理由はない。国家元首の生命は時に国家そのもの、その生死に絡むごたごたは、大勢の無辜の民を道連れにしかねない、というのは、依頼を受ける際にも考えたことである。報酬額が増える理由としては、不思議ではない。  ま、いいさ。  いろいろと考えた割に、割り切るために心中でつぶやいた締めの言葉は、至極単純だった。自分達はやり遂げた。大公宮から報酬を賜った。それでいい。どうしても気になるなら、報酬の一部で酒なり買って、彼らの御下に供えてやればいいのだ。  さて、大公宮の依頼を完遂した『ウルスラグナ』は、再び普通の探索に戻る。  冒険者から酒場づてで朽木の状況を知らされたツキモリ医師は、早速レポートを取りまとめ、ノースアカデメイアへ送付したそうだ。その結果がどう出るかは、しばらく待たなくてはならないだろう。相手の下に手紙が着くまでは、速達にしても時間がかかる。  速達といえば、サラマンドラの件が解決した三日ほど後に届いた、エトリア正聖騎士からパラスへの手紙が、その扱いであった。普段は普通便で届くはずのそれを前にして、パラスは緊張しつつ封を切る。ただ事ではない雰囲気を感じ、固唾を呑む仲間達に、カースメーカーの少女は溜息ひとつ、かすれた声を上げた。 「オレルスさんが……呪われてるんだって」 「呪われてる……?」  訝しげに問い返す一同に手紙が回され、事情がはっきりとする。  どうやら、エトリアの若長オレルスに対して、何者からか『呪詛』が掛けられたらしい。それも、大分前からだという。呪詛自体は致命的ではないが、それがオレルスの体調を崩していたそうだ。大事にするわけにもいかなかったので、これまでパラスへの手紙にも書けなかったらしい。だが、そんな状況も、一ヶ月ほど前にエトリアに呼んだ『アト叔母さん』のおかげでなんとかなりそうだとのことだ。 「……『アト叔母さん』って、誰?」  と問うオルセルタの言葉は、問い詰めるというより、単に見知らぬ人名が出てきたから口に出た、というだけのことだったのだが、パラスは律儀に答える。 「あ、私のお母さんだよ」 「母ちゃん、だぁ?」  そりゃカースメーカーとて木の股から生まれたわけでもなく、まして一部の者が固く信じるように混沌がこごってできたわけでもないだろうから、親は存在するだろう。しかし、仲間内で誰かの親の話が出ることは稀だったので、何となく驚きの感情を抱いてしまった。 「うん、でも、お母さんがいろいろやってくれてるなら、ちゃんと呪いも解けるね。よかったよかった」 「あなたのお母様もカースメーカーなのですね」 「うん、うちは代々カースメーカーだからね、今のところは」  ともかくも、ハイ・ラガードで『ウルスラグナ』が暴れているうちに、エトリアではいつの間にか問題が持ち上がり、そしていつの間にか解決しようとしているらしかった。なんで今まで教えてくれなかったのか、と思わなくもないが、事が国家代表者の去就に関わるとすれば、そう簡単に知らせられるものでもないだろう。どうであれ、解決の目処が立っているのは僥倖である。 「返事書こ。サラマンドラのこと書くんだー。……あ、そうだ」  自室に戻ろうとしたカースメーカーの少女は、ふと思い立ったか、アルケミスト達に向き直る。 「ねぇ、サラマンドラの羽毛、調べ終わったでしょ。よかったら、もらってもいい?」  羽毛の価値を思えば、ある意味図々しいお願いではある。しかし、フィプトは頷いた。 「構いませんよ」 「ほんと?」 「灰になってしまったものでよければ、ですが」とセンノルレが後を引き継ぐ。 「えー、灰になっちゃった!?」  パラスはがっくりと肩を落とした。  サラマンドラの羽毛については、アルケミスト達の懸命の働きで、あらかたは調査済みである。  彼らの専門用語抜きで簡単に述べるなら、羽毛にはとてつもない力が秘められているという。それは、仮に薬品に仕立てたら、死者をも蘇らせかねないほどの力らしい。 「じゃあ、そいつをアベイに渡して、薬を作ってもらったら、すっげぇ役に立つのが作れそうだな?」  と、心躍らせるエルナクハに、彼の妻たるアルケミストは、首を否定の形に振りながら答えたものだ。 「取り扱いを誤れば、癒しを通り越して体内を破壊してしまいかねませんよ」  しばらく考え込んだ後、アベイの技術を貶めるつもりではない、と前置きして、さらに続ける。 「この世界の海洋を埋め尽くすケーキだねを、現実に存在する器具と材料だけで、三日でパンケーキにした上で、全部食べろ――現状で、あの羽毛で薬を作るというのは、そういうことですよ」  なんでパンケーキがたとえなんだ、と思わなくもないが、つまり、羽毛を薬に仕立てるのは、通常の手段では不可能に極めて近いほどに困難だということだろう。  そんなこんなのうちに、羽毛は、かねてよりの予想通り、力を失って灰になってしまったそうだ。この予想は、羽根と灰を調べたときに、構成元素の質的一致と量的相違から、ほぼ裏付けが付いていたことである。羽毛の本来の耐久時間は不明だが、少なくとも大公宮に献上した羽毛も、特殊な保管方法がなければ灰と化していただろう。 「その保管方法、訊いときゃよかったかな」  アベイが残念そうにうなるが、聞いたところで、肝心の薬の精製方法がとてつなく困難では、どうしようもない。大公宮には古文書という指針があるが、冒険者にはないのである。 「『生きた古文書』に頼るのもムリっぽいしなぁ」 「誰が『生きた古文書』だ!」  冗談はさておき。  薬の精製方法といえば、アルケミスト達は真剣な顔で、大公宮でも現時点では薬は作れない、という可能性を呈示したものだった。 「万能薬には、必要なものがあるんですよ」  とフィプトが難しい顔をして口を開く。 「簡単に説明するなら、『硫黄』と『水銀』です。『塩』も必要だと唱える者もいるんですが、さしあたって、ふたつは必要ですね」 「なんだ、硫黄と水銀なんかで万能薬を作れるのね」  オルセルタの短絡的な結論に、センノルレが首を振って答えた。アルケミストならぬ者には判らなくて当然、と思ってか、浅慮を笑うことはしなかった。 「現実の硫黄と水銀などを使ったら、ただの辰砂ができるだけですよ。……昔はそれが万能薬だと思われていたらしいのですが」  現実の水銀や、その化合物は、基本的には毒である。太古から不老不死を求める者が、万能薬と勘違いして摂取してきたが、その末路は中毒による死であったと伝えられている。アルケミスト達が語る『硫黄』『水銀』『塩』は、あくまでも象徴的な呼称だ。  羽毛を調べた結果、その錬金術的属性は『硫黄』に当たるのだという。 「……だとすると、あと、少なくとも、『水銀』に当たる何かが、万能薬を作るには必要ってことなんだ?」  というパラスの得心に、アルケミスト達は軽く頷く。 「あくまでも、可能性として、なんですが。羽毛だけでも薬になるのかもしれませんが、もしかしたら、と備えておくことは悪くないと思いますよ」 「つまり?」  エルナクハが問い返すところに、フィプトは結論を述べた。 「『水銀』に当たる何かを持ってきてくれ、というミッションが発令される可能性があります。心構えはしておくに越したことはないでしょう」  八階の上り階段は、件の朽木が発見された場所のすぐ近くにあり、『ウルスラグナ』は思ったより早く九階へと踏み込んだ。  しかし、この階は階段が大変に多く、何度も八階と行き来しなければ進めない構造になっていた。面倒なことこの上ないが、文句を言っても仕方がない。 「……あ、銃だわ」  その日、八階の最南東の区域に踏み込んだ冒険者は、ひとつの『宝箱』を発見した。焔華の代わりに昼の探索に入ったオルセルタが、その中から引きずり出したものを言い当てる。  『宝箱』と呼ばれる、前時代製の(らしい)謎のオブジェ。エトリアのものと同じく、どうして樹海に点在しているのかは謎だが、現代の物品が入っている理由は大別して二つ。  ひとつは冒険者が不要になった品物を捨てておく。単に捨てるのはもったいないし、売るために運び続けるのも面倒だと思うと、宝箱に入れておいて後輩の役にでも立つようにするらしい。  もうひとつは、樹海の生き物が、非業に倒れた冒険者の骸の一部を餌として得て、ひとまずの貯蔵場所として選んだ宝箱の中に運び込んだときに、装備や、硬直して手から離れない武器も、そのまま運び込まれ、結果として宝箱の中に残ったというものである。  今回は後者だったらしく、銃を引き出したときに、引き金に引っかかったままだった指の骨がぽろぽろと落ちて、一同を驚かせたものだった。これまでにもよくあったことだが、何度あっても簡単に慣れるものではない。 「だけど、こんな銃ごと骸を運ぶなんて、小動物の仕業じゃねぇよな」  腕輪や指輪の類だけが残った、というのとは訳が違う。  簡易的な獣避けを張った野営地を築き、冒険者達はひとまず休息する。  手に入れた銃は、横に並んだ二つの銃口を持つものだった。長さも一メートルを少し超える。小動物では運べないだろう。  せっかく手に入れた武器だが、銃を扱える者は『ウルスラグナ』にはいない。元の持ち主には悪いが、持ち帰って交易所に引き取ってもらうしかないだろう。持ち主の素性が判れば、形見として故郷に送る選択も採れるのだが、残念ながらさっぱりである。仕方ないから、生者の生活の足しになることを許してもらうとして。  その代わりに、というのもなんだが、神官兄妹が死者に祈りを手向ける。その傍で、ナジクが銃の細かい汚れを落としながら、溜息を吐いた。 「……銃は、好かん」 「どうしてぇ?」とマルメリが問う。  同じ飛び道具だろうに、と言いそうになったのだが、止めた。ナジクの顔に苦渋の徴が現れていたのだ。戦火を逃れてきた時に、銃にまつわる嫌な思い出があったのだろう。  彼らの部族を襲ったものは銃に限らず、剣、斧、鞭、術式……もちろん弓矢だってあっただろうに、なぜ銃だけ、と思わなくもなかったが、マルメリには、そして他の仲間達にも、何となく判る気がした。  銃は馴染みの薄い武器である。  その威力についての風聞は他国にも流れるが、実体を見る者は稀だ。その武器を操る者達を多数見られるのは、ハイ・ラガード近辺ぐらいだった。というのは、銃を作るには高度な技術力が必要で、現状でその技術は、国家単位でいうならハイ・ラガードにしかない。あとは研究熱心な個人工房が細々と試作する程度である。  もしも空飛ぶ城が実在し、ハイ・ラガードの父祖がその住人だという話が本当なら、銃というものも彼らがもたらした技術なのかもしれない。  ともかくもそういう訳で、ハイ・ラガードには、大公宮公認の『公国砲撃協会』を始めとして、大小いくつものガンナーギルドが存在する。中には他国の内外の諍いに荷担することで益を得るギルドもあるらしい。ナジクの一族を襲ったガンナー達は、そういう手合いの者達だろう。初めて見たときには自分の敵。負の思い出が強くまとわりついてしまうことも致し方あるまい。ハイ・ラガードに集うガンナー個人を敵視したりはしないが、仲間達しかいない場所では、内心がぽろりと転がり落ちることもあるものだ。  ナジクはもう一度溜息を吐くと、アベイに問いかけた。 「……前時代では、銃はどんな扱いだった?」 「……んー、俺はテレビでしか見たことないけどな」  テレビというものが、前時代に存在した『映像を映し出す機械』のことだということは、『ウルスラグナ』の者ならば周知のことであった。 「俺の国、シンジュクを中心都市としてた国じゃ、正義の味方が悪人に向かって、光線の出る銃を撃ったりしてたな。でも一般人には縁遠いものだったよなー、まぁ俺が入院してたからってこともあるけど」 「すげぇな! ……他の国じゃ?」  祈り終えたのだろう、妹と共に戻ってきたエルナクハが先を促す。  アベイはどことなく悲しげな顔をした。 「いろいろ、だな。今の人間にとっての剣斧弓くらいに身近な国もあったはずだ。あと――その頃の俺くらいの子供が持っているのも、テレビで見たことがあるよ」 「へぇ、前時代にも勇敢な子供もいたもんだ」 「いや――大人が子供をさらってきて、自分達の代わりに戦わせるんだよ、無理矢理」 「――何たる外道どもだ!」  戦女神の名を持つ聖騎士は怒気を露わにした。戦場で子供が戦うことは、ありえない話ではないが、あくまでも、戦う覚悟を決めた大人の中に、戦う覚悟を決めた子供が混ざっている、というだけの話だ。少なくともエルナクハの価値観では、そうであるべきだった。戦士が自分で戦わず、他者、しかもさらってきた子供を代理としてどうするのか。 「そんな奴らは地母神(バルテム)の大釜で煮られちまえ!」  遠い過去の外道達に、ひとしきり呪いの言葉を吐く。パラスにも呪詛を頼みたい気分だ。  しかし、歴史を覆しようもないことは判っているので、ひとまず怒りを収め、ふと思いを馳せる。 「ヴィズルが銃をエトリアに広めなかったのはよ、そういうコトを考えてかな」 「さあなぁ。銃の作り方がよくわかんなかっただけかもしんない」  もしもヴィズルがエトリアに銃の技術を伝えていたら、きっとシリカ商店あたりが量産に成功していたに違いない。そして銃士の中心地はハイ・ラガードだけではなかっただろう。 「それはそれとして、そろそろ、オレらのギルドにもガンナーが欲しいな」  というギルドマスターのつぶやきに、一同は、きょとんと目を見合わせた。  ハイ・ラガードに来たばかりの頃、縁があったら仲間に加えることがあるかもしれない、と思っていた、未知の技術を持つ者達。しかし、冒険者ギルド無所属の者はなかなか存在せず、彼らがいなくても冒険に支障があるわけでもない以上、いつしか、敢えて探すこともなくなっていた。  それを、ギルドマスターは積極的に求めるような発言をする。 「今更か? 何故だ?」 「面白そうだから」  ナジクの問いに、身も蓋もない返答をするエルナクハ。 「いやなに、こんなシロウト目じゃワケわかんねぇ武器を、どうやって使うのか、間近で見てみたかぁねぇか?」 「子供か、兄様は」  と突っ込むオルセルタはオルセルタで、わくわくと目を輝かせている。もともとこの兄妹は好奇心が強いのである。  レンジャーの青年は諦め気味に首を振った。 「……まぁ、別段反対する理由もないが。個々のガンナーを恨んでいるわけでもない」  しかし、問題は、と続く。 「問題は、結局の所、無所属(フリー)のガンナーが未だにいない、というところだろう」  彼らのうち、樹海探索に興味がある者達は、大公宮の公募が始まって間もなくハイ・ラガードに集ってしまったからなのだろうか。稀に訪れる、無所属の者達は、ハイ・ラガード外では珍しい彼らに興味を持つギルドに、奪い合いに近い勧誘合戦の末に属することとなっていた。『ウルスラグナ』はそんな場面にとことん縁がないらしい。 「……子供のガンナーは嫌だぞ」  昔テレビで見た現実を思い返して、やるせなくなったのか、アベイがきっぱりと主張する。 「そいつが真の『戦士』なら、子供だろうがオレらがどうこういう筋合いはねぇさ」 「まぁ、そうだけどさ」  エルナクハの返答に、不承不承といった塩梅でアベイは首を振った。  マルメリははっきりと声にした主張はしなかったが、考えとしてはエルナクハにやや近いようだった。思えば、おっとりしているような彼女も、勇猛な黒い肌の民の一員であるのだ。 「とりあえず、大まかな汚れは取れたぞ」  ナジクの報告が一連の会話に終点を打った。  休憩を取ったことで多少の疲れは取れた。あともう少し、地図を埋めておきたい。手に入れた銃は、比較的手の空いたマルメリが持つことにして、『ウルスラグナ』は探索の続きに取りかかった。  笛鼠ノ月もあと数日で終わり、その後には天牛に月の支配者の座を明け渡すことになる。その頃には夏も名残を残して消えていき、次第に風は涼しく、まるで今『ウルスラグナ』が挑む第二階層のような季候になっていくだろう。  これから自分達がやろうとしていることは、変な言い方だが、去りゆく夏と、その夏の間に去ってしまった魂への、鎮魂の演武であるような気が、エルナクハにはしていた。  すなわち――。  第一階層三階、終わりなき盛夏の中に鎮座する、角鹿の王を屠るのだ。  実のところを言えば、単なる力試しである。『仇討ち』めいたことを口にしているし、勝利は衛士達に捧げたいが、どす黒い復讐の念などは、あまり関わらせたくなかった。死んだ衛士と関わりのあったフィプトを、戦闘メンバーに組み込まなかったのは、そのためであった。フィプトも解っていたのだろう、自分が角王との戦いに加えてもらえない不平などは言わず、迫る新学期に備えて授業の準備を黙々と進めていた。  角王に挑むのは、最近の昼の探索に出ているメンバー、エルナクハ、焔華、マルメリ、アベイ、ナジク。何故この五人なのか、ということに、明確な理由はない。何か倒すべき強敵がいるのなら、それに対抗するパーティを組んで、力試しに挑むべきだっただろう――手負いの『襲撃者』相手にキマイラ退治の前哨戦を繰り広げたように――が、さしあたってそんな脅威もない。だが、戦闘時のバランスが極端に欠けているわけでもないので、現状を維持してみることにしたのだった。苦しい言い訳をするなら、「これも鍛錬の一環」である。  三階には、樹海入口から徒歩で向かうことにした。第二階層八階にある磁軸の柱を起動させてしまったので、それと引き替えに、第一階層にある磁軸の柱には飛べなくなっている。つまりは三階にある磁軸の柱に飛んで近道しよう、という横着もできないのだ。 「それにしても」とアベイが肩をすくめた。「あいつら、すっかりあそこに居着いちゃったんだなあ」  もともと第二階層に棲んでいたらしい鹿達は、キマイラに追い立てられるように樹海迷宮を降下し、第一階層の方々に新天地を得た。角王を含めたいくばくかは三階に居を構えた。余程に居心地がいいのだろう、キマイラ亡き今も、元の住処へ帰ろうとする気配はない。結果として、新米冒険者達の道を阻む関門の一つとなっている。  『ウルスラグナ』は、冒険の合間をぬって、ささやかな看板を作って警告を記しておいた。新米が、自分達の実力も考えない行動の末に骸となるのは自業自得だが、予備知識もないことは同情する。自分達とて、フロースガルという先達の警告あってこそ、最善に近い行動を取れた。それに、一階で、手負いの『襲撃者』の脅威を警告してくれた先輩冒険者もいた。そんなことを思い出したからだ。警告が誰かの行動指針となり、一組でも多くのギルドの役に立てば、御の字である。  だからといって、新米冒険者のために角王を退治するわけではない。あくまでも力試しだ。  キマイラに追い立てられてきたわけだから、キマイラを倒した『ウルスラグナ』にはちょうどいい相手のはずだ。『倒せるか』よりむしろ『余力を残せるか』の方が主眼である。  第一階層三階、『あの日』には血の色に染まり、濃い血臭を漂わせていた、鹿達の縄張りは、それが泡沫の夢であったかのように、涼やかな光景を広げて、冒険者達を出迎えた。思えば、あの日からもう一月が過ぎたのだ。伸びた草は、渡る風は、一ヶ月前の惨劇にまみれたものと同じものではない。――しかし、まばらに立ち並ぶ木々の一本に、奇妙な染みの跡を見付けて、冒険者達は鼻白んだ。時に風化されない傷痕も、また残っていたのだ。  角王は、かつて対峙したときと同じような位置で、草を食んでいた。そこが彼の縄張りなのだろう。ぴくぴくと耳を震わせ、顔を上げた角王は、周囲にいるどの鹿よりも立派な角を振りかざし、不届きな侵入者に目を向けた。 「よう、久しぶりだな、王サマ」  エルナクハは盾を構え、焔華はカタナを抜く。アベイは医療鞄に手をかけ、ナジクは弓に矢をつがえる。そして、マルメリがリュートに指を添え、弦に触れた。かすかな音を立てた弦は、次の瞬間には力強く弾かれ、勇壮な旋律を奏で始めた。 「聞くがよい! 剣の鳴動、盾の軋み、風切る刃は戦の始まりを告げる!」  吟遊詩人は煽動者である。平時にあっては歌で人の心を動かし、戦に臨んでは歌で兵の士気を操る。どんな英雄の心の奥底にもある『恐れ』を、歌によって揺さぶられた心の琴線が振り落とし、限界以上の力を湧き起こさせる。マルメリの『猛き戦いの舞曲』は、己自身と仲間達の心の中に秘やかに眠る『樹海に対する恐れ』を追い立てた。弦と声が織りなす一節が終わっても、かき立てられた士気はそう簡単に収まらない。  マルメリはネックの上の指をずらし、次に歌うべき曲に備える。  その間にも、他の仲間達は行動を開始していた。ナジクが通常よりも強く引き絞った弓弦を解放し、突風のような弓が吠え猛りながら急所を狙う。角王は躱そうとしたが、完全には成功せず、甘んじて腿に鏃を受けることとなった。絶叫を上げ、報復の炎を宿した瞳を、人間どもに向ける。幾重にも枝分かれした角を向けた突進は焔華を狙うが、それを予期していたエルナクハの前衛守備に阻まれた。 「……くっ!」  盾が軋み、聖騎士が呻く。角王は盾に追突したときの力をそのまま反動としたかのように離れ、エルナクハに守られた焔華の二の腕を大きく抉るように角を突き立てた。着物が裂け、血が飛び散るが、一度盾に阻まれた攻撃は、想定通りの威力を出し得ない。 「この……っ!」  焔華は鞘に収まったままのカタナを振りかざし、角王は追い払われたかの動きで人間どもから離れ去った。  冒険者とて、そのまま第二撃を待ちぼうける気はない。焔華がカタナを抜き放ち、上段の構えを取るが早いか、地を蹴って角王に肉薄する。本来の『構え』を省略した『邪道の徒』は、ブシドーの誇りと引き替えに即応力を手に入れたのだ。 「三ノ羽(は)・卸し焔!」  気迫と共に技名乗りを上げる。  激しく振り下ろされる刃が大気との摩擦で白熱し、その名の通り炎をまとう。灼熱の刃は角王の毛皮を焼き、肉に食い込んだ。  甲高い笛のような悲鳴を上げた鹿の王は、身を翻し、冒険者達から距離を取る。不遜な輩に誅罰を加えようと、燃える瞳で睨み付け、蹄が地を掻く。しかし、突進を目論んで地を蹴ろうとしたまさにその瞬間、角王は再びの悲鳴を上げた。矢が二本、飛来して、首筋に突き刺さったからだ。  一本はナジクのもの、今一本は、新たな歌を吟じるまでもないと判断したマルメリのものだ。バードは護身程度にだが弓を扱うこともできるのである。 「そりゃあ!」  エルナクハが駆け寄り、右手に携えた剣を振り下ろす。  角王はその剣を角で絡めた。パラディンの剣技もまた、護身程度のものに過ぎない。人界にあっては侮れずとも、角王からしてみれば与しやすく見えたのだ。にやり、と口元を歪めたように見えたのは、人間達の気のせいだろうか。 「あーあーあー……!」  はじき飛ばされた剣を、エルナクハは目で追った。  気がそれたところに、角王の蹄が迫る。かつてのエルナクハの腕を、盾ごしにも関わらず深く損傷させた一撃だ。まともに喰らえば、一月前の衛士達の惨状を再現することになりかねない。  ところが、である。黒い聖騎士は、にんまりと笑んだのだ。 「――なーんて、な」  蹄の前にかざされた盾は、呆けた状態から構えるには間に合わないはずだった。つまりエルナクハは気を反らしてなどいなかったのである。それも、巧妙に盾の角度を操り、盾から伝わる一撃を軽減しようとしている。少なくとも以前ほどの怪我を負うことはないだろう。 「ほのか、頼む!」 「承知ですえ!」  むしろ不意を突かれたのは角王の方であった。盾に阻まれた蹄が、ようやく地に付こうとした、その瞬間を狙い、ブシドーの娘は再び角王に迫る。しまった、というような表情をした角王の頭上から、赤々と燃える刃の一撃が。 「卸し焔、二ノ屠(はふり)!」  皮と肉が焦げる音と匂いがあたりに立ちこめた。  角王は断末魔の叫びを上げながら、ふらりと身体を傾け、地に伏した。白目を剥きながら痙攣を繰り返すその様子からは、もはや角王が死に向かうしかないことを示していた。  対する冒険者達は、無傷とまではいかないが、余力を充分に残している。 「やった、な」  後列からアベイが進み出てきて、前衛の二人の治療に取りかかる。ナジクがふいっと場を離れたのは何故かと思ったら、角王に飛ばされたエルナクハの剣を取りに行っただけのようだった。聖騎士の青年は礼を言いながら剣を受け取り、安堵の息と共に言葉を吐いた。 「いやいや、なんとかなるもんだな」  手の空いているナジクとマルメリは、こときれた角王を解体にかかり始めた。 「あうぅ、ほのちゃん、これじゃあまり高く買い取ってもらえないわよぉ、毛皮」 「あらら、すまなんし、マールどの」  皮を剥ぎ、角を外す傍から、火を熾し、肉の幾ばくかを簡単にあぶり始める。香ばしい匂いを孕んだ煙が、上空に茂る枝の合間を通っていった。上昇する間に拡散して、仮に真上の四階に他の冒険者がいたとしても、彼らが三階のささやかな宴に気付くことはないだろう。 「ナジクー、オレの分は麝香草(ザータル)多めでなー」  その様を眺めつつ、エルナクハは注文を飛ばすと、ふと表情を改めた。 「……なぁ、これで、このあたりも少しは危険じゃなくなるかな」 「わかりませんえ」  あっさりと焔華は答えたものである。無下に突き放した言い方をしたかったわけではないが、『そうはならない』可能性を充分に感じ取っていたからだ。 「王がいなくなったことを理解すりゃあ、このあたりの鹿どもが後釜を争うでしょうし。そうして、一番の力を見せつけた鹿が、次の角王になるでしょうし。始めのうちゃあ、わちらが戦った王ほどに強くはないかもしれんけれど、それでも強敵には違いありませんえ」 「やれやれ、平和は長く続かない、か」  とアベイが溜息混じりに口を挟んだ。  別段、この区域の安全のために、角鹿を倒したわけではない。だが、結果的に安全になる分には構わなかったし、そうなることを望んでいた節もあった。しかし、ことはそう簡単にはいかないらしい。  なんであれ、力試しという目的は果たした。しかも、余力を残す、という目標通りに。さしあたって当初の予定通り、この勝利は角王とそのしもべの前に斃れた連中に捧げてやろう、と思うのだ。  余談だが、彼らはこの後、余勢を駆って、元気な『襲撃者』に挑み、以前の苦戦が嘘のように快勝した。  一方、街で探索班の帰りを待っていた者達の一部は、気晴らしに酒場でくつろいでいた。  そもそも磁軸計がギルドに一つしか支給されないのだから、探索班の帰りを待つしかない。その間にできることといえば、夜の探索に備えて仮眠を取るか、街をぶらつくか、鍛錬を積むか、大方はそのあたりになる。留守番組のうち、フィプトとセンノルレは私塾の新学期に備えているので、酒場にいるのはオルセルタ、ティレン、パラスである。ティレンの足下ではハディードがミルクをぴちゃぴちゃと舐めていたが、これは、彼らが酒場に来たのが、朝の犬(ではないが)の散歩の帰りがけだったからだ。酒場の親父も、店の迷惑にならない限りはうるさいことを言う気はなさそうであった。  今現在、酒場にいるのは、気晴らしのためではあるが、単純にそれだけというわけではない。酒場の壁に貼り付けてある依頼を確認したかったのだ。  この街で歓迎されるには、世界樹内部の探索さえ続けていればいい。実際、探索を始めたばかりの『ウルスラグナ』も、しばらくは世界樹の先ばかり見つめていた覚えがある。だが、酒場に寄せられる依頼に目を向けるのもいいものだ。解決すれば礼金なり役立つ道具なりをもらうことができる。ゼグタントが来てから金回りはよくなったが、金や道具はあって困るものではない。それになにより、人脈が広がるのが楽しい。広がった人脈に何かを期待するわけではない、言葉で説明すると陳腐になるが、平たく言えば『友達が多いことはいいことだ』ということになる。  今までにも、ささやかな依頼をちょくちょくと承ってきた。樹海に関わる依頼なら、探索ないし実技鍛錬のついでに面倒を見ればいいことだから、さほど苦にはならない。  そして今日もまた、オルセルタは酒場の壁の前に立つ。かすかな空気の流れを察して、壁に留められた依頼書が、千の葉のようにひらめいた。  とある一枚の依頼書が目に付いたのは、その紙質が明らかに他のものとは違ったからだろう。依頼書の書式は厳密に定まっているわけではないから、自前の紙に書いて持ち込んでくる者もいれば、字が書けない依頼人の代わりに酒場の親父が代筆するものもある。いずれにしても、極端に低質なものは少ないが、普段使い程度の質の紙が使われることが多い。しかし、オルセルタが目にしたものは、真っ白に漂白された上質の漉紙であった。しかも、浮き彫り加工されているのは、尾をくわえない知識の蛇(ウロボロス)――どう考えても、大公宮、あるいはそのあたりに関わりある者からの依頼だ。 「おう、その依頼、引き受けてくれる気か?」  両手にジョッキをたくさん持った親父が、オルセルタの後ろを通り過ぎざまに声を掛けた。親父はそのまま、よその冒険者の待つテーブルへと歩み去っていったが、オルセルタは依頼書を凝視したまま動かない。 『腕の立つ剣士を求む』  幾ばくかの装飾語も使用されているが、要約すればその程度の話だ。何のために剣士が必要なのか、肝心なところが書かれていない。  剣士、すなわちソードマンである。『ウルスラグナ』のティレンのように斧を主に扱う者も多いが、そんな者達も、剣も最低限には嗜んでいる。 「ティレン、ティレン」 「なに?」  ダークハンターの少女が招く言葉に、何のためらいもなく、席を立って呼ばれてくる約一名。やってきたソードマンの少年に、オルセルタは依頼書を指し示した。 「大臣さんが、おれがいるって?」 「うん、そうみたいね」  正確に言うと、大臣が依頼を出したかどうかは判らない。だが、彼の者は『何でも屋さん大臣』である、なんとなく、こんなことにも関わっていそうな気がした。 「何をやってほしいか、とか、全然判らないけど」 「やる」  即答であった。きらきらと輝くその目は、自分が求められていると知って嬉しがる者のそれだ。短すぎる依頼の言葉に躊躇うことすらない。  オルセルタは軽く溜息を吐いた。出自その他の事情から、年齢より若干幼いところのあるソードマンの少年に、不利益がないよう、計らうのは、年上の自分達の役目だろう。もっとも、大公宮ゆかりの依頼なら、変なことにはならないとは思うが。  ジョッキを注文者のところに置いてきた親父が戻ってきて、後ろから覗き込んでくる。 「やってくれるんなら助かるぜ。大公宮からの依頼は酒場の信用にも関わるんでな」 「酒場の信用?」  とパラスが席を立って割り込んでくる。  酒場に、国家上層部からの依頼が舞い込むこともあるのは、周知の事実だ。もっとも、何の実績もない酒場に、おいそれと依頼を託す上層部はありえない。とはいえ、今のところ、ハイ・ラガード全土で、冒険者の集う場として知られる酒場の実績は、五十歩百歩、辛うじて、かつて『ベオウルフ』の懇意だった酒場が若干頭抜けしているくらいか。  そして、『百獣の王殺し』ギルド『ウルスラグナ』が懇意にしている、この酒場、鋼の棘魚亭も、ひけはとらないはず。そのあたりを『武器』として、酒場管理人としての更なる優位を確保するべく、依頼を取ってきたわけだ。それが、誰も依頼を受けてくれないとなれば、信用もなくしかねない。  数多の依頼書の中でも目立つ紙、報酬も気力回復薬(アムリタ)――現状では極めて手に入りにくい――だというのに、他の冒険者達はどうやら腰が引けているようである。依頼内容が明らかではない、という理由もあるだろう。  興味津々の一同に、酒場の親父は、嬉しそうに笑みながら話を続けた。 「内容はさっぱりだが、とにかく腕の立つ剣士が必要ってことでな、あちこちの酒場に依頼が来てるんだ。少しでも樹海に慣れてなきゃだめってことだが……まぁそのあたりは、お前らなら問題ねぇだろうよ。何をやるかっていうのは……まぁ、お上が話さない以上、深く突っ込まない方が身のためだろうな。で、どうする?」 「いく」  いっそ気持ちいいほどの即答であった。 「いいの? ティレンくん?」  パラスが姉目線で確認するところにも、揺るぎない表情で頷き返す。 「いや、いいツラしやがる。助かるぜ」  親父は破顔して頷いた。 「何させられるかはわかんねぇけど、お前なら期待できそうだな。……ガキだけど」 「うん、おれ、ガキだ」  てっきり『ガキ扱いするな』と反駁されると思っていたのだろう、精神的な足場を外されて、親父はがっくりと転けた。  己の頭を軽く叩いて気を取り直すと、ティレンを手招く。 「じゃ、付いてこいや。先方の指定場所に行くからよ」 「ねぇちょっと、酒場はどうするの!?」  オルセルタの狼狽も当然であろう。鋼の棘魚亭は親父一人で切り盛りしているのだ。大抵は酒を注いで出せばいいわけで、出すのに時間が掛かるようなメニューはないから、一人でもどうにか店を維持できるのだろうが(手の込んだ料理ができないわけではない。実際、『ウルスラグナ』はしばしば宴の時に世話になっている)、当然ながら店を空けたら誰もいなくなってしまう。時々『所用につき閉店中』の札が入口に掛かっているのを見かけるから、買い出しなどの用事は客のいない時間に済ませるのだろうが、今は客もそこそこにいる時間だ。どうするんだ、と思っていると、 「お前ら、ちっと頼んだぜ、すぐ戻って来るからよ!」  そんな声が遠ざかりながら聞こえてくる。  オルセルタとパラスは顔を見合わせ、計ったように声を揃えて叫んだ。 「ええーっ!?」  結論を述べるなら、親父が店を離れていた時間は二十分ほどである。しかし、その二十分は、『ウルスラグナ』のダークハンターとカースメーカーにとっては、随分と長く感じられた。さしあたってカウンターに入り込んで、注文が来ないかと緊張して待っているあたり、彼女達は真面目だった。そして、カウンター奥の小さな容器の中に入っていた、つまみ用のナッツ類をちゃっかり拝借しているあたりは、不真面目である。  親父が戻ってきたのは、折しも、他の冒険者が(半ばおもしろがって)注文した酒のお代わり五人分のジョッキを、オルセルタが両手で支えて運び、パラスが食料保管庫から取り出してきた豚肉の燻製を切っているときであった。 「よぉ、お疲れさん……ってこら、ナッツ食いやがっただろ!」 「てへ」 「てへ、じゃねぇ!」  親父は頭を抱えたが、二人が、留守番中に食べたナッツの代金をきちんと払ったため、不問にすることにした。改めて、留守番のささやかな礼のつもりか、燻製を切り分けて二人の前に差し出す。 「ハディ、ハディ」と、パラスが燻製肉を振って、獣の子を呼ぶのを尻目に、オルセルタは問うてみた。 「で、結局、向こうの依頼が何だったのか、判ったりしたの?」 「いいや、全然」と親父は逞しい両肩をすくめる。 「だがな、ただごとじゃねぇな。ほら、さっき、『あちこちの酒場に依頼が来てる』って言っただろ。だから、あちこちの酒場から依頼を受けたソードマンが集まってたんだ。あれだけソードマンだけが集まってると、結構壮観なもんだ。……何かの魔物退治かね?」 「魔物退治? それだったら、ソードマンだけ集めなくても、普通の依頼みたいにすればいいんじゃないかしら?」 「だよなぁ。だがまぁ、とにかく、これだけは言えるぜ」  びし、と、親指だけを立てた拳をかざし、親父は満面の笑みを浮かべる。 「見たとこ、お前らのティレン坊が一番じゃねぇか? 俺もハナが高いぜ!」  オルセルタには若干のリップサービスが混ざって聞こえたが、自分の仲間を誉められて悪い気はしなかった。 「あはは、やっぱりそうでしょ、うちのティレンくんだもん!」  ハディードに燻製肉を与えたパラスは、リップサービスだとは想像すらしていないのだろう、親父に親指を立てた拳を突き出して答える。  その様を見た親父は、パラスの胸に揺れる呪術師の鐘鈴を見つめながら、しみじみとこぼすのであった。 「……前々から思ってたんだが、お前、ホントにカースメーカーか? ヤツらっぽい雰囲気ゼロなんだがよ」 「放っといてよ!」  おとなしく床に伏せていたハディードが、不意に耳を立て、ぴくぴくと動かした。首をもたげて大気の匂いを嗅ぎ、喜びにふらふらと揺れる尾で、『ウルスラグナ』の娘達に、何事があったのかを知らせる。  すたすたと入口に駆け寄るハディードの前で、扉が開き、鈴が音を奏でた。 「……ハディード?」  思わぬ出迎えに驚いたのか、四角く形作られた光の中に佇む影――帰ってきたティレンは、呆然と、獣の子を見つめていた。 「あら、ハディードはおりこうさんだねー」とパラスが微笑ましく見つめる。言葉にはしなかったがオルセルタも同じように思った。  実を言えば、ティレンは、思わぬ出迎えに驚いていたのではなかった。  ――こいつ、こんなに大きかったっけ?  ハディードを引き取ってから二週間ほどが経っている。その間、毎日、ナジクに教えられた世話を欠かさなかったティレンは、当然ながら毎日ハディードをよく見ていたわけである。だから成長していたこと自体は判っていたのだが、いつも見ていたからか、却って、その実感に乏しかった。それが、今になって改めて事実を思い知ったのだ。  そして、自らを振り返った。  ――おれ、成長してるのかな。  こちらは体格の話ではない。  ティレンは生まれてから今まで、自分が成長しているかどうか考えることがなかった。いや、極端な表現をすれば、そんな概念はなかった、と言ってもいいだろう。ティレンは自分が思うように動き、気が付けば昔はできなかったことができるようになっている、そんな生き方をしてきたからだ。  しかし、獣の子の肉体的な成長を見て、それを自らに当てはめてみるという行動を、彼は初めて行った。あるいはそれは、やや獣に近かった彼が、本物の獣の成長を目の当たりにすることで、自分の『人間』としての部分を強く意識するようになったということなのかもしれなかった。 「――で、一体全体、何をやらされてきたんだよ、坊主?」  酒場の親父の問いかけに、ティレンは我に返った。エトリアにいた頃のティレンなら即答していただろう。もちろん、あらかじめ他言不要と言い含められていたなら、決して言わなかっただろうが。しかし、今のティレンは、自分ではなぜかは判らないが、一呼吸置くことが必要だと感じていた。果たしてあれは、言ってしまっていいものだろうか。  わずかな思考の後、『問題ない』と判断し、ティレンは口を開いた。 「剣のせんせい、やらされた」 「せんせい、やらされた、だ?」  想定外の答えに、酒場の親父は絶句する。  しかし、『ウルスラグナ』の娘達には、心当たりがなくもなかった。  オルセルタもパラスも、その場にいたわけではないが、探索班がサラマンドラの羽毛を携えて大公宮に赴いたとき、『衛士たちを鍛えてもらいたいくらいだ』という賞賛の言葉を頂いた、と聞いた記憶がある。  単なる表現的なものかと思っていたが、まさか実践するとは。 「冒険者を、衛士の教育係に、ねぇ……」  親父にしても、意外な話だったようだ。  大公宮の衛士達は、自分達の力量が冒険者に敵わないことは、覆しようのない事実として、すでに受け入れているのだろう。が、その上、冒険者に教えを請え、と命じられるのは、プライドをさらに突き崩されるようで、あまり喜ばしくないことではあるまいか(総意としての話で、個々がどう思うかは別だ)。  彼らの感情を大臣が悟れなかったはずはないだろう。それでもなお、大臣は冒険者に教えを請うことを選択し、命令とはいえ衛士達はそれに応えたのである。理由はもちろん、衛士にも探索を行わせるつもりだろう。冒険者の領分を邪魔しようというわけではなく、大公の病を治療せしめるための特効薬に必要な材料が、『ウルスラグナ』のアルケミスト達の予想通りに足りず、更なる探索を行わせる必要が生じたからではないか。あのような重要事、可能なら『一般人』である冒険者を介したくないだろう。サラマンドラの場合は緊急事態だったのだ。 「それで、坊主はちゃんとセンセイできたのかよ?」  揶揄するように親父は言う。ティレンは優秀なソードマンだが、自分が優秀であることと、他者を優秀に育てられることは、まったく別の才能である。 「わかんない」  ティレン自身は、そう答えるしかなかった。 「おれがどうやって戦ってるか……っていうか、剣を使うときだったらどう戦うか、いっしょうけんめい教えたけど、せんせいがみんなにお勉強教えるみたいにうまくいったか、わかんない」  『せんせい』とは、もちろんフィプトのことであろう。  ここまで言ったところで、ティレンは何かを思い出したような表情をして、懐から紙のようなものを引き出す。 「そういえば、おしごとおわったあとに、何でも屋さん大臣さんが、これくれたんだ。おやじにわたせって」 「俺に、か?」  訝しげに紙を受け取った親父は得心を表情に浮かべた。それはウロボロスの紋章で封緘された手紙だったのである。何事かと問う顔をする『ウルスラグナ』酒場滞在組一同の前で、中の手紙に目を通す。にんまりと、『ウルスラグナ』ギルドマスターを何十年か年取らせたような笑みを浮かべると、大きく太くごつい手でティレンの赤毛をぐしゃぐしゃとかき回した。 「よくやったみてぇだな、坊」 「え?」  きょとんとするティレンの前から離れ、親父はカウンターに行くと、金庫――財産や、依頼者から預かった報酬をしまっているのだろう――から何かを出して戻ってきた。出させたティレンの手に乗せられるのは、小さな薬瓶と、じゃらじゃらと音を立てる袋だ。 「ほらよ、報酬だ」  そう言われて冒険者達は首を傾げた。薬はわかる。明記されていたアムリタだ。しかし、袋の方は何だろう。 「大臣さんがよ、坊主はよくやってくれたから報酬にイロ付けてやりたい、って手紙に書いてきたんだよ」  ティレンが持ってきた手紙は、いわゆる依頼遂行証明書だったようだ。それも、ティレンの働きは先方の満足のいくものだったらしい。ちなみに今回のように、追加の報酬が金銭で発生する場合は、酒場で一度立て替えておいて、後から依頼主より支払ってもらうことが多いそうである。 「いいの?」 「いいんだよ。坊がよく働いたからなんだからよ」 「ほんと?」  だからいいんだよ、と親父が口にする前に、ティレンは歓声を上げながら仲間達の下に駆け寄った。「よかったね」と褒め称える仲間達――だが、彼女達はティレンが何を喜んでいるのか、おそらくは正確に掴むことはできなかっただろう。追加の報酬をもらえたことを喜んでいるように見えるソードマンの少年は、その実、自分が『一人で』誰かから誉められるようなことを成せたことをこそ喜んでいたのだった。  しばらく酒場でだらだらとしたあと、お暇することにした三人と一匹は、親父に挨拶をして出ていこうとした。しかし、ふと、オルセルタは依頼掲示板に目を向ける。何か意図があってそうしたわけではなかったのだが、彼女の視線は、そのまま釘付けにされてしまった。  新しい依頼がある。単に依頼が増えていただけだったら、別段気にしなかっただろうが、一枚、やけに白い漉紙があったのだ。近付いて見ると、ウロボロスの紋章こそないが、真っ白に漂白された上質の漉紙。依頼人の身分も知れようものだ。 「ああ、そいつぁ、さっき坊を送った帰りにもらってきたんだよ」  たまたま、酒場に依頼を持ち込もうとしている者と行き会って、そのまま依頼書をもらってきたらしい。 「今回の依頼は貴族街のおえらいさんからでな、受けてくれるならありがたいが、ソイツぁちっと骨が折れるぜ?」 「……遊戯用の駒が欲しい?」  冒険者達は依頼書の文面に目を通した。  『神手の彫金師』が作成した戦駒を収集している。  所望するものは『公女』の駒。特に期限は問わない。  報酬は『獣寄せの鈴』である。よろしく頼む。 「『神手の彫金師』?」 「ああ、当然知らねぇよな」  親父は、判っている、と言いたげに頷いた。 「昔、この街にいた彫金師だ。半端じゃねぇ腕の持ち主でな、大公宮の王座なんかもヤツの作品さ」  残念ながら『ウルスラグナ』は王座を見たことがない。いつも大臣と面会する謁見の間には王座がないからだ。正面奥にある金箔貼りの扉の向こうに、あるのかもしれない。 「で、そいつは、いろいろな作品を残したが、その最後の作が、一揃いの戦駒ってわけさ!」 「せんく、って、なに?」  自らの功績を歌い上げるかのように声を張り上げていた親父だったが、ティレンの疑問に話の腰骨を砕かれてうなだれた。 「おいおいおいおい、そこから説明しなきゃいけねぇのかよ! ……って坊じゃしょうがねぇか」  はぁ、と溜息を吐きながら、律儀にも説明を続ける親父。 「盤の上で駒を取り合うアレだよ。見たことねぇか? 白と黒の駒を使ってやるヤツだ」 「ああ」ぽん、と、納得した表情でティレンは手を叩く。「エル兄がいつもみんなに負けてる、あれか」 「あいつぁそんなに弱ぇのか、勝負事?」呆れたように親父が声を上げた。 「兄様はチェスもカードゲームも負け続けよ」溜息を吐きながら首を振ってオルセルタが答える。  親父は肩をすくめた。幾分芝居めいたわざとらしさがあったが。 「おいおい、チェスは一応、戦術やら戦略やらがいるだろ。遊びたぁ言ってもそれにボロ負けで、それでよく、名高い『百華騎士団』の正騎士(しょうごうつき)になれたもんだ……まぁ、んなことぁどうでもいい」  気を取り直して親父は話を続ける。  戦駒(チェス)の駒は六種三十二個で構成される。内訳は、『王(キング)』、『女王(クイーン)』がひとつずつ、『騎士(ナイト)』、『城壁(ルーク)』、『僧正(ビショップ)』がふたつずつ、『兵士(ポーン)』が八個。それらが先手後手に一セットずつである。先手の駒が白、後手の駒が黒で塗装されることが多い。  ただし、『神手の彫金師』が作成した駒は若干違った。金細工で作られ、木製の台座の色で先手後手の区別をされた。『王』は『公王』に、『女王』は『公女』に、『城壁』は『城兵』に、『僧正』は『学者』に、『兵士』は『衛士』に呼び換えられている。当時のハイ・ラガード公王――今生の公王と同じく、公妃は亡くし、家族は公女のみだった――への献上品として作られたため、ラガードに馴染みやすいような呼称になっているのだ。  ところが、この戦駒の駒は完成しなかった。『公女』をあとひとつ作れば、というところで、彫金師はこの世を去ったのである。そして、こうした芸術家のお決まりのように、彼は名声高く、多額の報奨金を得てはいたのだが、それ以上の借金を抱えていた。あるいは戦駒を献上した報奨金を返済のあてにしていたのかもしれない。ともかくも、完成していれば公王の宝物庫行きだったであろう、戦駒の駒は、葬式のどさくさと、その後に押しかけた借金取り達の争奪の末に、散り散りになったのだった。 「駒には美術品としての価値もあって、飾って楽しむ奴もごまんといる。それが『神手の彫金師』の作品となりゃ……この先は言わんでも分かるだろ?」  確かに、貴族はしばしば戦駒の駒を美術品として収集する。だが、大抵は、全ての駒(できれば専用の盤も)が揃ってこそ認められる価値だ。だというのに、問題の駒は、話を聞く限り、駒ひとつ単体で通用するほどの値打ちものらしい。 「なんでも、一番人気の高い、『公女』の駒が欲しいんだと!」 「ええっ!?」  『ウルスラグナ』の娘達は思わず声を上げた。  今の話を聞く限りは、とてもとても『報酬:獣避けの鈴』では割が合わない。そもそも『公女』が足りなかったために、『神手の彫金師』最後の作品は献上されなかった。つまり――『公女』はこの世にひとつしかないのだ! 「まったくだな」  と親父は頭を掻きながら同意を示した。 「そこらにあるモンでもねぇし、まぁ自分の足で探し出すか、収集家からモノが出るのを待つか……だな」 「ねぇ親父さん、今誰が『公女』を持ってるとか、そういうのもわからないのかな?」 「わりぃな、さっぱりだぜ。まぁもちろん、俺も手は尽くしてみるがよ……」  そもそも平民に貴族が自分のコレクションを明かす義務はない。その上、数年前に、この戦駒の駒をめぐった強盗殺人事件――その時奪われたのは『騎士』と『衛士』だったらしい――が発生したため、持ち主はますます自分が駒を持っていることを公言しなくなったらしい。他言しないと信用できる身内を招いて観賞する(あるいは自慢する)に留まっているのだろう。 「どっちにしろ、『他の駒を全種類』でも差し出さなきゃ、『公女』の駒を手放す馬鹿はいねぇだろうな」 「……それって、つまり、『他の駒も全種類』探すところまで、依頼に入ってるのかしら?」 「……じゃ、宜しくたのんだぜ!」 「じゃ、じゃない!」  まったくまったくもって、『獣避けの鈴』だけでは割に合わない依頼だ!  事情が飲み込めていないティレンとハディードが、叫ぶ二人の娘をきょとんと見つめていた。  夏の盛りは追い立てられる鼠のように過ぎていき、秋の足音が、ゆっくりと、牛の歩みのように近付いてくるころになった。  私塾の子供達も、長い夏休みを終えて、再び学舎に戻ってくるだろう――明日になれば。  天牛ノ月、一日。  子供達と違い、冒険者達は、月が変わったところで何かが切り替わるわけではない。八階と九階の間を行き来して道を捜したり、以前の階に戻って力を付けたり、これまでとはさして変わらない生活を送っていた。  だから。  この日に特筆すべき事柄があったのも、決して、月の初めだからというわけではない。  ただ、追立(ついたち)という日と、その事柄が重なったことによって、何かを感じずにはいられないのも、人間というものだ。  八階の樹海磁軸から、これまでの探索で見付けた近道を駆使しても、十階に辿り着くには二時間強が掛かる。  緋色の木々をさらに紅く染める朝焼けが去っても、樹海の色は炎のように赤い。  エトリアにしても、ハイ・ラガードにしても、どういうわけか、五の倍数階で事象が切り替わっていた。なぜそんなにきっちりとした法則があるのか、と問い質したところで、樹海にしてみれば、例えば桜の花びらが常に五枚であるとか、朝顔の蔓の巻き方がどれも同じとか、そういったものと変わらないのだろう。  これまでに見かけないような魔物との遭遇を警戒しつつ進んだが、今のところは、見慣れたものとしか出会わない。八階と九階の面倒な行き来の間に鍛えられた冒険者達には、苦労はするが、余力の残らない相手ではなかった。  冒険者は樹海地図を書き記しながら先へと進む。  行き止まりで、奇妙な小動物に出くわした。樹海の生き物のくせして妙に馴れ馴れしい、リスのような生き物だ。  実は一度、第一階層でも出会ったことがあった。その時は、これがフロースガルの言っていた、アリアドネの糸を狙うヤツか、と気が付き、相手にしなかった。しかし今回は妙に興がのってしまい、観察する気になった。そもそも糸はザックの中に大切にしまってあるものである。万が一にも落としてしまったら大事なのだ。見せびらかして歩いているならともかく、彼らはどうやって荷物の中から糸を奪っていくのだろう。  結論からすれば、彼らの武器はただひとつ、その『すばしっこさ』であった。他者を直接的に害するような力を持たず、強い魔物達の贄に位置づけられているような彼らは、唯一の天性の才をもって樹海の中を生き延びているのだ。  距離が詰まるが早いか、あっという間にエルナクハのザックの中に入り込み、あらかじめ入れておいた糸――普段エルナクハが糸を自分のザックに入れておくのは、めったにないので――を素早く探し出し、くわえて逃げていったのだった。 「……早ぇ!」  いっそ笑って讃えたくなるような早業である。もっとも、離れたところで待機しているアベイの鞄の中に、予備の糸があるからこそ、笑って済まされることだった。しばらく笑った後、予備がなかったら、と考えて、あらためて悪寒を感じた。なるほどフロースガルがわざわざ忠告してくれたわけだ。  亡き聖騎士に改めて感謝しつつ、一旦、階段前広場に戻って、先への道を探る。  途中で、南北へ伸びる道に突き当たったが、一行は南へ進むことを選んだ。北には棘を持つ下草の繁茂地が広がっていたからだ。  そうして、小腹が空いてきたので、適当なところを見付けて小休止しよう、と思った頃であった。  ちょうど南下する道から西へ曲がったあたりだったのだが、視界の先の方に、扉が見えている。それだけならさして珍しくもないのだが、扉に添うように、人影らしきものが見えるのだった。生えている木がそう見えるだけだろうか。否、冒険者として培った第六感(なにか)が、あの影は人間だ、と囁くのだ。他のギルドの冒険者か、あるいは――エトリア樹海のモリビトのような先住の民だろうか。  警戒しながら『ウルスラグナ』が近付くと、扉に寄り添っていた影は、あくまでも冒険者の行く手を遮ろうとでもいうのか、扉の前に移動し、立ちふさがった。 「……」  その影は、『ウルスラグナ』が、自分よりおおよそ十歩ほどの距離まで詰めるまで、一切口を開かなかった。  その男の羽織る厚手のコートは、ガンナー達が愛用するものに相違なかった。帽子も同じく、ガンナー達の多くが愛用する、縁を毛皮で補強し、頭頂部が若干盛り上がった、円筒形のつばのないものである。側頭部は、帽子から下がる耳あてで覆われていた。  なにより、目の前の影をガンナーと断定する決め手は、その両手に構える銃であった。  右手に構えるは黄金の銃。まばゆい銃身に、精緻な彫刻を施してある。  左手に構えるは黒き銃。見た目は銃の基本というべき簡素なものだったが、ちらりと見えた銃口は三眼。  ガンナー本人は老齢の男性であった。鼻下と顎にひげを蓄えている。顎ひげは一本に編み込んでいるようだが、途中からコートの中に消えているので、どれだけ長いのかは判らない。  老齢のガンナーは、銃を構えた腕を交差させ、何があっても通さない、と言わんばかりの威圧を放っている。『ウルスラグナ』一行が言葉を掛ける前に、その口が開いた。態度に酷似した、低く冷たい声が流れ出た。 「『ウルスラグナ』の噂は聞いておる。ここまで来るとは少しは腕をあげたようだ……だが」  ガンナーの言葉は続く。その言葉には棘がある。ただ傷つけようというだけではなく、返答いかんでは伸びて身体を貫き、死に至らしめよう、と宣するかのような敵意が巻き付いている。 「まだまだ我らには及ばぬ。……世界樹の迷宮の探索は我に任せ、大人しく引退でもすればどうだ?」  樹海探索にライバルは多い。が、『冒険者』という括りに限れば、ここまで敵意を持つ相手は、これまでいなかった。上から目線であることは気にしないとしても、邪魔者全て消す、と言わんばかりの殺意は、これが初めてだ。  鼻白むことこの上ないが、黙ってはいられない。 「じいさん、何者だ? てより、じいさんこそ、耄碌する前に引退して悠々自適生活送りゃいいんじゃねぇか?」  エルナクハも老人に負けず劣らず、傲岸不遜な態度で言葉を放つ。  老人は冷たい眼差しで聖騎士を睨み付けると、ふ、と不気味な笑みを浮かべた。 「……過去に何人がそう言って、我が銃弾に倒れたことか。ヌシらも樹海の糧と化すのが望みか?」  黄金の銃の銃口が、冒険者に向く。暗き穴のその奥に、虚無が潜んでいるように、『ウルスラグナ』は感じた。身体の奥底から悪寒がせり上がってくる。銃の真価は、未だ噂でしか知らないのだ。未知への恐れが本能の根底から戦略的撤退を訴えてくるが、ここで身を翻すわけにはいかないのが冒険者の意地だ。 「せめて、ヌシらが最後に出会った者の名を教えておいてやる」  老人は楽しそうに笑いながら口を開いた。 「心して聞け! 我はライシュッツ。人は我を魔弾の銃士と呼ぶ! ヌシら若造相手に遅れをとるほど耄碌はしておらんぞ!」  言葉が終わると共に、三眼の銃までもが、冒険者達に照準を定める。 「上等だオラァ!」  エルナクハは激昂して盾を構えた。  正確には、激昂した『フリ』だ。その内心では、見た目からは大概の者には信じてもらえない程に冷静な思考が渦巻いている。  目の前のガンナーは、まるで何人もの同業者を葬ってきたような物言いをした。殺気も、それを裏付けている――ように感じられる。だが、それが真実なら、とっくに総スカンを食っているはずだ。  冒険者が単に魔物に殺されたのなら、事故のようなものである。ところが、その死がライバルを蹴落とそうという冒険者の仕業となれば、当然ながら、他のどのギルドもいつ襲われるか堪ったものではない。ゆえに、他のギルドの抹殺を謀るような馬鹿は、侮蔑の対象なのである。  それに、冒険者達は名目上はハイ・ラガードの国民。国民は国法に従う義務と守られる権利がある。『冒険者殺し』は殺人者として法で裁かれるはずだ。  いくら人目に付かない樹海とはいえ、他の冒険者や衛士に見つかる可能性は、ゼロではない。  仮にも、『百獣の王殺し』をここまで上から目線で見下ろす者が、そんなリスクを負ってまで『まだまだ自分達に及ばないライバル』を排する必要があろうか。  以上のことから、ガンナーの態度は、十中八九、ただの脅し。  残り一割の可能性――兎を狩るのに全力を尽くす獅子。めぼしいライバルを潰し、しかも誰かに悟られるような証拠を残したりはしない、とんでもない曲者。だとしたら、そんな腕の持ち主に自分たちの勝ち目は端からない。つまり、挑むのは得策ではない。  いずれにしても、『ウルスラグナ』が喧嘩を買う理はない。エルナクハが構えているのも、万が一に相手が襲ってきた場合に、仲間を守るためである。喧嘩を買って敵わなくても、攻撃をしのいで生き延びることは、できるかもしれない。  しかし、エルナクハの計算に反する行動を行う者がいた。しかも、身内(なかま)に。 「――武器を捨てろ、銃士」 「――ぅおい!?」  エルナクハは面食らって変な叫び声を上げてしまった。  いつどうやってそうできたのかは判らないが、レンジャーにはお手の物なのだろう。ナジクがいつの間にか老ガンナーの背後にあり、極限まで振り絞った弓矢をその頭に向けていた。しかしガンナーも只物ではない、右手の黄金銃をゆっくりとナジクの方に向けながら、冒険者達に向いた目と三眼は揺るぐことがない。年老いて白濁しかけているのか、ほとんど白目にしか見えないような目を剥いて、ガンナーは楽しげに声を上げた。 「ヌシこそ武器を捨てよ、狩人。これより三を数える間にそうしなくば、ヌシの仲間の生命は保証せぬ」 「ならば望み通り」 「三」 「その首に我が鏃を」 「二」  それ以上はナジクは言葉を続けず、弓をさらに引き絞った。 「一」 「おい!」  エルナクハはナジクを止めようとした。しかし、その言葉すら届かないほどに、ナジクの頭には血が上っているのだろうか。  ここで殺し合うことが益とは思えない。仮に老ガンナーが本当にこちらを殺す気だったとしてもだ。まして、ただの脅しである可能性の方が高いならば、本気の殺意をぶつけてしまった『ウルスラグナ』の方が、『冒険者殺し』だ。よくて過剰防衛扱い、後味の悪さは拭えない。 「いい加減に……」  こうなったら身体を張ってでも止めなければ、と、聖騎士が前傾の体勢を取ろうとした、その時だった。 「はいはい、そこ! 何やってんの!?」  『ウルスラグナ』の後ろから唐突に響いたのは、明らかに若い女のそれだった。  他のギルドが来たのか? 『ウルスラグナ』は慌てて振り向いたが、その予想に反して、乱入者はただの一人であった。 「冒険者同士で喧嘩したって、何のメリットもないでしょ!」  呆れたように肩をすくめるその女――いや、まだ少女とも言えるその姿は、豊かな黒髪をなびかせた冒険者であった。くるりとした大きな目は、つい先ほどちょっかいを出した、糸好きの小動物を思わせる。その瞳で、少女は一同が戸惑う姿を眺めていた。  頭の上には大きなとんがり帽子、肩にはケープ、身にまとうカートル(ワンピース)、木と剣と輝石を組み合わせた、螺旋状にねじれた杖――その姿は、ガンナー同様にハイ・ラガード近辺を発端とする異能者、巫医(ドクトルマグス)のものだった。  以前に迷宮で知己を得たドクトルマグスの二人組、イクティニケとその弟子ウェストリから聞いた話によれば、ドクトルマグスはハイ・ラガードでは珍しくないが、他の国で見ることは稀だという。古代から伝えられた秘術を継承し、または失われた術を追い求める者達であり、その装いは、男と女でがらりと違う――男性の守護霊はワタリガラスであると信じられているために、それを祀るための装いを、女性はその守護霊であるといわれる精霊(ヤガー)の姿を模しているのだという。目の前にいる黒髪の少女は、確かに、女性であるウェストリによく似た様相をしていた。  それにしても、ひとりとは。少人数で探索をする冒険者がいないわけではないが、ひとりだけで、という例は極めて稀なものだ。よくこんなところまで……と考えたところで、『ウルスラグナ』はもうひとつの点に気が付いた。そういえば老ガンナーもひとりだ――が、それらの感嘆に対する答は程なくして明らかになった。 「あぁ、ごめんね。ウチの爺やが君たちに無茶言ったんでしょ?」 「じ……爺や?」  爺やなどと呼ばれそうな相手は、この場に一人しかいない。呆気にとられる『ウルスラグナ』の前で、少女は老ガンナーの目前まで歩み寄り、睨み付ける。 「まったく、もう……爺やはやり過ぎなのよ。銃、下ろして!」  少女に詰め寄られたガンナーは、躊躇うことなく銃口を下ろした。エルナクハ達に向けられた三眼も、ナジクに向けられた黄金銃も、その虚無の銃口は地に向いた。同時に、老人が放っていた殺気も、嘘のように消え失せた。  少女は、次にレンジャーに視線を向けた。 「こちらにはもう、害意はないわ。君も武器を下ろしてくれない?」  ナジクは少女を探るような目をしていたが、弓矢を下ろす気配はない。  エルナクハは軽く溜息を吐くと、声を上げた。 「ナジク、もういい。武器を下ろしてこっちに来いよ」  レンジャーの青年は、ちらりとエルナクハに視線を向けると、静かに弓を下ろし、軽く地を蹴って戻ってきた。  少女はその様を見届けると、軽く溜息を吐いて、再び口を開くのであった。 「……えっと、で、何から話せばいいかしらね?」 「何から、って言われましてもなぁ……」  焔華が戸惑いを露骨に声に表して答えた。彼女の思いは『ウルスラグナ』共通のものでもある。なにしろ、老人の殺気は、脅しの可能性が高かったとはいえ、あまりにも強すぎたのだ。それと現状の落差が激しすぎて、どうにも付いていけない。  少女は立ち尽くす『ウルスラグナ』一同を見つめた後、視線を天に向けて考える表情をとる。 「そう、ね、やっぱり……とりあえず自己紹介、かな」  うん、と頷くと、少女は顔を『ウルスラグナ』に向け直した。 「あたしたちはギルド、『エスバット』。……聞いたことくらいあるでしょ?」 「『エスバット』……だと……?」  聞いたことぐらいある、などという問題ではない。超有名ギルドではないか。  在りし日の『ベオウルフ』と並んで、ハイ・ラガード樹海探索の急先鋒と讃えられる者達だ。『ベオウルフ』は全滅してしまったから過去形になったのだが、『エスバット』は健在である。とはいえ、聞いた話では、彼らは冒険者ギルドや大公宮に姿を見せなくなって久しいとのことだった。冒険は続けていて、一説には第三階層にまで足を踏み入れているともいうが、『ウルスラグナ』が直に巡り会うことは一度もなかった。ハイ・ラガードは小さきとはいえそれなりの国、冒険者なるものが利用する施設もたくさんある。馴染みの施設でよく顔を合わせる相手でもなければ、余程有名なギルドであっても、あやふやな噂でしか行動を知ることができないものだ。  それが今、目の前に、確固たる実像を伴って姿を見せている。  もっとも、いきなり脅しをかけてくる銃士と、小動物のような闊達な少女――そんな二人組だとは思ってもいなかったが。 「あたしが呪医者アーテリンデ。で、そっちが銃士の爺や。二人で樹海探索をしてるのよ」 「ふたりでとは、危なくないか? メディックもなしで」  アベイが心底心配げに口を挟んだ。  少人数のギルドがまったくいないとは言わないが、回復役が存在しないギルドは探索に苦戦を強いられるはずだ。  ちなみに『ベオウルフ』にもその問題があった。大抵のパラディンが嗜みとして覚えているはずの応急処置の技術は、ハイ・ラガードの樹海では、生命を預けられるほど有効なものではなく、しかもフロースガル以外のメンバーは全員が獣なのだ。  だが、ごく最近、『ウルスラグナ』は、樹海の獣には人間が想像もできなかった回復技術を持つ者がいることを知った。彼らがなめた傷はとてつもない早さで治癒することがあるのだ。人間もちょっとした怪我をしたときに傷口を舐めることがあり、なめた傷の方がそうしなかった傷よりも治りが早いという。そんな効力が顕著に表れているのだろうか。ハディードがそんな能力を持っていたことを知ったとき、初めて出会ったときの獣の子の怪我が、第一発見者の証言――大怪我をしている――とは裏腹に治りかけていたことに納得がいったのだった。  話がそれたが、『ベオウルフ』に回復役がいた可能性を、『ウルスラグナ』は知っている。  だが、目の前の『エスバット』は? 「言ったじゃない、あたしは呪医者、ドクトルマグスだって」  アーテリンデと名乗った少女は、肩をすくめて答えた。 「そりゃ、腕利きのメディックみたいに瀕死の人間を治すのは難しいけど、あたしたちにだって、あたしたちなりの治療技術があるのよ」  そういえば、『ウルスラグナ』はドクトルマグスに、花や実をその場で簡単に薬品とする技術を教えてもらったことがある。彼らにはそうやって、研究を重ねるメディックから見れば想像も付かない、別系統の薬草学が身についているのだろう。 「で、その『エスバット』さんらが、わちらを足止めするのは、何が目的なんし?」  先の銃士の態度から考えれば、どう見てもライバルギルド潰しにしか思えない。が、目の前の少女の態度からは、それもまた違うような気がする。問われた少女の方はといえば、『ウルスラグナ』の戸惑いも織り込み済みなのだろう、どう答えるか少し悩んでいたようだが、 「……ま、親切心?」  結局、直球で答えた。 「親切心だぁ?」  あまりにも現状とはかけ離れた答だった。『親切心』であんな殺気をぶつけられるのは、いわば『真竜の剣』を抜き身で持ったソードマンに、真顔で「これで凝った肩を叩いてあげるから」と言われているようなものだ。普通なら、肩を叩くふりをしてソニックレイド、と考えてしまう。  だが、アーテリンデが続きを話す気らしいと悟り、とりあえずは言い分を聞いてみることにした。 「樹海の十階の奥にはね、ちょっと凶悪なヤツが住んでるの。今まで以上の化け物がね」 「化け物ぉ?」 「ええ、そうよ。だから、ここから先は大公宮で許可の出ている一流の冒険者以外、進めないようにしてるって訳。だからね、爺やも悪気があって君たちを止めたんじゃないの。あくまで身の安全のためなのよ」 「そんなにも、ヤバい相手か?」  探りを入れるようにエルナクハは問うた。アーテリンデの態度からは、嘘とは思えないが、先のライシュッツ――老ガンナーとの応答を思えば、そう騙して後続の冒険者を牽制している、という可能性も捨てきれない。 「詳しくは、大公宮で大臣に訊いて」  アーテリンデは肩をすくめた。あるいは、エルナクハが思っているように、彼女自身も、今の自分達が詳しい話をしても信じきってもらえない、と悟っているのかもしれない。 「とにかく、先に進みたいなら大公宮よ。君たちがこの先に進む資格があるって思ったら、大臣が許可をくれるはずだから。それから、もう一度来ることね」  アーテリンデと名乗った少女は、そこまで話すと自分達の役目は終わったとばかりに手を振る。 「じゃ、ね。バイバーイ!」  まるで街角で別れるかのように闊達な挨拶をする少女とは裏腹に、ライシュッツは、終始無言のままでいた。アーテリンデが来てからは静かにしているが、その瞳の奥から、『ウルスラグナ』を油断なく睨め付けているのがよく判った。押し通るならば一戦を覚悟しなくてはならないような、そんなまなざし。 「……行くぞ」  エルナクハは踵を返し、仲間達の間を通って、これまで来た道を逆しまに辿り始めた。マルメリは静かに頷きながら、アベイは意思表示をすることすらせずに、ギルドマスターの後を追う。焔華は踵を返す前に、『エスバット』を確認するかのように一瞥した。ナジクは――ライシュッツを睨み付けたまま動かない。 「……ナジク、いいから帰るぞ」  エルナクハが声を掛けると、ナジクは不承不承、身を翻した。  ともかく、一度街まで戻って大公宮に行く必要があるようだ。『エスバット』が見えなくなったあたりで、『ウルスラグナ』はアリアドネの糸を起動して、磁軸の流れに身を委ねた。 「なぁ、ナジクどの」  樹海入口に戻ってきて間もなく、エルナクハが口を開く前に、焔華がそうした。おそらく自分が言いたいことと同じことを言う気なのだろう。エルナクハのその推測は見事に当たっていた。 「あのガンナー、確かに、こう、いやぁな態度のご老体でしたけどなぁ、ぬしさんの行動も性急だと思うんし」  ナジクは言葉では答えない。しかし態度は、「だから何だ」と明確に訴えている。  焔華はわざとらしく溜息を吐いて、言葉を続けた。 「あれじゃ、『売り言葉に買い言葉』ですし。相手が挑発してきたのが先って思いますけど、それに乗る必要は、わちらにはありゃせんし」  そう言いながらも、焔華は、やはりナジクはこれでは納得しないだろう、と思っていた。  エトリアの冒険の顛末で変わってしまった、レンジャーの思考は、『何としてでも仲間を助ける』『そのためには他のなにものをも代償にして構わない』『もちろん、自分自身でさえも』という三原則を抱え、狂気に近いものに変貌していた。表面的には穏やかだったし、彼自身、余程のことがなければその思考を露わにすることはなかったから、エルナクハを除く他の仲間達は、せいぜい「エトリアでの顛末(こと)を気にして無茶するようになった」としか感じられてはいまい。  だが、焔華の見立てでは、そんなものでは済まないのだ。例えば今回の場合、先の行動は、ライシュッツがぎりぎりにでも手を引くことを願った脅しではない。アーテリンデの介入がなければ、ナジクは確実にライシュッツを射っただろう。  街で聞いた話から、ガンナー達は銃の機構上、どうしても行動が後手に回りがちということが判っている。おそらくはナジクは先手を取り、ライシュッツの首に鏃を突き立てる。その結果、ライシュッツが置きみやげとばかりに弾丸を撃ち放ち、自分がそれを受けることになっても。  もう一方の銃が仲間を傷つける可能性については――考えてはいたが、守り手であるエルナクハを全面的に信頼したのだろう。そこがまた厄介なことだ。つまりナジクは、自分が動かなくてもライシュッツの弾丸が仲間に危害を及ぼす危険性が少ない、と判断していながら、あのような暴挙に出た。自分の命を無駄に捨てるような真似を……。 「ナジク」  ふう、と息を吐いて、エルナクハが割り込んだ。 「その、なんだ。気持ちは分かるがよ。だけど――困る」 「困る?」 「ああ。オレだってギルマスとしていろいろ考えてるんだ。そこで勝手に動かれたら、考えてることが台無しになっちまって、困る」 「……困る、か」 「ああ」 「……すまない」  意外にもナジクは素直に頭を下げた。しかし彼の行動原理を考えれば、意外でも何でもない。彼は仲間のためにならどんな泥をもかぶるつもりで動いている。が、逆に言えば仲間には泥をかぶせたくないわけだ。「今の行動で泥をかぶって困る」と言われたら、ナジクとしては行動を改めざるを得まい。うまいな、と焔華は思った。 「そんなわけでだ、今後、勝手にゃ、ああいうことをしねぇように」 「……む、わかった」  やや不承不承、と言った感があるが、ナジクは再び素直に頷いた。 「話は付いたか?」  と口を出したのはアベイである。彼とマルメリは、他の三人の話に決着が付くまで、待っていたのだ。 「まあ、俺も、あの爺さんの態度にはむかついたけどさ、こっちがその真似する必要はないと思うんだ、なあジーク」  ナジクの深淵にほとんど気が付いていないアベイ(やマルメリ)としては、認識はその程度だろう。が、エルナクハや焔華としても、彼らと同じような気持ちも、ある。あのガンナーの脅しに引きずられて、自分達が他の冒険者に『同族殺し』と思われるような行動を取る理由はない。もちろん彼が本当に襲ってきたら、その時は自分達の身を守ることが最優先になるが。  もっとも、巫医アーテリンデの言葉が事実なら、自分達が『エスバット』に刃を向けられる可能性は、もうないだろう。  となれば、今考えるべきは、『エスバット』の脅威ではなく、彼らに道を塞がせた『何か』についてだ。  そのはずなのだが、焔華の頭の中には、『エスバット』の二人が、敵として現れている。  別段、敵意を抱いているわけではない(ライシュッツの態度には業腹なのは確かだが)。ブシドーとして、腕の立ちそうな相手を前にすると、つい、彼ら相手の戦闘の思考実験をしてしまうだけだ。エトリアで『ウルスラグナ』に初めて出会ったときもそうだった。だが、『ウルスラグナ』を始めとした他の者相手には一度で満足したのに、『エスバット』相手には、何度も執拗に、弱点や死角を何としてでも見つけ出すと言わんばかりに、思考が模擬戦を繰り返す。 「……とっとと帰りましょうえ」  焔華は熱を孕んだ息を吐き出して、仲間達に提案した。 「とにかく、大臣さんに話を聞かなきゃなりませんわ。でしょう?」  それは確かだが、焔華は街に帰って己の荒ぶる心を落ち着かせたかった。やはり自分は、心の奥底では老ガンナーの態度に我慢ならなかったのだろう、と考えて。ナジクのことをとやかく言えないな、とは、自嘲気味に思うことであった。  街に戻った『ウルスラグナ』一同は、フロースの宿で身体の汚れを簡単に落とすと、大公宮へ向かった。  『エスバット』の言い分が本当なら、十階の奥深くには凶悪な魔物が鎮座しているらしい。『一流』といえる冒険者でなければ対面する許可が出ないほどにだ。  エルナクハは、現在のハイ・ラガードで『一流』と言えそうな冒険者を上げようとしてみた。  おそらく『ウルスラグナ』より先を行っているだろう者達は、身近なところではいない。ゆえに、漠然としか知らないのだが、五、六組ほど、自分達より先行していた者達の噂があった気がする。『エスバット』は第三階層に到達しているという話があったが、彼らはどうだろうか。真実を知っているのは、冒険者を統括するギルドか大公宮だろうが、訊いても明確には答えてくれまい。  いつも通り、侍従長に導かれ、謁見の間に通される。  大臣はいつも通り、そこにいた。 「おや、冒険者どの」 「よう、大臣サン」  いつもの不遜な挨拶を返すと、エルナクハは単刀直入に事実を口にした。 「『エスバット』に会ったぜ」 「……!」  大臣の表情が明らかに変わった。  どうやら、『エスバット』の言い分は嘘ではない。彼らの主張通り、何かが、先にいるのだ。 「……なら、話は聞かれたとおりじゃ」  眉根をしかめながら、大臣は話を続ける。 「樹海の十階、あそこには恐ろしい化け物が棲んでおる。その強さもさることながら、一番恐ろしいのは生命力じゃ! 『エスバット』やその他……一流といってよい冒険者にその退治を依頼したこともある。そして何組もの冒険者がヤツに挑み……そして討ち果たした!」 「……なんだと?」  聞き逃せない発言であった。  『エスバット』の言う『化け物』は、討ち果たされたという。だったらもう脅威はないはず。だというのに彼らは何故、まだ、あの場を塞いでいるのか。  ……いや、まさか。  エルナクハのみならず、その場にいる『ウルスラグナ』全員が、等しくエトリア樹海のことを思い出した。  かの地には『守護者』がいた。黒く禍々しいオーラをまとう強敵達。人間に侵入されたことを恐れた樹海が、樹海の生物に力を与え、その代償に自分を守ることを強いた、そんな存在だ。冒険者達は、当然ながら彼ら『守護者』を打ち倒しながら奥へと進んだのだが、彼らは――。 「じゃが……、ヤツは数日後には何事もなかったかのように再び蘇ったのじゃよ」  ――同じだ。  エトリアの『守護者』達も、そうだった。彼らは樹海に与えられた力により、冒険者に倒されても、時を置けば蘇ったのだ。『ウルスラグナ』が実際に相対したのは、第一階層と第二階層の『守護者』だけだが、ライバルギルドが倒したはずの、第三階層や第四階層の『守護者』が、確かに生きていることを、はっきりと見てきた。  ハイ・ラガード樹海も、やはり同じなのか? 現在、人間に侵入されていることを不快に思って、『守護者』を立てているのか?  キマイラと戦ったときも、あの魔物が、かねてよりの噂を聞いて思ったとおり、『守護者』と同じだとは感じていた。が、あくまでも強さに関する話で、蘇るか否かという件は想定外だった。フロースガルがらみで血がたぎっていて、そこまで考えていなかったということもある。後で確認した方がいいかな、とエルナクハは思った。 「わかってくださるかな、この老体の苦悩が。その魔人がいる限り、半端な腕の冒険者を奥へは行かせ難いのじゃ」  まして、『守護者』を知らないハイ・ラガードの大臣が、対処に苦労するのも当然だろう。  あくまでもエトリアの『守護者』を参考しての話だが、彼らの復活を止める手だてはない。仮にエトリアと同じならば、『力の源』が何かについては知っているから、それを除去すれば、理論的には蘇らなくなるはずだ。が、それは人間にとっては、『樹海の中に落とした一枚の木の葉を見付ける』に等しい、否、それ以上に困難、はっきり言って不可能なことであった。  『ウルスラグナ』の知る例外はただふたつ。  ナジクに取り付いた『力の源』が、樹海の主の力を継いだ『新たなる世界樹の王』の手で除去された例がひとつ。  いまひとつ、ライバルギルド『エリクシール』の聖騎士――パラスのはとこが、「もう蘇らない」と太鼓判を押した『守護者』が一体いる。復活が確認されなかったのは事実だが、その理由、そして少年騎士がその事実を言い切れた根拠は、完全に不明だった。 「……だから、『エスバット』に足止めさせてるってわけか」  あの足止めの仕方はどうか、と思うが、大臣に言っても詮なきことだろう。  大臣は深く頷いた。 「さよう。危険を承知で試練を受ける者だけを先に行かせるようにしておる」  大臣の目の中に、探るような光が灯った。疑念、というには少し違う。これは、期待だ。 「そなたらも、あの恐ろしい魔人を討伐する気があるのか?」  エルナクハは即答しなかった。  あるなしで答えるなら、ある。樹海探索を進めるならば、その魔物を乗り越えなくてはいけない。そもそも、諾(はい)と答えなければ先には行けまい。ただ、その前に、キマイラもその類なのか確認しておきたかった。それに、ひとつ気になる。大臣は今、魔物のことを『魔人』と呼んだ。今回の魔物は、少なくとも人間型生物に見える形をしているらしい。それは本当に魔物なのか、それとも――。 「……少し考えさせてくれや」 「……ふむ、相判った」  大臣は特に何も尋ねてこなかった。冒険者にとっては命懸けの試練である、断ることもあり、まして考えるのは当然だと思っているのだろう。が、ほんの一瞬、失望とまではいかないが、残念そうな眼差しが浮かんだ。  『ウルスラグナ』は退出の挨拶をすると、大公宮を辞し、私塾への帰路を辿った。  採集専門のフリーランス・レンジャー、ゼグタント・アヴェスターは、この日は依頼を受けていなかったようで、借りた自室でのんびりとしていた。とはいえ心底のんびりしていたわけではない。エルナクハ達が戻ってきたときには、彼は机の上に装備を並べ、異常がないか点検していたところだった。爪先が開きかけたブーツを、太い針と丈夫な糸で縫い合わせている。ちなみに、針は針ネズミの長い針を加工したもの、糸はキューブゼラチンから狩り取った繊維状の薄皮を細く削いで撚ったものらしい。 「……キマイラ?」  作業の手を止めたゼグタントは、エルナクハの問いかけに首を傾げた。 「少なくとも先月、あーと……二十五日か、そン時までは、見かけなかったな」 「それ以降は?」 「んー、あの広場を経由するような場所での採集依頼がなかったからなァ」  つまり二十六日以降にどうだかは確認していないということだ。  ゼグタントはブーツと針を机の上に置くと、んー、と伸びをして、エルナクハの目をじっと見つめた。常日頃の軽々しさからはとても想像のできない、真剣な眼差しをしている。 「まさか、エトリアみたいに復活してるとかいうンじゃないだろうな?」 「そういうこった。まだ、『可能性』だけどよ」  聖騎士は扉の方に足を向けて、頭だけ振り返り、ゼグタントに声を投げかけた。 「これからみんなで、今後のことについて話し合うんだ。アンタも出てくれねぇか?」 「オレも、か?」 「アンタもエトリアのことについちゃ知ってるんだからよ、なら、いろいろ考えるのに頭数が多いに越したこたぁねぇ」 「アルケミストの姉ちゃんあたりなら、『船頭多くして船山に上る』というものですよ、まったく、とか言いそうだけどなァ」 「かもしんねぇ」  ゼグタントの口まねがあまりにも似ていたので、エルナクハは大口開けて笑った。だが、すぐに笑みを収め、真剣みを取り戻す。 「ま、今は情報が必要だからな。エトリアの深みも知ってるアンタにもいてほしい」  エトリア樹海の最下層、『真朱ノ窟』。その階層に足を踏み入れて、生きて帰ってこられた者は極めて少ない。採集専門フリーランスであるゼグタントは、かの階層でも生きて戻ってこられそうな確率の高いギルドの依頼のみを選んで受け、さらに敵の気配を敏感に察知し遭遇を極力避けることで、辛うじて生き残ってきた。そうして、あの悪夢の階層のことを知る、数少ない者の一人となっている。  それどころか、彼は樹海の真の王であるフォレスト・セルを直に見た、わずかな者のひとりでもあった。『ウルスラグナ』が、フォレスト・セルに魅入られたナジクを救出するときに、協力を仰いだのだ。  その時のことを思い出したのだろう、ゼグタントは苦笑いを浮かべた。 「二度とあんなバケモノとは遭いたくねえもンだ、自分だけの身を守ってりゃいい、って言われてもな」  それに、と、ゼグタントの唇が動いたような気がしたが、結局、その件については、レンジャーはそれ以上何も言わなかった。代わりにブーツを取り上げて軽く振る。 「とにかく、話し合いには出るぜ。ただ、こいつを仕上げさせてくンないかねェ」 「どのくらい掛かる?」 「一時間もありゃあな」 「了解」  エルナクハは軽く手を振って、申し出を受け入れた旨を示した。  そうして約束通り、一時間後に食堂に下りてきたゼグタントを、『ウルスラグナ』一同が迎えることとなった。ちなみに、『ウルスラグナ』一同も時間まで律儀に食堂で待っていたわけではなく、銘々が適度に時間をつぶしていたのである。  円卓に席を占める十一人。以前ゼグタントの歓迎会をしたときに、「あらぁ、あと二人いれば伝説の王(アーサー)と円卓の騎士っぽくなるわねぇ」と、マルメリが喜んだ。もう一人増えたら円卓に全員の名前を彫ろうか、とか、王様役はユースケな(理由:エトリアの『王冠』を使っているから)とかいう話も飛び交ったものだ。残念ながら今は欠員が埋まる予定はない。フロースガルが加わってくれていたなら、野望(?)まであと一歩だったのだが。  ともかく今は、ハイ・ラガード樹海の『守護者』かもしれない、二体の魔物の話に移らねばなるまい。  ここで言う『守護者』とは、単に樹海の要所を守る存在という意味ではなく、エトリアの『守護者』と同質の存在、という意味を示す。それはすなわち、世界樹そのものの意志を受け、侵入者に牙を剥くもの達だ。  そして、『守護者』となり得た者が、果たしてどうやって『力』を受け取ったのか――。 「ナジク」  立ち上がったエルナクハは、卓に片手を突いて若干身を乗り出し、レンジャーの青年に問うた。 「オマエが、フォレスト・セルの誘いに乗ったときのことだがよ――」  かすかにだが、ナジクは眉根をひそめた。彼としては、あまり口にしたくないことなのだ。それは、自分の焦燥と増長が仲間の危機を招いたという、過ちでしかないのだから。  だが、だからといって口をつむぐのも無責任な話。  一時的に『守護者』となったナジクは、フォレスト・セルと意識を共有した。相手の思考は人外のものだったから、全てを理解することは不可能だったが、それでも、エトリアで救出された後、自分が覚えていて理解できるところは、仲間に全て説明した。それをもう一度ここで言えというのは、当時いなかったフィプトに――概要は、この地で仲間にしたときに説明したが――詳しく話せ、ということだろう。 「――オマエとセル(ヤツ)の橋渡しをして、オマエに『力』を持たせたのは……『芽』だったな」 「ああ、そうだ」  ナジクは素直に頷いた。  エトリア樹海で時折見かけられた、奇妙な存在がある。『世界樹の芽』と呼ばれる不思議な若芽だ。  正確には、『芽』と『双葉』と『四つ葉』の三種が確認されている。敵対する力は持たない存在で、あるギルドが刃を向けてみたところ、動かなくなるまで、何もしなかったという。  だが――限られた者しか知らないことだが、この芽は、自らの依り代を欲していた。  たとえば『エリクシール』のパラディン――パラスのはとこは、『枯レ森』で死にかけたときに、『双葉』の『声』を聞いたという。  ――死にたくない。君も死にたくないよね。君に死なない力をあげるから、その力で、僕が死なないように守ってよ。  そして、ナジクもまた、『世界樹の王』を打倒した直後、ひょっこりと現れた『四つ葉』の『声』を聞いたという。  『エリクシール』の少年騎士が、モリビトの巫女から聞いたという話――世界樹に聖別され、世界樹を護るためにあるもの達は、本来属する種を凌駕する力と、死んでもいずれ蘇る生命を持つ――を加味すれば、それが、世界樹が『守護者』としてふさわしいと思った者を誘う『声』であることに、間違いはないだろう。  樹海は――フォレスト・セルは、自らの『死』を恐れていたのだ。  『世界樹の王』ヴィズルが仲間と共に打ち立てた『世界樹計画』。その終焉は、同時に、計画の礎となった樹海細胞が不要になることでもあった。生物には寿命がある。あのフォレスト・セルにもあったらしい。不要になった暁には、速やかに処分されるための寿命――自死機能が。しかし、死を恐れたセルは、自らの構成を組み替えて、寿命を無効化した。そして、『父』たる旧世界の科学者が自分を処分しようとすることを恐れたのだ。  だから、自分を守るために、自分の意志と力を受けてくれる、自分を守ってくれる者を探した。  それが『守護者』、得られる力と樹海からの強制力に幾ばくかの差はあれど、等しく、侵入者の前を塞ぐ者達である。  そのような話を、ところどころ、ゼグタントを含む仲間達の補足に助けられながら、ナジクは語った。 「何度聞いても、信じらンねぇ話だよなァ」  かー、と息を吐いて、ゼグタントが天井を仰いだ。樹海の深淵よりナジクを救い出す助力をした縁で、エトリアでもわずかな者しか知らない『エトリアの長と旧時代の秘密』を知ることになったが、とてもとても正気とは思えない話だったのだ。  余談だが、そんなゼグタントに、『ウルスラグナ』はアベイの来歴は話していない。信用できずに語っていないわけではない。フォレスト・セルがらみのことを口外していない時点で、信用はできる。ただ、正式なギルドメンバーではないこともあって、語る必要がないことだったからだ。 「……それで、十階の奥にいるという魔物が、エトリアの『守護者』と同じ存在だというんですか?」  フィプトの声は少し震えていた。恐怖というより、さらなる未知を覗いてしまった歓喜と後ろめたさかもしれない。 「かもしれねぇ」とエルナクハは答える。 「んで、ひょっとしたらキマイラもな。ただよ……そう決めつけられる段階でもねぇ。だけどまぁ、今のオレらが知ってることで、ぴったり合いそうなのは、その話なのも違ぇねぇってとこだ」 「樹海は――ラガードの樹海も、人間に侵入されることをよく思っていないんでしょうかね……」 「そりゃよ、言うまでもねぇだろうねぇ、アルケミストの旦那。『生物』なら自分の身を守ンのは当然だ」  フィプトの憂言に、ゼグタントが肩をすくめて答えた。  生物には縄張りがある。それに足を踏み入れた余所者を拒むのは当然だ。かといって、縄張りを侵す側が「はいそうですか」と引き返すわけにもいかないことが多々ある。侵す側も必死なのだ。そうしなければ自分の生存に関わるゆえに。  弱肉強食、それは地神の教えだ。いと偉大なる大地母神(バルテム)も、皆が無条件で手を取り合える世界を造りはしなかった。否、願いはしたかもしれないが、神であっても手出しできない世界の土台が『そうなって』いるのだ。知恵を付けた者達だけが、せめて考え方の似通った存在とは奪い合いをしないようにしよう、としても、考え方の違うものから奪い奪われることは変わらない。植物の葉や実や根だけで生きようとしたところで、その植物から見た自分達は立派な簒奪者。もっとも、植物とて大地から養分を奪っていると言える。  ハイ・ラガードだって、今更迷宮探索をなしにすることはできない。乏しい北国が豊かになる手段を、目の前で閉ざせ、と言えるのか。 「オレらは樹海全体を『殺そう』ってワケじゃないさ。でも、樹海からどう見えているかは、な」  ハイ・ラガード樹海のフォレスト・セルが――いるとすれば、だが――、人間に踏み込まれていることをどう思っているのかは、まったくわからないのだった。 「じゃ、とりあえず、わたし達は、キマイラが蘇ってるか、見に行ってみればいいのね、兄様?」 「ああ、頼む、オルタ」  反対する者もいないようであった。これで本日の『夜組』の探索先は決まった。 「話はもうひとつあるのよねぇ」  マルメリの言うとおり、もうひとつの懸念がある。 「大臣さんは、奥にいるっていうそいつのこと、『魔人』って言ったのよねぇ。『ヒト』だって言ったのよぉ」  大臣の言葉から、全てを決めつけることはできない。大臣が直に見たわけではないからだ。情報の出所が『エスバット』で、彼らが正確に情報を伝えているとしても、大臣の早とちりが混ざることがある。  そして『エスバット』の情報が正確かも定かではない。例えば第二階層のあちこちにいる巨大な猿のような、あの類の魔物であることを、手っ取り早く『ヒト型』と伝えただけかもしれない。  それでも、『ヒト』という言葉に『ウルスラグナ』は聞き逃せないものを感じる。  樹海の先住者、意志を交わせる可能性のある異種。そんな存在をめぐる騒動に、自分達に先んじていたライバルギルドが巻き込まれ、悲しい思いをしたことを、知っているが故に。 「樹海の先住者――エトリアのモリビトみたいなヤツかねぇ」  ゼグタントも、どことなく憂いげに、言葉を吐き出した。  相手がヒトだとしたら、自分達はどうしたらいいのか。エトリアでの顛末を知る身としては、穏便に済ませたいと願う。だが、勝手にずかずかと踏み込んで、資源をばかすか奪っていって、その上で手を差し伸べても、相手は納得しないだろう。それまで知らなかったことは仕方ないとしても、それを精算できるだけの誠意が必要だ。そして、誠意が必ずしも通じるとは限らない……。  結局、この件に関しては、茶のお代わりが全て消費される程の時間をかけても、なにひとついい案は出なかった。そも、相手が何者かを知ることが、まず必要となる。  さしあたって、今の自分達にできることは、キマイラがエトリアの『守護者』同様に蘇っているかを知ることと、大公宮に魔人討伐の意志を伝えること、それくらいしかないのだ。  太陽が西に傾きかける頃、夜の探索班達は予定通り、第一階層五階、百獣の王の魔宮へと出立した。  前衛にオルセルタとティレン、後衛にフィプトとアベイとナジク――本来は、昼の探索に出たナジクではなく、パラスが納まっているはずだったのだが、かつて『守護者』の同輩となったナジクならあるいは、『芽』がキマイラの復活に関わっているならそれを察知できるのではないか、と思われたために、交代している。  現在の『ウルスラグナ』の探索範囲からすると、目的地に到達するには、第二階層六階の樹海磁軸を利用するのが楽で早い。すぐ近くにある下り階段から第一階層五階に降りれば、魔宮まではすぐだ。  ただし、見落とされがちな事実だが、各階を結ぶ階段は想像以上に長い。冷静に考えると、地上から鐘突堂の最上階まで上り詰める以上の高さを踏破していることになる。普段は、これも探索の一部と割り切っており、疲れれば小休止などをしているので、長さが意識に上ることはないのだが、単純に相応の時間がかかる。  それでも、行程を合算すれば半時間ほどで辿り着くはずだった。  だが、一時間早く出立していれば、と冒険者達は痛感した。  第二階層から落ちて積もる紅葉の量が減り、夏の夕の熱気と、それを打ち消す微風が感じられるようになった頃、下階から、かすかに悲鳴のようなものが流れてきたのだ。 「……ヤバい!」  考えるより先にアベイが走り出す。彼に釣られたわけではないが、他の冒険者達も一様に足を早めた。階段を下りきらないうちに、悲鳴はぷつりと途切れてしまったが、ほんのわずかな望みにかけて、『ウルスラグナ』は足を止めることはなかった。  階(きざはし)を下りきり、細い道を行って、しばらくの後に、扉の前に辿り着く。  感情的には、すぐにでも扉を開けたいところだが、そうはしない。もう手遅れであることを悟ったから、ではない。仮に手遅れでなかったとしても、ここで一旦、息を整える時間を望んだだろう。相手は、ここまで来た勢いのままに撫で切れる雑魚ではないのだ。 「開ける、わよ」 「ん」  オルセルタの言葉に、皆を代表するかのように、ティレンが短く応える。  中央の合わせ目から割るように力を入れると、扉は、左右に分かれて、重々しい音と共に滑っていった。  キマイラは冒険者達に背を向けていた。ここに至るまでに想起していたのは、魔獣が背を丸めて犠牲者をむさぼっているという図だったのだが、実情は違っていた。かといって、先程の悲鳴の主達が無事かというと、それも違う。漂う血の臭いからも、それは明白。  キマイラは何かに対峙して、威嚇していたのだ。獅子の頭と山羊の頭は無論だが、尾に当たる蛇頭すら、後方から来た冒険者には目もくれない。  誰かが一人でも生き残っているのか、と思った。キマイラは生き残りに対して威嚇しているのだ、と。 「ねえ、大丈夫!?」  オルセルタは気を引くつもりで叫んだ。生存者だけではなく、キマイラをもだ。キマイラの気がそれれば、生存者が逃げ出す隙も作れるだろう。  しかし、次の瞬間、オルセルタのみならず、全員が絶句していた。 「……え?」  取り返しのつかない惨劇を見たからではない。  悲鳴の主達の末路のみを述べるなら、もはや全員がこの世の者ではなかった。だが、冷たい言い方をすれば、その程度で我を忘れるほどに絶句するような冒険者ではない――今となっては、フィプトも含めて。  後方からの声に反応して顔だけ振り向くキマイラ、そのために翼が動いて、見えるようになった向こう側に、人影があったのだ。  そも、それは『人間』なのか?  否、人間は『翼』を持たない。  瞬く間に上方に飛び上がって姿を消してしまったから、細部は判らなかったが、その影は、確かに、人間の背に翼を備えたものに見えた。  世界宗教の神の使いたる『天使』か、黒肌民族の戦女神かのように。 「……とりにんげん?」  見たまま感じたままをそのまま口にした、ティレンの言葉が、事態の異常さを余計に引き立てる。  だが、その件について頓着する暇はなかった。  それまで対峙していた影が上空に消えた気配を感じたか、顔を上げたキマイラは、未練がましそうに唸りを上げた。  一方、思いもよらなかった邂逅に固まったままの人間達は、結果的に邪魔をされたキマイラが、その恨み辛みを自分達にぶつけようとしていることを感じて、慌てて武器を手にした。  ゆっくりと全身を冒険者達に向けようとするキマイラの周囲を、怒りの霊気が黒い炎となって取り巻いているようにも見える。  呆けている場合ではない。戦いは避けられない!  キマイラとの戦いを経験して勝利した者達が三人もいる。あの時からさらに鍛練を積んで強くなってはいる。それでも、油断していい相手ではないのだ。  前衛の戦士たちの雄叫びと、後方から飛来する矢が大気を切り裂く音が、戦いの始まりを告げた。  両前肢による鎚のような強打。猛毒を含んだ蛇の牙。何よりも激しい、口から吐き出す劫火。  それらの猛攻を浴びてさえも、最後に立っていたのは、『ウルスラグナ』の方であった。  一月近く前に、『ウルスラグナ』を壊滅寸前まで追い込みながらも、倒されたキマイラは、今回も、その意趣返しを果たすことはできなかったのだった。  とはいえ、それは楽勝だったということを意味しない。前回の戦いほどではないが、冒険者達は満身創痍、痛みと失血とで、今すぐに倒れ伏しても不思議ではない。  ばたばたと飛び立つ複数の羽音は、戦いが始まったと見るや集ってきた、獣王のシモベのものである。彼らが馳せ参じる前に獣王が倒されてしまったから、我先にと逃げ出したのだ。しかし、そんな小物(ザコ)の行く先を気に留める者はいない。  比較的軽傷だったナジクが、キマイラの屍をじっと見つめていた。 「ナジク、『芽』の気配はする?」  アベイに包帯を巻いてもらいながら、オルセルタが問うが、ナジクは静かに首を振った。 「そっか……」  黒い肌の少女は肩をすくめる。彼に『芽』の気配が感じ取れなからといって、『芽』がキマイラの復活に関わっていないとは言い切れない。ただ、一つだけ言えることがある。『芽』の仕業か、他の何かの要因かはわからないが、キマイラは確かに復活していた。今この場にいる『ウルスラグナ』の中でも三人が、その死を確認したはずの、百獣の王が。  別個体という可能性もなくはないが、このような魔物が何体もいるとは考えづらい。 「……どうしたの、ナジク」  仲間達の下に戻ってくるかと思えたナジクが、足を止めることなく歩き続けていったので、ティレンが訝しげに声をかけた。  狩人の青年の背を追って視線を動かす一同の前で、ナジクはしゃがみ込んで地面を調べている。 「……人の足ではないな」  ぼそりとつぶやくその言葉に、仲間達は合点がいった。ナジクがしゃがみ込んでいるのは、キマイラの前から飛び立った謎の人影がいた場所だったのだ――否、彼のつぶやきを聞くに、『人』ではなかったようだ。ただの二足歩行の魔物だったのだろうか。 「基幹部分(ベース)が鳥なのは、間違いないようだ。足跡の形から見てもな」  戻ってきたナジクの手には、影の正体たるものから舞い落ちたものか、一枚の黒い風切り羽が握られていた。普通の鳥のものに比すればかなり大きい。フィプトがそれを受け取り、矯めつ眇めつ観察を始める。 「随分と大きな羽根ですね。あの大きさでは、それだけ強い翼でないと釣り合わないでしょうね」  アルケミストギルドで「蝶の羽を持つ人間大の妖精(フェアリー)はあり得るか」という議題が、案外に真面目な議論として扱われたことがある。結論としては、『ほぼ不可能』。論理的には人体の数十倍の大きさの羽根がいる。そして、そんなものを人力で羽ばたかせるのは無理だ。エトリアには掌大の『妖精』(ただしコウモリ羽)がいたらしいが、その大きさに蝶の羽あたりがぎりぎりか。  鳥の翼ならば、もう少し難易度は下がる。それでも、人体側になるべく軽くなる機構――たとえば実際の鳥のように、骨が中空になっていたりしなければ、飛ぶのは至難だろう。  ……それにしても、このような状況でこのような思考を保ち続けられるようになったとは、自分も樹海慣れしてしまったものだな、とフィプトは思った。なにしろ『ウルスラグナ』の周囲には、キマイラの犠牲となった冒険者達が屍をさらしているのだ。その散々たる有様は、三階で見かけた衛士達のそれに勝るとも劣らない。何も感じないわけではないが、もどしてしまったあの頃からすれば、格段の進歩だ。……いや、『人間』としては退化なのだろうか?  死んだ冒険者達は知らぬ仲ではなかった。自分達と同じく、鋼の棘魚亭を贔屓の酒場とするギルドだった。『ウルスラグナ』が第二階層に踏み出した頃にやってきた冒険者達で、「いつかあんた達を追い越す!」と気炎を吐いていたものだ。キマイラが復活してさえいなければ、その決意は叶えられたかもしれない。  ……たぶん大丈夫だ。こうして、彼らに思いを馳せられるなら、自分はきっとまだ『人間』だ。  そして、『ウルスラグナ』の仲間達もまた、そうだ。  さしあたって、屍をなんとかしなくてはならない。  冒険者の間には、個々のギルドや個人個人での反目もあるにはある。そんな関係にある者同士でも、ある不文律だけは、必ず従うことが、暗黙の了解だった。同業者または樹海に入り込んだ一般人の、屍を発見したときの処置である。  本来は埋めるなり焼却するなりが最善なのだろうが、探索行の途中ではそんな余力はない。余力があったとしても、屍の臭いは樹海の生物を誘き寄せる格好の餌である。だから、処理は手早く、屍は、なるべく他の探索者の邪魔にならないところに運んでおく不文律になっている。あとは、できるだけ早く樹海の生物の食物連鎖の中に組み込まれることを祈るのが、常であった(もっとも、かつての『ウルスラグナ』が埋葬した『ベオウルフ』のように、手間をかけることもある)。  代わりに、遺品に値するものを持ち帰り、待機中のギルドメンバーや縁者が街にいれば、彼らに渡す。引き取り手がいない場合、あるいは受け取りを拒否された場合は、街の郊外にある合祀墓に納められることとなる。それが、異境の地に斃れ、帰る場所も定かではない者達の、終の棲家であった。  また、『遺書』を開封することもあった。冒険者によっては、昵懇(じっこん)にしている宿に『遺書』をしたためて預けている場合もある。俺が死んだら遺品はどこぞの街の誰それに送ってくれ、ということを記してあれば、その頼みに従えばいい。  もっとも、冒険者の書く遺書は、実用性というより、出所の怪しいまじないに近い。こうして遺書を準備しておけば、仮に斃れても、それを書いた時点に遡ることができるといわれるのだ。もちろん、ただの手紙が、死者を蘇らせたり、時を遡ったり、そんな大それたことができようはずもない。つまりそれは、生きて帰れるようにという願掛けで、成就しなければ本来の役目を果たすわけであった。  ただ、自身に発破を掛けるために使う者もいるので、いざ本来の役に立てようとしたときに有効な文章が書いてあるとは限らない。エトリアが冒険者でにぎわっていた頃、ある男性ソードマンは『おれの荷物の中にあるエロい本を始末してくれ』と『遺書』にしたため、迷宮へと下りたのだった。そして、「おれが死んだらザックのエロい本を他人に見られる! 死ねねぇ! 死にたくねぇ!」と奮起し、生還したそうだが、仮に奮起が樹海の悪意に敵わなかったら、どうするつもりだったのだろうか。  まだ初々しげだった、目の前の屍と化した冒険者達が、冒険者のそんな『風習』に染まっていたかどうかは判らないが、確認する価値はあるだろう。彼らのギルドは、ここで死んでいる者達で全て。街に戻っても遺品を受け取る者はいないのだ。  五体の遺体を、魔宮のそこかしこに積み上がる瓦礫の陰にもたれかけさせ、簡単に祈りの言葉を捧げ、遺品になりそうな物を回収する。  これで、いくらかの突発事項があったが、キマイラの復活の真偽を見届けるという役目は終わった。復活に『芽』が関わっているかどうかが判らなかったのは残念だが、致し方あるまい。  その日、夜分遅くなってから、大臣は冒険者ギルド『ウルスラグナ』を謁見の間に迎え入れた。ちなみに大公宮に足を踏み入れたのは、キマイラの復活を見届けたメンバーからナジクを抜いてエルナクハを加えた一同である。   街の施設は一日二十四時間、冒険者に対して閉ざされることはない。が、一分一秒が生命に関わる薬泉院ですら、施設自体は開かれているものの、危篤の急患でもなければ、ツキモリ医師自らが常に出るわけではない。彼だって休まなければ自分自身の生命に関わる。まして他の施設であれば、ちょっとした合間だけ店を閉めて休憩をしたり、臨時の店員(アルバイト)を立てたりする。といっても、緊急の要請があれば店を開けたり店主が出てきたりすることに違いはない。それは大公宮にしても同じことだ。  もっとも、今回の参内は、大臣が休息を取るほどに遅い時間だったわけではない。  ただ、大臣も疲れていたのか、腰を曲げ、とんとんと叩いていたところであった。『ウルスラグナ』の姿を認めると、気恥ずかしげに苦笑いを浮かべ、言い訳めいたことを口にした。 「なにせ本日は忙しくてな。姫様の新しいお召し物が仕上がったのじゃよ。ご試着に同席してな」 「へえ、ドレスかよ?」  とエルナクハは興味深げに返す。  本来、統治者が贅沢をするのは単なる趣味ではない。統治者の振る舞いは国力の指針なのである。その衣装がボロボロだったり数が少なかったりしたら、他国に舐められること請け合い。だからエルナクハを含め『ウルスラグナ』は、ドレスの新調程度に眉根をひそめたりはしない。ただし、それはハイ・ラガードがある程度安定した国だからだ。例えば国民の大多数が貧困に喘いでいるのに、統治者が贅沢を追っていたら、さすがにどうかと思うだろう。 「なにしろ、じきに姫さまの誕生式典じゃ」 「あ、なんか街でそんな話聞いたな」 「うむ、そうじゃろうて」  按察大臣は、孫娘の成長を見守る好々爺のような眼差しをもって語る。 「臣民もこの日ばかりは姫さまのお姿をお目にすることができる。姫さまはこの国の太陽と申しても過言ではないお方。皆を落胆させるようなものをお召しになっていただくわけにはいかぬ」  先の話になるが、統治者の姿は国民の士気にも影響するのである。  さて、冒険者は公女の姿を見たことがない。だから、どのような人物かも見当が付かない。ただ、大臣が滔々と語り続けるところによれば、『公明正大な父の血を引き、誰にでも優しく、賢く、素晴らしく、その美しさは遠く彼方の国にまで届き、求婚の申し出も既に数限りない』らしい。いやはや賞賛だらけである。どこの伝説の聖女か。  とはいうものの、大臣が公女の欠点をあげつらうわけにもいくまい。それに、いささかの欠点があるとしても、公女はラガードの民に愛されているように思えた。というのも、 サラマンドラの羽毛を確保してからさほど日の経たない頃、街で、公女の誕生祝いに宝石を差し上げたい、という話が持ち上がっていることを知ったからだ。その話をしてくれた酒場の親父は、「うるわしの公女さまは、俺たちみてぇな庶民とは何の関係もない処で美しく過ごしていらっしゃるワケだがな」と、やっかみめいたコメントを口にしたものだが、そんな公女が庶民からの贈り物など受け取るわけがないだろう、などとは言わなかった。自分達の国を治める公族に一定の評価はしているようだ。「街で公女の誕生式典のことを聞いた」というのは、この時のことである。 「姫さまは大変おやさしい方じゃ。冒険者とて存分な功を上げれば、お目通り願えるやもしれぬぞ?」  心持ち胸を張った様子で、大臣はようやく公女の賞賛話を終えた。自慢の姫さまの話をしているうちに腰痛は吹き飛んだらしい。 「この間のサラマンドラの羽毛だけじゃだめなのかしら?」  やや意地悪くオルセルタが口を挟んだ。 「うむ……大公さまが全快された暁には、あるいはお目通り叶うやもしれぬがな」  そうそう簡単にはいかないらしい。オレもサラマンドラの羽毛を取ってくるのに結構苦労したんだけどな、とエルナクハは内心でひとりごちた。その時に同行していた仲間達が心の声を聞きつけていたら、苦労したというところには同意するも、オレ(エルナクハ)が、というところには突っ込んだかもしれない。死に一番近かったのもパラディンの青年なのだが、阿呆な『秘策』のイメージがあまりにも大きすぎた。 「ま、それはそれとして、だ」  聖騎士は話題の転換を図った。そもそも、これから語る話が本題である。 「魔人とやらをぶっ倒しに行くからよ、許可をくれ」 「そうか、やはりあの魔人に挑むというか」  大臣は驚いたような顔はしなかった。あらかたは予想していたらしい。 「では、早速だが詳細を説明するとしよう」 「頼む」  大臣は頷くと、説明を始めた。  『魔人』と呼ばれる、謎の生物は、樹海の十階の一番奥に居座っているらしい。一番奥とは、すなわち、次の階層への階段の前の広間である――そう、はっきり『階層』と言った。やはり、エトリア樹海同様の『五の倍数階ごとに季候ががらりと変わる』という特長は健在のようである。  その『魔人』の特長は、先にも明かされたとおり、滅したはずなのに蘇っているという生命力。そしていまひとつ、炎を自在に操る力。それを踏まえて、公国側が『魔人』に付与した呼称は――。 「『炎の魔人』?」  まんまだな、と思わなくもない。だが、凝った名前に拘泥する意味があるだろうか。むしろ、相手がいかなる存在か、わかりやすくていいのかもしれない。  魔人の存在が明らかになったのは、笛鼠ノ月に入って間もない頃だったという。  かのギルド『エスバット』は、かつて一度、第三階層に踏み込んだものの、魔物の強さに敗走し、療養後、第二階層付近で鍛錬を行っていた。そして、ついに第三階層へ再挑戦したのだという。ところが、そんな彼らの前に現れたのが、問題の魔人であった。『エスバット』が知る限り、以前に第三階層に踏み込んだときには、その直前に魔人など存在しなかった。  彼らは辛くも魔人を撃破し、第三階層に踏み込んだが、問題は、それから十日ほど経った後にも起きた。  素材を得るために、第三階層経由で久しぶりに第二階層に降り立った『エスバット』。彼らの前に姿を見せているのは、以前に倒したはずの魔人だったのだ。  一度は倒したとはいえ、苦戦は必至。そもそも、第三階層に自由に行ける『エスバット』にとって、魔人は邪魔ではない。しかし、後続の冒険者の障害になると考えた『エスバット』は、冒険者ギルド統轄本部に、魔人退治を提案した。その当時に最強と思われたギルド数組の協力を取り付け、再び魔人の打倒に成功したのであった。  そのはずだったのだが、魔人は三度、現れた。  第三階層に到達寸前だった、いくつかのギルドが、魔人との戦いを強いられ、散っていった。魔人復活を知って挑んだ、かつて『エスバット』に協力した実力派ギルドも、何組も返り討ちにあった。現時点では、自分達だけで魔人を倒せる可能性が高いのは、『エスバット』くらいだろう。しかしその『エスバット』も、魔人が復活するたびに倒しに行くわけにもいかない。冒険者の使命は、天を目指すこと。現状でその成功率が最も高い者達を、下層の魔物退治に毎度動員するのは、もったいない話である。  かといって、自らの実力を勘違いした冒険者達が突撃し、全滅するというのを、放っておくわけにはいかない。そこで『エスバット』は、自分達が道を塞ぎ、冒険者達に警告する役を引き受けることにしたというのだ。  ……何か矛盾するものを感じなくもないが、具体的に何がおかしいのか、『ウルスラグナ』の誰も指摘できなかった。 「そなたらも、十分に注意して、準備を整えてから挑むのじゃぞ!」  大臣が、警告の言葉をもって説明を終わらせた。  言われるまでもない。準備不足が祟って全滅の憂き目に遭うのは、まっぴらごめんだ。 「……あのさ、何でも屋さん大臣さん」  唐突に、ティレンが口を挟んだ。大臣はもちろん、『ウルスラグナ』一同も、何事かとソードマンの少年を見る。そんな周囲の雰囲気を感じて、ティレンは、「き」と発音した直後に思わず口元を手で隠した。ためらいがちにエルナクハに視線を向ける。人に言っていいものか判断しがたい何かを、言おうとしていたようである。  およ、と聖騎士の青年は思った。彼の知っているティレンなら、あらかじめ口止めしていない事柄であれば、まず言ってしまうところである。途中で言葉を飲み込むとは彼らしくない。  それはそれとして、ティレンが何を言いたいかは見当が付いた。「言っちまえ」とエルナクハが促すと、ティレンは頷いて、続きを口にしたのだった。 「キマイラ、いたよね。あいつが、魔人みたいに復活してたの、知ってる?」 「……何じゃと……?」  さすがの大臣も初耳だったようだ。魔人だけでも厄介だというに、とつぶやきながら、首を振る。やがて大きく溜息を吐くと、心が落ち着いたのか、再び真っ直ぐに冒険者達を見据えた。その口が開く前に、先手を取ってエルナクハは説明する。 「ああ、ここに来る前に、倒してきた。でも、知ってるギルドがひとつ、全滅しちまったよ」 「何ということじゃ……まったく、キマイラまでもか」 「ああ、『エスバット』じゃねぇけど、オレらも、毎度毎度キマイラが復活するたびに倒しに行くわけにもいかねぇ。運悪くご対面しちまったヤツらに頑張ってもらわねぇとな」  そのためには、やはり情報のある程度の共有が必要だろう、と『ウルスラグナ』の皆は思っている。現在は、冒険者の先入観をなくし、多角からの情報を得るために、事前情報は極力伏せてある。そのために、集まった情報は多彩だが、代償として、「それを知っていれば助かったかもしれない」という犠牲者も多い。たとえば、『ウルスラグナ』が、キマイラが再び出現している可能性を示唆していれば、先だっての犠牲は出なかったかもしれないのだ。 「そう、だの」  しばらく悩んでいたが、大臣はようやく頷いた。 「確かに、そなた達の言う通りかもしれぬ」  結局の所、大公宮から、魔人の存在と、キマイラの再出現の可能性が布令されることになった。同時に、先達から情報提供された魔物の記録の閲覧が許可されることになった。ただし、自ら到達した階までの記録に限られるが。  早速、十階に現れるという魔物達の記録を紐解いてみる。 「わお」  男性陣が歓喜の声を上げた。  開いたページに記してあるのは、『サウロポセイドン』という魔物である。  ひとり精神的に取り残されたオルセルタは、溜息を吐いた――どうしてこう、『男の子』という人種は、巨大爬虫類が好きなのか。  相手が恐るべき魔物である、というのとは別件で、男児の多くは『竜』またはそれに酷似した生き物に妙に惹かれるものだ。第一階層攻略の時に、『襲撃者』を目にしたときもそうだった。サラマンドラや『炎王』に対しても然り。エトリアの三竜を始めとした類にも、言うまでもなく。  世界樹の『中』にしか存在しない生き物達――幾千万を超える星辰の彼方には『外』にも存在したらしい、その種の生き物に惹かれる者は、前時代ですら多かったそうだ。彼ら『竜』が人を引きつけるのは何故か。オルセルタにはその答は見いだせない。おそらく男性陣とて、自分達の気持ちを明確には説明できないだろう。あるいはそれは、神威に打たれた者のそれに近いのかもしれない。 「……で、よ。問題の『魔人』の記録は?」  記録をぱらぱらとめくりながら、エルナクハは首を傾げた。  炎の魔人は、二度倒された。一度目は『エスバット』に、二度目には連合した複数のギルドに。であれば、魔物図鑑に記されていても不思議ではない。そのはずなのだが、記録がないのだ。 「おお、そうであったわ」  大臣はすっかり忘れていたようだ。 「炎の魔人の記録は、今、学者どもが取りまとめておってな。まだ、こちらには届いておらぬ」 「なんだ、残念だな」  ないものは仕方がない。十階の魔物の記録を簡単に写すと、『ウルスラグナ』は大公宮を後にした。  その足で向かうのは、冒険者ギルドである。ひとつ、冒険者の暗黙の義務として、成さねばならぬことがある。  キマイラの復活を確認しに行った際に見付けた、冒険者達の遺品の件だ。  大公宮に赴く前に、鋼の棘魚亭に寄り、問題の冒険者達がどの宿を根城にしていたかを聞き出し、彼らがその宿に『遺書』を託していたかを確認しに行ったのだった。  その宿、『ウルスラグナ』もよく世話になっているフロースの宿だったのだが。 「……そうかい、あの子達、逝っちまったかい……」  ラガードの民は特定の冒険者に肩入れしないように言い含められているという。かといって、常連となった者に情が湧かないはずがない。フロースの宿の女将は、光るまなじりをそっと拭い、『ウルスラグナ』の頼み通り、彼らの遺書を出してきてくれたのだった。  彼ら五人のうち、四人は、帰るところもないから遺品は適当に処分してくれ、と記してあった。残るひとり、かのギルドの紅一点であった赤毛のレンジャーだけは、自分の出身地と、願わくばその地に私のことを伝えてほしい、としたためていた。 「イースラント……って、随分北方だよな?」  冒険者ギルドに向かう道すがら、エルナクハは、赤毛のレンジャーの遺書に出てきた地名に思いを馳せる。  この時代、世界を巡る旅は年単位になる。前時代には『鳥よりも速く、鳥よりも高く、ものによっては御山よりも高く飛ぶ船』で、世界のほとんどの場所に一日掛からず赴くことができたらしいが、そんなものはもはや夢物語である。エトリアに集った冒険者達にも、数年をかけてやってきたという者達もいた。ハイ・ラガードの方は、なにしろ公開されたのが数ヶ月前なので、そこまで遠くから噂を聞いてやってきたという者はさすがにいないが、出身地自体が遠方だという者は数多い。  イースラントとは、『共和国』の遥か北方にあるという地だったはずだ。 「そうですね」と『共和国』で学んだことのあるフィプトが感慨深げに応える。 「小生が九つの頃に錬金術師となることを志して、『共和国』に赴いたときは、馬車を乗り継いで一年近くかかりましたっけ。そこで知り合ったイースラント出身の学友が、徒歩で半年かけて来た、って言ってましたから、かなり遠いですね」  ふと、思い出したように付け加える。 「その学友が、『世界樹』の伝説なら、自分の故郷が本場だ、とか言ってましたっけ。世界樹自体がイースラントにあると聞いた記憶はないんですが」 「俺も思い出した」  と声を上げたのはアベイである。またなんぞか前時代の情報が得られるのかと、仲間達は彼に注目した。 「ああいや、すごいことじゃないんだけどさ。そこ、ヴィズルの故郷だよ」 「なんだと!?」  現状とはなんの関わりもないものではあるが、驚く情報であることは確かだった。 「まぁ、昔の『イースラント』と今のが、同じ場所かどうかも判らないけどさ」  そのような話を繰り広げるうちに、冒険者ギルドへ辿り着く。  そろそろ日付が切り替わる時刻である。ギルド長はさすがに退出してしまっているかもしれない。そう思いつつ戸を叩いた冒険者達を出迎えたのは、相変わらず鎧を着込んだギルド長その人であった。 「……よく働くなぁ。どこぞの英雄みたいに三時間しか寝てないとか?」  呆れ半分のエルナクハの軽口に応じるかのように、ギルド長は、からかうような口調で問いかけてきた。 「なに、お前たちのように、私が恋しくなって夜中に押しかけてくる輩を待ち受けていたのだよ。――フフ、冗談だ」 「はっは、その冗談に冗談で返せりゃよかったんだがよ。……真面目な話、ギルド壊滅の報告だ」 「む……そうか」  ギルド長は心持ち沈んだ声と共に頷くと、『ウルスラグナ』一同を奥へと通した。  冒険者ギルド統轄本部には、各ギルドが入国時に提出した書類が保管されている。メンバーの増減があれば申請し直す必要があるが、全滅してしまった場合、本人達が申請しに来るわけにもいかない。こういった場合は、樹海内でギルドが全滅したことを発見した者達が、代わりに知らせることになっていた。ついでに述べるなら、『ベオウルフ』の全滅も、『ウルスラグナ』が報告したのである。  逆に言うならば、全滅しても遺体や遺品が見つからなかった場合は、死んだという事実そのものが確認されず、記録がいつまでも亡霊のように残り続けることになる。半年に一度、書類を整理する計画があるのだそうだが、今はまだその時期ではないらしい。 「そうか、キマイラが復活を……か」  『ウルスラグナ』の話を聞きながら、ギルド長は全滅したギルドの登録書を持ち出してくる。黒檀の机の上にそれらを広げると、『登録抹消:死亡』の印を押していった。 「大公宮が情報の開示を決めたのなら、私も、ここを訪れる者達に忠告をしておこう」 「よろしく頼むぜ」 「時に、お前たちは結局、魔人に挑むことに決めたのか?」 「ああ」 「では、私も知る限りのことを教えておかねばな」  といっても、ギルド長が知ることは、さほど多くはないらしい。実際に戦った者から、魔人の武器は、自在に操る炎と、強力な腕力である、と聞いただけだそうだ。それでも、何も知らないまま挑むよりはいい。 「ああ、そうそう、魔人の見た目だが、先の戦いから帰ってきた者たちの話によれば……」」  ギルド長は意味深に言葉を区切る。ごくり、と喉を鳴らす音が大きく響きかねない緊張が、あたりを支配した。  しかし、ギルド長からの情報は、その緊張を盛大に打ち壊すものだったのだ。 「総合すると……なんとも言いがたいが、黒髪、オカッパ、角、だそうだ」 「黒髪、オカッパ、角?」  思わず復唱してしまう。  各々、その三点セットから好き勝手な想像を繰り広げる。互いの頭の中の映像を見せあえるわけではないのだが、きれいに共通しているのは、とても『恐るべき魔物』とは思えない姿。どちらかというなら「魔物というより樹海の先住民族かもしれない」という先入観に寄ってしまっているところがある。 「なんだか、戦う気が失せる感じね」  オルセルタが肩をすくめると、「まったくだ」とギルド長も笑う。しかし、ギルド長は、おそらく、あくまでも倒すべき魔物として、相手を考えているだろう。その頭の中でどのような姿の魔物が組み上がっているのか、見てみたいぐらいだ。 「なんにせよ、気を付けることだ。あの『エスバット』が警戒する輩が、楽に勝てる相手であるはずがないのだからな」  そんなギルド長の言葉で、炎の魔人に関する話はひとまず締めくくられた。  その後、冒険者ギルドを辞するまで時間がかかったのは、件の赤毛のレンジャーの遺品をイースラントに送る手続きのためだった。  世界の各地にある冒険者ギルドの役割の一つに、在住の冒険者の下に送られてきた郵便物の統括業務がある。冒険者は住所不定のため、滞在先(だった)宿に郵便が届いたときには既に出立しているということもままある。郵便を受け取った宿が送り返す手間も馬鹿にならない。そのような理由で、冒険者への郵便物は、滞在している可能性が高い拠点の冒険者ギルド統轄本部に送られることが常であった。その拠点にいればよし、いなければ、旅立った冒険者達の次の目的地と思われる場所の冒険者ギルドに送られるか、差出人に送り返されるかだ。冒険者ギルドのない場所では、とりあえず、その場所の長に、事情を記した手紙と共に託されるが、嫌がられることも多い。  ハイ・ラガードに集う冒険者達は、長期滞在前提の者が多いのだが、郵便に関しては慣習的に冒険者ギルドに任されることとなっていた。  以上は、冒険者が受け取る場合の話だ。冒険者が一般の住所に出す場合は当てはまらない。だが、冒険者ギルドでは、どうせ受け取っているのだからついでに、ということなのか、出す方についても代行することがままあった。特に宛先が遠方、かつ、小さな街や村の場合、一通だけで普通に送ると紛失の確率もそこそこあるので、宛先に最も近いギルドにまとめて送付し、そこから地元の一般の郵便制度に任せることで、事故を極力防ぐ狙いがあった。  なお、『ウルスラグナ』のように確固たる拠点を得ている場合は、そちらに直に送ってもらうことも多い。例えばパラスは、手紙をやり取りしているはとこに、私塾の住所を教えている。この場合はギルド経由の郵便ではなく、一般の郵便を使用している。エトリア−ハイ・ラガードという、比較的近距離、かつ、ある程度の規模がある拠点同士を行き来するものなので、事故の確率は低い。 「イースラントに冒険者ギルドがあるか、私は聞き及んでおらんのだが」  遺品である小さなピアスを布でくるみ、それを包んだ羊皮紙に宛先を記しながら、ギルド長は口を開いた。 「どっちにしろイースラントへの手紙など、ここらでは見ないからな。『共和国』の冒険者ギルドに一旦託した方が確実だろう」 「確実にしても、一年以上掛かるのね」  たはー、と嘆息しつつオルセルタが天を仰いだ。ちなみに、郵便がもっと速かったであろう前時代と比較して嘆息していそうなアベイは、平然としている。後で聞いた話では、キタザキ医師が各地とやり取りする手紙の遅さを充分すぎるほど知っていたので、今更嘆いても仕方がない、とのことであった。 「別料金で速達にすれば、もう少しは早いぞ。高いがな」 「うーん」  少し悩んだが、そこまでするものでもないだろう。  ところで世界は丸い。この時代でも、それは常識であった。それを考えると、大陸東方に広がる海から、船旅で東へと向かった方が、『共和国』に辿り着くのが早いのではないか、という議論もある。しかし海は激しく荒れることもあり、現在の技術では沿岸部を行くのがせいぜい。強大な『王国』ですら東方ルート開拓に成功していない。 「ひょっとしたら、東ルートで『共和国』に向かったら、未知の大陸が見つかるかもな」とアベイは言う。 「根拠は……まぁ、あるんだろうな」 「まぁな。昔はそうだった、ってくらいだけどな」  いつか海を渡り、あるかもしれない未知の大陸を発見する者はいるのだろうか。  それはまさに、神のみぞ知ることだろう。  翌日、天牛ノ二日。  『ウルスラグナ』探索班は、再び十階に足を踏み入れた。  二時間強の時間をかけて、前日に『エスバット』と邂逅した地点に赴くと、果たしてそこには、アーテリンデがひとりで佇んでいた。赤の光景の中に、黒・赤・金を基調とした巫医服をまとった黒髪の少女の姿は、異物であるように見えながら、同時に妙に樹海と調和しているようにも見えた。 「……あら、『ウルスラグナ』のみんなじゃない」  やってきた冒険者達に気が付くと、アーテリンデは小動物のような瞳を輝かせて手を振った。 「アンタひとりか? 爺さんは?」 「爺やは朝ご飯探しに行ってるわ。ちょうどよかった、昨日みたいなことになったら目も当てられないもの」  悪戯っぽい眼差しが、ちらりとレンジャーの青年に向く。しかしナジクは何の感情も表すことはなかった。やれやれ、と言いたげに肩をすくめ、『エスバット』の女性巫医は改めて聖騎士に向き直った。 「その様子だと、大公宮で許可をもらってきたみたいね」 「まぁな。一応、許可証も持ってきたけど、見るか?」 「ああ、いいわいいわ、君たち、そんなつまらない嘘を吐くような人間には見えないもの」  やっと肩の荷が下りたわ、とつぶやきながら、アーテリンデは伸びをした。すらりとした肢体が巫医服の上からでもはっきりとわかる。 「これで当分は、自分たちの探索に専念できるわ」 「あらぁ、あたし達以外の冒険者は素通しなのぉ?」 「まっさか」  マルメリの不満げな言葉――口調と表情はからかい半分に突っ込むようなものだったが――を聞き止めて、アーテリンデは笑いながら手を否定の形に振った。 「君たち、自分たちが結構有能だってわかってる?」 「無能とは、さすがに思っとりゃしませんけどなぁ」  苦笑気味に焔華が返すと、案外に真面目な表情でアーテリンデは口を開いた。 「君たち、他のギルドより群を抜いて速いペースで樹海を踏破してるのよ」 「……そうなのかよ?」  そういえば、とエルナクハは思い出した。四階に足を踏み入れた頃、シトト交易所の娘が、ずいぶん早い、と褒めそやしてくれたのを。他の冒険者達も『ウルスラグナ』をすごいと言っている、という話だったが、お世辞だろ、と、気にも留めていなかった。そもそも自分達は、できる限り慎重に進んでいるつもりだったから。 「まあ、速いだけなら他にもいたんだけど、力量以上に急いじゃって、ね」  例えば昨日キマイラに殺された者達のような。彼らは探索速度を言うなら『ウルスラグナ』と同等、否、もっと速かったかもしれない。けれど結局、その歩みは潰えてしまった。本当に力量不足か、単に運が悪かっただけなのかは、わからないが。 「君たちを通したら、しばらくは、十階に到達できるギルドはなさそうなのよね。だからそれまでは、第三階層の探索に専念するわ」  アーテリンデは天を仰ぐ。紅朱は上空へと伸びるにつれて薄まり、蒼を帯びた白の中に消えていく。その彼方にはどのような階層が広がっているのか、今の『ウルスラグナ』にはわからない。しかし『エスバット』の巫医はすでにその光景を見ているのだ。  彼女の口が、不敵な笑みを浮かべ、宣言を紡いだ。 「空飛ぶ城を見付けて最後に微笑むのが誰か、あたしたちに並ぶ同業者ご一同様に、きっちり教えてあげないとね」  改めて自分たちに向けられた、アーテリンデの、小動物――というより、猛禽の鋭さすら垣間見える表情を見て、『ウルスラグナ』は気が付いた。魔人に挑む許可をもらったとき、大臣の話に矛盾を感じていた。別に大臣が嘘を吐いていると考えたわけではない。ただ、よりによって何故『エスバット』が、後続の冒険者に行く先の危機を告げるという『瑣事』を担当しているのか、と、無意識ながら疑問に思ったのだ、と判った。  最も天に近い冒険者を、大臣が進んでこんな『瑣事』に関わらせるはずがなかろう。おそらく『エスバット』自身が押し通したのだ。  そんなことをした理由は、推測に過ぎないが――ライバルとなりうる輩、つまり今なら『ウルスラグナ』の品定め。  そして『エスバット』は、そんな寄り道をしたところで、現在第三階層で競っているライバルには負けやしない、と思っているのだ。  その後、炎の魔人と戦うまでの『ウルスラグナ』の行動は、後に語られる『ラガードの英雄譚』では、さほど重要視されはしない。  しかし、その種々様々な事柄をくぐり抜けてきた当人達にとっては、命懸けであったり、心安らいだり、樹海の不思議を思い知ったり、と、いずれも大事な体験であった。  例えば、鍛錬を兼ねて第二階層を探索していたときのことだ。  炎の魔人に挑む面子は、次のように予定していた。  パーティの守りを固めるためにエルナクハ。  攻撃力を増すためにティレン。  怪我の治療のためにアベイ。  相手が『炎』なら逆属性の『氷』が有効ではないか、ということでフィプト。  そして、腕力が強いと聞いたことから、呪詛で相手の腕を封じる役を期待された、パラスである。  その五人が十階の方々を探索していたとき、とある行き止まりに突き当たった。 「……エル兄、なんか聞こえる」  不意にティレンが立ち止まって耳をそばだてる。しかし、他の者達には何が何やら、微風が紅葉をかき回していくさざめきしか聞こえない。ナジクならあるいは、ティレンと同じものを聞くことができたかもしれないのだが。 「何が聞こえるの? 教えてティレンくん」 「ぴぃぴい言ってる」  パラスの問いにティレンは素直に答えた。  言われてみれば、さざめきの中にかすかに、ぴぃぴぃという音、というか声が聞こえる気がしなくもない。 「どこからだ?」 「こっち」  ティレンの導きに従って、冒険者達は声の元を探し当てた。  立ち並ぶ木々の一本、ちょうどエルナクハの目線と同じくらいの高さに、大きな虚穴が開いている。さすがにそこまで近付けば、全員がはっきりと、さざめきとは違う、かさかさという音と、声とを、感じることができた。 「鳥の巣、か?」  中を覗くと、薄暗い中に、毛の生えそろっていない鳥の雛が一匹、うずくまって鳴いている。 「はっは、変な姿。コレがデカくなって鳥になるなんて信じらんねぇよな」 「ま、人間も生まれたては変な姿だけどな」  ところで巣の中には雛以外にもひとつの『もの』が転がっていた。何かの種のような物体である。どこかで見た気がする、と小首を傾げた『ウルスラグナ』は、程なくそれが、『三色の木の実』と呼ばれる木の実の中心にある種だと気が付いた。 「コイツ、アレ食うのかな」 「あげてみる?」  とパラスが懐に手をやり、ごそごそと探った挙げ句に何かを引き出してきた。驚くことに、三色の木の実であった。 「おい、よくそんなの持ってたな」 「ほらさっき、採取地ですこし採取したじゃない。そこで見付けたの」 「さっきは、取れたなんて一言も言ってなかったでしたよね?」 「てへ。干してアイツに送ってあげようかなーって」 「横領かい」  とは言うが、深刻に責めるほどのことでもない。エルナクハは木の実を受け取ると、虚穴の中に、ごろん、と転がし入れてやった。  ぴいぴい鳴いていた声が、ぴたりと止まる。文字通り降って湧いたものに雛は戸惑っているようだったが、やがて、ぴぃと鳴くと、木の実をがつがつとつつき始めた。思わぬご馳走を必死に腹に収めようとしているその姿は、どことなく、和むものを感じさせた。 「そういやこいつ、でかくなったら魔物になるのかな」 「どうかなぁ」  アベイの疑問にエルナクハは首を傾げた。第二階層で自分たちを苦しめる鳥形の魔物は、ジャイアントモアか、サクランフクロウという、翼から人間を混乱させる粉を振りまく強敵ぐらいだ。鳥に似ているという意味ではもう一種いるのだが、あれは四つ足なので目の前の雛とは種が違うだろう。  ジャイアントモアだとしたら、地面に巣を作る気がする。  とすると、サクランフクロウの雛かもしれないし、他の無害な鳥類の雛かもしれない。 「魔物の雛だとしたら、将来、この雛も人間に牙を剥くのでしょうかね」 「かもね」  複雑そうな表情でつぶやくフィプトにパラスが同調する。 「となると、ここでエサなんかくれてやんなきゃよかったか? むしろ殺しちまうとか?」  からかうような口調でエルナクハは提起した。  日常の場でもよくある問題だった。たとえば、大きくなったら里を襲うと思われる害獣の子が怪我をしているところに出くわしたら、どうするべきか。将来を考えれば、その場で殺してしまうべきなのだろう。畑を食い荒らす虫の成虫が卵を産まないうちに退治するのと、本質的に何が違う?  だが同時に、何か違うだろそれは、という思いも浮かぶ。  牙を剥かれるのが嫌なら、こちらが連中の縄張りに踏み込まなければいい。その原則をわざわざ崩している自分たちが、まだ何もしていない雛の生殺与奪について言い合うのは愚の骨頂だ。畑を食い荒らす虫の成虫を退治するときとて、わざわざ自分達の畑から離れたところ――自然の領分にまで出張ることはない。  そもそもこいつが魔物の雛と決まったわけでもない。魔物の雛だとしても、必ずしも、大きくなった後に襲ってくるとは限らない。  などと理論立てて考えるまでもなく、感情が「嫌だ」と声を上げる。それは、むしろ自分たちが魔物と生死をかけた戦いを繰り広げる立場だからこそなのかもしれない。まだ何もしていない相手の生命を奪うのは、余程の理由がない限り、ごめん被る、と。 「そういう理由で殺すの、なんか、やだ」  言ってしまえば、ティレンのその一言に集約されるだろう。 「……ね、ね、見てみて。かわいいよ」  なんだかどんよりと曇ってしまった一同の心を、パラスの声が揺さぶった。彼女が指差す方――虚の中を見ると、三色の木の実を腹に納めた雛は、目を閉じ、とろとろと眠りの園に落ち込もうとしているではないか。百考は一見に如かずとでもいうのか、その様を目にした冒険者達の心には、ふんわりと暖かい何かが宿った。 「いいんじゃねえのか、魔物だろうとなんだろうとよ。まぁそりゃ、ここでコイツを殺さなきゃ一万匹の人食いリャマがハイ・ラガードを襲う! ――とか決まってんなら別だがよ」 「……なんでリャマかはわかんないけど、ま、そうですね」  一通りの結論が出たところで、冒険者達はけたたましい鳴き声を耳にした。天を仰ぐと、二羽の鳥が、冒険者達を警戒するように輪を描いて飛んでいるではないか。樹海でよく見かけるが、人間を襲ってくることはない鳥だった。どうやら、雛は魔物の子ではなかったようだ。 「ご両親が帰ってきたみたいねー」 「む、オレらは退散するべきだな」  ギルドマスターの言葉に、全員が同意を示し、足早に巣を離れる。  即座に舞い下り、我が子の無事を確認する、鳥の姿を目に焼き付けて、冒険者達は再び探索に戻ったのである。  奇しくも当日の夜、夜組の探索班も、似たような状況に出くわした。  しかし、彼らの方は、もう少しは深刻だったかもしれない。  彼らの場合は九階を探索していたときのこと。地図を埋めるために未踏の区域に踏み込んだのである。小道の奥を訪れ、そこが行き止まりであることを確認し、メモを取ったその時であった。 「……何だ?」  不意にナジクが耳をそばだてた。しかし、他の者達には何が何やら、微風が紅葉をかき回していくさざめきしか聞こえない。ティレンならあるいは、ナジクと同じものを聞くことができたかもしれないのだが。 「どうした、ジーク」  と問うたアベイは、朝方の探索でも同じようなことがあったなぁ、と思い当たった。  ナジクはしばし頭を廻らせて、何かを探していたようだが、やがて、一本の木の根元を注視した。そこには、苦しげにもがく雛がいるではないか。むくむくとした羽毛に覆われた雛は、必死に喉を上下させている。なにか変なものを飲み込んでしまい、それを吐き出そうとしているのだろうか。このままでは窒息して死んでしまうこと必至である。  ところで雛とはいうが、羽毛がいかにもそのような形をしているところからの判断であり、大きさ自体はかなりのものである。人間の人差し指なら余裕でその口に入りそうだ。そのまま喉の異物を掻き出す助けぐらいはできるだろう。生命の窮状に、アベイは反射的に駆け寄ろうとした――が、目の前に突き出されて進路を塞ぐ腕の前に立ち止まった。 「何するんだ、ジーク?」 「……お前は魔物を助ける気なのか?」  行く手を塞いだ相手――ナジクの言葉に、アベイは声を詰まらせる。  ナジクの言うとおり、目の前にいるのは魔物の雛だった。成鳥とは程遠い愛らしさを感じさせる、繊細な羽毛は、既に親鳥を彷彿とさせる色合いを帯びていたのだ。そして、まだ未発達ではあるが、空を飛ぶ鳥とは思えない、頑健さを感じさせる足……それは、ジャイアントモアの雛に間違いなかった。  親鳥の獰猛さを考えれば、雛とてどのような性質を持っているか、わかったものではない。最悪、助けようとして口に指を突っ込んだ途端に食いちぎられるかもしれない。そうでなくても、魔物の雛を助ける義理があるのだろうか。  理論的に考えればそうなのかもしれない。しかしアベイの脳裏には、昼間経験したことが深く焼き付いていたのだ。  魔物の雛なら、ここで殺す――見捨ててしまうべきか?  そのときもいろいろ考えた。答のない問題なのかもしれない。しかし、人間に当てはめて考えるなら、極端な話、大きくなったら連続殺人犯になるであろう子供が大怪我しているところに出くわしたら、助けるか否か、ということになるのか。この例題の場合は、是、だ。将来がどうであろうと、今その場で傷ついている者を見捨てられないのがメディックだ。  けれど、今の相手は人間ではない。こういう件で、人間か否かで考えを変えるのはどうかと思わなくもないが、言葉を尽くして将来の憂いを払底する、という手段が一切取れないのだ。ゆえに、ここで将来の禍を取り除く選択も、正しいのだろう。だが、 「そういう理由で殺すの、なんか、やだ」  朝方の探索で、ティレンがつぶやいた、そんな言葉を思い出す。  冒険者に、実現するかも判らない将来の不安に乗じて、無体を働く資格があるのだろうか? 「どけよ、ジーク」  アベイは自分の行く手の邪魔をするナジクの腕に手をかけ、退かそうとした。  その手から力が抜けたのは、男性ふたりが膠着している間に、そそくさと雛の下に駆け寄り、飲み込んだ異物を吐き出す手伝いを始めている、女性三人の姿を目の当たりにしたからである。  アベイは無論だが、ナジクも、すぐには状況を飲み込めず、きょとんとしていた。  娘達に代わる代わる指を突っ込まれた雛は、数度喉をしゃくり上げた。そして、ぐえ、という、なんともいえない鳴き声と共に、勢いよく何かを吐き出したではないか。詰まっていた何かは硬いものだったらしく、オルセルタのブーツの先端にぶつかって、こつん、と音を立てた。  雛はというと、しばらくは、ぜいぜいと呼吸を整えていたが、自分の身から生命の危険が去ったことは理解したのだろう――そして驚くことに、危機を脱するのを助けてくれた者に感謝するという心も持ち合わせているようだった。つぶらな瞳を冒険者達に向け、礼を言うかのように、高い声でクェ、と鳴いたのだ。やがて、拙い足取りで歩きだすと、森の奥へと消えていった。  目の前で勝手に展開した成り行きに呆然とする男性陣に、女性陣を代表するかのようにオルセルタが言葉を浴びせた。 「何、言い争ってるのよ。目の前で苦しんでるなら、魔物だろうと助ける。それでいいんじゃないの?」 「だが、あの魔物、大きくなったら人間を――」 「なるかどうかも判らない未来を勝手に決めつけないで!」 「ぐ……」  ナジクは言葉を詰まらせた。確かに未来は判らない。今助けた魔物の雛は、長じても人間を襲わないかもしれない。なにしろ『魔物』と呼ばれる種類の生物は人間に命懸けの戦いを強いてくるが、その種類の全ての個体が人間を襲うと証明されているわけではないのだ。 「はい、今回もぬしさんの負けですし、ナジクどの」  ぽむ、とナジクの肩に手を置いて、焔華がにっこりと笑んだ。 「身勝手な『未来予測』で他者の生命を握りつぶす愚は、ぬしさんが一番知っているはずでしょうえ?」  ナジクは唇を噛みしめた。焔華の言うとおりであった。彼の一族は、戦の当事者である二つの国の、「あの少数民族は敵国に通じるに違いない」という思いこみによって、苦難に晒されたのだ。  レンジャーの青年は首を軽く振って、現状の多数意見を受け容れることにした。口にしたのは別の疑問である。 「……『今回も』というのは、なんだ?」 「そりゃあ、ハディードの件ですし」  うぐ、とナジクは声を詰まらせた。今は私塾の居候である獣の子に出会ったとき、ナジクは今回同様、殺すことを選択したのだった。その選択の理由は今回の件とは違うし、賛同者もいた、という意味では、単純に比べられるものではないが、『殺したくない』という思いに負けたのは同じだ。 「そういやあいつ、何飲み込んでたんだ?」 「硬いもの、だったわね」  アベイの疑問を受けて、オルセルタが自分の足下に転がっている何かを拾い上げた。もしも毒物だったら、吐き出したはいいが、その影響が雛の中にも残っていやしないか、と思ったのだが、オルセルタが差し出してきたものを見て、その心配は払底された。  代わりに、驚愕が一同を支配した。 「これって……」  オルセルタの掌に載る程度の、スリングの弾にするのにちょうどよさそうな大きさの石は、白っぽい石を土台にして、やや角張った印象の別の石が乗っているようなものであった。角張った印象の石は、周囲の光景を吸い取ったような紅の色をまとっていたのである。  ある程度の探索を終えた後、街に戻る。  さほど深刻な疲れはないので、酒場で一杯分の休憩をしてから宿に憩いに行こう、ということになった。 「……お前ら、バカか?」  退屈しのぎにと、夜の探索班一同の話を聞いていた酒場の店主は、やってられないと言いたげに吐き捨てた。表情を加味すれば、本気で馬鹿にしているのではなく、からかいの要素が大半を占めているのが判る。 「魔物っていやぁ、お前らの探索を邪魔する奴らなんだろ? その雛がそのまま死んで、一匹でも邪魔が減れば万々歳だろ。助けたところで見返りがあるわけでもねぇし、デカくなったら恩を忘れて襲ってくるかもしれないんだぜ」 「確かに、そうかもしれないんだけれどね」  オルセルタは琥珀色の麦酒が入ったガラスの杯を手に、やんわりと返した。樹海の中でナジクに対しては怒鳴りつけた彼女だったが、店主を前にそうする気にはなれなかった。冒険者ならぬ者の認識として、もっともなのだし、喧嘩を売るような真似はしたくない。  ただひとつ、反駁するべき点はある。 「まぁ、見返りは、あったわよ。びっくりしたけどね」  ほら、とオルセルタは鉱石を卓の上に転がした。 「その雛が詰まらせてたのが、これなのよ。紅玉の原石みたいだけど、どのくらいの値が付くかは、シトトに持ってってからのお楽しみ、ってところよね」  紅玉とは一般的にルビーのことを指すが、実は必ずしもルビーであるとは限らない。スピネルやガーネットである可能性もあるのだ。どれもよく似た石なので、冒険者達が見分けるのは不可能に近い。採集レンジャーであるゼグタントは、『モース硬度』なる見分け方で、ルビーとそれ以外をより分けることができるのだが、生憎、現在は別のギルドに雇われて樹海の中である。同じくレンジャーであるナジクは、あまり採集作業に明るくないので、宝石の見分けもあまり得意ではなかった。  だが、酒場の親父は、原石を目にして、唖然としているではないか。 「……どうしたの?」 「ち、ちょっと見せてみろ」  親父は『ウルスラグナ』の返事を待たずして紅玉を掴み上げ、いつも携行しているのか、ズボンのポケットから拡大鏡を引き出してくる。それを使って原石を矯めつ眇めつ観察していたが、やがて、感嘆の溜息が漏れた。 「っほぉ……こりゃスゲェ! どの紅玉かはわかんねぇが、目立つ傷もない立派な原石じゃねぇか! 魔物の雛サマサマだな!」  満面の笑みを浮かべ、原石を突き出しながら続ける。 「おい、コイツを俺に任す気はねぇか? 千エン……いや、千五百エン出そう」 「ええっ?」  冒険者達は唖然として親父に注目した。値段自体に不満はない。樹海の紅玉の価値(交易所買取価格)は平均して七十五エン。大きさを加味するにしても、千五百エンは破格である。逆に言えば、大きいとはいえ紅玉にその値段というのが不審なのだ。 「前に話しただろ。公女の誕生祝いに宝石を差し上げたい、って話をさ」 「ええ、ありましたわいね」と焔華が口を挟んだ。 「しやけど、公女様に相応しい宝石なんぞ、こんな正体もわからないもんに頼らなくても、いくらでもあるんじゃないのですかえ?」  なるほど焔華の看破したとおり、公女様に贈る宝石にする魂胆なのだろうが、彼女の言うとおり、出所の確かな宝石はいくらでもあるだろう。しかし親父は首を振る。 「そうもいかないもんでよ。どうせなら景気よく、すげぇ宝石を差し上げたいもんだ、って話なんだが、そうそうあるもんじゃねぇ。樹海なら、ってことで、冒険者に頼って、樹海の中の鉱脈からいいモノを探してもらおうと思ったんだが、芳しくなくてなぁ。もう、普通の――っていうか、もちろん質は最上のモノだがな、それで行くしかないか、って諦めてたとこなんだよ」  ところが、と繋ぎながら、原石を軽く振る。 「ここにどでかい原石がある。俺の見立てじゃ、磨けば光るだろ。ルビーなら御の字なんだが、この大きさで傷がなきゃ、スピネルやガーネットでもすげぇもんだ。職人連中もよろこぶだろうぜ!」  そういうことなら、と冒険者達は原石の譲渡に同意した。もとより千五百エンで買い取ってもらえるなら、ありがたくないはずがない。しかも、それが公女の身を飾るのかもしれないと考えると、なんだか楽しくなってくるではないか。  もちろん樹海であるから、楽しいことばかりでは済まされない。  危うく全滅するところだったことも、またあった。  それは昼組が八階で鍛錬をしていたときのことである。  第二階層の上層には、『森林の覇王』と呼ばれる『敵対者(f.o.e.)』が存在する。人身牛脚のその魔物は、六本の腕で人間のように武具を自在に操っていた。武具自体は斃れた冒険者から奪ったものだろうが、それを扱う知恵があることだけは確かだろう。顔も人間に見えなくもないが、四つ眼と三本角を備えた容(かんばせ)は、やはり異形であった。それでも話が通じる相手なら、見た目が異形であろうと目を瞑(つぶ)れよう。が、もちろん通じない。森の中に伏せ、冒険者達の不意をついてくるのである。  炎の魔人に挑むならこいつに勝てなくてどうする、と、この魔物に挑むことにした。鍛錬の賜物か、順調に相手を弱らせていったのだが、覇王が雷挺をまとった斧を振り下ろした瞬間に戦況は逆転していた。『ウルスラグナ』は、ひとり、またひとりと赤い大地に伏していく。  気が付けば、両の足のみでしっかりと立っているのは、アベイだけであった。  ティレンはうめきながら藻掻くが、それ以上のことはできない。フィプトやパラスは生きているかさえわからない。エルナクハは意識ははっきりしているらしいが、立ち上がって加勢するのは無理な相談のようだった。  アベイの背に嫌な汗が流れ落ちる。  覇王は仕掛けてこない。『ウルスラグナ』の必死の応戦で、相手の体力も極限まで削られている。最後に残った輩は何をやってくるのか、と警戒しているのだろう。 「ユー……スケ……!」  エルナクハが、どうにか声を振り絞って、言葉を発した。 「オマエだけでも……逃げろ……オルタを……みんなを頼む……」  気持ちは分かるのだが、アベイは苦笑した。アベイの体力は、後衛で守られていたことも手伝って、現時点では問題ないのだが、覇王の繰り出す武具に掛かれば、一撃耐えられれば御の字だろう。逃げることに失敗すれば、その時点で運命は決する。かといって、逃げなくても結末は同じだ。  後は、ないのだ。  アベイは杖を握りしめた。  自分にはまともな攻撃手段はない。護身用の杖術を学びはしたが、あくまでも『外』で人間や危険な生物に相対するためのもの、樹海の魔物に通用するほどのものではない。  だが――どうせ後はないのだ!  雄叫びを上げながら突進を始めたメディックに、エルナクハは仰天した。 「……バカっ!!」  しかし仰天したのは覇王も同じようであった。そうでなくては、続く展開はあり得なかっただろう。  窮鼠が猫を噛むような突撃を目の当たりにして、呆気にとられた覇王に隙ができた。アベイはその隙を逃さず――いや、本人には隙を逃さないという認識すらなかっただろう――杖を振り上げ、力の限りに振り下ろす。攻撃をよけるという行動を忘れた覇王の頭蓋を、杖は見事に殴りつけた。  本来の覇王にとっては軽い脳震盪程度で済む攻撃だっただろうが、ここで運が『ウルスラグナ』に味方した。脳を揺さぶられてよろめいた覇王は、それまでに受けた傷のために、踏ん張りきることができずに横転したのだ。そして覇王にとっては不運なことに、頭を強く地面に打ち付けてしまい、そのまま動かなくなってしまった。 「……あー……」  呆然としたのは、一連の事象のきっかけを作ったアベイであった。半ばやけっぱちの一撃が、運の手伝いもあったとはいえ、強敵を斃し、仲間の危機を救ったのである。それを喜ぶべきだっただろう。誇っても罰は当たらなかったに違いない。しかし、自分でも思いもしなかった結果に、思わず妙な言葉が口を突いて出た。 「俺、殴りメディじゃないのに……」  『殴りメディ』とは、杖術の研鑽の末に前衛の剣士並に強敵と渡り合うことができるようになったメディックの異称である。杖術の修行の分、医術の分野でやや修行が遅れがちになる。幼い頃から病に苦しんでいたアベイとしては、他者がそうなることは称賛に値するが、自分はメディックの本来の役割に注力したい、と願っていたため、護身以上の杖術に手を染めることはなかったのだが。  いやはや、数千年前に鬼籍に入ったはずの彼の両親は、息子の将来を色々夢見ていただろう。が、樹海の中で異形の者相手に杖で殴りかかり、あまつさえ勝利しているいう未来図は、さすがに思いつかなかったに違いない。 「……っと、そんな場合じゃなかった」  背後には要救護者が多数。メディックの役割は終わらない。アベイは敵がもう動かないことを確認すると、医療鞄を担ぎ直し、急いで救護に取りかかるのであった。  なお、この時の経験が、後に『ウルスラグナ』の窮地を救う礎となるのだが、それは、ほんの少し先の話である。  あわや全滅の危機、となると、この一度だけであったが、苦戦はいくらでもある。  『敵対者(f.o.e.)』のような相手なら、気配を察知して避ける、縄張りを覚えておいて近づかない、という手段も取れるのだが、普遍的に遭遇する雑魚相手では、そうもいかない。そして、雑魚といわれる連中の中にも危険な相手は山ほどいるのだった。  現状で最大の強敵は、サウロポセイドンと呼ばれる巨大な首長爬虫類であった。大公宮で閲覧した資料の中で、男の子達の心をがっしりと掴んだ『竜』だ。だが、敵としてみれば非常に危険な相手で、特に、その巨体からは想像もできない、疾風のような疾駆は、冒険者達を撹乱し、押し倒し、踏みつぶすのである。  ここで問題となるのはパラスだった。他の冒険者達は、押し潰されても耐え切れた。しかし、少女であるカースメーカーは、巨獣の一撃を受けて立ち続けられるほどに強靱ではなかった。ゆえに、疾風どころか暴風といっていい攻撃が過ぎ去った後、パラスは必ず土を喰み、アベイの治療を待つしかなかったのだった。  そんな状況は、本来負けず嫌いな彼女には精神的にも耐えきれなかった。やはり負けず嫌いゆえに、仲間には悟られないように我慢していたのだが、いつか決壊の時は来る。何度目かの巨獣との戦いの後、パラスがアベイの手当を受けながらすすり泣くのを、仲間達は見た。  その様は、仲間達に少なからぬ衝撃を与えた。人前でパラスが泣くのを見るのは初めてだったのだ。それだけ、カースメーカーの少女にとっては、現状は耐えられないものなのか。  エルナクハは、治療を受けるパラスに歩み寄り、かがんで目線の高さを合わせた。そして問う。 「辛ぇか、パラス。辛かったら、やめるか?」  何を、とは言わなかったが、パラスは正確に把握したようだった。 「いや」  悔しげに表情を歪めながら、それでも、きっぱりと否定した。 「辛いのは、サウロに蹴散らされることじゃないの」 「そっちじゃねぇって、じゃあ……?」 「みんなの足を引っ張ってるみたいなのが、辛いの」  その言葉に、エルナクハのみならず、誰も言葉を返すことはできなかった。  足を引っ張る、といえば、そうかもしれない。倒れるということは、戦闘の手数が一人分減るだけのことではない。アベイにしろ他の面子にしろ、倒れた者を立ち直らせようとする誰かの手数すら減らすことになる。が、それはパラスに限ったことではない。誰も、この樹海では倒れないという保証はない。だから、パラスに手が掛かることを忌々しく思う者はいない。明日は我が身ということ以前に、そういう面倒を掛け合い受け入れるのが仲間ではないか。  しかしパラスの気持ちも痛いほどに分かる。自分だって仮に戦闘ごとに倒れているような状況(正確には、サウロポセイドンと毎回出くわすわけではないから、『戦闘ごと』ではないが)になれば、同じように思うかもしれない。だから、軽々しく「問題ない」とも「まったくだ」とも言えなかった。  皆が言葉に詰まってる中、不意にパラスは顔を上げ、仲間達を見回して口を開けた。 「ね、お願いがあるの。聞いてもらってもいい?」 「おう、何だ?」  皆を代表してエルナクハは問う。  パラスははにかむような笑いを浮かべ、願いとやらを口にした。 「炎の魔人、倒したらさ、アイツへの手紙に、こう書いてもいい? 『私がいたからこそ、炎の魔人に勝てたんだよ。どう? 私だってハイ・ラガードで頑張ってるんだよ』って」  仲間達は苦笑した。苦笑というが、呆れたとか馬鹿にしたとかいう感情が湧き上がったわけではない。なんとも微笑ましいではないか、この娘は。他者を呪い、時には死に至らしめる、忌まわしい力の持ち主とは思えない――というのは、いつものことだけれど。  互いに目線を合わせて意見を合わせるまでもなかった。エルナクハは、黒い肌の中に目立つ白い歯を剥き出して笑みを見せると、 「いいんじゃねぇか?」と頷いた。  ぱあっ、と、カースメーカーの少女の表情に光が差す。 「ほんと?」 「ホントも何も、こんなことに二言はねぇよ」 「やった!」  パラスは小さくガッツポーズを取った。治療中のアベイが「おい、こら、動くな」とたしなめるのも気にせず、エルナクハの方に身を乗り出すようにして言い募った。 「約束だよ? 絶対に書いちゃうからね? 土壇場で決戦メンバーからポイってのはナシだよ? そのかわり、私ももっと頑張るよ!」 「それはこっちのセリフだ。行けそうになかったらポイだからな」 「うう……。ポイできないように、力見せつけてやるんだからっ!」  行けそうになかったらポイ、というのは、つい今し方交わした約束からすれば、話が違う、ということになりかねないが、ことは生命に関わること。パラスは呪縛系呪術の腕を見込まれて、決戦メンバーとなっているが、それが戦いに相応しくなさそうだということになれば、他の誰かと交代になるのは当然の話。もちろん、パラス本人も、その件に関しては、口にした言葉とは裏腹に了承済みだ。  なんであれ、すっかり元気になったパラスを見て、エルナクハは心の裡で安堵の息を吐いたのだった。  そうして、種々様々な経験を積んだ末、天牛ノ月十日。  『ウルスラグナ』は、ついに、現時点の目標と遭遇したのである。  鍛錬も兼ねて慎重に樹海地図を埋めていき、十階は南西部が残るのみとなった頃。  探索の途中、目の前に現れた『それ』を見て、冒険者達は、ほっと安堵の息を吐いた。  磁軸の柱である。  エトリアにあったような、体力と気力を癒す泉がない、ハイ・ラガード迷宮では、迷宮内の足がかりとなるこの桂の存在が重要であった。  それにしても、樹海磁軸にしろ、磁軸の桂にしろ、何のために用意されたものなのだろうか。エトリアでは、ウィズルが探索者の便宜を図るべく用意したという話たった。それは嘘ではあるまい。少なくとも『世界樹の王』ではなく『エトリアの長』ならは、用意する理由にも頷ける。  では、ハイ・ラガードは? 自分達の思考の及ぶ範囲で考えるなら、ハイ・ラガードの祖先が用意したのだろう。だが、ここで疑問が生じる。『世界樹を伝って降りてきた』父祖は、そうやって『世界樹の中に戻れる手段』を講じておいて、なぜ、世界樹の正式な入口(と思われる箇所)を封じ、戻る手段を書き残さなかったのだろうか。エトリアのことも参考にして考えれば、樹海磁軸も、磁軸の柱も、さらに上の階にもあるだろう。いつか子孫が天空の城を目指すならば、そうしておけば楽だっただろうに。  逆に言えば、自分達は世界樹の中や天空の城に戻る気もあったが、子孫達には世界樹も、天空の城も、触れさせたくなかったのか。  とすると、封じたはずの入口が、今になって開いたのは何故だ? 『中』に触れさせたくないなら、後の世に開くような構造にする必要などないはずなのに。  ――否、パラスのはとこ、エトリアの正聖騎士の仮説では、『ウルスラグナ』の樹海踏破がハイ・ラガード樹海に何かしらの影響を与えたのではないか、ということだったそうだ。つまり樹海自体が道を開いたというわけだ。エトリアに、フォレスト・セルという、人間とは異質ながら意志を持つ者がいたなら、ハイ・ラガードにも同じような存在がいる可能性が高い、とは、何度も考えたことだ。その存在は、人間が造った機構に少しだけ手を出して動かすことなど、やろうと思えば容易いだろう。だが、その説では、ハイ・ラガード樹海が人間に踏み込まれるのを恐れているとしたときの説明が付かない。わざわざ開ける必要はないわけだ。で、仮に樹海自身が開けたのだとすれば、その理由が不明だ。  いや、話はもっと単純で、『世界樹計画』の目的たる『環境浄化』が成ったときに開くようになっていただけなのかもしれない。そのときには、天空の城に残り、環境の浄化を待っていた前時代人(の子孫)を、地に降りた者達(の子孫)が迎えに行く計画だったのかもしれない。そして、その計画書は長い年月の間に言語の変遷の関係で読めなくなり、大公宮が解読しようとしている書物に紛れているだけなのかもしれない。  そんなことを考えていたフィプトだが、不意に『いいこと』を思いついた。 「アベイ君なら、大公宮の古文書も読めるんじゃないですかね?」 「あー、たぶんだめ」とアベイは首を振った。 「もし古文書の言葉が遺都の言葉と同じだったとしても、五十の表音文字とその異字体と、二千字以上の象形文字を読めなきゃ無理」 「……無理、っぽいですね」 「俺、表音文字はなんとか読めるけど、象形文字の方はちょっとしか無理。遺都に落ちてたメモだって、全部は読めなかったんだぜ」  奇跡にすがるようなフィプトの望みを、アベイは苦笑いしつつ切り捨てた。  ともあれ、樹海の真実は未だ謎のままであるところが多いということだ。が、謎のままであっても、便利に使う分には何の問題もない。冒険者達は、磁軸の柱を起動させて、一度街に戻った。  私塾に戻ったのは昼近くである。年少の子供達に教えを示しているセンノルレの澄んだ声が、窓越しに聞こえてきていた。入口の方に視線を向けると、鎖に繋がれたハディードに、ティレンがブラッシングをしてやっているところが目に入った。今回は、炎の魔人に対抗するメンバーのうち、ティレンをナジクと入れ替えていたのである。  声をかけると、ティレンはいつも通り、「ん」と短く応える。ハディードは嬉しげに振っていた尾を一瞬ぴたりと止め、警戒しているような雰囲気を漂わせたが、やがて、ほんの少しだけ尾を振り、うぉん、と鳴く。 「ちったぁ慣れてきたってことかな?」  ちょっとは、というが、一月前からは大きな進歩である。満足げにつぶやくエルナクハは、パラスが身を翻したのに気が付いて、その姿を目線で追った。ここ数日、カースメーカーの少女は、樹海から帰還するたびに、同じような行動をしている。彼女が向かったのは、私塾の外門に取り付けてある郵便受けであった。中を見たパラスは、目に見えて肩を落とす。これも、ここ数日、同じであった。 「まだ無理だろ?」と、からかうようにアベイが口を出した。  言うまでもなく、彼女はエトリアにいるはとこからの返事を待っているのだ。  アベイの言いように、パラスは、ぷんすか、という擬態語が非常に似合うような表情を浮かべて反駁した。 「速達だったら、今日当たり届いててもおかしくないよっ!」 「アイツは速達で出さなかったんだろ」とは、けたけた笑いながらエルナクハが割り込んだ言葉である。  それに、エトリアの聖騎士から来た最後の手紙には、こう記してあった――執政院の若長オレルスに呪詛がかけられた、と。対策そのものは、パラスの母親でもあるカースメーカーを招聘することで、どうにかしようとしていたようだが、対策の実行、あるいは後始末で、時間を取られて、手紙を書くどころではないのかもしれない。  そう思っていたのだが、私塾の中に足を踏み入れると、出迎えたオルセルタが、こんなことを言ったりする。 「おかえりなさい、みんな。郵便来てるわよ」  ぱっとパラスの顔が輝いたのを見て、オルセルタは、しまった、というような苦笑いを浮かべる。 「ああ、パラスちゃん宛じゃないの。フィー兄さん宛に、えーと、『アルケミスト・ギルド』ってところからの郵便」 「ギルドから!?」  今度はフィプトの顔が、ぱっと輝いた。  フィプト(とセンノルレ)が学んでいたアルケミスト・ギルドは『共和国』にあり、ハイ・ラガードから赴くとすれば、馬車で一年近く掛かる。郵便に関しても、人間が行くよりは短縮されるかもしれないが、おおむね同じ程度。速達であればもっと速いが、最速でも半年以上掛かることはざらである。  人間達は、この距離をどうにか縮めようと躍起になっているが、形のない『情報』ならともかく、実体のある荷を運ぶ必要があるとなれば、どうしても郵便以外に頼れるものはない。  オルセルタが差し出したのは、機密の印がある小包だったのである。『取り扱い注意』と刻印された封蝋が表面に目立つ。そういったものを扱うには、やはり人間の手が一番だろう。 「郵便屋さんを疑うわけじゃありゃしませんけど」と焔華が疑問を呈したものだ。「もしも、郵便屋さんが手紙を開けて機密を知ってしまったら、どうするんですえ?」 「大丈夫ですよ」とフィプトは心配のかけらすら見られない表情で返した。「仕掛けがしてありましてね、迂闊に封を開けたり破ったりしたら……」  掌側を上にした、閉じた片手を、わずかに上げながら開く。「ぼん」 「爆発っ!?」 「冗談です。爆発はしませんよ。でも、燃えるのは確かです。無事に開けるには、所定の手順が必要でしてね」  空でも歩いてしまいそうに気分が高揚したフィプトは、オルセルタから手紙を受け取って、いそいそと自室に戻っていった。  がっかりと肩を落とすパラスの肩を、アペイが慰めるように叩く。 「ま、落ち込むなって。『便りがないのがいい便り』って言うしさ」 「……そだね」  パラスは気を取り直すと、にっこりと笑んだ。  本当なら、樹海での疲れを癒すために、フロースの宿にお邪魔する予定だったのだが、そろそろ昼餉(げ)時なので、先に軽く腹を満たすことにする。  フィプトを除く探索班一同が『応接室』でだらだらと時を過ごしていると、やがて、階下の教室から「本日はここまで」という、センノルレの授業の締めの言葉が聞こえてきた。続いて、子供達の、わっ、という喜びの声が大気を満たす。勉強好きか否かにかかわらず、長い授業から解放された喜びに違いはないだろう。  かすかに漂ってくる、昼ご飯の匂いが、鼻腔をくすぐる。今日の昼ご飯担当はオルセルタとマルメリだったはずだ。『ウルスラグナ』には、食べれないような料理を作る者はいないが(驚くかもしれないが、ティレンですら、簡単な料理を作れるのである)、男性陣はよくも悪くも大雑把になりがちなのに比べ、女性陣のメニューは多彩であった。不満といえば、焔華が作るとちょっと薄味でもの足りないか、という程度である。  そうして、食事の用意が終わり、毎度のごとく他のギルドからの依頼で出掛けているゼグタントを除いた皆で、昼食が始まった。  話題は、当然ながら、行く先に待ちかまえているはずの炎の魔人のことになる。 「また夜に戦うことになっちゃったな」  とアベイが苦笑気味にぼやくが、夜だからとて、照明の準備があれば、さほどの問題にならない。  である以上、戦いを翌日に延ばすのもどうかと思われた。今のところ、『ウルスラグナ』のすぐ後方に続くようなギルドはないようだから、手柄を取られる云々という話ではない。何となく、先延ばしすると気持ちがだれるように思ったのである。  今にして思えば、磁軸の柱を発見してすぐに帰ってくるのではなく、相手の姿を一目でも見てからにした方がよかったのかもしれない。ある程度の情報は大公宮や冒険者ギルドから与えられているが、それ以外の情報もまた、姿を見ることで把握でき、それを昼食中の話題として俎(そ)上に乗せて論議できたかもしれない。しかし、そこまで相手の姿をはっきりと見られる距離は、すなわち相手の攻撃圏内ということもまた多い。戦闘になれば、長い探索で消耗していた探索班が生きて戻ってこられる可能性は低かっただろう。あれもこれも今すぐと欲張れば、全てを失いかねないのである。その時の判断が最善だったと思うしかない。  ところで、第一階層のキマイラに挑む前には、待ち受ける戦に対する緊張感から、却って日常の話ばかりが飛び交ったものだが、ハイ・ラガードの探索にも慣れ、エトリア樹海で培った勘も徐々に戻りつつある今、わずかなりとも心に余裕ができてきているのだろう。 「とにかく、相手が炎を操るなら、氷属性で攻めるのがいいと思ったんだけど……」  そう切り出したオルセルタの表情は暗い。どうした、と、エルナクハは妹に目線で問う。  ダークハンターの少女は、言いにくそうにしていたが、覚悟を決めたように口を開いた。 「シトトのお店で売ってた、オイルとか起動符とか、あるでしょ? 午前中のうちに買っておこうって思ったんだけど……氷の、売り切れてたのよ」 「なに!?」  エルナクハは思わず身を乗り出した。  オイルとは、武器に塗布することで属性を纏わせる油、起動符とは、三色の木の実を利用して作成した紙状の道具である。  オイルはエトリアでもお馴染みだったのだが、材料から精製できる量がかなり少ないらしく、冒険者の間でひっぱりだこであった。起動符はハイ・ラガードで初めて見るものだったが、錬金術の触媒を、三色の木の実をすりつぶしたものに混ぜて紙に漉きこんだものらしい。こちらも、一枚完成させるのに多大な材料と労力がいるらしく、出回る数は極めて少なかった。 「雷のも売り切れ。炎のは残ってるんだけどね……」 「オレらへのイヤガラセだったりなぁ」  けたけたと笑いながらエルナクハは言い放つが、無論冗談で言っている。  事実としては、ここ最近、他の冒険者達が、例の『カボチャおばけ』――『三頭飛南瓜』という正式名称が付いた――に対抗するために買っていくためだ。  『ウルスラグナ』が、飛南瓜に少しだけちょっかいを出したとき、ただの武器の攻撃は通用せず、氷か雷の属性を帯びた一撃でないと、ほとんど傷つけられない、という特長を知った。それを大公宮の記録から知った、何組ものギルドが、かの魔物に挑もうとしているらしい。結果、買い占めたオイルや起動符を抱えたまま樹海の土になる者がほとんどらしいが。  ちょっとした弱点を知って勝算を感じ取ったのかもしれないが、飛南瓜達のそれは『弱点』ではなく『それしか効かない』と言った方が正しい。まったく机上の情報だけで先走るなよ、と言いたいところだが、現時点でそうなってしまったものは仕方がない。現実問題として、炎の魔人に対抗する際に有利になりそうな道具はない。樹海の宝箱から回収した、氷術の起動符が、一枚手元にあるが、それだけである。 「おれ、追撃(チェイス)、勉強すればよかったかな」  しゅんとした表情でティレンがつぶやいた。  仲間が放つ属性攻撃の余波を自らの武具に纏わせ増幅し、敵を殲滅する、『追撃(チェイス)』と呼ばれる剣技がある。ただし、あくまでも『剣技』だ。ライバルギルド『エリクシール』のソードマンが得意としていたが、斧使いであるティレンの技ではない。なにしろ、 「斧で追撃(チェイス)は辛くないのぉ?」  マルメリが心配げに問いかけるとおり、ティレンの戦い方は、『斧の重みで叩き切る』ものだ。大気に満ちる力(エネルギー)の余波の中を身軽に舞い、武器に巻き取って敵に叩きつけるような戦法が合うようには見えない。 「がんばる」と、真剣な目でティレンは皆を見渡した。  無茶な、と言いたいところだが、剣使いも斧使いも同じソードマンである以上、努力次第で何とかなりそうな気もする。しかし、現実的に、一朝一夕で習得できるとも思えない。 「いや、オマエはオマエの得意な道を行けや」  エルナクハはそう言い切ることで、追撃(チェイス)に頼る道を断った。  では、やはり、フリーズオイルや氷術の起動符が再び店に並ぶのを待つか?  ゼグタントがこの場にいればなぁ、と考えた。彼が素材を揃えれば、大量にとはいかずとも、炎の魔人との一戦で必要な程度の数は用意できるだろう。  フリーランスのレンジャーがいつ戻るかは判らない。もちろん今日中には戻るだろうが、それを待ってから決戦に望むべきだろうか。  ――否。  エルナクハは心の中で頭を振った。何かが足りない、というのは、今までもあり、これからもあるだろうことだ。『今』ならば待つこともできるが、いつも『待つ』選択肢があるとは限らない。なれば今は打って出るべきだろう。もちろん、この選択は、『足りない』のが氷属性の攻撃手段――戦いを有利にする手段にすぎないからこそだ。決戦に挑む仲間達の実力(もちろん自分も含めて)が足りないと思えば、容赦なく延期しただろう。実力自体がなければ、氷属性のなにがしかを用意したところで、敗北の可能性も高いのだから。  そういったことを簡単に説明し、ギルドマスターは声を張り上げ、宣する。 「今晩行こうぜ。角、黒髪、オカッパの魔人さんのツラぁ拝みによ」  応、と、討伐班も、留守番になる者達も、気炎を上げた。 「ところでセンセイ、さっきのはなんだ?」  方針が固まったところで、エルナクハは気になったことを義弟に問いかける。  もちろん、フィプトがアルケミスト・ギルドから受け取ったという包みのことである。といっても、単なる好奇心以上の何物でもない。アルケミストだけの秘事だというなら、話を打ち切るつもりだった。  が、フィプトは拒否する気配もなく、何かを卓上に出す。もともと話すつもりでいたらしい。 「ちょうどいいところでした。仲間であるみなさんにも話しておかなくてはならないことでして」 「そうなのか?」  エルナクハは目線を妻に向けた。センノルレがこくりと頷くその表情をしかと見て、話の内容が、仲間に語ってもいいこと、しかし案外と真剣な内容であることを感じる。  卓上に置かれたものは、問題の小包だった。迂闊に開けたら燃えるという包み紙が取り去られていたため、すぐにはそれと判らなかったのである。  金髪のアルケミストは包みを開けて、中から何かを取り出した。  封をされたガラス管の中に、石のようなものが収まっている。見た限りでは何の変哲もなさそうな石だったが、フィプトはそれを一同にかざして見せつつ、口を開いた。 「……一月前、キマイラの住処に向かう時にした話、覚えてますか?」  フィプト自身とセンノルレを除き、覚えがない、という顔を一同はした。樹海の中では様々な無駄話をするものだから。そして、キマイラの住処に向かった時の話であるなら、その時にいた五人――フィプトを除けば四人にしか判りようがない。エルナクハはそのひとりだったはずだが、どうにも思い出せなかった。 「アルケミスト・ギルドの毒使い達が、凄まじい力を秘めた『毒石』を発見した、って話ですよ」  今度こそ、その時に話を聞いた四人は思い出した。詳細を思い出そうとするより早く、アベイが勢いよく身を乗り出し、その話をしたときのような険しい表情で声を震わせる。 「その石、まさか……」 「安心してください。違います」  フィプトは頭を振った。その時になってやっと、他の三人――エルナクハ、オルセルタ、ティレン――も話の内容を思い出した。アルケミスト・ギルドに発見された『毒石』は、前時代の技術が再現されれば、一瞬で数十万の人間と無数の生命を滅ぼす魔王に化けるものだという。そのような技術のない現代でさえ、石は近づいた者を無惨な死に至らしめたらしい。未知を探るためなら生命すら俎(そ)上に載せるアルケミストすら、この事実には鼻白み、毒石は封印されたはずだったのだが。 「この石は毒石じゃなくて、別の鉱石です」  だとすれば、毒石の話を掘り返したのは、何故なのか。  訳がわからない、といった表情の、残りの面子にも、毒石の件を簡単に説明し、彼らが鼻白んだところで、話を続けた。 「ここにある鉱石は、毒石の件が片付いた後に発見されたものだという話です」  以下は、フィプトが、鉱石と共に送られてきた手紙の内容を、かいつまんで説明したものである。  件の毒石に関しては、関わった者の多くが死に、関係者を運び出し治療しただけのメディック達でさえも、毒に侵され今なお苦しんでいるというが、その間に行われたわずかな研究の末に結論づけられたことは、『リスクが大きすぎる』ということであった。  毒石の採掘場はギルド監視下で永遠に封じられ、大幅に数を減じた毒の研究家、黒化(ニグレド)達は、以前よりウェストアカデメイア――大陸西方の医療研究機関――に譲渡するつもりでいた毒研究の資料を、予定より早く引き渡し、解散して他の属性研究室に組み込まれた――その予定だった。  別の場所から、謎の鉱石が発見されなければ。  まさかまた毒石か、と騒然となったが、発見当初から周辺に鳥の声ひとつしなかった、毒石の採掘場とは違い(思えばその異様さに対する不安感を無視しなければ、被害者は出なかっただろうが)、今回は獣達も平然と草を食んでいる場所での発見であった。少なくとも、すぐにどうにかなる類の害はなさそうだった。そして、事実、新たに見つかった鉱石には毒性はなかったのであった。  今現在手すきである毒使い(ニグレド)達が携わった研究から、その鉱石が、毒石に期待されていたものと同程度の力を秘めている可能性が呈示され、証明された。ある特定の性質を持った触媒と反応させると、莫大なエネルギーを放出するらしい。 「現段階では『破壊』にしか使えないものですが」とフィプトは鉱石の入ったガラス管をかざしながら話を締めた。「『敵』と戦うにはおあつらえ向きだろうから、近隣のアルケミスト達にも協力を仰いで、少し実戦で使ってみてもらえないか、と、いう話です」 「せんせいが冒険で使え、っていうんじゃないの?」 「ああ、小生はついこの間冒険者になったばかりですからね」  ティレンの問いに、フィプトは、そういえば、と言わんばかりに苦笑いをした。 「まだ、向こうには、小生が冒険者をしているなどとは伝わっていないはずです」 「それで、ソイツを、炎の魔人との戦いで使いたいってのか?」  エルナクハは慎重に言葉を選んで発した。アルケミストが実験を兼ねて戦いを行うことを全否定するつもりはない。しかし、鉱石に対して、不信感がある――心情を正直にさらけ出せば、『怖い』のだ。毒はないかもしれないが、力そのものは、下手をすれば破壊の魔王に化けそうな毒石と、同等程度にあるという話ではないか。フィプトとて、個人としてはそれを危惧しているから、始めに毒石の話を蒸し返したりしたのだろう。  他の皆も同じように思っていたのか、心なしか顔色が悪い。  だが、フィプトは皆の予想に反して、首を横に振ったのである。 「いえ、小生は、まだ、この力を使いたくないと思っています」 「なに……?」  不審げな声音とは裏腹に、心の奥底で安堵した。周囲からも、かすかに溜息を吐く音が聞こえる。 「どうしてだ?」 「皆だって、うすうすは感じているでしょう?」  薄ら寒げに笑い、フィプトは話を続けた。 「毒の心配はないにしても、威力は絶大、手紙にも、反応量には気を付けるようにと、しつこいくらいに書かれてました。……うっかりした研究員が、ギルドの西塔を全壊させる程の爆発を起こした、とか」  もはや笑うしかない。引きつった表情の仲間達を見回して、しかし、フィプトは首を振った。 「ただ、逆に言えば、きちんと制御できればいいということです。いつも使っている氷や雷、もちろん炎だって、制御できなければ大破壊を起こすのは同じですから」  フイプトはガラス管を卓上に立て、上端を人差し指で支えてもてあそぶ。専門家がそんな扱いをしているのだから、現段階では不活性なのだろうが、頭では判っていても心は気が気でならない。冒険者達ははらはらしながらガラス管の動きを追った。 「だから、炎の魔人を倒したら――北に馬で半日ほど行ったところに、この街のアルケミスト達が共同管理する実験場があるんですけど、しばらくはそこで研究しようかと思ってます――あ」  最後の短い叫びは、ガラス管をうっかり倒してしまったからである。誰かが、ひ、と短く叫んだような気がしたが、ガラス管は卓上に転がっただけで、割れてもいない。もちろん爆発を起こす気配もなかった。  フィプトはガラス管を回収して握り込むと、皆を安心させるように笑んだ。 「まさかここで実験して、万が一にも皆さんや子供達を巻き込むわけにはいきませんしね」 「そ、そっか」  エルナクハは気を取り直した。というより、誰よりも早く気を取り直さざるを得なかった。恐ろしい力だが、怯えてばかりでは恐怖に飲み込まれるだけだ。少なくとも自分は毅然としていないと仲間達に合わせる顔がない。エトリアで竜に相対峙した頃のような勇気を奮い起こし、聖騎士の青年は鷹揚に笑みを浮かべた。 「まあ、強力な戦力が増えるのはありがてぇとこだな。オレらが巻き込まれなきゃ、だけど」 「もちろん、そんなことにならないよう、最善を尽くしますよ」 「ノルは、手伝うのか?」  そんなことを聞いてしまったのは、やはり妻たる女性のことが心配だったからかもしれない。 「いいえ、わたくしには生徒への講義がありますから」 「ああ、そうだったな」  その答に安堵を抱いていない、とは言いきれなかった。  例の『けろいん』と記された桶をはじめとする『お風呂セット』を手に、魔人討伐班となる一同は、フロースの宿に向かう。  出迎えた女将が、おや、と声を上げた。 「アンタたち、大丈夫なのかい?」 「何が?」 「何って、探索の話に決まってるじゃないかい。今、十階にいるんだろ?」  自分達がどの階を探索している、程度は、よく世間話に織り込んでいるから、女将が知っているのは不思議ではない。しかし『大丈夫なのか』とは何事だろうか。樹海の危険は言うまでもないことだし。  怪訝そうな表情を返す冒険者達に、女将は真剣そうに言葉を重ねた。 「他の子たちから聞いたんだけどさ、奥に、山のように大きい魔物が待ちかまえてるっていうじゃないか」  炎の魔人のことに間違いないだろう。『ウルスラグナ』一同は真摯に頷く。何かしらの忠告なら神妙に受け入れようと思ったのだ。  しかし、それも女将が次の言葉を発するまでのことだった。 「その子ったらあたしのこと見て、『よく似てるって』言うんだよ。全く失礼な話だよねえ!」  なんだか全てが吹き飛んだ。あらかじめ聞いていた魔人の特長のうち、『オカッパ』『黒髪』はきれいに吹き飛んで、女将に角を付けただけのものが巨大化したような姿が、脳裏に焼き付きそうになる。いくらなんでもそりゃ失礼だ、と、冒険者達は幻影を振り払おうとするのだが、 「アンタたち、ちょっと確かめてきておくれよ、どんないい女かさ。ウフフフフフ!」  女将のその言葉が駄目押しになった。  この場で大声で叫びたいところだったが、それではただの迷惑な人だ。それぞれの心の中だけで思う存分叫んで気合いを入れることで、どうにか幻影が心に焼き付くことは避けられた。それでも、街角からちらちらと恥ずかしげに覗く内気な少女のように、問題の幻影が時折浮かんでくるようになってしまったことは、阻止できなかった。  早いところ炎の魔人の実物を見なければ、この幻影を完全に振り落とすことはできないだろう。 「まぁとにかく、風呂貸してくれや、女将」 「ああそうだね、あいよ!」  奥に通されたところで、ひとり女湯に行くパラスと別れ、残り四人は男湯の広い湯船に身を沈める。じんわりとした湯熱が疲れた身体に染み渡っていった。ところで街の水源は、街の土台のあちこちから湧いている泉からのものらしい。そしてこの風呂の水源はというと、その中でも最下部に位置する広い泉からのものだそうだ。つまりは世界樹の根に近いところから湧いている水なのだが、特別な力があるのかもしれない。  ティレンとフィプトが湯船から上がって身体を洗っている間に、エルナクハは、自分と共に湯船に残っていたアベイに近づき、小声で問うた。 「……どう思う?」 「どうって、何が?」 「センセイの言ってた、鉱石の力の話だよ」 「あ、ああ」  アベイは顔を曇らせた。前時代で引き起こされたという、問題の『毒石』による甚大な被害を思い起こしてだろうか。 「そんなに酷かったのか、その毒石の力は?」  問うべきではなかったかもしれない。否、問うべきだったかもしれないが、その役目は、本来はアルケミスト・ギルドのお歴々が成すべきものだったのかもしれない。しかしこの場にはエルナクハしかいないので、黒肌の聖騎士は、己の好奇心に負けてしまった。  俺にその答を言わせるのか。アベイがそんな表情をした気がした。だが、メディックは、結局は答を口にしたのであった。 「……あのさ、太陽が地上に落ちてきたら、って考えたこと、あるか」 「まぁ、あるっちゃあるけどな……そんなことになったら地上のモノ全部燃えてなくなっちまいそうだ」  余談だが、黒肌の民(バルシリット)の言葉には、燃えつきないで落ちてきて甚大な被害を及ぼす流星を表す言葉として、『戦女神(エルナクハ)の怒りの赤羽』というものがある。直に見たことのない被害だが、伝説を紐解く限り、小国なら簡単に壊滅しそうだった。流れ星ですらそれだ、太陽が落ちてきたと仮定したときの被害は想像にあまりある。 「毒石の力が引き起こしたのは、規模は都市ひとつくらいだけど、それだよ。人間なんか一瞬で燃えつきたらしい」 「げ……」  さすがのエルナクハも絶句するしかなかった。数十万の人間を一瞬で殺戮したというのも誇張には思えない。 「毒石の場合、大変だったのはその後だったらしいけど。爆発と一緒に毒をまき散らしてさ、俺の爺さんが子供くらいのころに、毒の被害にあった人が、俺が子供の頃にまだ苦しんでたくらいだ」 「……今更だがよ、前時代って夢の時代じゃねぇんだな」 「どうだろうなー。何を『夢』とするか次第だし、そもそも俺、前時代には五年しか生きてなかったんだぜ?」 「あ、そうだったな」  少なくとも『夢』だけの時代だったら、あのヴィズルが今まで孤軍奮闘することもなかったに違いない。 「とにかく、フィー兄がちゃんと制御するのを祈るしかないな」 「やめろ、じゃないんだ?」 「アルケミストが『やめろ』って言われて簡単にやめると思うか? 毒石は半端じゃないから別格としてさ」  違いない、と、パラディンとメディックは肩をすくめ合った。 「とにかく、毒がなきゃ、規模のデカい破壊の力ってだけだ。……『だけ』ってのも、変な言い方だけどさ。実際、都市ひとつの破壊が西塔ひとつで済むくらいまでには制御できてたわけだし」 「探索で使えるところまで落とし込めなかったら、使うわけにいかねぇな」 「そりゃそうさ、迷宮ごと破壊しかねない」  ふたりは声を上げて笑った。発作のような、空虚な笑いと言うべきものだったが。 「なに、話してる?」  その時、体を洗い終わったティレンが湯船に入ってきて、小首を傾げながらそう問うてきた。 「魔人を倒した後からも大変だよな、って話だぜ」  そう答えたが、嘘ではない。  ティレンは、そっか、とつぶやいて、言葉をつづけた。話題ががらりと変わることになり、暗鬱なものを抱えていた身としてはありがたいことこの上ない。 「炎の魔人っての、倒したら、上に上がれるんだよね。たぶん、第三階層? 今度はどんな風景かな」 「どうだろうなあ」  エトリア樹海では、普通の森、熱帯雨林、と続いた先は、地下水脈であった。ハイ・ラガード樹海とは、第一階層の『普通の森』としか共通点はない。そこから推測するのは難しそうだった。が、 「第一階層が夏みたいに暑くて、第二階層が秋の紅葉だろ? てことは、さ……」 「冬じゃねぇか、ってことかよ?」  アベイの推測を不正解と切り捨てるつもりにはなれない。 「寒くてからからでよ、そこら中枯レ森みたいに枯れてんのかな」  だとすると、見た目つまらない探索行になりそうだ。  もちろん、これらは推測に過ぎない。冒険者達の想像を超える光景が広がっているのかもしれないのだ。いや、むしろそうであってほしい。どうせ未知を探索するなら、わくわくする方がいいに決まっている。  西の空が沈み行く太陽によって赤く焦がされる頃、『ウルスラグナ』討伐班は樹海に踏み込んだ。  磁軸の柱があるあたりは、樹海の縁に近く、『外』からの光が届きやすい場所であった。強烈な夕暮れの輝きが樹海に差し込み、赤い迷宮を、炎で包まれているように彩る。  初めて第二階層に踏み込んだとき、迷宮が燃えていると錯覚したナジクが眩暈を起こしたものだが、今この場に彼がいたら、心臓発作の一つでも起こしてしまうかもしれない。不謹慎な想像だが、そんなことを考えてしまうほどに、周囲の光景は非現実的であった。  しかし、この紅も、一時間もすれば闇に沈む。計算上、魔人との決着が付く頃には、周囲は夜の帳に覆われることだろう。 「……行くぜ」  冒険者達は足を踏み出した。  朝方の探索で磁軸の柱を発見したとき、同時に、その南側に、扉があることがわかっていた。柱の付近から歩けば五分ほどしかかからない。これだけ短距離だと、魔物に出くわす確率もかなり低くなる。期待通り余計な邪魔に遭うことなく、冒険者達は扉の傍まで辿り着いた。  扉の向こうからは、いまのところ、不審な物音はしない。  誰かが中で戦っている、ということはなさそうだった。もとより、先に炎の魔人と相対峙した者達は、第三階層を探索しているはずだ。『ウルスラグナ』が魔人退治を表明した以上、わざわざ戻ってくることはないだろう。むしろ、自分達の後に続く後輩達のお手並み拝見、と、高みの見物に徹していると思われる。 「開けるぞ」  エルナクハとティレンが扉の両脇に取り付き、合わせ目に手をかけた。  方向性のある力を加えられた扉は、くぐもった音を立てながら、左右に分かれ、滑り、戸袋の役を担う石組みの奥へと消えていった。その奥に広がるのは、キマイラの宮殿ほどではないが、充分な広さのある空間であった。冒険者達は互いに頷き合い、魔人の巣窟であるはずの地に一歩を踏み出した。  途端。 「……っ」  冒険者達はかすかに呻いた。空気の感触が明らかに違ったからだ。気温は二、三度は上昇し、冒険者達の被服にまとわりついて不快感をかき立てる。  いや、本来、この程度の気温の上昇は、不快感を感じるほどではない。  不快を感じたのは、空気の中に、じんわりとした嫌な気配を感じ取ったからだった。  強者の恐ろしい気配――確かに間違ってはいない。しかし、そういう意味では、八階でサラマンドラに相対峙したときの方が強かった。  今感じている気配の中には、なんとも言いようのない、不気味なものが混ざっている。――それも微妙に違う。不気味なものの正体は、気配の中に混ざっている何かではなく、冒険者の心の奥底から湧き出てくる感情だ。  訝しく思いつつも、それらを踏みにじりながら、冒険者達は前へと進んだ。  視界の彼方に、黄色い塊のような何かがいる。  討伐班の中では一番大柄なエルナクハを遙かに超える巨体であった。彼の二倍近くはあるだろう。それは高さのみに限らない、幅も同様――見た目では、高さも幅もほぼ同じ程度にある。  乾いた笑いが漏れたのは、誰かが宿屋の女将に言ったという『女将そっくり』という話に合点がいったからだ。ぽっこりと突き出た腹は、確かにかの女将に似ていると言えなくもない。しかし、女将の出っ腹は、女将自身の愛嬌と相まって、彼女のトレードマークとして微笑ましく見ていられるものである。目の前の魔物のそれは、まったく違う。ただただ異質なものとして、目の前にあるだけだ。  その腹の下にある足は太い。身体を支えるに足る筋肉も付いているのだろうが、それ以上に無駄な肉も付いているような足だ。ただし、それは腿から膝にかけての間だけ。それより下は、これまで見てきた身体のパーツを支えるには無理があるだろう、と思えるほど細かった。  ところで、『黒髪・角・オカッパ』という、かねてより耳にしていた特長はどうなのかといえば、間違ってはいなかった。 「……確かに、黒髪、角、オカッパだぜ……」  呆れたようにエルナクハがつぶやくのも無理はない。  確かにその魔人は、黒髪のオカッパであった。もっとも、後ろ髪が長いという点では、正確には『姫カット』と言うべきだろうか。ちなみに『姫カット』というのは、正しくは『鬢(びん)削ぎ』という、東方皇国で人気のある髪型だという(情報元は焔華である)。女性なら誰でもうらやむであろう、癖のない長く滑らかな髪――だが、その髪が彩る顔はといえば、怪物の相だ。  首らしい形をしていない首の上にある顔は、大きく開けた口の中に見え隠れする尖った乱杭歯と、頬にあたる位置から伸びる、左右一本ずつの緩い弧を描く角が特徴的だった。角は長さが違い、魔人から見て左手にある方が長く大きい。目は前髪の下に隠れて、冒険者達からは見づらかった。  両手の全ての指には、黒光りする鋭く長い爪が生えている。  その背には、飛べるのかどうかは判らないが、キマイラのものに似た翼がある。  これこそが、『炎の魔人』と呼ばれた魔物の全容。しかし、見た目では『炎』を感じさせるものはない。下腹部を中心に生える体毛がそう見えなくもないが、解釈としては苦しいかもしれない。 「話は……通じそうにないですね」  フィプトが恐ろしげに魔人の全容を眺めながら口を開いた。  魔人は冒険者の接近に気付いているのだろう。にもかかわらず、動く気配すらなく、ただこちらを窺うように見つめているようであった。口から漏れるのは、言葉にならない、獣のようなうめき声。樹海の先住の民として言葉を交わすことを期待していたのだが、どうやらそれは無理な相談のようだ。  戦いの準備として武器を構えようとする冒険者達だったが、その時、一様に違和感を感じ取った。この場に踏み込んだときに感じた、自分達の心の奥底から沸き立つ不気味な何かが、訴えかけるように、ずくずくと脈動している――そのような感覚を得たのだ。  戦っていいのか? こいつに武器を向けていいのか?  なぜそんな疑問が浮かんだのかは、さっぱり判らない。人型をしているからだろうか。いや、それだったら、『紅樹の殺戮者』と呼ばれる『敵対者(f.o.e.)』にも同じような疑問を抱いてもおかしくはない。『殺戮者』は猿だが、目の前の魔人と同じ程度には人間に近くも見える。強いて言うなら、魔人はまだ敵意を露わにしていないという点が違う。  もう少し様子を見るべきか、と思う間はなかった。  魔人が無造作に腕を振り、あたりを漂う埃を払うごとき動作でエルナクハを薙いだからである。 「うわ!」  とっさに盾をかざして腕を防ぐ。鋭い爪が半ば盾にめり込み、魔人は不思議そうにその様を見つめていた。  盾のおかげで大怪我は免れたが、衝撃が全身を襲い、エルナクハは痛みに呻いた。  そして悟る。やはり魔人と意志を交わすのは不可能だ。この存在を簡単にたとえるなら、アリの行列に手を出す赤子。その表情には未だ敵意も悪意も感じられない。だが、それが成すことは、アリにとっては大災害。排除しなければ、滅ぶのは自分達だ! 「おい、やるぞッ!」  ギルドマスターの叫びに、仲間達は応じる。ティレンが斧を構え、アベイが医療鞄を開け放つ。フィプトが錬金籠手(アタノール)を起動させ、パラスが呪鈴を構える。  澄んだ鈴の音が、可視化できたなら波紋に見えるように広がり、カースメーカーの少女の声が音に乗って魔人に届く。 「聞きなさい。お前に力があるのは、ただの思いこみ。本当のお前は、卵を握りつぶすことすらできない、脆弱な存在よ」  カースメーカーの呪言は、聞く者の心に働きかけ、その言葉が真実であるように振る舞わせる。聞こえるからには、本来は魔人だけではなく、エルナクハ達にさえも影響するはずだった。それが仲間達に効かないのは、仲間達がパラスを完全に信用しているから。パラスが自分達に呪詛をかけるはずがない、と、確固たる信頼を抱いているからだ。  魔人が再び薙いだ腕が、エルナクハの盾を叩く。衝撃はきついが、それでも、先ほどの一撃よりは明らかに弱っていた。パラスの呪言を聞き入れてしまった魔人は、本来の膂力を出せなくなったのである。ただし、魔人がまやかしを信じ込んでいる時間は長くない。 「その調子でヤツの腕も封じてくれや!」  パラディンはカースメーカーの力を褒めそやし、自らは戦況の変化に備えて神経を戦場に張り巡らせる。  その横を通り過ぎるのは、気合いの声を発しながら魔人へ突撃を掛けるティレンであった。  本来、斧使いの行動は速くはない。斧の重さ(正確には重心のかたより具合)は、渾身の一撃にこそ効果を発揮するものであり、敏速に動くには枷となる。だが、気合いを込めて機先を制することも、鍛錬次第では不可能ではない。ティレンが行っているのはそれであった。  咆哮が最高潮に達すると同時に、ソードマンは跳躍した。その高さは魔人を越えるまでには至らなかったが、振るった斧は魔人の左上腕に食い込んだ。  魔人の苦痛の叫びが、おぞましい響きを伴って赤い樹林を満たす。  その叫びが一旦止まったのは、白いものが魔人の身体に張り付いたからだった。  フィプトが放った、錬金籠手で精製された化合物である。研鑽を重ねて威力を増したその化合物は、周囲の熱を奪い、温度を下げる。ひんやりとした空気が冒険者達の方にも流れ込んできた。  しかし、化合物をまともに喰らった炎の魔人は、『ひんやり』では済まなかった。化合物の周囲が冷却され、氷の結晶が生まれていく。表面を凍らされるのみならず、その直下の筋組織さえも氷点下に晒され、さらには空気中の水が凍って集まったものが、霰のように魔人を穿つ。  所詮は氷、あっという間に溶けて消える。化合物も魔人の動きによって剥がれていく。だが、負った傷までが消えるわけではない。その近辺の皮膚は、元の黄色から紫色がかった不気味な様相を露わにしていた。  凍傷の初期症状だ。故郷での冬、準備を怠ったまま山羊の世話に出掛け、両手両足の指が紫色に変化して痛んだときのことを、エルナクハは思い出した。魔人の痛みは当時のエルナクハの比ではあるまい。  魔人は甲高い声で痛みを訴える。人間の女が叫んでいるようにも聞こえ、冒険者達は自分達が氷の術式を浴びせられたような寒気を感じた。獣でも人間と間違うような声を上げるものはごまんといる。そう判っていても、心の奥底で、違和感を感じるのだ。  そのまま炎の魔人が何もしなくなったなら、冒険者達も攻撃の手を緩めただろうが、そうはならなかった。  おぞましい声を上げながら、魔人は片腕を振り上げたのだ。  轟、と唸りを上げ、前腕部が炎に包まれる。  炎の腕は、一番近くにいるティレンの上に叩きつけられた。もちろんソードマンの少年は避けようとするが、残念ながら逃げ切るのは無理だった。半身を、炎の熱さと、かすったとはいえ拳の衝撃に襲われ、ティレンは苦痛の叫びを発した。  アベイが医療鞄の中から薬を取り出し、ティレンの下に走る。 「聞きなさい、お前の腕は動かない。瀝青(れきせい)に固められたかのごとく。石化鶏(バジリスク)に睨(ね)め付けられたかのごとく!」  鈴の音と共に広がるパラスの声を聞き、その合間に錬金籠手の稼働音を聞き、アベイの手当を受けるティレンの姿を見ながら、ここまでの彼我の行動を顧みて、エルナクハは結論した。  この戦い、決して勝てない戦いではない。  むしろ、勝算はキマイラと初めて戦ったときよりもある。地道に積み上げてきた力は確実に自分達のものとなっている。統率者であるエルナクハ自身や、回復の要であるアベイが、先にサラマンドラという『規格外』の存在に出くわし、その強さを肌で感じたために、腹をくくれたことも大きかったかもしれない。  油断は禁物だが、パラディンが護りに専念しなくても余裕があるだろう。 「これなら、オレも『アレ』ができるかな……」  パラディンは味方を護るための構えを解いた。それどころか、剣を地に刺し、盾を利き腕で支える。一見では、自分のみを護ろうとしているかにも見えただろう。だが、そうではなかった。 「てぇぃやあああぁぁ!」  先のティレンのように魔人に突撃を掛ける。ティレンとアベイに追撃をかけようとしていた魔人が、何事かと問い質したげに振り向くが、止まることはない。そのまま、盾に自分の質量と速度を上乗せし、叩きつけた。  聞くだけでも激痛に苛まされそうな衝撃音が、冒険者達の耳朶を打った。続く魔人の叫び声は、むしろ哀れに思ってしまうほどであった。魔人の腕の自由を奪うために呪いをかけ続けていたパラスが、思わず呪詛を止めて、呆然とつぶやいたくらいだ。 「エルにいさん、容赦ないなぁ」  ――パラディンは守護に特化した騎士である。その特技も護りに主眼が置かれる。反面、攻撃のための特技に乏しく、過去の戦でも、積極的な侵略より、要所での防衛戦に力を発揮したという。  それでも人界で活躍することに限れば、そこらのソードマンよりも剣の腕を磨いたパラディンは五万といる。しかし、世界樹の迷宮という異境ではそうもいかない。相手は人間ではなく獣、それも『外』のものとは比べものにならないほど凶暴だ。  本来不得手な剣技に頼るパラディンは、腕を上げる前にほとんどが淘汰される。なんとか生き残るのは、得意分野を伸ばすことが近道だと悟った者だ。故に、迷宮に挑むパラディンは守護の技を磨いて伸ばし、攻撃面を任せた仲間達の盾となっている。  しかし、数少ない例外といえる技が、ここにある。  シールドスマイト。  パラディン達が味方を護るために携える盾を、武器として転用する技である。本来は、遮りきれない敵に対して緊急避難的に用いられたものなのだが、ただの緊急避難というには恐るべき威力を誇る。常に重い鎧と盾を携えるパラディン達の膂力は、馬鹿にならないのだ。力と重量が揃って盾に乗り、そのまま叩きつけられたら、どれほどのものかは、多少なりとも戦いに造詣のある者なら想像も容易いだろう。  もちろん、パラディン自身の負担も大きく、多用はできない。それでも、一刻でも早く相手を倒すには、有用な手段だ。  自身がパラディンだからとて、『攻撃は最大の防御』という思想を完全否定するつもりはない。 「おい、いつの間にスマイトの鍛錬してたんだよ」  後方に戻るアベイが、ついでとばかりにエルナクハの近くに寄って問いかける。パラディンの青年は、魔人から目を離さないまま、歯が輝いて見えるほどにいい笑顔で言ってのけた。 「なに、白鳥は優雅に見えても水面下ではなんとやらってヤツだ」 「お前が白鳥ってガラか! いや、聞きたかったのはそこじゃなくてだな」  いつしていた、というのなら、探索に出ていない時間に決まっているだろう。シールドスマイトの鍛錬をしているように見えなくても、他の鍛錬によるさまざまな動きが、別の技の完成に繋がっているということは、よくあることだ。  アベイの問いは別の意味を含んでいた。シールドスマイトをハイ・ラガードでの実戦で使うのは、もう少し先だと思っていたから。  しかし今は戦闘中。答を聞くには時間切れ、と判断したメディックは、急いで後衛に戻る。防御の薄いメディックは、敵の傍に居続けることが命取りになりかねないのだ。しかもアベイは体が弱い。かつて自身を蝕んでいた病とは無関係な話で、つまり前時代人というものは種族的に現代人より脆弱にできているものらしい。メディックだからこそ冒険者としてなんとかついていけているが、アベイがソードマンやパラディンなどになるのは無理だろう。  その間に、炎の魔人の呻きは止まる。痛みが耐えられる程度に収まってきたらしい。しかし、どういうわけか、そのまま動かず、前髪の下から見え隠れする瞳で冒険者達を睨み付けるだけだ。  今のうちに攻撃を仕掛ける、と口で言えば簡単なことだが、魔人の動きが掴みきれないうちは、性急な行動は取れない。脇目もふらず攻撃を仕掛けてくる輩の方が、却って与しやすいのだが。  パラスの呪詛と、フィプトの錬金籠手の稼働音だけが、あたりに響き渡る。  双方が膠着している。  エルナクハは、じりじりとティレンに近づき、ひそひそと囁いた。 「……ヤツ、何企んでると思う?」  ソードマンの少年は頭を振った。「わかんない。でも、まだ、敵意が感じられない」 「む、そうか?」  パラディンは小首を傾げた。確かに、ティレンの言うとおり、魔人が放つ敵意らしきものは未だに感知できない。あれだけ、こちら側が手ひどく攻撃を仕掛けたにもかかわらず、だ。かといって、安易に警戒を解いて交流を図ってみる気になれないのも確かだ。ティレンを襲った炎の腕の威力は、平和的解決が通じると考えるには、酷すぎた。  ただ、戦闘前から感じていた、魔人を敵に回すことへの疑問は、未だに止まない。  だから、相手の出方を見守ることにした。  ちらりとフィプトに目を向けると、アルケミストも意図を了解したのだろう、錬金籠手の反応を中断する。完全に止めたわけではないのは、もちろん、状況の変化に備えてだ。一方、パラスには呪詛を唱えさせたままにしておく。腕縛りは相手に痛手を強いるものではないし(痛い、と錯覚させるものかもしれないが)、効けば、何かあったときに対処しやすいからである。  さて、どう出る?  しばらくは、じりじりとにらみ合うだけの時間が過ぎていった。  燃えるような夕暮れの光が樹海をさらに紅く染め、パラスの呪詛の声が朗々と響き渡る中、大きな動きは何もない。  生温い大気と、極限の緊張が、滝のように汗を生み出し、服を濡らしている。街に帰ったら鎧をしっかり磨かないと、汗に含まれた塩分で錆びちまうな、と、益体もない事を考えた。  魔人に動きがあったのは、その時であった。  のそり、と魔人が身動きをするのに、エルナクハとティレンは武具を構え直す。背後でも、錬金籠手を再始動させる音が聞こえた。これで迎撃の準備は完璧だ、と思った聖騎士は、しかし、次の瞬間、自らの油断を思い知った。  魔人は、ほとんど一瞬と思える短時間で、エルナクハとティレンの目の前に移動してきたのである。 「な……っ!?」  ただ絶句。背後でも息を呑む気配がして、パラスの呪詛さえ途切れる。  目に見えて判ったのは、魔人の背中の翼が動いた、ということだけだった。  後に街に戻ってから検証した末、どうやら短距離間なら、背中の翼を動かすことで高速で移動できるのではないか、という仮説が立ったのだが、今はまだ訳がわからないまま、冒険者達は魔人のなすがままに甘んじることとなったのである。  魔人が両手を広げたときも、エルナクハやティレンは身体が思考に付いていかず、硬直してその様を見つめることしかできなかった。 「義兄さん! ティレン君!」  フィプトが警告の声を発するが、それに応えることはできなかった。ぴくりとも動けない前衛ふたりの目の前にやってきた魔人は、ぐわっと両手を広げる。まずい、と思考だけが光の速さで脳裏を廻るが、それが行動に繋がるには遅かった。エルナクハとティエンは魔人の腕の中に抱えこまれてしまった。  一瞬、あ、宿屋の女将に抱きかかえられたらこんな感じなのかな、と、益体もない事を考えてしまったが、もちろんそれを継続する余裕はなかった。  魔人の腕は圧倒的な膂力――否、暴力で、抱えたエルナクハとティレンを締め付ける。筋肉がぎちぎちと軋み、前衛の戦士達は耐えきれずに悲鳴を上げた。骨がたわんで激痛を訴えてくる。このままでは、脊椎さえもがぽっきり逝ってしまうのも時間の問題だろう。さすがにそんな目に遭うのはごめん被る。ふたりは比較的自由な足を振り上げ、魔人を容赦なく蹴りつけるが、敵は全く動じない。  パラスが慌てて再開した呪詛の声が流れる中、フィプトが反応させた化合物が飛来して魔人の頬に張り付いた。剥がれ落ちたものがエルナクハ達にも降りかかり、反応して冷気――というより火傷しそうな痛みを訴えかけるが、これで魔人の呪縛から逃れられるなら御の字、甘んじて受け入れるところだ。しかし残念ながら、魔人は冷気の激痛に叫びながらも、それでもふたりを離そうとしない。 「し……ぶてぇなぁ! コンチクショウ!」  痛みに顔を歪めつつ、エルナクハは足裏をがんがんと魔人の腹に叩きつけた。ティレンは身をよじり、なんとか拘束を脱しようとしている。片方が抜ければ、もう片方も比較的楽に脱出できるだろう。だが、目論見は全く達せず、圧迫感に気が遠くなっていくばかり。アベイが逃走補助用の煙幕卵をスリングで魔人に打ち出すのが見えたが、コントロールがなっていなく、魔人の顔に当たることなく飛んでいくだけであった。  いっそこの際、噛み付いてやろうか――魔人の皮膚に通じるかは判らないけど。  朦朧とした頭でそんなことを考えた、その時である。 「…………、…………、……!」  今のエルナクハ達には、ほとんど雑音としてしか届かないが、何かの音が、はっきりと耳朶を打った。  途端、前衛のふたりを締め付けていた魔人の腕が、ぴくりと引きつり、動きを止める。  何が起きたか判らないが、チャンスだ。  エルナクハは右腕を――左腕は盾を持ったまま締め付けられていたので、動かすのが困難だった――拘束から引き抜き、曲げた肘を思い切り振り下ろした。痺れるような衝撃が骨を伝ってきたが、それも、続いて全身を襲った衝撃に比べれば、まだ可愛いものだった。そしてそのどちらも、魔人に締め付けられたまま絶命するという想像に比べれば、はるかにましなのだ。  全身から欠乏しかけていた空気を急いで取り込み、意識を立て直すと、エルナクハは魔人の現状をしかと見た。  魔人は広げかけた腕をぷるぷると震わせ、自分の身体が思うように動かない苦悶に、短く呻いていた。ティレンの姿も既にない。自分と同様、腕から逃れて地面に落下したのだ。そして、何故そんなことになったのかといえば、思考能力が戻ってきて、やっと理解できた。呪詛だ。パラスが唱え続けていた呪詛が、ようやく魔人の精神に引っかかり、その腕の自由を奪ったのだ。 「遅ぇぞ、パラス!」  この叱咤、前にもした記憶がある。本気でそう思っているわけではないのも、その時と同じ。返事も、同じ時に聞いたことがあるようなものだった。 「なかなか効かないんだもん!」 「ははッ、だが助かったぜ、よくやった!」  当時同様に少女を褒めそやすと、エルナクハはティレンを促し、共に魔人から距離を取った。  アベイとフィプトが駆け寄ってくる。メディックは無言で治療の準備を始め、アルケミストは軽く頭を下げて謝意を示す。 「すいません、義兄(あに)さん、ティレン君。巻き込んでしまった」  ふたりは何のことか一瞬戸惑ったが、やがて合点がいった。そういえば術式に巻き込まれたのだったか。ただ、あれは『巻き込まれた』というほどではないと思った。 「気にすんな。あの程度」 「だいじょぶ」  ふたりの返答を聞くと、フィプトは再び頭を下げ、改めて錬金籠手を魔人に向ける。その機構からは新たな反応を促す動作音がした。  以降の戦闘の展開は、比較的楽に推移したと言ってもいい。腕の自由を奪われた魔人は、威力の高い抱擁や、炎を纏う腕の攻撃を行うことはできず、体当たりや蹴りで冒険者達を攻撃せざるを得なかった。しかし、慣れない攻撃法では実力を十分に発揮できるはずもなく、パラスに掛けられた力祓いの呪言の影響下にあることも手伝って、その威力は決して耐えきれないものではなくなっていたのである。もちろん、呪言の影響もいつまでも続くものではなかったが、来ると覚悟していた攻撃なら喰らっても落ち着いて対処できるようになっていた。そうしているうちに再びパラスの呪言が魔人の腕を縛り、力を削ぐのだ。  それでも長い戦いになった。シールドスマイトと術式とで精神を摩耗したエルナクハとフィプトが、現在の荷の中にあるなけなしの精神回復薬(アムリタ)二本を分け合って飲み、さらに攻撃を仕掛けるも、魔人はなかなか倒れない。体力を削っているのは確実なのだが。  朱の空は次第に暗さを増していき、樹海の中もみるみるうちに闇に落ちていく。  あまり暗くなるようだったら明かりを付けなければ格段に不利になる。できればそうなる前に倒したいところだ。  その願いが神――天空の城にいる者か、大地母神(バルテム)かは、判断できないが――に通じたのだろうか、執拗に攻撃を続けた結果、魔人の動作に明らかに鈍りが見えてきた。もう少し押せば、倒せるかもしれない。  しかし、冒険者達の精神も限界を迎えていた。フィプトの錬金籠手を操る動作もおぼつかなくなり、アベイも薬品を調合する際に変なモノを加えそうになった。パラスの呪言は呂律(ろれつ)が回っていない。ティレンやエルナクハも、重い武具を振るう気力を失っていた。大技を繰り出すのはもう無理だ。  もう少しだと、いうのに。  そこでエルナクハは思い出した。荷物の中に一枚だけ、樹海で拾った氷術の起動符があったはずだ。誰が持っていたか――そうだ、直接的な攻撃手段に乏しく、かつ、治癒役よりは余裕がありそうなパラスに持たせていたのだった。 「おいパラス、この際だから起動符を――」  使っちまおうぜ、という言葉が相手に届くことは、なかった。  その瞬間、大編成の女声合唱団が大音響(フォルティッシシモ)で叫んだかのような悲鳴が、周囲の全てを乱打したからである。  頭の中が漂白され、意味不明の黒い記号が執拗に上書きされ続けるような。  意識の最期の一片が消えるまで、執拗に殴られ続けるような。  見張り塔すら飲み込むほどの大津波に襲われ、波にもみくちやにされながら、どこまでもさらわれていくような。  どのような表現をしたとしても、その気持ちの悪さを現すには到底足りない。  悲鳴を聞いているはずなのに、聴覚が壊れてしまったのか、無音のようでもあった。それでいて、なにかを滅茶苦茶にされるような感覚は間断なく襲来し続け、止まる気配はない。  エルナクハは、突然目隠しをされた者が、すがるものを探すかのように、ふらふらとさまよった。とはいえ、それは意識的な話であって、実際にさまよっているのかどうかは自分でも判らない。状況が掴めずに混乱しそうになる中、心の奥の更に奥底で、自らの本能が囁いた――似たようなことを経験したことがある、と。  そうだ。これは竜の咆吼に似ている。樹海に住まう真の竜の一体、赤竜の咆吼にだ。もちろん、絶対的な比較をすれば、魔人の能力など真竜には及ぶまい。だが、今の『ウルスラグナ』にとっての魔人の力は、かつてエトリアの深部を闊歩していた頃に出くわした竜の力にも近い。  実際には、こんな論理的な思考を為し得たわけではないが、ともかくもエルナクハは当時の経験を武器に、自分を滅茶苦茶に揺さぶる何かに抗った。経験があるから抵抗しきれると決まったわけでもないが、正体が分かれば少しは足掻きやすい。黒い記号を払い、殴り来る力に耐え、襲い来る津波には無闇に逆らわず、緩やかになる隙を窺った。  そして――すべてが去ったとき、エルナクハは、茫洋とする意識を抱えながらも、無事に現実に立ち返ったのであった。  ざまぁみろ、オレにゃ効かなかったぜ。  悲鳴を耐えきった直後に浮かんだのは、そんな嘲りの言葉だった。実際には魔人を嘲るというより、自分を鼓舞したという方が正しいが。だが、仲間達の様子を窺った時、聖騎士は再び絶望の淵に立たされた。  自分以外の全員の様子がおかしい。頭を押さえ、ふらふらとよろめきながら、周囲を見回している。誰を見ても、その目は虚ろで、正気が残っているとは思えない。  魔人の悲鳴に呑まれて、狂気に陥ったのだ。  厄介なことになった。エルナクハは舌打ちをした。  以前ティレンが鹿の足音に呑まれたときのように、混乱した者は敵味方の区別が付かなくなる。互いを倒すべき敵と勘違いして殴り合うのだ。ティレンが味方を殴ればただでは済まないし、後衛の者達の攻撃はさしたるものではないが、後衛同士で殴らせておくわけにもいかない。なにより、まかり間違って魔人を殴りに行かれたら面倒なことだ。殴るのは構わないが、相手に近づけば危険度も増大する。  どうする?  もちろん、テリアカβはいくつも用意してある。しかし、現在のハイ・ラガードで手に入るのは、服用タイプのもので、複数の人間に手っ取り早く効果を現す噴霧タイプのものは開発されていない。ツキモリ医師の腕の問題ではなく、手に入る素材の問題だ。つまり、全員を正気に戻すには、ひとりひとりに薬を飲ませなくてはならない。そしてその間、魔人の攻撃にも耐えなくてはならない。  優先するべきは――何も考えなければ、アベイかティレンだろう。しかし、皆の精神は限界に達していた。アベイを立ち直らせても、彼への期待――治療行為は望めないと見るべきだ。であれば、放っておくと厄介なティレンを呼び戻し、彼と共に皆に薬を飲ませていく方が早い。  行動を決め、エルナクハは自分のベルトポーチからテリアカβの瓶を取り出した。薬自体は複数あるのだが、エルナクハが持っていたのはこの一服分だけだ。  その瞬間、エルナクハは横殴りに衝撃を受けた。  はずみで薬瓶が手から離れ、ころころと遠くへ転がっていった。  地面に倒れたエルナクハは、立ち上がろうとしながらも再び舌打ちした。  自分の手持ちはもうない。あとは、他の仲間達が持っている薬を出して使うしかない。手っ取り早いのは、開いた状態で地面に置かれたアベイの医療鞄。その中にはテリアカβも入れてあるだろう。  急がないとならない。仲間達は既に互いに目を合わせ、相手を敵だと認識しているようだ。手に持つ武器――後衛も護身用として杖をもっている――を振り上げようとしている。ティレンの斧の刃が、夕暮れの光の残滓を反射し、剣呑な光を放った。  だめだ、薬を探している間もない!  何者かに救いを求めるようにエルナクハは周囲を見回した。そして、魔人と目が合う。  今が好機だろうに、魔人は動きを見せない。乱杭歯の目立つ大口は、荒く息を吐き出し、全身を小刻みにわななかせている。  聖騎士は、先ほど魔人に殴られた場所を無意識に撫でた。  ……本来の魔人の攻撃なら、この程度では済まなかったはずだ。パラスの呪詛で力を削がれていたとしてもだ。つまりは魔人も限界に達している。あるいは、渾身の一撃を食らわせれば倒せるかもしれない。敵が倒れれば、仲間達の治療はどうにかなる。  ――が、読み間違って、魔人が倒れなければ、さらなる危機に陥ることになる。  この選択肢は間違えられない。どうする?  現実の時間にすれば一瞬というべき短さだが、エルナクハの認識では、じりじりと引き延ばされた時間の中で、迷いが無限の連鎖を繰り返す。  混迷の最中、視界に、魔人が腕を振り上げる様を捉えた。その腕の先に、巨大な火球が生じる様を。  炎の王の名を冠するに相応しい、暴虐の獄炎。戦いの最中に一度だけ体験した、広範囲の攻撃。消耗した今はしのぎきれないだろう。全員がまともに食らい、消し炭となってこの世から消え去るのだ。  さすがに、消し炭になった人間は、ユースケでも治せまい。そもそもユースケだって消し炭仲間なわけだからな。  自嘲気味にそんなことを考えたエルナクハは、その思考の中に出てきた仲間の名に、引っかかりを覚えた。  その名が引き金となって、何日か前の出来事が記憶の中に蘇る。  相手は――そうだ、森林の覇王だった。皆が倒れる中、両の足で立っていられたのはアベイだけだった。  自分は「逃げろ」と進言した。が、後に冷静に考えれば、それは大博打に違いなかった。敵から逃げられるとは限らない。失敗すれば、その時点で運命は決するわけだから。かといって、逃げなくても結末は同じ。自分としては逃走を勧めるしかなかった。  しかし、アベイは別の無茶をもって進言を拒絶した――雄叫びを上げながら突進し、覇王の頭蓋に杖を振り下ろしたのだ。  何たる無謀か、と、その瞬間は思った。結果としていい方に転がったからよかったが。  ……今の状況と似ている。もう後はない。できることは限られている。それに失敗したり、それ以外を選んだりしたら、すべてが終わるだろう。  ――ああ、どうせ後はねぇんだよな!  エルナクハは傲慢不羈な獣神(ヌブルィーク)のごとき笑みを浮かべた。剥き出す牙の名は『喧嘩屋の剣(カッツバルゲル)』、纏う毛並みの名は『硬胸甲(ハードブレスト)』、守りの要である盾を投げ捨て、剣を突き出す鋼鉄の獣は、気合咆哮と共に、鋼鉄の蹠(しょ)球で地を蹴り走る。闇に落ちかけた赤い森も、その合間に見える謎の柱も、全ての光景は混沌の中に溶け、はっきりと見定められるものは、ゆっくりと炎を手放そうとしている魔人の姿だけだった。  あの炎が飛べば、皆が死ぬ。ただ、それだけを考えた。 「うおおおおおああああ!」  突進力を剣に上乗せして、魔人に体当たりするかのように、その巨躯に突き刺した。急所を狙おうとか、そういう小細工は、考える余裕がなかった。ただ、ここまで騎士として生きてきた自分の本能的な行動を、信じたのだ。  ――天は自ら助くる者を助く、という言葉が、この世界で権勢を誇る一神教にある。その言葉を思い出す余裕がエルナクハにあったなら、にやりと笑いながら、こう言ったに違いない。「ああ、そりゃ至言だな。今のオレにぴったりだ」と。  天を支配する戦神の名を持つ騎士の、生まれたときから積み重ねてきた努力は、今この時、彼が信じたとおりの動きを彼自身にさせたのだった。魔人にはその攻撃を避ける余力はなく、腹に深々と、剣という名の獣の牙を受け入れた。駄目押しとばかりに、エルナクハはその剣を力任せに引き、魔人の腹に一筋の傷を穿った。  その途端、頭上に不穏な気配を感じ、剣を手放し全力で離れる――正解だった。魔人が取り落とした炎が、今し方いた場所に落ちてきたのだ。危うくロースト・エルナクハが一人前できあがるところだった。  ぎりぎりで回避した危険に安堵の息を吐きながら、エルナクハは、その炎が魔人を襲う様を見た。魔人は炎に耐性があると聞いていたが、『中身』まではその限りではなさそうだった。傷口から吹き出したものを炎に炙られ、魔人は苦悶の悲鳴を上げていた。生きながら炙られた人の悲鳴に似た、その断末魔。少しだけ抱いた罪悪感を振り払う。  魔人の前に冥界の扉が開かれたことを確認すると、急いで後方に向き直る。  長い長い戦いのように思えていたが、幸い、魔人の悲鳴を受けてから今までの実時間は、ほんの瞬きの間のようだった。仲間達はまだ同士討ちの事態に陥ってはいない。エルナクハは四人の間に割って入ると、一番厄介なティレンの鳩尾(みぞおち)に拳を入れた。少年が悶絶して転がり、無力化したところで、他の三人の動きを易々といなしながら、アベイの鞄の中に入っていたテリアカβの一瓶を取り出した。  瓶の中身を、手近なところにいたアベイに無理矢理呑ませた頃には、赤い樹海は、すっかりとその彩度を落としていた。 「あ、あれ、俺……う、うわっ!?」  アベイが驚いたのは、エルナクハの向こうに、炎に包まれた魔人の姿を見たからだ。既に動かなくなった魔人は、不気味な静寂の中、焦げる気配のない『外側』を炎の赤に照らされている。その威力が弱まってきているのは、もう燃えるものがないからだろう。アベイはおずおずと声を上げた。 「終わった、のか?」 「コイツら何とかしたら、な」  答えるエルナクハの腕には、両側にひとりずつ、虚ろな目をして弱々しくもがく術師達がいる。そして地面には悶絶するソードマンである。  実はテリアカβを飲ませなくても、混乱した精神は時間を置けば自然回復する。敵がいなければ待つ余裕はある。だというのにティレンを悶絶させ、アベイに薬を飲ませたのは、ひとりで四人を抑えるのが面倒だったからだ。  何があったのか悟って苦笑するアベイは、鞄から残りのテリアカβを出して、エルナクハが押さえている仲間達に飲ませていくのであった。 「エル兄、おなかいたい」  赤毛のソードマンがパラディンを見つめ、言葉と共に胃液を吐いた。  そうなった理由はティレンにもわかっているし、仕方ないとは思うのだが、黙って耐えるには少々きつかった。 「はは、悪かったな、ティレン」  エルナクハは手を伸ばすと、ティレンの頭をぐりぐりと撫でた。 「街に戻って、腹痛くなくなったら、うまいもの食わせてやるからよ」 「うん」 「いい子だ――で、パラス」  カースメーカーの少女は、アベイに傷の手当てをされていたが、突然呼びかけられて、驚いたように振り向いた。 「な、なに、エルにいさん?」 「書いていいからな」 「え?」  何のことだ、と言いたげに首を傾げるパラスに、パラディンは言葉を続けた。 「手紙だよ、手紙。オマエがいたから魔人を倒せた、ってよ。よくやったな」  もちろん、パラスの活躍だけでは魔人は倒せなかった。が、戦いを優勢に進める大きな役割を担ったのも事実だ。少女の格好付けを許しても充分に釣りが来るほどである。  パラスは雲間から太陽が顔を覗かせたかのような笑みを見せた。 「わあい! でも――」 「でも?」 「『一番格好良かったのはエルにいさんだった』って書いておくね」 「おいおいおいおい」  今度はエルナクハが笑む番であった。こちらは苦笑であったが。 「クライマックスん時に混乱かましておいて、オレの活躍なんか見てなかったくせに」 「てへ」  パラスが肩をすくめたところで会話が途切れると、フィプトが割り込んできた。 「ところで、次の階には行きますか?」 「うん、そうだな……」  エルナクハはしばし考え込む。キマイラと戦ったときとは違い、皆は肉体的には元気だ――ティレンの腹痛の問題はあるが。しかし、軽口を叩き合っているものの気力は限界に近い。やはり、がらりと環境が変わるはずの次の階――新たな階層には、万全の体調で挑みたいと思う。ちらっとだけ見てみたい気も、しなくはないが。 「帰ろうぜ。樹海は逃げねぇ」  ちょっとした未練を振り払い、ギルドマスターはそう断じた。 「えー、つまんなーい」  パラスが口を尖らせるが、エルナクハの意見の理は認めているようである。アベイは、当然だ、とばかりに頷き、フィプトはエルナクハ同様の未練を見せながらも帰りの支度をする。ティレンは言うまでもなく、「おなかいたい」を繰り返していた。  確かに樹海は逃げない。そして、自分達は、無理した挙げ句にこの世から退散することになったら、もう戻ってこれない――仮に『転生』というものが実際に起きたとしても、その時に、『今の』自分達のままである保証はないのだ。 「とにかく、糸の準備頼まぁ」  そう言い置いて、エルナクハは魔人の屍に近づいた。  皮膚はあまり焼けこげていないが、腹のあたりから流れ出たものが炭化して、焦げ臭い匂いを放っている。ふと視線を移すと、翼の片方が取れかかっていた。何の気なしに手を出して引っ張ると、ずるりと取れた。もう片方の翼は傷だらけになっているのに、取れた方は目立つ瑕疵もない。 「……何かに使えるかな」  矯めつ眇めつ翼を眺めた後、パラディンは再び魔人に視線を転じた。  ……結局、この魔物は最後まで、敵意らしいものを感じさせなかった。たとえるなら、生命なきゴーレムや怪しい石像と戦っている気分だった。生き物であることは間違いないはずなのに、感情を表さない、精神が死んだような者。痛みを感じたときには悲鳴を上げていたが、それにも違和感を感じるほどだ。  なんだったんだろう、こいつは。  どこかのおとぎ話で、薬で人間の人格を殺し、使役する術の存在を聞いたことがある。そんな術を施された者と戦うことがあったら、同じような感慨を抱くのかもしない。 「準備、できましたよ」 「おう」  フィプトの声が耳に届いたので、エルナクハは思考をとりやめた。こいつの正体は大公宮の学者サンとかそのあたりに任せればいい。センノルレやフィプトも、興味があれば、今回収してみた翼とかを調べてみるだろう。冒険者は迷宮の先を探索するのが仕事。現状で炎の魔人についてこれ以上考える必要があるとしたら、『次』があったときに倒せるか否か、ということだ。  天牛ノ月十日。  この日、『ウルスラグナ』はまたひとつ、迷宮の脅威を突破した。  すっかりと日が落ちた街の中を、『ウルスラグナ』討伐班一同は進んでいた。  街の中央部を取り囲むように立ち並ぶ建造物の窓のいくつかから、光が漏れ出ている。大抵の冒険者達の生活は中央市街で完結するので、建造物の中に入ったことはないが、私塾の生徒達から聞いた話では、中に住んでいる者のほとんどの生活もまた建造部内で完結するため、冬の寒い時などは助かるそうだ。「冬になったら、冒険者の兄ちゃん達は、ま、頑張れよ」と励ましてきた生徒は、逆に「つまりオマエらが私塾に来るのも冬は大変だな」とのエルナクハの返しに、ぐうの音も出せずにへこんでいたものだ。  市街に立ち並ぶ灯火の光に、羽虫がたかっている。  それを見て、パラスはふと、世界樹に群がる人間のようだ、と考えてしまった。伝説の光か金の輝きに魅せられた、二本足の者達。それを軽蔑する気は毛頭ない。自分だって同類で、高尚ぶる資格はない。けれど思うのだ。もしも世界樹の迷宮の生物が、そこらの人間でも対処できる程度のものだったら、果たして樹海はどうなっていただろう。  ハイ・ラガードにはガスコインという貴族がいた。毛皮の収拾が趣味の男で、ときどき、樹海で狩りをしている姿を見かける。屈強な供がいるとはいえ、いい度胸である。ガスコインひとりならまだいい。が、ガスコインのような者が何百人といたら、いくら豊かな樹海でも、その富は尽きてしまわないだろうか? 「……やっぱり、エトリアみたいに、樹海が閉じちゃった方がいいのかなぁ」  冒険者らしくないことを考える。  パラスの住んでいた『王国』は、世界的に主流となっている一神教を国教としていた。異教徒には若干の異教税が課せられていたが、パラス達ナギの里の者に対しては、一神教を信じずとも、とある理由から免除されていた――というのは完全に余談である。ともかくも、その一神教曰く、『神は人間のために諸物を作られた』。つまり、この世の全ては人間のためにある、と言い切っているのだ。  ハイ・ラガードでは、一神教は国教ではなく、立場としては他の異教と等しい。が、かつて大公家の先祖に、今はなき一神教の宗教国家『教国』の姫が降嫁したという歴史があるため、大公宮主導で行う慶弔儀式は一神教の神官が司る。もっとも、聖歌や聖句で露骨に特定の神を讃えたり祈ったりする箇所は変更されているのだが。そのようなわけでハイ・ラガードも若干は一神教寄りと言えよう。そんな環境で暮らす大公達は、やはり『樹海は人間のためのもの』と思っているのだろうか。  エトリアの前長ヴィズルも、パラスのはとこである聖騎士の前で、「樹海は人間のものだ!」と言い放ったそうだ。モリビトという存在を知っていたにもかかわらず。もっとも、ヴィズルに関しては、事情を加味すれば、そう言い放つ理由もわからなくもない、と思ってしまうのだが。  自分達は人間だ。だから人間の目線でしか世界を見ることができない。だが、そのために盲目的に『樹海は人間のもの』と捉えていいのか? 「エルにいさん」 「なんだ?」  パラスの呼びかけに、先頭を歩いていたエルナクハは、振り返らずに歩いたままで返事をする。  もちろんパラスや他の仲間達も足を止めない。 「エルにいさんの神様は、人間のために世界を作ったの?」 「何だよいきなり、ムズカシイこと訊きやがる」  一応は異教の神官であるはずの聖騎士は、神官らしからぬ不真面目さに歪んだ表情で振り返った。そして、あっさりと肩をすくめる。 「わからんなぁ。オレは大地母神(バルテム)じゃねぇからよ」 「それでもお前、神官かよ、ナック」  アベイが、パラスの内心でのツッコミと同じことを、言葉にして発した。 「しゃあねぇだろ」  黒い聖騎士は屈託なく笑う。まったくこの人は、と、古くからの仲間のみならず、新参者の(という表現はもはや相応しくないが)フィプトすら呆れたものだ。  しかし、そんな仲間達の前で、黒い聖騎士は生真面目に眉根をしかめた。後頭部をこりこりと掻きつつ、憂いを溜め込んだような声を出す。 「ただよ、ヴィズルの話とかユースケの話とかを考えるに、人間のためだけに世界がある、って思いこみが、前時代を酷くしたんじゃねぇかな」 「……ああ、そう思うよ」  話題に出されたメディックが同調して頷く。  その後に続くかもしれなかった話は、道の先に大公宮が見えたことで打ち切られた。もとより簡単に答の出ない問いだ。話が続いても堂々巡りになる可能性は高かった。ただ、この疑問を常に頭の隅に置いておこう、と、パラスは灯火に集う羽虫の群を眺めつつ思うのだった。  いつものように衛士に迎えられ、侍従長に導かれ、謁見の間に足を踏み入れる。  待ち受けていた大臣の表情を見るに、『ウルスラグナ』が魔人を倒したことは、すでに伝わっていたようだった。果たして誰が、と思ったが、それは大臣の口から、あっさりと明かされたのであった。 「『エスバット』の報告じゃよ。そなたらの戦いぶり、見事であった、と申しておった」 「あいつら……」  苦笑いが浮かぶ。つまり『エスバット』は、『ウルスラグナ』の魔人との戦いの一部始終を見ていたわけだ。やはり、自分達の後より追い上げてくる者達の動向は気になったと見える。果たして、『見事』という言葉は、ただの世辞か、あるいは――確かに自分達は、彼らの眼鏡に適った、ということだろうか。 「ともかくも、これでそなたらも樹海の第三階層に挑むだけの実力を持つ冒険者となったわけじゃ。そこまでの力を持つ者はこの公国でもほんの一握りじゃ」  少なくとも、大公宮の者達の『ウルスラグナ』の評価を決定づけたのは、間違いないようであった。 「自らの力を信じ、そして過信することなくこれからも冒険を続けてくれたまえ。……そうそう、魔人退治はミッションでもあったからの、報酬が用意されておる。受け取るがよい」  以前の報酬よりも重い革袋を手渡され、エルナクハは顔を曇らせた。もちろん、報酬に不満があったわけではない。 「……どうか、なされたか?」  不審げに声を掛けてくる大臣に、「何でもない」と答えようとした。しかし、それだけでは、報酬に不満があるのでは、という懸念を持たせたままになりかねない。結局、エルナクハは正直に心情を吐露することにした。 「何でも屋さん大臣サンよぉ、あの魔人って、何者なんだろうな」 「何者、とは?」 「よくわかんねぇ。よくわかんねぇんだが、何かが違う。説明すんのはムズカシイけどよ、アレは本当に生き物なのか、って感じがするんだ」  脈絡のない説明である。言っている本人からして説明のしようがなさを感じているのだから、大臣にその詳細が正確に伝わるはずもなかろう。しかし意外にも大臣は頷いた。その表情には、エルナクハを始めとする冒険者と同じような、困惑の表情が見て取れた。 「『エスバット』も同じように言うておったよ。魔人の体組織を持ってきて、調べてみてくれと頼んできおった。ヤツとの戦いは、まるで――」 「――まるで、怪しい石像の類と戦っているみたいだった、てか?」 「うむ」  結論としては、『エスバット』が持ってきたという体組織の調査については、今のところ何の進展もないという。  大公宮から外に出た直後に、アベイがこっそりと、「この時代の技術で判るのかも怪しいけどな」とささやいた通り、目に見えて判る以外の結果は出ないのではないかと思われる。結局、魔人の正体については謎のまま終わるだろう。  それより、気になることがあった。  謁見を終了して退室しようとした『ウルスラグナ』を呼び止め、大臣がこんな話をしたからだった。 「そういえば、ギルド長が、そなたらが魔人を倒したなら来てほしいと申しておったぞ」  それも、随分と深刻さを感じさせる声だったという。  呼び出される心当たりはないが、無視する理由もないだろう。  そのようなわけで、今、『ウルスラグナ』は冒険者ギルドに向かっている。  道すがら無駄話が展開されるかと思いきや、意外にも誰も口を開かなかった。後に思えば、冒険者ギルドで待っているものがどういう類の話なのか、漠然と悟っていたのかもしれない。  ギルドが見えてくると、自然と足早になる。  門を潜り、扉を前にすると、ノックすら惜しいと言わんばかりに――もともとギルドの扉をノックして入る冒険者は少ないが――押し開けた。  ギルド内の空気は、厳格なギルド長の影響を受けて張り詰めていながら、しかし適度な緩やかさも保っていた。しかし、ギルド長や衛士達が『ウルスラグナ』の姿を認めた途端、急激に冷却され、氷の結晶をも生じさせそうな緊張に支配された。  衛士達が自分達の一挙一動を気にしているのを感じつつ、冒険者達は、黒檀の机の前に歩み寄った。  机の上に肘を立て、手を組んでいたギルド長は、『ウルスラグナ』の姿を認めても、しばらくは無言でいた。やがて、冒険者にとって耐えがたい冷えた空気を、静かに払うかのように、声を発した。 「炎の魔人を、倒したのだな?」 「……ああ」 「そうか」  わずかな間が空いた。かすかに聞こえた息の音は、ギルド長が鎧の下で溜息を吐いたからなのかもしれない。 「ならば、私はお前たちに知らせなくてはならないことがある」  ギルド長の手が、机の引き出しに掛かり、何かを探り始めた。やがて机の上に戻ってきた手の内には、一通の封筒がある。何の変哲もない茶封筒で、差出人の名こそよく見えなかったが、はっきりと速達印が押されていた。 「これは、エトリア執政院の長オレルス殿から、一昨々日(さきおととい)に届いたものだ」  一昨々日といえば、天牛ノ月七日のことだ。 「オレルスから?」  エルナクハは首を傾げた。 「ああ」  青黒い兜が、縦に揺れる。 「お前たちに連絡したいことがある、とのことでな」  嫌な予感がますます増大した。エトリアは『ウルスラグナ』の逗留地である私塾の住所を知っているはずなのに。もちろん、オレルス自身は知らなかったのかもしれないが、パラスのはとこに訊けば問題ない。にもかかわらず、オレルスは住所を訊かず、冒険者ギルド気付で連絡を寄越してきた。  ――いや、住所は『訊けなかった』のではないか。  あるいは、住所は知っていたが、敢えて直接送るのを避けたのではないか。  そして、ギルド長が、一昨々日に届いた手紙を、今日になるまで知らせなかったのは――。 「どんな話だ」  かすれそうになる声を辛うじて整え、聖騎士は続きを促した。  ギルド長は無言のまま、封筒に手をかけた。やはり、一度は開封したようで、封筒は何の抵抗もなくその中身を顕わにする。入っているのは折られた紙が二枚――いや、片方は未開封の封筒だった。その封筒を取り出すと、ギルド長は『ウルスラグナ』一同にそれを差し出した。 「受け取るがいい――ナギ・クード・パラサテナ」 「――っ」  ほとんど息の音にしかなっていない声を、パラスは上げた。  強ばる手を伸ばして、封筒を受け取る。  指がフラップに掛かるが、開けたら中から呪いが吹き出てくることを恐れているかのように、かたかたと震えている。  それでも、埒があかないと思ったか、思い切って封を切る。  中から現れた、折りたたまれた手紙を引き出し、一度息を吐いて覚悟を固めると、開いた。  仲間達が固唾を呑んで見守る中、パラスは手紙の文字を追う。はとこの手紙は手書きなのだが、今回の手紙は打鍵作文機(タイプライター)で記してあるようだ。全て直文字で記されたその文を、震えながら読んでいたパラスは、突然、手紙を持つ手に力を込め、くしゃりと皺(しわ)を寄せさせた。 「あ……あ……」  吐息と共にうめき声を発し、ついには、くたりとへたり込む。  手から離れた手紙が、ひらひらと床に舞い落ちた。 「パラスさん!?」 「パラス!」  仲間達はカースメーカーの少女に駆け寄った。  しかしエルナクハは、パラスのことは仲間達に任せ、まずは落ちた手紙を拾い上げた。その文面に目を通していくにつれ、エルナクハの手にも力が入り、手紙をさらにくしゃくしゃにしてしまう。パラスのように膝を折ってしまわないように耐えるのが、精一杯であった。  手紙に記してあったのは。  パラスのはとこ――元ライバルギルド『エリクシール』の聖騎士が死んだ、という知らせだった。 第二階層――見よ、かの魔人を! END