世界樹の迷宮 ハイ・ラガード編:Verethraghna 第一階層――栄えし獣たちの樹海  かつてエトリアで『世界樹の迷宮』に挑んだ時、地上で目にする森よりも華やかな緑を孕むその光景に、誰もが心動かされたものだ。  今にして思えば、それは『世界樹計画』の一環として強く繁茂することを約束された、古の森ゆえだったかもしれない。どれだけ人の手が入り、資源を持ち出したとしても、森は早急にその穴を埋め尽くす。外の森も生命力に満ちてはいるが、『世界樹の迷宮』には敵うまい。  そして今、目の当たりにしている、ハイ・ラガードの迷宮にも、一行は心動かされた。  この迷宮に足を踏み入れる前に寄った交易所での、シトトの娘の言葉が、思い起こされる。  ――きっとおどろきますよ! 私、入り口までしか行ったことはないですけど、すごく感動したんです。  ――ずっとずっと奥までキレイな緑色が続いていて、明るくて、澄んでいて……。  ハイ・ラガードの第一階層は、エトリアの第一階層に比べても、より華やかに見えた。例えるならば、エトリアは『春の森』で、ハイ・ラガードは『夏の森』だろうか。エトリアの夏のような暑さが身を包むが、湿気が少なめなのか、それほどの不快感は感じない。  さながら『おのぼりさん』のごとく、きょろきょろと周囲を見回していた冒険者達だったが、ちりり、と耳を打つ鈴の音に我に返った。  鈴を鳴らしているのは、全身を鎧で固め、頭すらもフルフェイスヘルムで護った、一人の衛士であった。その音で樹海内の生き物を寄せ付けないようにしているのだ。彼の背がやや遠くにあるのに気が付いて、冒険者達は慌てて足を早めた。  そう、今、自分達は、『世界樹の迷宮』の試練に挑もうとしているのだ。呆然としている場合ではない。  それでも意識は周辺の光景に引きつけられる。  いくら華やかとはいえ、森だけなら、エトリアの経験もある以上、そこまで惹かれることはなかったかもしれない。だが、道すがら見かける、森の中にあるにしては異質なものが、気になって仕方がないのだ。  それは、石を積み上げて作られた、柱のようなもの。それも、表面は苔生し、割れや削れも目立ち、異質ながらそこにあって当然といった風情を漂わせる様からは、ここ数年のうちに作られたものとは思えない。だが、どれだけ前に作られたものであったとしても、このようなものを作れるのは、知的生物以外にはあり得ない。  人間か、あるいは他の何かか。  他の何かだとすれば、エトリア樹海での『モリビト』のような存在が、ハイ・ラガード樹海にも棲んでいた(あるいは、いる)ということになる。  だが、エトリア樹海にある知的生物の痕跡は、ここまであからさまではなかった。  もし、人間だったら……。 「昔は、この中に人間が住んでた……?」  ハイ・ラガード大公宮に赴いて試練を承った時、教えてもらった、古来よりこの地に伝わるという伝承を思い出す。 七つの海に 文明が呑まれ 五つの島に 樹海が広がり 一つの城に 選ばれし民は逃れた 七つの海は すべてを沈め 五つの島は すべてが滅し 一つの城は 全ての孤児と化した 天空を漂う城の民は 長き放浪の末 再び母なる大地に降り立つ  それはハイ・ラガードの興国記である。  この地に足を踏み入れる際に、マルメリが歌ってはいたが、それはあくまでも興行向けに改変が加えられていたものらしい。そちらに比べれば、全体的には余計な装飾がないだけではあるが、たった一つ、重要な違いがある。  大公宮で聞いた話では、『空飛ぶ城』は(実在するのなら)あきらかに一つだと断言されているのだ(余談だが、マルメリは「なんだ、一つだけなんだ。がっかりだわぁー」と嘆いていた)。  とはいえ、今、頭に引っかかったのは、そこではない。  天空の城の民がどのように地上に降り立ったのかといえば、まさか飛び降りたわけではあるまい。それは、この世界樹を伝ってである。それも、外側を伝って降りるのは無謀の極み。内側に迷宮がある以上、普通に考えれば、そちらを通って降りたことになる。  あるいは。  仮に『空飛ぶ城』が実在しないとしよう。ならば、かつて『世界樹計画』が発動された後、『選ばれた』人間達は、(現在の)ハイ・ラガード樹海の基礎としてできかけていた、この階に身を潜め、『計画』の成就まで生活を営んでいたのかもしれない。現在の人間達には『計画』が成就されたのか、わかりようもないのだが、とにかく『選ばれた』者達は、ある程度の段階で見切りを付けて外に出て、ハイ・ラガードの祖となったのか。さもなくば、今日まで生き延びることができなかったのか。 「――いや、もうひとつ、か」  彼らの末裔は、樹海の外に出ず、上へ上へと居住空間を移しているだけかもしれないのだ。  そう考えると、ちょっとだけおかしくなった。もしもそうだとしたら、自分達は天から降りてきたハイ・ラガードの父祖の足跡を辿ろうとしているのに、実際に追う足跡は天へ上ろうとしている上に、ハイ・ラガードの父祖ですらないということになる。 「ま、それもアリかもしんねぇけど」  そう心の中でつぶやき、エルナクハは自問自答を打ち切った。頭のいいセンノルレやフィプトならともかく、自分がごちゃごちゃ考えても不毛なだけだ。後ほど、戯言として披露し、思考の試金石にでもしてもらうのが、ちょうどいいだろう。  改めて武具を構え直す。衛士の持つ『獣避けの鈴』で魔物の接近が抑えられている今は、気負わずともいいのかもしれないが、そろそろ性根を入れるべきだろう。皆も同じことを思っているらしく、武器を持つ手が力を孕んでいくのが感じられる。  エルナクハの盾とオルセルタの剣、そしてナジクの弓は、交易所で作られた武具に買い換えてあるが、他の装備はハイ・ラガードに足を踏み入れた時のままである。残る冒険資金は、万が一に備えた分を除き、全てメディカに化けた。 「さて、鬼が出るか、蛇が出るか、だな」  最初に出るのがどっちであれ、『世界樹の迷宮』に巣くう生き物は、ただのネズミに見えても外界の獅子より強いことがあるから侮れない。要は試練が終わるまで変なものは出てくれるなよ、つーか衛士サン、あの鈴二、三個ばかりくれないかなぁ、と、冗談交じりに考えつつ、エルナクハは衛士の後を追うのであった。  話はそれより一時間ほど遡る。  世界樹を抱き込むように建造された公国ハイ・ラガードの行政区に、『ウルスラグナ』一同の姿はあった。  見た目から察せられるように、ハイ・ラガードの構造は他に類を見ないものであった。  数階建ての建物がいくつも肩を寄せ、その中に居住区や工業区、いくつかの小さな商店が存在する。それぞれの建物は、何らかの形で、建物外に出なくても行き来出るように繋がっていた。環状に連なった巨大な集合住宅である、といえば、説明になるだろうか。  その『集合住宅』に取り囲まれるように、中央市街があり、比較的大きな商店が繁栄を競っている。その商業区の内側、世界樹の傍に、行政区や貴族街があった。なお、中央通りは街門に通じ、橋を越え、南へ、他国へと繋がる。  これら主幹区域を守る街壁の外側にも、後々に拡張された建物がある。フィプト・オルロードの私塾も、元は市街拡張工事の作業員の宿泊所であり、街壁の外側にあった。世界樹の迷宮入り口に通じる道も、存在する。  『ウルスラグナ』も後々に実感することだったが、ハイ・ラガードでは貧富の差はあるにしても、それが国の荒廃の直接の原因になることはなさそうだった。うまく言い表せる言葉を探すとすると、『清貧』とでもいうのか。それぞれがそれぞれの手に納まる程度の幸せで満足し、仮に何かの足りなさゆえに転げ落ちそうになれば、瞬く間に数本の助けの手が差し伸べられる。  とはいえ、それは等しく被統治者であればこそ。統治者との間には、深刻な敵対関係ではないにせよ、ある程度は隔たりがあるようだった。こればかりは、どれだけ立派な統治がされた国であってもあり得ることだ。 「うふふ、絶景ですわえ」  仲間達から離れたところで、建物の隙間から、北方に広がる低地帯を眺め、焔華が笑んだ。  彼女の歩みを助ける足下の友は、麦藁で編まれた『草鞋』である(「ホントは稲藁で編むんですけどな」と焔華はぼやいたものだ)。その履き物が見た目より丈夫なのは、ここまでの付き合いでわかっているのだが、他の仲間達からすれば、やはりどうにも心もとない。だが、事実、焔華は、ここまでの旅を、この履き物一種で進みきったのである。とはいえ、もしも北方の低地帯を歩いていこうとするのなら、焔華の履き物はどこまで保つのだろう。いや、一見丈夫そうに見える革靴でさえ、保つかどうか。  実際に行った者がいない、いや、いたとしても戻ってこないがゆえ、真実は明らかではないが、遠い北方には凍った大地が、そして『氷の大陸』が広がるのだという。朝食後の歓談の時、何となく北方低地帯の話になり、『氷の大陸』の真偽について『ウルスラグナ』一同がアベイに聞いた際の答は、「少なくとも昔はあった。シロクマやペンギンがいた」というものだった。シロクマというのは『白いクマ』だというのが想像付くが、ペンギンというのが何なのかはよくわからない。鳥類らしいが、アベイが描いて見せてくれた絵ではツバメの出来損ないにしか見えない。それが海を泳いで魚を食うらしい。  焔華がしきりに北方を気にしているのは、その珍妙な鳥のことが気に入ったらしく、今の世界にもいるなら見てみたいと思っているからだろう。 「今は『新たな道』なのでしょう?」  センノルレが軽く叱責めいた言葉を放つと、 「そうでしたわ」  ブシドーの娘は肩をすくめ、藤色の袴をひるがえし、身軽に戻ってきた。 「それじゃあ、行くぜ」  ギルドマスターの促しに、全員が正面を見据える。  目の前に佇む建物は、このハイ・ラガードを治める大公の居住、大公宮である。名だたる大国の支配者の居住に比べれば格段に規模が小さく、ともすれば大国の大商人の居住にさえ劣る。しかし、それは、単純に規模だけを見た話である。全体的な見た目や、各所に施された装飾は、大国のものに勝るとも劣らない。派手派手しくはなく、奇抜でもないが、全体的な調和が美しい、白亜の建物であった。  なにより、その存在感は、圧倒的なものだろう。  仮に他国の使節がハイ・ラガードを訪れたとしよう。正面から街に入り、中央広場の目抜き通りを真っ直ぐに通過し、貴族街に、そして行政区に入る。その目の前に見えるのは、ハイ・ラガードの支柱としてそそり立ち、街と空を抱き締めんかのように枝を広げる世界樹、そして、その神木の木陰で翼を広げて休む白鳥のようにある、大公宮の姿。いかなる武装を施した城塞も、どれだけ金銀貴石を使って飾り立てた宮廷も、視界を否応なく侵すこの衝撃には敵うまい。  この街の設計をしたヤツは、なかなかの策士だ、とエルナクハは思った。  今日この日は、『皇帝ノ月一日』、ハイ・ラガード建国の日、いわば新年だという。ギルド長の話では、祝い事は他国の暦に合わせて行うため、この日は新年といっても華やぎないものになるとのことだが、とんでもない。確かに、夜通し騒ぐ若者がいたわけでもない、派手な花火が打ち上げられるわけでもない。しかし、行く道の両側の建物には花のリースやタペストリーが吊り下げられ、『勇者を引き寄せる』と謳われるハイ・ラガードの風に、可憐な花びらが舞い散る。昨日訪れた時は無骨なだけだった冒険者ギルドも、樹海探索者を登録するために立ち寄った時によく見れば、門の両側に花鉢が飾られていた。そして、大公宮も例外ではない。  幾千もの葉が、ざわざわと鳴り響く。その葉の重なりの隙間を、どれほど素早い鳥ですらも敵わぬほどに器用にすり抜け、地に落ちて揺らめく朝の木漏れ日。その中を、『ウルスラグナ』は、ハルバートを突き立てる衛士が向かい合わせに護る門へと近付いていった。  もう何百人もの冒険者の訪問を受けているのだろう、手慣れた様子の衛士や侍従長の誘導に応じて、『ウルスラグナ』は大公宮の奥へと足を進める。  通された先は謁見の間であったが、大公宮全体と同様、大国の城のそれに比べれば、決して大きいとは言えない。それでも、両脇に羅列する柱を従えた様は大層に立派なものであり、他国の使者が訪れた際に大公が現れるのであろう、正面の大扉は、金箔を貼られ、窓から差し込む朝日にきらきらと輝いていた。  扉の上には、ハイ・ラガードの紋章のレリーフが飾られている。ギルド長の鎧にも記されていたこの紋章、果たして何を元としたものなのか。数字の『8』に似ていながら、最頂点が繋がっていないその形に、エルナクハが最初に想起したのは、『ウロボロス』であった。己が身体を捩り、自らの尾をくわえようとする、知識の蛇。その身が繋がっていれば『永遠』を意味する存在。だが――仮に想起したとおりだとしたら、繋がっていないのは、どういうことか。  考えるのは、後だ。  エルナクハは目の前に立つ人物に意識を向けた。  生きてきた年月がそのまま皺となって皮膚に刻まれたような、老人であった。髪はすっかりと白く脱色し、しかも頭頂部分には残っていない。立つのに杖に頼る様は、足腰も弱りつつあることを思わせる。それでも、上質の服に身を包む様と、なにより目に宿る智慧の光は、その老人が只物ではないことを如実に表していた。  『ウルスラグナ』が自らの名を名乗ると、老人は、うむうむ、と頷き、光を失っていない目で一同を見渡した。 「なるほど、聞きしに勝る風格、さすがは樹海の英雄よ。まことに感服の限りじゃ」  じゃが、と間を置き、老人は続ける。 「竜殺しの英雄すら、凡俗に唯一の弱点を突かれて地に沈むことがある。ゆめゆめ油断めさるな」  それは、この国に足を踏み入れてから、痛いほどに思い知った事実。『ウルスラグナ』一同は、唇を噛みしめながら、その言葉をしかと心に刻む。  漂い始めた重苦しい空気を払うかのように、老人は再び声を上げた。 「そうそう、申し遅れた。この老体は、大公さまに仕え、この国の政を司る按察大臣である」 「アンサツ……って、何?」  聞き慣れない言葉に、ティレンが近場のナジクに囁き問うた。問われた方は静かに頷き、こちらも囁く声で返す。 「大まかには、住人の管理、食糧供給、街道、上下水道などの公共施設の維持管理、祝祭事の企画開催……そんなところを引き受ける大臣だな」 「つまり、何でも屋さん大臣ってことだ!」  納得した旨を屈託なく告げるティレンの声は、いささか大きすぎて、傍にいたナジクは当然ながら、他の冒険者達も、そして大臣さえも吹き出した。そんな中、当のティレンだけは悠然と大臣に向き直り、こんなことを宣う。 「おじいちゃん、オシゴト大変。何でも屋さん、頑張って」 「う……うむ……」  大臣はどう答えたものか困ったことだろう。このようなことを面と向かって言われるのは想定外だっただろうから。 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」と、ぺこぺこと頭を下げるのはオルセルタ。しかし、そんなダークハンターを押しのけて、一歩前に進み出たのは、その兄であるパラディンであった。 「いや、まったくご苦労なことだよな。身体には気を付けて頑張ってくれよ、何でも屋さん大臣サンよ!」  ティレンを庇うように抱え込み、その肩をぽんぽんと叩きながら、不遜な口を叩く。  彼とても、さすがに大臣の御前ともなれば、一応は畏まっていたのだ――今の今までは。それを自ら華々しくぶち壊すような傲慢さに、仲間達は、特にオルセルタは慌てた。相手は数多の冒険者を相手にしてきた身で、多少の無礼には慣れているかもしれないが、だからといって今のはあんまりだ。  しかし大臣は、ぽかんと開けた口を、そのまま大笑いに転じたのであった。 「ふははは、さすがは樹海の英雄。この老体への労りの言葉、感謝この上ない。仰るとおり、この身はハイ・ラガードの何でも屋として大公さまにお仕えしておる。何でも屋ゆえに、そなたたち冒険者の管理も命じられておるのだよ」 「本当に大変なこった。以後、よろしく頼むぜ、大臣さんよ」  ギルドマスターの言葉に、「うむ」と応じる大臣を見て、『ウルスラグナ』一同は、とりあえず事態は収まったと見なして胸をなで下ろす。  そうしてから、改めて気が付いた。  ギルドマスターはギルドの仲間の失言を庇ったということである。  ……それが、結果的に不問にされたとはいえ、さらなる暴言で、というのは、どうかと思うのだが。  もちろん、話がここで終わるわけではない。 「ところで、そなたらは、『世界樹の迷宮』に挑むための条件を存じておいでか?」  大臣の言葉に、『ウルスラグナ』一同は、この国を訪れてからのことを思い起こした。  確か、ギルドの登録をする時に、ギルド長が言っていたはずだ。『世界樹の迷宮の探索は、この国の民にしか許されていない』と。冒険者ギルドでの登録は、そのまま公国民としての登記にも使われるという話であった。 「さよう」と大臣は大きく頷いた。 「じゃが、公国民としての正式な登録は、この大公宮から出題する試練を乗り越えてもらってからの話じゃ」 「なるほど、そういうことか……」  エルナクハは得心した。つまりは『ふるい落とし』。富と名誉を求める冒険者の過去は問わないが、だからといって有象無象を無制限に受け入れるわけにはいかない。最低限、『国益』に沿いうる人材でなくてはならないというわけだ。この場合に求められるのは、最低限、迷宮の最下層より生還しうる実力。どれだけ他の場所で腕を誇っても、『ここ』の迷宮を制する力がない者は、去るしかない。この国から、否、最悪の場合は、この世から。 「試験を受ける覚悟はあるのじゃな? 冒険者たちよ」 「覚悟がなけりゃ、ここには立ってねぇ」  生命の危険を承知してなお、『ウルスラグナ』はここにある。たった一つの生命を奪わないで下さい、と、安全な場所で神サマにお祈りでも捧げつつ、愛する妻子を護りながら子孫を栄えさせる、それが生き物の常套かもしれない。それでもエルナクハ達は人間で、度し難き大馬鹿者の冒険者であった。だからこそ、ここにある。  そんな大馬鹿者達を、大臣は、子を、あるいは孫を見守るような目で見据え、大きく頷いた。 「それでこそ冒険者、そなたらが育ち、樹海の脅威を凌駕するほどに強くなること、それこそが、我らにとっても好ましい」  近くの衛兵に「勅命書をこれへ」と告げる大臣。その言葉に従い、衛兵は柱の影の小さな扉から謁見室を出ていく。彼が戻る間の繋ぎのように、大臣は滔々と言葉を紡いだ。 「この老体は、ほれ、『何でも屋大臣』ゆえな、そなたたちが挑むであろう迷宮の調査も、大公さまの命により、統括しておる」  『何でも屋』と告げる言葉は、先程のティレンやエルナクハの物言いをからかうようであったが、しかし、続く言葉に差し掛かった時には、大臣の声音は真剣なものに戻っていた。 「さて、そなたたちも噂には訊いておろう。この国には伝承があり、それは迷宮の先に『空飛ぶ城』があると告げておる。最終的な目的は、その城の発見じゃが――あるいは単なる伝承、迷宮の先には何もないのかもしれん」 「それは、とってもつまらないわねぇ」  と口を出したのはマルメリである。その姿から、彼女が伝承の追い人であることを悟ったのか、大臣は再びからかうような言葉に戻った。 「つまらぬか、ふふ、つまらぬか。まったくよの。この世に夢の一つもなくば、何をよすがとして人は生きるものかのう? そのような泡沫(うたかた)を追うのが、そなたたち吟遊詩人、そして、生命知らずの冒険者達。違うかな? と、ここで現実的な話に戻らせてもらうが……」  先程出ていった衛士が戻ってくるのを見定め、大臣は話を締めにかかった。 「伝説に聞こゆる城、その実在を証明した暁には、そなたらには賞金を与えよう。もしも望むなら、この国の貴族の地位も約束する」 「太っ腹だな、大臣のジイサン」 「大公さまは、それだけの価値があるとお考えなのじゃよ、この伝承にはの」  確かにそうかもしれない、と『ウルスラグナ』は思う。もしも『ウルスラグナ』の考えが正しければ、迷宮の果てに眠る城は、失われた前時代の遺物。エトリア樹海が閉ざされた今、おそらくは唯一の、何千年も昔の文明をそのまま伝える、貴重な存在である。それは、この世界の成り立ちに疑問を持ち、興味がある者になら、金には換えられない価値のあるものだろう。この際、大公自身にそのような興味がなくても構わない。おそらく、どこかしらが調査を打診し、見返りになにがしかをハイ・ラガードにもたらすことになるだろう。それもまた、価値のかたちのひとつだ。  大臣は戻ってきた衛士から何かを受け取った。それは、絹を織った赤いリボンと暗赤の封蝋で封じられた、一枚の丸められた羊皮紙である。『勅命書』であるらしいそれを、大臣は『ウルスラグナ』の目前に突きつけた。 「……さて、ではそなたらに試練を出す。樹海の探索を始めたくば、まずはこの『勅命書』を受けとるがよい」  対する『ウルスラグナ』の行動は、たったひとつの他にありようもなかった。  ギルドマスターの黒い腕が、何の躊躇もなく、『勅命書』に伸ばされた。  『ウルスラグナ』は樹海探索のベテランではある。だからとて、初めて踏み入り、まだ右も左もわからぬ地を、敢えて道を覚えにくいように引率されている状況では、自分の位置がわからなくなっても致し方あるまい。現在位置だけは確認できる『磁軸計』さえも、今は衛士に預けられ、見ることもできない。  仕方なく、周囲をきょろきょろと観察するにとどめる。  迷宮を孕む世界樹自体が巨大なことは確かだが、一本の樹の中に広大な迷宮がすっぽりと収まっている様は、圧倒的な非現実感と、確かな現実感という、相反する感覚をもって一同の心を浸食した。  遙か頭上からは、並び立つ木々が広げる枝葉の間から、揺らめく木漏れ日が斑に地面を照らす。  エトリア樹海でもそうだったが、『世界樹の迷宮』と呼ばれる迷宮は――まだ二例しか確認されていないため、未発見の『世界樹の迷宮』までもがそうなのかはわからないが――階層構造であり、つまりは自分達がいる空間の上や下にも、樹海迷宮が存在するということになる。言い方を変えれば、最下階でない限りは、自分達が踏みしめる地面は下の階の樹海の樹冠であり、最上階でない限りは、自分達の頭上には上階の迷宮を支えるべき地面があるわけで、だったら木漏れ日がどこから来るのかという疑問があった。『地面』の隙間から透過してくる、というにも程がある。  もっとも、この疑問には、『ウルスラグナ』は仮説ながら答を出していた。  エトリア樹海の第五階層、『遺都シンジュク』と呼ばれたところでは、遺跡の方々で、結晶化した植物の蔓とおぼしきものが見つかっていた。ところが『水晶のツル』と呼ばれるようになったそれの正体は、あくまでも執政院の役人が――つまりは、所詮は現代人が推測したに過ぎないものであり、前時代人の目から見れば、さらなる事実が明らかになる。かつて『遺都シンジュク』と呼ばれた地が『新宿』であったころに生きていた少年・阿部井祐介――アベイ・キタザキは、雲のように霞む記憶の彼方を必死で探り、たぶんだけど、との前置き付きながら、結論を出したものだ。 「これ、たぶん、『光ファイバー』だ」 「光、ファイバー?」  光で、繊維。個々の単語の意味はわかるが、複合されると何が何やらというあんばいになる。 「つまりだな、ガラスを、こうやって細い棒――ってより、もう紐だな、そういうふうに作る。くわしいことは俺にはわかんないけど、とにかくこいつは、ホースに水を通すように、光を運ぶ。例えば、屋内に太陽の光を引き込んできたりもできる」  アベイの説明が確かだとしたら、『世界樹の迷宮』には、その『光ファイバー』、つまりは『水晶のツル』が張り巡らされ、方々に光を供給している、と考えられる。どこか地表の、人間の手が届かないところに、蔓の端が顔を出していて、日の光を集めて『世界樹の迷宮』に送り届けているのかもしれない。  少なくとも「『水晶のツル』が光を運ぶ」ということが事実なのは確かで、短く切られた蔓の片側に強い光を当てると、もう片方の断面が強く輝くのを、冒険者達は目の当たりにした。  あるいは――こういうのもありかな、とアベイは続けた。 「これは『光ファイバー』に似てるけど、本当に植物なのかもな。階層構造になって、日の光が届かなくなった迷宮の中、光を欲した植物が進化して、地表から日の光をかき集めて迷宮に届けるように、ガラス質の蔓を得た……と」  なにしろ『世界樹の迷宮』、人間の想像も付かない生命の進化もありうるかもしれない。  いずれにしても、枯レ森と遺都に夜が来ない説明が不足しているものの、迷宮内に日の光が届くことがあり得ることは確かだ(あくまでも仮説だが)。ハイ・ラガード樹海も同じような仕組みで迷宮内に光を調達しているのなら、いずれどこかで、エトリアで見かけたような『水晶のツル』を発見することもあるかもしれない。  そのような発見を夢見るのも、まずは、試練を乗り越えてからだ。 「……この辺りでいいだろう」  ふと、前を歩いていた衛士が足を止めた。周囲から迫ってくるような圧倒的な森のただ中に、探索班として選抜された五人――エルナクハ、オルセルタ、アベイ、ナジク、フィプト――は、親を失った孤児のように佇む。もちろん、何をしていいのかわからない幼子ではなく、己が初めて体験した出来事の中にありながら、これからどうしたらいいのか、と自分なりに思考をめぐらせる自立者のそれである。  もはや今まで通ってきた道など覚えていない。だが、少なくとも、道は、妙な仕掛けを通ったりすることなく、出口に繋がっている。 「君たちの任務は、ここから街までの道程を地図に描きながら帰ってくることだ」  衛士は、『ウルスラグナ』から預かっていた磁軸計を返してきながら、言葉を続けた。 「地図の書き方については、私が口を差し挟むことではあるまい。君たちの描きやすいように描いてくれればいい――もっとも、地図として使えないようでは困るがな。羊皮紙はきちんと持ってきているだろう?」  『ウルスラグナ』一同は、しかと頷いた。  磁軸計と共に――つまりはギルド登録を行った時に、樹海の地図を書きやすいように、うっすらとガイド線を記された、特製の羊皮紙も、数枚支給されている。無事に樹海を進み、紙が足りなくなれば、またもらうことができる。もちろん、自前で紙を用意しても構わないのだが、大抵の冒険者は、支給された羊皮紙を使っていた。  衛士は羊皮紙を一枚要求し、『ウルスラグナ』が応じて差し出したそれに、さらさらと何かを書き加えた後、再び返してきた。 「では、これで私の役目はおしまいだな。私は一足先に戻って、街への入り口で待っていよう。君たちが無事に戻ってくることを祈っている」  衛士はそう言い終わると、踵を返し、今来た道を戻っていこうとする。が、何かを思い出したか、くるりと振り向いて、下草を踏みしめながら、『ウルスラグナ』の傍に帰ってきた。 「――時に、君たちは、メディカは必要ではないか?」 「メディカ?」  メディカが何かは、言われるまでもなくわかっている。が、衛士がその言葉を出してきた意図が掴めない。冒険者達は顔を見合わせ、続いて衛士に注目した。 「くれるのか?」 「いやいや、ただでとは言わない。売るだけだ」  問うて返ってきた値段は、シトトでの売値よりちょっとだけ高い程度であった。ぼったくり、と言うほどではない。しかし『ウルスラグナ』一同は首を横に振った。すでにメディカは準備しているし、今手持ちにある金は追加のメディカを揃えるには足りない。  にもかかわらず、衛士は残念そうな顔はせず、逆に頼もしい者達を見るような目をしたのである。 「多少のブランクがあるとはいえ、さすがは『エトリアの英雄』、用意がいい。冒険者の中には、メディカさえ準備せずに、世界樹様に挑もうとする者もいるのでね」 「誰だ、そんな馬鹿は」  と呆れた声を出したのはアベイだった。メディックである彼としては、回復役が余程頼りになるならまだしも、薬も持たずに危地に挑もうとする者達の考えが理解できないのだ。その言葉を受けるように、衛士は(顔はフルフェイスの下なので定かではないが、おそらくは)苦笑いをして、『ウルスラグナ』からすれば意外な答を口にしたのである。 「大概は、冒険者になったばかりの、尻に殻が付いたままのヒヨッコどもだが……意外に、エトリアの樹海を経験したという連中にも、そういった者が多いんだ」 「なによ、それ……」  肩をすくめてオルセルタが天を仰いだ。  想像するに、エトリア樹海を経験した者達(もちろん全員ではない、一部の者達だろうが)は、自分達が樹海に潜らなかった時間が、予想以上に自分達の力を削いでいることを、念頭に置いていないのだ。エトリア樹海にいた時には、はじまりの階の敵性生物など片手で狩れるようになっていたから、回復役はともかく薬などいらない、と思っている。だが、その考えが甘かったと、生命と引き替えに思い知った者は、どれだけいただろうか。 「ともかく、君たちがそんな者たちじゃなくて、安心した」  フルフェイスの下から漏れる声は、朗らかそうであった。 「これで、先生の身の危険も、少しは減るだろう」 「……先生?」  冒険者達はその言いように小首を傾げる。今の探索班の中で、『先生』と呼ばれ得る者は一人しかいない。だが、その者、フィプト・オルロードでさえ、一体何のことか、と訝しげな表情を浮かべていた。  そんな錬金術師の前で、衛士はフルフェイスを取って見せた。その下から現れたのは、平服を着て街にいれば、さしたる目を引かないような、平々凡々な中年男性の顔。しかし、 「ああ! ルバース君の父上殿でしたか!」  フィプトの反応から判断するに、私塾の生徒の父親だったようである。 「いつも愚息が世話になっております、フィプト先生。まさかあなた様が世界樹様に挑まれるとは、思いもしませんでしたよ」  フルフェイスを元に戻す間際に見えた表情は、本当に心配そうで、フィプトという男が講師としてどれだけ信頼されているのかが、よく判るものであった。 「……どうか、ご無事でお戻り下さい、先生。愚息に教えて頂きたいことが、まだ山のようにあるんですから」 「無論です、父上殿。どれだけ知識を得ても、この世にいなければ何の役にも立ちません」 「なに、『紫陽花の騎士』の名において、センセイは無事に街に帰してやるよ」  会話に割り込んで豪語する黒い騎士の姿に、安心したのか、あるいは却って不安になったか、もはやフルフェイスの下の表情は読み取れない。それでも表面的には、 「よろしく、頼む」  と衛士は深々と頷いた。 「言うまでもないだろうが、樹海は辛く危険なところだ。十分注意して進むんだな」  続いてそう告げると、衛士は鎧を重々しく鳴らしながら、『ウルスラグナ』に背を向け、今度こそ、茫洋とした翠玉の光の中へと去っていったのだった。  獣避けの鈴の音が、こだまするように、衛士の影を追って消えていった。  鳥の声、虫の羽音、草木の葉擦れ。  騒がしいようでいて、静寂をも同時に想起させる、不思議な空間の中を、冒険者は進みゆく。  アベイが持つ磁軸計は、衛士によって森の奥に連れ込まれた今でさえ、一同の位置と向きを正確に盤上に示していた。ちなみに向きは、光るマスの色の強さによって表される。より白く輝いている辺が、磁軸計を持つ者が向いている方角であった。  その傍では、フィプトが、小さな漉紙のメモ帳を手に、大まかな迷宮地図を描いていく。ある程度進んで、描いた地図が正しいと確信できたら、羊皮紙の方に描き写す予定である。羊皮紙は描き損じても表面を削って間違いを正すことができるが、そんな痕は少ないに越したことはない。  本来は、磁軸計を持つ者と地図を記す者は同一である方が楽なのだが、とりあえずはフィプトに地図描きの基本を知ってもらおう、ということで、今のような形になっているのであった。 「で、単純に考えれば、正しい方向は南に決まってるんだけど……」  磁軸計と、地図の下描きとを、交互に眺めながら、オルセルタがうなる。  下書きにすでに描かれている線は、衛士に案内された末に辿り着いた地点から、ここまでの道である。他には、大分離れたところに広い空間が書き加えられている。これは、衛士が羊皮紙に描いた物をメモにも転記したものだ。一緒に写し取った注意書きによれば、それは樹海入り口とその周辺の地図――つまり、最終的に目指すべきところであった。  現在は、衛士に案内された場所から東に少し行った辺り。南北に延びていると思われる道にぶつかり、それ以上東には行けないようだった――隠し通路がなければ、だが。  現在位置の、迷宮内部の理論的最大面積(つまり磁軸計のマス目である)内における位置を考えるなら、北へ延びる道は、さほど行かずして行き止まりに当たるだろう。もちろん、東か西へ道がさらに延びている可能性もある。こればかりは、実際に自分達の目で確認しなければ、真偽ははっきりしない。 「どっちだかなぁ」  アベイは嘆息しながら周囲を見渡す。 「とっとと帰れる道を選び取れりゃいいんだけどなぁ」 「残念だが、そうもいかん」  皆とは別の方向に注意を払いながら、ナジクがつぶやいた。 「ただ帰ればいいわけではない。ミッションは『地図の作製』だからな」 「そうだけどよ、ジーク」  金髪のレンジャーの呼び名を織り交ぜて、メディックは再び嘆息した。 「ま、効率的に地図を描きながら帰れる道を辿れるのを、祈ろうぜ」  心配などまったくしていない、と言いたげに、からからと笑声をあげ、エルナクハは皆の前進を促すのであった。  ひとまず足を伸ばしたのは、北への道。仮に行き止まりだったとしたら、それを確認した後にすぐ引き返してきて別の道を探せる、という効率性が理由である。 「あっ、と」  フィプトが転げそうになったのを、隣のナジクが支える。 「すいません、ナジク君」 「メモばかり注目していては、足下を取られる」  フィプトがつまづいたのは、地面から少しだけせり出した木の根であった。  迷宮の地図は、磁軸計の一マスに当たる範囲内――足下の状況にもよるが、歩いて二、三分ほどになる――が通れるか否かを判断した上で、簡略化して書かれることが多い。たとえば地面に木の根がぼこぼこせり出していたとしても、道の真中に幹が二股に割れた大木が鎮座していても、両側から木々が迫ってて狭い道でも、通れるものなら通れるとして描く。もちろん、メモとして詳細を書き入れるかどうかは、描く人間の考えによる。  もっとも、今『ウルスラグナ』がいるあたりは、入国試験に入った先達の仕業だろう、あまりにも邪魔な枝は払い落とされ、極端に危険な根も切り落とされているようであった。全部が全部処理されているわけではないから、今のようにフィプトが足を取られたわけだが。 「アベイ、お前も注意しろ」 「わかってる、大丈夫だ」  同じように道以外の場所――つまり磁軸計の盤上にだ――に気を取られがちなアベイは、経験者であるためか、それなりにうまく視点の切り替えをこなしているようだった。一見、どこかにけつまずきそうに見えるのだが、磁軸計と道と交互に見比べながら、危なげなく進んでいく。そんな彼が、数分歩いたところで声を上げた。 「磁軸計のマスが切り替わったぜ」 「ということは、ここまでは、邪魔なく通れる、ということですね?」 「東西には道はないみたいだわ」 「ということは、こう描けば、いいのですね?」  フィプトは改めてメモ帳を取り出すと、すでに記されている迷宮図に線を描き加えようとした。 「東西はまだ詳しく調べてないからよ、隠し通路があるかもしれない。点線とかにしといてくれよ、センセイ」 「あ、はい、そうですね」  ギルドマスターの要求に応え、描こうとしていた線を点で引くフィプト。  その手が、不意に止まった。  危険を察知した草食動物のような勢いで、金髪の錬金術師は顔を上げた。きょろきょろと周囲を見回し、そぞろ寒げに仲間達に問いかける。 「あ、あっ、あの、あの、今、変な声が、しませんでしたか」  大の男とは思えない挙動だったが、『ウルスラグナ』はその様をせせら笑ったりはしなかった。同じ声を全員が感知していたからだ。そして、その声が、生き物の宣告の声だと判ったからだ。  これからお前達を襲う、と。 「臆するな、センセイ!」  エルナクハの鼓舞の声とほぼ同時に、前方の草むらががさがさと音を立て、数体の影を吐き出した。  『魔物(モンスター)』という呼び名がある。  『世界樹の迷宮』内で冒険者や兵士(衛士)に襲いかかってくる動物(時には植物)を総称するものである。要は侵入者である人間が、自分達の探索に都合が悪い生物を『恐ろしいもの』という原義を持つ言葉で表しているわけで、縄張りを守る側の『魔物』からすれば、「何を身勝手な」と言いたいところかもしれない。  とはいえ、人間側にしてみれば、彼らを『魔物(おそろしいもの)』と呼びたくなるのも仕方がないだろう。  『外』の生物とは姿が多少違いながらも、やはり動物であると思われていたものが、牙を剥いて襲いかかる。さほどの脅威ではないと思われいたチョウのごときものが、毒性のあるリンプンで呼吸器を灼き、ただのウサギだと思われた生き物が、人の喉笛を食いちぎる。普通の森のつもりで採集作業に勤しもうとしていた者達にとっては、悪夢以外の何物でもない。  そして、普通の生き物との一番の違いは、『逃走しない』ということだ。  余程のことがあれば逃げるかもしれないし、一例だけ普通の生き物のように逃げる『例外』があるが、概して『世界樹の迷宮』の生物は、生命尽きるまで戦おうとする闘志を見せる。否、闘志というよりも、『狂気』と表現するべきものだったかもしれなかった。  それは、敵が自分の力量を遙かに越える強者であっても変わらない。  『縄張りを守る』と見なすには、あまりにも行きすぎた殺意。  普通の生き物にも、例えばミツバチのように、個体の生命を意味なきものと見なし、自らの生命を無視して敵に挑むものも、いるにはいる。だが、うまく説明できないが、そういうものとは、『何かが違う』のだ。  はるか昔、破壊されたこの世界を修復するべく、人間によって生み出された樹海。  魔物達は、基本的に、この樹海迷宮から出てこようとする気配はないが、あるいは、人間が再び世界の脅威になったとしたら。 「その時は、樹海から魔物達が吐き出されるのかもしれませんね」  エトリア樹海のことについて考察していたセンノルレは、そんなことを推測したものだった。 「エトリアでも、人間が樹海の奥深くに踏み込んだ時には、森を出て街を襲おうとした魔物がいましたでしょう。生物には、『天敵』という存在があります。魔物と呼ばれうる生き物達は、度が過ぎた人間達の『天敵』となるべく用意されているのかもしれませんよ。……もちろん、『世界樹の迷宮』の守護も兼ねてですが」  さておき、迷宮の探索に挑む『ウルスラグナ』探索班の目の前に現れたのは、黄金色の体毛を持つ小動物が二体であった。  姿はネズミに似ていなくもない。ただ、その大きさはネズミの比ではない。優に、樹海外のネコほどはある。それよりも何よりも、その体毛は奇妙なものであった。長く細い毛と、太く短い毛が、針のように逆立っていたのだ。否、太い毛の方は、『針』というより『棘』に見える。 「針ネズミ……ってとこかしら」  緊張を声音に孕み、オルセルタがつぶやいた。その手が自らの腰に伸び、本来の武器である剣ではなく、ダークハンターであれば剣使いであっても常に持ち歩く革の鞭を掴む。それを伸ばし、わざと風の音を立てるように振りながら、兄に問うた。 「いけると思う? 兄様?」 「やべぇな。判るだろ? ただのザコと思ってたけど、殺気がピリピリ来やがる」  どことなく戯けた調子で、パラディンたる兄はダークハンターたる妹の言葉に答えた。  あるいはそれこそが、数多の死地を抜けてきた英雄の証だったのかもしれなかった。魔境から遠ざかって数ヶ月、力を削ぎ落とされた肉体が、かつては雑魚として屠れた敵にさえも今は簡単には勝てないよ、と、正しく警告を発しているということなのだから。 「でも、まぁ」  エルナクハは、盾を構え、仲間達を護るように一歩進み出ると、鼓舞するがごとく言葉を発する。 「今さら勝てないだの何だの言っても仕方がない。勝たなきゃ帰ることもできないんだ」 「大丈夫、あんなネズミ、デカいうちに入らないぜ」  医療鞄の蓋を開け、薬物調合の準備をしながら、アベイが口を挟んだ。 「今急に思い出したんだけどよ、前時代にはデカい犬くらいのネズミがいたんだ。カピバラってヤツ」 「はは、そりゃ、食料とか散々かじられて苦労したんじゃねぇか、ユースケ?」 「大丈夫、うんと南の方にしかいないからな。俺が見たのだってテレビか動物園でぐらいだ」  動物園はともかく、テレビって何だ? とエルナクハはアベイに問うところだったが、当然ながら今はそれどころではない。アベイだって、不意に思い出したのを思わず口にしてしまった、というあたりだろう。詮索は後にするべきだ。  一方、針ネズミは、オルセルタが牽制で振るう鞭の動きと音に警戒し、襲撃を躊躇している。だが、鞭が止まればすぐにでも飛びかかってくる気満々に見える。オルセルタとていつまでも鞭を振るっているわけにはいかないのだ。 「逃げる選択肢もある」  ぼそりとナジクが声を上げた。アベイも本当は同意見らしく、戦いの準備自体は怠らないまま、しかしレンジャーの言葉に首を縦に振っている。  だが、エルナクハは否定の動作をした。 「元気ないまのうちに、一度くらいは戦いを経験しておきてぇ」  逃げるという行為にも余力が必要だ。後がないという状況で『逃走』を選ぶのは、ある意味で自殺行為である。なにしろ、敵に背を向けるのだ。失敗すれば、一方的に攻撃を受け、大怪我は避けられない。  そこで意識されるのが、樹海初心者であるフィプトの存在だった。  今この時、初めての『魔物』との遭遇に緊張しているフィプトが、さぁ逃げるぞ、という段になって、上手く逃げ切れるか。パラディンの心配はそこにあった。もちろん仲間達の援護が付けば、そうそう逃げ切れないこともないだろうが、対策は、なんとかできそうな時に立ててしまった方がいい。  そして、今立てられる対策は、おそらくは樹海最弱レベルの魔物である、ネズミどもとの戦いを一度は経験させること。戦いというのはこういうことだ、と彼の意識に覚え込ませるために。皆がまだ元気で、フィプトに気が回せるうちに、だ。  エルナクハの考えに気が付いたか、あるいは単純に、確かに戦いを経験するのも必要だ、と思ったか、フィプト以外の仲間達が一斉に頷いた。 「小生は、どうしたらいいのですか?」 「センセイは、とりあえず自分の身を護るのに専念しとけや」  妹が振るう鞭の音に合わせるように、パラディンは、アルケミストへの指示を皮切りに、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。 「ユースケはいつでもケガの手当ができるように待機頼む。ナジク、撹乱できるか?」 「……まだ上手くできなさそうだ。単純な狙撃でなら援護できる」 「そか、じゃ、それで頼む。オルタ、オレらは言うまでもねぇ」 「うん、バルシリットの戦士の面目躍如、ね――じゃ、鞭止めるわよ」  ひゅんひゅんと鋭い風の音を立て、時折地を叩いて土塊を散らす鞭が、唐突に消失した。もちろん、完全になくなったわけではなく、オルセルタの手元に戻り、くるくると丸まって収まっただけのこと。  魔物どもにとっては、自分達を邪魔していたものが失せ、ようやく侵入者に飛びかかることができる、その瞬間がついにやってきたことを示していた。  自分達の縄張りに踏み込んだ人間の不幸を嘲笑うかのような叫び声を上げ、二体の針ネズミが、『ウルスラグナ』に襲いかかってきた。  後に記された、錬金術師フィプト・オルロードの手による、ハイ・ラガード樹海の探索記録には、その時のことがこう記述されている。 『それは冗談のような光景だった。獣達は、前衛の戦士達に飛びかかり、あっと言う間もなくその肌を噛み千切ったのだ。アルケミスト・ギルドに保管されていた古書に、『黒い肌の人間は血も黒い』という馬鹿げたことが記してあったが、やはりそれが嘘だったのだと、よくわかった。後方で待機する私の目にもはっきりと判るほどに、彼らの出血は凄かったのである。  しかし、彼らが苦痛に顔を歪めたのは刹那のこと、パラディンは不敵な笑みを浮かべ、ダークハンターは気合いの声を上げながら、それぞれに自分達を傷つけた魔物に反撃を加えた。やや離れたところからは、レンジャーが巧みに場所を移動しながら矢を射掛け、メディックは治療具一式を用意した上で戦いの趨勢を冷静に見守っている。  かくいう私はといえば、周囲に満ちる殺気の渦と血の臭いに、がくがくと震える足をどうにか支えることが精一杯だった。  前日にパラディンが言っていた言葉が思い出された。『世界樹の迷宮』は、『己の生死すら笑い飛ばす覚悟を持たない者には、ただの地獄だ』という。自分が冒険から逃げたくなる時が来るかもしれない、と思っていたが、まさか足を踏み入れたばかりで早々にそんな気分になるとは。  結局、私は、机上でしか物事を考えていなかったのだ。  場違いな存在である愚かな私が、今さらながらに恐怖に打ち震える前で、戦いは終わりを告げた。二体の魔物は全身を朱に染めて、ぐったりと地に伏した。その片方をしっかと掴み、天上の神に捧げるかのように差し上げたパラディンは、自分の方こそ倒れてしまいそうな血まみれの有様で(そのほとんどは返り血だったのだと後に知ることになるのだが)、勝利の声を上げたのだった――』 「ほらよ、センセイ」  錬金籠手を外した両手の上に乗せられた死骸はまだ生暖かく、フィプトは危うく悲鳴を上げるところだった。生物の死骸に慣れていないわけではない。前時代ならまだしも、この世界での『死』は『生』の背にぴったりと張り付いているものだ。それでも、荒事とはあまり縁のない者は多い。フィプトもそんなひとりであり、たった今目の前で殺され、ひくひくと痙攣したままの生き物を、目の当たりにするのは、さすがに初めてだったのである。  危ういところで悲鳴を喉奥に押し込め、息を吐き、呆然とつぶやく。 「……これが、樹海で戦う、ということ……」 「なに、いずれ、これが日常になるさ」  黒い聖騎士は、にんまりと笑うと、自分の荷物からメディカを取り出し、共に取り出した布に薬を少し染みこませた。瓶をくわえて残りを飲み干しながら、布を腿に大きく開いた傷口に押し当てようとして――失敗した。がっくりと膝をつく彼の後を追って、手を離れた布が地面に落ちる。 「兄様!」 「ナック!」 「エルナクハ!」  仲間達が口々に彼の名を叫んで駆け寄るも、聖騎士は地に四肢をついたまま、大声を上げて笑う。 「ふはははは! いや、さすがは『世界樹の迷宮』だぜ。ザコ二匹でも油断できねぇ」 「笑ってる場合じゃないだろ、ほら、鎧脱げ」  アベイが聖騎士の鎧に取り付いて、手早く外す。その下の鎖帷子や綿入れも脱がされ、顕わになった黒い肌は、ところどころが腫れている。針ネズミの体当たりを何度か食らっていたのだ。アベイは溜息を吐くと、医療鞄から出した数種の薬を吟味し、調合を始めた。そうしながらダークハンターに問う。 「オルタちゃんは大丈夫か?」 「うん、わたしはメディカで大丈夫。兄様が護ってくれたから」  すでに自分で簡単な処置を行いながら、オルセルタは頷く。その琥珀色の瞳で兄の様子を心配そうに眺めていた。兄の方はというと、メディックに己の身を委ねながら、心配そうに見ている無傷のレンジャーに指示を飛ばす。 「いまのうちにナジク、センセイに『解体』教えてやってくれや」 「……わかった」  ナジクはこくりと頷き、地に横たわっている針ネズミの死骸を掴み上げ、フィプトを手招いた。 「ネズミの死骸も持ってくるんだ」 「え……は、はい」  フィプトはそぞろ寒げに針ネズミの死骸に目をやる。もう体温も下がり始め、痙攣も止まっているが、ついさっきまで自分の手の中で動いていたという事実が消えてくれない。『解体』というからには、この死骸を捌くのだろう。手が震えて止まらない。  レンジャーが再びフィプトを呼んだ。  意を決して、フィプトは針ネズミの死骸を掴んだまま、ナジクの下に足を運ぶ。  レンジャーはすでに、針ネズミの死骸を、腹を上にして広げており、腰から雑用ナイフを引き抜くところであった。 「皮を剥いだことはあるか?」  フィプトは首を振った。肉屋で解体済みではない、丸のままの肉を買ってきて、捌いたこともあるが、それとて、すでに毛皮は剥ぎ取られていたものであった。 「小生、あまり器用ではないので、教えて頂いてもご期待に応えられるかどうか」 「あまり気負わなくてもいい」  表情だけ見れば、ぶっきらぼうなレンジャーは、意外と優しい口調で言葉を発する。 「始めから素材を得るつもりで狩ったものならともかく、こんな戦いで倒した生き物だ、あちこちが傷ついているのも当然。そんなところに、皮剥ぎが上手くいかなくて、多少の傷が付いたところで、たいした違いにはならない」 「しかし……」 「もちろん、上手くいくにこしたことはない。きれいに剥げればそれだけ高値で買い取ってもらえる」 「わりぃな、戦いじゃ、皮がキレイに取れるように殴ろうー、とか、考えてる余裕ねぇからな」  地面に横たえられ、アベイの治療を受けているエルナクハが、笑声混じりに混ぜ返す。 「パラスちゃんがいれば、少しはマシかもしれないけどね」とオルセルタ。 「なぜですか、それは」  フィプトが反応して問いかけたので、ダークハンターの少女は、処置した残りのメディカを飲み干しつつ、頷く。 「パラスちゃんはカースメーカーで、特に相手の動きを封じる呪いが得意なの。だから、パラスちゃんに敵の動きを封じてもらえば、少しは『きれい』に倒せるかもしれない」 「『きれい』にこだわって生命を落としたら、本末転倒だ」  むっつりと、レンジャーがつぶやいた。  さておき、ナジクの皮剥ぎ講座は、フィプトのおぼつかない手つきに合わせてゆっくりながらも、着実に進んでいった。だが、ようやく剥いだ皮を手にできる、というところで、ナジクが忌々しげに舌打ちをする。自分に不手際があったのか、と思ったのだろう、フィプトがびくんと肩を震わせたが、ナジクの苛立ちはフィプトのせいではなかった。 「――こんな毛皮じゃ、どんなところにも使いようがない……」  広げられたネズミの皮は、ところどころに、ぼこぼこと穴が開いていた。戦いの結果でそうなった、などというものではない。つまりは、それは針のような体毛のせいだったのだ。硬い針を取り除いた結果、柔らかい短い体毛が残ったまではよかったが、針が抜けた痕は大きな毛穴となっていたのである。毛穴の部分を取り除き、残っている部分だけを使うにしても、それを繋ぎ合わせるには多大な労力が必要だ。交易所に持ち込んでも二束三文にしかなるまい。 「いっそ、なめし革にしちまったらどうだよ?」 「同じことだ。こんなに毛穴が開いていては、使いどころが限られる」 「あちゃー」  とりあえず、せっかくだから毛皮も持ち帰ることに決めた後、『ウルスラグナ』の興味は、針のような毛に移った。  樹海の外にいる『ハリネズミ』は、細い針を背にまとう生き物だが、その針は毛が寄り集まって硬化したものだという研究結果が出ている。だが、樹海の『針ネズミ』も同じなのだろうか。だとしても、とても信じがたい。それはもはや角のように硬く、研磨して武具の刃先に使えそうな気さえしてくる。実際、角や骨を削って武具にできるのだから、できない道理はないだろう。  戦いの中で欠けてしまったものの多い針の中から、無事なものを探し出して、持ち帰ることにした。  が、太い方の針はよかったが、細い方の針は、ことごとくが戦いの中で破損し、使えそうになかった。 「素早く倒さなくては、無傷のものを手に入れるのは無理だろう」  嘆息しつつナジクがそうぼやいた頃には、エルナクハの傷の治療も終わったようだった。少しふらふらしてはいるが、意外としっかりした足どりで、パラディンは解体講座の会場に歩み寄る。 「どうだよセンセイ、初めての樹海は?」 「……驚きましたが、大丈夫、です」  フィプトはそう答えたが、実は嘘だった。目の前で繰り広げられた死闘の、怒号と血の臭いが、まだ脳裏にこびりついている。痙攣するネズミの体温も、まだ手の中に。良くも悪くも平穏に暮らしてきた身には、あまりにも衝撃的な、樹海の探索。それでもなおフィプトは虚勢を張った。自ら望んだ道だ、という意識がある。そしてもう一つ……何かがある気がするのだが、自分でもよくわからない。とにかく弱音は吐けない、と心の奥底の何かが叫ぶのだ。その『何か』を追及してもよかったのだが、それより先にフィプトの意識は目の前の黒い騎士の容態に向き、そのまま、『何か』のことはすっかり忘れてしまった。 「それよりも、義兄(あに)さん! あんなに血まみれだったのに、もう大丈夫なんですかっ!?」 「ありゃ、ほとんどが返り血だよ、心配すんな」  エルナクハはカラカラと笑う。それはカラ元気じゃないのか、とフィプトは疑ったが、治療を施した張本人であるアベイの様子は、もはや重傷人を心配するものではなかった。  メディックが治療具を片付けるのを待って、一行は探索を再開した。  未だ心配げに視線を向けるフィプトに見せつけるように、エルナクハは、歩きながら上半身をひねっている。 「カンペキ大丈夫とまでは言えねぇけどよ、治療のおかげでまだ戦えるくらいにはなったぜ」  とりあえず、フィプトは安堵の息を吐きかけたが、そこにエルナクハの質問が飛ぶ。 「……それはそれとして、『義兄さん』ってどこのどちら様を呼んでんだよ?」 「あ」  一斉に声を漏らしたのは、当事者以外の三人である。アルケミストがパラディンを妙な呼び名で呼んだのを、今の今までまるっきり気付かずに聞き過ごしていたのだ。ややあって、ぷ、と口から空気が漏れる音と共に、オルセルタとアベイが笑い出した。 「兄様が、兄様が、『義兄さん』なんて呼ばれてる、似合わないー!」 「いやちょっとマテ、オルタちゃんが呼ぶ『兄様』だって大概じゃないか。……でも『義兄さん』も似合わねー」  声を上げて笑わないナジクとても、口端をわずかに上げていた。それだけでは済まなかったのか、こっそりと手で口元を隠し、そしらぬ顔で仲間達の状況を見つめ続ける。  笑われている方といえば、パラディンの方は別段なにも気にしていないようだったが、アルケミストは、わたわたと手を振り、慌てて説明を始めた。 「いや、だって、小生の姉弟子の旦那様なんですよ? 姉弟子の旦那様なら、弟弟子である小生が『兄』と慕うのは、当然のことじゃないですかっ!?」 「アンタ、自分がオレより歳上だって、自覚してるか?」 「ええっ? 小生は今年で二十三ですが」 「オレは二十一だよ」 「えええっ!?」  心底意外そうにフィプトが叫ぶ。センノルレの歳(彼女は今年で二十四になる)より上、ゆえに自分よりも上だと思っていたらしい。 「イヤだなぁセンセイ、オレはそんなに老けて見えたのかよ?」 「え、いや、その、そういうわけじゃ……」  たじろぐフィプトを、ニマニマと笑いながら追いつめていくエルナクハだったが、その表情から戯けが消えた。一瞬にして瞳の中に戦士の鋭い意思が宿り、周囲の状況を探る。オルセルタも、アベイも、同じように周囲に気を配っていた。ナジクも同様だが、他の誰よりも注視する範囲が狭い。 「そっちか、ナジク?」 「敵……ですか?」  レンジャーに問うギルドマスターに、自分では掴みづらい状況を確認するアルケミスト。  パラディンが頷くのを見て、全身の血が止まったように感じた。  先程の戦いの、凄惨な様が、思い出される。  しかし、怯えているわけにはいかないのだ。自分は自ら望んでここにいる。それに、今ここで逃げたとしても、非力な自分は魔物に食い殺されて終わるだけだろう。生きて再びハイ・ラガードの街に戻り、生徒達の顔を見るためには、するべきことは、ひとつ。 「義兄さん、小生にできることは、ありませんか!」  いらないと言われるかもしれないが、念のために錬金籠手(アタノール)の起動機構に手をかけながら、フィプトは問うた。  意外にも、返答は思っていたのとは違っていた。 「ああ……今回は、助けがいるかもしれねぇ」  え、と声を漏らしたフィプトは、今や一方向に集中した仲間達の視線を辿った。  草むらから飛び出してきた一体は、先程と同じ、針ネズミであった。だが、その後から、のっそりとやってきた、もう一体は、そうではない。樹海の外では、雨の日によく見かける、指先に載るほどに小さな生命体。それが、樹海の住人となると、信じがたい進化を見せつけてきている。……いや、そもそも、『あれ』に似ているが、『あれ』と同系の生き物なのかどうか。  巻き貝のような殻から、ぬめった身体を伸ばし、地を這ってやってくるその生き物。大きさは殻だけでも針ネズミより二回りほど大きい。樹海の外の似た生き物ならば、足で踏みつぶすだけで簡単に殺せそうだが、『それ』は、一筋縄にはいかないだろう。ぬめった身体は刃を反らしてしまいそうだし、殻はとても硬そうで、籠もられたら生半可な攻撃は届かなさそうだった。  確かに、ここは属性攻撃の出番かもしれない。 「オレらはネズミを片付ける。センセイはヤツだけを狙ってくれ!」 「――し、承知しました!」  前衛の戦士達が剣を構え、レンジャーが弓を構えながら周囲の森の中に紛れ、メディックが鞄から薬を取り出し、いつでも使えるように待機する。その様を横に、フィプトもまた、錬金籠手の起動操作を行う。かすかな音を立てて動き始める籠手に組み込む触媒を、ともすれば震えて思うように動かない指先でポーチの中から探り出しながら、フィプトは己が相対峙するべき敵――冒険者からは『森マイマイ』と呼ばれる軟体動物を睨め付けた。  右手の籠手に組み込んだ、重酸石の水溶液と、『至高神の塩』と呼ばれる触媒を反応させ、化合物を籠手の噴出口から森マイマイに浴びせかける。さながら人工の雪を浴びせかけているように見えるが、そうではない。化合物は噴出口から吹き出た時点でもまだ反応を続けており、その際に周囲の熱を大量に奪っていく。やがて、周囲の水分や、森マイマイ自体が有する水分までもが、冷却され、凍結を始め、生命体に冷気による大きなダメージを与えるのであった。  分泌する体液で殻を硬化させ(それはいくらかの時間が過ぎれば剥げ落ちるのだが)、前衛の戦士達を手こずらせていた森マイマイだったが、その錬金術がとどめとなって、地に伏した。ちなみに針ネズミは早い段階ですでに倒されている。 「この殻も何か役に立つかしら?」  探索作業用の鏨(たがね)と槌で、ごつごつと殻を叩き割りつつ、オルセルタが口を開いた。戦闘中は、体液で硬化しなくても充分に硬い殻だったが、どうも、表面に走る細かい溝に力を集中させると、さほどの労力もいらずに簡単に砕けるようだった。さすがに戦闘中にはできない芸当である。  ほんの小さな殻のかけらを、楽しげに殻を砕いていくオルセルタから先に受け取り、観察していたフィプトが、驚きをその瞳に宿して告げる。 「面白いもんですね、樹海のカタツムリは真珠層を作るんですね」 「真珠? アワビに珠しこんで作らせる、あの真珠か?」 「そうですよ。ほら、そのアワビの貝殻の裏みたいに」  フィプトは殻のかけらをひっくり返して見せた。殻の裏には、確かに不思議な虹の色を浮かべる真珠の輝きがある。 「まあ、当然、丸くはありませんし、質の方も及びませんでしょうが、真珠には違いない」 「不思議なもんだよな。でも、よ」  エルナクハは殻を受け取り、自分で裏表を何度も返しながら笑んだ。 「センセイ、『緋緋色金』って知ってるか?」 「伝説に謳われる金属の一つと聞き及んでます。幾多の錬金術師が再現を目指すも、果たせなかった、と」 「そっか」  エルナクハはさらに楽しげに笑む。 「エトリア樹海の深いとこにはな、センセイ、骨がその『緋緋色金』でできた生きモノが棲んでやがったぜ」 「骨が、『緋緋色金』で、ですって!?」  とても信じがたい、と言わんばかりにフィプトは声を荒らげたが、目の前のパラディンに嘘を言う理由などないと思い直したか、態度を元のように沈静させる。しかし、やはり、好奇心が精神を逸らせたのか、身を乗り出し、憧憬を思わせるまなざしをエルナクハに向けた。錬金術師の言いたいことを悟って、エルナクハは苦笑気味に先回りをした。 「話は帰ってからにしてくれよな。それに、ノルの方がアンタ好みの話をできそうだ。あと言っておくけどよ、エトリアの『緋緋色金』が伝説のモノと同じって証拠はないぜ。ソイツを素材にした武具は確かに凄い力を持ってたけどな」 「伝説のものと同じじゃないとしても、凄いもんですね……」 「ああ、それを考えりゃ、カタツムリが殻の内側に真珠作ってるくらい、アリだよな」 「ええ、アリですね」  エルナクハの言葉に、フィプトはおかしげに笑った。 「それにしても、生き物といえど、その身には必ず微量の金属を有しているというのは、錬金術の常識ではありますが……」 「メディックの常識でもあるな」とアベイが口を挟む。 「鉄とか足りなくなると、貧血を起こすからな。だから、メディックは、女の人にはよく、レバーがダメならせめて鉄鍋で料理したメシを食えとか、勧めたりすんだ」 「ええ、アルケミストとメディックのルーツは同じですからね」  フィプトは嬉しそうに同意し、自分の話を続ける。 「ですが、その話の生きモノのように、組織がまるごと金属という例は、『外』では聞いたこともない。『世界樹の迷宮』に住まう生き物は、本当に不思議なもんですね」 「なに、不思議なものは、これからも見られる」  涼やかな声に振り返ると、周辺の斥候を引き受けていたナジクが戻ってくるところだった。 「目的があれば、多少の苦は乗り越えることができる」 「はは、そうだといいんですけどね」  苦笑いに似た形に顔を歪め、フィプトは自重するかのように応えた。 「樹海の中の珍しいものをたくさん見てみたい。その気持ちに偽りはありませんけど……樹海を恐れるばかりの小生が、皆様の探索に、どこまでお付き合いできるかどうか」 「その恐ろしい樹海の中で、楽しそうに語らっていたあんたなら、大丈夫だ」  ぶっきらぼうにも見える表情で、レンジャーは滔々と言葉を続けた。 「それが証拠に、フィプト、あんたは、今も震えているのか?」 「は……い?」  指摘を受けて、フィプトはさも意外そうに、己が身を眺め回した。掌に集中するまなざしは、その場所が震えているのかどうかを見極めようとはするかのよう。否、実際に、フィプトはそうしていたのだ。  何故だろう、樹海を恐ろしいと感じるのは今も変わらない。だが、不思議なことに、自分自身は先程までには怯えを感じていないことに気が付く。ここまで生きてきた自分の想像を超える戦いと、生命が消えゆく確かな感覚、それらを思い起こしたのなら、震えて動けなくなってもおかしくないというのに、今は妙に落ち着いている。 「小生、は……」  躊躇いがちに顔を上げるフィプトに向けられているのは、それぞれに笑みを浮かべる仲間達の視線。 「あの、小生は、冒険者として――」 「そろそろ、先に進もうぜ」  フィプトが言いたいことに答える気はない、とばかりに、エルナクハが言葉を遮り、立ち上がる。 「オルタ! そろそろいい感じに砕けたか?」 「うん、こんなところだと思うわ」  雑貨袋の中に形よく砕けた殻をしまいながら、オルセルタが返事をする。エルナクハは妹の言葉に満足げに頷き、他の仲間達を見回した。 「先がどれだけ長いか、まだわかんねぇんだ。とっとと『オシゴト』済ませて、帰って、留守番ズを安心させてやらないと」 「ナックは旨い飯と旨い酒をかっくらいたいだけだろ?」 「ユースケ、何言うんだオマエは。このオレには、私塾で待っている妻と子がいるんだ。オレ、この『オシゴト』が終わったら、まっすぐ私塾に帰るんだ」 「わかった。本音がそっちなのはちゃんと理解したから、死亡フラグみたいな言い方はやめれ」  じゃれ合うような言の葉の応酬を繰り返しながら歩きだす、パラディンとメディック。その後をダークハンターの少女が追い、そんな彼らの周囲を警戒するかのように、レンジャーが往く。 「センセイ! 早く来いよ! アンタの力はまだまだ必要なんだからな!」 「……はい!」  しかと頷くと、アルケミストは、昨日顔を合わせたばかりの仲間達の後を追う。  その足どりに、もはや、不安を感じさせる様子はない。  それは、ごく短い間に様々な経験をしたために、自分と共にある仲間達の力量を、そして何より自分自身の力量を、完全に信じることができたからかもしれない。あるいは、エルナクハが企んだように、フィプト自身が一度だけでも戦いを経験することで、いわゆる『肝が据わった』状態になったからかもしれない。その両方かもしれないし、もしかしたら別の理由かもしれない。ともかくもフィプトは『樹海の洗礼』に抗しきり、真に冒険者として起つ資格を得ていたのであった。  北へ続く道は予想通り行き止まりであったが、その直前に西へ続く道が発見された。そちらの道を進んだ『ウルスラグナ』の行く手を阻むは、今度こそ完璧な行き止まり。が、それは一行の落胆を呼び起こしはしなかった。どうせ地図を描かなければいけないということもあるが、一番の理由は、その場にあった奇妙なオブジェである。  細やかな細工を施され、黄金の輝きを放つ、正立方体の箱だった。大きさとしては、人が一人膝を抱えればすっぽり入るくらいか。ほんの数時間前に置き去りにされたのか、その輝きを損なう付着物はない。だが、この箱が作られた本当の時間は、おそらくは千年単位の昔。  箱は『浮いていた』のである。 「……ユースケ?」 「悪い、知らないよ」  いかに前時代人・阿部井祐介といえど、当時は子供、知らないことも覚えていないこともある。  そんなわけで、『ウルスラグナ』は今その目でしかと分かることだけで、推測せざるを得ない。  箱の真下の地面に、同じ色の輝きを放つ、台座のようなものが設置されている。浮いているのは、たぶん、それの働きだ。が、その仕組みがどうなっているのか。フィプトが小首を傾げていることからすれば、やはり、現代の錬金術で可能なことではないようだ。 「あぶないわよ、兄様」  オルセルタが警告の声をあげた。エルナクハが、浮きながらゆっくりと回転する箱に、手を伸ばしたのである。しかし彼女が懸念するような危険は起きなかった。パラディンの手が触れると、箱の動きが止まっただけである。 「んー、やっぱり仕組みはわかんねーなー。……お、なんか開きそう」  エルナクハが箱を開けると、中身は空――否、隅の方に何かがある。小さな瓶であった。中に薬液のような何かが入ったそれの周囲には、羊皮紙が巻き付き、細い紐で縛られている。  薬液をアベイに任せ、エルナクハは羊皮紙を広げてみた。 ――これなる薬は、戦う力を失った者を再起させる、貴重な薬である。使いどころは慎重に考えられたし―― 「いわゆる『蘇生薬(ネクタル)』だな」  中身を少しだけ試薬に掛けて、簡単に検査していたアベイが、味を確かめて納得げに頷いた。 「――おそらく、入り口の衛士の仕業だ」  後ろから手紙を覗き込んだナジクが指摘する。 「筆跡が、地図の書き込みと同じだ」 「外側が前時代モノなのに、中身は現代か?」 「単に箱を利用しているだけだろう」 「あ、そりゃそうか」  疑問をナジクに喝破され、エルナクハは頭を掻く。 「それにしても、粋なことするなぁ」  どうせくれるなら、樹海に踏み込む時にくれてもいいんじゃないのか、とも思わなくもない。しかし、公宮側にも思うところがあるのだろう。何にせよ、備えあれば憂いなし、ありがたいことである。 「さて、次行ってみよー!」 「元気だなぁ」  改めて号令を掛けるギルドマスターに、試薬一式を片付けながら、アベイが苦笑気味につぶやいた。  南の方へ向かう道は、思いの外、すんなりと進むことができた。  樹海の何たるかに慣れ始めてきたフィプトを含め、『ウルスラグナ』の戦い方も、少しずつこなれてきている。針ネズミや森マイマイの相手も、若干のケガを負いながらも、そつなく切り抜けることができるようになってきていた。そして。 「あら、久しぶりぃ」  オルセルタが長年離れていた友人に向けるような声を掛ける相手は、人間ですらない。ごく短い毛ゆえに、どことなくつるりとした印象を与える小動物――『外』の『それ』とは似てもにつかないのに、土の中から出てくるという生態が知られているために、『ひっかきモグラ』と呼ばれている魔物であった。針ネズミやマイマイとは違って、エトリアにも同種の魔物がいたものだ。 「同じ『世界樹』、同種のヤツがいてもおかしくはないけどなあ」  アベイが感心したようにうなる声を聞きつつ、エルナクハとオルセルタは剣を構え、ナジクは矢をつがえた。だが、錬金籠手の起動操作を行おうとするフィプトには、ギルドマスターからの制止の声が飛ぶ。 「こんなヤツに術式はいらねぇ! 温存しておいてくれや!」  そのとおり、錬金術が必要となるほどの強敵ではない。二本の剣閃と一本の射線は、瞬く間にモグラの名を持つ魔物を片付けた。とはいえ、樹海の魔物との戦いを無傷で切り抜けられるほどの技量を、冒険者達は未だ取り戻していない。それまでの怪我や疲労も蓄積し、さすがに辛そうな前衛の仲間達を、メディックが治療するのを見ながら、フィプトは気が気でならなかった。  温存しろ、と言われた錬金術だが、今の戦いでも使うべきだったのではないか。 「……どうしたよ、センセイ?」  ふとエルナクハが顔を上げて口を開く。フィプトは慌てて首を振った。 「ああ、いえ、なんでもありません」 「そか」  その傍らには、モグラから鋭い爪や柔らかい皮を剥ぎ取ったナジクの姿がある。ついでに、とばかりに肉も剥ぎ取って、細い金串に刺している。 「……食べるんですか?」  おそるおそる、フィプトは問うた。意外そうな顔をしたナジクが答えるには、 「あんたは腹は減ってないのか?」 「あ、いえ、確かに空いてますが……」 「大丈夫、毒はなさそうだ」とアベイが割り込んだ。「……味まではわからないけどよ」  そういえば、と思う。出掛ける前に飯を腹に入れたはずだが、それからまださほどの時間が経っていないというのに、胃はくるくると鳴いて己の空腹を訴えている。そんなことを認識しているその瞬間にも、ぎゅう、と派手な鳴き声を上げた。 「樹海探索はお腹が空くものね」  オルセルタが、からかうようにくすくすと笑う。 「しかし、ここで食べるんですか?」  フィプトは居心地悪げに周囲を見渡した。現在地は、森の小径の体裁こそ取っているが、両脇には人間の踏み込めぬほどに茂る木々が迫ってきており、小休止ならともかく、食事というほどの休憩には向いていないように思われた。魔物の襲撃に対処ができたとしても、どことなく心理的な圧迫感がある。他に場所がないなら仕方がないが、せめて、もう少し見晴らしのいいところはないものか。  だが、フィプトなどより遙かに樹海探索の経験の長い『ウルスラグナ』、何も考えていなかったわけではない。 「さすがに、食うのにはもう少し広いとこを捜すさ。でもな……」  その時に『ウルスラグナ』がいた場所は、あくまでも地図と磁軸計から判断してではあるが、直線距離なら西に二十分強ほど歩けば出口に辿り着けるくらいの場所であった。  これまで辿ってきた道を辿るように東へ戻れば、少し拓けた場所に出る。  しかし、西に目を転じれば、遠目に奇妙な建造物がある。  扉、であった。  エトリア迷宮を探索していた時も、その、明らかに『ヒト』の手の加わった建造物は、あちらこちらに散見していたものだった。自然物の中にあって、あまりにも違和感がありすぎる、その人工物。果たして何者が作ったのか、それは、少なくとも『ウルスラグナ』にとっては未だに判らないことだった。ただ、作成者の候補は絞られる。エトリア樹海をその住処としていたモリビトか、あるいは、樹海の支配者であった『世界樹の王』か……。  そんなエトリア樹海とは違って、ハイ・ラガード樹海においては、扉の存在は不自然ではない。なにしろ、別の人工物があちらこちらに散見しているのだ。加えて扉があったところで何が変なのだろうか。おそらくは、周囲の人工物を作った者達が、扉をも作ったのであろう。もっとも、その正体が判らない以上、結局は、エトリア同様、『誰が作ったのか判らない』ことに変わりはないが。 「あの扉の向こう、ひょっとしたら出口への近道かもしれねぇ。もしそうならよ、入り口の広いところで、魔物の心配をしないで、ゆっくりメシを食える。行ってみる価値あるんじゃねぇかな」 「……もしそうだったら、さっさと私塾に帰って、そこでご飯食べた方がいいと思うけど」と呆れ顔でオルセルタ。 「なに、大自然の中でバーベキューってのも、オツなもんだ」澄まし顔でそう応えるエルナクハ。 「おいおい、『まっすぐ私塾に帰る』んじゃないのか?」  と混ぜ返すアベイを横目に、 「ルバース君の父上殿、きっと呆れるでしょうね……」  試練を管理する衛士の顔を思い出し、フィプトは、引きつった笑いを浮かべながら、嘆息した。  扉を開け放った『ウルスラグナ』一同は、目の前の光景に、一様に感嘆の声を漏らした。  視界いっぱい、延々と続くかのようにすら見える、広大な花畑。可憐な花々が、しかし容姿を必要以上に競う人間の女のようにギスギスしたりはせず、互いを認め合うかのように並び立ち、かすかな風に甘い香りを振りまく。  この場に来るまでに、花がなかったわけではない。群生する花も、いくつも見てきた。が、ここまで大規模な群生は、ハイ・ラガード樹海の中では、今までは見あたらなかった。  輝くような朝の木漏れ日が花畑を照らし、爽やかな空気を作り出している。魔物が牙を剥く樹海の中とはとても思えない、穏やかな空間が、そこにあった。 「出口に通じていないとしても、ここなら、落ち着いて休めそうですね」  フィプトが一息吐いて、花畑の方に一歩踏み出そうとする。  その腕を、がっしりと掴み、前進を止めた者がいた。 「ナジク……君?」  その者の名を、フィプトは困惑気味に呼び、声同様の困惑を表情に宿した。フィプトを止めたナジクだけではない、エルナクハも、オルセルタも、もちろんアベイも、穏やかな地上の楽園を前にしながら、それを受け入れたくなさそうな渋面を作っているのだった。 「どうしたんです、皆さん?」 「きれいな場所だけど――ここは、やめておこうぜ」  問う声に答えるのはアベイ。怪訝そうに見やるフィプトに、苦笑いに似た顔を向け、言葉を続けた。 「ちょうど、フィー兄――あんたの代わりにノル姉がいた、このメンバーで、エトリアの迷宮に挑み始めたばかりのころなんだけどよ。俺たち、花畑でひどい目に遭ったんだよ」 「ひどい目、ですか?」  フィプトは小首を傾げて花畑を見やった。ここまでくぐり抜けてきた戦いの厳しさと血なまぐささからすれば、対極に位置するような、麗しの園。とても『ひどい目』に合うような場所とは思えない。とはいえ、樹海に通じた冒険者達が一様に渋面を作るのだ、嘘ではないだろうが。 「みんな、とっとと抜け道がないか調べようぜ。調べたらさっさとここから離れるん――」  うわ、という、嫌そうなうめき声が、パラディンの口から漏れる。 「遅かったか……ッ!」  舌打ちする彼や、その妹の肌は、黒いからよくわからないが、周囲の仲間達同様に血の気も引いていただろう。しかしフィプトは、仲間達をそれほどにまで恐れさせる原因に気が付いた時、うめき声ではなく感嘆の声を漏らしてしまった。  それは、蝶の群であった。だが、なんと見事な色合いの蝶であろうか。  全体的な色合いは紫色、その上に白い曲線が入っている。それだけではない、羽はまるで金属のような艶やかな光沢をまとっているのだ。かつてフィプトは、一度だけ、アルケミスト・ギルドで、似たような蝶の標本を見たことがあった。遠い南方で捕獲されたという、人間の掌大の大型種。色こそ青や白だが、神の気まぐれが具現化したような金属質の輝きは、目の前の蝶と同じだった。フィプトのみならず同輩の誰もが、皆、溜息を吐いたものだ。生きた宝石とはよく言ったものだ――と。 「――伏せろ」  叫ぶほどには激しくない、しかし確固とした強さを芯に宿した声音に、フィプトは我に返った。同時に背に衝撃を感じ、どう、と地に倒れ伏す。甘やかな花の香に包まれ、ようやく顔を上げたフィプトは、声の主、レンジャーの動作を見て、自分が彼に蹴り飛ばされたのだと知った。文句は言えなかった。なぜならレンジャーの向こうでは、武器を取った前衛の戦士たちが、件の蝶の群と対峙していたのだから。  蝶の大きさが異常なことに改めて気が付く。羽を広げればエルナクハの胸部すら覆い隠してしまうだろう。それだけ大きいと、優雅にして軟弱に見える蝶の足も、その羽ばたきですらも、相応の打撃力を伴って冒険者達を苦しめる。液状のエサを吸うための口吻でさえ、レイピアのように鋭く冒険者達を狙う。何よりも、羽ばたくたびにかすかに漂う紫煙。おそらくはリンプンであろうが、それを吸い込んでしまった前衛の戦士たちは、呼吸器を灼かれるのか、けほこほと咳き込みながらも、武器を振るう。  そう、ここは樹海だ。まだ魔物の殺気すら上手く読み取れない自分が、先達の警戒を無視して気を緩めていられるような場所ではなかった。目の前の『生きた宝石』は、おとなしく貴婦人の首もとに収まるようなものではない。人の生命を容易く奪い去る、呪われた宝石なのだ。  フィプトは一息に立ち上がり、躊躇うことなく錬金籠手(アタノール)を起動した。氷の術式に必要な触媒を籠手に組み込み、花を蹴立てて走り出す。ギルドマスターからの指示はないが、指示待ちに徹しているような状況ではないはずだ。 「バカ、来るなよ!」  戦士たちの後方で状況を見定めていたアベイが、顔色を変えた。  その時、蝶の動きが微妙に変化していたのだ。  エトリアのことを知らないフィプトが知るはずもないことだが、『ウルスラグナ』一同は、エトリア樹海で目の前の蝶と同種のもの達と戦った経験があり、そして、今変化した動きの意味を、文字通り痛いほど理解していたのだ。  冒険者達の周囲を、今までになく濃い紫煙が取り囲む。息を止める間もなくフィプトは『それ』を吸い込んでしまった。紫煙の色を皮膚から吸収したかのように、肌が色を変える。 「――毒……ッ!?」  肉体の奥底から迫り上がる悪寒と嘔吐感。喉奥から吐き出されたものが、赤い液体だと知って、フィプトは目が眩む思いがした。  いまや『ウルスラグナ』の半数が毒に冒され、脂汗をにじませながら、危険な蝶に相対峙している。特に痛手なのは、前線の二人が共に毒に冒されたということだ。内なる敵に苛まされながら、外なる敵に対する彼らの動きは、今の今までと比較するまでもなく、稚拙なものと化していた。そんな人間どもをからかうように舞い、つかず離れず飛び回る蝶達。 「アベイ君、この毒を消す方法は……」 「ない!」  幸いにも毒に冒されなかった様子の、医療鞄をまさぐるメディックに問いかけるも、返答は短い否定のみ。それだけでは説明不十分と思い直したか、鞄の中を捜す手は止めないまま、アベイは一字一句言い含めるように再びの言葉を発した。 「少なくとも、今は――戦闘中は、無理だ。ナックたちほど動いてなくても、アドレナリンが――ああっと、つまり戦闘中は、ろくに動いてないように見えても、普段より血流が激しくなってて、そのぶん、毒も、よく回る」  メディックは数本のメディカを取り出し、フィプトに渡す。さらに薬草や薬石を出して調合の準備を手早く整えた。 「ありがたいことに、少し時間が経てば毒は薄れる。俺たちにできるのは、それまでは、こいつで体力を維持させながら耐えてもらうことだけだ」 「そんな……」  フイプトは臍を噛む思いで戦況を見つめた。後衛の自分はまだいい。比較的安全な場所で悠々と毒が薄れるのを待ちながら、メディカで体力を維持すればいいのだ。だが、前衛の二人は? 毒に加え、蝶本体の攻撃にも苛まされ、いずれは倒れ伏すだろう。そうなったら後衛達の運命も定まったも同然。この場には五つの死体が転がるだろう。 「おい、だから動くなって!」  フィプトがふらつきながらも立ち上がったのを見て、アベイが声を荒らげた。しかし、錬金術師が籠手を装着した腕を上げるのを見て、己のうっかりを悟ったような顔をする。完全後方支援のアベイとは違い、フィプトには攻撃手段がある、というのを、失念していたのだ。  重酸石の水溶液と『至高神の塩』は、すでに右籠手にセットしてある。かすかな音を立てる籠手の中で、初期段階の反応が始まっているはずだ。フィプトは右掌を敵に向けた。魔物の目玉のような噴出口が、ぎょろりと蝶達を睨んだ。 「これでも――喰らえ!」  雪のような化合物が蝶の群に降りかかる。凝結した空気中の水分を羽に張り付かせ、美しくもおぞましい蝶達は次々と地に墜ちた。が、まだだ。まだ生きている。冷気で弱り、よろよろと這い回りながらも、再び空へ舞い上がろうとする、魔の飛天達に、再度の術式を仕掛けようとしたフィプトは、だが、義兄と慕うパラディンが裂帛の気合いの声を上げて蝶達に止めを刺すのを見た。 「あっち、頼む、センセイ!」  毒に冒され、荒い息を混ぜ込んだその声に、視線を廻らすと、少し離れたところでは、ダークハンターの少女が別の群と対峙しているところだった。さらに離れたところから弓で援護するレンジャーは、毒に冒されてはいないらしく、その矢で蝶を射抜いている。 「了解、です!」  フィプトは再度、触媒を籠手にセットし直し、別の戦場へと向かう。身の内からせり上がる不快感を、さっきもらったメディカを飲み干すことで抑えながら。やがて籠手の射程距離内に踏み込むと、反応を終えて飛び出すのを待つばかりの化合物を魔物に浴びせかけるべく、掌の目玉で睨み付けた。  体がだるい。甘い香りを振りまく花畑に倒れ伏し、錬金術師は閉じそうになる目を必死に開けていた。内なる何かの誘惑に負けてしまったら、そのまま深く暗いところに引きずり込まれてしまいそうだ。  とはいえ、毒は抜けているし、メディカを飲んだおかげでダメージも緩和されている。気を失いそうなのは、単純に疲れのせいだ。毒に痛めつけられた肉体の悲鳴はもちろん、錬金籠手の制御で酷使された精神の軋みすら、現実の音として聞こえそうな気がする。  精神的には限界だ。これ以上無理して錬金籠手の運用をしたら、致命的な操作ミスを招きかねない。 「すいません、義兄さん……」 「なんで謝る?」  隣で座り込むエルナクハは不思議そうに問うた。その様を仰ぎ見るように視線を動かし、金髪の錬金術師は悔恨の言葉を返す。 「小生、調子に乗りすぎました……。あとどれだけ樹海をさまようか判らないのに、錬金術を限界まで使ってしまった……」  余談だが、結局、花畑の近辺には、樹海入り口に抜けられるような近道は見つからなかったのである。  しかし、エルナクハからの立場からすれば、その評価は、錬金術師の自覚とは違っていた。 「いや、センセイはよくやった。少なくとも戦闘中では、最善の判断だと思ったんだろ?」  事実、フィプトの繰り出す氷の術式がなければ、危ういところだった。  毒を食らった状態で戦闘を長引かせるのは危険すぎる。新たな樹海に立ち入ったばかりの『ウルスラグナ』の手には、毒や麻痺といった状態異常を即座に癒してくれる『テリアカ』の類はない。アベイの医術も、現時点で手に入る素材で同等の薬を調合できるまでには至っていない。戦闘が終わり、時間が取れる状態でなら、手当もできるのだが。  だから、現時点では、たとえ錬金術師の持てる力すべてを使い切ったとしても、フィプトの判断は正解だった。そうエルナクハは見なしている。  同時に、昨晩、妻であるセンノルレが口にした言葉を、痛感していた。  ――ハイ・ラガードの触媒は少々気むずかしい。エトリアの触媒よりも注意を払って制御しなくてはなりません。  エトリアでの冒険のはじまりの頃。その記憶は、さすがに細かいところは失われているけれど、当時のセンノルレはもう少し余裕で錬金術を扱っていたような気がする。彼女の言う、触媒の扱いやすさの違いというのは、確かにあるのだろう。センノルレは、精神の限界を自己申告した時も、今のフィプトほどまでには憔悴しきった様子を見せなかったから。  大変なものだよな、アルケミストも。  同情はするが、残念ながら、今は同情だけで何もかもが解決する立場ではない。  繰り返しになるが、現時点でのフィプトの判断は正解である。しかし、この後の探索では錬金術の助けがない、ということも確かだ。直線距離では近いはずの出口まで、自分達はあとどれだけ彷徨えば辿り着けるだろうか。  少し、急ぐか。 「悪いけどセンセイ、今はあんまりゆっくりさせてやれねぇ」  エルナクハは立ち上がった。その瞬間、意識がくらりと回る。  歯ぎしりし、地を踏みしめて、揺れ掛けた身体を押しとどめた。  どうも自分も、かなり疲れているようだ。仲間達の様子から、どうやら今の自分の無様さに気付いている様子がないのを確認し、ギルドマスターは発破を掛けた。 「さ、手当が終わったら、とっとと出よう。ヤツらの新手がふらふら飛んでくる前によ!」  ちょうど、オルセルタの手当をしているアベイの処置も終わったようだった。パラディンの妹は、危なげなく立ち上がり、自分は平気、と言いたげに、にっこりと笑んだ。 「ほら、センセイ」  パラディンは、なおも花畑に横たわるアルケミストに手を差し伸べる。フィプトは、きょとんとした表情で、差し伸べられた手を見つめていたが、すっと目を細めた。その瞳が、一瞬、人に懐かない獣のように見えて、エルナクハは柄にもなくたじろぎ、わずかに手を引く。だが、よくよく見れば、やはりフィプトはフィプトのまま、物腰丁寧でいながら洒落も分かる青年の雰囲気は健在だった。さっきの目つきは気のせいか、とエルナクハは得心し、再び手を差し伸べたが、 「大丈夫です、義兄さん。小生、一人で立てますよ」  フィプトは危なさげによろめきつつも、しかと自分一人の力で立ち上がった。  一方、この場に至るまでさしたる怪我を負っていないレンジャーが、つかつかとエルナクハに近付いてきて、口を開く。 「これからは、僕も前に出よう」 「ナジク。けどよ……」 「樹海にも慣れてきて、上手く動けるようになってきた。攻撃分散(たまよけ)にはなる」  エルナクハは躊躇し、口ごもった。レンジャーは後方支援しかできないクラスではない。しかし、得物が弓であることと、身軽さが信条であることを考えると、やはり後方での支援に徹してもらった方がいい。それでもエルナクハは考えて、ナジクの申し出に頷いた。実際、自分達の負担が減るのはありがたかったのだ。 「悪いな」 「いや」  エルナクハの謝罪に、ナジクは、ぶっきらぼうな表情をわずかに崩して、首を振る。『ウルスラグナ』のことを理解していない者がこのやりとりを見たとしたら、レンジャーが嫌々ながら前衛に立とうとしているようにしか見えなかったかもしれない。金髪の弓師が仲間達の役に立つことをどれだけ望み、それを喜んでいるのか、外見から伺い知るのは難しい。  ――同様に、外から見える態度からは、その内心にどれだけ重いものを抱えているのか、判断が付けられない者が、今のこの場には、もう一人、いた。  そのことに関する非常事態を、間もなく『ウルスラグナ』は体験することになる。  死してなお魅惑の輝きを保つ蝶の羽を回収して、冒険者達は先へ進む。  扉から少し東へ戻ったところにある、北への分岐点に踏み込み、十分ほど歩いただろうか。足の向く先にはやや拓けた場所があるのが目に入り、西には細い脇道がある。 「水の匂いがする……ね」  西の方に琥珀色の視線を向けながら、オルセルタがつぶやいた。 「水……か」  妹の言葉に、エルナクハは腰に下げた水袋を確認した。樹海の外から持ち込んだ時には一杯だった水袋は、今は半分ほどに減っている。この先どれだけ樹海にいなければならないのか判らないなら、水を補充するのも必要だろう。  『アリアドネの糸』が使えれば、『どれだけ』という心配もいらないのだが。  『アリアドネの糸』とは、エトリアで、試験を終えた後に、購入を許可された道具である。樹海に巣くう大型の蜘蛛の一種――幸い、冒険者の敵になる生き物ではない――の糸からできている。  本来は、件の蜘蛛が外敵から身を守る時に、その糸を尻から出し、逃げるためのものだ。樹海の外でも、子蜘蛛が散る時に同じようなことをして風に乗るが、件の蜘蛛の糸は、わずかながら磁軸の歪みを作り出し、その流れに乗った蜘蛛を別の場所へと運び去る。巣に使われる糸にも、その効果は残っているので、それを集めて紡績し、人間の使用に耐えられる程の磁軸の歪みを作り出すように仕立てたのが、『アリアドネの糸』である。  蜘蛛が糸の力を発揮するきっかけは、生体の電気信号。糸の力の解放もそれに支配されるわけだ。『アリアドネの糸』の力の解放も、その研究成果に倣っている。糸巻き軸に仕込まれた電極から、微弱な電力が糸に通り、糸の力を呼び起こす。歪められた磁軸に踏み込んだ者達は、樹海の入り口に運ばれる。ちなみに、きちんと入り口に戻るためには、現在地から入り口に戻るための電力を計算するために磁軸計が欠かせない。いい加減な使用方法では、予期せぬ場所に飛ばされる可能性もあるのだった。  が、今、自分達の手には、そのような便利なものはない。今は、樹海の中にあるものだけを利用しなくてはならないのだ。  そもそも、地図を描くという試験を受けている以上、そこにある道には踏み込む必要がある。  かくして脇道に踏み込んだ『ウルスラグナ』を待ち受けていたのは、行き止まりにある岩の重なりの隙間から湧き出す水と、その下に形成された小さな泉であった。木漏れ日を照り返し、きらきらと輝く水場では、数匹の小さな鳥が戯れていたが、人間の気配を感じ取り、ぱっと飛び立ってしまった。 「ああっ、ごめん、君達っ!」  オルセルタが思わず引き留めようとするも、小鳥にとって人間達は魔物に等しい存在でしかない。ともかくも小鳥たちの存在が、この泉が安全なものだということを教えてくれた。水湧き出る岩の上に蒸した苔も、泉の水面を叩くように飛ぶ羽虫も、同じことを語る。彼らの生態が『外』の生物達と根本的に違ったら――毒物にまみれても平気でいるような生き物だったら、その限りではないが、水を試薬に掛けて調べ始めたアベイの態度を見る限りは、問題あるまい。  冒険者達は水袋の中身を入れ替え、思う存分、新鮮な水を愉しんだ。水浴びなどは望むべくもないが、冷たい水に浸したタオルで首筋を拭うだけでも、気分が違ってくる。体内に流れ落ちる水は、五臓六腑に染み渡り、激しい戦いの連続に疲れた冒険者達の心身を癒してくれる。  が、いくら旨くてもただの水では、限界に達した心身の疲れまでは癒しきれない。 「センセイ、気分はどうだ……?」 「あ、はい、すいません……まだ、くらくらします……」 「そっかー」  エルナクハは残念そうにうなる。 「やっぱり、夜かなー」 「夜?」  怪訝そうに問い返すフィプトには、横からオルセルタが口を出す。 「うん、エトリアにはね、夜になると不思議な力を持つ泉があったのよ。疲れた精神を、癒してくれるの。アベイやノル姉さんが重宝してたわ。心が疲れると、薬品の調合とか、錬金籠手の制御とか、できなくなるからって」 「まったくだぜ。ちょっと期待したんだけどよー」とアベイが不満げに話を継ぐ。「メディカがあるからそんなに心配いらないけど、俺もちょっと疲れてきたからな、ここの水で癒えればと思ったんだけどさー」  メディックの技術は、薬品を扱うだけに神経を使う。薬とて、調合量を少し間違えればたちどころに毒になる世界なのだ。そのかわり、研究を尽くしたメディックがその場で調合する生薬は、保存性と安定性に重きを置いたメディカより効くこともざらである。 「だからといって、ここで夜を待つのは阿呆だ」とナジクが割り込んだ。「そんなことをするより、早く地図を完成させて、街に戻る方がいい」 「わかってる、わかってるさ」なだめるように、アベイは応じた。  ついでに、先程から持ち歩かれているモグラの肉は、ここで消費された。案外に旨かった。  焼いたモグラ肉の匂いがかすかに漂う中、冒険者達は休憩の片付けを始める。休憩中も交代で周辺を警戒していたところ、魔物は見あたらなかったが、用が済んだら匂いに誘われた連中が寄ってくる前に退散する方がいいだろう。幸い、風は今は行くべき方向とは反対に吹いている。匂いに釣られた魔物と正面衝突する心配はあるまい。  ――ただし、匂いに釣られたわけではない生き物と正面衝突する可能性は、いくらでもあった。  今までに見たことのない生き物を目の当たりにして、『ウルスラグナ』一同の足が止まる。  ぶよぶよとした身体を顫動(せんどう)させて、のったり、のたりと進み行く『それ』は、緑色の巨大な芋虫であった。もちろん芋虫ごときに怯える面子ではない。巨大というところは不安材料だが、ただ大きいだけなら恐れる理由にはならない。敵対的な生き物でなければ、通り過ぎるのを待てばいいのだ。  しかし、芋虫――クローラーは、後ろの方の足を支えに、ぐいっと身体を縦に伸ばした。それまでの動きが嘘のように素早く、その高さはエルナクハの頭を軽く越え、近くにあった樹の高い枝にさえも届く。そこにいたリスのような生き物が、警戒の鳴き声を発しながら、ととと、と逃げていった。わずかに遅れて、クローラーの頭の下に顎のように付いた爪が、リスのいたところを襲う。  一同はごくりと唾を飲んだ。その鋭い爪は、少なくとも今の『ウルスラグナ』を容易く噛み砕くだろう。エルナクハの鎧すら貫通するに違いない。一体だけというのがありがたいくらいだ――というより、一体だからこそ、『ウルスラグナ』は余計に警戒したのだ。他の魔物が少なくとも二体以上で行動している中、一体だけで動いているというのは、それだけ周囲の他の生き物より強い可能性が高い。しかもこいつは肉食のようなのだ。  その赤い瞳と、目が合った。  きちり、と、そいつが顎爪を慣らす。  どうみても、新たな獲物を見付けた猛獣の態度にしか思えなかった。  やべぇな、とエルナクハはひとりごちる。  目の前の巨大芋虫からは、針ネズミやらマイマイやらからのそれは慣れすぎてしまった、強烈な殺意を感じる。これまで現れた魔物とは違い、自分達より巨大なものだから、その威圧感はなおさら。ここは三十六計逃げるに如かず、だ。センセイを戦場に慣らしておいてよかった、と心の底から感じた。逃げて逃げて逃げまくってこの場に至り、いざこいつと対面したとしたら、アルケミストだけではなく、自分達ですら、思うように動けたか、定かではない。 「おし!」  仲間達のみならず、自分自身にも気合いを入れるがごとく、エルナクハは短い声を上げた。 「総員待避!」  明確な命令は、その場の全員に容易く受け入れられた。  逃げる、と一言で言っても、皆が敵に背を向けて走り逃げる、というわけにはいかない。逃走には相応の細工が必要である。平たく言えば、殿(しんがり)を務める者、そして、殿さえも逃げ切れるような補助が不可欠だ。現在の『ウルスラグナ』の構成の場合、パラディンがその防御性能をもって味方の逃亡を敵の追撃から護り、逃げた味方が、遠くから、たとえばアルケミストが閃光の術式――ただの閃光だから、籠手の制御を考えずに発動しても、問題はない――で敵の目を眩ませたり、メディックが刺激物を投げつけて敵を怯ませたり、レンジャーが鏑矢で敵の気を引いたりして、パラディンの撤退を補助するのだ。  今の場合、勝手の分からないフィプトは逃走に専念させ、エルナクハがクローラーの前に立ちはだかり、それをアベイやナジクが補助する形になる。絶対完璧に逃げられるわけではないが、今回はのそのそと歩くクローラー相手、威圧感さえ振り解けば、さほど苦もなく逃げられるはずだ――と、全員が楽観していた。  クローラーの動きを目の当たりにしていながら、錯覚していたのだ。  後ろの足を支えにし、縦に伸びた、先程の素早い動き。それは――彼らの錯覚とは裏腹に、縦方向にのみ適応される動きではない! 「――なっ!?」  盾を構えて敵を牽制していたエルナクハは、視界の中にあるクローラーの割合が急激に増大したのに驚いた。ぶよぶよの身体を急に伸ばして自分を狙っていることを理解する時間はかからなかったが、その時は死の顎(あぎと)がパラディンを捕らえようとしていた。衝撃に備えて体を固くしたパラディンは、しかし、自分の前に舞うように飛び出す影を目の当たりにしたのだった。  エルナクハはその影の名を絶叫した。エルナクハと敵との間に割って入ったダークハンターの少女は、器用にも目標を変えた――彼女の方が柔らかくて捕らえやすい、と思ったらしい――クローラーの顎爪に挟まれ、巨大芋虫の身体が元通り縮むのに応じて引っ張られていく。なぜ自殺行為のような行動に出たのか、今は、エルナクハにも、他の仲間達にも判るまい。いずれにしても事実として、オルセルタは敵の手の内に落ちた。樹海の下草の上に点々と続く血の痕が、彼女の重傷を声高に語る。意識もないらしく、返事もない。今逃げれば、彼女を完全に見捨てることになるだろう。 「あのバカタレ……!」  エルナクハは歯ぎしりし、だが、躊躇うことなく剣を執る。彼にとってはオルセルタは大事な妹だ。見捨てるという選択肢があろうはずもない。けれど心が逸ったところで、身体が付いていくかは別の話。文字通り囚われの姫君を救い出そうとする聖騎士として一歩を踏み出しかけたエルナクハの身体が、くらりと揺らいだ。毒吹きアゲハにさんざん痛めつけられた肉体は、休息を経ても本調子を取り戻せなかったようだ。  ち、と忌々しげに舌打ちするエルナクハの脇を、金色の風が吹く。  それはレンジャーの青年の姿だった。金色に見えたのは長い金髪がなびいていたからだ。本来の武器である弓を投げ捨て、その手に構えるは獲物解体用の雑用ナイフ。本来、武器として使えるような代物ではない。あっけにとられる仲間達の前で、ナジクは無謀としか思えない突撃を――否、突撃ではなかった。戦場の脇に広がる木々の合間に飛び込み、かと思えば、程なくして一本の樹の枝の上に姿を現す。それも、クローラーが先程のように伸びても届きそうにない高さに。レンジャー以外の者には到底できない身のこなしである。  何をするのかと見守る視線を受け、ナジクは行動を起こした。いつも腰に付けている――あまり目立たないが――ロープを、自分の上の枝に括りつけ、それにぶら下がり、足場を蹴る。子供向けのおとぎ話に謳われる南国の密林の英雄よろしく、しかし『彼』のように雄叫びは上げたりせず、レンジャーは宙を舞い、芋虫の背の上に飛び降りた。  刃が煌めき、クローラーの節の合間に突き刺さる。  芋虫は無言で苦悶を表現した。仰け反る身体から身軽に飛び降りたレンジャーは、緩んだ顎から滑り落ちるダークハンターの少女を抱きとめた。そのままさらなる攻撃を仕掛ける愚を、ナジクは冒さない。ただひたすら、敵に背を向け逃げるだけだ。わずかなりとも速度を緩めたのは、先程棄てた弓を拾う時だけであった。  もちろんクローラーとて黙って見送るわけではない。爛々と目を光らせ、背を向けて逃げるレンジャーに照準を定める。が、今度はレンジャーの仲間達の方が黙っていなかった。 「これでも――喰らえっ!」  メディックがスリングショットに何かをつがえ、クローラーめがけて撃ち放つ。アベイには護身用杖術以外の武芸の心得はないが、厳密に敵の急所を狙う必要がないという前提でなら、スリングショット程度は扱える。実際、アベイが撃ち放ったものは、クローラーには当たらず、その手前の地面に叩きつけられて終わ――らなかった。その場から大量の煙が湧き出してクローラーを包み込んだのである。  アベイが撃ち放った物の正体は卵。ただし、本来の中身は、昨晩の食事を経て『ウルスラグナ』全員の腹の中。殻に小さな穴を開け、全体の形を壊さずに中身を抜き出したのだ。卵は、それなりの衝撃対策をしておけば壊れにくい反面、投げつけてどこかに当たれば容易く砕け散る。その性質を利用して、アベイは卵殻の中に刺激性のある薬品を詰め込んで、逃走補助に使っているのだった。  敵を殺せるほどの威力はないが、それでも予期せぬ刺激にクローラーは身をよじらせる。今なら全員が背を向けても危険はあるまい。エルナクハは再びの退却命令を下した。 「全員、全力で走れ!」  『ウルスラグナ』は文字通り全速力で駆け抜けた。全力といっても、ぐったりとしたオルセルタを抱えたナジクは、かなり辛そうだったが。一応、エルナクハは殿に陣取り、途中途中で後方を警戒していたのだが、幸いにもクローラーがそれ以上追ってくることはなかったのであった。  奥に泉を擁する細い脇道を脱出し、分岐点まで止まることなく遁走した『ウルスラグナ』は、北の方の拓けた場所に足を踏み入れた。ただし、それ以上進むことはせず、その場に野営地を張る。野営、といっても、大仰な道具は持ち込んでいないから、つまりは簡単な休息の場を作っただけである。  地面の上に敷かれた敷物(ラグ)に、傷ついたオルセルタが横たえられた。クローラーの顎爪に貫かれた場所は赤く染まり、端から見ているだけでも痛々しい。これでも急所は外れているのだ。 「なにバカなコトしやがった! オルタ!」  てきぱきとアベイが応急処置をする傍らで、エルナクハは妹に怒声を浴びせる。もちろんそれは、怒るというより心配ゆえである。兄の激しい声に揺り起こされたか、ダークハンターの少女は、うっすらと目を開けた。瞼の下の琥珀の瞳には、輝きがない。 「ごめんね、兄様、でも、だって」  身体の痛みに耐えながら、途切れ途切れに、少女は訴えた。 「わたし、兄様が倒れるのが、イヤだった」 「そりゃ、あの芋虫にかかりゃ、今のオレだってヤバかっただろうけどよ……」  だけどよ! とパラディンは掌底で地を打つ。 「オレは聖騎士だ! 『百華騎士団』の『紫陽花の騎士』だ! いや、今は『ウルスラグナ』のギルマス様だ! それがカラダ張らずに誰にカラダ張らせろっていうんだよ! 痛いのもキツイのも覚悟完了済みだ! オマエなんかがしゃしゃり出るんじゃねぇ!」 「わかってる、わかってるわよ……!」  でも、でも、だけど、と、銀髪の少女は訴え続ける。 「兄様はあんなに強かったのに。エトリアの三竜のブレスだって、兄様の盾の前じゃただの溜息だったのに。なのに今の兄様は、毒吹きアゲハ相手にも辛そうで、倒れそうで……立った時にも倒れそうになってて……」  あれを感付かれたか、と、エルナクハは内心で舌打ちした。  妹が、兄たる自分が傷つくことにことさら敏感なのは、前々から知っていた。それは幼い頃の自分の失敗に起因する。妹守りたさに、見境なく危険の前に飛び出して、結果、彼女の目の前で生死を彷徨ったことがあるのだ。  それでも、エトリアで冒険者となり、妹の前で倒れることも茶飯事となった以上、彼女ももう慣れたものだと思っていた。  たぶん、だが、妹も、エトリアでは割り切っていたのだと思う。大概の魔物には労せず勝てるようになり、苦戦するのは、それこそ人間の間では『伝説』と扱われるような化外のものばかり。こればかりは、酷く傷つくのもやむなし、と。だが今は、エトリアでは楽に勝てるようになっていたはずの輩にも後れを取りそうになる。ブランクがある以上、それはそれで仕方がない、と頭では思っていたのだろうが、兄たる自分が無様さを悟られてしまったが故に、こんなことになってしまった。  そう考えると、それ以上怒鳴る気力も失せた。 「もう、いい。黙れ。少し休もう。な」  銀色の髪を梳き撫で、オルセルタが再び目を閉じるのを確認すると、エルナクハは処置中のアベイに視線を転じ、無言で問うた。メディックは首を横に振る。表情が軟らかいところを見ると、絶望的、というわけではないのだろうが。  言葉で補足する必要を感じたか、アベイは口を開いた。 「生命の心配はもうないさ。でもな、このまま放っといていいってわけでもない」  応急処置は問題なく終わった。少し休めばオルセルタは目を覚ますだろう。そのときに自力でどうにか移動できる程度には回復しているか、誰かの手を借りなくては歩くこともできないか。それはまだ判らない。いずれにしても、戦場の激しい動きに付いていけるほどの回復は、望めない。  敵意に溢れたこの樹海で、そんな者を抱えながら探索を続けることの無謀さは、言うまでもないだろう。もっと経験を積んでからならまだしも、少なくとも今は、一人の欠けが戦闘力の大幅な低下となってパーティに跳ね返る。まして彼女は前衛なのだ。エルナクハの、そして、先程から前衛を引き受けてくれているナジクの負担は、ことさらに大きい。  何よりも、エルナクハにしてみれば、特にナジクには申し訳なく思うものの、自分達の負担よりも、妹の苦痛が続くことの方が心配だ。肉体的なこともそうだが、精神的な方面でも。今の妹の心境では、自分が戦えないまま味方の苦戦を目の当たりにすることには耐えられまい。  肉体的な問題については、アリアドネの糸があれば、街に戻って権威の治療にすがることもできる。アベイの薬学研究がハイ・ラガードの薬剤でも通じるほどに進んでいれば、この場でもっと立ち入った治療ができるだろう。だが、今はどちらも望めない。できることと言えば。 「あ」  エルナクハの脳裏に何かが閃いた。慌てて突っかかり気味にメディックに声を掛ける。 「ユースケ、あれ、あれ! ネクタルネクタル!」  いい思いつきをした子供が親を必死に呼ぶように――否、『ように』ではなく、ほぼそのままで――、腕をぶんぶんと振るエルナクハ。 「あ、そうか」  言われてアベイも思い出した。つい先程、前時代のものと思われる箱の中から、試練監督役の衛士が用意したらしいネクタルを手に入れたことを。いそいそと医療鞄から預かっていたネクタルを出し、エルナクハに手渡す。  パラディンは早速、妹にその薬を飲ませようとしたが、封に手をかけたところで、その動きが止まった。  ……ここでこの薬を使うのが、正しいことなのだろうか?  ただのパラディンであるエルナクハだったら、こんなところで躊躇いなどしなかっただろう。しかし彼は『ウルスラグナ』のギルドマスターだった。いつもはそんなことは深く考えず、自分が最善と思ったことを突っ走る彼だったが、だが、先程妹に対して自分がギルドマスターであることを宣告したがゆえだろうか、少し考え込んでしまった。  今の『ウルスラグナ』にとって、ネクタルは貴重品だ。  シトト交易所の寂しい商品棚を思い浮かべる。あの棚にネクタルが並ぶ日は、いつになるのか。それを『ウルスラグナ』が手にできるほどに供給が安定するのは、いつになるのか。  そんな状況の今、迷宮探索の入り口も入り口であるここで、このネクタルを使ってしまっていいのか。  試練を乗り越え、本格的に迷宮探索に乗り出せば、仲間が倒れる事態などいくらでもある。今回のように逃げられない時もあるはずだ。そんなとき、この一本のネクタルが――消えそうな生命と壊れそうな身体を短時間で癒してくれる霊薬が残されていれば、それは崩壊しかけたパーティの光明となるかもしれない。それを今使ってしまうのは、後々の危機からの脱出口を塞ぐことになりはしないか。  だが、エルナクハはついに、震える手でネクタルの封を切った。強い香りを中から漂わせる瓶を傾ける。生命の雫が、オルセルタの、血の気を失った唇を湿らせ、わずかな隙間からその体内に染み入っていく。  ぐったりとしていたダークハンターの身体が、ぴくんと震えた。ネクタルが彼女の身体に備わった自己回復力を大幅に引き上げているのだ。紛うことなき霊薬の力に歓喜しつつ、瓶の中身をすべて流し込むかのように、エルナクハはさらに大きく瓶を傾けたが、不意に、その手首を後ろから何者かに掴まれた。  ――使うなっていうのか!?  エルナクハは激昂しかけたが、辛うじて感情を抑え込んだ。自分も先程葛藤していた事柄を、仲間達も考えていた、ということだ。それが、目の前で断りもなくネクタルを使われたら、止めたくもなるだろう。しかし――!  エルナクハはゆっくりと振り返った。自分の手首を掴んだのがアベイだったことを知る。エルナクハの想像とは違って、その顔は、エルナクハの行動を責めるのではなく、呆れているような表情を浮かべていた。  もう片方の手に汚れのない布を携え、メディックは、やれやれ、と言いたげに肩をすくめた。 「何寝ぼけてんだよナック。傷が酷いんだから、全部飲ませちまうんじゃなくて、外からも当てた方がいいだろ」 「悪ぃ、そうだったな」  メディカやネクタルといった体力回復薬は、内服と塗布の両用に使える。毒のダメージが酷ければ飲ませた方がいいし、傷が酷い場合はそちらにも塗布した方が効果的である。そんなことは冒険者としては基本的な知識なのだが、うっかりど忘れしていた。 「ほら、ぼけっとしてないでよこせ。俺がやってやるから」  笑顔でネクタルを奪い取るアベイと、心配そうに見守るナジクやフィプト。彼らの顔を見て、エルナクハは、自分の妹を自分と同じように心配してくれた仲間達に、いたく感謝した。  ネクタルの効果は劇的で、オルセルタは、支えなく歩き回れる程の体力を取り戻した。戦いにも参加できそうではあったが、傷口の痛みに時折顔をしかめる妹を見て、エルナクハは仲間達に探索続行を指示しながらも、今回の探索ではこれ以上魔物が出ないでほしい、と大地母神(バルテム)に祈らずにはいられなかった。  野営の場となった拓けた場所からは、西に道が延びていた。真っ直ぐ進めれば樹海迷宮入り口に戻れる計算だが、行き止まりになっているかもしれない。そうだとしたら、今のところは文字通り八方塞がりだ。どこかで、無理に押しひろげれば通れる茂みを探し当てられなかったのかもしれないし、あからさまに開いた道でさえも、うっかり見落としたのかもしれない。 「どう思う、ナジク?」  エルナクハは隣を歩くレンジャーに疑問を投げかけたが、ナジクは首を振った。 「隠された道はないと思う。それを見付けられなければ入り口に戻れない、などという道は、な」 「なんでさ?」 「そもそも、衛士に案内されていた時に、そんな道を通った記憶はないだろう? まあ、僕達を森の奥に置き去りにした後で、道を隠したりしたというなら、話は別だが……あの衛士一人でそんなことができるとも思えないし、そうする意味もあまりないと思う」 「あー。そうか」  確かに、もっともな結論である。エルナクハは両手を打ち鳴らして頷いた。 「あとは、普通の道を見落としたって可能性だけど、それは後で考えようぜ。ほら、見ろよ」  パラディンは前方を指差す。折しも、前方に、緑の壁が途切れているとおぼしき箇所が見えてきた頃だった。大まかに判断して、あと五分ほども歩けば、辿り着くだろう。到達予定時間と、磁軸計と、書きかけの地図とを付き合わせ、少し考えれば、それが意味するところは明らかだった。  後列で二人の会話を聞いていた者達にも、意味は通じたのだろう、アベイが、ひゅう、と口笛を鳴らした。 「まだ、あそこに着くまでは油断できません」  フィプトが厳しい顔で口を出す。アベイは、わかっている、とばかりに数度頷いた。 「もちろんさ。だが、先が見えたのはありがたい。いつまで樹海をさまよわなくちゃいけないか、不安を抱えてるよりはな」 「センセイも、いっぱしの冒険者だな」  エルナクハが言うまでもなく、アルケミストの顔立ちは、樹海に踏み込んでからここまでで、見違えるほどに変わっていた。もちろん顔の造作が短時間で変わるわけではないが、どことなく引き締まったように見える。生死の狭間を綱渡りで渡りきった経験は、良くも悪くも人を大幅に変えるのだろう。もちろん、良く変わったことを祈りたいが、そのあたりの心配はいらなさそうであった。  それにしても、長かった。樹海にいたのはせいぜい数時間のはずだが、一日中さまよっていたような気がする。エトリアの樹海を知っているライバル達も多くが生命を落としたという試練、どうなるかと思ったが、可能な限り準備を怠らなかったおかげか、どうにか生きて戻ることができそうだ。これからも気を緩めてはいけないな、と、昨晩心に焼き付けた妻の顔と我が子の鼓動を思い起こし、エルナクハは強く決心したのだった。  『ウルスラグナ』一同を出迎えた衛士は、その兜を脱ぎ、受け取った地図を、穴を開けそうに鋭い視線で検分していたが、やがて、晴れやかな笑みを浮かべた。その表情は衛士が再び兜を装着するその瞬間まで消えることがなかった。声の調子からすると、兜の中でも笑みは消えていなかったかもしれない。 「よかった、任務は無事達成したようだな。これで君たちは、晴れて、このハイ・ラガード公国の民と認められるだろう」  おおっと、と言いたげに、衛士は肩をすくめる。 「まあ、フィプト先生はもともとハイ・ラガードの民だったわけですが」 「しかし、小生は冒険者ではなかった」と、穏やかな笑みでフィプトは応じた。 「小生は、逆に、この試練を越えて、冒険者と認められたわけですね」 「おうよ!」  衛士が何かを答える前に、エルナクハが錬金術師の肩を強く叩き、腕を回す。 「センセイは名実共に『ウルスラグナ』のアルケミストだ。これからも頼むぜ、フィプトセンセイ!」 「無論です、義兄さん」  少し照れたような表情で、聖騎士の義弟となった錬金術師は返事をした。 「さて、君たちはこれで、正式な迷宮探索者だ」  己がいた場所から立ち退きながら、衛士は言葉を続けた。 「このまま先へ進んでも、君たちを咎める者はいない。だが、久々の探索で疲れただろう。私としては、一度街に戻り、心身を癒すついでに、公宮へ報告に上がるのをお勧めする。それにギルド長も、新たに正式な探索者となった者達の報告を待ちかねているだろう」 「ああ、そうだな」  もとより衛士に言われなくても、そうするつもりでいた。権力者や協力者に、報告を行うのは、それが義務でなかったとしても、悪いことではない。一応は組織の中堅にいた身、エルナクハはそういうことをいたく実感していたのだ。  たとえば、エトリアでは、一人前の冒険者と認められた時に、執政院からの紹介で、シリカ商店という冒険者御用達の店からアリアドネの糸を購入する許可を得ることができた。ここハイ・ラガードでも、世界樹探索者にのみ使用が許されるものを得られるかもしれない。そういった便宜を図ってもらえるかもしれない機会をむざむざ逃す理由はない。  いずれにしても、一休みだけはしたいものだ。オルセルタを薬泉院に連れて行って、できれば傷が残ったりしないように処置してもらいたいし、センノルレの顔も見たい。それと……ゆっくりしたらアベイにも訊きたいことがある。「『テレビ』って何だ?」と。 「さて、私の役目は終わりだな。今のところ、次に試練に挑む者がいる連絡は受けていないし、交代までゆっくりさせてもらおう」  衛士は、『ウルスラグナ』が戻ってきた道に近付くと、立てかけてあった看板のようなものを撤去させる。冒険者達も戻ってきた時はその存在に気が付いていたが、なにしろ裏側から見ていたので主旨も判らず、それよりも衛士に報告しなければと逸っていて、そのまま忘れ去っていたのだった。よくよく見ると、どうやら以下のようなことが書いてあるらしい――『新規登録冒険者、入国試験に挑戦中。他の方々の立ち入りはご遠慮願います』。その看板を片付けると、衛士は傍にあった座りやすそうな岩に腰を下ろし、『ウルスラグナ』に向かって手を振った。 「これからも、生命を落とさないように頑張れよ」 「おう!」  満面の笑みを浮かべて手を振ったエルナクハは、仲間達を出口の方に送り込んでいたが、傍らにナジクが音もなく近付いてきたことに気が付いた。どうした、と問うたエルナクハは、レンジャーの顔が険しいことに不審を抱く。ナジクはエルナクハの耳元に口を近づけ、そっと、ささやいた。 「あの衛士がいた場所、階段の前だった」  ナジクの言う『階段』は、巨大な扉と迷宮一階を繋ぐ、緩やかな階段のことである。迷宮側から見ると下りとなっている。 「そうだな、それが?」 「もし、僕たちが迷宮の地図を完成させていなかったら、あの衛士は階段前から退いてくれただろうか?」 「――地図を完成させなければ街に帰してくれなかっただろう、っていうのか?」  エルナクハは眉をひそめたが、ナジクの推測は間違っていないだろう、とも思った。自分達が受けた試練は『迷宮の地図を完成させること』。それに、『迷宮の奥から生還すること』という試練が掛け合わされていた。どちらか片方でも果たされなければ、自分達は迷宮を後にすることはできなかっただろう。……いや、後者が果たされなければ、別の形で迷宮を後にすることになっただろうが。 「エル、僕は、もしも、オルが倒れた時にネクタルがなくて、どうにか入り口に辿り着いても衛士が街に帰してくれなかったら――」 「おい」 「あの衛士の生命を奪ってでも、街に戻ろうとしただろう」 「おい!」  エルナクハは、囁き声ながらも気迫のこもった言葉でナジクの口を封じると、仲間達の様子を見た。  ナジクの言葉は皆には聞こえていなかったようだ。街に戻れる、という嬉しさが成せるのか、疲れているはずなのに弾むような足どりで、エルナクハ達に先行している。エルナクハは内心で胸をなで下ろすと、レンジャーの青年を睨み付けた。 「物騒だな、おい。大公宮を――いや、この街を、探索開始早々敵に回す気か?」 「エル、お前は、妹より衛士が大事か?」 「なんでそんな話になるんだ!」  断じながらも、エルナクハはナジクが言いたいことを理解した。それは、万が一があったら何よりも仲間達を優先させる、という意思の宣言だ。だが、いわゆる『仲間を大事に』ではない、オルセルタがエルナクハの窮状を見かねて、なりふり構わず敵の目前に飛び出したようなものでもない、狂信的なものになりかけているように、エルナクハには感じられたのだった。 「てーか落ち着けよナジク。別にあの衛士を殺さなくてもオルタは助けられただろ。オレは衛士の生命とオルタの生命は簡単にゃ選べねぇけど、オルタの生命と今回の勅命の遂行なら、オルタの生命を選ぶのに迷わねぇ」  黒い騎士は、意識して軽々しく言葉を放つ。 「あの衛士サンにちょっと泣きつきゃ簡単なことさ。まあ、世界樹の探索は諦めることになるけど、オルタの生命には代えられねぇ」  次の瞬間には、エルナクハは緑の目をすっと細め、剣呑な光を視線に宿してナジクを射った。 「第一、ナジクよぉ、あのネクタルを『箱』に入れてくれてたのはあの衛士サンなんだろ? 言ってみりゃ衛士サンこそオルタの生命の恩人だ。たとえばの話でも、その恩人を『殺してでも』なんて言うのは、オレとしちゃ許し難いなぁ」  ネクタルを用意したのは衛士個人ではなく大公宮なのだろうが、そのあたりは置いといて。  エルナクハの言い分はナジクにも通じたようだった。レンジャーの青年は、「あ」と声を漏らすと、ちらりと衛士の方に視線をやり、「申し訳ない」と言うように目を伏せた。  パラディンは改めて明るい声を投げかける。 「まぁ、とにかく衛士サンが置いといてくれたネクタルのおかげでオルタは大事なかったし、ちゃんと試練も突破できたから、オマエがしてるような心配はもういらねぇだろ。もっと気を楽にしようぜナジク。あんまり気を張ってちゃ、これからの探索、辛いだけだぜ」 「あ、ああ、そうだな……変なことを言って悪かった」  金髪のレンジャーが、ぎこちないながらも同意の頷きを返すのを見ながら、それでもエルナクハは振り払いようのない不安を感じていた。  かつてエトリアでナジクがフォレスト・セルという魔物に魅入られ、それを仲間達が助け出した頃から、彼の様子がそれまでとは違うことに、『ウルスラグナ』の誰もが気付いていた。外から見て判る変化は、物静かながら心の裡に苛烈な意思を秘めていた彼が、レンジャーの十八番とばかりに、自分の存在を影に溶け込ませよう、とするようになったことだった。  だが、ここまでの様子を見るに、それだけではない。  ナジクは、仲間を守るためなら何をも犠牲にしようとしている。  おそらくは、自分の生命でさえも。  オルセルタを助けようとしたときのナジクの様子を思い出す。彼はレンジャーとしての特性を発揮して、実に見事にオルセルタを助けてくれた。だが――彼が行動を起こし始めた瞬間は、らしからぬ突撃に見えた。ただ『そう見えた』だけなら問題ないし、ただひたすら、妹を助けてくれたことを感謝するだけなのだが。  もしもレンジャーとしての能力を発揮しきれない場所だったとしても、ナジクは、あのような『突撃』をしたのではないか。  今は、そんな不安がぬぐい去れない。  仲間だろ、と、エルナクハは心の裡でつぶやいた。  もしも、エトリアでの一件をきっかけにして、自分がそのようにしてでも仲間達の役に立たなければと思っているのなら、あまりにもお門違いだ。仲間を――否、友を助けるのは、友の責務、というより、本懐だろう。そして、道を過ちかけた友を引き戻すのも、そうだ。それを気に病み、自らを大事にしないような行動で『恩』を返そうとしているのなら――。  エルナクハは首を振った。そんなはずは、という思いと、そうかもしれない、という危惧とに挟まれながら。 「……あんまりせっぱ詰まるなナジク。今日は久々の樹海で大変だっただけなんだ」  表向きは朗らかに告げながら、ぽんぽんと相手の肩を叩く。 「明日からは、大変な状況になっても帰してもらえない、ってことはないはずだぜ。ま、先に進みすぎた自業自得で帰れねぇ、ってのはあるかもしれねぇけどよ。だからまた明日から、気楽に行こう。な。――まあ、油断はしちゃなんねぇけど」  オマエの力もまだまだ借りなきゃならねぇよ、と、聖騎士はニンマリと笑ってみせた。 「心得た」  ナジクもまた、笑みを浮かべながら頷く。その笑みがどことなく寂しげに見えたのは、エルナクハの錯覚ではあるまい。エルナクハの危惧を判っていながら、それでも自分はそうすることをやめるわけにはいかない、と思っているのだろうか。  まいったね、とエルナクハは再び内心でつぶやいた。  彼の心の傷がどこまで深いのか。この度の探索にどこまで影響するのか――いや、ナジクとて、自分の行動が自分以外の仲間に悪影響を与えるような行動は取らないだろうが、ことはそういう問題ではない。  神サン、コイツを助けてやってくれねぇか。  己が奉じる大地母神に訴えるも、返事はない。人間の心の問題は、最終的には人間自身で解決しなければならないゆえに。そもそもバルシリットの大地母神は、人間の問題のために割ける力を、すでに失っているのだ。  伸ばした手はナジクに届くのか、それよりも、彼の心の深淵に届くほど長い手を持つ者がいるのか。  いるとしたら、たぶんティレンだろう、とエルナクハは見越した。しかしティレンは幼すぎる。よもすれば、ナジクの心の深淵に諸共に引きずり込まれてしまうかもしれない。難しい問題だ。  とりあえずは皆で気を回す、というより、これまでどおりに変わりなく接していく必要があるだろうか。  難しいモンダイは苦手なんだけどなぁ。エルナクハはこりこりと後頭部を掻いた。樹海外でまで問題になることはなさそうなのが救いだ。  いまのところは、ひとまず街に戻り、今日の疲れを癒すことが先決だろう。  うん、と黒い騎士は頷くことで自己解決を図ると、緩やかな階段を下りていく仲間達の後を追ったのであった。  冒険者ギルド統轄本部の長は、顔を覆い隠す兜の奥から、目の前に居並ぶ冒険者達を見つめた。  昨日、一年の最終日たる鬼乎ノ一日に、世界樹探索者としての登録を果たした冒険者ギルド『ウルスラグナ』である。総勢十人で構成される、と書類にはあったが、目の前に実在する一同は、ひとり足りない。聞けば、修練のために一時的に街を離れているとか。 「そのあたりは、別に問題ねぇだろ? 樹海に潜ったヤツだけにしか国民の権利が与えられねぇとか、あるか?」  と『ウルスラグナ』のギルドマスターが問うてきたので、ギルド長は首を振った。 「問題ないよ。そういうものはギルド単位で与えられるからな」 「なら、よかった」と黒い騎士は笑みを浮かべた。  太陽が遠き西方に隠れようとする今、『ウルスラグナ』の一同が冒険者ギルドに顔を出したのには、理由がある。彼らは入国試験を無事に突破し、ハイ・ラガードの国民たる資格と、世界樹の迷宮を探索する権利を得た。その旨を大公宮に報告し、公国民たる証を得た彼らは、その際に聞いたという、按察大臣の助言に従ったのである。  興味があるならば、ギルド長より、世界樹の迷宮の探索の歴史を聞くがよい、という助言に。  ちなみに時間帯が今なのは、薬泉院と宿で簡単な傷の手当を受け、心身を癒してきたからだという。 「大臣のおじいちゃんも、きっと知ってるよね。なら、あそこで話してくれれば、よかったのに……」  と、赤毛のソードマンがぼやくのを、隣のカースメーカーが諫めていた。 「何でも屋さん大臣さんだもん。忙しいと思うよ、いろいろ」  まったくもってその通りだ。通常公務もさることながら、数ヶ月後に控えた皇女の誕生祝いの準備もある。その合間に、冒険者の相手もしているのだから。それより何より……否、それはまだ語れる話ではない。  ひるがえって、ギルド長はそれほど多忙ではない。登録を終えた冒険者達がギルドに顔を出す責務はないからだ。正確に言えば、ギルド構成に増減があった場合や、樹海探索者の変更があった場合などには、報告を求めているが、それとて時間がかかる仕事ではない。大抵は冒険者の誰かひとりが連絡に来たのを、部下が聞き取って書類に記すだけだ。新規登録者の場合はギルド長が一度は顔を出すべきだろうが、そういったことが夜に起きることは、滅多にない。 「では、話すとしようか」  ギルド長はそう告げ、円卓の上で手を組んだ。  話をしている場所は、ギルドの奥の一室である。大所帯のギルド用の円卓が用意され、そこに『ウルスラグナ』一同(ひとり除く)とギルド長が座を占めている。  それぞれの目の前には、冷やしたカミツレ(カモミール)茶が供してあった。単なる茶で、それ以上でもそれ以下でもないのだが、『ウルスラグナ』は疑問符を顔に張り付かせたような表情をしている。彼らに限らず大概の客人が一度は浮かべる表情なので、ギルド長は気にせず話を始めた。  一方、『ウルスラグナ』からすれば、その茶は、大いなる疑問を抱かせる元となっていたのだ。すなわち――今この場でも兜を脱がないギルド長は、どうやって茶を飲むのだろう?  それぞれの脳内にそれぞれの仮説ができあがりつつあったが、ギルド長の話が始まったので、全員、姿勢を正して聞き入ったのであった。 「世界樹の迷宮の正面、大きなレリーフのある扉が開かれるようになったのは、四ヶ月ほど前のことだった。――ふん、そんなこと知っていると言いたげな顔だな。大方、フィプト・オルロード師――お前が教えたな?」 「ご明察の通りで」フィプトがぺこりと頭を下げた。 「よもや、その先までは告げていないだろうな」 「私とてハイ・ラガード国民の端くれです、布令を無視する理由はありませんよ。もっとも、大したことは知らない、というのも実情ですが」  フイプトの話を聞き、「ふん」と、短い言葉を吐くと――先程のもそうだが、声調からすると、単純に間を取っただけで、嫌悪を示しているわけではないようだ――改めて『ウルスラグナ』全員を見回した。 「話を進める前に、ひとつ問おう。お前たち、世界樹様は一本の大樹だと思うか?」 「そうじゃない、って、言いたいみたい」  いきなりティレンが核心を突いた。これにはさすがのギルド長も苦笑いを誘われたようだった。 「なかなかに聡い少年だな。だが私は意見を訊きたいのだ。一本の大樹ではないとしたら、世界樹様はどのような姿なのか、とな」 「……おれには、無理」  ティレンは訥々と答え、きょろきょろと仲間達を見回した。彼はまだ世界樹を外から眺めただけなのだ、答えようがない。その救いを求めるような視線を汲み取って、口を開いたのは、ナジクであった。 「一にして全、全にして一――だ」 「錬金術師のような物言いだな」 「最も簡単に言い表せる言葉が、これだった。それだけだ」  錬金術師、という単語に誘発されたわけではなかろうが、フィプトが軽く手を上げる。ギルド長がそちらに顔を向けることで発言を促すと、金髪のアルケミストは、新しい元素の性質を見付けた研究員のような表情で、口を開いた。 「小生は、世界樹様が、一本の大樹であると思っていました。しかし、この度冒険者となる機会を与えて頂き、迷宮へと足を踏み入れ、思っていたのと違うということを思い知りました」  ……一瞥しただけの世界樹は、一本の大樹以外の何物でもない。しかし、本当は『一本の大樹』でありながら、そうではなかった。草花が世界樹の幹を苗床として繁茂し、彩りを添えていた。それだけではない、樹皮に根を張った木の苗が、世界樹の幹のあちこちで見事な成長を遂げていた。世界樹という『一本の大樹』の枝だと思われていたもののうちの幾ばくかは、『別の樹』だったのである。  ギルド長に軽々しく告げるわけにはいかないが、この世界樹が前時代の『世界樹計画』によって生み出されたものだとしたら(ほぼ決定だろうが)、樹齢は数千年に達するはずだ。樹木によっては、その程度の年月を平気で生き抜くが、世界樹の場合はどうなのか。『世界樹計画』がとうに終わっているためなのか(その確認はこの世界の誰にも不可能だが)、世界樹の幹には、あちらこちらに虚穴が開いていた。そのほとんどは、世界樹の厚い樹皮を貫くことはなく、ただの虚穴で終わっていたが、中には樹皮を貫通しているものも見受けられた。人間が簡単にくぐり抜けられそうなものさえも。だが、『ウルスラグナ』が見付けられた限りでは、覗いてみただけでも内部で木々に邪魔されて通れないとわかるものばかりであった。  世界樹の表面に根付いた樹の中には、中の迷宮に惹かれるかのように、虚穴から世界樹内部に潜り込んでいるものもあった。それも、よく見ないと世界樹の一部にしか見えないほどに、古く硬くなった樹も存在していた。それはまるで、世界樹に空いた虚穴を修復しているかのようにも見えた。  仮に、世界樹そのものが年月に破れて崩壊しても、そのころには、根付いた木々や草がびっしりと絡み、外側を形作り続けるだろう。それは一見すれば、世界樹が存在し続けているようにも見えるかもしれない。故に世界樹は一にして全、全にして一、それ自体が名前通りに、ひとつの世界だったのである。 「そうだ、ある意味では、世界樹様の樹皮に生えるもの、迷宮の中にあるもの、そのすべてが『世界樹様』ともいえる」と、ギルド長は話を続けた。 「迷宮の大地も、下の階の樹冠に、外から内部に成長した樹の枝が絡み合ってできていたりもする。そこまで密になっていて、どうして下の階にもまんべんなく太陽光が降り注ぐのかは、未だに謎だがな」  『ウルスラグナ』一同は顔を見合わせた。エトリア樹海で立てた、迷宮の奥に日光が届く理由の仮説を思い出したからだ。あの不可思議な水晶のツルは、(実際には探索者達のすぐ傍にあるのだとしても)未だ発見されてはいないようだ。 「まあ、その件はさらなる探索の成果待ちだ」  もちろん『ウルスラグナ』の内心など測りようがないギルド長は、軽く首を振ると、改めて口を開いた。 「ともかくも、今の話を踏まえて続きを聞け。四ヶ月前に開かれた、この迷宮だが――」  その続きは、『ウルスラグナ』をうろたえさせるには充分な衝撃を孕んでいたのだった。 「――実のところ、その探索は、数年前から始まっていた」 「な……なんだと……?」  驚いていないのはフィプトぐらいのものである。その悟った顔を見て、エルナクハは先程の会話の応酬を思い出した。どうやらこれは、ハイ・ラガード国民の秘中の秘らしい。つまり、自分達は試練を越えて国民となり、その『秘密』を知る資格を得たというわけか。  エルナクハがそう思っていることを理解してか、ギルド長はさらに続けた。 「当時は、エトリアの『世界樹の迷宮』の探索が、多少下火になったとはいえ、まだまだ世界の耳目を集めていた頃だ。私もまだ騎士団の末席を占めていた未熟者だった。そんな折、世界樹様に開いている虚穴の一つが、人間が通れるほどに大きく開いているのが、大公宮に報告された。それが、ハイ・ラガードの樹海探索のはじまりだ」  ギルド長がカミツレ茶に手を伸ばしたので、『ウルスラグナ』一同はさりげなく身を乗り出した。それを、話の続きを期待してのものと思ってか、ギルド長はさして気にする様子もなく、カミツレ茶の杯を持ち上げる。もう片方の手は兜にかかり、口元にある赤いパーツを引き下げる。その下から見えるはずのものは、口元に運ばれた茶杯の影になって、ほとんど見えなかった。  少々落胆する冒険者達の前で、ギルド長は赤いパーツを元に戻し、茶杯を卓上に置くと、続きを語り始めた。 「それどころか、この国にある『呪術院』の連中は、はるか昔から、世界樹様に空いた虚穴を通って樹海に出入りし、『世界樹の使い』と呼ばれる存在と取引をしていたというのだ」  『呪術院』というからには、カースメーカーの類なのだろうか。世間的には恐れられることの多い彼らだが、為政者に雇われることもままある、と、パラスやライバルギルドのカースメーカーが言っていた覚えがある。 「要するに、ソイツらは世界樹の内部に樹海があることを、長いこと秘密にしていたわけだ」 「そういうことだな。だからといって責めたりするのはお門違いだがな」  エルナクハの要約に、ギルド長は、こっくりと頷いた。 「なかなかバレなかったのは、使う虚穴をよく変えていたからだな。奥まで入れる虚穴とて、世界樹様の自己修復作用や、表面に生えた草木のせいで、塞がれて使えなくなることもしょっちゅうだ、という話だった。――ともかくも、迷宮の存在は、大公様の知るところとなった。エトリアの世界樹の迷宮が話題になっていた頃でもある、かの迷宮のように、この国を富ませるものになると信じて、大公様は衛士や騎士を派遣した。私も……かつては足を踏み入れたことがあるよ」 「……しかし、あなた方の力では樹海の謎を掴むことはできなかったわけですね?」  黒髪の女錬金術師センノルレの言葉は辛辣に聞こえるけれど、事実でもある。衛士や騎士で事足りたなら、冒険者を動員する必要もないのだ。ギルド長は素直に首肯した。 「そうだ。衛士も騎士も、迷宮の先には進めなかった。第二階層がやっとだな。今よりは魔物達もおとなしかったというのにな。この国の近辺にギルドを構える、巫医や銃士の力も借りたが、それでも樹海には敵わなかった。彼らも仲間の大半を失い、残された者達も、長らく傷を癒したのちに、仲間の無念を晴らすかのように再び迷宮に挑んでいるが……四ヶ月前の、一般冒険者としての登録の時を最後に、私の前に顔を出すことはない。生きてはいるようだが……」  しばらくは沈黙が続く。ギルド長は探索の間に失われた数多の生命に思いを馳せていたのだろうか。しかし、再び話の続きを始めるのだった。 「そう、その四ヶ月前なのだ。長らく停滞していた樹海探索に変化があったのは。春の始まる頃、金羊ノ月の頃だったな。例の石の扉が開いた。長らくびくともせず、ただのレリーフと思われていた、あれがな。しかも、虚穴とは違い、きちんとした石組みの通路も完備されていた……。それからしばらくして、エトリアの樹海が冒険者に踏破されたという噂が、ハイ・ラガードにも流れ始めた。――お前たちのことだよ、『ウルスラグナ』」 「ギルド長は、オレらの樹海踏破が、ハイ・ラガードの世界樹に影響を与えたと思うか?」  エルナクハの問いには、否定の意が返ってきた。だが、単純に否定というわけではない。 「ふん、私にはわからんよ。それがわかるのはお前たちの方じゃないか?」  もちろん『ウルスラグナ』にも判りようがない。そもそも、それを疑ったのは『ウルスラグナ』ではなく、パラスのはとこである、ライバルギルドのパラディンだ。確かに、同じ『世界樹計画』によって生み出されたものなら、そういった繋がりがあっても不思議ではないのだが。 「とにかく、それで、外来の冒険者も樹海に探索に入れるようになったのか」 「ああ、大公様は、エトリアの一件を知って、冒険者なら樹海を踏破できるかもしれない、と、大陸中に布令を発布された。お前たちも今日受けたばかりの試練も設定された。あくまでも樹海探索者としての実力を示した者にのみ、ハイ・ラガードという小さきとはいえ一国の、加護を与えよう、と。……まあ、冒険者を国民として抱き込み、樹海の産物や知識を国外に無闇に流出させないようにしたい、という魂胆もあるが」 「そのあたりはお互い様、ということでしょう」  全く気にしていない、と言いたげに、センノルレが澄まし顔で答えた。だが、眼鏡の奥のその瞳が、きらりと剣呑な光を帯びる。 「ただ、あなた方の探索で知り得た知識を、我々の探索が滞りなく進むように提供してくださっても、よろしいのではないのですか?」 「ふむ……理に叶った意見、解らなくもない。だが、これも、樹海の知識をなるべく多面から知りたいがゆえなのだ」 「……ほう」  物事を多面から見る、というのは、錬金術師の基本的心得でもある。そのような態度を見せられては、センノルレも小うるさいことは言えず、沈黙をもって相手の話の続きを促すだけだった。他の冒険者は、なおさらだ。そんな『ウルスラグナ』の前で、ギルド長は何かを指先でつまんで見せてきた。割れた板の欠片のようなそれは、表がごつごつとした岩か何かのようで、裏は虹のような輝きを帯びている。それに、『ウルスラグナ』の探索班一同は見覚えがあった。 「……森マイマイの殻、ですね」 「そうだ」  フィプトの指摘に、ギルド長は間を空けることなく頷いた。 「お前たち、大臣閣下の要請で、この度の試験で出くわした魔物のことについて報告した時、なかなか面白いことを言っていたそうだな」 「面白い?」 「森マイマイの殻は、殻の表面に走る細かい溝に力を加えると、簡単に壊れるとか」 「うん、そうよ」  そうやって殻を砕いていた張本人のオルセルタが、ギルド長の確認を肯定する。  ふむ、とつぶやきながら、ギルド長は殻を手で弄んだ。 「これまでの冒険者は、硬いから力尽くで砕いてきたものだよ。大公宮の保管する報告書にも、そのように記してあった。もしも、お前たちがそういう報告を知った後で、森マイマイの殻をどうにかしようと思ったとしたら、やはり力尽くで砕くしかないと考えるかもしれない。迷宮の地図にしてもそうだ。現状での完成品を渡したとして、それで充分と思いこんだら、ひょっとしたら、まだ見つかっていない道があるのに、永遠に見落とす羽目になるかもしれない。そうではないか」 「確かに、理は、ある」と、ナジクがぼそりとつぶやいた。 「だからこそ、なのだよ」ギルド長は卓の上で手を組んだ。「誰が見ても同じ、というなら、それでいい。だが、見る者が替われば新たな事実が見つかるかもしれん。そのために余計な先入観は持ってほしくないのだよ。恥ずかしながら、我ら公宮付の騎士や衛士は、樹海に明るくない。お前たち冒険者が寄せてくれる情報が頼りなのだ」 「エトリアの執政院でも、同じことを言われたよ。理由も同じだ」  エルナクハはそう返しつつ、嘆息した。別に、情報の非開示にうんざりしたわけではない。エトリアで覇を競い合った冒険者達の一部も、この地で、一度は体験した樹海探索、という先入観ゆえに生命を落としてしまった。その事実が、仮にも統率者である彼の心を重くするのだ。  先入観に頼るべからず、という教訓は、あらゆるところで必要かもしれない、と、あせた赤毛の騎士はその言葉を改めて己の心に焼き付けた。  思えばモグラや毒アゲハもそうだ。結果的にエトリアで見かけた時とほぼ同じような力だったからよかったが。  いつか、『エトリアでこうだった』と思いこんでいたら、まったく違う、という魔物にも出くわすかもしれないのだ。  その後の話はさしたる重要さのない雑談であった。  冒険者達が、毛穴だらけの針ネズミの皮をシトト交易所に持ち込んだ話を取り上げると、ギルド長は、やれやれ、と言いたげに言葉を漏らした。 「処分を依頼しただけのような感じだっただろうに。大概の冒険者は、そんなものは持ち帰ってこないぞ。二束三文にもならないからな。庶民達は、ああいった、普通では役に立ちそうのない毛皮を細かく切って、縫い合わせて、日常雑貨として使うがな」 「今回限りって話だけどよ、リンゴ三つと交換だったぜ」 「それで満足なのか、お前たちは?」 「なに、リンゴ三つもありゃアップルパイが焼ける。二束三文以下よりゃあ上出来だろ」 「前向きだな」  ギルド長は兜の下で苦笑を浮かべているのかもしれなかった。それは嘲りや憐憫を意味しているのではなく、『ウルスラグナ』一同の、敢えて悪く言うなら『ふてぶてしさ』に、呆れつつも感心してのものであろうが。 「まあ、残念なことをいうなら、ほのちゃんには食べさせてあげられないことかなぁ」  卓に頬杖付きながら、物憂げにも聞こえるおっとり口調で割り込むのは、黒い肌の吟遊詩人マルメリだった。 「ほのちゃん?」  ギルド長はオウム返しのようにつぶやいたが、それが誰のことを指すのか、すぐに理解したようであった。 「ああ、ここにいない、お前たちの仲間、ブシドーの娘のことか」  『ウルスラグナ』のブシドー・安堂焔華が、修練のために街を離れていることは、この席に着いた際にすでに伝えてある。もちろん、何の不審を抱かれる余地のないことである。  彼女はギルドの仲間達と共に大公宮に赴いた後、迷宮へと足を向ける仲間達と別れた。互いを認識する形では初めて対面する、しかしブシドーらしく大変に礼儀正しい若者が、彼女を連れて去っていった。  焔華は振り返らなかった。自身が見いだそうとする『新たな道』を真っ直ぐに見据えるかのように。彼女が戻ってきた時には、この時には見られなかった彼女のまなざしが、どれだけ真摯だったものか、知ることができるだろうか。 「オマエが戻ってくる前に、第一階層くらいは突破しちまうぞ?」  と、エルナクハはブシドーの娘に告げていた。彼女が帰ってくるまでの期間にもよるが、さすがにそこまでさくさくと探索が進むわけでもない。ゆえに、これは気概を表しただけの言葉である。それでも、彼女に自分達の気概を示したからには、怠けていては、戻ってきたブシドーの娘に笑われるだろう。  明日からが探索の本番だ。本腰を入れてかからねばなるまい。 「私からいえることはこれだけだ。無駄に倒れぬよう注意するんだな」  そんなギルド長の言葉に見送られ、『ウルスラグナ』はギルドを後にした。  黒い肌に黒い髪、黄金の装身具、紗を申し訳程度にまとう吟遊詩人は、リュートを手に取り、準備運動よろしく分散和音(アルペジオ)を軽く奏でた。椅子ではなく、酒場の奥の舞台に緋毛氈を敷き、その上で結跏趺坐、この世ならざるものを見据えるような菫色の半眼に、緩やかな笑みを浮かべる様は、東方に古くから伝わる天人のようでもあった。残念ながら、酒場の主人には、東方の神魔の知識はなかったけれど、それでも、吟遊詩人の姿にただならぬものを感じ取り、軽口一つ叩くことなく、次なる動きを待つ。  やがて、紅を引いた唇が艶めかしく動く。しかし、喉奥から流れ落ちる声は、淫靡たるものではなく、水晶の洞窟の奥で神を称える歌を謳う巫女のもののように響いた。 果てしなく 続く翠 踏みしめ 我ら 真実を求める 何も知らぬ頃に 戻れなくても 手にした夢 たぐり寄せ 前を見る 永久(とこしえ)に 大地を抱く 神を断つは 誰(た)ぞ 数知れぬ 祈り越えて 真実は 悲しみをささやく 願いに 溢れた 石の揺籃(ゆりかご) 消えた生命は 何も語らない されど 森は さざめく  割れるような満場の拍手は起こらなかった。ただ一人だけのそれが、ぽん、ぽん、ぽん、と、吟遊詩人の耳に届く。それもそのはず、今の『鋼の棘魚亭』には客はおらず、いるのは主人と吟遊詩人だけなのだ。 「そいつは、おまえらの経験から来た歌か?」  主人の問いに、吟遊詩人――冒険者ギルド『ウルスラグナ』のバード・マルメリは、曖昧な笑みと曖昧な言葉をもって応えた。その口調は、今し方、朗々と響く神韻を紡いでいたとは思えない体たらくである。 「内緒よぉ。ご想像にお任せするわぁ」 「なんつーかよ、こう言っちゃ悪いが」と酒場の主人は幅広の肩をそびやかす。「その歌も悪かぁねぇんだが、エトリアの英雄ならそうらしく、自分の武勲を、バーン、と力入れて歌ってくれねぇのかよ?」 「歌うわけないでしょぉ」バードの曖昧な笑みが広がった。「別にあたし達、自分達のことを『英雄』なんて思ってないものぉ。あたし達はただの冒険者よぉ。それに、ハイ・ラガードじゃ、まだまだひよっこだわぁ。オヤジさんもそう言ってたじゃない?」 「まぁ、そうだけどよ」と主人は口ごもり、そこに畳み掛けるようにマルメリは言い募った。 「だから、あたし達の話は、自分では謳わないわよぉ。ほんとは人に歌われるのも微妙だけど、『歌うな』って言えないものねぇ」  それ以上、詩吟の話をする気がないのを、マルメリの態度から見て取ったのか、主人は話題を変えた。 「ところでよ、二階の地図も大分埋まったらしいって聞いたぜ。ひよっこのくせにいいペースじゃねぇか!」  『ウルスラグナ』がこの街にやってきてから十日以上が過ぎている。迷宮一階から二階へは、試練を突破した次の日に到達できたが、それからがなかなか進まなかった。  理由は簡単、魔物が強かったのである。特に、歩き回るサボテンのような魔物には、何度苦汁をなめさせられたことか。二階に上がったばかりの頃には、ダークハンターのオルセルタもその前で膝を付き、ツキモリ医師の渋い顔を目の当たりにする羽目になった。その翌日には、雪辱を望む彼女と共に、エルナクハに命じられてソードマンのティレンが同行したが、彼もまたサボテンに叩きのめされた。「やっぱりおれ、弱くなってる」としょげる彼を、オルセルタが懸命に慰めたものだ。ちなみに、その時マルメリは、フィプトと入れ替わりで探索班に入っていた。  そんなサボテンだけでも腹一杯なのに、二階には恐ろしい魔物が巣くっていたのである。  それは鹿の群だった。エトリアの樹海の浅層にも巣くっていた、凶暴な群だ。もっとも、普段は縄張りを巡回しているだけで、余程近場で顔を合わせない限りは、わざわざ追ってきたりはしない。そこだけは救いといえよう。それでも、先へ進むには縄張りに踏み込む必要もあり、一度ならず、狂乱に陥った角鹿と顔を合わせてしまい、這々の体で逃げ出す羽目になったものだ。  彼らは『敵対者(f.o.e)』に分類される魔物であった。もともとはエトリアで、他の魔物達と比較して、どう考えてもその階では場違いな力を持つ者に与えられた、『称号』である。そういったものの殺気を、磁軸計は捉えることができた。捕捉した殺気の動き、すなわち角鹿達の縄張りの巡回行動を把握することができたからこそ、『ウルスラグナ』も、ようやく二階を突破するところまで歩を進めることができたのだ。  それでも、酒場の主人に言わせれば『いいペース』だという。 「都合のいいように、『英雄』と『ひよっこ』を使い分けるの、やめてくれないかしらねぇ」  さほど機嫌を害してはいないのだが、わざと渋面と低い声を作って、マルメリは答えた。  主人が微妙な表情をするところに、明るい声で続ける。 「ま、それはそれとして、見直したでしょぉ? ちょっと困ったことがあって、三階に着いた後はゆっくりになるかもしれないけどねぇ」 「困ったこと?」  首を傾げる主人に、マルメリは、苦笑いを浮かべて応じた。 「お金がないのよぉ。魔物に倒されれば病院代がかかるぅ、武具を揃えれば商品代がかかるぅ」  歌うように声を上げ、戯れに、じゃらん、と、分散和音を爪弾く吟遊詩人。 「だけど魔物が強すぎるぅ、採集場所にも出てきおるぅー」 「はっはっは、お前らもあのデカい花に出くわしたか!」 「出くわしたか、じゃないわよお、反則よぉ、あれは!」  マルメリは、先程の歌が別人の吹き替えだったかのように、声を荒らげた。  しかし彼女の憤懣(ふんまん)もさもありなん。ハイ・ラガードが厳しいのか、エトリアが特別だったのか、それはわからないものの、とにかく迷宮での素材採集の途中で、探索班は魔物に襲われた。まるで冒険者を待ちかまえていたかのように、地面から盛り上がるのは、毒々しい紫色が目を引く、大輪の花。『外』の世界の南方にあるという、世界で一番大きな花になぞらえ、冒険者達の間では『ラフレシア』と呼ばれるそれは、毒の花粉をまき散らし、口のような芯部から冷気を吐き出す、恐るべき魔物だったのだ。皆を守るように前線に立ちはだかるティレンが、あっという間にズタボロにされるのを、誰も止められなかった。必死に逃走を試みることしかできなかったのだ。 「ああ、あの坊主が、かぁ……」  赤毛のソードマンを思い出してか、さすがの主人も神妙な顔をした。その日、這々の体で街に帰り着いた一同がティレンを薬泉院に運び込もうとするのを、手助けしてくれたのは、気まぐれで世界樹の入り口を見に来ていた酒場の主人だったのである。 「変な風にケガ残らなかったか、あの坊主? ありゃ、鍛えてないヤツだったら、確実に死んでるケガだぜ」 「ティーくんを甘く見ちゃだめよぉ。形はちっこいけど、いつも、アタシ達の前で魔物と斬り結んでたんだから」 「だけどよ、あのケガじゃなぁ……」 「もうすっかり元気よぉ」 「はぁ?」  酒場の主人が呆れた声を出すのも当然である。ティレンの怪我はそれはひどいものだったのだ。仮に戦闘に関わるすべての出来事を数値化できるとしたら、ティレンがラフレシから受けた痛手は、彼の耐久力の優に倍に比しただろう。  そんな状態からティレンが立ち直れたのも、薬泉院のツキモリ医師――『エトリアの奇跡』とも呼ばれた超執刀医師キタザキの薫陶を受けた、若き医師の腕が為せる技のおかげであった。とはいえ、ツキモリ医師に言わせれば、自分の助手やアベイの手伝いがなければ、たぶん助けきれなかっただろう、とのことだった。なによりも、ティレン自身の生命力と精神力(いきるいし)がなければ、どんな治療も無駄だっただろう、と。  いずれにしてもティレンが助かったのは本当で、大怪我からさほどの日も経っていないというのに、今はすっかりと元気でいる。しかも、実際には治療の次の日から元気で、仲間達全員が寄ってたかって止めなければ、樹海探索に同行しかねない勢いだったのである。 「まぁ、さすが冒険者、ってことにしておくわ」  少々たじろぎ気味に、主人は話を締めにかかった。「が、新入りの常とはいえ、薬泉院を頼ってばかりじゃ、金もおぼつかなくなるわなぁ。ってことで、だ!」  がんがん、と、主人の傍の壁が叩かれる。その壁には、羊皮紙や漉紙、ごく稀にそれ以外のものに記された、いくらかの形式に則った文章が、ピン留め(稀に違う方法もある)にしてあったのだ。 「お前らもそろそろ、ここの依頼のひとつでも受けてみろや。お前らの力を必要としているのは、樹海開拓だけじゃねぇんだ。お前らにもまとまった金が入る。悪くねぇと思うんだがな」  概して酒場というものは、酒好きが酒を飲みに来る施設、というだけの存在ではない。その常連達の力を当てにした者達が、心の戸口を少しばかり開けて、困り事の解決を願う場所でもある。『棘魚亭』の主立った客は冒険者で、集う依頼も、当然ながら、冒険者の力を当てにした、魔物退治や、樹海内にある素材の入手であった。  『ウルスラグナ』は、とりあえず、『森の石清水を汲んできてほしい』という依頼を受け、完遂したのだったが、今のところは、それっきり、酒場の依頼に手を出そうとはしていない。別に酒場に含みがあるわけではなく、単純に、樹海の先へ先へと歩を進めることだけが、苦しくもありながら楽しかったのである。つまりは、他のことが見えていなかったのだ。 「ま、そんなわけでぇ」  マルメリは、ぼろろん、と弦を爪弾き、蠱惑的な笑みを主人に見せた。 「もう少し、我慢しててん。今はちょっと、よそ見をするのが難しいんだと思うわぁ」  このように、『ウルスラグナ』のバードが酒場の主人をからかっていた頃。  同ギルドのギルドマスターである、黒い肌のパラディンは、中央市街、商業区の大通りを歩いていた。  時は昼を若干下った頃で、街の人々の活動も一段落付いている。冒険者達も、活動している者はすでに樹海の中にあり、そうでないものは宿でくつろいだり街で買い物を楽しんでいたりする。中には、薬泉院でうなり声を上げる者達もいたりするが。  では『ウルスラグナ』は今日は樹海探索を休んでいるのか、といえば、そうではない。彼らは優に十名を抱える大所帯のギルドである。磁軸計と『アリアドネの糸』――あらかじめ磁軸計に登録された、最大五人までしか転移させられない――の制限上、一度には半数しか樹海に潜れない。必然的に残り半数は街で暇を潰すか、なすべきことをするのだ。  ここ数日、『ウルスラグナ』は、昼と夜で一度ずつの探索を試みている。今の時間、樹海に潜っているのは、オルセルタ、ナジク、アベイ、パラス、フィプトである。回復担当が必要なために、どうしても固定となるアベイは別としても、人数の多い『ウルスラグナ』は、『全員が樹海を楽しもう』という信条ゆえに、探索班の入れ替わりが激しい。  樹海にもおらず、私塾で教鞭を執っているわけでもなく、酒場にいるわけでもなく、どこぞへ修行に出たわけでもない、『ウルスラグナ』残りの一人は、エルナクハの隣にいた。  赤毛のソードマンが、誕生日のプレゼントでももらったかのように、にこにこと笑っているのは、誕生日ではないけれどいいものを買ってもらったからだった。カリンガという斧と、サボテンの幹を細く裂いた繊維で編み上げたグリーンブーツである。斧は腕に抱えているが、ブーツはすでに履いていた。 「そんなにうれしいか?」  あまりにもにこにことうれしそうなので、愚問かな、と思いつつも、エルナクハは問うてみた。 「うん!」  誰彼はばかることのない元気な返事に、黒い騎士は、「やっぱ愚問だったか」と苦笑する。 「エル兄、『ぐもん』って、なに?」 「ん、ああ、バカなこと訊いちまったか、ってことだよ」 「バカな、こと」  納得して終わりになるかと思ったのに、なぜか赤毛の斧使いは顔を曇らせる。エルナクハは、およ、と声を漏らした。 「どうした、ティレン?」 「エル兄」  ティレンは真摯な瞳でエルナクハを見据えた。エトリア樹海で生まれ育ったこの少年は、基本的に嘘偽りや冗談を口にしない。戯(おど)けに聞こえても彼自身にとっては真剣なのである。そんな少年が、他者から見ても明らかに深刻そうな表情をしている。 「エル兄は、『バカなこと』に答えたおれが、いやか?」 「何の話だ?」  真剣なのは判るが、いまいち解せない質問である。首を傾げるエルナクハの前で、ティレンは話を続けた。 「せんせいが、『バカなこと』言ったのに、おれが、そのとおりに動いたの、いやだった?」 「センセイが……?」  今現在に限れば、ティレンが『せんせい』と呼ぶのは、錬金術師フィプト・オルロードに他ならない。それが何故、今の話に出てくるのか、本気で判らなくて、エルナクハはしばらく考え込んだ。が、不意に、その意図するところを悟り、ああそうか、と得心する。要は、ティレンの思考が過去の件に向いたのに、エルナクハが付いていけなかっただけのことである。  ――それは、現時点からすれば、つい昨日のことであった。  『ウルスラグナ』探索班は、迷宮二階の東区域を探索していた。その時のメンバーは、手っ取り早く言えば、入国試験のメンバーのオルセルタがティレンに置き換わったものである。  もうじき三階に手が届くというのに、未だにサボテンは強敵で、その日もティレンは前衛で敵と斬り結び、押し負けて地に伏した。同じ前列のエルナクハが膝を付かずにいられたのは、パラディンならではの守りの強さゆえのことだ。  その戦闘は、どうにか切り抜けたが、今の『ウルスラグナ』にはただ一人の戦闘不能も大きな負担であった。しかもフィプトも神経をすり減らし、アベイは元気だが、探索の続行に渋い顔をした。無表情のナジクも、おそらくは反対に一票だろう。そして、エルナクハも同意見で、ためらうことなくアリアドネの糸を荷の中から引き出した。それで、その回の探索は終わるはずだった。  視界の遙か彼方に、謎の光が見え隠れしていなければ。  どうやら扉のようだった。どういう仕掛けが成せる技か、その表面に魔法陣のような光を浮かべていたのだ。  アルケミストの術式が、それを知らぬ者には魔法のように見える仕組みで、物品に込められることは、知る者ぞ知ることである。見えているものも、おそらくは、そういったものだろう。だが、一見しただけではその効果までは判らない。そもそも、有用である術式である保証もないのだ。何より、それが術式なのか、という保証も。  冒険者としては、未知の危険があるからと、及び腰になってばかりでは始まらない。が、今はだめだ。メモ用紙に光る扉の存在を記するだけにとどめ、アリアドネの糸の軸を磁軸計に接続しようとした――こうして、探索者全員が使うに足る磁軸の歪みを作り出すのに必要な電力を、糸に通すのである――ギルドマスターだったが、ふと眉根をしかめた。  満身創痍のティレンが、斧を支えに立ち上がり、よろよろと歩きだしたのである。 「何してる、ティレン」  当然ながらエルナクハは止めた。ソードマンは本当に無理をして動いているように見えたので。だが、黒いパラディンが差し伸べた手を軽くどけ、少年は歩き続ける。苦しみに細められる目が一心に見つめるのは、遠くに見える光の扉。 「おい!」  さすがにエルナクハは声を荒らげた。その背後に、ひたりと寄ってきた気配がある。聖騎士は振り返って、それがフイプトであることを知った。  どうした、とエルナクハが口を開ける前に、フィプトは先手を取って声を上げたのだ。 「行きましょう、義兄(あに)さん。彼が行けるというなら、行くべきでしょう。我々は冒険者、謎があるならば足を運ぶべきだ」 「……せんせいの、言うとおり」  錬金術師の言葉を耳にして、ソードマンの少年が立ち止まる。 「ちょっと歩けば、すぐ着く。だから、せめてあそこまで、行く」  エルナクハは沈黙した。そのときは自分でも何故かは判らなかったが、沈黙せざるを得なかった。出そうとした声が喉元に引っかかって言葉にならないのだ。ただ、ティレンがゆっくりと歩を進め、フィプトが添うように共に歩むのを、見送ることしかできなかった。  止めなきゃだめだ、と、ギルドマスターとして、心が命じる。が、別の何かが、それを押しとどめるのだ。なぜだ、なぜなんだ、と自問自答しつつ、自らが課した心の枷を外そうと悪戦苦闘するエルナクハの耳に、怒声が届いた。 「いい加減にしろ、お前たち!」  それはメディックの声だった。白衣を激しくひるがえらせ、大股でソードマンとアルケミストに近付いたアベイは、眉根を吊り上げ、紫色の瞳で二人を睨み付けた。 「メディックとしちゃ、お前たちの行動に賛成できないぜ! 余力があるならともかく、今の俺たちには、そんなものないだろ!」 「ほんのちょっと、歩けばいい」  メディックの叱咤に動じず、ソードマンが反駁する。 「けが人は、おれ。おれが大丈夫って言ったら、大丈夫」  はぁ、とアベイは深く深く溜息を吐いた。こんな時は口で言っても無駄、と悟ったのだろう。なにせエトリア樹海からの付き合いである。改めて表情を引き締め、視線は二人に向けたまま、後方に声を掛けた。 「ジーク、頼む!」  その時エルナクハは、自分の手から磁軸計と糸が消えていることに気が付いた。消えた二つは、共に、いつの間にかティレン達に近付いていたナジクの手の内にある。糸軸を磁軸計に接続し、三ほど数えた後に取り外すと、レンジャーは糸を引き出した。糸が、自らが本来備える性質に従って、円を描くように繰り出された。まだ完成しないその円の内にはエルナクハ以外の四人が囲い込まれる。 「エル、早く」  ナジクにせつかれ、我に返ったエルナクハもまた、糸の円内に足を踏み入れた。  糸が、その性質によって、磁軸を歪め、その中に踏み込んだ者達を樹海の入り口まで運び去る。  その場に残ったのは、四散しようとする糸と、「あ」と名残惜しげに叫んだティレンの声のこだまのみだった――というのは、その場を去った『ウルスラグナ』には、当然ながら判りようもなかったが。  ――そんな事情を思い起こしながら、エルナクハは何度も頷いた。すがるような目を向けてくるティレンの頭に、ぽんぽん、と手を載せ、苦笑めいた表情を向ける。 「『バカなこと』だってのは、わかってたのか、オマエ」 「ん」  こっくりと、ソードマンの少年は頷いた。 「もう、勝手なことはやるなよ」とエルナクハは釘を刺した。 「ねぇ、エル兄」  少年は、青年のものによく似た緑色の瞳で、見上げてきた。 「おれのせいで、せんせいのこと、きらいにならないで。せんせいも『バカなこと』言ったかもしれないけど、動いたの、おれだから」  およ、と、エルナクハは虚を突かれて声を漏らした。 「ひょっとして、見てたか。昨日の夜のこと」 「ごめん」 「おいおい、なんでオマエが謝るんだ」  笑いながら応じるエルナクハに、ティレンは、おずおずと、探るような視線を向ける。 「エル兄がせんせいをなぐったところで、こわくて逃げた。エル兄、おれのことも、きらいになったかなって思った」  それでか、とエルナクハは得心した。武具を買ってやった時のティレンの喜びように合点がいったのである。もちろん、買ってもらったことそのものがうれしいというのはあるだろうが、それに加えて、『自分は嫌われていなかった』という歓喜が上乗せされていたのだろう。  エルナクハは、今度はティレンの肩を、ぽふぽふと叩いた。 「大丈夫だよ、心配すんな。センセイのこともよ、オレは好きだし、センセイだってオレのことはよ」  ……嫌われてはいないと思うけど、と、内心で付け加える。  自信がない、というほどではないけれど、他人の心である。果たしてフィプトが自分に向ける感情が、真にはいかなるものか、エルナクハには判りようもない。それでも、好意を持たれているとは思う。  聖騎士に錬金術師の本心が判らないのと同様、斧使いにも聖騎士の呑み込んだ言葉は判りようもなかったようで、ティレンは、ぱっと顔を輝かせた。 「よかった! エル兄、ぼぐーっ、て、すごいいきおいで、せんせいなぐってたから」 「はっはっは、いいパンチだったろ?」  拳を虚空めがけて勢いよく振りながら、エルナクハは豪快に笑う。  その脳裏には、昨日の夜の出来事が再現されていた。  ――そうだ、今、虚空を殴ったこの手で、自分は錬金術師を殴ったのだ。  なぜって、こんなことを告白したからだ。 「すみません、義兄さん。小生は、自分があの扉を見たかったから、ティレン君が行きたい、というのを、利用してしまったんです」  気が付けば、手が拳を作って、アルケミストを殴り倒していた。それでも無意識に手加減はしていたらしい。仮に本気で殴っていたら、フィプトはただでは済まなかっただろう。幸いなことに身体のどこかが損傷した様子もなく、フィプトはよろよろと立ち上がる。  そんな彼に、エルナクハは言った。 「センセイ、オレを殴れ」 「――は?」  仮に立場が逆だったとしたら、エルナクハもフィプトと同じような反応をしただろう。それでもパラディンは再びアルケミストを促した。しばしためらいがちに目を伏せた後、フィプトは拳を固めてエルナクハに殴りかかってきた。  意外にいいパンチじゃねぇか――衝撃で仰向けに倒れながら、エルナクハはそんなことを思った。思えば錬金籠手はそれなりの重量がありそうだ。そんなものを身につける錬金術師は、少なくとも腕力は相応にあるのではないか。 「……義兄さん……?」  立ち上がる様子のないエルナクハを心配してか、フィプトが覗き込んでくる。もちろん、彼のパンチはいいパンチだったけれど、立ち上がれなくなるほどの痛手をエルナクハに与えたわけではない。黒い騎士は、錬金術師に、「心配するな」と言いたげに笑むと、ぽつぽつと言葉を紡いだ。 「オレはよ、『ウルスラグナ』のギルマスだ」 「そうですね」 「ギルマスであるからには、自分一人の好奇心で仲間を危険にはさらせねぇ。ギルマス権限で無理矢理に探索方針を決めることもできるけど、それでみんなを危険にさらしたら、目も当てられねぇ。……冒険者ってのは危険に踏み込んでなんぼのオシゴトだが、少なくともみんながそれに納得してくれなきゃ、遠からずギルドは何らかの形で壊れちまう」 「すみません……小生のしたことは」 「それも確かだけど、話はそこじゃねぇ!」  エルナクハは声を張り上げた。それまでまっすぐに錬金術師を見つめていた瞳は、こころなしか横に反らされている。 「オレだってよ……心のどこかじゃ、アンタと同じように思ってたんだ。ティレンがいけるっていうなら、見たこともない妙な扉、その正体を確認するくらいはいいじゃねぇかってよ。ほんの少し、歩きゃいい話だってよ。だから……アンタやティレンを止めようとした時に、言葉が出なかった」 「義兄さん……」 「オレは、ギルマス失格だ。その『少し』の間に、あのサボテン野郎に出くわしたら、どうなった? きっとオレらは、あそこで屍となって転がってただろう。それを考えれば、オレは一も二もなくアンタらを止めるべきだった。オレは……あのときのアンタも自分も、許せねぇ……!」  ――その時、ティレンが背伸びしてエルナクハの瞳を覗き込もうとしたので、聖騎士は慌てて『現在』に心を引き戻した。 「……大丈夫だってよ、ティレン。センセイとはちゃんと仲直りした。センセイも。もう勝手に『バカなこと』はしないって言った」 「うん、おれも、もう『バカなこと』はしない」 「おいおい、冒険者はな、一応、バカなことしてナンボってこともあるんだぞ」  エルナクハは、ケタケタと笑いながら、ティレンの背を何度も軽く叩いた。 「だから、せめて、みんなに、やっていいか訊け。で、『ダメ』って言われたら、なんでダメかを考えろ。気持ちは分からんでもないけど、みんなが心配するのも当然だろ?」 「うん、そうする」  ティレンは答えたが、その声に覇気があまり感じられないのを、エルナクハはそこはかとなく感じ取った。普通なら、こんな時、ティレンは元気すぎるほどに元気に返事をするだろうに。 「おいおい、まだ何か心配か?」 「せんせいのことは、よくわかった。でも……」  ソードマンの少年は、腕に抱えた斧を指し示すかのように、軽く揺らした。 「はなし、ぜんぜんちがうけど、これ」  視線は地に落ち、履いているブーツを見据えている。 「おれ、こんなに武具買ってもらっちゃったけど、だいじょうぶ? お金、大変なんだよね」 「う、うム……」  エルナクハは明後日の方向に目を反らした。ティレンの武具は必要だから買い与えたのだ。ティレンが、金がどうこう心配する必要はない。だが、『ウルスラグナ』が金の問題に困っているのも確かである。エトリアの頃もそうだったが、冒険を始めたばかりのギルドにはよくある、それでいて由々しき問題だ。 「だ、大丈夫だよ、対策は立ててある。心配すんな」  エルナクハは、辛うじてそんな言葉を口にした。  少なくとも、立てるべき対策は決めてあるから、完全に嘘というわけでもない。  厨房から、きゃあきゃあという子供達の声に混ざって、女達の戯れの声が聞こえたので、エルナクハはそちらに足を向けた。  私塾の厨房はかなり広い。もともとは市街拡張の作業員の宿泊所だったことを考えれば、それも当然だろう。彼らの毎度の食事を、一度に大量に作り、まかなっていたのだから。ちなみに、食堂も本来は広かったのだが、フィプトが建物を借りた時に、仕切りを立て、半分は倉庫にしてしまったそうだ。  フィプトの私塾では、年少の子供を相手にする朝十時、年長者を対象にした昼一時、もう少し年嵩の若者達向けの夜七時、以上三度にわたって、二時間ずつの授業を執り行っている。今の時間は午後三時を過ぎた頃合い、授業が終わった年長組が厨房にたかっていると見える。そんなことになっている理由は、厨房から漂ってくるバターの匂いで知れた。 「あら、おかえりなさい、エル」  厨房を覗き込んだエルナクハに眼鏡を外した顔を向け、舞い上がる小麦粉で白くしつつ応じたのは、綿棒で菓子生地を伸ばしているセンノルレであった。授業が終わった後、おやつと夕飯の支度を始めたのだろうが、焼き上がった菓子の匂いで、帰りかけた年長組が踵を返してきてしまったわけだ。  今はともかく、かつては家庭的とは思えなかった女錬金術師だったが、料理は当時から外れがなかった。 「分量を守り、火加減を間違えず、処置を資料通りに行えば、変なものはできませんよ」  とは当人の言である。特に菓子は、大雑把にやって「料理は愛情!」と叫んでもどうにかなる料理とは違って、レシピの分量通りにするのが大事、と言われるものらしい(と、エトリアにいた時分に、『エリクシール』のバードから聞いた覚えがある)。センノルレにとっては、錬金術の実験と等しく、化学反応を再現している気分なのかもしれない。  そんな彼女の傍で、年長組の子供達が十数人、皿に山盛りのクッキーを争うように頬張っていたが、一斉に聖騎士を見た。 「お、おふぁえふぃ、へふはふはー」  どうやら「お帰り、エルナクハ」と言われているらしいと目処を付け、エルナクハは笑んで返した。 「おうよ、ただいま、ノル、それにガキども」  この私塾に世話になってから約十日――子供達との付き合いは、五日間の休暇があったために、その半分の期間だが、そんな短期間でも『ウルスラグナ』と子供達との関係は良好なものに落ち着いていた。そもそも『ウルスラグナ』自体が無体な集団ではなかったし、子供達も、この数ヶ月で急激に増えてきた冒険者というものに興味津々だったからだ。留守番組は授業が終わった子供達に軽く付き合ってやることもあった。エルナクハ自身も、護身術の初歩を教えてやったことがある。 「お帰りなさい、兄様」 「おかえり、エルにいさん」  さらに二人の少女の声がした。エルナクハは彼女達の方を向いて帰還の挨拶を返す。いること自体は、声を聞いて判っていたが、 「今日は早いな、オマエら」  二人の少女――オルセルタとパラスは、樹海探索に行っていたはずである。 「うん、アベイくんとフィーにいさんが限界だったから」  ボウルに放り込んだ生クリームを泡立てつつ、カースメーカーの少女が答えた。  アベイやフィプトは、薬品や触媒を調合して探索に役立てるというその技能の関係上、精神的な消耗が激しい。現段階では、彼らの治療術や錬金術は、探索に欠かせないものであった。そのため、今のところは、この二人の精神力が限界になったら、探索を中断して戻ってくる、という不文律ができていた。 「で、ヤツらはフロースの宿屋か?」 「ええ、広い風呂でくつろぐーって言ってたわ」と答えるのは、夕飯の仕込みをしているらしいオルセルタ。  私塾という拠点がある『ウルスラグナ』は宿室を借りないが、宿の施設はよく借りていた。軽い傷なら常駐しているメディックが治してくれるし、風呂上がりのマッサージは身体のみならず心も程よくほぐされる。次なる探索に向けて英気を養うには、おあつらえ向きだったのである。 「そか」  納得して短く答え、エルナクハは本題に移った。 「それにしても、ちょうどいいところに帰ってきてくれたぜ。パラス、オマエに頼みがあったんだ」 「私に、頼み?」  パラスは褐色の瞳をまたたかせてエルナクハを見る。 「オマエのハトコ殿に手紙を出したいんだが、今度出す手紙と一緒にオレのを入れてくんないか?」 「えー」  カースメーカーの少女は困った様な顔をした。どうしたの、と言いたげなオルセルタやセンノルレを、ちらりと見て、ばつが悪そうに答える。 「この間の、エルにいさんたちが入国試練に挑戦してる間に、手紙、出しちゃった……」 「また出しゃいいだろ?」 「んー、そうなんだけどね、返事が戻ってこないうちに手紙出しちゃうと、なんか、せっついてる感じがしちゃって……」  パラスは肩をすくめると、ギルドマスターの目を伺う様に見つめた。 「……なんか、意外に深刻そうに見えるけど、急ぐ用事?」 「ああ、けっこう深刻なの、判ったか」  エルナクハは苦笑を浮かべ頷くと、手紙を出す理由を語るのであった。 「あのよ、正聖騎士サマに、頼みたいんだ。『金貸してくれ』って」 「そんな手紙入れるわけないでしょー!」  パラスが勢いよく机を叩いたので、打ち粉が空を舞う。吸い込んでしまったらしいセンノルレが、顔を背けて軽くむせた。 「まぁ、『金貸せ』は冗談だがよ」  はっはっは、とひとしきり笑うと、エルナクハは続ける。 「でもまぁ、金が足りねぇのは確かだ。だからよ、エトリアに、誰か優秀な採集専門レンジャーは残ってねぇかと思ってな」  エトリア樹海の探索の頃、探索者として数多の冒険者が迷宮に潜った。しかし、巣くう魔物は凶悪で、樹海の生物に対応した戦い方を身につけられない者は、遅かれ早かれ緑の闇に沈んでいった。一方で、探索者には、地上ではなかなか手に入らない珍しい産物の収拾も望まれた。そういったものは良い値で売れ、優秀な武具の礎となり、探索者に対しても利のあるものだった。とはいえ、樹海の魔に対抗する力と、樹海の富を採集する力、その双方を共に習得するのは難しい。余力のない探索序盤の頃ならなおさらのこと。  そんな折、「だったら先に充分な資金を稼いでから探索に入ろう」と考えたギルドが現れた。大概のギルドが魔に対抗する力を先に得ようとする中、彼らは所属のレンジャーに頼み込んで、素材採集の手段の研鑽を最優先にしてもらったのである。その目論見は成功して、誰もが必ず通っていた、探索序盤の資金難問題を余裕で乗り越え、そのギルドは、意気揚々と探索に本腰を入れ始めたのであった――運悪く、『敵対者(f.o.e)』に出くわしてしまって全滅したのだが。  考案者達はこの世を去ってしまったが、手法は他のギルドにも伝わり、仲間に採集専門のレンジャーを加える者達も多く出た。『ウルスラグナ』や、その最大のライバルであった『エリクシール』は、当初はそういう手法は取らなかった。そのころには、探索・戦闘技術の研鑽の合間に覚えた採集技術が拙いものであっても、倒した敵から得る素材の売却益があれば、どうにか資金が回るようになっていたからだ。だが、樹海の産物の中でも見付けにくいものの入手が必要となった時に、報酬と引き替えに力を貸してくれる、フリーランスの採集専門レンジャーの力を借り、認識を改めたものだ。 「もう樹海は閉じちまったから、みんないなくなってるかもしんねぇけど、もし誰か残ってたら、こっちに来て、力貸してくんねぇかなーってさ」  ハイ・ラガードには、まだ利が薄いと見なされたのか、エトリアからのフリーランスは見あたらなかったのだ。 「そっかー……」  パラスは納得したようだった。 「わかった。だけど、返事をもらわないうちにまた手紙を出すんだから、せっかくだし、こう、すごいお知らせになるみたいなこと、ないかな」 「うーむ、書けることっていったら、『三階に着きました』くらいかなー」  相変わらずサボテンに苦戦している状況では、あと二、三日はかかりそうな気もするが。  もちろん、ギルドマスターとして、すぐにでも手紙を書くように言えば、パラスはそうしただろう。そもそも、そんなに深刻なら自らしたためてエトリアに送ればいいことだ。だが、エルナクハはそうしようとは思っていなかった。深刻だとはいえ、まだなんとかなってはいたし、なにより、パラスと同様に、どうせなら、思いがけない土産話の一つでも相手に知らしめたい、という気持ちもあったのだ。  結論を述べれば、パラスは、この三日後に、はとこに手紙を書いた。  ハイ・ラガード迷宮の三階で遭遇した、ある出来事を添えて。  皇帝ノ月十三日。  この日の昼頃、『ウルスラグナ』は三階へと到達した。  ハイ・ラガード樹海がどれだけの規模かは判らないが、少なくとも、まだまだ序盤、というのは、誰もが感じていた。入国試練を突破した日の夜に、冒険者ギルドの長から聞いた話を考えれば、少なくとも六階以上――エトリアにあった世界樹のように、一階層が五階立てで構成されていればの話だ――はあるはずだが、そもそも天を突くほどの大樹の中にある迷宮が、そこらの建物程度の階数しかなかったとしたら、興醒めもいいところだ、とエルナクハは笑う。  巣くう魔物はますます強くなっているだろうから、笑い事ではないのだが、新たな階層に辿り着いた冒険者にとっては、それすらも、自分達が着実に前へ進んでいる証のようで、苦しくも嬉しく思えてくる。  だが、この階に辿り着いてからの一本道を東に十分ほど進んだ、その時。  唐突に感じ取れた気配に、冒険者達は戦意を刺激され、とっさに武具に手を掛けた。  その気配は、狼に似た黒い獣の姿をしていた。低いうなり声と共に、鮮やかな緑の下草を踏みしめ、『ウルスラグナ』の前に、ひらり、と現れた。悠然としたその様子とは裏腹に、隙が見あたらない。  冒険者達は背を冷や汗がしたたり落ちるのを感じた。今、それぞれが構えている武具、それをもって戦闘態勢に移行するより早く、全員が喉笛を噛み切られるだろう。目の前の獣には、それができる。  だが、同時に、獣はそうしないだろう、ということも感じられた。冒険者達を見据える黄金の瞳には、ただの獣とは一線を画した、智慧の光が見て取れたのである。それはまるで、人間のような。少なくとも、理知的な判断を下し得る存在である、と確信できるような。  先頭に立っていたエルナクハは、ふ、と力を抜くと、剣の柄から手を放し、盾を下げる。呼応するように、隣のオルセルタも剣を鞘に収め、後方のアベイは護身用の杖を下げ、パラスは呪いの鐘鈴を胸元に戻した。ナジクは最後まで警戒を解かなかったが、やがて、軽く溜息を吐くと、矢を弓弦から外した。  値踏みするように、その様子を見つめていた黒い獣は、一同の対応に満足したのか、うぉう、と吠えた。そして、くるりと顔を背ける。しかし、視線は冒険者達に向けられたままである。  その意図を把握しきれずに、冒険者達は獣の鼻が向いた方向を見た。  獣に気取られたので、周囲のことは把握できていなかったのだが、現在地はちょうど三叉路であった。冒険者達が来た西方向、獣の背後の東方向、そして、皆が視線を向けた北方向に道がある。 「北に行け、というのか?」  ナジクが漏らした言葉に答えたつもりか、獣は再び高らかに吠え、冒険者達をじっと見つめる。 「どうする?」  アベイの問いに、エルナクハは髪を軽く掻きむしった。  目の前の獣は、少なくとも敵というわけではなさそうである。北に行くのも全く問題はない。獣に指図されずとも、いずれは足を踏み入れることになるだろうから。  問題は――何故、指図するのか、である。  北に踏み込んだら眷属達が牙を剥いて待っている?――ありえなくはないが、可能性は極めて低い。そうしたいのなら、普通の獣のように、敵意を向きだし、吠えたて、追い込めば済むことだからだ。  となると……。 「オマエをここに遣わしたのは、誰だ?」  エルナクハは獣に近付くと屈み込んで、同じ目線を確保した。そうして存在に気が付いた、獣の付けている首輪は、ただの使い込まれた首輪にしか見えない。だが、なんとなく、それだけでは片付けられない何かを感じる。 「狼神王(ヌブルィーク)の遣い……なーんてこたぁ、なさそうだがな」  聞き慣れない単語に首を傾げる仲間達には、妹が、自分達の神話の『獣神』であることを手早く説明する。  実際に獣をこの場に使わしたのが神であろうと人間であろうと、それを人語を話さぬ獣自身に答えることはできない。代わりの返答は、舌を伸ばし、ぺろりとエルナクハの鼻先を舐め上げることであった。「わぷっ」と、突然のことに怯む聖騎士に、獣は一声、吠え立てた。「馬鹿なこと言ってないで、とっとと行きなさいよ」と言っているようにも感じられた。 「わかった、わかったよ」  エルナクハは親指の腹で舐められた鼻先を拭うと、ゆっくりと立ち上がった。獣の金眼が、その軌跡を追うように動いた。 「……たかが獣の指示に従うのか?」  ナジクが不満げに言い、その言葉を理解したかのように、獣が低いうなり声を静かに上げる。  エルナクハは、「勘弁してやってくれ」と言いたげな瞳を獣に向けながら、言葉は仲間達に向けた。 「まぁ、ニンゲン、よく獣に指示しながら獣を狩ってるもんだしよ、逆に獣に狩られそうになる経験は、樹海じゃ充分すぎるほど味わわされてるし、だったら『獣に指示される』経験も、たまにはアリじゃねぇかな」 「変な言い訳」苦笑いしながらパラスが応じた。  ナジクは、ギルドマスターが決めたのならば、それ以上の異論を唱えるつもりはないようであった。それを感じ取ったのか、獣もうなるのをやめ、静謐さを湛えた金色の瞳で冒険者達の趨勢を見守っている。 「ま、決まったんなら、とっとと行こうじゃないか」  アベイが声を上げたのを、ちょうどいいきっかけとするかのように、冒険者達は獣に背を向けた。否、ナジクはあからさまな警戒を続けているし、他の者達も、獣が、敵対行為ではないにしても何かしらの動きを見せた時に備えて、秘やかに注意を向けている。が、そんなことは獣にはお見通しで、冒険者としては当たり前、と思っているのだろうか。気を悪くした様子もなく、ただ、ちゃんと北に向かうかどうかを確認しているのか、じっと人間達を見据えているだけであった。  エルナクハは、仲間達を先に行かせると、獣に向き直った。 「……最初に敵意を向けたりして、悪かったな」  冒険者であるからには、樹海の中の危機に備えなくてはいけない。気配がすれば反射的に武具に手をかけることは当然の話。結果的に相手が敵意のない冒険者や衛士だったとしても、とっさに武器を向けた非礼は、余程でなければ「お互い様」として気にしないのが暗黙の了解であった。ゆえにエルナクハがここで詫びる必要はない。今詫びたのも、必要にかられて、というわけではなく、前記の状況に出くわした時にも、たまには「悪ぃ悪ぃ」と口にすることがあるという、その程度の話。  黒い獣は、声にしての返事こそしなかったが、「気にしてない」とばかりに、ばっさりと尾を振った。    北へ続く道は比較的幅広で、戦闘になっても味方同士の間に困ることはないだろう。幸いにも魔物と出くわすこともなく、十分も歩かないうちに、『ウルスラグナ』は拓けた場所に足を踏み入れた。  下級貴族の屋敷の庭ぐらいの広さはあるだろうその広場には、冒険者達が来た道の他には、南東の隅に、南へと進む道が一本、伸びているだけである。その道を通れば、先程の獣に塞がれた道へと復帰することができるかもしれない。  しかし、それ以前に、一同の目を引くものがあった。  広場の南側、三方を木々に守られるかのように立ち上るのは、薄ぼんやりと輝く光の柱であった。黄金色の螺旋を描いて行く先は、『空』の彼方にあり、果ては見えない。冒険者達は『それ』に見覚えがあった。エトリアでの冒険で、階層の最奥に座する強敵との戦いに疲れ果てた先に見いだした、ぼんやりと光る光の柱。その名を『樹海磁軸』と呼ばれる、磁軸の流れが目に見えるものとなった存在。  アリアドネの糸は、その力で、磁軸を少し歪め、一時的に流れを人間の手の届くところに引き寄せるのだが、目の前にあるものは、樹海を流れる磁軸の一部が、たまたま人間の目につく場所に吹き出し、光を帯びて見えるのだ。 「せっかくだから、戻るか?」  アベイが声を上げた。ここまでの探索でメディックの精神力はだいぶ消耗している。とはいえまだ余力はあるし、メディカも用意しているし、糸もあるから、ここまで来た。だが、樹海磁軸が使えるならいい機会だと判断したのだろう。エトリアのものと同じ機能を持っているのなら、この立ち上る磁軸は、街に戻るだけではない、再び樹海に踏み込んだ時に、この場に戻ってこれる力があるはずだ。探索は格段に楽になる。 「……いや、待て」  冷徹な瞳に磁軸の光を反射させ、ナジクが静かに応じる。 「何か変だ」 「変? 変なところは見付けられないけれど……」  オルセルタが、自分の瞳と似た色を帯びる樹海磁軸を、しげしげと眺めた。やがて、ぽふ、と手を叩く。 「あ、色が違う」 「あ、ほんとだ」  ダークハンターの隣で、カースメーカーの少女もまた、気が付いたようだ。  エトリアで見かけた樹海磁軸は、紫色の光を帯びていたのだった。  その色の違いが何を意味するのか、冒険者達にはわからない。だが、用心する必要はあるかもしれない。アベイの疲れのこともある、この機会に一度、糸を使って街に戻り、休息がてら、先達冒険者達から情報を得ようか、とエルナクハは考えた。  ちょうどその時であった。  気配を感じた。一同は、とっさに武具に手をかける。しかし、すぐに緊張を解いた。武器を構える前に声が続いたからである。 「新しく公国を訪れたエトリアの冒険者か。噂は聞いている」  『ウルスラグナ』の目の前に現れたのは、聖騎士風の若い男であった。おそらくはエルナクハとさほど違わない年だろう。赤い長髪が、樹海を吹く風になびいている。樹海の木漏れ日を浴びて鈍く輝いている鎧と、携えた大きな盾に記されている紋章は、竜をデザインしたものか。その紋章が示す地域に覚えはないが、あるいは家紋か、自分で考えた自らの紋章なのかもしれない。 「あなたは……?」  オルセルタの問いかけに、男は、聖騎士らしい堂々とした声音で、己が名を明らかにしたのであった。 「私は、フロースガル。ギルド『ベオウルフ』のものだ」  ギルド『ベオウルフ』。  その名は、ハイ・ラガードに逗留し始めて間もない『ウルスラグナ』とても、よく耳にしていた。  曰く、ハイ・ラガードが一般冒険者を公募し始めた時からの古株――といっても公募自体が半年も経っていないのだが――で、並み居るギルドの中でも飛び抜けた実力の持ち主だという。そのギルドマスターについては、冒険者としての腕をとっても、人間としての人也をとっても、悪い噂は、せいぜいやっかみくらいしか聞かない。他のギルドの女性冒険者の間でも、ひそやかに『ファンクラブ』なるものが結成されているとも聞く。ちなみにマルメリが誘致を受けたらしいが、なにしろ当の『ベオウルフ』のことを詳しく知らなかったので、大層困り果てたそうだ。  さらなる噂によれば、すでに第二階層にまで到達しているともいう。それが事実なら、その、名うての冒険者が、どうしてまた、第一階層に留まっているのか。素材の採集や、特定の魔物の討伐、新しいギルドメンバーの訓練など、考えられる理由もなくはないが……。 「ハイ・ラガードの世界樹の迷宮に踏み込んだばかりの君たちだ、『これ』のことは知らないだろうと思ってね。一つ、教えてあげようと思って待っていたんだ」  フロースガルと名乗った聖騎士は、邪気の感じられぬ、人のよい笑顔を向けてくる。もっとも、邪気はなくとも悪戯っ気は備えているようで、心を読んだような彼の的確な返答に慌てる『ウルスラグナ』を見つめる様は、楽しそうであった。  ところでフロースガルは『あれ』と口にしたが、同時に、とあるものを指していた。長髪の聖騎士が姿を見せる前に『ウルスラグナ』一同が話題にしていた、『金色の樹海磁軸』を。 「あれは、公国では『磁軸の柱』と呼ばれている」 「磁軸の……柱?」  『ウルスラグナ』一同は声を合わせた。樹海磁軸とどう違うのか。『公国では』そう呼ばれている、というからには、呼び方が違うだけで同じものである、と判断できなくもないのだが……否、彼は「ハイ・ラガードの世界樹に踏み込んだばかりなら知らないだろう」という主旨のことを口にした。つまり、それは「エトリアにはなかっただろう」ということだ。 「私はこの手の仕掛けを見たのは、この樹海迷宮が初めてなのだが、不思議なものだね」  フロースガルは腕を組み、うんうんと頷いた。そのしぐさの一つ一つが決まっている。ファンクラブなるものができても不思議ではない、と納得できるほどに。 「この光に一度触れてさえおけば、街に戻った後、再び樹海に踏み込む時に、一瞬でこの場に戻ってこられるんだ」 「ほう、そいつは便利だな」  エルナクハは、自分も、うんうん、と頷きながら答えた。 「だがよ、フロ……えーと、なんだっけ、スマン」 「フロースガルだ。結構覚えられにくい名前だ、気にしてはいない」 「悪ぃな。で、だけどな。それと、『樹海磁軸』とは、どう違うんだ?」 「『樹海磁軸』――ああ、やはり、エトリアにもあったというのは本当か」  フロースガルは一度大きく頷くと、話を続けた。 「違いは一つだけ、磁軸の柱には、触れた者を樹海の入り口に運ぶ力はない」 「なるほど」  いわば、『樹海磁軸』の機能縮小版といったところか。 「しかし、面倒なコトするぜ」  エルナクハは磁軸の柱に近付き、周囲を回りつつ眺めながら、ぼやくように口にする。 「まったく誰が作ったんだか知らねぇケドよ、その程度の違いなら、普通に樹海磁軸をバーンと設置しときゃいいのによ」 「誰が作ったかなんて、訊かれてもわからないさ」  フロースガルは苦笑いしつつ応じた。それには『ウルスラグナ』は誰も応えなかったが、その内心では、高確率で磁軸の仕掛けを作ったと思われる者のことを、思い浮かべていた。  ――それは、人間だ。数千年の昔に存在していた、『科学』なるもので神を越える力すら備えていた、そのために世界をこのようにしてしまった、前時代の人間。  やはり、空飛ぶ城は存在し、それは前時代の遺物で、そこから下りてきたと伝えられる者達は前時代人なのか。 「ま、いいさ」  エルナクハの言葉は、機能と制作者、磁軸の柱に関わる双方に対する思考にけりを付けるものであった。続く言葉は、あくまでも機能に対する話のみだったが。 「アリアドネの糸さえ忘れなければ、街にゃ帰れる。そう考えれば、格段に冒険が楽になるだけで御の字さ」 「いや、そうとも言えない」  フロースガルが、心持ち声音を小さくして答えた。朗らかな表情が崩れていないところからすると、さほど深刻な話でもないように思えるが、『ウルスラグナ』一同は、思わず耳を傾ける。 「この森には、特に名前は付けられていないけど、リスに似た生き物がいてね。自分の巣を作る時に、大型の蜘蛛の巣の糸を強奪してきて使うのを好む。はっきりとは判らないけど、どうやら彼らにとってはたまらなく心地がいいようだ、蜘蛛の糸で作った巣は」 「ほう、それで?」 「最近、そいつらは、いちいち蜘蛛の巣を捜さなくても糸を得る方法を知った。人間をたぶらかすことだ」 「……なんで、そうなるのよ?」 「最近、大挙して森に入り込んでくるようになった人間という輩が、なぜか高確率で蜘蛛の糸を持っていることを、知ったのさ。おまけに、恐ろしい魔物は殺していても、自分達リスに対しては、警戒が緩むことが多い。そうなれば、愚鈍な人間ごとき、リスの素早さでいくらでも翻弄できる。人間が持つ蜘蛛の糸を、まんまと手に入れるわけだ」 「なんで、人間がそんなに蜘蛛の糸なんか持って……」  『ウルスラグナ』一同、訝しげに顔を見合わせ、あるひとつの答えに到達して、素っ頓狂な叫び声を上げた。 「あ、アリアドネの糸、か――!」  とんでもないことだ。それを取られてしまったら、冒険者としては致命的だ。周囲の魔物を歯牙にもかけないほどの強さがあればいいが、そうでなかったら、地獄を見ることになるだろう。  「糸を忘れて命からがら」とは、エトリアの冒険者の間にもあった、笑い話、兼、凄絶な体験談だ。否、実際にそれで全滅したであろう冒険者達がいたことを考えれば、もはや笑い話ではない。それどころか、きっかり準備していったとしても、それを強奪しようとする輩がいるとすれば……。 「く……っ」  強敵に出会ったような面持ちで、エルナクハはうめいた。 「そんなヤツが樹海にいるなんてな……しゃーねぇ、これから糸は必ず二本持つことにしよう……」 「ちょ、そんな単純な解決策でいいのかよ!」と突っ込むのはアベイ。 「いや、あながちバカにしたものでもない」とフロースガルが応じた。 「とりあえず、ひとつあれば、リスは満足するからね。人間も、ひとつあれば帰れる」  そこで、長髪の聖騎士は、はっはっは、と快活な笑声をあげた。 「……もっとも、別のリスに出会ってしまった時はどうしようもない。油断はしないようにすることだ」  解決策がはっきりしているからこそ、笑っていられるのだろう、と冒険者達は気が付いたのだが。 「笑い事じゃなーい!」  二人の少女、オルセルタとパラスが声を合わせた、ちょうどその時であった。  樹海磁軸を取り囲む木々の影から、のっそりと現れた影があった。四足歩行の獣の形をしたその影が、自分達の見覚えがあるものだということに、『ウルスラグナ』は気が付いた。先程、自分達をこの場所へ導いた、黒い毛の獣だ。何をしに来たと見守る冒険者達の前で、獣は、足音をほとんどさせずに長髪の聖騎士に歩み寄り、ひたりと寄り添った。くぅ、と、かすかに、甘えたような声を上げる。  フロースガルは黒い獣の体毛を梳き撫でながら、話を締めた。 「そういうわけだ。私はそろそろ失礼させてもらうよ。クロガネも来たことだしね」 「ソイツ、クロガネって名前なんだ?」 「ああ、この階で見たことがない人間を見かけたら、私のところに誘導するように頼んでたんだ。戻ってきたってことは――今日はどうやら、君たち以外には、知らない人間は来ないと判断したみたいだな」 「そっか、クロガネくん、だっけ、フロースガルさんのいい相棒なんだね」  パラスが屈み込んでクロガネを見つめながらそう言うと、フロースガルはちょっと驚いたようだった。やがて、笑みを浮かべると答える。どことなく誇らしげに見えた。 「ああ、かけがえのない相棒――これまでずっと、生死を共にしてきた仲間だよ」  ぽんぽん、とクロガネの背を叩き、聖騎士は『相棒』と共に歩み去ろうとした。途中、足を止めて振り返る。 「そうそう、君たちがその柱と取り違えた『樹海磁軸』だが。さらに奥まで進めば見ることもあるだろう。それまではその柱を遠慮なく利用するがいい」  そう助言すると、再び前を向き、フロースガルは、黒い獣と共に、いずこかへと立ち去っていったのであった。 「フロースガル……か。噂通り、デキるヤツみてぇだな」  長髪の聖騎士が去った道を見据えながら、感心したように、エルナクハはつぶやいた。 「うん、あの人なら、第二階層あたりに着いててもおかしくないわよね」  そう妹が応じるところには、首を横に振る。 「着いててもおかしくない? いいや」  一呼吸置いて、続きを口にした。 「十中八九、到達しているぜ、アイツは」  それは確信であった。ハイ・ラガード樹海の構造がエトリア樹海と酷似していれば、という条件付きではあるが。彼の者は樹海磁軸をその目で見たかのように語っていたが、もしも二つの世界樹の迷宮の構造が似通っているならば、樹海磁軸には、第二階層に到達しなければお目にかかれない。そして、フロースガルに関する噂を除けば、冒険者の公募以来、第二階層まで辿り着いている冒険者は皆無だ(もちろん、着いた後、帰還する前に全滅した、という例は除く)。  ちなみに、それ以前を勘定に入れれば、公国の衛士隊や、それに協力した冒険者が、第二階層まで到達しているはずだ。が、公国からは、「違う視点で見た樹海の情報がほしい」という事情から、余程のことがなければ情報が流されることはないし、協力した冒険者とやらから流れてきた情報もない。  つまるところ、フロースガルという聖騎士は、自らそれを目にする以外に、ハイ・ラガードの樹海磁軸の実存を確かめる術はなかったはずなのだ。それは、彼ら『ベオウルフ』が第二階層の地を踏んだことを示している。 「二人で第二階層にまで行きやがるとはなぁ、すげぇやつらだな」 「そうは、見えないが」ぼそり、と、ナジクがつぶやく。  水差すなよ、と言いたげにエルナクハはレンジャーを見つめたが、相手が思いの外に深刻な顔をしていたので、二の句が出てこなかった。金髪の野伏はしばらくの沈黙のうちに考えをまとめたか、慎重に、言葉を発する。 「……第二階層に辿り着くほどには、強い。それは、認める。ただ……あの二人だけで、とは、思えない。彼らを含めて、同じぐらいにできる連中が五人揃っていれば、疑問の余地もないんだが……」  数は力だ。数だけいても仕方がないが、選りすぐりの数が揃っていれば、少人数の時の数倍の力を発揮することもざらである。冒険稼業で生死の狭間を渡り歩いた『ウルスラグナ』もまた、それを痛いほどに思い知っている。 「まあ、『今は』二人じゃないのかな。第二階層がキツイから、みんなケガして、元気なヤツだけで慣れた第一階層でちょっと訓練とかよ」 「それならば、説明がつかなくもないが……」  アベイとナジクが言葉を交わすところに、パラスが口を挟んだ。 「で、どうするの? やっぱり、一度帰る?」 「そうねー……」  オルセルタが、磁軸の柱に似た色の輝きを持つ瞳で、螺旋を描いて上る光の柱を見つめながら、うなった。もともと、この柱が樹海磁軸だったら、一度戻るつもりではあった。目の前の柱も、現在地から樹海の入り口に戻る力はなくとも、冒険の再開の際に、この場に戻ってこられる、という、有用な力があるという。  とりあえず、手を伸ばして触れてみる。ぽう、と光が強くなった。心なしか、光の噴出する勢いも強くなった気がする。 「どうする、兄様?」  決断を振られたエルナクハは、即断するかと思われたが、なぜかためらっている。すでに手の中にアリアドネの糸を収め、もてあそんですらいるのに、だ。どうした、と言いたげな仲間達の視線を受け、ギルドマスターは、ばつが悪そうな笑みと共に言葉を発するのであった。 「なぁ、アリアドネの糸が大好きな、リスみたいな生き物って、どんなヤツなんだろうな?」 「いらん興味は持たなくていいッ!」  即座に、起動した糸の力で現れた磁軸の歪みに、寄ってたかって引きずり込まれ、名残惜しげな叫びと共にその場から消えることになるのだが。 拝啓、エトリア執政院正聖騎士様  他人行儀な呼び方で始めるなって? はは、たまにはいいでしょ?  まだ、この間のお返事は届いていないんだけど、ちょっと面白いことがあったので、手紙出してみます。  本日、ハイ・ラガード歴皇帝ノ月十日お昼頃、不肖、私たち『ウルスラグナ』は、世界樹の迷宮三階に到達しました!  私はエトリアの迷宮の探索序盤のことは知らないけど、あの時も、きっとみんな、こんな気分だったんだろうね。楽しいけど苦しい、だけど、みんなで力を合わせて、新しい場所に足を踏み込んだ時の達成感ときたら! 冒険者って、ちょっとヘマしたら死んじゃいかねないのに、それでもなりたいって人が多いのも、判る気がする。……ま、私も、そのクチなんだけどね。  そうそう、面白いことって、そこじゃないの。  迷宮に挑む冒険者の中に、聖騎士さんがいたのよ。  聖騎士なんて、けっこう多くのギルドにいる、って? そうじゃなくて。  狼みたいな生き物を連れてたの。それも、結構賢い子。  エトリアにも冒険者はたくさんいたけれど、動物を相棒にして迷宮を踏破しようとしてる人は、いなかった。でも、その人は、その子と二人だけで、迷宮を進もうとしているみたい。初めは、他に仲間の人がいるんだと思ってたんだけど……街に戻ってから、いろいろと人の話を訊いてみたら、もともと、その聖騎士さんと、動物ばかりのギルドだったみたいなの。  すごいよね、昔、アナタやシャルと一緒に見た、旅芸人の動物芸もすごかったのは確か。けど、樹海の探索で動物達と一緒に戦うのが、芸とは別の次元の話なんだろうってのは、樹海探索の経験があるアナタや私たちなら判る気がする。互いに言葉じゃ言い表せない絆……いいえ、大仰な言い方をすれば、魂の奥底が繋がってなきゃ、無理だと思う。  ただ、心配なのは、今が二人だけってこと。  噂だと、樹海の中で仲間をほとんど亡くしちゃったっていうんだけど、新しい仲間を入れるつもりもないみたいで、二人だけで探索を続けるみたい。第二階層まで到達しているんじゃないか、って話だけど、二人だけであの迷宮を踏破するのはとても大変だと思う。だから、第一階層に戻って、鍛錬しなおしているんじゃないか、って、ナジクにいさんは言ってたけど……。  あはは、なんか、フロースガルさんの話ばっかりになってる。あ、フロースガルさんってのが、その聖騎士さんの名前。ま、ちょっと面白いことがあって、っていう主題で手紙書いてるんだから当たり前かな。  あと、やっぱり聖騎士さんだから気になるのかな、アナタと同じ。おねーちゃんはいつもアナタのことを心配してるんだぞ。  今回はイレギュラーなお手紙だから、こんなところで。  あ、そうそう、エルにいさんがアナタに頼み事があるって言ってた。同封したお手紙がそれ。エトリアもいろいろあって難しいかもしれないけど、できたら、お願い聞いてあげてくれないかな。  じゃ、次のお手紙は、前のお手紙のお返事が来たら出すから。よろしく! 冒険者ギルド『ウルスラグナ』 ナギ・クード・パラサテナ  やはり『世界樹の迷宮』は一筋縄ではいかない。  それが冒険者達の共通認識である。  三階到達から間を置かずして、『ウルスラグナ』は、世界樹に挑む冒険者達の主な死因の一つであろう、災厄に出くわした。  その名を『刈り尽くす者』と呼ばれる、人に倍する大きさのカマキリ。  エトリアでも同種のものがいたが、そちらは『全てを刈る影』と呼ばれていた。ハイ・ラガードではエトリアの樹海を知らない冒険者達が名付けたものが、名称として定着したのだろう。だが、名こそ違えど性質は似通っていて、そして――多くの冒険者が、その鎌によって探索と人生を終了させられたところまでもが一緒だった。 「ああ、ちくしょー。半年前だったら楽勝だったんだけどなー!」  エルナクハが髪を掻きむしりながら嘆いたものだ。ちなみに半年前といえば、『ウルスラグナ』がエトリア樹海の秘部・『真朱の窟』に挑んでいた頃である。第一階層の魔物など、『敵対者』であっても容易く吹き飛ばせた。  だが、数ヶ月のブランクを経た今は、そうではない。新米冒険者だった頃に感じたものと同じ威圧を放ち、偉大なる鎌の主は立ちはだかっている。救いといえば、相変わらず獲物を追う足が遅いということである。  鎌の王達が徘徊するエリアを、『ウルスラグナ』は二日をかけて突破した。  奴らがおらずとも、新たな階に巣くう魔物達は一段と厳しい相手であったのだ。例えば、目が覚めるほどに真っ赤な大角を持つ、サイに似た魔物。そいつらは力を溜め、強力な突進攻撃を行ってくる。動きが読みやすくて避けやすいのが救いだったが、一度、逃げ損ねたエルナクハが吹き飛ばされて大怪我をした。  その時、魔物はパラスが掛けた『力祓いの呪言』の影響下にあった。彼女の力もまだ新たな樹海では十分通用しないとはいえ、守りの雄パラディンにその効果を加えてさえ、この状況である。やっぱり急ぎすぎるのはよくない、というのが、『ウルスラグナ』が満場一致で下した決断であった。  ただ単に魔物が強いから、ではない。『刈り尽くす者』に捕捉されている状態で、その縄張り内で魔物に手こずっていれば、いくら、かの鎌の主の足が遅いとはいえ、追いつかれてしまう。その時は、『ウルスラグナ』の、少なくとも五人の命日となるだろう。  それだけの注意を払った甲斐あって、ようやく『刈り尽くす者』の支配領域を抜けた時、探索班達は安堵の溜息を止めることができなかった。  もちろん、一度支配領域を抜けたからといっても、本来ならば、次に訪れた時には再び恐怖を抱いて同じ道を辿る必要がある。だが、今回は、細い獣道を見付けることができた。その道は、先日フロースガルと名乗る聖騎士と出会った広場に通じていたのである。すなわち、次回の探索でも磁軸の柱を使え、かつ、カマキリどもの支配域を通らずに済むのだ。 「ちょうどいい、帰ってメシにしようぜ」  エルナクハの決断で、アリアドネの糸が起動される。  アリアドネの糸での移動先は、正確に述べるならば、世界樹入り口と一階を結ぶ緩やかな階段の途中である。踊り場のように広まった一段で、その両脇に、階段側面の壁からへこんだような空間が備えられている。入り口から見て右側の空間は、ちょうど、樹海を流れる磁軸が通る位置らしく、アリアドネの糸を発動させた場合は、必ずそこに帰り着く。もっとも、何かの間違いで糸に通す電力の量に過不足があった場合は、その限りではないそうだが。  ちなみに左側の空間が何なのかは、まだわかっていない。『ウルスラグナ』としては、いつか樹海磁軸にお目にかかった時には、左の空間に樹海磁軸に繋がる流れが出現するのではないか、と目していたが、磁軸の柱のための空間かもしれない。ひょっとしたら単に、右側と均衡を取るためだけの空きなのかもしれないのだ。  さておき、世界樹の外に出て、真昼時の陽光と外の空気を存分に浴びる冒険者達だったが、ふと、世界樹前に、衛士の一団がいることに気が付いた。、総勢十人ほどの衛士達に、冒険者達が軽く会釈をすると、彼らは一斉に敬礼を行ってきた後、それまで行っていたであろう、自分達の作戦説明に戻った。 「――目的は、先程述べたとおりである! 我らはラガード公国選りすぐりの衛士隊ではあるが、ゆめゆめ、警戒を怠るな!」 「衛士達も大変だなぁ」とアベイが感慨を漏らす。『ウルスラグナ』は彼らの世話になったことはまだないが、冒険者の中には、新米の頃、魔物に襲われて全滅しそうなところを、哨戒中の衛士に助けられた者もいる、という話も耳にする。今となっては冒険者のように未知の領域にまで出張ることはないのだろうが、公国は公国で、世界樹踏破を助けるための行動を起こしているのである。  私塾に戻ると、留守番組が昼食の用意をして待っていた。探索班は必ずしも昼時に戻れるわけではないが、この日は出来たての食事にありつくことができたわけだ。  焼きたてのパンと冷製スープに舌鼓を打った後、探索の疲れを癒すためにフロースの宿に行く前に、エルナクハは『ウルスラグナ』全員を前にして言い放った。 「明日の探索から、メンバー変えるぞ」  変更は、前衛の攻撃手であるオルセルタをティレンに変え、後衛の補助手であるパラスを属性攻撃手であるフィプトに変えるものであった。せっかく磁軸の柱という新たな出発点を得たのだから、小細工抜きで破壊力主体のパーティでの探索を試してみよう、と考えたのだ。オルセルタやパラスとしては残念ではあったが、このあたりはやむを得ないだろう。そもそも、あまりメインの探索班に入っていない者もいるのである。 「……悪いな、マルメリ。どうもオマエの投入のタイミングが掴めねぇ」 「んー、別にいいわよぉ」  恐縮する従弟を前に、黒肌のバードは呑気なものである。 「ヒロインは後からやってきて、颯爽と場をさらうものなのよぉ」 「オマエがヒロインってガラかよ」 「……パラスちゃん、腹踊り」 「オッケー、マルねえさん」  すちゃっ、とパラスが呪鈴を構える。いつぞやかのゴロツキのような目に遭わされてはたまらないので、エルナクハは平謝りを重ねるしかなかった。  戯れはさておき、マルメリは仲間の冒険譚を聞ければ充分と考えているところがあり、メインの探索班に加われないことはさほど気にしていないようである(もちろん、加われればそれに越したことはあるまいが)。エルナクハは従姉の呑気さ、もとい寛容さに感謝した。  ともかくも、昼間の探索班はフロースの宿に体調を整えに行き、昼の探索に出なかった者にアベイともう一人を加えた一団が、夜の樹海に鍛錬に出る。昼の探索に出なかった夜組、すなわちティレン、マルメリ、フィプトが、今日はどの階で鍛錬しようか、と話し合うのを横目に、昼の探索班は宿へ行く準備を整えた。  宿に行く者達が持参する、いわゆる『お風呂セット』に含まれる桶の底には、なぜか『けろいん』なる焼き印がある。宿から貸し与えられたものなのだが、どこであれ集団浴場の風呂桶には、大概、その焼き印がある。エトリアの『長鳴鶏の宿』でも同じで、これは古来からの伝統らしい。 「なんかの呪言なのかな?」  とエルナクハはパラスに訊いたことがあるが、かなり古い血統を誇るカースメーカーである彼女にも分からないらしい。ちなみに前時代人であるアベイも知らないらしい。同じ前時代人の『世界樹の王』ヴィズルなら分かるかな、と考えたが、あいにく相手は故人である(そもそも殺したのは『ウルスラグナ』なのだが)。というわけで、『ウルスラグナ』は、きっと『のぼせ』防止名目の害も実効もないまじないだろう、と落としどころをつけたものだ。  だが、本来は何か別の意味があったかもしれない。そう思うと、エルナクハは少し小難しいことを考えてしまう。  『けろいん』なるものの真の意味が失われてしまったのと同様に、たとえば世界樹も、この世にある真の意味は失われて久しい。今のところ、真実を知っているのは『ウルスラグナ』やエトリア執政院上層部くらいか。いずれは世界に表明しなくてはならないことかもしれないが、少なくとも今は、時期尚早、と考えているのだろう。  エトリアに働きかけて、ハイ・ラガード上層部ぐらいには、ことのあらましを伝えてもらった方がいいのか。否、もしもハイ・ラガードの世界樹が『世界樹計画』とは別口のものだった場合、先日のギルド長の話ではないが、大公宮の者達の視野を、間違った方に狭めてしまうことになるかもしれない。  結局は、考えてばかりではだめだ。真実への糸口が目の前に存在する以上、最終的には、自分の目で事実を見据えなければならないのだ。  翌日、皇帝ノ月十六日。  早朝の探索に出る前に、樹海に潜るメンバーの変更を伝えるために冒険者ギルドに立ち寄った『ウルスラグナ』探索班を出迎えたギルド長は、感心したような呆れたような声でこう言った。 「お前たちは、まめに探索班を変えるのだな。止めるつもりはないが、メンバー全員が樹海に入らなくてはならないという法はないのだぞ?」 「いいんだよ、オレらが好きでやってんだから」  エルナクハは苦笑い気味にこう返した。  後々に考えれば、ギルド長の対応は、統括本部内に漂う不穏な空気を誤魔化すものだったのかもしれない。その奇妙な空気に気が付いたのはティレンだけだった。ナジクもいれば気が付いたかもしれないが、レンジャーは統轄本部の建物内にまでは入ってこなかったのだった。  冒険者ギルドを辞した後に、赤毛の斧使いに、統括本部内の妙な空気のことを聞かされたエルナクハは、せいぜい、ちょっとした問題が起こったくらいだろう、と思っていた。  確かに問題は起こっていた。しかし、それは『ウルスラグナ』一同の想像を超えたものだったのである。  世界樹入り口と一階を結ぶ緩やかな階段の途中、踊り場のように広まった一段に足を踏み入れると、側面にある空間の左側の方に、変化があった。ゆらり、と、金色の光の螺旋が立ち上ったのである。 「これが、話に聞かせて頂いた、磁軸の柱ですか……」  興味深げに光の柱に近付くフイプトを置いて、他のメンバーは、そしらぬ顔をして階段を上り続ける。 「あれ? この柱を使うんじゃないんですか!?」  焦り慌てるフィプトだったが、そんな錬金術師をさらに狼狽させる出来事が起きた。光の柱が、あっさりと消え去ってしまったのである。 「え? あれ? あれ?」 「はっはっは、悪ぃ悪ぃ、センセイ」  エルナクハが、仲間を引きつれて戻ってきた。 「いや、磁軸の柱に触らなかったヤツしか近くにいなかったら、どうなるかって思ってよ」 「ああ、なんだ、驚きました。それならそうと言ってくれれば」 「はは、ちょっと驚かしてみたかったのもある」  『ウルスラグナ』の経験では、エトリアの樹海磁軸の場合、樹海内のそれに触れたことのない者しかいない場合には、現れなかったのである。さらに、 「んー、樹海磁軸と違って、光の中に、風景、見えないんだな……」  アベイの感嘆が示すとおり、樹海磁軸の場合、飛ばされる先の光景がうっすらと見えたものだった。樹海磁軸は階層ごとに一本ずつあり、それらの磁軸に飛ぶことのできる起点の光柱は共通で、中に映す光景を緩やかに変えていったものだ。行きたい場所の光景が見えている時に踏み込めば、望む場所に飛べるというわけである。そして、近付いた者の誰もが触れたことのない樹海磁軸がある階層の光景は、現れないのだ。  今は、金色の柱の中には、何の光景も見えない。触れた者がいるにもかかわらず。  これは何を意味するのか。かの聖騎士フロースガルが嘘を言うとも思えないが、彼が知らない、あるいは言い忘れた、『樹海磁軸とは違う点』が、何かあるのかもしれない。  ともかくも、三階の磁軸の柱までは問題なく飛べた。  磁軸の柱の北側にある獣道をくぐり抜け、前日に到達した区域に近道をする。  獣道の真北には扉があった。前日の時点で見付けてはいたが、ちょうどいい区切りだと思って、探索を後回しにしたのだった。だが、前日にはなかったものも、扉の傍らにあった。正確に言えば、前日にはいなかった者達、である。  赤い長髪の聖騎士フロースガルが、そこにいたのだ。その傍らでは、忠実なしもべのように――否、聖騎士のかけがえのない相棒として、漆黒の獣クロガネが、胸を張っている。 「君たちは、確か……『ウルスラグナ』だったね」 「オレらの名を知ってたか」 「噂は聞いている、と言っただろう?」  フロースガルとは初顔合わせになる者も含め、和やかに挨拶を交わす一同だったが、ただ一人、ティレンだけが違った。クロガネを見て、するり、と後ずさったのである。その表情は今にも泣きそうで、しかしクロガネから顔を背けることはない。しまいには、ナジクに背をぶつけてしまい、抱きとめられた。 「……大丈夫だ、安心しろ、あの獣は襲ってこない」  赤毛の斧使いの肩を叩きながら、ナジクは静かに言葉を放つ。 「どうしましたか、ティレン君?」  フィプトが訝しげに問う。まだ十日ほどの短い付き合いだが、ティレンの性格はおおよそ掴めているつもりでいた。かの少年は、多少の危機に簡単に怖じ気づくような子ではなかったはずだ。まして、相手は人間と共に行動している『相棒』なのだ。  そんな固定概念に支配されてしまうのもやむなきことだろう。フィプトは『ウルスラグナ』のエトリア時代を知らない。  ティレンの行動は、エトリア時代の経験に基づくことなのだった。  ティレンことティレンドール・グローシアは、エトリア樹海の中で生まれ育った少年である。  彼の両親は、もともと、世界樹探索の初期にエトリアを訪れた。だが、力及ばず、所属ギルドは壊滅。新たなギルドに所属する気もなく、しかし、豊かで美しい樹海に魅せられ、執政院の了承を得て、自分達だけでも身を守れる浅層の一角に居を定めた。  そんな両親から生まれたティレンにとって、樹海は己の友のようなものだった。とはいえ、言うまでもなく樹海迷宮は厳しいところである。その友でいるためには、己の力量を把握し、謙虚でなくてはならない。敢えて危険に足を踏み込む冒険者ではなかった、当時のティレンは、その原則を忠実に守り、決して一人では、獣避けのからくりの外には出なかった。いつか樹海が納得するような注意深さを身につけた暁には、樹海を己の庭のように歩むことになっただろう。  そのはずだった。樹海に異変が起こらなければ。  もっと深い階層に巣くっているはずだった、狼の群。それが、ティレンの一家が居を構える階に姿を現したのだ。  街に出て、樹海の産物と生活雑貨を交換していた両親は、その日も街に出ようとしていたのだが、その途中で食い殺された。家で帰りを待っていたティレンは、獣避けが効いているはずの家で、狼どもに襲われた。当時は駆け出しだった『ウルスラグナ』が、前々からティレンと親交のあったナジクの要請を聞き入れて、様子を見に来てくれなければ、ティレンも両親と同じ運命を辿っていたことだろう。  それは、ティレンドール・グローシアが『ウルスラグナ』の雄となるきっかけの話。  同時に、その出来事は、ティレンの心に一筋の大きな傷を刻み込んだ。  狼を前にすると心がすくむ――という、樹海探索者としては致命傷になりかねない傷。  事実、その傷のために、ティレンは、第五階層――血を浴びたように赤い狼が出没する――で、思うように戦えないこともあったのだ。  もちろんそんな詳細まで見抜くことはできなかっただろうが、フロースガルは大まかな事情は察したらしい。己の身体でクロガネの姿を遮り、ティレンの前に立つ。少年剣士の目線に合わせるように、やや屈み込むと、朗らかな声で挨拶の言葉を放った。 「はじめまして、ティレンドール・グローシア殿。『ウルスラグナ』の切り込み隊長としての活躍は、このハイ・ラガードでもよく耳にする。私は聖騎士フロースガル。以後、よしなに頼む」  ティレンは聖騎士フロースガルを怖がっていたわけではない。「よろしく」と、ぽつりと返すと、差し出された手を握り返した。その手が強ばったのは、フロースガルの背後から、狼のような獣が再び顔を覗かせたからであった。  フロースガルは穏やかな声音を崩さずに続ける。 「彼は私の相棒で、クロガネという。私共々、仲良くしてやってくれないか」  ティレンは困ったような顔をした。それ以上自分に近付こうとはせず、ゆるやかに尾を振るだけの、賢い目をした獣が、敵ではないことは、頭では判っているのだろう。しかし、理屈ではないことは世の中にはごまんとある。二律背反の思いに挟まれて動けないティレンに声を掛けたのは、アベイであった。 「ティレン、クロガネのやつ、お前と仲良くなりたいのにできなさそうで、残念がってるぜ」  まったくそのとおりです、と言いたげに、クロガネが、くうん、と声を上げた。  その様は、ティレンの心を動かしたようだった。 「かまない?」と、おずおずと問う。 「噛むのは敵だけだよ」笑みを消すことなく、フロースガルは答えた。 「味方は、……そうだな、ぺろりと舐めるくらいかな」 「はっは、オレも、鼻の頭を舐められたな。あの時から『味方』って見られてたって思っていいのかな」  エルナクハが話を合わせたところで、ティレンの心はかなり傾いたらしい。黒い獣を見つめて、つぶやいた。 「クロ、ほんとに、おれとも、仲良くしてくれる?」  当然ですよ、と言いたいのか、クロガネは鳴いて、尾を振ったままティレンにゆっくりと近付く。まだ『狼』に対する恐怖はあるのだろう、ティレンは身体を強ばらせたが、その場に踏みとどまってクロガネを待った。やがて、自分の真正面に来て、座り込み、はっはっは、と息を吐きながら尾を振る獣に、ティレンはゆっくりと手を伸ばした。その頬を、クロガネはすかさず、ぺろりと舐め上げる。 「うわ!」  ティレンは声を上げたが、『味方は舐めるだけ』という話を思い出したのだろう、みるみるうちに表情を晴れやかにして、クロガネを抱き締めた。 「クロ、クロ! よろしく! おれと仲良くして! あはははは!」  すっかりとうち解けた少年と獣を見て、それぞれの相棒である聖騎士達は、うんうんと頷く。 「ああ、よかった。どうやらクロガネのことを気に入ってくれたようだ」 「ま、いろいろあってよ。だが、今回はもう心配なさそうだな。ところでよ……」  話が切り替わる。エルナクハは、この場でフロースガルを見かけた時から気になっていたことを口にした。 「一体全体、アンタらは、こんなところで何をしてたんだ」 「……ああ、そうだ。ここで冒険者達に警告を発するために、ここにいるんだ」  獣を相棒とする聖騎士の声はとても硬く、和んでいたその場を冷めさせるのに充分な力を秘めていた。 「君たちは、この扉の向こうへ行きたいのだろうが、今は危険だ」  フロースガルは、その身体と盾で行く手を遮るように、『ウルスラグナ』の前に立ちはだかる。 「ここから先に進むのは少し待ってくれないか」  赤い長髪の聖騎士の顔には、困ったような表情が浮かんでいる。その顔で、『ウルスラグナ』ひとりひとりを、「後生だから」と言いたげに見つめた。  しかし、「待て」と言われても冒険者としては困る。『危険』? そんなものは覚悟してここにあるのだ。それとも、強大な力を持つ『敵対者』でも、いるというのか。 「訳は……、私から言うことではない」 「なぜだ?」  エルナクハの問いに、フロースガルはちらりと視線を向ける。その先にあるのは――フィプトの姿だ。どうも、フィプトの存在が、フロースガルに詳細な話を口にするのを憚らせているらしい。  『ウルスラグナ』がさらなる言葉を口にする前に、フロースガルは話を続けた。 「どうしても、と言うなら、一度街に戻って、大公宮で話を聞いてきなさい。大公宮でも今頃、異常に気が付いていることだろう。話を訊いて――覚悟を固めてくることだ」  その言葉は『ウルスラグナ』全員に向けたものだ。だが、エルナクハには、それがフィプトに強い指向性を示しているような気がしてならなかった。先程の視線がそう感じさせるのだろう。その関心の理由はよくわからないが。  いずれにしても、聖騎士の表情からは、言うとおりにしなければ通さない、という意志がありありと読み取れる。  それに……気になることが、ある。  これ以上の問答は無意味だ、と、エルナクハは悟った。 「わーった、大公宮に行ってくる。話を訊いてきたら通してくれるのはガチだな?」 「聖騎士フロースガルの名に賭けて」 「りょーかい。じゃ、ちょっくら行ってくる」  エルナクハはひらひらと手を振って朗らかに答えると、ナジクにアリアドネの糸の起動を促した。  素直に従ったレンジャーの手で起動された糸が生み出す磁軸の歪みに、『ウルスラグナ』は身を投じる。  磁軸移動の瞬間にエルナクハが見た、長髪の聖騎士の顔には、最後まで翳(かげ)りが落ちたままだった。  というわけで、この日の探索開始後三十分も経たないうちに、帰還と相成った『ウルスラグナ』一行だった。 「糸、もったいないなあ。しゃーないけど」  とアベイがぼやいた。ここのところ金銭的にきつきつになっている状況、できれば節約したいものだが、かといって、徒歩で迷宮を下りていくのもまた危険、メディックとしては二律背反のところである。  とはいっても今回は、迷宮に踏み込んだばかりで、皆の調子に問題はなかった。鍛錬代わりに徒歩で脱出を図るのもひとつの手だっただろう。危険になったらそれこそ糸を使えばいい。だが今回に限っては、あまり時間を掛けてもいられない、そんな直感が、アベイにもあった。  一方、エルナクハはナジクに問うてみた。 「扉の向こうに何があると思う、ナジク?」  推測の話ではなく、扉の向こう側から何か気配を感じなかったか、と訊いているのだ。  レンジャーはこっくりと頷いて口を開こうとした。話が始まらなかったのは、ちょうどその時、迷宮に向かう別の冒険者達が近付いてきていたからだった。彼らと軽く挨拶を交わし合った後、ようやくナジクは言葉を発した。 「……うっすらとだが、強い魔物の気配を感じた。それも複数だ。いくつかは馴染みある気配……今までにも出会ったことがある『敵対者』くらいだろうが――ひとつ、ことさら異質な気配を感じた」 「……強ぇヤツか?」 「はっきりとは判らないが……僕の勘だけで言っていいなら、たぶん、今の僕達では勝てない」 「そうか」  エルナクハは沈黙した。怖じ気づいたわけではない、少し考え事をしていたのである。  フロースガルと話をしていた時に『気になること』に考えが及んだ。本日の探索前に冒険者ギルドに寄った時のことだ。自身は気が付かなかったが、ティレンが言うには、何だか変な感じだったという。その時は、ちょっとした問題が引き起こされて、空気が乱れているくらいだろうな、と思ったのだが……。  ――ひょっとしたら、案外とヤバいことになっているのかもしれねぇ。 「とりあえず、大公宮に行きましょう。何かあるようですから」  フィプトの朗らかな声で、エルナクハは我に返った。  そういえば、フロースガルは、随分とフィプトを気にしていたようだった。その理由は全く思いつかないが、無意味なことではないのは確かだ。 「センセイ、アンタはフロースガルを知ってたか?」 「ええと、噂は存じていました。しかし、小生は冒険者に関わるような立場ではありませんでしたから、実際にお会いしたのは今日が初めてかと……」  思った通り、これまでの接点はまったくなかった。  まあいいか、と黒い肌の聖騎士は思索を取りやめた。とにかく大公宮を訪ねれば何かが判るはずだ。  大公宮を訪ね、按察大臣への目通りを乞う。どういうわけか「出直してほしい」と告げる侍従長を説き伏せ、謁見の間に通された『ウルスラグナ』探索班が目の当たりにしたものは――杖を己の掌にぽんぽんと叩きつけつつ、ぶつぶつと何事かをつぶやいている大臣であった。 「困ったことになったものじゃ。いったいぜんたいどうしたら……」  似たような主旨の言葉を何度も何度も繰り返しつぶやきながら、苦悩の表情を浮かべる大臣。さしもの『ウルスラグナ』も少しばかり困って、互いに顔を見合わせた。ついでに侍従長に目をやると、「だから出直してほしかったのだ」と言いたげな表情を浮かべている。  が、直感で、大臣の困り事こそがフロースガルの懸念と関わりがあるのだと見越した一同は、とにかく大臣に声を掛けようとした。  その必要はなかった。気配に気が付いたのか、大臣の方が顔を上げて『ウルスラグナ』を見据えたからだ。 「……っ」  しばらく、双方が凍り付いた。  十数える間にも満たないその間に、大臣の目にみるみるうちに輝きが蘇る様は、ある意味圧巻だっただろう。 「そなたらは確か、『ウルスラグナ』! よいところに来てくれた!」  一番手近にいたエルナクハの手を取り、ぶんぶんと振る大臣。  振り解くわけにもいかず――そのつもりもないが――、エルナクハはちょっと困ったが、とにかく話を進めることにした。 「何でも屋大臣サンよ、一体全体今度は何を抱え込んでるんだよ」  初日の対面以来、エルナクハが大臣を呼ぶ名は、『何でも屋大臣』に固定されていた。一度ティレンを庇ってそう呼んだからには突き通す必要があろう、というのが彼の説明だが、実は楽しんでるだけだ、というのが他の仲間達の見立てである。呼ばれる方もこの珍妙な渾名を楽しんでいるようなのが救いであった。  常に穏やかに冒険者達の無礼を受け流してくれる好々爺は、しかしこの時は、厳しい表情を崩すことはなかった。 「そなたらに危険を承知で頼みたいことがあるのだ。おそらくは危険な任務、無理強いはできないが……この老体を助けると思って、聞き届けてはくれぬか……?」  冒険者達の誰もが、薄々覚悟していたことが現実になった、と思った。  エルナクハは一応、仲間達を見渡した。大臣の依頼受諾の是非を問うためだ。もっとも、この期に及んで断る意味もない。先に進む為には、フロースガルが塞ぐ扉の向こうで何が起きたのかを知らなければならないし、おそらくそれが、大臣の困り事と直結しているだろうから。  ギルドマスターが仲間を代表して強く頷くと、大臣は何度も何度も頭を下げるのだった。 「すまぬのう、すまぬのう、感謝するぞ。では、詳細な話をするとしよう……」  大臣の話は、要約すると以下の通りである。  公国の衛士は、治安維持と新米冒険者の保護を兼ねて、浅い階の巡回を行っている。かつて第二階層に挑んで歯が立たなかった衛士隊ではあるが、第一階層ならば危険の度合いも比較的少なく、巡回も可能だったからである。  つい昨日、皇帝ノ月十五日の昼頃にも、十名からなる巡回部隊が樹海に踏み込んだ。  巡回部隊は、ほとんどが数日を樹海内で過ごす。それでも、毎日、大公宮に遣いをよこし、連絡を欠かさないようにしている。問題の隊の最初の連絡は、遅くても翌日――つまり本日、皇帝ノ月十六日――の夜明けまでにはあるはずだった。  それが、なかった。  アリアドネの糸も携帯しているはずの彼らが、ただの一人も連絡に帰ってこないとなれば――おそらくは連絡すら叶わぬ何かがあった。  ここ数ヶ月、樹海の魔物がそれまでよりも増えてきているという報告もある。あるいは、衛士達も……。  調査の為に新たな衛士隊を差し向けるべきかもしれないが、昨日の衛士隊は選りすぐりの者達ばかりだったのだ。そんな彼らすら戻らない危地に、今度は誰を差し向ければいいのか……。 「この老体の思いも及ばぬことが、樹海の低層で起きているのかもしれぬ……」  大臣は苦悩の表情で首を振る。その様は、大臣の位からすればただの部下に過ぎぬ衛士達を、身内のように心配していることが、ありありと見て取れた。 「本来ならば、『ベオウルフ』や『エスバット』といった名高いギルドに依頼するべき事柄かもしれぬ。他のギルドに任せるには危険すぎる。だが、『ベオウルフ』は多くの仲間を失い傷ついていると聞く。『エスバット』は統轄本部や大公宮に姿を見せぬ。困り果てていたところに、そなたらの来訪じゃ。これぞ何かの導きやもしれぬ。そなたらとて、エトリア樹海の探索から長く日を空け、再びの探索を始めてからは一月にもならぬが……」  それでも、と、大臣は決意の光を眼に宿し、真正面から『ウルスラグナ』のギルドマスターを見据える。 「エトリアで名を馳せたそなたらだ、この老体は、そなたらがブランクを乗り越え、危機を乗り越えてくれると信じておる。いつか『ベオウルフ』や『エスバット』を超える冒険者になるじゃろうとな! だから……」  エルナクハの手を握る、枯れた指先に、精一杯の力がこもった。 「よろしく頼む! どうか……何が起こっておるかを調べ……彼らがまだ無事でおるなら救い出してやってくれ!」 「あいつらのこと……だよな、たぶん」  というアベイの言葉に、エルナクハとナジクは昨日のことを思い出した。探索の帰りに、樹海前で見かけた、十名ほどの衛士達である。帰らないのはきっと彼らのことだろう。自分達の挨拶に律儀に敬礼を返してきた姿が思い起こされる。  わずかでも接点があった、という事実が突きつけられると、なおさらに心が痛む。  だからこそ、冒険者ギルドの中も騒然としていたのだ。顔見知りが行方不明ともなれば、心配しない方がおかしい。  入国試練のことも思い出した。試練監督役の衛士のヘルムの下にあったのは、ラガード人でもあるフィプトの顔見知りのものだった。ハイ・ラガードは小さな国だ。その分、知人も多くなろう。子供達を預かって教育する立場のフィプトなら、なおのこと。 「センセイ」と、エルナクハは声を上げる。 「なんなら、待機してもいいんだぞ」 「お気遣いありがとうございます、義兄さん。でも大丈夫です、行きます」  顔はやや青ざめていたが、それでもなお、眼差しに強い意志を秘め、アルケミストは頷いた。  ほんの一時間ほど前のように、磁軸の柱に触れて、三階まで飛ぶ。  長髪の聖騎士フロースガルは、相棒のクロガネを伴って、最後に会った時と同じように、扉の前にいた。 「どうやら話を訊いてきたようだね」 「ああ」  一同を代表してエルナクハは返事をする。 「問題は、その扉の向こうにあるんだな」  明確な答えこそなかったが、苦々しげなフロースガルの表情と声が、『是』の意を表していた。 「先に進むがいい。行方不明の衛士については、君たちに任せる。私たちにも、やらなければならないことがあるからな」  後半の言葉は、傍らの相棒に向けているようでもあった。フロースガルは扉の前から退くと、『ウルスラグナ』一同の脇を歩いていく。ふ、と足を止め、振り返って告げた。 「……忠告しておこう。衛士の行方不明の理由は、その扉の向こう――多くの鹿が狂ったかのように暴れていることにある。油断していれば思わぬところから攻撃を食らうこともあろう。常に緊張感を持ち、可能な限り戦わずに進むことだ」  長髪の聖騎士は、その相棒と共に去っていく。彼らを見送った後、『ウルスラグナ』一同は扉を見据えながら考えた。  フロースガルの『行方不明』は、極力彎曲的に状況を述べた言葉だろう。彼は昨日の夜か今日の早朝か、扉の向こうで『衛士達』を見た。そして、その原因である『狂ったように暴れる鹿の群』を見て、力量と覚悟の足らない冒険者達が不用意に扉の向こうに踏み込まないように、塞いでいた――おそらくは。  たぶん、問題の衛士達は、すでに……。  不意に、ナジクが進み出た。フロースガルがやっていたように、扉の前に立ちふさがる。その碧色の眼差しは、まっすぐにフィプトを見つめていた。 「フィプト、あんたは、極力、エルの背に隠れていた方がいい。エルの背だけを見ているんだ」  その言葉は、パラディンの護りに身を委ねろ――という意味ではない。全員がそれを察知した。同時に、どうしてフロースガルがフィプトのことを気にしていたのかも、憶測ながら理解した。  かの聖騎士は、『ウルスラグナ』の噂を聞いている、と言った。その切り込み隊長であるティレンのことも知っていた。つまりは、『ウルスラグナ』全員の名を知っていると見ていいだろう。顔までは知らずとも、職を知っていれば、出会った時に名と顔を一致させることは難しくない。逆に言えば、『ウルスラグナ』が噂の源であるエトリア樹海の踏破を果たした時、『ギルドに誰がいなかったか』も判るはずだ。その者がハイ・ラガード樹海の探索に参加しているなら、樹海の真の恐ろしさにまだ慣れきっていないだろうことも。 「小生は……小生は……」  フィプトは血の気の引いたような顔でつぶやく。手の震えに連動して、錬金籠手(アタノール)が、かたかたと音を立てていた。その音が止んだのは、フィプトが拳を作り、震えを止めたからだ。 「行きましょう。全てを確認して――大公宮に報告しなくてはなりません」 「――わかった」  ナジクは頷いて、扉の前から退く。代わりにエルナクハが扉の前に立った。 「みんな、胆(ハラ)に力入れとけ。……開けるぞ」  掌だけが白い、黒い腕が、扉に手をかける。  そして、重々しい音と共に、扉が開かれた。  扉が開ききって、その向こうにある光景をさらけ出すよりも早く、状況を伝えてきたのは、大気を赤黒く染めてしまいそうなほどに濃厚な、鮮烈な血の香であった。  そして、目の前に広がるは、広大な領域の中に、ところどころ、立木が広がる光景。  その中にある、見るもおぞましい惨劇。  さすがのエルナクハも、顔を歪めた。  周囲の地面は鮮血に染まり、凝固しかけた生命の水が、樹海の木漏れ日を反射して、てらてらと光っている。  血染めの草を敷布として、累々と連なるは、それが元々、人間だったのか、と疑いたくなるような、衛士の死体であった。  その生命を護るために頑丈に作られたはずの、職人達自慢の鎧は、原形をとどめないほどに無惨なへこみ方をしている。その中にあったものがどんな状態にあるかなど、想像もしたくないほどであった。どうしても防御が薄くなってしまう関節は、人間にはあり得ない曲がり方をしていた。ヘルムも、その形を歪め、もう外すことができないだろうと見込まれるほどのものも散見していた。  エトリア樹海でも、このような状況の屍に出くわすことは、なくはなかった。たまたま獣に食われずに、蟲が湧くまでに至った、最もひどい状態のものも見たことがある。  だが、今回は規模が段違いだ。単純に考えて、十人。それでも、『経験者』達はまだいいが……。  背後で、うめく声がしたので、振り返る。たった今思考の片隅に現れた義弟が、顔面を蒼白にして、口元を抑えていた。 「フィプト」  ぼそり、と彼の名を呼んだのは、レンジャーであった。声を掛けられるとは思っていなかったのか、びくり、と肩を震わせるアルケミストに、ナジクは指先を舐めて立てた後、とある方向を指し示す。 「……風下はあっちだ」 「……恐縮です」  フィプトは足早に示された方向に去り、手近な茂みの中に踏み込む。胃の中のものが逆流して、吐き出さざるを得なかったのだろう。やがて、すっかり腹の中を空にしたらしいアルケミストは、布巾で口元を抑えながら戻ってきて、ぺこりと頭を下げた。 「すみません、無様なところをお見せしました……」 「……しゃあないさ、こればっかは」  そう口にしたのはアベイだったが、その場にいる全員が同じ思いだっただろう。  ともかく、冒険者としてミッションを引き受けたからには、状況に怯えたままでいるわけにもいかない。  推測するに、『事』が起きてからは、さほどの時間は経っていない。おそらくは、早朝から活動する冒険者達が樹海に立ち入るより、少し早いくらいだろうか。  本来、樹海内で発生した動物の屍肉は、肉食の獣に食われ、かなり早い段階で消失することが多い。もちろん、幸運にも――この場合は『不運』だろうか?――残り、ゆっくりと腐敗、分解を遂げるものも、あるにはある。ただ、今回の場合は、単純に、間が経っていないことによるものだろう。  『原因』が、鹿だから、という理由もあるだろう。奴らは凶暴だが、本来は草食だ。他の生き物を殺すのは、縄張りを侵した者を排除しようとした結果に過ぎない。生産した屍を喰らう意味はないのである。  その原因は、どうやら、立木の向こうから、新たな侵入者達の様子を窺っているようだった。彼らの習性からして、縄張りに踏み込んでいないものまでもを攻撃しに来ることはないはずだが……。 「……ちょっと、磁軸計を貸してくれ」  ナジクが差し伸べた手に、今現在の磁軸計の管理者であるアベイが、要求に応えて水晶板を載せた。 「行ってくる。ここで待っててくれ」  ナジクは身を翻すと、危険のただ中に飛び込んでいった。鮮血に染まった下草を踏みしめ、おぞましい惨劇の狭間を縫うように動きながら、広場の中を駆け抜けていく。 「ナジク、あぶない」  と言いかけたティレンを、エルナクハは止めた。聖騎士とて、気持ちは剣士の少年と同じだったが、声は出せなかったのだ。ナジクの行動は無謀に見えるが、ある意味では有効な手段だからだった。  本来、磁軸計は、感知したことがない場所にいる『敵対者(f.o.e)』の殺気を捉えることができない。単純に言うなら、『冒険者が行ったことがない場所にいる『敵対者』の動きは掴めない』ということだ。逆に言えば、『行ったことにある場所の『敵対者』の動きは、容易に掴めるようになる』ということでもある。二階で角鹿達の動きを読みとって、その縄張りを突破できたように、この惨劇を引き起こした鹿どもの逆鱗に触れないように、状況を確認するのも、容易になるだろう。  そして、レンジャーというものには、樹海の中であれ外であれ、そういった、斥候としての役目もあるのだ。  おおよそ一時間ほど、冒険者達は、じりじりとレンジャーの帰還を待つ。もちろん、ただ待っているだけではない。さしあたって近くにある屍の一体を検証していた。  運がよかったのか、別の要因か、その屍は、他のものに比べれば損傷が軽かった。それでも、鎧やヘルムのへこみは、彼が死に至るに充分すぎるほどの衝撃を受けたことを、雄弁に語っている。鹿の蹄に掛けられたことは間違いないだろう。貫通したような穴は、角によるものだと思われる。  アベイがヘルムに手をかけ、しばらくの躊躇の後、思い切って外した。  その下から出てきたのは、想像以上に若い青年の顔だった。おそらくはアベイと同じくらいだろう。その頭蓋には激しい陥没の跡がある。へムルのへこみようから想像が付いていたことではあったが。  検死の様子を漫然と眺めていたフィプトが、悲鳴を上げた。その口から誰かの名のようなものが飛び出したのを聞きつけ、エルナクハは問うてみる。 「知り合いか、センセイ」 「……二年前に小生の私塾で学んでいた方です」 「……そ、か」  ハイ・ラガードは小さな国だ。その分、知人も多くなろう。子供達を預かって教育する立場のフィプトなら、なおのこと。  迷宮に再突入した時のそんな感慨を、改めて思い起こす。  ナジクが戻ってきたのは、そんな、冒険者達が沈痛な思いに包まれていた時のことであった。  時間の兼ね合いもあるから、レンジャーは広場の中を隅々まで歩いてきたわけではない。大雑把に、だが、敵の動きの推測が容易な程度の斥候を行い、そして、戻ってきたのである。そんな中、彼はとんでもないものを見たという。 「そいつは……」  と、ナジクが説明しようとしたその時、彼の声を遮るかのように、奇妙な咆哮が轟いた。  説明しづらい咆哮である。敢えて表現するなら、牛の声に鹿の声を重ね、角笛(ホルン)の轟きを加えたような、というのだろうか。しかし、その声は、エトリアの冒険を生き抜いたものや、ハイ・ラガードの世界樹を『ウルスラグナ』と同じくらいまで登ってきたものならば、幾度も聞いた記憶のあるものだった。  まごうことなき、世界樹の迷宮に巣くう鹿どもの狂乱の声。  ただし、声量は、今まで聞いてきたそれらを凌駕する。 「オマエが言うのは、今の声のヌシのことか?」  エルナクハの問いに、金髪のレンジャーは言葉なく、こくりと頷く。  百聞は一見に如かず、ナジクに招かれて、『ウルスラグナ』一同は、広場の東の方に足を向けた。  その間に、無意識ながら、確認したことがある。確認が終わった後、その結果を表層意識に立ち上らせて、冒険者達は歩きながら疑問をぶつけ合うのであった。 「……足りなく、ないか?」  一時足を止め、ざっと周囲を見渡し、今度ははっきり意識して『確認』を行う。  死体が、想定数から一人分足りなかった。 「……さっき検死した分は、ちゃんと数に入れてるよな」 「ん、入れてる」  『ウルスラグナ』は顔を見合わせた。  数え間違いかもしれない。見えないところに斃れているのかもしれない。だが、もしかしたら、という希望が、そこにある。  たった一人だけでも、生き延びて逃げているかもしれない、という希望だ。  ただし、逆に言えば、絶望でもある。  どこにいるのか判らない生存者を捜し、戦闘が即、死を意味しかねない魔物に注意しながら、この惨劇の舞台である全域を探索しなくてはならないのだ。  冒険者が辿り着いたのは、広場の南東付近に位置する場所。そこからは、東に横道が延びていて、それは森の奥へと続いているようだった。  アベイが屈み込み、何かを拾い上げる。 「見ろよ、メディカだ」  まだ封が切られていない小瓶の中には、薬品が詰められている。視線を動かしていくと、メディカだけではなく、何かしらが点々と落ちている。どこかの童話のパンくずのような役割をしているかに見える落とし物の列は、横道の奥へと伸びているようだった。おそらくは、荷袋が破れて、そのような状態になったと思われる。  もしも、唯一と目される生き残りがいるとしたら、この道の奥だろう。  そう冒険者達は考えたが、そうは問屋が卸さない。そもそも『ウルスラグナ』がこの場にやってきたのは、ナジクが見た『とんでもないもの』、狂乱の吠え声を放つ魔物とおぼしきものを確認するためだ。そして、目的の魔物は、その横道を塞ぐように陣取っていたのである。 「こいつは、まぁ……」  エルナクハは魔物に注意深く近付き、感心したような呆れたような声を漏らした。  角鹿どもと、基本的な形は変わらない。だが、ひとまわり、否、ふたまわり以上、大きかった。その分、奴ら自慢の角も大きく、まるで大樹の枝のよう。毛皮の下からも、その足のバネがどれほど強いのかが、ありありと見て取れる。その足と角が、真紅に濡れているのを見て、聖騎士は腹の底から湧き上がる激情を感じた。  扉を開ける前にナジクが感じた『異質な気配』の正体も、こいつだろう。  まさに、狂える角鹿達の主、名付くならば『激情の角王』とでも言うべきか。  燃えるような殺気を放ちながら、炎を凝縮したかの輝きを持つ瞳で、そいつは『ウルスラグナ』達を睨め回した。  だが、どうしたことだろう、角王は、それ以上の行動を見せない。 「……危ないぞ」  自分のことを棚に上げてそう言ったのは、ティレンが近付いてきたからだった。しかし、赤毛の斧使いは、静かに首を振ると、じっと角王を見つめる。 「だいじょうぶ。こいつ、襲ってこない。……今は」 「今は?」  ティレンは頷いて続きを言葉にした。 「おれ達が強いって、わかってるよ、こいつ。おれ達を襲えば、自分も傷ついて痛い、ってわかってる、たぶん」 「なるほど、王様だけあって、お利口さんなんだな」  エルナクハが鹿を揶揄するように口にすると、ティレンはエルナクハに視線を移した。 「でもね、これ以上、こいつに近付いたら、襲ってくるよ。容赦しないと思う」  朴訥な口調と、真っ直ぐな瞳の中には、いつものごとく、冗談も嘘の欠片も見いだすことはできなかった。 「こいつ、わかってるんだ。おれ達に絶対勝てるって、おれ達なんか簡単に殺せる、って」 「オレらを襲えば傷ついて痛ぇ、なのにか?」 「おれ達だってそうだよね。魔物と戦って痛いけど、でも、勝てるじゃん」  なるほど確かにティレンの言うとおりだ。戦いで負傷が避けられないということは、勝てないということとは同義ではない。  それはそれとして、困ったものだ。この角王は、必要以上にこの場から動く気はないということ。加えて、必要以上に冒険者が近付けば殺すことをも厭(いと)わないということ。つまりは、ひょっとしたらこの道の奥にいるかもしれない、唯一の生き残りを捜すこともできないということだ。 「ナック、どうだろう、アレは使えるかな」 「アレ……って何だよ、ユースケ」 「おいおい、何でも屋さん大臣閣下からもらったアレだよ」  呆れたようにアベイはいうが、いきなり代名詞で示されては、わかるものもわかるまい。ともかくも彼が荷物の中から出したのは、何かの実を加工したとおぼしきものであった。  『ウルスラグナ』一同は、大公宮で大臣に謁見した時のことを思い起こした。 「そうそう……、あと、これを渡しておく」  しわだらけの大臣の手に招かれたエルナクハの手の上に、そっと置かれたのは、何かの実を加工したとおぼしきものであった。紐が付いているそれを取り上げて、しげしげと観察してみると、紐を持ってぶら下げた時に真下に当たる部分に、一筋の細長い穴が穿ってある。その形を見て、思わず軽く振ってみると、ころころ、と音がした。 「それは、衛士達に自衛のために持たせておるもののひとつ、『引き寄せの鈴』というものじゃ」 「……なぁ大臣サンよ、危険を引き寄せちまって、意味あんのか?」 「それはの、獣避けの鈴が効かぬような魔物対策のものじゃ」  大臣は目を細めると、穏やかに話を続けた。 「樹海で採れる、鉄のように硬い表皮を持つ木の実――我々が『鈴鉄』と呼んでいるものを材料に作り上げたものなのじゃが、それを加工して作り上げた鈴には、魔物を眠らせて動きを止めたり、引き寄せたりすることのできる力があるのじゃ。敵わぬ魔物の動きを止めたり、調べたい場所を邪魔しているような魔物を退かせたりできる、便利な鈴じゃよ。全ての魔物に効く訳ではないが、何かの役には立つじゃろう。最後のひとつじゃ、そなたらが有効に使ってくれ」 「最後のひとつ?」  エルナクハの疑問に、大臣は、厭うことなく答えたものだった。 「材料が足らぬでな。行方不明になった衛士達が、ついでに伐採してくる、と言ってくれてはいたのじゃが……そなたらが樹海でその実を見付けたなら、シトト交易所の職人達が加工してくれるじゃろう。……ともかく、衛士のこと、よろしく頼んだぞ」 「なるほど、全滅覚悟でぶち当たるより、お利口さんな手段か……」  アベイから受け取った引き寄せの鈴を、エルナクハは、ころり、と鳴らしてみる。冒険者達の様子を観察していた角王が、その瞬間に、ぴくり、と耳を動かした。何かを刺激されたのか、ふうっと荒い息を鼻から吹き出す。がっ、と地面を蹄で蹴り掻き、今にも冒険者達に向かってきそうだった。だが、判断力の方が勝ったのか、結局はその場から動きはしなかった。 「あ、反応した」 「どうやら、効かないってわけじゃないみたいだな」  ソードマンとメディックが頷く前で、パラディンもまた頷き、仲間達に向き直る。 「さて、ここからが肝心だぜ。誰が猫の首に鈴ならぬ、角王の前で鈴を鳴らすかだけどよ」  と口にはするが、実のところ、決まっている。こういったことを手がけるのは、不測の事態があっても逃げ延びられるように、防御に長ける自分か、身のこなしの軽い――。 「ナジ――」 「やります!」  レンジャーの名を呼ぼうとした声が、別の声に遮られた。訝しげに声がした方を見ると、そのにいるのは、義弟である金髪のアルケミストであった。  エルナクハも呆気にとられたが、それよりもなお不審げにフィプトを凝視するのは、指名されるはずだったナジクの方。こういうことは自分の役目である、と思いこんでいたからだろう。  仲間達の四対の視線にさらされ、錬金術師は、幾分か遠慮がちに口を開く。 「あの、小生は、この半月で、自分が冒険者としての生活にそこそこ慣れてきたと、思ってました。……いえ、そう思いこんでました。現実は、何ひとつ見ちゃいなかったんです」  蒼色の瞳が、自分に向けられた視線を跳ね返す破邪の鏡のような、鋭い輝きを放った。 「小生はただ、もともと冒険者として経験の豊富な皆さんの後をついて、それで自分も強くなったと思っていただけだった。実際は、かつての教え子の一人も護れない、しがない錬金術師に過ぎない……」 「思い違えるな、フィプト」  長い金髪をなびかせたレンジャーが、苛立ちを抑えたような声で叱咤する。 「見知った者が息絶えているのを目の当たりにして、あんたはそう履き違えているだけだ。衛士は、そこらの一般人じゃない。大公宮から課せられた己の役目を果たすために、危険を承知で樹海に踏み込んでいる。冒険者には、衛士達の末路に責任を持つ理由はない。始めから、護衛しろ、という依頼でも受けていれば、別だがな」  エルナクハが所在なさげに掌の上でもてあそぶ鈴を、ナジクは奪い取り、さらに声を荒らげた。 「現実を見ていなかった? あんたは今も、現実を見ていないんだ。知り合いだからって、衛士の死に一度や二度出くわしただけで、判断を狂わせている。あんたがするべきことは……」  そう言いながら、レンジャーの青年は、角王の前に進み出る。右手に鈴を持ち、催眠術師が被術者の前に貴石の環を出すように、魔物の目の前に突き出した。 「フィプト、あんたがするべきことは、あんたができることで、誰かを補助すること、それでいいんだ」 「しかし!」 「……ん、わかった、頼む、センセイ」  不意に横から黒肌の騎士が割り込んで言う言葉に、フィプトは顔を輝かせ、ナジクは不条理を耳にしたかのように顔をしかめた。だが、エルナクハが鈴を自分の手から取り上げフィプトの手に渡す間には、レンジャーの青年は文句を口にはしなかった。 「とにかくセンセイ、奴に近付きすぎないことだけは、頭にしっかり入れとけよ」 「了解、です」  アベイやティレンも、ナジクが声を荒らげたから出る幕がなかったものの、アルケミストの行動を心配していないわけはない。そんな仲間達に笑みかけると、鈴を受け取ったフィプトは、緊張を露わにしながら、角王の前にしかと立つ。  その後ろ姿を見ながら、ナジクは不満げにエルナクハに訴えた。もちろん、フィプトに聞こえるような失態は犯していないが。 「お前にもわかるだろう、エル。フィプトにあんな役をさせるのが、どれだけ無謀なのか」  だからこそ自分(ナジク)を指名しようとしたんじゃないのか、と続けようとするレンジャーの口は、エルナクハの一瞥で塞がれた。決して睨んだり凄んだりしているわけではない、ただ、その眼差しの中に、芯を見て取ったのだ。  聖騎士は、野伏の青年を安心させるかのように、にんまりと笑うと、静かに口を開いた。 「オマエが言ったくらいのことは、たぶんわかってると思うぜ、センセイはよ。でも、それでも、この役をやりたかったと思うし、オレも、話を聞いてるうちに、センセイがやるべきだなって思ってよ」 「なぜだ?」 「口でいろいろ説明したくてもうまくいかねぇんだけどよ、つまりは『ケジメ』付けてぇんだよセンセイは、たぶんな」 「ケジメ……か?」 「ああ」  エルナクハは、昔を思い出すかのような眼差しで、フィプトの動向を捕捉しながら、言葉を続けた。 「なんかわかんないけど今のままじゃだめだ、そう思う時って、男には必ず来るもんだろ? ……いやまぁ、女にもあるかもしんないけどよ。そういう時に、困難なことをやり遂げることで、一皮剥けようとするっつーかなんつーか、つまりはセンセイはよ、オレらにおんぶだっこのままじゃだめだ、って、そう思ったんだろうよ」 「それはない! フィプトは僕達にとって充分力になってくれてる! おんぶだっこなんてことは――」 「オレだってそう思うさ。けどよ、こりゃセンセイ自身の気の持ちようの話なんだよ」  だから今は見守るしかねぇよ、と話を締めたパラディンに、レンジャーはそれ以上は何も言えなかった。  エルナクハの瞳が真剣みを帯びて、状況を見守っているから――それも、無論のことではある。  だが、それ以上に、ようやく、フィプトの気持ちがわかったような気がしたからだ。  例えば、男が大人として迎え入れられる時には、いわば『通過儀礼』として、危険も予想されるようなことを行うことがある。少なくともナジクの部族はそうだった。猛獣を弓矢一組だけで仕留め、己が成人として迎え入れられるに相応しいか否かを自ら証明する。余談だが、その時仕留めた猛獣の毛皮をなめし、好いた娘に渡すのが、ナジクの部族の求婚であった。それが娘自らの手で外套や下裾などに仕立てられて戻ってくるのが、承諾の返事代わりである。  話がそれたが、フィプトの今の行動も、突き詰めれば、『通過儀礼』と同じだ。冒険者達は、共に入国試練を突破したことがそれだと思っていたし、今の今まではフィプト自身もそう思っていただろう。だが、今現在の事態に立ち会うことで、フィプトは、自分の『通過儀礼』は終わっていなかった、と悟ってしまった。だからこその今の行動なのだ。ブランクがあるとはいえ一度は迷宮を突破した自分達すら、まともに向き合えば死を覚悟するほどの魔に対し、戦うわけではないとはいえ、一人でその前に立つという。  それはわかった。わかったけれど。  ナジクは両の拳を固く握りしめる。それでも錬金術師の行動は、彼にとってはあまりにも無謀に見えたから。  フィプトは角王の前に立ち、鈴を目前にかざし構える。  燃えるような真紅の眼差しで、アルケミストの動向を見つめる、森の主とも見紛う大鹿。その赤く染まった角や足を視界に入れ、事切れたかつての生徒のことを思い出し、怒りが沸々と湧き上がるのを感じた。  冒険者にせよ衛士にせよ、森に踏み込んだからには、復讐だのなんだのということを考える意味も資格もない。ただ、理由があるからこそ人外魔境に踏み込み、力が及ばなかったから斃れる。それだけだ。わかっている。わかってはいるのだけれど。  しかし、偉容にすくむ心が、感情の炎を冷静に消しにかかる。それは幸運なことだっただろう。フィプトは自分が成すべき事を、怯えながらとはいえ、忘れずに実行することができたのだから。  鈴が、からから、ころころ、と、音を立てる。  角王は、先程、ほんの少しだけ鈴の音が響いた時のように、耳をぴくりと動かした。荒い息を吹き、地面を蹄で蹴り掻く。そして、先程と違い、誘われるかのように、ゆっくりと前進を始めた。 「……っ」  見守る冒険者達が息を呑み、フィプトもかすれた悲鳴を少しだけ上げた。だが、錬金術師は、すぐさま口をつぐみ、早くも冷や汗にまみれた額を拭おうともせず、大鹿に詰められた分だけ後ずさる。その間にも鈴の音は、からころと鳴り響き、角王は音を追ってさらに前進する。  静かなる攻防が、そこにあった。己の影を踏まれるか否か、という、東方の遊戯にも似た何かが。しかし、遊戯と違い、この攻防の失敗は、死を招きかねないのだ。  それでもフィプトは健闘した方だろう。角王は己のいた場所を遠く離れ、問題の横道を塞ぐものはすでにない。よくやった、と、エルナクハが声を掛けようとした、その時だった。 「うわ!」  足がもつれたのか、石にでもつまづいたのか、フィプトは短い悲鳴と共に倒れ込んだ。その様に煽られたのか、角鹿はいななくと、数多の衛士を葬ったその足を高々と持ち上げた。そのまま足が振り下ろされれば、フィプトは衛士達と同じ運命を辿っていただろう。  だが、そうはならなかった。  激しい音と共に、べっこりと陥没したのは、フィプトの頭蓋ではなく、エルナクハが掲げた盾。  黒い聖騎士は、義弟の危機を見て取ると、ためらうことなく彼と鹿の間に割り込んだのだ。 「――――っ!」  盾に護られたとはいえ、その盾を支える聖騎士の腕には、相応の衝撃が加わったのだろう、エルナクハは悲鳴を押し殺しながらも顔を歪めた。それでいてなお、空いたもう片方の腕でフィプトを抱え、渾身の力で角王の足を押し戻すと、這々の体、といった塩梅でその場を逃げ出す。  ずしり、という音と共に、角王の足が地を叩いた。  その時には、人間達は、すでに彼のまわりにはいない。  なりふり構わぬ全速力で、問題の横道を目指していたからだ。  角王は首を振った。ひょっとしたら、してやられた、という感情がそうさせたのかもしれない。人間にはわかりかねることである。ともかくも、大いなる鹿の魔物は、人間どもを追って元いた場所まで戻り、咆哮をあげたのであった。  その咆哮に震えながらも、人間達は一息吐いていた。  走り込んだ先には木立があり、人間ならどうにか抜けられても、あの鹿には立派な角が邪魔で無理そうだった。それが証拠に、無理矢理抜けようとしたことがあるのか、木々には深い傷跡が付いていた。一言で言うなら、ここまで追ってこられる心配はない、ということだ。現在地はその木立を抜けたところで、通れる道は北に向かっている。 「ナック、腕見せろ!」  動悸が収まるが早いか、アベイが顔色を変えてエルナクハに飛びかかった。盾を奪い取り、籠手をむしり取り、袖をまくる。下から現れた腕は、衝撃で紫色に変色していた。  医療鞄から薬を取り出して応急処置にかかるアベイのまわりに、仲間達も集まり、心配げにギルドマスターの容態を見守った。  とはいっても、痛いには痛いのだろうが、本人は元気なものである。 「いやいや、うまくいったなー、オマエらみんな、お疲れさん!」  はっはっは、と朗らかに笑いながら、仲間達に労いの言葉を掛ける。そんな彼の前に、顔面を蒼白にした錬金術師が立った。 「義兄さん……」 「おう?」 「あの、腕……」  大丈夫ですか、とか、すみません、とか、そのような言葉を掛けようとしていたのだろうか、しかし、それは間違っている、と思い直したのか、フィプトはぺこりと頭を下げ、別の言葉を発した。 「助けてくれて、ありがとうございます」 「問題ねぇよ。これがパラディンってヤツだ」  エルナクハは、彼としては最上とも言える笑みを浮かべ、機嫌良く応じたのであった。  さて、どうにか角王の脅威を切り抜けた『ウルスラグナ』だったが、ミッションはまだ終わっていない。たった一人でもいるかもしれない生き残りを助けるか、その死体を確認するか、どちらかを果たさなければならない。  ふと、ティレンが何かを目ざとく見付けたか、仲間達から離れ、拾ってきた。 「なんか落ちてたから、拾ってみたけど、これ」  仲間達の前に差し出されたのは、ハイ・ラガード衛士が装備しているヘルムに間違いない。  ということは、捜している最後の衛士は、少なくともここまでは、生きて逃げ延びてきたのだ。 「では、この道の先にいるということに……?」  フィプトは逸るが、エルナクハの応急処置がまだ終わっていない今、一人で向かおうとするほど無謀ではなかった。  一方、斥候としてなら一人で動いてもどうにかなるナジクは、何かに気が付いたのだろうか、南の方に足を向ける。  東と南は樹が密集し、通れそうなところに身を滑らせても途中で行き詰まりそうに見えるのだが、レンジャーは器用に身を滑り込ませる。がさがさ、ぱきん、と、木立を処理する音が、仲間達の耳に届く。やがて、戻ってきたナジクは、全身に絡まった枝の破片や葉の欠片を払い落としながら、こともなげに告げた。 「いい抜け道ができた。あの忌々しい鹿に会わずに戻れそうだ」  ひゅう、とエルナクハが口笛を吹き鳴らして、ナジクの働きを褒めそやした。  冒険者達だけなら、アリアドネの糸で街に戻れるが、残念ながら衛士を連れ帰ることはできない。アリアドネの糸で帰るためには、帰る者達を無事に樹海入り口に戻せる磁軸の歪みを作る為に、微弱な電力を磁軸計から流すのだが、磁軸計に登録された人数分しか必要電力量は計算されない。簡単に言えば、衛士を街に帰したければ、誰か一人が帰れなくなってしまうのである。  つまり、衛士には徒歩で帰ってもらわなくてはならないのだが(たぶんアリアドネの糸や磁軸計は持っていないだろうから)、角王の縄張りを通らなくて済むなら、危険は激減するはずだ。  懸念の一つが消失し、幾分かの安堵を得て、エルナクハの応急処置を済ませた『ウルスラグナ』は、生き残りの衛士の探索を再開した。  その結末は、それまでの苦労や恐怖に比べれば、とてつもなくあっさりとしたものだった。踏み込んだ区域の奥に、がたがたと身体を丸めて震わせる衛士を見付けたのだ。ヘルムを失って露わになった顔立ちは、検死をした死体と同年代のものだった。フィプトが再び息を呑んだ。 「バイファー君……バイファー君じゃないか!?」 「ひ……ひゃっ!?」  衛士は、びっくんと大きく体を震わせ、この世の全てを拒絶するかのように、さらに身をすくませた。だが、虚ろだったその目に意志の光が不意に戻り、おずおずと冒険者達に顔を向ける。その瞳に、みるみるうちに涙があふれ、遠慮も憚りもなく草の上に降りかかった。 「フィプト……せんせえ……!?」 「ああ、間違いなく、ぼくだ。フィプト・オルロードだ。幻覚やら幽霊やらじゃあない」  アルケミストの口調は普段とは違っていたが、『ウルスラグナ』は誰も驚かない。それが、生徒に対する時の、さらに言うなら彼の本来の口調だというのを、すでに知っていたからだ。 「大公宮からの依頼で、きみ達衛士隊と連絡が付かないって話を聞いて、捜しに来たんだ」 「大公宮の? ……た、た、助かったのか……?」  かつて彼の生徒であったらしい衛士の青年は、あるいは恥も外聞もなく恩師に抱きつきたい気分だったかもしれない。が、今の自分が公国の衛士である、それ以前に男である、という自負が、感情をねじ伏せたのか、代わりに足下の土に指を立てながら、ぽつぽつと語り始めた。 「先生……俺達……選りすぐりの部隊だったはずなんです……。一般の冒険者を公募する前は、第二階層まで行ってました……まあ、魔物の強さに、さすがに逃げ帰ったんですけど。それでも、第一階層くらいなら、……そう簡単に、へたばらないはずだった。なのに……!」 「鹿の群、か」  横合いからエルナクハが口を出すのに、衛士は一瞬びくりと体を震わせたが、よくよく見て、その正体を知ったようだ。小さく「『ウルスラグナ』……」とつぶやくのが聞こえた。  衛士はこっくりとうなずくと、続きを口にした。 「はい、あの、ひときわでかい鹿が……! あいつと応戦している間にも、普段なら目の前にに踏み込まない限りは襲ってきやしない鹿どもも……! みんな、みんな……殺されちまった……隊長も、ネイジットも、シーシュも、マウダーも……!」  衛士が最後に出した名を耳にしたフィプトが顔を強ばらせたところを見ると、マウダーというのは、検死した衛士の名だったのか。 「あんなヤツ、前はいなかった! そりゃ、鹿どもだって、第一階層にいる他のヤツらよりは強いけど、あんなデカい鹿とか、デカいトカゲなんて、反則にも程がある! やっぱり『アイツ』が呼んでるのかな、『アイツ』のせいで、こんなことになっちまってるのかな……!」  衛士の言う『アイツ』という代名詞に、冒険者達は不穏な響きと興味を感じた。その『アイツ』とやらについて聞きたかったが、衛士は興奮しつつある。今、『アイツ』のことなど聞いたら、神経の糸が数十本まとめて切れてしまうのではあるまいか。  その件については後回しだ。まずは衛士を落ち着かせるために、と、エルナクハはフィプトを促した。アルケミストは頷くと、衛士の肩にそっと手を置いて、言い聞かせるように言葉を紡いだ。 「バイファー君、あのデカい鹿さえ避けられるなら、歩いて帰れるか?」 「え……あ、は、はい、なんとか」  衛士の青年は何度も頷いた後、はた、と何かに気が付いたようで、深々と頭を下げた。 「すみません、すみません、先生! おれのために、先生達まで、こんなところに……あの鹿が邪魔して出られないのに……」 「ぼく達なら、アリアドネの糸があるから大丈夫。でも……」 「なあ、あんた、バイファー、って言ったか?」とアベイが話に割り込んだ。「磁軸計持ってるなら、俺たち、糸を余分に持ってるから、分けてやれるけど」  糸を余分に持っているのは、先日、聖騎士フロースガルに教えてもらった、『リス』対策のためであった。それが意外なところで有効に役立ちそうだった。しかし、衛士は残念そうに首を振った。衛士達の磁軸計は、鹿との戦いでの混乱で失われたと見える。 「じゃあ、兄(にい)、歩いて帰るの、がんばって」  ティレンが朴訥な口調で、しかし、顔には大変に心配げな表情を見せて、励ましの言葉を掛ける。衛士は苦笑した。斧使いの少年の気持ちは受け取ったが、現実的にどうやって、という思いがそうさせたのだろう。  フィプトは、そんな教え子を安心させる言葉を口にした。 「鹿さえ避ければいいなら大丈夫だ。さっき、南の方で、抜け道が見つかった」 「ぬ……抜け道……?」  バイファーと呼ばれた青年は、きょとんとしながら言葉を反芻したが、やがて、力なく笑った。 「そ、そんなものが……それさえ見つかってたら、こんなところでずっと怯えてなくてもよかったのに……」 「仕方ない。そう簡単に見つかるような道ではなかった」素っ気なくも聞こえるかの言葉遣いで、ナジクが応じる。  このあたりは、やはり、衛士と冒険者の違いなのだろうか。公宮付の騎士や衛士は樹海に明るくない、と言った、ギルド長の言葉を思い出す。もっとも、国家機関で事足りるような探索なら、一般の冒険者達が公募されることもなかっただろうが。 「とにかく、早く帰るといい。大臣閣下が大層心配しておいでだ。それに母君も……」  フィプトが肩を叩いて渇を入れると、衛士はどうにか立ち上がって礼を述べた。 「あ……ありがとうございます。先生は……いや、皆さんは生命の恩人です! 俺にはたいした礼もできませんが……せめて、報告の時に皆さんのこともお伝えしておきます。どうか、皆さんも気を付けて!」  青年はぺこりと頭を下げると、ナジクから抜け道の詳細な位置を聞き出して、よろめく足どりで立ち去っていく。  彼の姿が完全に見えなくなった途端、フィプトがへたり込んだ。  他の冒険者はそんなことはしなかったが、彼の心境はよく判った。惨状を見て、恐るべき魔と対峙し、ようやく生き残りが見つかったのだ。衝撃と恐怖と安堵で神経が混乱してもおかしくない。正直言えば、自分達とて大分疲れた。 「……オレらも帰るか」  ぼそり、とエルナクハが口にするのに、アベイが何度も相づちを打つ。  ナジクがアリアドネの糸を起動させ、現れた磁軸の歪みに踏み込み、見慣れた樹海入り口に帰り着いた時、全員が例外なく溜息を吐いたのであった。  『ウルスラグナ』はその日のうちには大公宮への報告には上がらなかった。  生き残りの衛士が帰り着いて報告してから、自分達が報告をした方がいいだろう、と思ったのが一つの理由である。  別の理由は、単純に、疲れ果てていたから。  そして、さらなる理由がある。  世界樹の迷宮を離れ、街の広場に帰り着いた『ウルスラグナ』探索班一行は、街の入り口方面からやってくるひとつの人影を目にした。桃と藤の二色が織りなす東方の民族衣装をまとったその人影は、穏やかながら芯を秘めた眼差しを冒険者達に向け、悠然と歩を進めてくる。  その名を、冒険者達は口々に声に出した。 「焔華……?」  見間違いではない。その人影は、ブシドーのものだった。『ウルスラグナ』がハイ・ラガードに足を踏み入れてから間もなく、さらなる鍛錬のために街を離れていた少女、安堂焔華のものだったのだ。 「ただいま帰りましたえ」  冒険者達の目前までやってくると、焔華は笑みを浮かべ、まるでそこらの買い物から帰ってきたかの調子で挨拶をしたものである。  かくして、その日は予定が変わり、夜に鍛錬に出る予定だった者達もそれをとりやめ、ブシドーの少女の帰還をささやかに祝う宴と相成った。円卓――こういう時のために新調したのである――を囲み、食をつまみ、酒を嗜む。かの出来事との遭遇でささくれ立った心も、仲間の帰還と宴の楽しさで、みるみるうちに癒されていくように感じられたのだった。 「ねえ、ほのかちゃん。その靴……」  焔華の足下に気が付いたオルセルタが、意外そうに問うた。その声にようやく焔華の変化に気が付いた女性陣達も、次々に口を開く。 「あら、貴女がそのような履き物を履くとは、珍しいものですね」 「かっこいいブーツねぇん。でも、どういう心境の変化なのん?」 「ホノカちゃん、いつも草鞋履いてたのに、どうしたの?」  安堂焔華という、このブシドーは、エトリアでは、頑なに草鞋を手放そうとはしなかったのだ。それが今は、編み上げブーツをしっかりと履いている。それも、せっかくだからおしゃれしてみました、というものではない、冒険用のしっかりした造りのもので、かなり履きこなしているのは明らかであった。  ブシドーの少女は、にっこりと笑み、ブーツを見せびらかすように足をふらふらと振った。 「ブーツっていうんは、冒険とかするのに便利やねぇ。こんなことなら、エトリアでも履けばよかったん」 「それが、ブシドーの誇りを捨てて手に入れたもののひとつか?」 「そうですし」  エルナクハの問いに、焔華は機嫌良く応じる。 「まぁでも、こうしてみてわかりましたんけど、ブーツごときじゃブシドーの誇りは傷つきゃしませんえ。草鞋を履いて戦わなくてはならない、と思いこんでた、わちが、浅はかだったんですわ」  ブシドーの誇りに拘泥していた少女のささやかな変貌に、仲間達は軽い驚きを覚えた。 「じゃあ、実際に誇りを捨てて手に入れた『力』は、何だったんだよ?」 「そやねえ……」  焔華は小首を傾げる。「実際に見せるんがいいんやけど、やっぱり実戦でお見せするんが一番ですえ」 「じゃ、せっかくだから、明日、迷宮に行く」  朴訥とした口調でティレンが促した。ソードマンの少年に、焔華はしばらく目を向けていたが、 「そやね、わちも、せっかくだから迷宮に入りたいわ」  笑みを浮かべながら、同意するのであった。  かくして、翌日、すなわち皇帝ノ月十七日早朝、焔華を連れて迷宮に踏み込むことに決まった。とはいっても、これがハイ・ラガード樹海入り初めての焔華は、仲間のサポートなくして満足に戦うことは、まだできないだろう。というわけで守備をサポートするエルナクハと、治療役のアベイは、始めから同行が決まっているようなものだ。残るは二人。 「せっかくだから、マァル、来るか?」  と黒肌の聖騎士は従姉の吟遊詩人に声を掛ける。 「入り口付近をざっと歩くことになるから、オマエでもそんなに負担にならないだろ」 「あららぁ、エルナっちゃんも気を使ってくれるようになったのねぇ」  そんな従姉の物言いに突っ込みたいところもあったが、エルナクハは肩をすくめて受け流し、別の者に声を掛けようとする。  その時、からん、と、玄関のベルが音を立てた。私塾の管理人であるフィプトが立ち上がって応対に赴く。 「手紙かな?」  わくわくとした心を隠しきれない表情で、パラスが椅子から腰を浮かせるところに、センノルレが冷静に応じた。 「いえ、ラガードとエトリアの間の日数を考えると、まだでしょう」 「ああもう、わかっちゃいるんだけど、もぅ」  苦笑いしつつパラスが再び着席したその時、フィプトが戻ってきた。その表情が、宴の途中らしからぬ沈鬱なものとなっていることに気が付き、皆が静まる。フィプトは、気にするな、と言いたかったのか、笑おうとして――やはり失敗した。 「すみません、小生は、休ませて頂きます。明日の探索も、遠慮させて頂きたい」 「何かあった――ああいや、差し障りあるなら言わなくていい」  ギルドマスターの言葉に、無言で謝意を表しながら自室に戻ろうとしたフィプトは、やはり理由を述べておくべきかと思い至ったか、口を開いた。 「昔の教え子だったあの衛士の――まぁ、葬儀自体は近いうちに大公宮で合同でやるそうなんですが、彼の実家で、縁ある者達で集まって、ささやかに偲ぶ会をやろう、という話だったんです」 「そか。そりゃ――出てやるべきだな」  エルナクハは真剣な中にも人心を安心させる眼差しを浮かべた。 「オレらの神さんの話で何だがよ、エルナクハは――ああっと、オレじゃねぇぞ、オレの名前の元の、天空の女神さんのことだがな」 「女神、なんですか、義兄さんの名前は」 「女神だよ、悪かったな」  フィプトの驚きに苦笑で返し、エルナクハは話を続けた。 「エルナクハってのは天空を統べる戦女神なんだが、死者の魂を選定して自分の軍勢に加えるか、別の神さんのしもべにするか、修行不足だからって輪廻の環に戻すか、救いようがないから冥界に堕とすか、まぁそういうことを決める役があるんだよ。でもな」 「でも?」 「しもべにするヤツが、能力だけあったって性格に難があったらたまらねぇ。てわけで、葬式とかの時に故人の話を皆がするのに、エルナクハは部下を差し向けて聞き耳立ててやがる。だからよ、オレらは葬式のときに、よっぽどなヤツでもなきゃ、死んだヤツのことは悪く言わねぇ。よかったところばかりを話にして、間違っても悪い話が尾ひれ付いて伝わって冥界堕ちにならないようにしてやるのさ。だから、アンタもよ、明日はソイツのよかったところの思い出話、してやんなよ」  ま、宗教違うからアレかもしれないがよ、と話を締める。 「心遣い、ありがとうございます、義兄さん」  信じる神が違うとしても、人間の心の根本はそう違わない。フィプトはエルナクハなりの気遣いに感謝した。ふと、思い出したことを返したのは、何かしらの物事を学ぶものとしての興味がそうさせたのだろうか。 「しかし、似たような話は世界のあちこちにあるものですね。ハイ・ラガードにも、天の支配者が死者の魂を集めるという言い伝えがあるんですよ」 「そうなの?」と問うのはオルセルタ。 「ええ、我々ラガードの民は天空の城の民の末裔だと言いますが――天空の城には未だに神たる支配者が眷属と共に御座(おわ)し、勇者を求め、地上で死した者達の魂を天空の城に集めているそうです」 「はは、よく似てやがる」  エルナクハは笑いながらひらひらと手を振って、早く休めと言外に告げる。 「とにかくオレらにできるのは、死んだヤツに安寧がありますように、って願うくらいのものだからよ。今日は明日に備えてしっかり休んどけや」 「そうですね。では、お休みなさい」  私塾の主は、ぺこりと頭を下げて自室へと引き上げていく。  残された仲間達は、改めて乾杯を行った。乾杯、というより献杯だろうか。自分達なりに、ミッションで関わった衛士達の冥福を祈ったのである。 「そもそも『世界樹』であるからには、そういう伝承が定着してても、おかしくないよね」  緑なす樹海の中に、カースメーカーの少女の声が響いた。結局、焔華と同行する最後の仲間は、彼女に決まったのだった。一階に棲息する魔物くらいなら、今の『ウルスラグナ』なら、直接的な戦闘向きではない仲間達でもどうにかなるという見込みからである。焔華の戦闘技術を見るためには、他の者達は基本的にサポートに徹するのがいいだろう、と。 「なんで『世界樹』なら、なんし?」  という本日の主役の言葉に、パラスは隣を歩くアベイと顔を見合わせた。 「なんでって、ねー」 「なぁ」 「おいおい、伝承者なマァルと同意するならわかるけど、なんでユースケなんだよ」 「おいおい、って、そりゃこっちのセリフ」  ギルドマスターの言葉に、メディックの青年は肩をすくめて答えた。 「俺だって、『世界樹』の伝説くらいは思い出してる。母ちゃんが寝物語によく聞かせてくれてたからな」  アベイは遠くを――距離的ではなく時間的に――見るような目で言葉を紡いだ。せいぜい十年か二十年か前のことを思い出しているように見えるし、本人もそのつもりだろう。だが、実際に彼が思い出しているのは、数千年も昔と目される、気の遠くなるような過去、前時代の物語なのだ。 「ほら、所長先せ――ヴィズルが、言ってたじゃないか。『古い神話の巨木の如く、汚れはじめた大地を支えるという意味をこめて』、前時代の計画は『世界樹計画』って名付けられたって」 「ああ――そういや、そうだったけか」  エルナクハは、エトリアの長のことを思い出した。前時代から生き続けていた研究者、世界樹の化身となってしまった男のことを。  エルナクハ、オルセルタ、ナジク、アベイ、パラスの五人は、エトリア樹海の深層へ辿り着いたとき、そこでヴィズルの言葉を直接聞いたのだ。街のことを憂う人間の意志と、世界樹の迷宮の謎を暴こうとした『ウルスラグナ』を危険視する世界樹の意志とが、ない交ぜになり、一致した末の、死刑宣告を。 「俺さ、母ちゃんに『世界樹』って何? って聞いた記憶がある。その時に母ちゃんが聞かせてくれた話と、この迷宮の上にいる神様とやらの話が、よく似てる。ついでに言うなら、ナック達の一族の戦女神の話ともな」  簡潔にアベイが語ってくれたところによると、彼が母から聞いた話に出てくる『世界樹』の話には、勇者を選定し、それを自らの膝元に招くために死の運命を与え、しもべである翼持つ者達に魂を導かせる、そんな神が出てきたらしい。 「オーディン、だよね。で、側近にフレイって豊穣の女神が――」 「あれ? フレイって男神だろ?」 「――ってねぇ、ホントに昔の話だから、もうごちゃごちゃになっちゃって、アタシのような吟遊詩人には、収拾がつかなくなっちゃってるのよん」 「はは、なるほどなぁ」  余談だが、パラスの出自であるカースメーカーの一族『ナギ・クース』には、『力』を持つ子供に、古い伝説に伝わる神や神域の名を付ける風習があるという。逆に言えば、彼らの間には、『外』の世界では出自も忘れられた古い神々のことも、ある程度は伝えられているということなのだろう。が、それでさえ、さらに正確に伝わっていたであろう頃から見れば、変質してしまっているようである。ついでに述べるなら、パラスの本名『パラサテナ』は、前時代よりさらに古い時代の、知識の女神にして戦女神の名らしい。  今の世界にある宗教や神話も、古のそれがないまぜになった中から生まれたものなのかもしれない。  ならば、細い糸で繋がれた共通点があっても、おかしくはない。  ハイ・ラガードの言い伝えや、女神エルナクハの神話は、等しく『オーディン』とやらの神話を根として生まれているのかもしれないのだ。 「だがよ、似てるったって、あんまり一緒にしてほしくない気もするなぁ」とエルナクハは少しだけ不満を抱いた。 「オレらの女神さんは、膝元に欲しいからって人間をぽんぽん殺したりしねぇよ。それを人殺しみたいに言われたら嫌になるだろうよ。ハイ・ラガードの天の城の神さんも、たぶん同じ思い――あ、いや……」  不意に眉根をひそめ、聖騎士は治療師の青年に話を振った。 「なぁどう思うよユースケ。もしも、ラガードの民が本当に天の城から下りてきた連中の末裔だとしたら……そこに残ってる神さんは、神じゃなくて……」 「ヴィズルみたいな、前時代人じゃないか、っていうのか?」  さすがにアベイも押し黙り、考え込んだ。  その可能性は高いといえば高い。かつてヴィズルは自らを「前時代の唯一の生き残り」と称していたが、それにも、アベイという想定外がいたのだから。  もちろん、それも、『空飛ぶ城』の実在が前提になるわけだが。  ところで、彼らがこんな話を呑気にしていられるのは、一階だからという余裕ではなく、単に入り口付近を通過している途中だからである。衛士が交代で警備する入り口付近には、獣避けの仕掛けが施されており、そこらの魔物が侵入してきたりはしない。  その安全地帯を抜けた途端、焔華の目つきが変わった。もはや危険のただ中にある、ということを、全身で感じ取ったのだ。  他の冒険者達も、焔華ほどではないが、態度を改め、軽口は続けながらも油断なく周囲の気配を感知しようと努める。  世界樹の迷宮に住まう生き物のうち、人間を襲うほど凶暴な者達は、彼我の戦力差に頓着しない。仮に、『ウルスラグナ』が竜すら一撃で屠る者であったとしても、だ。道の脇の草むらが、がさがさと音を立てたかと思うが早いか、何かがエルナクハめがけて突っ込んでくる。それを盾でいなし、聖騎士は隣のブシドーの娘を煽った。 「ほら、敵のお出ましだ。オマエの新たな力、見せてみろ!」 「はいな!」  エルナクハにかすり傷すら付けられなかった『それ』は、針ネズミである正体を露わにし、全身の毛を逆立てて冒険者達を威嚇する。  焔華は瞳の中に硬質の光を宿して敵を見据えたまま、ブシドー特有の武器である刀を、すらりと抜いた。柄を両手で握り、振り上げて構えるのは、彼女が得意とする、『上段の構え』と名付けられた、攻撃力主体の鬼炎の相。  ――のはずだったが。 「構え……ない!?」  冒険者達は軽い驚きを覚えた。ブシドー達は、その真髄を発揮しようとする時には、必ず『構え』を取るはずだった。緩やかな舞のような完成された『形』で刀を構え、息を止めて集中した後、静から動へ一瞬にして切り替わるその刃は、凄まじい力で敵を圧するものだった。反面、さほど強くない敵と対峙している時は、構えて集中している間に戦闘が終わってしまう、という笑い話もあったが。  それが、今の焔華の動きには『静』がない。刀を振り上げた次の瞬間には、魔物の懐に滑り込む。突き出された爪にその身を深く切り裂かれるも怯まず、お返しとばかりに 鋭い刃を振り下ろした。針ネズミは悲鳴すら上げる間もなく切り捨てられ、力なく世界樹の大地に転がるのだった。  刀を振って簡単に血糊を落とした焔華は、仲間達を振り返ると、花のように笑んだ。 「どうですかえ? これで、わちも皆の足を引っ張ることなく戦うことができるんし。『構え』に時間を取られんで、すぐさま敵陣の奥に切り込むことができますえ」 「それが、オマエが捨てた『ブシドーの誇り』か」 「そうですし」  誰よりも先に駆け付けたアベイの手当を受けながら、焔華は目を細める。 「『正統な』ブシドーの剣術はね、精神修養の延長にありますの。だから、一挙一足という『形』を大事にして――その結果のひとつが『構え』なんし。それを省くのは、つまりは『心』をないがしろにすることだ、と、同胞は憤るかもしれんけど――わちは、もう迷いませんえ。そのくらいを捨てたくらいで失われる心など、持ち合わせちゃおりません」 「そか」  ギルドリーダは満足げに笑んだ。彼女の伝統だの誇りだのは、彼女自身が納得すればいい話だが、『構え』を省くことで即応力を増したブシドーの剣技は、充分に心強い。だが、エルナクハはすぐに顔を曇らせた。別の懸念が残っているからだ。 「『身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ』とか『肉を切らせて骨を断つ』……だっけか、オマエらブシドーの教えは」 「そうなんし」 「『伝統』を護ってても『革新』を重ねてても、そこだけは変わんねぇんだな、オマエら……」  だからこそブシドーなんだろうけどな、とつぶやきつつも、ある意味でブシドーとは正反対の理念を持つパラディンは、深く深く、普段の豪快さからは信じられないほど深く、溜息を吐いたのであった。  己が身の危険も顧みずに、敵の懐深く踏み込む戦闘スタイル。それがブシドーの特徴。  そこさえも変えろというのは、それは、もう、手っ取り早くソードマンに転職しろ、と宣するに等しいだろうから。  そういう意味では、やはり焔華は、高らかなる誇りを捨て切れぬブシドーなのだ。  その後の数回の戦闘を経て、焔華の修行の成果のお披露目を充分に堪能した『ウルスラグナ』探索班は、樹海を出たその足で、大公宮へと赴いた。昨日のうちに果たしたミッションの報告をするためである。  長柄武器を携える衛士に見送られ、門を潜った時、冒険者達はその耳に、かすかな歌声を捉えた。どうやら鎮魂歌のようであった。例の衛士隊の魂を慰めるべく、公宮付の聖歌隊が神殿で歌っているのだろう。エトリアでも、樹海探索の最中に斃れた兵士のための葬儀や鎮魂が行われることがあり、執政院の敷地内で祈りの文句や歌を聞くことがあった。それにいちいち反応する余裕は冒険者にはないし、その義理も義務もない。  だが、やはり昨日の光景は凄惨に過ぎた。脳裏にちらつくその光景に、何かしらのけりを付けたくて、エルナクハは立ち止まる。胸の前で交差させた両腕、両肩に触れる指先、閉ざされた瞳。伏せた顔は地を礼賛するかのように――否、彼の母神は大地の女神、地を礼賛するは当然か。 「母なる地の女神(バルテム)よ、勇猛なるいと高き翼(エルナクハ)よ、慈悲深きいと遠き海原(オルセルタ)よ。彼の者らの魂に相応しき導きを。安寧の眠り、新たなる戦場、再びの旅立ち、彼らの望む道が開かれるように」  一通りの祈りの言葉を唱え終えて顔を上げれば、立ち止まって待つ仲間達の顔がある。エルナクハは照れを隠すように肩をすくめた。 「待たせたな。さ、とっとと行こうぜ」 「……エルナクハどの、ぬしさん、案外と信心深いのんしね」  一同の内心を代弁する形で焔華がつぶやく。その『一同』には含まれていなさそうな顔をするマルメリが、従弟の代わりに皆の疑問を解消しようとした。 「まあ、エルナっちゃん家(ち)は神官の家系だからねぇ。いずれはエルナっちゃんかオルタちゃんが跡を継ぐはずよぉ」 「マジ!?」  意外だ初耳だ、と言わんばかりに、アベイとパラスが顔を見合わせる。事実、初耳なのである。  エルナクハは苦笑した。 「うるせー。オルタが勝手に村を出て行っちまったからよ、結局はオレがいろいろ覚えなきゃいけなかったんだ」 「……あれ? そんなナックが村を出てきちまってよかったのか?」 「あー、父ちゃんがよ、自分が現役の間は許してやるから好きにしろ、って言ってくれたんでよ」  そう語る聖騎士の表情から読みとるに、権利を勝ち取るまでには相当の拳の雨をくぐり抜ける必要があったと推察される。  さておき、今はミッションの報告をしなくてはならない。一同は侍従長に大臣への目通りを申請し、案内されて謁見の間にやってきた。  昨日は心細げに杖で掌を叩いていた大臣だが、この日は常日頃のような落ち着いた雰囲気を取り戻していた。どのような形であれ、懸案事項が解決を見たからであろう。『ウルスラグナ』の姿を確認すると、おお、と歓喜の声を上げ、杖をつきながらいそいそと近付いてくる。そんな大臣を制して、『ウルスラグナ』は自分達から大臣の方に寄った。 「ご苦労であった。話は衛士から聞いておるぞ」  皺だらけの手が、エルナクハの黒い手を取る。 「よくぞ、よくぞ、無事助けてくれた!」  エルナクハは、いつもの黒い騎士ならぬ静かな笑みを浮かべた。 「ああ、でも悪ぃな、何でも屋大臣サンよ。全員は、無理だった」 「……そなたらが気に病むことではない。最大限のことをしてくれたのだから。責められるべきは、彼らを死地に送り込んだこの老骨の方じゃ」  エルナクハの手を放した大臣が、自らの手を軽く打ち鳴らすと、すっきりとした上品なメイド服に身を包んだ女性が、銀の盆に革袋を載せて携え、謁見室に入ってきた。近くまで来たメイドの盆の上から革袋を取り上げると、大臣はそれを『ウルスラグナ』に差し出す。 「まずは、こちらを受け取られよ。ミッションを完遂してくれた報酬、衛士を助けてくれた礼じゃ」 「感謝」  ギルドマスターは、ラガード硬貨が詰まっているとおぼしき袋を素直に受け取った。全て銀貨だと換算して、五百エンほどになるだろうか。五十エン金貨で換算するならもっと高額だろうが、そこまでは入っていないだろうし、庶民に金貨は使いづらい。  余談だが、一エン以下の単位は『セン』であり、庶民の間では、エン銀貨とセン銅貨が主に使われる硬貨である。 「大臣殿、ひとつ訊かせていただけませんかえ?」  報酬の贈与が済んだ後、一歩進み出て切り出したのは、焔華である。大臣は、おや、と言いたげな眼差しで娘を見た。 「そなたは……『ウルスラグナ』の一員か? 始めて見る顔のような気がするが……すまぬのう、歳のせいか忘れっぽくなっておるのでの、もしそうでなかったら、お許し願えまいか」 「問題ございませんえ。わちは、今まで修行に出ておりまして、ハイ・ラガードにはおりませんでしたし」 「おお、そうか、お初にお目にかかる、『ウルスラグナ』のブシドーどの」 「安堂焔華と申しますえ。なにとぞ、よしなに」  一通りの挨拶が済んだ後、焔華は大臣に『訊きたいこと』を質問する。それは『ウルスラグナ』の全員が問い質したいと思っていたことでもあった。  つまり、衛士が危険を冒して調査していたものは、なんだったのか。  ギルド長も、助けた衛士も言っていた。現在の樹海の魔物は、かつてよりも活発で、数も増えてきていると。  それに、助けた衛士が叫んだ言葉が気になる。  角王のような魔物は、やっぱり『アイツ』が呼んでいるのか、と。  そのような疑問を隠すことなくぶつけると、大臣は、うむ、と重々しく頷いた。 「その件は、そなたらが救ってくれた衛士から報告を受けておる。彼らはその件を調べることも兼ねて樹海に入り、魔物に倒されたというのじゃ。その報告によれば……」  『ウルスラグナ』一同が固唾を呑んで言葉に耳を傾ける前で、大臣は、腹の底から湧き出したかのような力を言葉に込め、続けるのだった。 「最近の第一階層での多くの魔物の出現。それらは全て、一匹の魔物の仕業らしいのじゃ!」  ――それから五日程が過ぎる。  衛士達の大量虐殺事件が最初からなかったかのように、樹海は日常を取り戻していた。否、それはいささか現実を見ていない表現だというべきか。衛士達の事件は、あくまでも、少数の冒険者が多数の衛士に置き換わっただけであり、その程度のことは、樹海のどこかでいつも起きているのだ。そういう意味では、あの事件も『日常』には違いない。  そんなある日、『ウルスラグナ』探索班一同は、一階にいた。  彼らはすでに四階に足を踏み入れ、その地に巣くう魔物達に苦戦しつつも生き延びている身ではあったが、敢えて一階にいるのには理由がある。  鋼の棘魚亭で引き受けた依頼で、ある魔物を退治するためである。  『ウルスラグナ』が樹海に踏み込んだ頃からすでに、『そいつ』はその場にいた。  衛士達の支配下にあり、獣避けのカラクリのおかげで魔物が近寄らない入り口付近。その北側には抜け道があり、大きな広場に通じている。そこには、巨大な青いトカゲのような魔物がうずくまっていたのだった。  別の場所には、そいつに出会った先達が置いたものか、『広場の魔物には手を出すな』という警告の立て札も置いてあった。その立て札は、推測だが、設置されて数ヶ月も経っていないだろう。逆に言えば、その数ヶ月、魔物は現在地にいたとも言える。  そいつは眠っているようだった。一行がかなり近付いても、起きる気配を見せなかった。よくよく見ると、その身にはあちらこちらに深い傷が穿たれていた。魔物はその傷を癒すためにじっとしているのだと思われる。  傷ついてなお、そいつが牙を剥けば、ハイ・ラガード樹海に踏み込んだばかりの自分達は、ひとたまりもないだろう。『ウルスラグナ』は、警告の看板を見た中でも利口な者達が行ったであろう行動に従うことにした。つまりは、その魔物を無視して樹海探索に戻ったのだった。  ところが、ここ最近、その魔物が目を覚ましたという。周辺を歩き回り、彼の魔物が眠っていた時と同様に気軽に広場に踏み込む者達を、誰彼はばかりなく襲い、喰らっているらしい。幸い、人間の被害は聞き及んでいないが、共にいた犬を喰われたとか、別の魔物を喰っているのを見たとか、そういう報告は枚挙に暇がない。 「……というわけで、いつ人間サマが犠牲になるか、わかったもんじゃねぇ。迷惑だからどうにかしてくれ、ってことで、依頼になったわけだ。ま、あの程度のヤツにやられるんじゃ、空飛ぶ城なんか夢のまた夢、ってか?」  エルナクハを何十年か年を食わせたような性格の、酒場の親父は、そのようなことを言って『ウルスラグナ』を焚き付けた。  『あの程度のヤツ』を倒せる奴がいないから依頼になったんだろう、と取ることもできなくはないが、親父の言葉は正論ではある。 「第一階層に魔物が増え、あまりにも場違いな強力な魔物も出現しているのは――五階に住み着いた、百獣の王『キマイラ』の仕業らしいのじゃ!」  そんな、大臣の言葉も思い起こす。  キマイラとやらいう魔物の咆哮が、上の階層の魔物を引き寄せているらしい。  それが、以前からいた魔物を圧迫し、それらがさらに下の階層に逃げ、結果として、それまでの棲息分布の乱れと、相対的な個体数の増加を促しているのだろう――というのは、話を訊いた錬金術師センノルレの分析である。  現状を重く見た大公宮は、キマイラ討伐をミッションとして布令することに決めた。キマイラが滅せられれば、これ以上、魔物が引き寄せられることもないだろう、と。  『ウルスラグナ』は、そのミッションを受領したのであった。  それが今、なぜ別の依頼を受けているのかといえば、いわば前哨戦(ちからだめし)のようなものである。  これもまた推測に過ぎないのだが、一階で眠っていた巨大なトカゲは、キマイラと争った末に敗北し、命からがらここまで逃げてきて、癒しの眠りを享受していたのではないだろうか。もしそうだとするならば、この魔物をねじ伏せられないようでは、天空の城はおろか、キマイラ退治さえも、夢のまた夢。 「準備はいいか、オマエら」  エルナクハは後方に控える仲間達に声を掛ける。キマイラ討伐を念頭に置き、主軸として鍛えるつもりの面子だった。自分を含め、ティレン、アベイ、そして、ナジクとパラス。もっとも、アベイはともかく、自分を含めた他の仲間達は、計画次第では適宜入れ替える予定だ。  目の前に立ちはだかり、涎を垂らして冒険者を睥睨するのは、巨大な青いトカゲ。その大きさは優に冒険者達の倍に近い。入国試験の時に命からがら逃げ出したクローラーも、縦に伸びれば大きいが、あの魔物は今の『ウルスラグナ』の敵ではなく、その大きさももはや脅威には見えない。だが、目の前のトカゲは今この瞬間の脅威だ。肌が相手の強さを察してぴりぴりと痛んだ。  その太い足と大きな顎、反して小さすぎる手は、その魔物が、本来は、驚異的な脚力で獲物を追いつめ、顎で喰らう、という補食法を取ることを推測させる。目の前の個体は、まだ傷が完全に癒えていないのだろう、動きがぎこちないが、本調子を取り戻した際には、恐るべき襲撃者となるだろう。 「さしずめ、コイツは、『手負いの襲撃者』ってとこだな」  倒すなら今だ。手負いのところを突くのは気が引けなくもないが、戦人でもない者達に被害が出るのも時間の問題、放っておくわけにもいかないだろう。 「さぁ、行くぜ!」  エルナクハが剣を敵に突きつけるのと同時に、冒険者達は散開した。  アベイとパラスはエルナクハの真後ろ、離れた場所に留まる。鈴の音と呪が響く中、ナジクは、わざと『襲撃者』の傍をかすめるように動く。それに気取られた『襲撃者』が首を伸ばし、金色に流れる髪を目標にして牙を剥く。  だが、その間に割って入ったのは、鴇色を帯びた鈍い輝きを放つ鎧に身を包んだ、赤毛の少年である。その幼さの濃く残る顔立ちからはとても想像できない膂力で、斧を突き出す。ちなみにこの斧は、『チュイロバァー』という聞き慣れない名の、普通の斧の刃が柄の平行方向に細長くなったような形をしている、両刃の武器だった。刃の両端が鋭角となったその形は『突き』に使うこともでき、使いようによっては期待以上の攻撃力を発揮する。  赤毛の斧使いティレンは、自分に迫りくる凶悪な牙を躱し、大きく開いた口内を、斧の先端で突いた。  そこらの一般人では聞いただけで心の臓を凍らせてしまいそうな、禍々しい咆哮がこだまする。 「最初の一撃」  声だけでは喜んでいないようにも聞こえる、朴訥な言葉で、ティレンは自分の初太刀を誇った。もちろん、驕ってはいない。ただ、次の展開は、その場にいた全員の想像をちょっとだけ超えていた、それだけのことだ。  ティレンの初撃を無防備な場所に喰らった『襲撃者』は、仰け反って悶えていたが、お返しとばかりに、再び噛みついてきたのだ。ティレンは身を翻し、鎧の厚いところを晒すことで、痛手を最小限に抑える。振りかざされたチュイロバァーの刃を避けて『襲撃者』が離れた時、ティレンはしっかりと足で大地を踏みにじっていた――だが、よく見ると、小刻みに振るえている。 「ティレン!」 「あ……あ……」  様子から見ると毒ではない。いや、ある意味では毒とも言えるが、少なくとも生命を直接削る類ではない。 「麻痺か!」  エルナクハは自分達を睥睨する『襲撃者』を睨み付けた。  かの魔物の牙には強力な麻痺毒が備わっていたのだ。ティレンが噛みつかれた時、身をひねったとはいえ多少は牙もかすり、麻痺毒が身体に入り込んだのだろう。 「ユースケ、薬!」 「ああ!」  ギルドマスターの要請に、メディックが鞄をあさる。  麻痺毒は直接的に命に関わるものではない。全く動けないわけではないし、放っておいても消える。だが、今は強敵との戦闘中。期待できる手数が減れば、最悪、パーティ全体の存亡に関わる。  アベイは万能薬テリアカβを探し出し、エルナクハの援護を受けて前線から退くティレンに近付いた。 「ほら、飲め」 「苦いの、や」 「や、じゃないって。ハチミツ混ぜてあるから飲め」 「ん」  ティレンが薬を飲む間、エルナクハは盾を携えて攻撃を防いでいた。一旦、冒険者達から離れていた『襲撃者』は、ナジクが雨霰と降らせる矢の猛襲をくぐり抜け、再び牙を剥いて襲ってきたのだ。凄まじい音と共に盾に傷が刻まれる。それはパラディンが仲間を護ったという証、いかな金銀を連ねた勲章よりも明らかたる真の誉れ。しかし現実問題として、削れた盾はそれだけ弱くなるのも確か。ついに盾の上半分が砕けて飛んだ。 「やっべ! こいつぁシトトで買い直――ぐあ!」  パラディンは悲鳴を上げた。『襲撃者』の牙が喉元に食い込んだのだ。もちろん、鎧のおかげで、牙は皮一枚を傷つけた程度。が、鎧の上からの圧迫は容易に肉を痛めるし、皮膚に少しでも食い込んだ牙からは麻痺毒が流れ込む。 「この!」  脇からティレンが放つ渾身の一撃に、『襲撃者』は傷を負い、怯んで一時撤退する。  四肢に痺れが走り、力が入らなくなって、エルナクハは膝を突きかけた。辛うじて自分の身体に自分自身が主であることを思い出させ、踏みとどまったが、全身に走る痺れは、いつ再びエルナクハから身体の支配権を奪い取るか。 「ユースケ、オレにもハチミツ入りのテリアカβ」 「悪い、そりゃダメだ!」  エルナクハの要求に、無情にもアベイは首を振る。だが、決して薄情や無慈悲で突き放しているのではない。それは、ティレンの様子からも、なにより自分自身の体の調子からも、明らかであった。魔物の攻撃は、麻痺より先に、肉体そのものを強く痛めつけるのだ。そちらの治療も行わなくてはならない。  戦うのが早すぎた、というほどではない。が、判断を誤れば簡単に全滅するだろう。  アベイはティレンの手当に余念がない。エルナクハはアベイの鞄に無造作に手を突っ込み、テリアカβを手早く取り出して開け、飲み干した。余談だが、薬品のビンは、それぞれに特徴的な凹凸が付けられており、手探りでも手早く取り出せるようになっている。  魔物はまたも駆け寄ってくる。ナジクが放つ矢を全身に突き立てながら。そのうちの何本かはティレンが付けた傷口をえぐっている。それでもなお魔物の攻撃本能は衰えず、エルナクハめがけて牙を剥いた。  壊れかけた盾を構えて衝撃に備える。これでもないよりはマシだ。完全に壊れたら、次は自分の肉体を盾にしなくてはならないか。それ以前に逃げの一手を打つことになるだろうが。 ちりん。 「――アナタのアゴは閉じられない。無理して大きな口開けてるからよ。ほら、関節はずれちゃって、閉じたくても無理でしょ?」  澄んだ鈴の音と共に、少女の声がこだまする。嘲るような口調で、見下すような視線で、『襲撃者』を罵倒する。彼女がそこらの冒険者なら、単に強がっているだけとも思えただろうが、そうではない。彼女はカースメーカー、『狂乱の魔女』として高名な呪い師を擁する一族『ナギ・クース』の裔(すえ)なのだ。その言葉と呪鈴の音が浸透すれば、そこらの者は、言葉通りの顛末を迎えるしかない。  『襲撃者』は彼女が嘲ったとおり、エルナクハを噛み砕こうとした口を、だらりと開けていた。閉じたくても閉じられないらしい。喉奥から情けないうなり声を上げ、それてせもエルナクハに肉薄するが、閉じない口はただの穴だ。やがて、牙に頼る攻撃は諦めたか、ティレンの振る斧の刃を避けて、一度離れていく。 「遅ぇぞ、パラス!」 「なかなか効かないんだもん!」  パラディンはカースメーカーに文句を言ったが、もちろん本気ではない。彼女は戦闘開始直後に、敵の攻撃の威力を下げる呪を唱えている。いかなる相手にも確実に効果を示すその『力祓い』を済ませた後も、間断なく鈴を振り、『封の呪言:頭首』を掛けるきっかけを何としてでも作ろうとしていたのは、ちゃんとわかっている。 「ははッ、けどよくやった、ナギ・クード・パラサテナ!」  少女を褒めそやすと、エルナクハは盾で魔物の突進に備えた。麻痺を呼ぶ牙は当分使えないが、相手にはまだ突進力という大きな武器がある。体格に比べれば小さな腕も、その先にある鋭い爪の存在を考えれば、侮れない。そして、呪言とて永遠に効くわけではない。  けれど、今が攻め時なのは間違いない。ギルドマスターは、剣で遠き敵を勢いよく指し示し、鬨の声を高らかに上げた。 「全力出せ、オマエら! 押しまくるぞ!」  ……少しの後、膝突くことなく地に立ち、勝利の凱歌を上げたのは、冒険者達であった。  手負いとはいえ、現状での目標と互角に近い戦いをした魔物を、下すことができたのだ。  ところが。  この二日後に『ウルスラグナ』は、四階に縄張りを占めて彷徨する、手負いでない方の『襲撃者』に挑んだのだが。 「げ……元気なヤツぁ、やっぱ強ぇ!」  まだ敵わないことを悟って、早々に退散することとなった。  彼らの判断は正しい。生きていれば再戦もできようが、ここで無理して死ねば、そこで終わりなのである。  やがて、ハイ・ラガードのカレンダーが、壁掛けにしろ据え置きにしろ等しくめくられ、月の名が変わる時がやってきた。  月の名を『笛鼠』という。  ハイ・ラガード歴は、(ハイ・ラガード伝来の)一年のはじめである『皇帝』と、最後の一日である『鬼乎ノ一日』を除けば、全てに動物の名が入る。アベイが言うには、その並びは、『十二支』とかいう、前時代にあった年数えの単位と同じらしい。 「ね、うし、とら、う、たつ、み、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、い――ってヤツだな」 「で、なんで動物の名前で数えるんだよ、ユースケよ」 「そこまで俺が知るか」  古来からの因習が、数千年の時を経て、こんなところにも伝わっているという証左ではある。  さておき、新たなる月のはじまりにあたって、エルナクハは、ギルドマスターとしてひとつの宣言を行った。 「今日からしばらく、『夜の部』中止な」 「えー」  『ウルスラグナ』は人数が多いギルドであるから、朝に樹海に入る『昼の部』と、主に別のメンバーが夜に樹海に入る『夜の部』とで、一日二度、探索を行っていた。といっても『夜の部』は、探索というより、鍛錬を目的としている割合が多い。  一日二度探索を行うということは、消耗した心身を宿で癒す回数も二度になるわけだ。その分、経費がかさむ。ここまではなんとかやりくりしてきたが、自分達も強くなり、上階に踏み込むと同時に、高度な治癒の世話になることになる。キマイラ退治に備えて強い武具や道具のために金を使いたいところでもある。かなり苦渋の決断だった。  ところが、その宣言は、数日後にはあっさりと撤回されることになった。  金銭的な問題の解決の目処が立ったのである。 「よう」  世界樹から帰還し、街の中央広場に差し掛かった『ウルスラグナ』探索班に、朗らかに声を掛ける者がいた。  エルナクハは、思わずぎろりと視線を向ける。声の主に含みがあったわけではないのだが、心が微妙に荒れていたのだ。  この日、『ウルスラグナ』の対キマイラ討伐班(暫定)は、己の力を試すために、角鹿に挑んだ。さすがに『王』には未だ敵わないと思ったので、二階付近にも縄張りを占める、普通の鹿である。彼の魔物に、手負いの襲撃者を倒したメンバーのうち、パラスをフィプトに変えた面子で挑んだのだった。  ところが結果は散々だった。角鹿のステップには聞いた者の思考を混乱させる力があり、それにティレンが引っかかってしまったのだ。ティレンは後列に向き直り、いつもは敵に振るわれる頼もしいその戦技を味方に向けてしまった。ナジクが無理矢理テリアカβを飲ませた時には、アベイとフィプトが地に伏していた。  我に返ったティレンが泣きそうなのを、エルナクハは叱咤して戦いに向き直らせた。鹿の方も、冒険者の攻撃で今にも足を折りそうだったからだ。  どうにか鹿を始末することはできたが、こんな状況ではまだまだキマイラには敵うまい。エルナクハとしては頭が痛いところだったのである。  それが若干の不機嫌の原因だったのだが(念のために述べるならば、その感情は味方には決して向いていない)、自分に声を掛けてきた者が誰かを認識した途端、そんな憂いは世界の果てに吹き飛んでしまった。 「ゼグタント……ゼグタントじゃねぇか!?」  すっかりと機嫌を直した声と、広げた諸手で、目の前にいる者の来訪を歓迎する。  『ウルスラグナ』に声を掛けてきた者――濃い緑髪の青年は、レンジャーである。  褐色の瞳と、右頬に傷を持つ、彼のその名を、ゼグタント・アヴェスターという。  彼との出会いはエトリア樹海探索時に遡る。ゼグタントは特定のギルドに所属していないフリーランスだったが、望まれれば報酬と引き替えにギルドに手を貸していた。『ウルスラグナ』も、そのライバルギルドである『エリクシール』も、彼の力添えを望んだことが幾度もある。  彼は、採集スキルに特化した能力を得ている者だったのである。  そんな彼がハイ・ラガードにいるということは――つまり、以前エルナクハが望んだ『優秀な採集専門レンジャー』を、エトリア正聖騎士であるパラスのはとこが、確かに手配してくれだのだ。 「よく来てくれた、よく来てくれたなぁ、おい!」 「はっはっは、エルナクハの旦那も、元気そうで何よりだ」  黒く逞しい腕で肩をばんばんと叩かれ、飄々とした顔をしたレンジャーも、嬉しさと、ちょっとした痛みに、顔を歪めた。  その日の夜もまた、エトリアからはるばるやってきてくれた知己のために、歓迎の宴が開かれることとなった。  家主のフィプトにとっては初めて見る顔だったが、もちろん金髪のアルケミストは嫌な顔などしない。自らは後から入ったとはいえ所属しているギルドの知り合い、待ち望んだ賓客なのだ。エトリア時代から『ウルスラグナ』だった者達の反応は言わずともがな。  殊に喜んだのはパラスだった。もっとも彼女が喜んだのは、知人の来訪以上に、別の理由があるのだが。 「はいはい、話は後でしてやるよ。とりあえず、こいつをくれてやる」  とゼグタントが荷物の中から出したのは、一通の封書である。封筒の裏側には、差出人として、エトリアの聖騎士の名がある。はとこからの手紙を受け取ったカースメーカーは、王宮の舞踏会に招待された貴族の娘よろしく表情を輝かせた。 「パラス、気持ちはわかりますが読むのは後になさい」 「はぁい」  センノルレにたしなめられ、パラスは舌をちょっこり出しながら首をすくめるのだった。  円卓の上に並べられた料理を目にして、ゼグタントは、ひゅう、と口笛を吹き鳴らす。 「北国だと採れる作物にも制限があると思ってたんだが……やっぱり、世界樹様々ってワケかね?」 「そうですね、世界樹様々ですよ」  フィプトはにこやかに応じる。世界樹の力のためか、ハイ・ラガードの近くでは作物が比較的育ちやすいのも確かだが、加えて、探索のついでに採ってきたものもある。遠い南方にしか存在しないような植物も、わずかながら生息していたりして、珍しい果物も採れたりする。第一階層に限って言えば、発見されてからずっと夏の気候のままだという。寒気に弱い南方の植物も育つことがあるわけだ。  乾杯を交わして食事に入った後も、自然、話は世界樹に関わることに収束する。 「低層をさらっただけでもこれだけ豊富なんです。全てを探索したら、恩恵はどれほどになるんでしょうね」 「少なくとも、辺境の街が、自治都市群有数の地位に上り詰めるだけの恵みはあらぁな」  エトリアの顛末を直に知らない金髪のアルケミストの言葉に、緑髪のレンジャーは素直に答えた。 「だがまぁ、その恵みがどこまで続くかは、誰にもわからねぇ。ハイ・ラガードの皆さんも気を付けるこったな」 「どこまで続くかは、わからない、ですか……」  ゼグタントの言葉は、自然枯渇か乱獲による枯渇か、そのあたりだけを指しているように聞こえる。フィプトもまた、そのあたりの意味が主だと取っただろう。だが、事実を直に知った者達には、別の感慨がある。  もしもハイ・ラガードの迷宮の中でも、樹海が自分達のものだと主張する者が現れたとしたら、彼らに対してどのような対応を取ればいいのだろう。  エトリアでは、先住の民モリビトとの軋轢の末に、樹海を制する力を得たモリビトの巫女の手によって、迷宮は閉ざされてしまったのだ。  長いこと樹海の富に頼ってきたエトリアは、その後どうなったのだろう。あの地を去ってからまだ数ヶ月にも満たない。見る影もなく落ちぶれている、などということは、長の位を継いだ元執政院情報室長オレルスが余程無能でもなければ、そうそうあるまいが、凋落の兆候は出ていても不思議ではない。 「そのあたり、どうなっているの?」  とオルセルタが問うのに、ゼグタントは明るい笑声をあげた。 「ひとまず心配はいらねぇよ。成功するかどうかはまだわかんねぇが、オレルスの旦那を中心に、どうにかやっていこうとしてるからよ」  ゼグタントが言うには、樹海の富をほとんど得られなくなったエトリアは、施策の転換を迫られ、ある方策に着手したという。  エトリアは世界樹の迷宮から得られる様々な素材を加工して、街や冒険者に供してきた。その過程で、見知らぬ素材を加工するために、様々な技術が発達してきた。その技術は、素材が得られなくなったからといって、すぐに消えてなくなるものではないのだ。  そこで、他国から原材料となりうるものを輸入し、加工して輸出してはどうか、という案が出ているらしい。ただの鉄でも、現在のエトリアの技術をもってすれば、どこの名匠の作にも勝るとも劣らぬ良質の剣に加工できる。幸い、他国から素材を買い入れるだけの元手は、迷宮の一件を通じて、蓄財されているのだ。 「モノがなければヒト……ってヤツ?」  とアベイが口を出すのに、ゼグタントは頷いた。 「はは、それ、ぴったりな言葉だな、メディックの坊や」  エトリアの試行錯誤は、それだけに留まらない。  冒険者達が持ち帰ってきたものは、素材だけではない。動物の生体は無理だとしても、魔物ではない植物の個体や種のサンプルもあったのだが、それらが樹海の外で育つのかどうか、栽培を試みようという意見もあるらしい。もしも無事に育ち、樹海にあったころの品質も維持できるのだとしたら、それはエトリアのさらなる発展の一助となるだろう。樹海種の姫リンゴやミント草だけでも育てば、良質の薬の材料にできるのだ。 「本当はよ、『エリクシール』の坊やや嬢ちゃんたちの企みが上手くいっていれば、な」  そうつぶやいたゼグタントの顔に翳(かげ)が差す。 「仕方がありません、モリビトのことは、誰にも、どうすることもできなかったのですから」  まるで慰めるかのようにセンノルレが応じた。  樹海の先住民族『モリビト』のことは、冒険者同士の泡沫のような噂にはうっすらと上っていたが、その明らかな実在が広く知れ渡ったのは、彼らに関する件が終わったずっと後だった。当時、その実在をはっきりと知り、何かしらの目的を持って動いていたのは、執政院上層部と、冒険者ギルド『エリクシール』のみ。先住民殲滅を唱える長ヴィズルに、『エリクシール』は影でモリビト達と接触することで、反抗を目論んだのだ。反抗といっても、別にヴィズルを弑することを企んだわけではない、単純に彼らとの交易を始めて人間とモリビト双方の理解と親善を深めようとしただけだ。それも、おそらくはヴィズルの手の者と思われる何者かの妨害で破綻したというのだが……。 「どうすることも、できなかった、か」  冒険者達が見知っている彼からは想像できない、重々しい口調で、ゼグタントは天井を仰いだ。彼は彼なりに、エトリアに関わったものとして、件の顛末を憂いているようだ。そんな彼の気持ちをすくい上げようと考えたのか、ティレンが身を乗り出して声を上げた。 「ね、ね、ゼグ兄。ゼグ兄は、ハイ・ラガードでも、採集レンジャー、やってくれるんだろ?」 「はは、オレはよ、そのために来たんだぜ、ソードマンの坊や」  ゼグタントは手を伸ばして、ティレンの頭をぐいっと撫でる。 「エトリア正聖騎士の坊やの頼みだしな。こっちから断る気もねぇ。ハイ・ラガードでも稼がせてもらうさ」 「また、採集物の三割か?」  とナジクが問う。  ゼグタントが要求する報酬は、とにかく資金稼ぎのために素材を集めたいから手伝えというときは、手に入れた素材の売却費の三割だったのだ。ちなみに特定の素材を求めるときは、それを手に入れるまでに採集した『不必要』な素材の売却費の半分となる。だが、緑髪のレンジャーは首を振った。 「いいや、あんたらの依頼からは金を取らないつもりだ」 「どうしてよ?」  とオルセルタが声を上げた。責めているような口調になってしまったが、そういうわけではない。ただ、それでは商売として成り立たないではないか。しかしゼグタントは、ちちち、と舌を鳴らしながら人差し指を立てて振った。 「心配しなさんな。あんたらの依頼通りに採集作業をこなして、名を知られていけば、他のギルドからの依頼も来るだろ。金はそっちで稼がせてもらいゃあいいさ」  次の言葉を発する前に一瞬だけ浮かべた、寂しそうな笑みは、何だったのだろう。 「何より、元『エリクシール』のパラディンの坊やの頼みだ、無下にはできねぇよ」 「でしたら!」  と割り込むフィプトの声は、ある意味ゼグタントにとっては救いだったかもしれない。表情の意味を問う時間を『ウルスラグナ』一同から奪い、そのまま忘れさせてしまったのだから。とはいえそれは全てを知る者の視点から見て初めて気付く話、彼ら自身にとっては、単純に、フィプトからの提案以上のものではなかったのだった。 「もしよろしければ、この私塾に泊まりませんか? どうせ部屋はたくさん空いてます。好きなように使ってもらって構いません。お仕事でサービスしてくれると仰るなら、お礼にこれぐらいのことをさせてもらっても、罰は当たりますまい」  ゼグタントは、彼から見れば意外な申し出に、思わず呆けたような顔をしてしまった。だが、断る意味もないと思ったか、 「そりゃあありがてぇ。じゃ、お言葉に甘えさせてもらいますよ、と」  にやりと笑って、『ウルスラグナ』の一員となったアルケミストの提案を受け入れたのであった。 「ところでよ、どうなんだ、今度の迷宮は?」  しばらく他愛のない雑談が続いた後、ゼグタントはそんな疑問を口にした。 「やっぱり不思議かね。地下に……っと、今回は樹の幹の中か、そんなところにあるのに、お天道様の光がさんさんと降り注いでたり、そんなこと、あるのかい?」 「それがな……」  と『ウルスラグナ』の一同は、今日ハイ・ラガードにやってきたばかりのレンジャーに滔々と話を聞かせてやった。訊かれたこと訊かれていないこと、様々な話は尽きないが、とりあえずゼグタントが最初に口にした疑問に対しては、こんな話が返される。  世界樹の樹の幹には無数の虚穴があり、その多くは人間が通れるようなものではないが、光なら当然通す。一階を探索していた時には、人間が通れる迷宮のまわりの鬱蒼とした木々に阻まれて、ほとんどわからなかったが、上階だと、迷宮が樹皮に近いところまで広がっているところもよくあった。迷宮の中から樹皮に近い方を見ると、古き大樹の塞がれていない虚穴や朽ち始めた隙間から、『外』の空や街並みを目にすることもできたのだ。もっとも、そうやって『外』から入ってくるだけの光で、迷宮の中の『外』と変わらない明るさが維持できるのかどうか、そこまでは判断できない。たぶん別の要素――たとえば『水晶のツル』仮説など――も関わっているとは思うのだが。 「迷宮の壁の隙間から、お月様を見る、なんてのも、悪かぁねぇ」とエルナクハは笑みを浮かべた。  今のところ彼は昼の探索ばかりに出ていて、『夜の部』に加わったことは一度しかない。だがその一度の時、彼は世界樹の虚穴から差し込む数条の月の光を見た。ほの青い光を受けて、わずかに光を照り返して輝く森は、昼とはがらりと違う顔を見せて冒険者達を誘う。振り仰げば、暗がりに囲まれた虚穴から見える、天空を廻る銀の月船。神官の息子である聖騎士は、思わず己の一族の月神の名を口にしていた――。 「はは、あんたがそんなロマンチストだとは思わなかったぜ、旦那」  からかうようにゼグタントが言うのに、 「うるせぇ」  と、渋面を作りつつエルナクハは返した。  やがて宴も終わり、皆が健やかな眠りに落ちる時間が来る。翌日もまた探索は続くのだ、身体を休めておくに越したことはない。  しかし、私塾を外から見ると、建物全体が夜の暗がりに溶け込んだかと思える中、ひとつだけ、ぼんやりと灯が灯る部屋がある。  部屋の主はカースメーカー・パラス。  ベッドにうつ伏せになり、曲げた足をゆらゆらと振りながら、ゼグタントから受け取った手紙の封を切る。中に封じてある、はとこからの手紙を引き出そうとするも、それより先に転がり出たものに目が留まった。  拾い上げると、それは硬貨であった。額面は百エンで、銀貨である。しかし、普通に見る硬貨よりも幾分か大きい。おそらくは記念硬貨の類か、とあたりを付けたが、正解らしかった。表には額面と世界樹の浮き彫りが、裏には発行年と一人の男の横顔の浮き彫りが施されていた。 「……ヴィズルだ」  パラスは手紙を広げ、硬貨について記されたところを捜した。思った通り、この硬貨は、世界樹の迷宮踏破を記念して作られたものらしい。そのために、迷宮探索に先鞭を付け、冒険者を支援し、街を大きく発展させた、偉大なる長の肖像が使われているのだ。  たとえ最後に敵対することになったとしても、あの男の情熱と、街への思いは本物だった。妥当な選択だろう、とパラスも思った。  ちなみに、金貨にしなかったのは、ヴィズル本人ならどちらを選ぶか、と考えた末らしい。どちらかを選べというなら、あからさまに財貨を象徴する金よりは、幾分か控えめな銀の方を選ぶんじゃないかな――と、はとこは文中に記していた。なんとなくだが、パラスにもそんな気がする。  明日起きたら、みんなにも見せてあげよう。  記念硬貨を封筒の中に入れ直し、カースメーカーの少女は手紙を改めて最初から読み始めた。  ゼグタントが加入し、採集作業に従事してくれるようになってから、『ウルスラグナ』の金回りは急激によくなった。一度は中止された『夜の部』もすぐに再開され、冒険者達はミッションであるキマイラ打倒に向けて着実に力を付けていく。たとえ採集作業中に魔物に襲われても、返り討ちにすることもできるようになった。 「いやいや、あのマグスたち、びっくりしてたなぁ」  とゼグタントは朗らかに笑う。 『ウルスラグナ』は迷宮で一組のギルドと知己を得ていた。『ベオウルフ』の例を挙げるまでもなく、迷宮内で他のギルドに出会うことは決して珍しいことではない。少し話すうちに気が合い、街で再会した時に飲みに誘ったり誘われたりすることもある。ただし、今回出会った巫医(ドクトルマグス)達は、本来は冒険者ではなく、樹海内の採集のために、便宜上、ギルドを組んでいるらしい。  イクティニケという名の黒いドレッドヘアの男性と、その弟子であるウェストリという名の艶やかな黒い長髪の少女。その二人組は、採集場所でたまたま出会った冒険者達、特に採集レンジャーとして活動するというゼグタントに、ハイ・ラガード樹海での採集のコツを丁寧に指南してくれた。ちなみに、花や実をその場で簡単に薬品として体力や気力を回復できることを教えてくれたのも、彼らだ。精製していない分、効果は低いが、緊急時には役に立つだろう。特に、気力を回復させてくれる薬は、まだ街にも出回っていないのだ。  彼らとのそんな交流の折、突然出現したラフレシアを、『ウルスラグナ』は難なく撃退したのである。  思えば一月程前、採集作業のほんの基本を学んで四苦八苦しつつ素材を捜していた『ウルスラグナ』が、同じように魔物に襲われた時には、ティレンに大怪我を負わせる羽目になってしまったものだった。それを考えれば、自分達は確かに成長している。もっとも、ラフレシアなどは、ようやく足を踏み入れられるようになった五階には、嫌になるほど生息している。こいつを倒せないようでは、キマイラ打倒も、ひいては空飛ぶ城への到達も、泡沫の夢になってしまうだろう。  ところで、ここに来て、キマイラ打倒のための編成に、変更が出てきていた。  まず、ナジクの代わりにオルセルタが加わることになったのである。  金髪のレンジャーは、強敵と戦うには、自分達には攻撃力が足りない、と喝破していた。そのためには、樹海探索時にはまだしも、強敵と当たるにはやや力不足感のある自分(ナジク)の代わりに、ダークハンターであるオルセルタを入れるのがいいだろう、とのことであった。 「単純に強さで言うなら、焔華の方が最適かもしれないが」  と述べるナジクの傍らで、話に出された焔華が申し訳なさげに首をすくめた。 「焔華の戦技は自分の命を顧みないものだ。今の段階じゃ、まだ投入は早いと思う」  また、最初はパラスを加えるつもりでいたが、結局はフィプトを代わりに投入することにしていた。教え子の死の原因を作ったキマイラに一矢を報いることを、講師であるアルケミストは望んでいたのだ。 「小生はラガードで生まれ育ったハイ・ラガードの民です。故郷への愛着心をそれほど認識したことはありませんでしたが、今は無性に、ハイ・ラガードの危機とも言えるこの状況に立ち向かいたいと思っています。なにより、これ以上、知っている人にも、知らない人にも、極力、三階の彼らのような末路を迎えさせたくない」  復讐のような歪んだ執着ではないことを確認し、ほっとしたエルナクハは、その願いを叶えてやることにしたのだった。  ともかくも、『ウルスラグナ』は、ひやりとする場面もあるにはあるが、幸いにも犠牲者を出さずに、着実に樹海を探索していった。ちなみにパラスは、そんな仲間の様子を手紙にしたため、エトリアへと送っている。  笛鼠ノ月もやがて三割が過ぎようとしていた。  笛鼠ノ月九日の夜、私塾の夜の授業が終わった後、センノルレやゼグタントを含む冒険者達は、鋼の棘魚亭に足を向けた。壮行会と称して宴を行うためである。このために、この日の『夜の部』は中止している。  いつものように私塾で行わないのは、資金にも余裕が出てきたことだし、たまには目先を変えよう、という、それだけの話だ。 「それにしても、毎日宴をやってる気分だわ」  とオルセルタが言うが、もちろん、本当に毎日宴をやっているわけではない。以前のように冒険が日常と同化して久しい中、たまにしかやらないような出来事が、焔華の帰還、ゼグタントの来訪、そして今日、と、比較的短期間のうちに続いたから、そのような印象を抱くのだろう。  ところで今回の宴の目的は、先にも述べたとおり壮行会である。何を壮行するのかといえば、当然ながらキマイラ退治だ。このころ、『ウルスラグナ』の迷宮地図の五階は、大きな空白となっている中央部分以外、埋められていた。キマイラと対面する時も近いだろう。早ければ明日、それが確実だという保証はないが、せっかくだからここらで壮行会でもやろうか、という話になったのだった。 「……あれ?」  不意にエルナクハは声を上げた。視界の中に見知った顔を捉えたからだ。 「フロースガルにクロガネじゃねぇか」  迷宮の中で遠目に見かけることは幾度かあったが、街中で出会うのは今が初めてだ。まさかずっと迷宮で過ごしていた、などということは、たぶんないと思う(といっても、冒険者になる前のティレンという実例が傍にいるので、完全に否定もできないところだ)。小国といえども一国、徒歩三分で全国を回れるほど狭い、というのでもなければ、同じ街にいても会わないままでいるのも、不思議ではないだろう。 「おおい!」  と呼んで手を振ると、向こうも気が付いたのだろう、顔を向け、手を上げて応えてきた。『ウルスラグナ』一行は『ベオウルフ』の二人に近付いて、さらに言葉を掛ける。 「街で会うなんて珍しいな」  さしたる答を求めない、挨拶代わりの話題ではあったが、フロースガルは、こんなところにいる理由を暗に問われていると思ったのか、笑みを浮かべながらも返してきた。 「いつもはあまり街には出ないんだが、使ってる宿の料理人が急病で休んでしまっていてね、今晩の食事は別の場所で取ることにしたんだ」 「懇意の酒場とかは? あるんだろ、そういうの」 「酒場は……あー……私の口に合わなくて、な」  遠回しな口調だったが、要は不味いらしい。エルナクハは大笑いをしながら、フロースガルの肩を叩いた。 「ここで会ったのも大地母神(バルテム)の導きだ、オレらこれから鋼の棘魚亭で壮行会やるんだがよ、アンタらさえよかったら一緒に来ないか? 味は、まあ、悪かねぇと思うぜ。少なくともオレは美味いと思うけどよ」  勝手に話を進めているが、『ウルスラグナ』一同には反対をする者はいなかった。特にティレンやパラスなどは、あからさまに「来い来い、せっかくだから来い」と表情で叫んでいる。 「……うむ……そうか、では、せっかくだから、お招きに与(あずか)るとしようか、な、クロガネ」 「やったー!」  フロースガルの返答に、ティレンとパラスは、歓声を上げて両手を打ち合わせるのであった。  というわけで連れ立って鋼の棘魚亭を訪れた『ウルスラグナ』と『ベオウルフ』だが、酒場の主人の驚きようといったら、後々にまで笑い話にできるほどだった。 「……まさか、うちの酒場に『ベオウルフ』を迎える日が来るとはな……」  店内では、たまたまいた他の冒険者達が、ひそひそと話し合いながら、ちらちらとフロースガル達を見る。大公宮の大臣にも名を覚えられている高名なギルドである、周囲のそんな反応も当然だろう。 「よし、せっかく初めて来てくれたんだ! あんた達の分はオゴリだ!」 「おお、太っ腹だなオヤジ! その勢いでオレらの分もオゴリにしてくれ」 「てめーらは金払え、『ウルスラグナ』!」  寸劇(コント)のようなやり取りの後、意外なゲストを席に迎えての宴は始まった。  一同が乾杯を交わす傍らで、クロガネが特別に分けてもらった生肉に舌鼓を打つ。冒険中のたわいもない失敗談が飛び交う。クロガネも含めれば十三人もいる列席の志によって、食事がものすごい早さで消費され、酒の空き瓶がハイ・ラガード全景の模型を作るかのように積み上がる。やがてマルメリがリュートを取り上げて爪弾き出すと、オルセルタと焔華が手を取り合って――今回は剣が関わらない普通の踊りを――踊り出す。アベイが歌い始めたが、音痴なので周囲から罵声とガラクタが飛んできた。  そんな狂騒の中、我関せずとばかりに茶をすすっているセンノルレと、彼女を狂騒の悪影響から護らんとばかりに傍らに付き添うエルナクハ。  アベイに投げられたが狙いを外した鶏肉の骨に後頭部を襲撃され、「いて」と呻く黒肌のパラディンに、同じパラディンであるフロースガルが問いかけた。 「君たち『ウルスラグナ』は、キマイラ退治のミッションを受けたんだろう?」 「おうよ」  否定する意味もない。エルナクハは即答し、逆に問いかけた。 「そういうアンタは、どうなんだ?」  ミッションというものは大公宮からの布令、冒険者に対する絶対命令のようなものである。もちろん、冒険者の実力は千差万別であるから、受領を見送るギルドがあってもおかしくはない。ただ、少なくとも公には、冒険者達の目標を定め、その解決を期待するものであった。  かつて『ウルスラグナ』が受けた、行方不明の衛士捜しのような例外もあるが、布令されたミッションは、冒険者達全てが知るところとなる。そして、解決の自信がある冒険者達はぞくぞくとミッションを受領する。  現在の布令である『キマイラ退治』を、どれだけのギルドが受け付けたかは、わからない。だが、自分達以外にもいくつかはあるだろう。すでにキマイラに挑み、力及ばず倒された者もいるかもしれない。  そして――目の前にいる長髪の聖騎士は、おそらく、ミッションを受領しているだろう。  エルナクハの思いこみは、確かに正しかった。  フロースガルはためらいなく頷くと、重々しい声で宣うた。 「キマイラは――私たちの獲物だ」 「そりゃ、アンタらが先に倒せればな」  思えばその時のフロースガルの態度をよく心に留めておくべきだった。後にエルナクハはそう思うことになる。しかし、その時の黒肌の聖騎士は、うまい料理と酒のおかげで、いい具合にできあがっていた。だから、フロースガルの宣告を、単純に、ライバルギルドの競争宣言に過ぎないと思いこんでしまったのだった。  妻であるセンノルレは酔っていなかったが、冒険から離れて久しい彼女には、『ベオウルフ』の実情がわかるはずもなかった。  ともかくも、その時のエルナクハは逆に宣言したのである。 「このあたり恨みっこなしで行こうぜフロースガル。アンタらがキマイラを倒すか、オレらがそうか、どっちが倒したとしても、だ。少なくとも大公宮にとっちゃ、どっちが倒したって同じことだろうしな。ま、倒した方を、そうじゃない方は気持ちよく讃えてよ、で、改めて、天空の城をどっちが先に見付けるか、競い合おう。な」 「……それも、そうだね」  フロースガルは、いつもの穏やかな笑みを取り戻して応えてくれたが、それまでの極小の時の間に何を思ったか、当然ながらエルナクハにはわかりようもなかった。  そこで一度会話は途切れ、静かに酒を嗜む聖騎士達。  ちなみに周囲は静けさとは真逆の方面にあり、調子づいたアベイがさらに音痴な歌をがなり立てていた。それが不意に途切れたのは、そんな彼がふらりと倒れたからである。 「うわわわ、メディック、メディーック!」 「メディックはそいつ自身だ。それと、酔いが回って眠っただけだ」  酔いのせいか大慌てで見当違いの助けを呼ぼうとするフィプトと、酔っているはずなのだが常日頃と変わらない冷静さで答えるナジク。  ようやく訪れた静けさを補強するかのように、マルメリが奏でるリュートの音が切々と響く。  ティレンはいつの間にか、自分の分の料理を抱えて床に座り込み、クロガネと向かい合いながら、食事を進めている。どうやら、狼への苦手意識を超え、黒い獣にすっかり心を開いたようである。  オルセルタと焔華とパラスは、年齢が近い同性同士集まって、甘めの酒を嗜んでいる。  ゼグタントは一人で静かに酒を飲んでいた。  やっていることは皆ばらばらだったが、かといって互いの間に壁を作っているわけでもない、ひとつの集団が、そこにあった。その様を満足げに見やり、エルナクハは、ふと思いついたことを口にした。 「なあ、フロースガルよ。アンタら、二人なんだろ――よかったら、ウチに来ないか?」 「『ウルスラグナ』に、かい?」  虚を突かれたかの表情で、赤い長髪の聖騎士は、黒肌の聖騎士を見つめた。  エルナクハは自分自身の提案が素晴らしいものだと思いこんで、上機嫌でさえずる。 「ああ、そうさ。キマイラの件が片付いてからでもいいけどよ。この樹海を二人で踏破するのは骨だろ? だったら、せっかくだから、オレらと組まないか? ……ああー、そうか、『ベオウルフ』ってギルドがなくなっちまうのは惜しいな。だったらよ、ウチの何人かがそっちに移籍してもいい。いや、いっそオレらがみんな『ベオウルフ』に……って、これもだめかぁ、なんか『ベオウルフ』の名に乗っかりたいように思われちまうし、オレだって団長からもらった『ウルスラグナ』の名を消すのはイヤだ……」 「少し落ち着きなさい、エルナクハ」  センノルレが、その怜悧な顔立ちを裏切らぬ、しかし芯にほのかな優しさを秘めた声で、夫たる聖騎士に注意を促した。 「そのように話を自己完結に持ち込んでしまっては、フロースガル様もお答えに困ります」 「いや、構わないよ。気持ちはよく分かった」  長髪の聖騎士は、あまねく人々を安心させるような笑みを浮かべた。 「そうだね……『ウルスラグナ』に加わる、か。それもいいかもな……」 「そっか!?」  エルナクハは弾かれたように身を乗り出した。フロースガルは苦笑する。 「でも、『ベオウルフ』の名を捨てるのも、惜しいと言えば惜しい。少し、考えさせてくれないか? 長くは待たせない」 「ああ、大事なことだからな、よく考えてくれ。オレらはいつでも歓迎するぜ」  上機嫌の夫とは裏腹に、傍のセンノルレは、いいのだろうか、と首を傾げた。エルナクハとフロースガルがよくても、『ウルスラグナ』の他の者達がどう思うか、まったく考えていない。もっとも、フロースガルと出くわした時の仲間達の反応や、宴の様子を考えれば、反対する者はいないとは思うのだが。ちなみにセンノルレ自身には反対する意思はない。  さておき、自分の希望が叶うかもしれないということに喜んだ、黒肌の聖騎士は、 「おっし、じゃあ、改めて、どっちかのキマイラ退治成功を願って乾杯といくか!」 「ああ、では……乾杯」  赤毛の長髪の聖騎士と、からり、と杯を打ち合わせた。  もちろん翌日にも探索が控えているわけだから、宴はほどほどのところで切り上げられた。  街はずれの私塾へと帰る『ウルスラグナ』一同と別れ、『ベオウルフ』の一人と一匹――否、二人と呼ぶべきだろう――は、無言のまま、自分達が部屋を借りている宿への道を辿る。  途中、馬車が目の前を横切るのに立ち止まる。だが、馬車が通り過ぎた後も、フロースガルは歩きだそうとはしなかった。傍らのクロガネの背を撫でながら、つぶやく。 「悪くは、ないよな。彼らと共に高みを目指すのも」  クロガネは思慮を秘めた黄金の瞳で相棒を見つめている。 「どうだい、クロガネ。キマイラを倒したら、彼らと共に歩むのはどうだろう?」  クロガネは鳴き声で返事はしなかった。だが、その尻尾は、ふらふらと大きく揺れている。  フロースガルは笑みを浮かべた。 「そうか、おまえも彼らが気に入ったか。じゃあ、そうしようか。キマイラを倒して報奨金をもらったら、今度は私たちが彼らに酒をご馳走しよう。それで、共に空飛ぶ城を目指すんだ。だけど、彼らは随分大所帯のギルドだからな。私たちの出番はあるんだろうかね、ははは……」  明るい話題を語るフロースガルの表情は、しかし、みるみるうちに暗さを増していく。憎悪の念、と言ってもよかった。それが、先程宴を共にした冒険者達に向けられたものではないのは確かだったが、真正面から彼と出くわした者がいたら、自分が憎まれている、と思いこんでしまったかもしれない。 「――悪いね、『ウルスラグナ』の。キマイラは、キマイラだけは、私たちだけの獲物だよ」  やがて表情から険が取れ、いつもの優しげな顔を取り戻したフロースガルは、やっと歩きだした。傍らを付いていくクロガネが、心配げに、くうん、と鳴く。その背に手を置いて、フロースガルは励ました。 「大丈夫だ。私たちはこの日のために、経験を積んできたんだ。今度こそ勝てるさ」  笛鼠ノ月十日。  東の地平線に、うっすらと光が登る頃、冒険者達は目を覚ます。  基本的に、朝の五時が『昼の部』の冒険者達が樹海に入る時間だ。当然ながら、それ以前に起きて、朝食を腹に入れたり探索の支度をしたりする。交代で飯の支度をする彼らだが、今日の飯当番はマルメリとナジクである。 「おーし、気合い入れて料理するわよぉ!」 「……うむ」  妙にテンションの高いバードと、妙にテンションの低いレンジャーだが、料理に傾ける情熱は等しく強い。  なにしろ、今日は、キマイラとの決戦を繰り広げることになるかもしれないのだ。力の付く食事を用意できなくて何が食事当番か。  フィプトとセンノルレは、食卓――円卓ではなく長卓――の端の方で、触媒の準備に余念がない。フィプトは後列から属性攻撃をキマイラに浴びせかける役目なのだ。万が一にも暴発など起こさないように、準備は入念にしなくてはならない。  彼らの傍らで、同じようなことをしているのは、アベイである。が、メディックである彼が準備しているのは、錬金術の触媒ではなく、生薬だった。メディカなどの、あらかじめ調合済みの薬品も持っていくが、必要な時に生薬を調合して作る薬は、メディックの腕次第で、メディカよりも劇的な効果を現す。しかし、その分、調合後の劣化も激しいため、作り置きしておくことができない。アベイが行っている作業は、調合作業の途中、あらかじめ行っておいても劣化しにくい工程までの作業であった。こうすれば戦闘中でも多少は調合時間を短縮できる。  長卓の中央部では、パラスが皿を並べたり、パンのバスケットを運んだりと、食事の準備の手伝いに余念がない。彼女は対キマイラ戦闘班ではなくなったが、しかし、彼女が食事の際に座るはずの椅子には、カースメーカーのローブと呪鎖が掛けられている。戦いに出る皆の無事を祈って『厄祓い』をやるんだ、と、張り切っているのだ。  一方、エルナクハ、オルセルタ、ティレンは、焔華を交えて、私塾の中庭に出て軽く身体を動かしていた。樹海に入る前にこうしておくと、やはり実戦での動きも違ってくる。鍛錬用の木製武具を使っているとはいえ、そして運動量自体は実戦に及ばないとはいえ、模擬戦を繰り広げる彼らの眼差しは真剣そのものであった。  ゼグタントは私塾にはいない。他のギルドから採集作業の依頼を受けたということで、パンだけを軽くかじって既に出掛けた。「帰ってきたら武勇伝聞かせてくれよな」とは、言い残された言葉である。  やがて、料理が出来上がり、居合わせる全員が食堂に揃い、朝食に口を付け始めた。  食事を口に運ぶ合間に多く飛び交うのは他愛のない会話。樹海も冒険も関係のない、日常の出来事。いつもならば、今日の冒険云々だの、昨日出くわしたモンスターがどうこうだの、そのような会話が多いのに。  ――ああ、そうか。  最初にそう気が付いたのは、たぶんオルセルタだっただろう。  これから相対するのは強敵だ。エトリア樹海で得た力はブランクの間に失われ、ハイ・ラガード樹海で蓄えた力は、未だ高みに至らない。そんな状況で、久々に相対する『守護者』。樹海の要所を守る、黒い禍々しい霊気(オーラ)をまとう、恐るべき者達。キマイラにはまだ出会っていないので、詳しくは判らないが、風聞によって知る限り、同じ類なのは間違いないだろう。  できる限りの鍛錬は成した。叶う限りの武具は揃えた。それでも、結末は誰にも判らない。キマイラに喉笛を裂かれ、物言わぬ肉の塊が五つ、転がることになるかもしれないのだ。  生と死が薄幕ひとつ隔てて背中合わせにあるならば、死に突き落とされた者が薄幕を引きちぎり、生の側に手を伸ばすための最後の力は、『未練』だ。生きて帰るという決意、皆を守るという誓い、こいつだけは、と吠え猛る執念。言い換えれば様々な要素に分けられるけれど、つまりは生命ある者が現世で何かを為したいという欲望。死後に女神の膝元で得られる栄光を信じるバルシリットの戦士でさえも、死に瀕してなお、その欲望を捨てられずに薄幕に腕を伸ばし、差し伸べられる戦女神(エルナクハ)の手を振り払おうとすることがある。  オルセルタは子供の時のことを思い起こした。兄と共に村の外に遊びに出かけ、たまたま出くわした盗賊どもに痛い目に遭わされた時のことだ。自分を守って瀕死の重傷を負い、目の前に放り出された兄は、死の世界を映し出す冥い瞳で、それでもオルセルタのことを見続けていた。あの時の兄にとっては、自分の存在が、生の世界と兄自身を繋ぐ細い糸を支える『未練』だったのだ。   そんな兄と同じように、自分も、そして仲間達もまた、自覚無自覚の差はあれど、日常を強く心に刻み込むことで、『未練』を、現世にありたいと願う欲を蓄えている。生死の境から、一歩、否、半歩でも生の領域に踏みとどまれるように。  樹海に足を踏み入れた時には、内部は薄ぼんやりとした霞状の光に包まれていた。  五階の入り口、下階から階段を上ってきてすぐのところにある磁軸の柱から、黙々と歩き続けて三時間。前回の探索を中断したあたりまで、冒険者は歩を進めた。その頃には、薄靄も晴れ、樹海はくっきりとした若々しい緑の様相をあらわにしている。  余談だが、前回の中断の理由は、魔物との戦いで、生命は拾えたが散々な目に遭ったからであった。  探索のついでに、酒場に集まった依頼の中から、『五階あたりに咲くという蒼い花を採ってきてくれ』というものを承ったのだが、いざ目的の花を見付けて摘み取ろうとしたその時、たまたま茂みの中から顔を出したサイミンフクロウと出くわしてしまったのだ。この魔物がまた、翼を羽ばたかせ、眠りを誘う粉を振りまくという、厄介な輩で、しかもそれが一度に三体である。眠らされ、つつかれ、引っかかれ、なんとか撃退した時は、そこまでの行程の分も含め、全員がボロボロだった。そのあたりを縄張りにしている角鹿までもが至近に迫っていたこともあり、『ウルスラグナ』一同はそそくさと退却したのであった。  今回もまた、長い行程の間に、冒険者達は疲れていた。一度は辿った道であるために、前回よりも余力はあるが、今のままでキマイラに挑むのは危険すぎる。  磁軸の柱の近くに、通り抜けられそうで上手く通れない茂みがあったのが、希望の光だ。逆の方向から、その茂みを拓くことができれば、キマイラとの戦いに突入する前に一度街に帰り、心身を充分に癒してから、大幅に短縮された道程を辿り、決戦に挑むこともできる。もしも茂みが拓けなければ――ここまでの長い道程を超えても充分に余力を残せるまで、強くならなくてはいけない。キマイラ退治は後日に伸びるだろう。  しかし今は、キマイラのことより先に、確かめなくてはならないことがあり、捜さなくてはいけない者達がいる。  冒険者ギルド『ベオウルフ』。  樹海に踏み込む直前に出会った衛士が、彼らがすでに樹海に入っていると教えてくれた後、心配そうにつぶやいたのだ。 「『ベオウルフ』はキマイラに殺された仲間達の仇を取る気だ。しかし五人で負けた相手に二人で勝てるんだろうか」  衛士の言葉を聞いた時、しまった、とエルナクハは思った。  先を越されると思ったからではない。そんなことはどうでもいいのだ。  それよりも先に抱いたのは、激しい後悔。自分達がキマイラ退治のミッションを受けていることを確認したことで、『ベオウルフ』は先走ってしまったのではないか。 「キマイラは――私たちの獲物だ」  と、昨晩、フロースガルがそう言った時の顔を、思い出す。その言葉は単なるライバル心の発露だと思っていた。だが、よくよく考えれば、そんなものでは片付けられない、重々しい声の宣告ではなかったか。  あの優男の顔の下にあるのが、キマイラを仇と付け狙う、激しい復讐心だとしたら……。  復讐心――激しい憎悪は、確かに力になる。だが、判断力を歪め、曇らせる。『ベオウルフ』が復讐のために蓄えた力が、真にキマイラに比類するものならば、いい。だが、『ウルスラグナ』に仇を討ち取られてはなるまい、とばかりに、まだ力が足りないのに、急いでキマイラに挑んだとしたら……。  どうか、先走らないでくれ。エルナクハのみならず、全員が同じ思いだった。キマイラに到達する前に思いがけない消耗をして、おとなしく街に戻っていてくれ。直前で我に返って、もっと落ち着いて状況を見てくれ。いや、キマイラを無事に倒し、後から到着した『ウルスラグナ』に、「遅かったね、キマイラはもう討ってしまったよ」と涼しげな顔で言ってくれても構わない。とにかく無事であれ、どうか、どうか!  焦りが心を逸らせる。だが、逸ればまわりが見えなくなり、自分達こそが無事では済まなくなる。 「ともかくも、落ち着いて先に進むしかない……」  アベイが磁軸計に目をやり、漉紙のメモ帳を手にして、未探索区域の地図を記す準備をした、その時のことだった。  オオ――――ン……。  どこから流れてきたのだろうか、冒険者達は、かすかに響く獣の声をその耳に捉えた。  獣の声自体は珍しくもない。場合によっては武器を構え、奇襲に備える必要がある。しかし、たった今聞こえた声は悲しげで、皆に等しく嫌な予感を芽生えさせた。否、それは、認めたくなかったが、確信といってもよかった。  冒険者達は視線を廻らせ、声のした方向を探ろうと試みた。 「エル兄、あれ……」  ティレンがエルナクハの袖を引き、前方を指差したので、他の冒険者達もそちらに気が向いた。  緑の絨毯の上に、鮮やかに咲き誇るのは、小さな血の花。西の方から点々と連なり、冒険者達の目前を通り越して、北へと続く。さらに目を凝らすと、大分先で東に折れているようにも見えた。  認めたくない確信が、ますます輪郭を濃くし、冒険者達は我知らず息を呑んだ。 「……行きましょう」  誰も声を上げられない雰囲気の中、オルセルタが、どうにか声を振り絞り、一行の行動を促した。  血の花に飾られた花道を北へ歩んでいく。何かの間違いであってほしい、と、それぞれに心の中でつぶやきながら。最悪の予感を踏みにじるかのように草を踏み、時を詰めていく。やがて、北への道は行き止まりとして塞がれ、東に折れる道が姿を現す。  冒険者達は、固唾を呑むと、角を曲がった。その途端に強敵と鉢合わせたりしないかと、心臓が早鐘のように鼓動した経験は、何度もある。だが、その経験のどれも、今感じているものに比べれば、運動不足の輩がちょっと散歩しただけで起こる動悸のようなものでしかない。  曲がった先は、ほんの少し歩いただけで行き止まりになっている。大きな樹が道を塞いでいるのだ。その樹下に、黒と赤の斑の塊を見いだして、『ウルスラグナ』は声を詰まらせた。  それは、クロガネだった。クロガネだけだった。  漆黒の艶やかな毛皮を、真紅のどろりとした液体で染め、それでもなお、四肢を突っ張って毅然と立っている。見ただけで判る深い傷は、到底、立っていられないほどに深いのに。だというのに、その瞳には、死に対する怯えも、苦痛の欠片すらも浮かべず、真っ直ぐに西を見ているのだ。 「クロ!」  真っ先に駆け寄ったのはティレンだった。諸手を広げて抱き締めようと思ったようだが、すんでの所で自重する。傷に障ると理解したのだ。そんな彼と、続いて走り寄る冒険者達に、黒い獣は、ぱさり、と尾を振って応えると、足下に転がっていた何かをくわえ、ぐっと突きだしてきた。 「何だ?」  エルナクハはそれを受け取り、広げてみた。  ……それは羊皮紙――世界樹の迷宮の地図だった。 「おい……!」  黒肌の聖騎士は思わず声を荒らげた。迷宮の地図は冒険者にとって大切なものだ。複写をとらずして他人に渡すようなものではない。もちろん、今渡されたもの以外にも複写がある、と考えることもできなくはないが、今の状況下で獣の行動が意味するものは、そんな生やさしいものではない。  それは、常に共に行動しているはずの相棒が、この場にいないことからも明らかだった。  そんな冒険者達の思考を肯定するかのように、黒い獣は顔を上げ、真っ直ぐに西を見据えたまま、高らかに声を上げた。何かを成し遂げた誇りと共に、失ったものへの哀しみをも秘めたような、切々と響く遠吠え。  ――あなたの遺志は、確かに受け渡しましたよ。 「……っざけんな!」  エルナクハは腹の底から怒りが湧き上がるのを感じた。クロガネやフロースガルが悪いわけではない。だが、彼らの意思に同意して、取り返しがつかないものが失われたことを認めてしまうのが嫌で。メディックに鋭い声を投げかけて治療を促すと、エルナクハはクロガネの前に、どかっと座り込んだ。受け取った羊皮紙を突き出し返し、クロガネの目の前の地面に置く。 「これは返すぞ、クロガネ。まったく何考えてやがるんだ!」  そんな時、アベイがちらりと視線を投げかけた。その瞳の中に絶望を見いだしながらも、それでもエルナクハは首を縦に振って、治療を促す。メディックの青年は静かに頷くと、医療鞄から治療道具を取り出しはじめた。 「悪い、これ、外すぞ」  と言いながらアベイが手を首輪にかかると、クロガネは牙を剥きかけたが、結局はそれを収め、されるがままになる。  外された首輪が地面にそっと置かれるのを、エルナクハは意識に留めた後、改めて声を上げた。 「いいか、オマエの相棒がいないなら、『ベオウルフ』のギルマス代理はオマエだろうが! それが、ぽーんと探索を投げて、オレらに託します、だと? 片腹痛ぇ! それでも『巨人殺しの英雄(ベオウルフ)』の名を名乗る猛者か!?」 「兄様!」  と声を上げる妹を片手で制し、聖騎士は続けた。 「まぁ、正直オマエは大ケガしてるし、ちょっと気弱になるのもわかんなくはねぇよ。だからまずは、そのケガ治して、それから先行きを考えろや。今の『ベオウルフ』だけで探索を続けるのもいい。人手がいるなら都合するの手伝ってやってもいい。さもなきゃ――昨日も言ったろ? 『ウルスラグナ』に来るなら大歓迎だ。だから、まずは養生して、よく考えろ。それまではこの地図は、オマエらの……『ベオウルフ』だけのものだ!」  ばん、と傍らの地面を叩きながら強調したその時、黙々と治療を続けていたアベイが口を開く。 「とりあえず、応急処置はした。あとは――……クロガネ自身の生命力次第だよ」 「そか」  エルナクハは無理矢理に不敵な笑みを形作った。立ち上がり、尻に付いた土を軽く払うと、改めてクロガネに向き直る。 「まぁ、キマイラは放っとくわけにいかねぇから、とりあえずオレらが倒すぞ。悪く思うなよ。で、明日の朝にゃ武勇伝聞かせに来るから、それまで待ってろよ、いいな!」  嫌も応も聞かず、くるりと踵を返す。  立ちつくす仲間達を促し、背後にアベイが駆け寄る足音を聞きながら、聖騎士は血の花道を逆に辿る。  その顔には、もはや不敵な笑みは欠片も浮かんでいなかった。  唯一浮かぶのは、強敵の存在を感じ、哀悼をねじり伏せながら、心を据えた、強者の顔。  皮肉な話になるが、信じたくなくとも、フロースガルの死が確定していたのは、『ウルスラグナ』にとっては僥倖だっただろう。もしもフロースガルが瀕死でも生きている可能性があるとしたら、『ウルスラグナ』は自分達の不利を判っていても戦場に乱入し、かの聖騎士を何としてでも助けようとしただろうから。  クロガネの遠吠えを最初に聞いた地点に戻ってから、さらに西、樹海の柱の傍の、通れそうな茂みの反対側を目指す。なんとしてでも茂みを通路として使えるようにしなくてはならない。そうでなくては、キマイラと戦うのはまだ無理だ。  血の花道はまだ足下に点々と続いている。道なりに西へ続いた後、突き当たりの扉は無視して北へ向かい、さらに東に折れる。問題の茂みの反対側の地点に辿り着いても、血の痕はさらに東に続いていた。その道の向こうに、『ベオウルフ』の地図に記されていた場所がある――大きな広場、おそらくはキマイラが手ぐすね引いて待ちかまえる魔宮が。  冒険者達は、それぞれの武器を手に取ると、緑の壁に口を開けた亀裂を広げにかかった。一番役に立ったのは、やはりティレンの斧である。しばらくは無口のまま作業を続け、視界が開けたときに、ようやく溜息を吐いた。  予想通り、目の前には、樹海の柱が、金色の輝きを発しながらそびえ立っていたのだ。  これで、魔宮への道は大幅に短縮できる。冒険者達は磁軸計と糸を取り出し、磁軸の流れに乗って樹海入り口へと戻る力を発動させた。  樹海入り口に戻った時に、他のギルドの冒険者と共にいるゼグタントに出くわしたのは、もちろん偶然である。しかし、ありがたい偶然ではあった。 「あ、あんた達……!?」  五階の長丁場を切り抜けてきて、心身共にぼろぼろと言ってもいい『ウルスラグナ』を、ゼグタントは当然だが、一緒にいた他のギルドの者達も、驚きの声と共に出迎える。フリーランスの狩人の肩に軽く手をかけると、聖騎士はわざと陽気な声で告げた。 「私塾に戻ったらみんなに伝えてくれや。討伐班は今晩は戻りません、キマイラと浮気してきます、ってよ」 「奥さん、きっと怒るぜ?」 「なぁに、浮気は男の甲斐性ってな」  ゼグタントの茶化しにエルナクハもまた冗談で返した――黒肌の民バルシリットには男の浮気を是とする習慣はないのである。  ところでキマイラは雌雄どちらなのだろう? 「……義兄さん、ヤツが雄だったら……どうする気です?」 「ぐっ……ぐぬぬ……」  そう突っ込まれるのは想定外だったのだろう、フィプトの言葉にエルナクハは頭を抱えた。やがて、ぽんと手を叩く。 「よし! オルタ、その時はオマエにやる!」 「いらないわよ!」  いくら夫を複数持てるバルシリットの女とて、選り好みはする。第一、その見た目すら――呼称からして大まかな想像は付くが――冒険者達はまだ知らないのだ。 「それに兄様、そのときは、兄様やノル姉さんの義弟がキマイラ――ってことになるんですけどねぇ?」 「む、そいつぁごめんだな」  エルナクハは両手を軽く挙げて降参の意を示した。直後には真面目な表情でゼグタントに語りかける。 「――ってわけでよ、キマイラは……ヤツは一刻も早く、何としてでも倒さなきゃならねぇ。だから、みんなにもよろしく」 「……わかったよ、旦那。猛き武運を!」  ゼグタントは『ウルスラグナ』を励ますように力強く頷くと、まだ低階層で苦労しているらしい余所の冒険者達を促して、街へと戻っていった。  『ウルスラグナ』も、その後を追うように街に足を向けたのだった。 「おやおやおや、まぁまぁまぁ、あんたたち、一体どうしたんだい!」  フロースの宿の女将が、そんな素っ頓狂な声を上げてしまうのも、無理もあるまい。  宿に癒しを求めてやってきた『ウルスラグナ』は、樹海帰りの冒険者の多くの常としてぼろぼろ、しかも、その表情には、無念と焦燥とが見て取れるのだから。 「あんたたち、まさか誰か戻ってこれなく――おや、ちゃんと五人いるねぇ?」  首を傾げる女将に、エルナクハは人数分の代金を差し出し、詮索を封殺する。 「悪い、おばちゃん。とにかく休ませてくれや」 「あ、ああ、あいよ。誰か手を貸しとくれ――!」  女将が声を上げるのに、ぱたぱたと数人のメディックが駆け付けてきた。  彼らは見習いメディックだ。薬泉院での教習を終え、実地訓練を兼ねて方々の宿屋に配置されている。その役目は、宿を使う冒険者達が戻ってきた時に、怪我の治療をすること。教習終えたての治療師の卵とはいえ、大概の怪我なら治療できる。彼らの手に負えないほどの怪我になると、その時は薬泉院の出番である。  そして傷の治療が終われば、冒険者達は、マッサージを受けて身体をほぐしたり、風呂に入ったりして、心の方を癒すことになる。  宿泊者向けのサービスではあったが、別所に滞在している者でも、所定の代金を払えば利用できるのである。  あたふたと傷の消毒をし、包帯を巻いていく、アベイに比べればまだ拙い手つきのメディック達の治療を視界に入れつつ、エルナクハも、他の冒険者達も、己の心を静めようと試みる。  落ち着け、落ち着け、いくら心が逸っても、今の状態で戦いに挑むのは、自殺行為だ。  昨晩の宴の時に見た、穏やかなフロースガルの顔が、脳裏に浮かぶ。続いて浮かんだクロガネの姿は、つい先程、樹海で見た、血まみれの姿だ。あの血は、クロガネ自身のものだけではなく、その相棒のものもきっと混ざっていただろう。そう思うと、親しく言葉を交わしていた者がもういないという事実と、先走りを止められなかった無念とで、歯が軋み、拳に力が入る。 「すいません! もう少し力を抜いてください!」  メディック達の懇願が、思考を現実に引き戻した。  治療を受け、心を落ち着け、万全の態勢を整え終えるのは、日も沈み掛ける頃になると思われる。  ちらりと窓から外を見ると、朝は好天だった空には、薄雲が侵食を始めていた。そのうち太陽を覆い隠し、ラガードを薄暮の色で包み込むだろう。  今晩は樹海から月の光を見ることはできないだろうな、とエルナクハはぼんやりと思った。  再び訪れた樹海内部は、いつもよりも濃い闇に包まれていた。  ラガードの上空を侵食した雲は、予想通り、夜になっても晴れることはなく、樹海に差し込む月の光は一筋たりとも見うけられない。昼に比べると比較的静かな夜の樹海だが、闇が濃いと、些細な音ですら際立って聞こえる。そんな中、ちりちりと鳴る鈴の音は、獣避けの鈴。ハイ・ラガードに来たばかりの時には手に入れられなかったものだが、今は(金さえあれば、だが)好きなだけ入手できる。  心身の調子を整えた『ウルスラグナ』討伐班一行は、ランタンの光の中、目標が待ち受ける広場への道を辿る。  ランタンとはいっても、火を使う類ではない。複数の触媒を混ぜ合わせて発光させるもので、うっかり落としても延焼の危険はない。ほのかに熱を持つが、熱いというほどでもなく、腰に下げても邪魔にならない程度に小型化できる。それを全員が携えていた。問題は、もともとが逃亡補助用の、瞬間的に発光させる仕組みを土台にしているせいか、持続性が不安定で、五分と保たないときもあるということだ。アルケミストがいなければそれっきり。まだ一般社会に広めて使えるようなものではない。 「ユースケ、ここで一発、前時代の知識で何とかしてくれ」 「無理言うな」  エルナクハの懇願は却下された。 「っていうか俺だって電球の――ああ、と、前時代の明かりだけど、その仕組みなんか知らないよ」 「……思ったんだけど」と口を出すのはオルセルタである。「ヴィズルも前時代人で、アベイよりいろいろなことを知ってたはずなのに、それを再現しなかったのは、なんでなのかしら?」 「さぁな」妹の疑問に兄は肩をすくめる。「オレらには無理、とか思ったんじゃねぇか。作る方か、使う方かは、わかねぇけどよ。なにしろ前時代はいろいろやりすぎて滅んだっていうしな」 「……いろいろと、考えさせられる問題です」  アベイの隣でフィプトが俯いて言葉を連ねる。 「アルケミスト・ギルドでは、日々研究が重ねられてるんですが……時折、それを表に出していいものか、という研究もあるんです。たとえば、大分前に届いたレポートにあった話で、黒化(ニグレド)――毒使い達が、凄まじい力を秘めた毒石を発見したそうなんですが、採掘現場に立ち会った者が皆、具合を悪くしたとか……救助に当たった者も、と……それが――」  途端、アベイが足を止めた。くるりとアルケミストに向き直ると、肩を強く掴む。  目を白黒させるフィプトに、アベイは低い声で強く言葉を発した。 「それを表に出しちゃダメだ……! 絶対に再現しちゃいけない前時代の技術があるなら――その毒石の利用方法が、そのひとつだ……!」  普段からは想像も付かないメディックの様子に、仲間達は思わず目を見開いた。アベイ自身も、顔を青ざめさせて震えているのだ。  何かを言いたそうなフィプトの言葉を遮る勢いで、アベイはさらに続けた。 「ヘタすりゃ、そいつは一瞬で数十万の人間と無数の生命を滅ぼす魔王に化けるぞ……!」  数十万の人間を一瞬で殺すなど、どれだけの精鋭を揃えても無理難題である。少なくとも、人間業では。  神の存在すら凌駕する力を持っていた前時代――その闇の一端を、伝聞でとはいえ、冒険者達は垣間見た。 「安心してください、アベイ君……」  フィプトはしっかりと頷いた。その目に悲しそうな光が宿るのは、未知の物質を調査できない口惜しさがあってのことか、と皆は思った。  そうではなかった。 「人間には触れてはいけないものが確かにある――それくらいはアルケミストでも解っています。封印しましたよ、その毒石の採掘現場は。なにしろ……具合を悪くした人達は、皆亡くなってしまったんです。メディックすら手に負えない症状を発して」 「……そうか」  悲しそうな、しかし、安堵も混ざった表情で、アベイはフィプトの肩を放した。  冒険者達は目的地への歩みを再開したが、それまでとは違い、沈黙がしんしんと降り積もるだけであった。  そもそもがキマイラと相対する景気づけのために、無駄話をしていたはずだった。誰が悪いというわけでもないが、どこから深刻な話になったのか。  いずれにしても、無駄話の時間が終わったのも確かだった。  揺れるランタンの光の中に、ぼうっと、扉が浮かび上がったからだ。  その向こうに、魔物を呼び寄せる百獣の王を擁する、魔宮への扉が。  道なりに点々と続いていた、変色し掛けた血の痕は、その扉の前では、もはや点とは言えない広がりとなって残っていた。 「せんせい、あかり、ちょうだい」  と、ティレンがフィプトに手を差し出す。  野生の獣でもない『ウルスラグナ』にとって、闇の中で戦うのは至難の業だ。明かりが切れたら不利どころの話ではない。戦闘中に誰かの明かりが消えても影響が少ないように、五人全員がランタンを携えているわけだが、今、ティレンの持つそれの光は不安定に揺れていた。 「ああ、反応が保ちそうにないですか……」  フィプトは自分の荷袋から触媒を取り出し、ランタン用の調合を始める。  その様を背に、エルナクハはオルセルタと共に頷き合い、閉ざされた扉に手をかけた。  左右に割れた扉が、引き戸のように、鈍い音を立てながらずれていく。   「――!」  その瞬間、冒険者達を死の予感が包み込んだ。  見えざる鉤爪が肉体を掴み、そのまま心臓まで圧殺してきたような、おぞましい気配だった。  キマイラがどれほど強くても、まさかエトリア樹海で戦った竜族よりも強い、ということはあり得ないだろう。それらを圧してきた冒険者達にとって、この程度の気配は幾度も感じ取ってきたものだ。しかし、備えた直感は、当時の力を失った肉体の状況を把握し、心のどこかに残っている自負と過信を払い落とし、自らの生命活動を停止させかねない強さを正確に推し量って危機を告げた。  そんな直感を無視せずに来たから、ハイ・ラガードでの最初の一月強を『ウルスラグナ』は生き延びてきたのだ。  だが、警告を無視するのと、聞き入れながらも敢えて進むのとでは、その意味合いは天地ほどに違う。 「フィー兄さん、ティレン、準備はいい?」  ランタンの準備をしていた二人に、オルセルタが問う。 「はい」 「ん」  背後でそれぞれの返事がするのを聞きながら、エルナクハは、扉の向こうの闇の彼方、おぞましい殺気の漂ってくる方向を見据えていた。  殺気は――ひとつではなかった。  強大なひとつの他に、もう少しは弱いものがいくつか、感じ取れる。  強大なものがキマイラなのは間違いない。他のが何者かは、推測はできるが、実際にどうかは判らない。  目を凝らすと、百獣の王の膝元へ向かう道を飾るようにある低木や瓦礫が見えるのだが、その向こう側から、キマイラ以外の気配はするのだ。  王の下に向かう者に襲いかかってくるのか、それとも――戦闘の最中に乱入する気か。  エルナクハはエトリアでの戦いを思い出した。第一階層の最奥、狼を束ねる白い獣スノードリフトとの戦いを。ライバルギルド『エリクシール』と協力して行ったその戦いでは、スノードリフトの下僕である狼どもが、戦闘の最中に乱入しようと迫ってきていたのだ。幸い、ちょっとした小細工のおかげで、狼どもが乱入する前にスノードリフトを片付けることができたが、もしも乱入されていたら、肉塊になっていたのは自分達だっただろう。  少数を多数で撃破するのは、兵法の基本だ。  相手が多数にならないように、なんとかできれば――。 「ユースケ、鈴、残ってたっけ?」  パラディンはメディックに問いかける。 「どっちだ?」 「誘き寄せる方」 「眠らせるんじゃなくてか?」  鈴鉄製の鈴は、製法次第で、魔物を誘き寄せるか眠らせるか、全く違う力を持たせることができるらしい。 「眠るのはちょっとの時間だけだろ」  アベイから鈴を受け取りつつ、エルナクハは目を細め、姿の見えない敵を睨め付けた。 「そんな短時間で倒せるヤツとは思えねぇよ。だったら、先に大掃除、ってヤツだ」  王との接見を求める者のように、静かに進む。  低木や瓦礫の向こうに潜む気配は、動きを見せない。総勢五、六体か、と冒険者は当たりを付け、そして。  ランタンを掲げ、正面を、見た。  その膝元に近付くには、まだ距離がある。それでも、その姿は特徴的な影として、ぼんやりとした光の中に照らし出されていた。  全体的な姿は普通のものより三まわりほど大きな獅子のよう。しかし、頭が三つあるように見えないか。そして、背には大きな翼を備え、コウモリのそれのような広がり方をしている。尻尾は獅子というより――いや待て、尻尾の先からちろちろと出入りしている細いものは何だ?  キマイラとはよく名付けたものだ。尻尾は蛇そのものだ。伝説に倣うなら、余分な頭はたぶん山羊の形をしている。  威容にして異様。紛れもない強敵の相だ。少なくとも、今の『ウルスラグナ』には。  冒険者達は陣を組む。アベイとフィプトを中心に置いて、その周囲を囲む三角形の頂点に配されるように、残りの三人。使者の暗殺に備えて配置された護衛のように、冒険者達の様子を窺う気配に備えて。  エルナクハは引き寄せの鈴を手にした。さしもの彼も、自分達を取り囲むものが一斉にかかってくることを考えると、緊張を隠せない。  隣でオルセルタが剣を抜く。背後でフィプトが触媒を錬金籠手に組み込み、アベイが医療鞄の蓋を開ける。後方でティレンが斧で風を薙ぐ。 「……行くぜ」  全員の準備が完了したことを確認すると、エルナクハは鈴を持つ手を伸ばし、からから、ころん、と振った。  鈴の音の有効範囲を考えて、百獣の王には届かないようにしているつもりだ。事実、王は動かない。  だが、本来の目標である王の下僕達には、効果覿面であった。  冒険者を取り囲む四方から、翼が風を孕む音がする。身を隠していた低木や瓦礫の影から飛び出してくるのは、コウモリの翼を持つトカゲのような赤い生き物。両手で持てる穀物袋ほどの大きさ(翼長除く)は、この樹海の敵性生物の中では、決して大きいとは言えないものだった。しかし、言うまでもないが魔物の危険度は大きさでは量れない。  空を自由に舞い、想像を絶する速度ですれ違いざまに、熱を秘めた爪で冒険者の肉体を掻き払いに来る、古跡の樹海の中でも有数の強敵である。  こんな情報がすらすらと頭に浮かぶのは、今回が初見ではないからだ。  初めて見かけたのは四階だった。奴らは、自分達が縄張りと定めた領域の空を悠々と飛び回っていた。肌で感じる気配に、冒険者は正面から当たる愚を知って、慎重に遭遇を避けたのだが、うっかりしてしまうときもある。必死に対抗したが、やはり一人か二人は『落ちて』しまうものだった。それでも『ウルスラグナ』は誰も死ななかったから、まだいい方だろう。冒険者達の中には、ほとんど全員を失って、引退を余儀なくされた者もいるのだ――中にはギルドごと消滅した者達も。  この魔物の通称『獣王のシモベ』とは、キマイラのことを調査していた衛士の生き残り――『ウルスラグナ』が助けた衛士バイファーが、大公宮でたまたま再会した時に、教えてくれたものだ。 「百獣の王は、そのまわりに、翼を持つトカゲのようなシモベを控えさせているのです」  故に、衛士達はかの魔物を『獣王のシモベ』と呼ぶ、と。 「ああ、やっぱりオマエらだったか」  エルナクハはひとりごちた。衛士の話を考えれば、隠れていたのはこのトカゲ達である可能性は高かったが、実際にどうかはわからなかったのだ。  シモベの総数は、気配がした時から予測したのとほぼ同じ、六体。からころと鳴る鈴に注目しながら、出現位置で円を描くように上空を飛んでいる。やがて、中の一体が、ついに我慢しきれなくなったか、『ウルスラグナ』に向かって急降下を敢行した。釣られるように他のシモベ達も体勢を変えていく。 「来るぞ! ユースケとセンセイは右に待避!」 「ティレン、おいで!」  黒い兄妹の声が陣の再構成を促した。  右、というのは、最初に特攻してきたシモベから離れる方面だった。だが、そちらの方からは、二体目が迫り来ている。そいつが乱入するまでには、一体目を片付けなくてはならない。  もう少し強かったら、戦闘中の緊張を維持するために、わざと相手の乱入を誘う手もある。例えばバードの歌は、聞く者の内なる力を呼び覚まし、その効果は、敵に打ち消されなければ、戦闘状態にある限り維持される。しかし戦闘が終わり、緊張が解けるのと同時に、効果も解けてしまう。そんな状況を防ぐためにである。  だが、今は、乱入されると不利な点が多すぎる。一体ずつ確実に落とすに限る。 「センセイ、ユースケ、触媒や薬は極力控えてくれ!」 「了解っ」 「はいっ」  エルナクハは後衛の返事を効くと、前衛の戦士達を引きつれ、空飛ぶトカゲに相対した。  先陣を切るのは最も素早いオルセルタである。全身のバネを使って跳躍すると、トカゲの翼に斬りつける。ぐらりと体勢を崩したトカゲに、さらにエルナクハが追撃を与える。高度を落とすトカゲは、しかし往生際悪くオルセルタに爪を伸ばすが、ダークハンターの少女にはかすり傷となっただけだった。忌々しげに鳴くトカゲの脳天に、ティレンの斧が食い込んだ。  姿に似合わぬ恐ろしいトカゲだが、生命力自体は低いのだ。初めて出くわした時ですら、意外とあっけなく落とせたことに驚いたものだ。まして今、初見の時よりも成長している自分達なら。  エルナクハは地に落ちたトカゲを踏みにじりながら叫んだ。 「おらぁ、次来いや!」 「兄様、後で皮剥ぐんだから粗末にしないで!」  オルセルタが叱咤を飛ばしながら後衛の方へと走った。二体目がすぐ傍まで迫ってきていたのだ。  シモベ達との戦いは、楽とまでは言えないが、安定したものだった。致命的な傷を負う者は出ず、トカゲの屍ばかりが積み重なっていく。あわやという時もあるにはあったが、機をよく読んだフィプトの術式が飛んできて、トカゲを凍り付かせた。この樹海が初めての冒険であるアルケミストも、もはや初心者とは呼べまい。 「弱ぇ!」  四体目を落とした時、エルナクハは一言だけ嘲った。  五体目に剣を食い込ませた時、地を踏む軸足に、それまでとは違う感触を得た。  視線を落としたエルナクハは、一瞬、頭に血が上りかけた。  知らずのうちに踏んでいた金属の板。聖騎士達が肩当てからぶら下げる、己の所属や信条を示す紋章を施した金属板だ。  血にまみれたそれに施された紋章に、見覚えがある。  その本来の持ち主である、赤い長髪の聖騎士のことが、脳裏に浮かんだ。  ティレンに止めを刺されたトカゲの断末魔を耳にし、我に返ると、エルナクハは、腹の底から浮かんできた怒りを発散するかのように、闇の奥に座する百獣の王に向けて叫んだ。 「自分の傍に置くシモベが、こんなに弱くていいのか、百獣の王!」  六体目――最後のシモベが、奇声を上げながら迫りくる。しかし、狙い澄ましたオルセルタの一撃がその片目を切り裂いた。突然に制限された視界に戸惑い、シモベは喚きながら滅茶苦茶に飛び回る。しばらくの後には片目に慣れたか、残る瞳に憎悪の輝きを爛々と宿し、翼を広げた。これまでにも幾度か喰らった、冒険者達の間を飛び回り、爪で抉ってくる、『音速飛行』と名付けられたものの前兆だ。やがて翼をすぼめ、重力を加速力の一部として利用しながら凄まじい速度で迫ってくる。 「させるか!」  すれ違いざまに、音速の爪で抉られたエルナクハの血と、聖騎士の剣に抉られたトカゲの体液が、ぱっと散り、ランタンの光の中に降る。トカゲの勢いはそれでも止まらず、飛び回りながら、爪で次々に冒険者達を抉っていった。  ち、とエルナクハは舌打ちをしたが、その表情には勝利の確信がある。  仲間達の負った傷は浅くはないが、それでも全員が自らの足で立ち続けているから。  超速で飛び回ったトカゲの動きが鈍り、上空へ退避しようとするその瞬間、ティレンの斧の刃が空を断つのを見た。鈍い音がして首がもげ、明後日の方に転がっていく。体液を吹き上げる、首のない胴は、どさりと地に落ちた。  百獣の王の神殿には、再び静けさが戻ってきた。  だが、当然ながら、まだ終わったわけではない。  アベイの応急処置が終わると、冒険者達は、武具を構えたまま、じりじりと王に迫った。  足を運びながら、聖騎士は再び吠え猛る。 「オマエ、上の階から強い獣を呼んでたらしいな。なのに、自分のまわりに置いてたのは、こんなヤツらばっかか。はは、つまりは、相応の奴らには振られて、こんなのしか支配できなかったんだろ。王の名が泣くッ!」  内心は嘲笑とは違う。『こんなの』でも、王と共にやってこられては厄介な連中だった。それでもエルナクハは王を貶めた。人としてどうかとも思う気合いの入れ方だが、強敵に相対する心を鼓舞するには最適だ。  足が止まったのは、キマイラの絶対攻撃圏内ぎりぎりに到達したからだ。  百獣の王は冒険者達に牙を剥き、低いうなり声を上げる。この距離ならばはっきりと判る、獅子の顔の両肩にある山羊の顔ふたつは、草食獣らしからぬ光を両目に輝かせ、蛇の首をした尾は鎌首をもたげて、荒い息の音で威嚇する。  あと一歩踏み込めば、戦いになる。  冒険者達は各々の戦いの準備を整えた。前衛の武器の刃がランタンの輝きを反射し、後方で錬金籠手の稼働音が鈍くうなる。  聖騎士は、戦を指揮する采配のごとく、剣を百獣の王に向け――腹の底からの声を上げた。 「フロースガルの弔い合戦だ! 王サマを玉座から引きずり下ろしてやろうぜ!」  戦いに突入して数合も手合わせない内に、エルナクハは激しい後悔に包まれた。  ――早すぎた。  もちろん、フロースガルのせいではない。彼の死を知って仇討ちに燃えたせいではない。  きっかけがそうだとしても、今この時に決着を付けることを選んだのは、自分達自身なのだから。  しかし、今となってはどんな思惑も無意味。後悔に心を鈍らせたら、自分達の行く手に待つのは、『死』ひとつしかない。  生きて帰りたければ、ここまで培ってきた力を信じて立ち向かうしかないのだ。 「ぐあっ!」  キマイラが振り下ろした爪が鎧の薄いところを叩く。痛みに身をよじらせたところをもう一撃。さしものパラディンも地に伏し掛けた。剣を支えとして、辛うじて倒れるのを防ぐ。  アベイが何かを叫んで駆け寄ってこようとするのを、視界の端で認識した。  来るな、とは言えなかった。この傷の手当てには彼の力が必要だ。  エルナクハやアベイは言うに及ばず、他の仲間達も自らの持てる力を最大限に発揮して戦いに挑んでいる。  オルセルタの使う剣技は、ダークハンター特有の変幻自在のものである。彼女が会得している技の中で、樹海内の魔物にも通じるほどに上達しているのは、『ヒュプノバイト』と呼ばれる、剣先の軌跡によって相手の経点を突き、敵を催眠状態に掛けようとするもの。そもそもが確実に眠らせられるものではない上に、キマイラの動きの前には正確に点を突くのも至難のようだ。それでも、経点周辺は生物にとって比較的弱い部分らしく、普通の攻撃よりも効果があるように見える。  ティレンの斧は、雑魚に振るわれるときとは桁違いに、渾身の力を込めて放たれていた。『デスバウンド』と呼ばれる斧使いの強打。樹海の『外』で生半可な人間相手に振るえば肉体を両断しかねないその技も、今は目標を上手く捉えかね、必殺とまではいかない。それでも、斧の刃が食い込むところから血が吹き出て、着実にキマイラにダメージを与えているのが分かる。  後方からは雪のごとき白が吹き付けてくる。フィプトの錬金籠手から吹き出した触媒の反応物だ。それは周囲の熱量を吸収し、強烈な冷気を発する。ここまでの冒険で何体もの『ウルスラグナ』の敵を葬ってきた、氷の術式は、キマイラに対しても相当の効果を示していた。前衛の戦士達の攻撃で付いた傷までもが、冷気の前に凍り付いていく。  しかし、キマイラは倒れない。さすがは百獣の王、絶大な耐久力を誇って、冒険者の前に立ちふさがり続ける。  一方の冒険者達も、キマイラの攻撃、特に、両前肢によって行われる『双連撃』とも言うべきもの――巨大な鎚で叩くような強力な二回攻撃――によって、じわじわと傷ついていく。  これでもエルナクハが、攻撃は他の二人に任せ、自身は前衛の防御に専念しているから、まだ少しはましなのだ。 「無理するな……なんて言えないよな」  調合した特製の回復薬をエルナクハに差し出しながら、アベイがぼやいた。 「だから、こう言っとくぜ。……好きなだけ無理しろ、生きてる限り、俺が治療してやるから!」 「はは、サンキュ!」  エルナクハは薬を一息に飲み干した。メディカにしろメディック特製の薬にしろ、本当は傷口にも塗布した方が効果が高いのだ。だが、今はそんな暇もないのが実情。生体が備える自然治癒力を引き上げる力と、痛みを和らげる効力とを、当てにするしかない。実際、飲んだだけでも期待通りの効果があり、傷がじわじわと塞がり、流血が止まり、痛みが引いていくのが分かる。ちゃんとした治療も戦闘後にしなくてはならないが、まだ戦える。 「オマエにゃメディックがいないからな、最後まで立てるのはこっちだぜ!」  エルナクハはキマイラに向けてそう吠えた。  実は、彼も含めて『ウルスラグナ』の誰も知らないことだが、先に倒してしまったシモベ達には、キマイラの傷を癒す役があった。それどころか、自分の仲間の闘気を引き上げ、攻撃力を増す能力もあった。これまでにキマイラに挑んできた者達の敗因には、乱入したシモベの補助能力にも一因があった。『ウルスラグナ』がシモベ達を一掃したのは正解だったのである。  このまま押せば、こっちの勝ちだ、ざまぁ見ろ。  己の心を鼓舞する呪文のように、エルナクハは自分達が勝利する様を心の声としてつぶやいたのだが。 「きゃあ!」  不意に、横合いから熱を感じたと同時に、オルセルタの悲鳴が上がった。熱は瞬時に痛みに変わり、エルナクハもまた悲鳴を上げて倒れることとなる。  キマイラの口元からちろちろと覗くものを見て、何があったのかが把握できた――奴は炎を吐いたのだ!  狙われたオルセルタは、炎に包まれた身体を地に転がし、懸命に消火しようとしている。だが、それでもまだ幸運だったはずだ。隣のエルナクハにさえ届いた炎の威力を考えると、本当に直撃されたなら一瞬で炭になっていてもおかしくはない。 「行くぜ!」 「頼む!」  アベイに妹の治療を頼んで送り出すと、エルナクハは、心配げに駆け寄ってきたティレンに苦笑いしつつ愚痴を言う。 「オレが喰らってたら、たぶんオマエの方にも届いただろうよ、あの炎は」 「ん」 「まったく、口に鉛の塊でも突っ込んでやりたいぜ」  そう言いながらも、エルナクハは盾で、突っ込んできたキマイラの爪を防いでいる。炎を吹きまくれば簡単に魔獣の勝ちになるのだろうが、そうもいかないようだ。冒険者達にしてみれば僥倖である。  そうして聖騎士が敵の注意を引いている間に、アベイはオルセルタに薬を飲ませる。ハイ・ラガードで手に入る薬品に合わせて研鑽してきた薬品調合の技術は、エトリアにいた頃と同じとまではいかないが、頼りになるものとしてギルドに貢献している。急所を庇ったためか、とくにひどい状態になっている腕に、薬を塗り、そっと包帯を巻きながら、アベイは黒い肌の少女に言葉を掛けた。 「終わったらちゃんと治療するからな。いくら戦士でも女の子なんだ、傷は残らない方がいい」  オルセルタは礼を言いながらこっくりと頷いた。戦士として傷つく覚悟はいくらでもある。ただ、少女としてはやはり、残った傷跡に溜息を吐くこともある。だからアベイの言葉は素直に嬉しかったのだ。しかし、それを隠すかのように毅然と言葉を発した。 「もう大丈夫だから、そろそろ後ろに戻って。兄様もいつまでもあいつを引きつけてられないと思うから」 「ああ」  アベイは頷いて立ち上がる。オルセルタに手を伸ばし、少女が立ち上がるのを助けた。  薬が効いているとはいえ、まだじんじんとした感覚の残る腕を預け、立ち上がったオルセルタは、傍に転がっている剣を拾い上げ、兄に前肢を振り上げるキマイラを睨め付けた。視界の端で白衣がひるがえるが、今のオルセルタにとってはそれは注視の対象ではない――はずだった。  キマイラがそれまでにない動きを行い、それに注目したオルセルタの目は、自然とアベイに向く。  ランタンの光の中で、倒れるアベイを包み込むように広がる白衣と、吹き上がる鮮血を、少女は目の当たりにした。  アベイを一撃で引き倒したものは、キマイラの尾だった。  戦闘前に、しゅるしゅると威嚇の音を立てていた、蛇の首。この戦いでは今まで何もしていなかったそれは、冒険者達にとっては警戒の範囲外だった。キマイラ本体の攻撃に集中させられ、尻尾のことなど忘れさせられていたのだ。  それが、突然に鎌首をもたげ、ひゅるりと身体を伸ばした。  伸びてみれば思いの外に長かった蛇は、後列に戻ろうとしていたアベイの一瞬の隙を突き、その首を狙った。オルセルタが見たのは、その様だったのである。  倒れたアベイは、それだけならまだよかっただろう。動けさえすれば、薬を調合するなり、メディカを鞄から出すなりして、体力を回復させることができたから。だが最悪なことに、蛇の牙には毒があったようだった。  鞄に手を伸ばすアベイの動きはぎこちなく、不自然に震え、跳ねる。断続的なうめき声を発しながら、それでも鞄を開けようとするが、体力はそこまでは保たなかった。一瞬、ぴたりと動きを止めると、激しく痙攣しながら血を吐き、数度咳き込み、鞄に身を預けるように、くたりと動かなくなった。  その様に、オルセルタは、我知らず悲鳴を上げていた。  しかし、惨劇はまだ続いていた。アベイの異変にオルセルタが気を取られていた頃、彼を噛んだ蛇の尾はもう一人の犠牲者を生んでいたのである。 「うわ!」  アベイの窮状を見かねて駆け付けようとしていたフィプトに、蛇はその毒牙を向けたのだ。  メディックと同じように首筋に噛み付かれたアルケミストは、最初の犠牲を目の当たりにしていたからか、対応が早かった。とっさに蛇を掴むと、たぶんこれから使おうとしていたのだろう、氷の術式を、そのまま発動させたのである。思いがけぬ反撃に蛇は即座に獲物から離れ、戻っていく。 「せんせい!」 「大丈夫、毒は、喰らってませ……ん……」  ティレンの呼びかけに笑いながら答えたフィプトは、しかし、そのまま倒れ伏した。  毒は喰らわずとも、蛇の牙による攻撃の時点で、耐えきれなかったのである。反撃はそれこそ必死のものだったのだろう。  あっという間に戦闘不能になった後衛の惨状を目の当たりにし、前衛の戦士達は、そろって背を冷や汗がしたたり落ちていくのを自覚した。  ネクタルはある。飲ませれば再起できるだろう。だが、ひとりだけだ。『ウルスラグナ』にとってネクタルはまだ高価で、数を揃えられるものではなかった。 「小生のことは、捨て置いて、下さい」  辛うじて意識はまだあったのか、フィプトがかすれた声を上げた。 「どうせ、さっきので、術式は打ち止めでした。あれ以上は、小生の、気力が保たなかった……だから……」  その言葉に「わかった」と返事をできる余裕があったら、どれだけよかっただろう。  ネクタルの体力回復の効果は微々たるものである。一階をうろついていた頃にはそれでも御の字だったが、経験を積んで肉体も鍛えられた今では、他の薬も併用しなくては話にならなかったのだ。  普段の探索時ならそれでも充分だ。だが、このキマイラという強敵の前では使用がためらわれる。  せっかく立ち上がらせても、別の薬で体力を回復させる前に再びの攻撃で倒れ伏す、という、堂々巡りの可能性もあるのだ。そうしたら本当に後がない。そもそも、他の回復薬は、すでに使い果たした。  一度退いて出直したくても、今の状況では、背後から襲撃されて殺されるのが関の山だ。  後が、なくなった。  戦闘突入後に早くも抱いていた後悔が大きくなるのを、エルナクハは感じた。  ここまで、なのか。  ――否、後悔するのは、あの世でやっても遅くはない。自分と同じ名前の戦女神の前で、「読みが浅かったです、ごめんなさい」と頭を下げるまでは、キマイラごときの前で心を屈せさせるわけにはいかない。 「エル兄」  ティレンが呼びかける声で我に返る。視線で何事かを問うと、幼げなソードマンは、キマイラを指差して、ぼそりと告げた。 「キマイラ、痛そう」 「……痛そう?」  エルナクハは怪訝に思いつつも、敵を注視して、はっと息を呑んだ。  思えば相手にとっては今が追撃の好機。なのに反応が鈍い、ということに先に気付くべきだった。  キマイラも、冒険者達の攻撃でかなり消耗していたのだ。眼光こそ衰えていないものの、息は荒く、山羊の頭の片方などは、あからさまに垂れている。蛇の尾での攻撃も、追いつめられたための必殺の一撃だったのだろう。 「お互い様、ってわけだったのね」  滴る汗を手の甲で拭いながら、オルセルタも頷く。  自分の両脇にある戦友達に、エルナクハは思い切って声を掛けた。 「なぁオマエら、何かあったら、あの世まで付き合ってくれるか?」 「なに? 今さらそんなこと?」  笑いながらオルセルタが即答した。 「私、兄様と一緒に死んだら、さすがの兄様も戦女神の前じゃどれだけ小さくなるのかなー、って、見るの楽しみにしてるのよ?」 「イヤな楽しみだな。――ティレン、オマエは?」 「いっしょ」と、ソードマンの少年は短く答える。  エルナクハは満足げに何度も頷いた。 「それじゃ、ここでウダウダやっててもジリ貧だからよ、いっそ一暴れしようかって思うんだけどよ」 「賛成」 「一世一代の賭け、って感じ? 一世一代のくせに、ここまで生きてきた中で何回やったかしらねー」  ティレンは素直に、オルセルタは混ぜ返しつつ、提案への賛同の意を示す。  再び、エルナクハは満足げに頷いた。 「じゃ、オルタはよ、失敗したときにユースケとセンセイに詫びる内容、考えといてくれや」 「イヤよそんなの。死んでから考えます」  軽口を叩き合いながら、それぞれの武器を再び構える。  キマイラは、相手が急に動き始めたことに勘付くと、自分の肉体の不調に引きずられていた意識を立て直し、うなり、牙を剥く。蛇の尾が活発に動き、まだ立っている敵三人を睨め回しながら、威嚇の息の音を吐いた。  蛇が来るか、炎が来るか、あるいは双連撃か。その前にとどめを刺せなければ、こちらの全滅だ。  もしそうなったら、悪いな。  エルナクハは心の中で妻ともうひとりに詫びて、しかし、いいや、と否定した。  詫びる必要なんかない。ここで倒れるつもりは毛頭ないから。死を覚悟したわけではなく、これからやるのは、生を掴むための最後の悪あがきなのだ。  黒い肌の聖騎士は、周囲に朗々と響く声で、悪あがきの開始を宣言した。 「バルシリットの戦士の名に賭け――そうじゃないのもいるけどまぁいいや、華々しく暴れてやろうぜ!」  もしも、その少し後に百獣の王の魔宮を訪れた者がいたとしたら、壮絶な光景に息を呑んだだろう。  一体の大きな獣のまわりを、三人の戦士が囲んでいる。ただ囲んでいるだけではない、キマイラの身体には戦士たちそれぞれの武具が食い込み、パラディンの頭には獣の前肢が、ダークハンターの脇腹には獣の牙が、ソードマンの少年の首には蛇の毒牙が、それぞれ食い込んでいる。そのように見えた。  彼らを照らすのは、ただ、冒険者達が携えたランタンだけである。傍に倒れ伏した二人のものも含め、五台のランタンは、しかし、何台かはちかちかと瞬き、光を弱めようとしていた。  時が凍り付いたような静けさの中、最初に動き始めたのは、獣王でも冒険者でもなかった。  さわさわとざわめき始めた森の木々の隙間から、ゆっくりと、青白い光が差し込んできたのだ。幾条もの光は、舞台を照らす明かりのように、魔宮を、動きのない獣王と冒険者達を、遍く照らし始めた。魔宮からは無理だが、『外』が見える隙間からは、ハイ・ラガード上空を覆っていた雲が晴れていき、満ちかけた月が覗く様を見て取れたことだろう。 「――遅ぇぞ、月神(イルヴィナ)、いいとこ見逃したんじゃねえのか?」  揶揄するような青年の声が、静けさを打ち破った。  声圧に押されたかのように、獣が、ゆっくりと倒れていく。パラディンを叩きつぶしていたはずの前肢が、ダークハンターを噛み砕いていたはずの牙が、ソードマンに食らいついていたはずの蛇の毒牙が、何の抵抗もなく離れ、倒れる本体の後を追う。横たわった百獣の王の身体から染み出す血が、月の光とランタンの光の中で、じわじわと草と地面を濡らしていった。  三人は、無事だった。互いの生死を決する最後の激突の際、獣王の生命は、彼らに傷を負わせるまでには持ちこたえられなかった。牙も前肢も、冒険者達へは、まさに髪の毛一筋分だけ届かなかったのだった。  言うまでもない、『ウルスラグナ』は強大な魔物に勝利を収めたのである。  ネクタルで、一番危ういアベイの再起を試みる。  毒そのものはすでに消滅しているようだったが、その呼吸は今にも止まりそうに細い。その半開きになった口元にネクタルの瓶をあてがい、無理矢理に飲み込ませた。  メディックの青年はうめき声を上げて、まぶたを開けた。  エルナクハを呆然と見つめる瞳が、不意に見開かれる。 「……キマイラ!」 「終わったよ」  アベイはエルナクハの指す方を見て、百獣の王が斃れているのを確認した。  危機は去った、と確信した、オルセルタとティレンは、安堵の溜息を吐くと、別口の作業に取りかかり始めた――シモベや獣王から、何かに使えそうな素材を剥ぎ取るのである。その様子を眺めつつ、アベイは心底申し訳なさそうにつぶやく。 「面目ない……」 「問題ねえよ。それより、少し休んだら、センセイを頼む」 「大丈夫だ、すぐやるよ」  アベイは自分の鞄を引きずりつつ、おぼつかない足どりでフィプトの元に赴いた。そこで根尽き果てたかのように、へたりと座り込む様を見て、他の三人は一様に、そんな様で薬品の調合は大丈夫なのかと心配した。だが、アベイが数度深呼吸をすると、その手つきには淀みは残らず、鞄の中から取り出した薬品を、いつものように的確に扱っていく。こりこりこり、と、乳鉢で粉薬を擦り、あらかじめ途中まで調合しておいた液体を混ぜる音が静かに響いた。  できあがった薬を、フィプトに飲ませ、傷口にも塗る。自らにも同じようにしていた。 「悪い、フィー兄。今の俺にできるのは、ここまでだ」  アベイの力量では、まだ、薬品調合でネクタルと同じような効果を出すことはできない。立ち上がる力を失った者に対しては、応急処置がやっとだ。しかしフィプトは首を振る。 「大丈夫ですよ、ありがとうございます。あとはラガードで、ツキモリ医師のお世話になります」 「コウ兄ならバッチリだ。エトリアでずっと見てた俺が保証する」  そんな会話の傍らでは、調合された薬の残りをもらった三人が、自分達の外傷にそれをあてがっている。  キマイラは倒したが、全員が満身創痍だ。できるなら早くラガードに戻って、ちゃんとした治療ないし休養を取るべきだろう。  しかし、冒険者達はそうしなかった。  どこか遠くから、獣の遠吠えが聞こえたからだ。  その声の正体が何なのか、冒険者達には、直感でわかっていた。 「はは、そうだった。クロガネを待たせてたな」  エルナクハは立ち上がって魔宮の入り口へと向かう。だが、途中で立ち止まり、しばらく動かなかった。どうしたのかと訝しく思う仲間達だったが、エルナクハが屈み込んで拾い上げたものを見て得心した。  それは、聖騎士が身につける、己の紋章を標した金属板――フロースガルの形見というべきものだった。  聖騎士の肉体そのものがどこに行ってしまったのかは、判らない。ただ、キマイラが、人間の手が届かぬところに持っていってしまったのだろう、という推測は成り立つ。クロガネの態度、金属板に付着する血の量、その他の状況、どれを取っても、かの聖騎士の生存に絶望の二文字を叩きつけるものばかりだ。  しばらく金属板を見つめていたエルナクハは、小さく首を振ると、フィプトに呼びかけた。 「どうする、センセイ。いっぺんラガードに帰るか?」  本来ならそうするべきだっただろう。満身創痍とはいえ雑魚との戦いなら何とかなりそうな仲間達と違って、フィプトは回復も充分ではなく、錬金籠手を扱う気力も尽きている。人の手を借りずに歩けるかどうかもおぼつかない。平たく言えば役立たずである。だが、それでもなおフィプトに選択肢を与えたエルナクハの心意気を、フィプトは受け取った。首を横に振って、答える。 「――足手まといになることは分かってます。でも、小生も連れてってください、彼の下に」 「承知した」  ティレンが駆け寄ってフィプトに肩を貸してから、冒険者達は、傷ついた身体を引きずりながら魔宮を後にした。  予備として残っていた、獣避けの鈴の音が、ちりり、と、空虚な魔宮に響いて消えた。  誇り高き獣は、まだ立っていた。  いつの間に彫像とすり替わったのか、と錯覚させられたほどであった。『ウルスラグナ』が朝方にこの場を訪れて立ち去った時と同じように、クロガネは地に四肢を突っ張っていたのだ。  まだ生きていた。安堵の息を吐き、黒い獣に近付いた『ウルスラグナ』は、あと数歩を詰めるところで、思わず立ち止まった。  アベイが行ったのは、あくまでも応急処置。本来なら、引きずってでも薬泉院に連れ帰らなくてはならない傷だった。いや、それも無意味だっただろう。いずれにしても、クロガネの傷は、処置をしても生命の流出は免れ得ないものだったのだ。  だというのに、獣の顔は安らいでいる。  自分達『ベオウルフ』の遺志を継いだ『ウルスラグナ』が、仇敵・百獣の王を討ち果たした、と察したのだろう。 「クロ!」  凍り付いた両足の呪縛を振り切り、真っ先に黒い獣の下に駆け寄ったのは、ティレンだった。  今にも泣き出しそうな顔を近づけるソードマンの少年と、その後から近付いてくる冒険者達に向けて、クロガネは小さく一声鳴いた。  まるで礼を言っているように聞こえる。  アベイが首を横に振りながら声を張り上げた。 「礼なんて言ってる場合か。ほら、目的は果たしたんだから、今度こそ街に帰って、ちゃんとした治療を受けるんだ」  分かっている。クロガネが助からないのは、治療をした自分が一番よく判っている。半日を過ぎても生命が残っている方が奇跡なのだ。生命を一人でも多く救おうとするメディックの使命を邪魔する、忌まわしい死の存在を否定しながら、心の中では、もはやクロガネには、苦しみを終わらせる死神の慈悲たる手が必要なのだろう、と理解していた。  黒い獣は、既に生死を超越したところに、今はいるのだろう。  不意に大きな動きがあったので、冒険者達は固唾を呑んだ。クロガネが頭を下げたのだ。何をするのかと思ったが、その口は、足下に置いてあった首輪――アベイが応急処置の際に外したものだ――をくわえ、それを、そっと差し出してきた。反射的に、一番傍にいたティレンが両手を出すと、クロガネはその中に首輪を落とす。 「なに、これ?」  訝しげに問うティレンの言葉に、言葉で答えるものはない。  クロガネは、首を伸ばして、ソードマンの少年の頬をぺろりと舐めた。続いて、その頭を、ごしごしと擦りつける。そして――。 「……クロ?」  そのまま、少年の胸に頭を預ける。そのまま、少年の腹に頭を擦りつける。そのまま、少年の足下に倒れ伏す。  自分の身体沿いに頭を滑り落としていく獣を、ティレンは呆然と見つめていた。  クロガネは、満足したのだ。志半ばで散った主人の遺志を、相応しいと見極めた者に託し、宿敵が打ち破られたことで。自分がこの世で成さねばならないことを全て果たし、安心して旅立ったのだ。  主人の下へ、かつて共にあった、キマイラに殺された仲間達の下へと。 「クロ」  枯れたような声でティレンは呼びかけた。がっくりと膝を折り、眠っているかのように安らかに目を閉ざす獣を抱き締める。普段は滅多に泣かない少年が、目尻に一筋の涙を浮かべ、その顔を獣にこすりつけた。先程、獣が少年にそうしたように。 「昨日、いっしょに冒険しよう、って、言った。言ったのに」  他の仲間達は、誰も涙を流さなかった。  少なくとも、目に見える形では。  木々の合間から差し込む月の光の中で、少年がすすり泣く声だけが、静かに続いていた。  やがて、その場に、人一人が入れるくらいの穴ができあがった。  エルナクハとティレンが力を合わせて掘り抜いたその中に、息絶えた誇り高き獣の亡骸が収められる。  その上に置かれるのは、血まみれの金属板――相棒である聖騎士の紋章を標されたもの。 「これがありゃ、相棒の匂いも忘れねぇだろ。ま、オマエが忘れっこないだろうけどな」  寂しげな、優しげな輝きを目に浮かべ、エルナクハはつぶやく。  隣にいたティレンと頷き合い、掘り上げた土を再び穴に戻そうとした、その時だった。 「――兄様、わたしがやるわ。だから、歌って」 「歌え?」  横合いから掛けられたオルセルタの言葉に、エルナクハは小首を傾げる。一体何を歌えというのか、こんなときに――と考えて、己の愚問に青年は内心で苦笑した。こんなときだからこそ歌う、それもわざわざ自分に請われる歌など、ひとつしかない。 「ホントはオマエが覚えるはずだったんだぞ」 「ごめんなさい」  わざとしかめっ面で述べる兄と、肩をすくめる妹。  何事かと問うように視線を向ける仲間達の前で、エルナクハは、鞘に収まったままの剣に、抜けないように留め金を掛けると、柄ではなく鞘を持ってそれを振るう。何かの神を奉じる神官が錫杖を振るうかのように、彼の姿は見えた。  いや、そもそも彼は神官の息子なのである。常日頃はそんな出自を微塵とも感じさせぬ聖騎士は、目を閉ざし、朗々と歌いだした。その声は、かつて三階で非業の死を遂げた衛士達に祈りを捧げた、その時のものに似てはいる。だが、あの時のものはあくまで簡素なもの、彼かその妹が故郷に戻り、神官職を継いだとしたら、今のように朗々と神韻を謳い上げるのだろう。 天地並(な)べて しろしめし給う 神々よ 勇敢なる子等 身罷りし子等 ここにあり 偉大なる 御身等の慈悲 待ち望み 残されし我等 言葉尽くして 請い願う 翼よ翼よ いかなる道を指し給う 母なる神よ 御身の下に 迎えしか 高き翼よ 猛き魂 望みしか 遠き海処(うみが)よ さらなる旅に 導くか 汝等友よ いかなる道を 望むとも 我等が下に 汝等の遺志 遺されし ここに送らん 涙の雫(しずり) 珠にして いつかの見(まみえ) 契る縁(よすが)の 形代に  山岳の民の古い言葉で吟じられるその歌を完全に理解できた者は、オルセルタしかいなかった。しかし、切々と響く声に、死者への手向けを確かに感じるまま、冒険者達は勇者達を終の棲家に埋めていく。やがて、穴が完全に塞がると、冒険者達は頭を垂れ、束の間の祈りを捧げた。神を信じる者は神に、信じない者も、己の心の裡にある何かに。  死者への儀礼が終われば、今度は生者のことを考えなくてはならない。『ウルスラグナ』はまだ生きている。生きているなら、己が生者の地に留まり続けるために成すべきことをしなくてはならないのだ。  アベイがアリアドネの糸を荷物から取り出し、磁軸計と繋いで、転送能力起動のための電力を糸軸から流している。それを横目に、エルナクハはつぶやいた。 「オルセルタ……」 「なに?」  その名を持つ妹が、反応して声を上げる。兄は苦笑いをした。 「悪ぃ。オマエじゃなくて海の女神サンの方」 「なんだ。でも、どうかしたの?」 「ああ。せっかくならアイツら、この世(こっち)に戻ってこねぇかな、って思ってよ」  彼らの海の女神は、死者をこの世に再誕させる役割を担うと伝えられていた。 「そしたらよ、いつか、手合わせを頼むんだ。アイツらと力試しやってみてぇと思ってたんだけど、こんなことになっちまったからな」 「ちゃんと、手合わせしていいかどうか訊くのよ」  妹は呆れたような顔で返事をした。エトリア樹海の冒険に出る前、騎士団領に務めていた兄が、エトリアに向かおうとする聖騎士に無理矢理決闘を吹っかけた、という話を思い出したからである。  エルナクハは何か返事をしようとしたのだが、アベイが呼ぶ声に遮られた。  糸が元来備える性質に従い、円を描くように繰り出されると、その中に、誘発された小規模な磁軸の歪みが、目を凝らさなくては見逃しそうな陽炎のように、ゆらゆらと揺らめき始めた。すでにフィプトと、彼に肩を貸すティレンが、揺らめきの中に踏み込もうとしている。  陽炎に溶け込むような姿の片方が、名残惜しげに、勇者の埋葬された地に顔を向けるのを、見た。それも見る間にかき消え、儚い揺らめきはさらに細く、今にも潰えそうになる。『ウルスラグナ』全員が踏み込むまでは、余程の時間を置かない限りはなくならないものだが、心細いことこの上ない。  アベイとオルセルタも踏み込み、もはや目を凝らしても判らないほどになってしまった磁軸の歪みの前に、エルナクハは佇んだ。  意識は、後方、勇者達の眠る墓に向いている。  その口が、かすかに別れの言葉を紡いだ。 「あばよ、『ベオウルフ』。この世か、あの世かで、また会うときまでな」  エルナクハの願いは、彼の想像を遙かに超えた形で叶えられることになる。  しかしそれは、まだ、ずっと後の話である。 第一階層――栄えし獣たちの樹海 END