世界樹の迷宮 ハイ・ラガード編:Verethraghna 第一階層前――天の樹海に魂の帆をかけた冒険者達  ハイ・ラガードの公都は、不思議な構造をしている。多くの建物は、中心を成す巨大な樹『世界樹』に寄り添うように建造されているのだ。  高地として知られ、寒冷地帯に属するハイ・ラガード。しかし、そんな場所でも、人間は順応し、住み着いてしまう。もとより、(おそらくは世界樹の力で)豊かな植物相に恵まれていた場所、生きるには悪くない場所だったことは違いない。  ハイ・ラガードは、海に面した港町も擁するものの、その領土の大半を高地の最北に持つ、小さな国である。さらに北方には低地帯がはるか彼方へと続く。領土北方にある、世界樹を擁する公都は、高地から少しだけ離れた、いわば離れ小島のように、屹立している。高地から橋が建造され、街の中心部はその橋から大きく上下しない場所に――つまりは高地側の地面とさほど変わらない高さに、集中して造られていた。  ハイ・ラガード公都内に高地側から入る道は、未だに、この橋一本だけである。  守りやすく攻めにくい立地だ、とエルナクハは思った。曲がりなりにも騎士であるせいか、そういうところに目がいってしまう。  ここ数十年、大陸では、さほど大きな戦は起きていないが、小競り合いはいくらでもある。そして、戦で殺し殺される人間に、戦の大小は関係ない。エルナクハも、『都市国家同盟』が『王国』の脅威に備えて出資・結成した『フェンディア騎士団領』の騎士団のひとつ、『百華騎士団』に、冒険に出る前には所属し、『第十九位・紫陽花の騎士』のふたつ名を頂いていた者である。当然、有事があるものとして、それなりの研鑽はしている。単純な武力だけではなく、戦に付随する様々なことも。白状するなら、戦技以外はあまり成績はよくなかったが。  さておき、この公都のような、立地的に孤立した場所において、一番の問題は、『補給』である。  だが、仮にそうなったとしても、世界樹の迷宮がある限り――エトリアの迷宮のように恵み豊かなものだったらの話だが――問題はなきに等しいものだろう。公都は理論上、永遠に籠城を続けられる。もちろん、樹海から恵みを持ち帰れる最低限の強さを持つ者が必要だが。  ここ数年、虎視眈々と周辺を伺っているという『神国』あたりが苦々しく思っているかもしれねぇな――そう結論付けることで内なる意識に決着を着け、エルナクハはようやく現実に立ち返った。  大陸側と公都を結ぶ橋のたもとには駐屯所があり、衛士達が橋を渡ろうとする人々を整理し、素性を改めている。 「さて、ティレン」  朝靄の中に並びいる人の行列を見ながら、パラディンの青年は、自分と共に先頭に立つ、赤毛のソードマンに問うた。 「オレらが何の問題もなく街に入るには、いくつかの手段がある。次に挙げる中で一番いい手だと思うのを当ててみろ」 「う、うん」ごくり、と唾を飲み込むような真剣さで、ティレンは年上のパラディンを見る。  エルナクハはその前に手を突き出し、指折りながら言葉を続けた。 「一.武器を抜いて戦いたまえ――強行突破。  二.君はかの衛士に心からの贈り物をする必要がある――賄賂を贈ってみる。  三.情に訴えるのも、またひとつの手だろう――病人がいる、と叫んでみる」 「エル兄、おれ、困った」  ティレンは悲しそうな目で訴えた。 「答が出せない。どの答も、いらない気がする」 「遠慮する必要はありません、ティレンドール」  唐突に後方から声を掛けられた。  理知的な眼差しに侮蔑の意を込めてパラディンに投げかける、アルケミストの姿がそこにある。 「ティレン、今あなたが抱えている思いを最も簡単に表現する方法を教えて差し上げます。――さあ、パラディンに向かってお叫びなさい。『バカ』と」 「ばか」叫びこそしなかったが、ティレンはセンノルレの言葉に従った。 「おいおい、夫に向かってバカたぁ何だよ」  エルナクハは苦笑いを浮かべて弱々しい抗議を試みた。  実際、この件に関してはエルナクハの提案はどれも相応しくない。ハイ・ラガードの入り口は『ウルスラグナ』に対して閉ざされているわけではないからだ。彼らはただ、衛士達の簡単なチェックを受け、布令に従ってやってきた冒険者であることを明らかにし、堂々と街に入ればいいのだ。  とはいえエルナクハの馬鹿話も、暇つぶしの役には立ったようだった。気が付いてみれば、自分達がチェックを受ける番は、すぐそこまで迫ってきていたのである。 「ようこそ、ハイ・ラガード公国公都へ」  橋の高地側のたもとで通行人を改めていた、二人の衛士の片方、若い男が、『ウルスラグナ』一同に声を掛けてきた。 「よう、お疲れさん」  やはり、エルナクハ自身も、自分が提示した三つの態度のいずれも取らなかった。  人なつこさげな聖騎士の態度に、衛士の視線が緩む。 「あなた達は、冒険者御一行殿ですか?」 「おう、『ウルスラグナ』っていうんだ。今後ともヨロシク」 「おお、あなた方が、かの高名な!?」  名乗った途端、まだ宮勤めとなって間もない風体の青年衛士は目を輝かせた。 「噂は聞いております! こちらを訪れる冒険者の皆さんが、今度こそはあなた方に手柄を取られてなるものか、と、奮い立っておいででしたから」  もう片方、後続の訪問者達を改めている、ベテランとおぼしき壮年の衛士は、あからさまな態度こそ控えているが、ちらりちらり、と、興味深げな眼差しを向けてくる。そんな先輩の目から逃れるかのように、青年衛士は声をひそめた。 「エトリア執政院から、迷宮制覇の証を授けられたと伺っておりますが……」  意味ありげに中途で切られた言葉の真意を悟ったエルナクハは、苦笑しつつも、首を振った。 「わりぃな。余計なものは、一切合切エトリアに置いてきてんだよ」  エトリアの王冠――王政でもないのに『王冠』とはこれいかに、と突っ込むこともできなくはないが、さておき、それは、『ウルスラグナ』の偉業に対するエトリア執政院ラーダの、最大限の敬意の証であった。しかし、それを『ウルスラグナ』は、旅立ちの時に置いてきた。王冠だけではない、それまで使っていた武器や防具も、全てだ。基本的な武具のみを身にまとい、「一からやり直しなんだぜ、強すぎる武具はいらねぇ慢心の元になるだけだろ」と、エルナクハは豪語した。  ちなみに、『真竜の剣』という、エトリア樹海最強の竜達の逆鱗から作り上げられた剣のみは、『ウルスラグナ』の意思とは無関係に、姿を消した。どうやら『元・真竜の剣』であるらしい金属クズの塊が残っていただけで、かの剣の生命とも言える逆鱗は三枚ともなくなっていた。あるいはそれは、「もはや我らの力など必要あるまい」ということだったのかもしれなかった。  青年衛士はやや消沈したようだが、それでも目を輝かせ、冒険者を見つめた。 「いえ、いえ、拝見できないのは残念ですが、それくらいであなた方の偉業を疑うようなつもりはありません!」  ほとんど舞い上がっている風体の青年衛士の傍らに、ふっ、と、軽く吹きかけられた吐息のように近付いた者がいる。ブシドー・焔華である。彼女は、不思議な訛りのある言葉を、やんわりと口から紡ぎ出した。 「衛士どの。そろそろお仕事に戻らんと、後でセンパイから大目玉くらいますし」 「え? は、はっ!?」  青年衛士、我に返り、そおっと先輩の様子を窺う。落雷五秒前といった塩梅の表情を見いだし、あたふたと敬礼。 「こっ、これは失礼を致しましたッ!!」 「で、オレらは、街に入ったら、どこに行けばいい?」  ギルドマスターの問いを受け、青年衛士は、足下に置いていた鞄の中から羊皮紙を一枚引き出した。  手渡されたその紙には、木版刷りと思われる地図が記してある。起点は現在地である橋のたもと。目的地として強調されているのは二ヶ所。番号が振ってあり、一番目は『冒険者ギルド統轄本部』、二番目は『ハイ・ラガード公宮』であった。  ひとまずは、通称『冒険者ギルド』で、この街で活動する冒険者としての手続きを済ませ、しかる後に公宮へ赴け、ということであろう。  エトリアで駆け出しの冒険者として起った時にも、似たようなことをした記憶がある。承知、との意を込め、エルナクハは無言で頷いてみせた。  仲間達に視線をめぐらせ、先に進む意思を見せたパラディンだったが、しかし、アルケミストの呼びかけに足を止める。 「……どうしたよ、ノル?」 「フィプトの住居がどこかを伺わないと……」 「ああ、そうだったな。すっかり忘れてたぜ」  センノルレが口にした名『フィプト』とは、ハイ・ラガード公都にて私塾を開設しているという錬金術師の名である。センノルレとは姉弟弟子の間柄にあり、その縁を頼って、『ウルスラグナ』は慣れない土地(ハイ・ラガード)での活動の一歩を踏み出そうとしていたのであった。  パラスなどは、「なんだ、『歓迎・ウルスラグナ御一行様』とか書いた旗振って出迎えてくれるんじゃないんだ」という与太を口にしていたが、到着日もはっきりしない分際で、そんな出迎えを期待する方が間違っているだろう。もちろん、パラスとてそのくらいはわかってて敢えて言っている節があるのだが。  ともあれ、フィプトという名を耳にした青年衛士が、いかにも「やっべ忘れてた」と言いたげな表情で、またも鞄から羊皮紙を引き出してきた。先程のとは違い折りたたまれて封緘されたそれを開くと、木版刷りではなく、ペンで手書きされた文章が現れた。それも、必要充分とばかりに短い。 『毎日、朝九時、正午、午後三時、午後六時の計四度、一時間ずつ、冒険者ギルド統轄本部でお待ち申し上げます』  人柄を――少なくとも他者と接する際にかくあろうとする態度を想起させる、丁寧な文字である。簡潔な用件の後には、淀みのない筆記体で、『フィプト・オルロード』なる署名がなされていた。 「地図があれば、直接、家まで行ける……」  不満、とまではいかずとも、案内図が同封されていなかったことが不思議そうに、ティレンが声を上げる。  それをたしなめるように、センノルレが答えた。 「仕方ありませんよ。フィプトの家は、自宅というより、私塾の一室を間借りしているようなものだそうですから。我々のことを知らない子供達と顔を合わせることになるかもしれません」 「……何か、問題、ある?」  やはり腑に落ちない感のあるティレンであった。センノルレは呆れたり怒ったりすることなく、説明を続ける。端から見ている仲間達、特に男性陣にとっては、彼女が変わったという感慨を禁じ得ない。『ウルスラグナ』に加入したばかりの頃の女錬金術師だったら、怒りはしないにしても、呆れたついでに余計な一言を付け加えていたことだろう。 「大ありなんですよ、ティレン。まだ冒険者を迎え入れて日の浅いこの街で、普通の人達に冒険者がどう思われているか、よくわかっていないのですから、子供達を驚かす可能性がある真似は謹まないと」  なにしろ、我らがギルドには、カースメーカーがおりますし、とセンノルレは後方を振り返る。視線を受けたパラスが、てへ、とばかりに肩をすくめた。彼女はカースメーカーとは思えないほどに明るいが、外から見ればやはりカースメーカー。地域によっては激しく忌まれる呪術師達が、ハイ・ラガードでどう思われているか、まだ定かではない。冒険者に接する者達はいいとしても、子供達は、どうか。  身につけているのが私服ならば、突然訪ねても問題はなかっただろう。だが、今の『ウルスラグナ』は、冒険者としての装備をしっかりと身につけていた。それは、橋の上の衛士達に、自分達が間違いなく冒険者であることを最も簡単に証明するためであり、すでに街にいる同業者に対するアピールでもある。  『ウルスラグナ』を知る者にはもちろん、知らぬ者にも、その自信に満ちた姿は、心にこう刻ませることだろう。  手強そうなライバルが現れた、と。  最初の目標地点である『冒険者ギルド』に向かう途上の今も、エトリアで見知った顔を幾人か見かけていた。  ライバル心は別として気安く挨拶を返してくる者、緊張しつつも手を差し出す者、対抗心を露わにする者、舌打ちして立ち去る者――態度は色々だが、彼らの存在に、『ウルスラグナ』は、まるでエトリアの狂騒の時代に立ち戻った気分を味わい、懐かしさに酔いしれそうになるのだった。  冒険者ギルド統轄本部に到着した時、時刻は午前九時少し前を指していた。  エトリアでもそうだったのだが、冒険者が互いに寄り合って作り上げた一集団単位を『冒険者ギルド』といい、かの施設は街に集まる冒険者ギルドを管理する立場にある。よく『冒険者ギルド』と略されるため、一集団単位の方の『冒険者ギルド』と紛らわしいが、そのあたりは話の流れや文脈からの判断を求められていた。  行政区にほど近いところにある、冒険者ギルド(統轄本部)の建物は、数ヶ月前より始まった樹海探索のために供されたものにしては、立派なものだった。自治都市ならば執政院の建物に使われていてもおかしくない風格からは、ハイ・ラガード大公が冒険者達に寄せる期待の程が伺える。  その立派な建物の、やはり立派な門構えをくぐり抜け、『ウルスラグナ』は冒険者ギルドの中へと足を踏み入れた。  内部は静けさに支配されていた。冒険者の登録の他、登録済みの冒険者が樹海探索班を変更するなどの諸手続の度に立ち寄る必要がある施設だが(エトリアと同じ仕組みなら、だが、たぶん一緒だろう)、今は、早朝から樹海へ赴くことの多い冒険者達の来訪も、一段落付いた頃合いだと思われる。数人の衛士が、部屋奥の棚の前で書類らしきものの整理をしている以外の、大きな動きはない。  棚の前の、入り口側から見れば左方を向いた大きな黒檀の机に、全身鎧を着込んだ騎士が向かっていた。  驚くべきことに、兜まで着用しているので、性別すら定かではない。兜の下方からこぼれ落ちる、波打った長い金髪からは、女性との印象を受けるが、髪の長い男も普通にいるから決定打ではない。他の者達とは一線を画した雰囲気の彼(という三人称を、性別がはっきりするまでは使うことにする)が、ギルド長――冒険者ギルド統合本部執務役なのだろう。  彼はどうやら執務をしているようだったが、『ウルスラグナ』の気配に気が付いたのか、やおら立ち上がり、見回すかのように、兜に覆われた頭を廻らせた。かつん、と床に突かれたのは、鞘に入ったままの儀礼用の剣である。肩当てにある紋章からは、彼が確かにハイ・ラガードの正騎士であることが読み取れた。 「ん……」と、兜に阻まれて少しくぐもった声が、吐き出された。やはり、男女の区別ははっきりしない。 「お前たち。見ない顔だが、旅の冒険者か?」 「ああ」  エルナクハは躊躇うことなく答えた。 「だとするなら、その目的は――」  さらに言葉を紡ぐ騎士の次なる声を先取りするかのように、 「当然、世界樹の迷宮の探索だ」と、紫陽花の騎士は続ける。 「ふ……」と兜から出された音は、その中の騎士が笑ったがためのものだろうか。  騎士は再び頭を廻らせた。居並ぶ冒険者達を値踏みしているようにも見える。ふと、ギルドマスターの盾に目が留まったようだった。横方向だった首の動きが、今度は縦方向に変更される。まじまじとギルドマスターを観察すると、ようやく、言葉を続けた。 「『百華騎士団』の紋章の盾を持つ、黒色民族の青年……そうか、お前たちが」  納得するかのように、数度頷く。 「エトリアの街を救ったという伝説のギルド、『ウルスラグナ』か……」  救った、という言葉を耳にし、冒険者達に苦笑が浮かぶ。  一体全体、ここハイ・ラガードに、エトリアの顛末はどのように伝わっているのか。  しかし、少なくとも敵意を持たれている解釈ではないようだったので、この場は黙って、ハイ・ラガードの騎士の言葉を待つことにした。 「お前たちが来るだろう、という話は聞いている。待っていたよ」  話をしたのは、おそらくは錬金術師フィプトであろう、と冒険者達は思った。『ウルスラグナ』がハイ・ラガードを訪れることを知っているのは彼だけのはずだからだ。あるいは、エトリアでも見知った冒険者達が、「『ウルスラグナ』は必ず来る」と宣していたのかもしれないが。  エルナクハは騎士に一歩近付くと、口を開き、問いを投げかけた。 「オレらは、ここで登録をすればいいのか」  答は単純明快。 「無論だ。お前たちに、その勇名を再びこのハイ・ラガード公国で轟かせる気があるのならば、な」  騎士は続けて何かを言うつもりだったようだが、ふと言葉を切った。 「ふむ……」  とつぶやいた言葉は、少し残念そうに聞こえる。 「微妙なところだな、お前たち」 「何がだよ?」 「明日であれば、年の初めという記念すべき日に、お前たちの再起を轟かすことができたであろうに」 「そんなもん、いいよ」エルナクハは苦笑して手を振った。  騎士は軽く剣を床について小さな音を立てると、再び問う。 「一日遅らせなくていいのか?」 「いいって! 年始めだろうとなかろうと、ギルドの中身に変わりあるわけでもねぇ!」 「……そうか」  騎士の返答は、いささか残念そうでもあった。  まったくもう、とエルナクハはぼやくのみだったが、彼の仲間の中では、それだけでは済まさない者がいた。 「年の初めって……ハイ・ラガードでは初夏が年の初めになるのぉ?」  吟遊詩人マルメリである。余所とは違う暦に、興味が出たのだろう。  騎士は吟遊詩人に顔を向け、 「うむ。我らが始祖が『空飛ぶ城』から大地に降り立った、という明日、皇帝ノ月一日が、ハイ・ラガードの正式な新年だ」  胸を張っているような印象を感じさせる声音で、説明を始めた。 「そうだな……他国とは、半年ばかりずれがあるな。昔ならいざ知らず今は、祝いごとなどは他国の暦に合わせて行っていることが多いから、明日も、『新年』というにしては、華やぎはないものになるだろうが……」  再び、騎士は軽く剣を床について小さな音を立てると、またも問う。 「そんな地味な新年でも、記念にはなるだろう。一日遅らせなくていいのか?」 「だからいいって! しつこいなぁ!」  エルナクハはやけっぱち気味に叫んだ。  だが、そうしながらも、内心で思う。  つまりは、この騎士は、個人的にも『ウルスラグナ』に多大な期待を寄せているのだ。だからこそ、公国の大事な日取りに合わせてギルドの名乗りを上げればいいのに、と気を回している。その気持ちは大変にありがたいのだが、ハイ・ラガードの新年に思い入れがない身としては、ちょっと勘弁してほしいところであった。  ギルド登録自体は問題なく終わった。各々の手による署名がされた書類に軽く目を通すと、ギルド長は頷いて口を開く。 「ところで、エトリアからの手紙を預かっているのだが」 「誰から?」  とティレンが声をあげたのは、彼にはエトリアから手紙をくれる者の見当が付かなかったからであろう。  ギルド長が雑用をしていた衛士に声をかけると、その衛士は頷いてどこかへ姿を消し、やがて再び戻ってくる。その手には、二つのものが携えられていた。ひとつは、ごく普通の封書であったが、今ひとつは小さめの小包のような形をしている。一旦開封した痕があるのは、着いた施設が施設である以上、致し方あるまい。 「小包の方は『ウルスラグナ』宛てだ。封書の方は、……ナギ・クード・パラサテナ宛になっているが」 「あ、私です、それ」  しゃらしゃらと鎖を鳴らしながら、今はカースメーカーの正規の姿をまとう少女が進み出る。そんな彼女に封書を手渡しながら、世間話に近いもののつもりでか、ギルド長は言葉を発した。 「小包の方と、差出人は一緒だな。エトリア執政院付正聖騎士ナギ・クード……」  不意に言葉を切るギルド長。目の前のカースメーカーの少女をまじまじと見つめ(たぶんだが)、 「……そういえば同じ苗字だが、親族か?」  聖騎士と呪術師、という、正反対に見える者同士の繋がりが、掴みづらかったようである。そんな問いには慣れているのか、そもそも気にしていないのか、パラスは機嫌を悪くすることもなく、嬉しそうに笑みを浮かべ、頷くのであった。 「はい、はとこなんです!」  早速、封書の端を破り始めるカースメーカーを横目に、エルナクハは小包を開けながら得心していた。そういえば、エトリア執政院に入った、元ライバルギルドの少年騎士が、パラスと手紙をやりとりするという話をしていたか。  包みが半分ほど開かれたところで、おや、と小さくつぶやき、手が止まる。  小包であるから、入っているのは手紙だけではないのはわかる。だが、その中身が問題だ。中から引き出すと、それは思った通り、かつ予想外の品物であった。  若干の異物を混ぜて頑丈にした金の、繊細な細工を中心とし、様々な輝石や半貴石で飾られたそれは、サークレットと呼ぶべきものであった。その物体に、エルナクハはもちろん、『ウルスラグナ』の全員が、見覚えがあった。 「……置いてきたんだけどなぁ」と、エルナクハは苦笑気味につぶやく。  それは『エトリアの王冠』と呼ばれるものであった。  ハイ・ラガードに踏み込むときにも、見せてほしいと衛士から暗に請われた代物である。しかし、ハイ・ラガードに持ち込むのは気恥ずかしさもあり、『余計なもの』として他の武器防具一切合切諸共エトリアに置いてきたはずのものだ。  だが、授与されたときとは根本的に違う点がひとつある。『予想外』とは、そのことだ。  極端に『減って』いるのである。  そもそも『王冠』は、『王冠』の名にふさわしい形をしていたはずだ。サークレット状の細工は、その前面を飾るものにしか過ぎなかった。  どういうことだ?  同じように小首を傾げる仲間達に『王冠?』を預け、とりあえず、エルナクハは同封の手紙に目を通すことにした。 『ウルスラグナ』御一同様  お久しぶりです。皆様無事にハイ・ラガードに到着なされたでしょうか。  この手紙を皆様がお読みの頃には、そちらでは、ようやく夏の兆しが見え始めた頃合いかと思います。ご当地の夏場はエトリア含む自治都市群とは違い、涼しくて過ごしやすいと聞きます。そのかわり極めて短く、秋の足音も早いとか。冬場の支度を怠らないよう、お気を付け下さい。  早速ですが、この度、小包を送らせて頂いたのは、お忘れ物をお届けするため。  エトリア執政院から、樹海の謎を明かした皆様へとお送りした、『エトリアの王冠』です。  私とて、元は一冒険者として在った身、皆様がこれをエトリアに置いていった理由は、なんとなくわかるつもりです。おそらく我々が樹海の謎を明かし、これを送られたとしても、どこかへ旅立つときには置いていったことでしょう。  しかし、皆様が置いていった武具の中にこれを見つけられたオレルス様の落胆ぶりは見もの(注:この単語は二重線で消されている)見ていられないものでした。  結局、冒険者に差し出すには仰々しすぎるのだ、ということで話は一旦落ち着いたのですが、どういうわけか、ハイ・ラガードに送って差し上げろ、という、おかしな話になってしまいました。  その末が、ご覧頂いている、『王冠』の成れの果てです。  シリカが腕を振るって、『王冠』を組み直しました。彼女の弁に依れば、 『樹海探索に付けていっても邪魔にならず、かつ、それなりの役に立つように。それでいて、控えめではありながら、そこはかとなく品位は感じ取れるように組み直したつもりだ』  とのことです。私の目から見れば、その条件は満たしていると思えるのですが、いかがでしょうか?  よろしければ、お納め頂ければ幸いです。  最後になりましたが、今後の皆様のご活躍を、エトリアよりお祈り申し上げます。  いつかエトリアにお戻りになるときには、是非、ハイ・ラガードでのご活躍を直接伺いたいものです。  いえ、本音を申し上げれば――このような望みは、冒険者相手に持つべきではないかもしれませんが。  酒場で語られるような華々しい活躍などしなくても構いません。ただ、堅実に、ご無事でありますよう。  手紙の末尾には、『ウルスラグナ』のカースメーカーと同じ苗字を持つ少年騎士の署名と、エトリア執政院の印が押されていた。  事情がよくわかっていないようなギルド長は、「その証に相応しい働きをこの公国でも見せてくれる、と期待しているぞ」などと言っている。 「やれやれ、だぜ……」  仲間に手紙を渡すのと引き替えに王冠を受け取ると、エルナクハは癖のある赤毛を軽く掻きむしって、ぼやいた。  だが、いろいろと複雑な思いを抜きにして判断するなら、『エトリアの王冠』は得難い装備品である。各所に付けられた貴石の秘める力が装備者の力を補助してくれる。シリカの手で軽くされてしまった今は、かつてほどの力はなかろうが、その代わりに、身につけていてもそれほど気恥ずかしくない形にはなっていた。 「まあ、新たな一歩に対する祝いってことで、もらってやってもいいか……」  実際、頭部装備には、兜のように純粋に頭部を護るものの他に、頭に軽い刺激を与え、邪魔な髪を押さえる、精神集中が必要な者達には欠かせないものもある。エルナクハはアベイを呼ぶと、王冠だったものを手渡した。 「せっかくだから、オマエ使え、ユースケ」 「ええっ、俺が!?」 「メディックが強くなるのは、ギルドにとっても望ましい。諦めて使え」 「うー……」  メディックは首を振りつつも、観念したか、えいや、と王冠だったものをかぶった。「似合う似合うー」と女性陣が囃し立て、ティレンが「おー」と感嘆の声をあげる中、しかし『ウルスラグナ』の残る一人、レンジャー・ナジクだけは何も反応しなかった。どうしたのかと思えば、ギルド登録の際に渡された資料を、視線で穴を開けんばかりにじっと見つめている。やがて、顔を上げると、レンジャーは物静かな声をあげた。 「これはどういうことだ、ギルド長」 「どうした?」  訝しげなギルド長の声に、ナジクは資料の一点を指し示す。 「『冒険者ノ登録ハ臣民登記トシテ記録サレル』……僕達に、ハイ・ラガードの国民になれ、というのか?」 「ああ、それか」  よく聞かれることなのか、ギルド長は詰まることなく滑らかに答を返す。 「世界樹の探索はな、この国の民にしか許されていないのだ。我々が父祖の来たる道、世界樹様、と親しんできた神木だ、それが他国の者の思いのままにされるのは、あまりいい気持ちではない。もちろん、国としての利益的な問題も含めてだがな」 「他国の者の、思いのまま、か……」  ナジクのつぶやきは、自分が通ってきた道に照らし合わせてのものか。 「そんなわけで」とギルド長は続ける。「世界樹に挑む冒険者には、臣民となってもらうことにした。なに、悪い話ではない。過去は問わぬ。偽名でも構わぬ。他国の貴族でも、お尋ね者でも、誰も気にせぬさ。今現在から将来、この国に不利益を働かない限りは、ハイ・ラガードはお前達を公国民として護ってみせよう。ただひとつ、お前たちに望まれるのは――」  ギルド長は言葉を切った。その場にいる全員に言い含めようと、注目を待つかのように。 「――お前たちに望まれるのは、世界樹の迷宮に挑む冒険者であること、だ」 「エルナクハ……誰かが来たようだ」  ギルド長の言葉に納得したのか、無言で頷いていたナジクが、再び口を開く。  レンジャーの青年の言うとおり、『ウルスラグナ』の背後で、入ってきたときにしっかり締めたはずの扉が、かすかな軋み音を立てる。  振り返る冒険者達の目の前で、扉はゆっくりと開き、建物の外の光景をあらわにした。  朝靄が治まった街並みを背後に従え、しかし、支配者然としてではなく、あくまでも風景の一要素であるかのように馴染む人影がひとつ、そこにあった。その眼差しは躊躇も緊張もなく、まっすぐに『ウルスラグナ』を見据えている。 「おお、毎日ご苦労だな」  ギルド長が、人影にそんな言葉を掛ける。 「ようやくおいでになったぞ、待ち人が」  その声音がきっかけであったかのように、人影は比較的大股で、ゆっくりと、建物内に踏み込んでくる。  『ウルスラグナ』も、銘々に立ち上がって、かの者を待った。 「――ひさしぶりです、姉(あね)さん」  顔を突き合わせたところで、相手――短めの金色の髪を自然になびかせた男が口を開く。いかなる悪ガキの悪戯をも優しく厳しく包み込む教師を思わせる声だ、とエルナクハは感じた。センノルレが彼を私塾の教師だと言っていたが、彼にとってはまさに天職なのではあるまいか。  そんなことを思うパラディンの後ろで、「フィプト」と、センノルレが声を上げる。 「お久しぶりですね」 「ええ、事情は手紙で大方掴みましたが、お元気そうで何よりです」  嫌悪感は欠片すら抱かせない、柔らかな笑顔が、姉弟子に向けられているのを、冒険者達はぼんやりと眺めていた。そのまま彼ら同士にしかわからない細々した会話に突入するのだろうか、と思われたが、さにあらず。金髪の錬金術師はすぐさま『ウルスラグナ』一同に身体を向けた。  にっこりと笑み、腰を折り、錬金術師は己の正体を己自身の言葉でつまびらかにしてみせたのであった。 「小生はセンノルレ・アリリエン師の弟弟子、フィプト・オルロードと申します。冒険者ギルド『ウルスラグナ』御一同様、以後、お見知りおきを」 「お、おう……いや、はい」  受け答えるエルナクハの口調は、いつもの傲慢不遜聖騎士のものではなくなっていた。彼とて騎士団に所属した身、礼儀作法が必要なときには最低限の線は超えてみせられる。もっとも、子供の頃の彼に礼節を教える先輩騎士達がどれだけ苦労したか――は、今現在は関係のない話である。  ちなみに、ギルド長と話しているときに敬語を使わなかったのは、あくまでも冒険者としての対応でいい、と判断したからであった。 「フィプト師、ワタシは、冒険者ギルド『ウルスラグナ』のギルドマスターを拝命する、エル――」 「ああ、堅苦しい敬語はナシにしましょう」  口元に緩やかな笑みを浮かべた、金髪の錬金術師が、やんわりと言葉を遮る。 「あなたが、ギルドマスターのエルナクハ殿、ですね?」 「確かに。しかし――敬語はナシにしようったって、アナタは……」 「小生のは性分です。お気になさらず」  錬金術師の申し出に面食らったエルナクハは、しばし口ごもったが、結局は言うとおりにすることにした。  本音を言えば、敬語は苦手なのである。 「じゃあ改めて。アンタが、センノルレの弟弟子のフィプトか」 「ああ、やっぱりあなたには、そちらのしゃべり方の方が合う」 「んあ?」  エルナクハ、思わず間の抜けた声と共に動きを止めてしまった。フィプトの顔には憧憬を思わせるものが浮かんでいたからである。否、憧憬というか、なんというか、あれだ。顔も知らない異性と手紙のやりとりをしていたものが、実際に会う段になり、相手が自分の理想通りとわかったときには、このような顔をするのではあるまいか。  いや、まさか、そっちの気はあるまいな?  エルナクハは危惧しなくもなかったが、それは、フィプトが声を落とし、ひそひそとささやきかけてきたときには、すっかりと吹き飛んでいたのであった。なにしろ、こんなことを仰せになるもので。 「で、『燃える氷の才媛』と言われていた姉さんを落とした決め技はなんだったんですか?」 「き……きめわざ?」  さすがのエルナクハも絶句せざるを得なかった。 「何かあったんでしょう? アルケミスト・ギルド時代にはね、何人もの男が姉さんに玉砕してきたんです。けんもほろろにね。それを落とすなんて……」 「おいおい」  苦笑いしつつもエルナクハは肩をすくめた。  彼自身、何か特別な事をしたつもりはない。ただ、ギルドメンバーとして共に行動しているうちに、自然とこうなった、というしかあるまい。  正直、エルナクハ自身も、『その夜』が明けたとき、自分の隣で裸で眠るセンノルレを見て仰天し、しばらく動揺したものだ。  大地母神(バルテム)よ、オレは一体何をしたんだ、と。  それにしてもこの男、フィプト・オルロード。かつてのセンノルレのような、杓子定規な堅い人物だと思っていた。だが、顔を合わせてみればこれだ。いくらアルケミストといっても様々な性格がいるのだから、別段不思議ではない、と頭ではわかっているのだが、実際にこのような軽い面を見いだすと、ほっとする。この男、馴染むのにはそう時間もかかるまい。  一方、エルナクハの思う『かつては杓子定規だったアルケミスト』は、夫と弟弟子の内緒話に立腹気味である。 「なにを、ひそひそと話しておいでなのです?」 「な、なにをってだなぁ……」  まさか当人に、当人の話をしていたなどとは言えない。言えるのなら、最初からひそひそ話になどなっていない。男二人は、ちろちろと視線を合わせる。  ――アレで行くか。  ――ええ、アレで。  初対面のくせに、驚くべき息の合わせっぷりである。  エルナクハは、無駄に胸を張ると高笑いを始めた。 「はっはっは、ハイ・ラガードの歓楽街の場所を教えろ、って言ってたんだよ」 「ええ、どこですよ、とね」とフィプトが話を合わせる。  センノルレの眼鏡の奥の目が、きらりと光る。 「ほう、妻を前に女遊びの相談ですか」  ゆらぁり、と背に陽炎を浮かべたような女錬金術師の様に、エルナクハはやけっぱちのように叫んだ。 「いやその、オマエにだって浮気上等っていっただろ!」 「だからといって、わたくしが夫の浮気を許すと思っているのですか?」 「おーい、痴話ゲンカは外でやってくれー、ってギルド長が言ってる」 「私は何も言ってないぞ」  アベイの茶化しに、引き合わされたギルド長が憮然と応じる。 「犬も食べない……おれも、食わない」  とある慣用句を思い出したか、ティレンが訥々と口を開いた。  もやは「バカ」の枕詞を出す気力も失せ、オルセルタが溜息一つ。  他の仲間達も、目の前で広げられる状況に笑いを浮かべる。  それは、彼らがエトリアに集い、一年を超えるほどの長い間、行動を共にしてきた間で、よくあること、ないし、あり得ると容易に受け入れられることであった。  だが、数年間の間隙を経て姉弟子との再会を果たしたフィプトにとっては、あまりにも信じられない、意外な思いを禁じ得ないものなのだろう。エルナクハの話に合わせながらも、目を白黒させ、姉弟子の様子を窺っているのであった。  フィプトの私塾は、主幹区域を取り囲む街壁から石段を少し下ったところにあるという。街壁の外ではあるが、寄り添うような位置にあり、有事に備える衛士達の目も充分に届く場所だという。万が一があっても、混乱さえしなければ、いち早く街壁の中に逃げ込むことができるだろう。  もともとは、何年か前にハイ・ラガード市街を拡張したときの作業員の宿泊所だったらしい。ゆえに一部を除けば狭い部屋ばかりだが、数だけはあるとか。風呂や厠(トイレ)は共用になるという。  今現在使っている部屋を奪われるのは困るが、他のところは好きにしてくれ、という、男錬金術師の言葉に、冒険者達から異論の出るはずもなかった。この未知の国での寄る辺があるだけでも御の字なのである。他に当てがなければ宿屋に居座っただろうが、私塾に案内される途中で覗いてみた宿屋は、ほぼ満員に近かった。設備を借りるのはいいとしても、一部屋丸ごとを長らく占拠するのは無理だろう。  心配せずともすぐに空きが出る――というのは真理かもしれないが、あまり考えたくない。 「ところで、フィプト」と、姉弟子が、目抜き通りを先導している弟弟子に語りかける。 「改めて伺いますが、この国にとって、世界樹とは何なのですか?」  ハイ・ラガードに向かう道すがら、センノルレが語っていたところによれば、彼女の弟弟子フィプトはもともとラガード人なのだという。錬金術に興味を抱き、はるばる『共和国』まで渡ってきた彼は、アルケミスト・ギルドの者達の好奇の的だったとか。なにしろ『王国』やら『神国』やら『共和国』やらの、音に聞こえる世界の大国からすれば、ハイ・ラガードなど辺境も辺境。巨大な世界樹の存在は知られていたけれど、結局のところは『ただの巨大な樹』としか思われていなかったのだ。それは、やはり『世界樹』と呼ばれる大きな樹を擁した辺境エトリアのかつての状況に、似ているともいえた。  話を戻すと、フィプトが何処人であろうとギルド内の待遇は変わるものではなかったが、机を並べた輩にとっては、未知の国の話を訊くのは大変に楽しみだったという。そんな話の中で、フィプトはかの大樹のことを『世界樹様』と、崇敬の念を込めて呼んでいたそうだ。  おそらくフィプトにとっては何度も話したことなのだろうが、『ウルスラグナ』にとっては未知の話であることは承知しているのだろう。金髪の錬金術師は軽く頷くと、口を開いた。 「そうですね……崇拝の対象、と言ってもいいでしょうかね。この小さな国がどうにかやってこれたのは、歴代の大公様の温情と、かの大樹のおかげだと、皆、信じてます。ご存じかもしれませんが、この国の冬はとても寒いけれど、世界樹様の根元に近いところでは、わずかですが季節問わず恵みを得ることができるのですよ」  言葉が切れる。少しだけ考え込んだ後、フィプトは申し出た。 「せっかくですし、ちょっとだけ見に行きますか?」  そう言いながら振り向いた時、フィプトはさぞ驚いたことだろう。比較的冷静なナジクやセンノルレはともかく、『ウルスラグナ』の皆が、尻尾があったら振りちぎらんばかりの喜色を表しているのだから。  苦笑いに似た表情をひらめかせ、フィプトは向かうべき方向を変えた。うきうきとした様相の『ウルスラグナ』がぞろぞろと後に続く。  目的地までは、多少の時間がかかった。世界樹に寄り添うように建造された下り階段を何段も踏みしめ、石畳で舗装された道伝いに根元の方へと向かいゆく。まるで冥界下りだ、と表現したら、それは大袈裟に過ぎるかもしれない。が、たどり着いた場所の光景は、『この世ならざる』と言い切っても、決して嘘ではないだろう。  そこには、世界樹にはめ込まれるように、巨大な扉が設置されていたのである。  世界樹を模したとおぼしきレリーフを施されたそれは、人の背丈の倍ほどはあるようだった。門番のようにそびえる巨木に挟まれているが、この巨木も、世界樹の根元から生えた『蘖(ひこばえ)』に過ぎないのかもしれない。さらには豊かな植物相で周囲を飾られ、この周辺がすでに『世界樹の迷宮』内部ではないかとの錯覚を抱かせる。見事な藤花が垂れ下がり、貴紫の色を緑の中に添えていた。 「……大きいねぇ……」  扉の上から下までをあまねく眺め、焔華が大きく溜息を吐いた。 「このレリーフは昔からありましたがね」とフィプトが説明をはじめる。「昔の人の崇拝の印だ、と、皆、思っていたんです。まさかこのレリーフが扉となって、世界樹様の内部に誘われることになろうとは、誰も考えていませんでしたよ」 「それは、いつ頃だったのですか?」 「ええと、四ヶ月ほど前のことですか」 「やっぱり、そうなんだ」  カースメーカーの少女が声をあげた。 「……どうかしましたか?」 「ああ、うん、はとこが、ハイ・ラガードの樹海が開いたのは、エトリア樹海が踏破されたのと関係があるのかな、って考えてたから」  フィプトは、そして、ハイ・ラガードの民は、いや、全世界のほとんどの者は、まだ知らない。  エトリア樹海の存在意義であった、『世界樹計画』。  数千年もの昔、この大地が致命的なまでに汚され、その打開のために発動された、一大計画のことを。 「『世界樹計画』の要の世界樹は七つある、って、前時代時(むかし)、所長先生……いや、ヴィズルから聞いたことがあるな」  というのは、ハイ・ラガードの世界樹の噂を聞いたときに、アベイが漏らした言葉であったが、順当に考えれば、ハイ・ラガードの世界樹も『世界樹計画』に関わりがあると見なすべきか。  少し落ち着いた頃合いで、フィプトにもエトリアの真実を語り、意見を仰ぐべきだろう。  ところでフィプトといえば、彼に問うべきことが、『ウルスラグナ』にはある。  ギルドを代表し、エルナクハは、金髪の錬金術師に問いかけた。 「アンタは、冒険者となって樹海に入りたい、らしいな?」  それが、異境での縁がほしいという『ウルスラグナ』の願いに対する、代償。エトリアからの旅立ちに先んじ、やりとりされた手紙の中で願われた、錬金術師の望み。  とはいえ、手紙の調子と本人の人柄を考えれば、無理にでも、というつもりはないようである。  もしも『ウルスラグナ』が断れば、フィプトは従うだろう。  エルナクハは、そして『ウルスラグナ』の皆は、断る気はなかった。どちらにしても、樹海に潜れないセンノルレの代わりは必要なのだ。  だが。 「オレら『ウルスラグナ』は、アンタを歓迎する。残る問題は、たったひとつ」  黒色民族特有の、黒肌の中にありながら黒くない掌が、アルケミストに差し出された。 「アンタにこの手を取る覚悟が、本当にあるか、だ」  いつしか『ウルスラグナ』は全員が世界樹から目を離し、射るような眼差しでフィプトを見つめている。  射られる者は状況の変化にたじろぎ、おどおどと来訪者達を見回し、救いを求めるようにエルナクハの掌を見つめた。 「この手は救いの手じゃねぇ」  カルネアデスの板に一縷の望みを寄せる漂流者を蹴落とす勢いで、黒い肌の騎士は断ずる。 「冒険者達はなんだかんだ言いつつ楽しんでる樹海だが、己の生死すら笑い飛ばす覚悟を持たない者には、ただの地獄だ」  ごくり、と、フィプトの喉が鳴るのが聞こえた。 「知識がほしいだけならくれてやる。エトリアの真実も、ハイ・ラガード樹海の中で見たものも、全部教えてやる。オレらが楽に通れるようになった階層なら、連れて行ってやってもいい。それで満足できるなら、それでもいいぜ、センセイ」  フィプトの蒼い瞳が、黒い騎士の緑の瞳に向けられた。まるで泣きそうな瞳をしている、とエルナクハは思った。宝物を取り上げられそうになって泣くのを我慢しているような、そんな眼差しだ。  それを見て、エルナクハは錬金術師からの答を確信した。  フィプトは瞼を閉ざして、涙の海になりそうな目を冒険者達から覆い隠す。震える言葉が、思いの丈を吐き出した。 「……あんまりなお言葉です。姉さんから手紙をもらってからの小生が、どれだけ樹海に憧れたか。……否、焦がれたか。皆様の言うとおりにした方が最も安楽でしょうとも。けれど、心が逸るのです。真実を知りたくば、自ら、率先してかの地を踏め、と」  改めて開かれた瞳に宿るのは、決意の輝き。『ウルスラグナ』の者達が今に至る旅路の中のあちらこちらで見いだしたことのあるものと同じもの。  北方人の白い手が、ゆっくりと、しかし躊躇に震えることなく、聖騎士の掌に伸ばされる。 「――小生の掌は」  小さな、だが、確固とした声が、言葉をつむぐ。 「錬金籠手(アタノール)を付けた小生の掌は、皆様の救いの手に、なれますかね?」 「なれるさ。センノルレの錬金術には、大いに助けられた。その弟弟子のアンタの術にも、期待してるぜ」 「変な話です」  フィプトの顔に苦笑いがひらめく。 「破壊の術式を紡ぐ小生の掌が救いの手で、聖騎士であるあなたが、ご自分の掌をそうではないと仰るとは」 「物事には常に裏表ってモンがあるものさ。破壊だけが本来の意図じゃねぇだろ、錬金術だってよ」  聖騎士の答に、錬金術師は満足げに頷く。再び口を開いたときには、その声は、さほど大きくはなかったけれど、世界樹の梢に届けとばかりに、朗々と響いた。 「ひょっとしたら、逃げたくなるときが来るかもしれません。それでも今は……小生は、この掌を取りたい」  フィプトは己の背を後押しするかのように、小さく、こっくりと頷く。  そして、ついに、エルナクハの手の上に自らの手をしっかりと重ねた。 「なに、そう簡単に逃がさねぇよ。貴重なアルケミストだ」  エルナクハはにんまりと笑う。心弱き者を威圧する獅子の貌。だが、味方にとっては、この上なき守り手である戦人の顔で。  宣うは、日常から一歩を踏み出す錬金術師に対する、いささか物騒な歓迎の言葉。 「ようこそ、フィプト・オルロード。希望と絶望が背中合わせにある薔薇の茨道へ」  フィプトの私塾にたどり着いた『ウルスラグナ』一同が、銘々に好きな部屋を定めた後、二階の一室、『応接室』となった部屋でくつろいでいるところ、窓越しに、いずれも十歳(とお)かそこらの子供達が十数人、ぞろぞろと建物に向かってくるのが見えた。ちょうどその時、窓際でマルメリが、リュートを手に、ゆったりとした曲を奏で、歌を歌っていたものだから、子供達は聞き慣れぬ歌声に驚き、その源を捜して首をきょろきょろ動かしていた。やがて、ひとりがマルメリに気が付き、驚きの声をあげた。 「だれかいる!? だれだ!?」 「くろい! くろいはだの人だ!」  ――五千年以上前は、肌の色のみで相手を侮蔑するという悪癖のあった人類だったが、今の世界には、もはやそのようなものはなかった。しかし、単純にハイ・ラガードで黒色民族を見るのは珍しかったらしく、子供達は大騒ぎを始める。 「そうか、わかった!」と子供の一人。 「あの人、フィプト先生のおめかけさんだ!」  ……手の一本でも振ってやろうかと思っていたマルメリ、盛大に吹いた。 「ちょ……おめかけさんってなによぉおめかけさんって! せめて、黒い肌の天女さんだーとか、そういう言い方あるじゃないのぉ!」 「はっはっは、いい具合にマセてるガキだぜ」  豪快な笑声をあげるエルナクハのそばで、その妻たる錬金術師が、生真面目に考え込む。 「妾……ということは……つまり、フィプトには正妻に当たる女性がすでにおいでだということに……?」 「あんまり深く考えない方がよろしいし、センノルレどの」  と、焔華がやんわりと思考を止めさせる。所詮、といってはなんだが、子供の戯れ言なのだ。  さて、大笑いが止まらないエルナクハ、ふと、何かを思いついたか、ぴたりと笑いを止め、窓に歩み寄っていく。そうしながら、ちょいちょい、と指先だけの動きで妹を呼び寄せた。何事かと近付くオルセルタに、窓の外を指してみせる兄。不審でもあったのかと外を注視するオルセルタと共に、エルナクハもまた外に顔を出した。  すると。 「くろい人ふえた――!?」  窓から三つの黒い顔が覗くという事態に、子供達はすっかり驚いて、この世の終わりが来たように騒ぎ立てる。予想通りの反応に、エルナクハは満足し、さらに高らかに笑った。  オルセルタといえば、 「まったく……バカ兄様っ……!」  仲間達にはおなじみとなった言葉を吐きながら、頭を抱えるのであった。  この日、子供達は四度目の驚愕を味わうことになる。  二度目と三度目が抜けているのは、つまり、衝撃がほぼ同時に起こったからである。  それは、フィプト・オルロード先生の告白から始まった。 「あー、突然だが、先生は明日から、冒険者となることになりました」 「え――!?」(二度目) 「で、だ。先生が冒険に出ているときは、代わりの先生がみんなの面倒を見てくれます――姉(あね)さん、お願いします」 「センノルレ・アリリエンです。不慣れなところもありますが、よろしくお願いします」 「お……おなかに赤ちゃんがいるひと――!?」(三度目) 「フィプト先生!? 先生の子供っ!?」 「――馬鹿たれぇ! センノルレはオレの妻だぁ!」 「さっきのくろい人――っ!?」(四度目)  衝撃醒めやらぬ子供達に、『教室』の廊下側の窓から侵入しかけていた黒い肌の聖騎士は、自己紹介をしてやった。 「おぅガキども! オレは冒険者ギルド『ウルスラグナ』のエルナクハ! 今後ともヨロ――」  その後頭部に激しい手刀がかまされる。 「授業の邪魔してるんじゃないの! 兄様ッ!」  聖騎士が怯んだところを、その耳をがっしりと掴み、ずるずると引っ張っていくのは、言うまでもなく、その妹。 「はぁ、こういうの止めるためには、わたしも剣より鞭を重点的に訓練するべきかしら。ヘッドボンデージ! なーんて」 「剣仲間がいなくなるのは寂しいぜ、妹よ」 「頭痛がするから黙ってて、兄様」  一方、他の仲間達は、その様子を、文字通り『高みの見物』、否、『高みの静聴』というべきか、とにかくそういうものとしゃれ込んでいるのであった。『応接室』は『教室』の直上にあったので。 「相変わらずだよなぁ、あのバカ兄妹は」  当然だが、アベイの言う『バカ』は、最大級の親しみを込めた言葉である。 「昔からあんなんだったのか? あのバカ兄妹の従姉殿?」 「オルタちゃんはともかく、エルナっちゃんは昔からああだったわよぅ」  きゅっきゅとリュートの手入れをしながら黒い肌の吟遊詩人が答える。 「オルタちゃんは大分変わったかなぁ。十年くらい会わなかったときがあったってこともあるけど」 「人は変わるものだ、良くも悪くも」  その隣でおとなしく弓の手入れをしていたレンジャーが、ぽつりとつぶやいた。  この日の授業は勉学というより、翌日から五日ほどの休暇に備えた説明だということであった。普段は二時間の授業自体も、一時間でお開きになる。「大々的な祝いはしないとはいえ、ま、新年は新年ですから」と、フィプト・オルロード師は休暇を定めたらしい。  その後、午後一時からと午後七時からも、もう少し年嵩の子供達を相手にする授業(本日は休暇の説明)が行われ、フィプトが冒険者になることと、代理として教壇に立つ女錬金術師の紹介が行われた。年嵩の子供達のためか、朝の授業の子供達ほどに劇的な驚きは表さなかったようだが、それでも意外な話に唖然としていたようであった。  その間、暇をかこつ身の冒険者達は、それぞれに街へ出ていた。なにしろこれからお世話になるのである。よい商店や酒場や宿屋を吟味したいし、樹海で重傷を負った際に世話になるはずの『薬泉院』にも挨拶をしておきたい。ちなみに、冒険者であることをいちいち口で説明するのは面倒だ、ということで、各自は装備を調えている。  街に出たのは、昼を回った後のことであり、街には、雑談に花を咲かせる住民や、今日は樹海には潜らない冒険者(とおぼしき者)が、ちらほらと見うけられた。そんな中に、この時間から樹海に行くのか、装備をすっかり調えた冒険者一団の姿を見て、ティレンが小首を傾げた。 「あの武器、なんだろ」  彼らの中の一人は、あまり見かけない武器を持っていたのだ。  といっても、その武器の噂はそこそこに聞く。まったく何も知らないのは、長いことエトリア樹海の中で暮らしていて、人の世に慣れて間もない、ティレンくらいのものである。焔華が柔らかい声音で剣士の少年に答えた。 「ティレン殿、あれはな、『銃』というもんらしいし。所によっちゃあ『ガン』というらしいわ。『ガン』ってのはな、『戦乙女(ガンヒルド)』から来ている呼び名って、お師さんから訊いたことがありますえ」 「強いの、あれ?」 「そうさな、錬金術の素養がなくても錬金術を使うようなものだと思うといいわ。せやけど、同時に武具としての扱いも必要さな。なかなか使いこなすのは難しいはずやし」 「おれには、むりか」 「ティレン殿には斧がありますえ。銃士(ガンナー)達はティレン殿のようには斧を使えませんし」  『ウルスラグナ』一行の視線の先にいるガンナーは、かなり年配の男であった。パーティの別の誰かと話をしている。ティレン以外の一行にとっては、話しかけられている相手の方が気になった。単眼鏡(モノクル)を掛けた血色の悪い老人は、お伽噺に出てくる異境の魔法使いを彷彿とさせる被服をまとっていたのである。 「あれは……ドクトルマグス、か」 「ドクトル、マグス?」  かの老人の職を言い当てたナジクは、皆のオウム返しに頷いて、説明を続ける。 「破壊と癒し、両方の力を操る者どもだと聞いたことがある。故郷で一度会っただけ、その力を見たわけではないが」 「私も聞いたことあるよ」とパラスが口を挟んだ。 「自然に満ちる力を味方にして、ヒトの力を増幅したり癒したり、力を剣に乗せて敵を打破したり、そんな力を使うヒトたちらしいって」  不意に、カースメーカーの少女は声を落とし、囁くように続けた。 「……本当かどうかわからないけど、私が聞いた話だと、経験を積んだドクトルマグスは、死んだヒトの魂を自分の身体に降ろすことができるんだって」 「……死んだ人間の魂を、だぁ?」  エルナクハは眉に唾を付けかねない表情で顔をひそめる。  降霊術という概念くらいは、現在の世の中にもある。だが、それは基本的に、胡散臭い会合の中でのみ秘やかに行われ、その結果すら、その場にいた者達の勘違いか集団幻覚か、あるいは主催者の詐欺である、まともな人間なら信じない代物だった。もっとも、人間はこの世の全てを手中にしているわけではないのだ。他の誰も知らないだけで、ドクトルマグスには、真の降霊術が伝えられているのかもしれない。 「ガンナーに、ドクトルマグス、か……」  どちらも、エトリアでは巡り会うことのなかった者達である。 「いずれ、縁があったら仲間に加えることもあるかもしんねぇな」 「今じゃないの? 兄様?」  妹であるダークハンターが首を傾げるところに、ギルドマスターである兄は頷きを返す。 「今はなぁ、こっちの街や樹海にオレらが馴染むのでいっぱいいっぱい、新メンバーに気を回してる余裕はフィプトセンセイの分で弾切れって気がすんだよなぁ」  見知らぬ者達への興味はあっても、闇雲にギルドメンバーを増やせばいいというものでもない。とりあえず当分は、新たな仲間を募るのはお預けにするべきだろう。 「あ、みんな見て見てぇ。あそこにも宿屋があるわよぉ」  マルメリの声に、一同は視線を同一の方に向ける。もとより今歩いている辺りは宿屋の多い地帯だったが、また一つ、宿の名を示す看板が見つかったのである。  その宿の名を、『フロースの宿』といった。 「いらっしゃい! ……おや、見ない顔だね」  『ウルスラグナ』一行がその宿屋の入り口をくぐると、威勢のいい女の声が飛んでくる。見ると、恰幅のいい中年ほどの女性が、両手に料理の入った盆を乗せ、忙しく立ち回っているところであった。ちょっと待ってておくれ、と言い置いて、おそらく個室があるのだろう、二階へと上がっていき、しばらく後に、空になった盆を持って降りてきた。『ウルスラグナ』の前に来るや、にこにこと笑いながら――否、始めからにこにこと笑っていたのだが、ともかくも口を開いた。 「アンタたちウチは初めてかい?」  ああ、と誰かが答を返そうにも、その隙もない。女将とおぼしき女性は、一番近場にいたエルナクハの肩をぽんぽんと叩きながら、さらに続けた。 「いいんだよいいんだよ、よく来てくれたね。ようこそ、『フロースの宿屋』へ! この街には宿屋がたくさんあるケド、何てったってウチが一番さ! アンタたち冒険者だろう? 他の客もみんなアンタたちと同じ冒険者だからね、仲良くおやり!」 「お、おう」  さすがのエルナクハも、怒濤の勢いで吐き出される言葉の前に、こくこくと頷くぐらいしかできない。 「で、早速だケド、長期用の部屋が一つ空いてるよ、八人……でいいのかい? まぁ何とか入れるかね?」  さすがに返答確認のために空いた間に、エルナクハは自分達の事情を説明する機を得た。 「ああいや、泊まりはいいんだ。フィプトセンセイの所に部屋を借りてる身でね」 「あらま! アンタたち、あの錬金術師の先生の知り合いかい!」  まんまるな女将は目をまんまるにして、ぱちくりと瞬かせた。 「あらイヤだわ、あの先生には娘がお世話になったねぇ。読み書き算盤教えてもらったものさ! そうかいそうかい、あの先生のところにいるんだ、アンタたち!」  思い出すかのように、うんうんと頷き、再びにこにこと笑う。 「まぁでもね、樹海探索の後の疲れを癒すなら、ウチを使うのが一番だよ! お風呂だけとかマッサージだけとかでもいいさ、薬泉院で学んだメディックも常駐してるからね、少しくらいのケガならお世話できるよ!」 「そうだな、そん時ゃ、よろしく頼むよ」  つられたエルナクハが笑みを浮かべながら頷くと、 「あいよっ、その時はよろしく頼まれてあげるよ。ウフフフフ!」  女将は踵を返し、奥へと消えていった。  改めて宿の内部を見回す。薄い鴇色の壁に、様々なレリーフが飾られた、派手ではないが落ち着いた内装である。藤の花枝も飾られているが、これは誰かが迷宮入口から摘み取ってきたものだろうか。  ラウンジには何組かの冒険者がいて、『ウルスラグナ』をさりげなく観察している。その中に、エトリア時代にかなり懇意にしていた一団を見付け、オルセルタやマルメリが相手の女性陣と会話の花を咲かせ始めた。  アベイがこりこりと頭を掻きながら、ぽそりとつぶやいた。 「当分はテコでも動きそうにないなあ」 「いいんじゃありゃせんか? 八時までには私塾に戻ってくるよう言い含めておきゃあいいんですし」 「だな」  ギルドリーダーは納得し、話を続けようとする妹と従姉にその旨言い含めると、他の仲間を引きつれて宿を出た。  ただの四方山話の中から、此度の迷宮についてのいい情報をせしめてくれれば、万々歳なのだが。  街をしばらく歩いていると、ちょっとした騒動に出くわした。とはいっても、喧嘩やら何やらの物騒なことが起こっていたわけではない。否、ある意味では、そのような児戯よりも物騒だろうか。  どいてください、どいてください! という叫び声に、『ウルスラグナ』は視線を彷徨わせた。  声の主は冒険者の一団のようだった。あちらこちらに傷を負った四人の冒険者が、毛布を使った簡易担架にひとりの仲間を乗せ、足早に通り過ぎていく。ナジクが眉根をひそめ、かすかに首を振った。アベイも厳しい顔をして、冒険者達が立ち去った方を見つめる。  彼らの反応の通り、かの冒険者は助かりそうになかった。生命が拾えたとしても、樹海に探索に出るような無茶は、もはや望めまい。エトリアでもざらにあった光景。かの地に施薬院を構える名医キタザキにさえも、救えぬ生命はいくらでもあったのだ。  当然ながら、かの冒険者達が向かったのは医院のようであった。エトリアでは施薬院と呼ばれる種の施設は、ここハイ・ラガードでは『公国薬泉院』と呼ばれるのだ、と、フィプトから聞いた。  樹海探索に臨むならば、必ずや世話になる施設である。端から挨拶に寄るつもりだったが、しかし、今の状況を考えれば取り込み中であることも読み取れる。『ウルスラグナ』一同は顔を見合わせ、無言で意見をすり合わせたものの、結局は施設に立ち寄ることにした。 「――あ、ノブなしの扉だ」  薬泉院の入り口を前にして、アベイが嬉しそうにつぶやいた。  思い起こせば、エトリア施薬院の入り口にはノブがなかった。ノッカーも呼び鈴もなかったのだ。ちょっと押せば簡単に開く構造のその扉は、常に患者を受け入れる、というキタザキ院長の方針を如実に表していた。急患には中の人を呼んだりノブを回したりしている余裕はない、遠慮せずに入りたまえ、という意思表示だったのである。  その意思表示を、アベイは、第二の故郷エトリアより遠き北国ハイ・ラガードでも、目にすることとなったのだ。  外に佇む『ウルスラグナ』の耳には、喧噪も聞こえない。先ほど駆け込んだ冒険者達は奥に招かれたのだろうか。治療中だとしたら、出直すべきかもしれない。  とりあえず、扉をノックして、相手の出方を見ることにした。  ちなみにエトリアでは、施薬院の扉を叩くということは、自分達が急患ではないということを示していた。慌てて治療の準備を整える必要はない、という主張の代わりである。 「あ、どうぞ、お入り下さい」  若い男の声で応(いら)えがあった。 「大丈夫か? 取り込み中ならば出直すが」 「ああ、いえ、大丈夫……いえ、大丈夫ではなかったけれど、大丈夫です」  奇妙な返事に、『ウルスラグナ』は、先ほどの冒険者がやはり助からなかったのだと看破した。単に、返事をしてくれた若い男メディック(推測)の手が空いているだけ、という可能性もなくはないが、だったら『大丈夫ではなかったが』などという余計な言葉は付かなかっただろう。  いずれにしても、入室の許可が出たのだから、まわれ右をする理由もない。  『ウルスラグナ』一同は、扉を軽く押して、薬泉院内に入り込んだ。  何となくなのだが、その内部の印象を、一同は、『水底の神殿』と取った。茫洋とした光に満ちた、やや薄暗い内部は、確かに神殿といっても遜色ないものではあったが、そこに『水底の』と付く理由は、下半身が魚の尾をした馬の彫像が飾られていることにあるだろう。水辺に棲むと伝説に謳われる、幻獣ケルピーだ、と、ナジクがこっそりと囁いた。薬『泉』院だからそれが飾られているのか、それが飾られているから薬『泉』院なのか、そこまではわからない。  神殿に似た薬泉院に入ってすぐ、大広間では、眼鏡を掛けたひとりの若い男が待っていた。おそらくは、応えの主であろう。上質の白衣を着、その手の甲に医神の蛇杖(カドゥケウス)の意匠のある白手袋をはめた若い男は、穏やかな声で訪問者に問うた。 「はい、どうしました? 怪我ですか、病気ですか」  声にした後で、少し黙り込む。一行の姿を自分の記憶と比べているようであった。ややあって得心したようである。 「あぁ、初めていらしたんですね? ここは公国薬泉院。冒険者の方の治療の為に作られた施設です」  若い男は説明を続けようとしたのだろうが、それを遮る者がいる。 「コウ兄! コウ兄じゃないか!」  誰であろう、『ウルスラグナ』のメディック・アベイだった。  コウ兄、と呼ばれた薬泉院のメディックは、そう呼ばれて意外そうにアベイを見つめる。 「ああ、確かに私の名は、コウスケ・ツキモリなんで、コウ兄と呼ばれてもおかしくないんですが……えーと、あなたは……」 「たはー、相変わらずだなコウ兄、人を覚えるの苦手なの治ってないんだな」 「はは、すみません……」 「俺だよ、俺。エトリアのケフト施薬院で世話になってた、アベイだ」  『ウルスラグナ』のメディックが名乗りを上げると、ツキモリと名乗ったメディックは「アベイ? アベイ……」とつぶやきながら再び考え込む。どうやらアベイにとっては旧知の人物らしいのだが、相手が思い出せない以上、あまり意味がない。だがしばらくして、ツキモリは、ぽん、と手を打った。思い出したようである。 「アベイ君! アベイ君でしたか。ケフト施薬院にいた」 「ああそうだよ、コウ兄。ったく、七年ぶりだからって、そこまで思い出せないのは酷いじゃないか」 「はは、すみません……」  薬泉院の治療士は、頭を掻き掻き、恐縮気味に頭を下げる。  まったくよ、と、仕方なさげな溜息を吐き、アベイは仲間達に向き直った。 「この人はコウ兄。コウスケ・ツキモリだ。昔、エトリアのキタザキ先生のところで学んでいたメディックでね、俺も、世話になった。七年前に皆伝もらって施薬院出ていったのが、こんなところにいたとはなぁ」 「昔のハイ・ラガードにはメディックが少なかったんですよ」補足するかのようにツキモリが口を出す。「別の場所でたまたまハイ・ラガード出身のメディックに出会って、そう聞かされたものですから、矢も楯もたまらずこちらに押しかけたんです。他国には私がいなくても優秀なメディックがたくさんいますが、そうでなければ私でも役に立てるかと思って」 「なんか謙遜ぶってるけど」と苦笑いをしながら再びアベイが続けた。「コウ兄、なんかぼんやりしてるところがあるけど、医療のことだけは信頼していいぜ。キタザキ先生譲りの腕は伊達じゃない」 「『だけは』って、そりゃいくらなんでも酷いですね」  本気ではないにしろ渋面を作るツキモリを見つつ、『ウルスラグナ』一同は密かに思った。  この件については、たぶんアベイの言い分が正しい、と。 「せんせ」  不意に、ティレンが声をあげた。 「薬とかも、ここで売ってる? おれ、ケガとかよくするから、薬いっぱいいる」 「薬は、ここでは売っていないんですよ」  優しく諭すように、ツキモリは答えた。 「冒険者の方が使うものですから、武具と一緒に売る方がいいだろうと思いまして、薬はシトト交易所に納めているんです。それと、できれば、薬だけに頼らないで、メディックの治療を仰ぐことをお勧めします。あなた方も冒険者のようですし、樹海に行く際には治療士を連れて行くといいでしょう。アベイ君がいるなら、問題ありませんかね……って、あれ?」  何かに思い当たったのか、ツキモリは再び押し黙る。  どうかしたのか、と、身を乗り出す冒険者達。  ツキモリは軽い驚愕の表情を己の顔に貼り付け、唖然とした口調で宣うたのであった。 「そういえば、アベイ君、冒険者になったんですか?」 「今さらそれかよ!」  呆れ顔でアベイが突っ込んだ、その時である。  突然、入り口の方から、重いものを盛大に倒したような音がした。見ると、やっとのことで薬泉院に辿り着いたとおぼしき冒険者の一団が、扉にもたれ掛かって入室し、そのまま床に倒れるところではないか。 「ぬしさんら! お気を確かに!」  叫び声をあげたのは焔華のみだったが、実際は全員が行動し、一団に駆け寄る。おそらく樹海帰りなのだろう、鎧で身を固めたパラディンを中心とした五人の冒険者達は、皆が等しく手ひどい怪我を負っている。しかし、先ほどの冒険者と違って、助かる見込みは充分にありそうだ。 「コウ兄!」  『ウルスラグナ』のメディックが、鋭い声で薬泉院のメディックに言い募る。 「俺に手伝えることはないか!? まだ、じゅくじゅくの未熟者だけど、少しぐらいは役に立てるはずだ!」  ツキモリは、ここまで『ウルスラグナ』と言葉を交わしていたときの頼りなさげな雰囲気が嘘のように、豹変していた。ほんのわずかな生命力(バイタル)の変化も見逃すまい、と、鋭い目で患者全員を観察し、駆け付けてきた他のメディック達に矢継ぎ早に指示を飛ばす。ストレッチャーが運ばれてくると、もっとも重傷だと見える少女の上半身をそっと抱え、アベイに視線を向けた。 「お言葉に甘えさせて頂きます、アベイ君! 彼女の足の方をお願いします!」 「おうよ!」  まるで最初から薬泉院のメディックだったかのように、きびきびと指示に従うアベイ。  仲間達もまた、何か自分達にできることはないか、と申し出ようとしたものの、本格的な救命技術を持たない身では、手出ししても邪魔になるだけだろう。  エルナクハはアベイに視線を投げかける。ちょうど少女をストレッチャーに乗せ終えたところで、ちらりと顔を上げたメディックは、こっくりと頷くと、もはや『ウルスラグナ』の存在を忘れたかのように冒険者達の容態に集中し始めた。  メディック達はそれぞれに課せられた仕事を果たし、冒険者達の傷を癒していく。  自分達が樹海で重傷を負ったとしても、ほんのわずかでも助かる見込みがあるなら、同じように全力を尽くしてもらえるだろう。冒険者達の無事を心から祈りながら、『ウルスラグナ』一行は薬泉院を後にするのであった。 「さて、次はどこへ行こうか」  エルナクハは仲間達を見回しながら意見を募る。センノルレとフィプトは私塾で待機中、オルセルタとマルメリは宿屋でエトリア時代の知己と会話中、そしてアベイは薬泉院で手伝っている途中――というわけで、今目の前にいるのは、ティレン、ナジク、焔華、パラスのみである。  まあ、まだあまり勝手のわからない街、結局はふらふらと歩いて目に付いた店に入ることになるだろう、と思っていたが、今回は意外にも意見があった。 「シトト」 「ん?」  エルナクハは意見の主、ソードマンの少年を見た。  シトト、といえば、先程の薬泉院での会話で名前が出ていた。確か、交易所だったはずだ。 「そか、交易所に行きたいか、オマエは」 「ん」  もとより他の仲間達には異論はないようである。  エルナクハは懐から折りたたんだ地図を出した。フィプトからもらった商業区の地図だが、これまでは行き当たりばったりで各店を冷やかしていたので使っていなかったものである。 「んー、あの肉屋のところを、こう行って……か」  地図を見ながら道を辿る。地図は見やすく正確なものだったので、迷うことは決してなかった。そもそも店自体が大通りに面しているのである。  しばらく歩いた後、ふと顔を上げると、頭上で、ホオジロにも似た小鳥を象った木彫りの看板が、緩やかな風に揺れていた。鳥が止まるレリーフを象った部分には、ネームプレートのように平らに削ってある部分があり、そこに、『シトト交易所』と浮き彫りされ、墨で着色してある。その他には色を置いていない、耐水用のニスを薄く塗っただけの素朴な彫り物だったが、木目の美しさを生かした細工と、小鳥の愛らしさを表現した丸みが、作り手の技量と愛情を感じさせる。  扉を静かに押し開け、店内に入り込む。  他の客はいなかった。佇んでいる客のように見えるのは、飾られている全身鎧(スーツアーマー)である。  全身鎧だけではなく、店内には様々な武具が並べられているのだが、それらは、衛士としてならともかく、冒険者として動くには不適な代物であった。フルフェイスヘルムや、儀礼用の剣、細かな装飾が目にも眩しい武具……しかし、作り手の技量を推し量るには充分。これらの武具の作り主は、「冒険者用の武具を作れ」と命じられれば、その役目を全うするだけの実力はあるだろう。  この店の主が単なる売り手でしかないとしても、よい武具を選定して仕入れる鑑定眼に高い評価が付く。 「……悪くねぇ」  にんまりと笑みながら、エルナクハは評した。  その傍で、ナジクがいささか不満げにつぶやく。 「でも、売り物がない」  彼の言うとおりであった。展示品を見る限りでは素晴らしい店なのだが、冒険者として何かを買おうと決意した途端、評価はがっくりと落ちる。理由は簡単、品物がないのだ。辛うじて薬品のビン――値札には『メディカ』と記載されている――が並んでいる程度、他の箇所に貼り付けられている『品切れ』の札が痛々しい。  さらに不満げに、レンジャーの青年はつぶやく。 「それに、店員はどこだ?」 「そう言われりゃあ、そうやなあ」  他の面々も今さらながらに気が付いた。  カウンターに店番がいないのだ。 「お昼ご飯じゃないの?」  とパラスが推察するが、それにしても客が来たら対応に出てきてもよかろうものを。無理なら無理で、カウンターに『昼食中』の書き置きでもあれば、まだよかったのだが。  そんなことを一同が考えた、その時である。 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさーい!」  店の奥から響き渡るは、愛らしい少女の叫び声。とてとてとて、と床を軽く蹴る音が、声に随伴している――と冒険者達が認識するが早いか、どで、という、やや大きな鈍い音が続いた。叫び声も床を蹴る音も、それを境に中断される。  ……つまりは転んだわけだ、と『ウルスラグナ』一同は理解した。  しばらくすると、打ち付けたのか額を抑えながら、涙目になった少女が、姿を現した。  彼女の第一印象を、『ウルスラグナ』の、その場に居合わせた者達は、後で仲間達にこう語った。  真冬の雪積もる大平原のただ中でも、彼女の周りだけは雪解け、春花がささやかに咲き誇る、そんな雰囲気だった、と。  三つ編みに仕立てた髪に飾るヒマワリの髪飾りが、その印象を補強しているのかもしれないが、なによりも、リンゴのようなほっぺ、と俗に言われる言葉そのままの頬が、豊穣を連想させるのだろうか。 「ごめんなさいごめんなさい、皆様に気が付かなくて!」  少女は、ぺこぺこと頭を下げながら言い募る。 「お父さんからお店番任されてるのに……これじゃ私、お店番失格ですよね……!」 「今度からは呼び鈴でも用意しておくんだな」  不満げではあるけれど、それでも先程よりは幾分か和らいだ表情で、レンジャーが応じた。 「さもなくば書き置きの一つなり用意しておけ。……それより、派手に転んだようだが大丈夫か」  もともと年下の少年少女に甘くなる傾向のあるナジクであった。 「はっはいっ、大丈夫です、大丈夫です!」  頭を下げて謝意を示す少女だったが、ようやく顔を上げたとき、その目が丸くなる。朝方に冒険者ギルドでギルド長が行ったように、首を横に振って一同を見回し、盾持つパラディンに注目した後、縦方向に何度も視線を動かした。おそるおそる、といった塩梅で口を開く。 「もしかして、皆さんが、エトリアの樹海を踏破した『ウルスラグナ』ですか……?」 「ん、まぁ、そうだけどよ」  ギルドマスターの返答を受け取った途端、少女の表情が、ぱあっと明るくなる。店内自体に光満ちたようであった。 「ほんとに来てくれたんですね! エトリアから来た冒険者さん達が、皆さんがきっと来るって言ってたんで、すっごく楽しみにしてたんです! 私、バードさん達が歌う英雄譚とか聞いて、皆さんのファンなんです!」  黒い騎士の手を取り、ぶんぶんと振る。 「私たち、特定の冒険者に肩入れしちゃいけないって言われてるんですけど、これだけは言わせてください! 応援してます!」 「お、おう」  少女の積極さに押され気味になりつつ、応援自体は素直に受け入れる『ウルスラグナ』。  しかし、その容貌は、シトト交易所の娘が次の言葉を発した途端に、すっと暗くなる。 「……あとは、『エリクシール』さんたちにもお会いしたいです。いつ来てくれるんでしょうか?」 「……あいつらは、来ねぇよ」  苦々しい思いを吐き出すように――もちろん、それは目の前の少女にぶつけるものではないが――エルナクハは言葉を繋げた。 「来ねぇんだ、解散、しちまったから」  『エリクシール』。  錬金術の粋にして大目的であると言われる霊薬、伝説の万能杯に満ちるという万能薬の名を持つ、とあるギルド。  彼らはエトリアにおいて、『ウルスラグナ』の最大のライバルであった。  相手側にギルドマスター(と、その妹)の同郷の幼馴染みがいた関係で交流があり、途中までは協力関係に、後に切磋琢磨するライバル関係となったギルド。それどころか、(あくまでも公的記録に残る限りだが)第三階層と第四階層を誰よりも早く踏破し、第五階層に最初に足を踏み入れたのは、『ウルスラグナ』ではなく『エリクシール』の方だったのだ。  ただ、そんな最中、己の力を試したがったパラディンが樹海で失踪する事態が起き、『エリクシール』の面々はその収拾にかかりきりとなった。ギルドマスターである金髪の女錬金術師は、『ウルスラグナ』の助力の申し出を拒絶し、パイプを吹かしながらこう言った。 「馬鹿者が。貴様達は、今が我々を出し抜く好機だとは考えんのか」  うろたえる『ウルスラグナ』一同を睨め回し、女錬金術師は再びの発破を掛けた。彼女の真意は未だにわからないが、ともかくその時、『ウルスラグナ』は『エリクシール』の足跡を追い抜いたのである。  もちろん、追い抜いたこと自体は相手側の厚意かもしれないが、実際に奥に進むためには、実力がいる。そして、『ウルスラグナ』にも、実力はあった。  結局、そのまま『ウルスラグナ』はエトリア樹海の最奥を見いだした。その様を『エリクシール』は素直に讃え、そして、自分達はギルドを解散してしまったのだった。  彼らに何があったのかは、わからない。確かにパラディンが失踪したことは痛いだろうが、それでも彼らには挽回の機会があったはずだ。  『ウルスラグナ』達の想像できる範囲で、女錬金術師の真意を推し量るなら。  樹海のただ中、『枯レ森』と呼ばれる第四階層で、彼ら『エリクシール』は、樹海の先住民であるモリビトを『殲滅』した。後に、彼ら自身がモリビトに手をかけたわけではないのが明らかになったが、当時は、『殲滅』の跡を見た者の嫌悪の眼差しを受けることも多かった。『エリクシール』達は言い訳の一つすらすることなく、表面的には平気そうな顔をしていたが、ギルドマスターたる女錬金術師には、限界が見えていたのかもしれない。  だから、ライバルギルドである『ウルスラグナ』に手柄を譲ってしまってでも、自分のギルドメンバー達を探索から、正確に言うなら樹海の真実から遠ざけようとした。パラディンの失踪は、自分達の足を止める格好の名目だった、というわけだ。  無論、『ウルスラグナ』の推測に過ぎない。  そして、真実が奈辺にあるとしても、現実はひとつ。  『ウルスラグナ』はハイ・ラガードにあり、『エリクシール』がその後を追うことは、もう、ないのだ。 「そうですか……」  交易所の娘は残念そうにうなだれた。しかし、改めて暗い空気を振り払うように顔を上げ、エルナクハの手を取る。 「じゃあ、『エリクシール』さん達の分も、頑張ってください、『ウルスラグナ』さん!」 「……ああ、もちろんだ」  偽りなき万感の思いを込め、エルナクハは、しっかりと頷いた。 「で、ここ、おまえの店なのか?」  とティレンが問うたのは、エトリアの『シリカ商店』のことが頭にあったからかもしれない。かの店の店主は、自らも槌を持ち、己の店で売るものを生み出していたのである。 「ああ、いえ、此処は、私のお父さんのお店なんです」  シトトの娘は頭を振り、ちらりと奥に目をやりながら答えた。 「奥の工房で、お父さんが武器や防具を作ってくれるのを、みなさんにおゆずりしてます。あと、薬泉院のツキモリ先生からお薬をお預かりしていますね」 「その割には……あーと、うん、商売繁盛でいいことだね」  やや引きつり加減の笑顔で、パラスがそんな言葉を吐いた。ともすれば嫌味にも聞こえかねないものだが、シトトの娘は、パラスの声の調子と表情から、気を使おうとしたものだと察したらしい。心底申し訳なさそうな顔で頭を下げる。 「おかげさまで、皆様にご愛顧頂いているのはありがたいんですが……」  つまりは、需要と供給のバランスが取れていないのだ、と娘は言う。  得心できる理由ではある。エトリアでもあったことだ。  冒険者は樹海へ潜り、有用そうな素材を携えて戻る。その素材を各所が買い取り、武具に仕立てたり、食料に加工したり、嗜好品としたりする。嗜好品はともかくとして、武具や食料は冒険者にも必要なもの、買い取られ、買い取り主と共に再び樹海に戻る。  食料品は食われてなくなるが、武具はまた街に戻り、いつかは不要となって買い取られる――持ち主が生きて戻ってくれば。もしも持ち主が樹海で倒れれば、その遺体と共に朽ち果てる運命だ。そして斃れた冒険者は素材を持ち帰ることもできない。『素材』も、『素材だったもの』も、ほとんどが樹海に還り、街に戻ってくることは、まず、なくなるのだ。  そうして、結局、樹海産の素材でできた品物は足りなくなる。  これが、かつてのエトリアでも起こり、そして今、ラガードでも起きている、現状であった。 「今、樹海の素材を使わなくてもいい、基本的な武具を作ってるところです。できあがったらお店に並べられるんですけど……」  申し訳なさそうに述べるシトトの娘を前に、『ウルスラグナ』は考えた。武具をエトリアに置いてきてしまったのは、ちょっと早計だったかな、と。  だが、今さら言っても詮なきことである。なにより自分達なりの信念の下にその行動を選んだのだ。だったら潔く、あるものだけで何とかするべきだろう。  現実的な問題も絡んでいる。現状の手持ちの資金では、すごい武具があったとしても、たぶん手に入らない。買えたとしてもせいぜい一人分。現時点では、誰かひとりだけが突出して強くなったところで、あまり意味がない。 「――そうだな……」  エルナクハは軽く首を振って口を開いた。 「まあ、まずはオレらの中の誰が最初に樹海に入るか、そこから考えねぇといけねぇからな。そこらへん決めてから、また明日来るわ。その頃にはオヤジさんの武具もできるんだろ?」  ひらひらと手を振って踵を返す。後に仲間達が続いた。 「また来てくださいね、待ってます!」  シトトの娘の愛らしい声が、一同の背を撫でて消えていった。 「ね、ね、エル兄」  とてとてと早足でエルナクハに付いてこようとしながら、年少のソードマンが問う。 「おれ達の誰が、最初に樹海に入る?」 「そうだなぁ……」  皆の弟分と言っても過言ではないティレンの言葉に、エルナクハは腕組みしつつ考えた。 「とりあえず、アベイは確定なんだけどな。あと、オレな」 「あ、ずるいよ、エルにいさん」 「ふん、ギルマス特権って昔から決まってんだ」  パラスの抗議に、エルナクハはうそぶいたが、その選択が理に叶っていることは皆が認めざるを得ないだろう。  まず、メディックであるアベイは必須と言っていい。未知たる地で負傷したときに手当のできる者がいるのといないのとでは大違いだ。メディカを買い込む選択もあるにはあるが、金にも手荷物の余裕にも限度はある。もちろん、回復役の気力や手持ちの薬品にも限界はあるから、うまく併用することが必要だろう。  だが、それも仲間達が闇雲に突っ走り、自ら怪我を増やすようでは、意味がない。そこでパラディンの出番である。護りに特化した騎士達は、自分達も傷つきにくいが、仲間達を護り、その被害を軽減する役も受け持つ。  少なくとも、現状の『ウルスラグナ』が、まったく初めての危険地帯に踏み込むためには、この二種のクラスが探索班の要となることは、太陽が東から昇るがごとく当然の選択だったのだ。 「まあ、後の面子をどうするかは……」  帰ってから考えよう、と締めようとしたエルナクハだったが、その背に声を掛ける者がいた。 「わちは今回、遠慮させて頂ますえ」 「な……!?」  たおやかな口調のブシドーの娘を、一同は、あんぐりと口を開けて見やる。そんな仲間達を見回し、焔華は、ふふ、と少し意地悪げに笑んだ。 「どっちにしても、わちを所見の場には連れていけん、と思うておいででしたっしょ?」 「む……」  エルナクハは口ごもる。全くの図星であったから。  その戦闘スタイルからどうしても打たれ弱いブシドーである。しかも『型』を重視するためか、戦闘行動に移るのに若干の時間がかかる。そんな彼女を未知の危険に溢れた樹海に出したいならば、数度の探索を経て様子を見た方がいいだろう、と思っていたことは確かだ。他にメンバーがいないならまだしも、九人という大所帯の『ウルスラグナ』ならば代わりがいる。 「怒ってるわけじゃあらせん。ぬしさんの判断は正しゅうありますし」 「う……む……だがなぁ、ほのか、オマエはそれでいいのかよ?」  『ウルスラグナ』の誰もが、新たな樹海に先鞭を付けることを楽しみにしていたのだ。それは焔華とて例外ではないはず。だったら他者に「連れて行けない」と言われようと、とことんまで食い下がってもいいものではないのか。  しかし、ブシドーの娘は、態度を荒げることもなく、静かに首を振った。 「実を言うと、わち、冒険の前に行きたいところがありますし」 「行きたい、ところ?」  その場にいる仲間達全員が声を揃えて問い返す。その疑問に満ちたまなざしを一身に受けながら、 「くわしいことは今晩にでも。けどな、上手くいけば、『新生・焔華さんにご期待下さい』ってことになりますえ」  ブシドー・安堂焔華は、自信に満ちあふれた笑みを浮かべるのであった。  地図を参考にしながらしばらく中央通りを行くと、とある一軒の店に行き着いた。軒先に揺れる看板は、魚をモチーフとした鋼のレリーフだったが、いささか年月を経ているためか、軽い錆が味わいを醸し出している。 「お魚屋さん……」 「……それでは『シトト』は小鳥屋ということになる」  ナジクの返答に、ティレンは少し赤面して頭を掻いた。 「あ、それも、そっか」  一方、ギルドマスターは、目を爛々と輝かせ、口元にはにんまりと笑みを浮かべている。地図を持つ彼には、目の前の店が何なのか、最初からわかっていたのだ。 「せっかくだから、入ろうや」  エルナクハの促しに、その上機嫌の理由を察した者も、そうでない者も、一様に頷いて歩を進めた。  扉に設えられた鈴が堅い音を奏で、来訪者の存在を告げると、先に店内にいた者達が一斉に入り口を見た。その視線が新たな闖入者を睨め付ける。全員が冒険者のようである。『ウルスラグナ』の顔見知りはいないようだが、そんなこととは関係なく、エルナクハが無言ながら『今後ともヨロシク』と言いたげに笑みを浮かべていると、やがて先住者達は新入りから意識を外し、銘々の談笑に戻っていった。その際に、やはり無言ながらそれなりの挨拶を返してくれた者達も、幾人かはいる。  『ウルスラグナ』一行は、冒険者でごった返す卓の合間を縫って、青黒い髪の逞しい親父――多分、店主だ――がグラスを磨く前、カウンター席へと向かった。  言うまでもないが、ここは酒場である。『鋼の棘魚亭』というのが、正式な名であるらしい。  エトリアでもそうだったが、酒場は情報の集積地だ。集う情報は店によって様々だが、冒険者であるからには、やはり冒険者向けの情報が転がっている方が都合がいい。そして、情報を求める冒険者の力を当てに、彼らに頼みたいことがある者達も集まってくる。その相乗効果が、ますます酒場を栄えさせるのだ。酒場の名が売れれば、時には、上層階級の者達や、ひいては為政者の関係筋からでさえ、公式にはできない仕事の依頼が舞い込むこともある。  エルナクハが上機嫌なのは、なにも酒が飲めるからという一点に限ったものではないのだ。いそいそと席に座った彼が、いくばくかの小銭をカウンターに置いて「おっさん、適当に酒五つ」と注文を飛ばしたのは、あくまでも、情報の集積地を訪ねたついでである――そう思っておけば皆が幸せになれるに違いない。苦笑いをしながら、仲間達もまた、銘々の席を確保する。  木製のジョッキにつがれたエールに口を付けたエルナクハ、少しばかり瞠目した。 「――水で薄まったエールでも出てくるかって思ってたぜ」 「新入り相手とはいえ、そんなこすっからいマネができるかっつーの」  気骨のありそうな親父は、気分を害したかのように――とはいえ表面的にそう見せているだけだろうが――声を吐き出したものの、すぐに満面の笑みを見せて問うてくる。 「ウチはそのあたり、きっちりやってんだ。性悪な酒場と一緒にするんじゃねぇ。どうだ気に入ったか新入りども!」 「ああ、気に入ったぜ、おっさん」  結構旨いエールに舌鼓を打ちながら、パラディンの青年は応じた。  親父はエルナクハを二十歳ほど年取らせたような高笑いをする。 「まぁ、この国に、そんなこすっからいマネするような酒場なんか、一軒もないけどよ」 「なぁ、ところでよ。仕事がしたいときは、ここで受ければいいんだな?」 「ほう、お前ら冒険者志願か」 「いやいや、志願なんかじゃねぇよ。もう立派な冒険者だ」 「アホウ」  心底呆れ返った顔で、親父は短く声をあげた。 「お前たちのことは、顔を見れば大体わかる。大方、エトリアの『世界樹の迷宮』あたりで鳴らした連中だろう。だが、エトリアでいくら鳴らしたからって、ここじゃ、新米(ぺーぺー)同然だ。少なくとも、大公宮から新米どもに申しつけられるオシゴトをやり遂げなきゃ、冒険者って認めるわけにゃあいかねぇのよ」 「……厳しいのんな」  ブシドーの娘のつぶやきに頷き、親父は続ける。 「エトリアで結構強かった、って豪語する連中の半分が、『最初のオシゴト』から帰ってきやがらねぇ。そんな状況じゃ、自己申告をおいそれと認めるわきゃあいかんだろ」 「半分が、帰ってこない……?」  エールを傾ける手を止めて、ナジクが呆然と復唱した。  もちろん、仲間達の全員も、彼と同じ思いだった。  エトリアに集った冒険者達がどれだけ強かったのか、『ウルスラグナ』だからこそはっきりとわかっている。ライバルギルドだった『エリクシール』だけではない、強さだけなら、そこらの国で一、二を争うくらいの猛者はごまんといたのだ。  それが、戻らないという。しかも、最初の試練で、だ。  ハイ・ラガードで新米に科せられる試練がどんなものかは、まだわからないが、比較対照としてエトリアのことを思い出す。  エトリアでは、『新米冒険者の心得』として、地下一階の地図を描き上げることを強いられたものだった。エトリアを踏破した『ウルスラグナ』とて当時は本当に新米で、それでも人間相手ならそう簡単に引けは取らない者達が、樹海入り口の、ただの動物としか見えないような生き物達に苦戦を強いられた。『ウルスラグナ』は生き延びたが、そこで斃れる冒険者達も数多かったのだ。  もちろん、冒険終盤で強さを身につけた頃には、入り口程度の敵は片手で狩れるようになった。  が、樹海を離れ、強敵と戦うことのなくなった昨今、樹海で鳴らした猛者の力も、すっかりと衰えた。樹海の外の相手には十分通用する力、しかし、新たな樹海内部の生き物達に対しては、どうか。 「……勝って兜の緒を締めよ、だったか、ほのか? そんな言葉、ブシドーにあったよな」 「ええ、ありましたし、エルナクハ殿」  さすがに真剣みを帯びた顔でエルナクハが問うところに焔華が応え、他の仲間達も厳しい表情を浮かべる。 「はっは、オリコウさんだな。そうだそうだ、大口は『最初のオシゴト』を済ませてから叩けよ」  親父の揶揄を耳にしながら、『ウルスラグナ』は残りのエールを一気にあおった。  エールは旨くて、そして、苦かった。まるで『世界樹の迷宮』内部で体験するであろう喜怒哀楽のように。 「遅いわよー、バカ兄様!」  と、妹の声がする。  最終的にギルドマスターに付いていった『ウルスラグナ』のメンバーが、錬金術師フィプト・オルロードの私塾に帰り着いたのは、午後八時よりは大分前であった。それでも街はすっかりと闇の中に沈み、煌々と灯る窓の明かりが人の存在を主張する。オルセルタは『応接室』の窓から身を乗り出して、兄を含む仲間達に手を振っていた。 「大方、酒場かどっかでまったりしてたんでしょー? ずるいわよ兄様!」 「宿屋でダチに捕まってたヤツが何言うか」 「無駄話、してたわけじゃないわよぉ」  ひょっこりと、数ヶ月年上の従姉が顔を出す。その隣に、さらに顔を出したのは、白い顔が二つ。  その片方に、エルナクハは声を掛けた。心なしか、声が柔らかかった。 「……今帰ったぜ、ノル」 「……おかえりなさい、エル」  短い黒髪の女錬金術師は、眼鏡の奥の目を細めて返事をした。 「なぁ、オレのことはガン無視か?」  もう一つの白い顔が、不満げに声をあげる。明るい茶の髪を後ろに束ねたメディックもまた、帰宅していたのだ。その言葉が声調ほどには本気で言っているものではないのは、表情から明らかである。 「アイツら、大丈夫だったか?」  ギルドマスターの青年はメディックに問うた。昼間に出くわした冒険者達のことだ。命に別状はない、と見なしてはいたが、もしかしたら容態の急変があったかもしれない。直に顔を合わせたからか、少しは気になるのだった。  だが、問うた瞬間に浮かんだメディックの表情が、心配が杞憂であることをはっきりと示していた。  エルナクハの後ろに控える仲間達も、ほっと胸をなで下ろす。 「数日もすりゃまた元気に樹海を飛び回るだろうよ。そうそう、伝言もらったんだ」 「伝言?」 「『新たな冒険者様方とお見受けする。お心遣いに感謝を。最初の試練を無事乗り越えられるよう、お祈り申し上げる』」 「……ははは、相応しいライバルになれるよう頑張れ、ってか!」  その『最初の試練』のことである。誰を遣わすのかを決めなくてはならない。  統轄本部でギルドの登録をしたとき、『ウルスラグナ』は樹海探索に必要な道具を貸し出されていた。エトリアの探索でも同じようなものにお世話になっていた。  それは、ヒンジで繋がれた二枚の水晶の板。『磁軸計』と呼ばれている。完全に広げれば透明なチェス盤とも見える代物であったが、区切られた升目は、縦三十×横三十五……磁軸の計測で明らかになったのであろう、『世界樹の迷宮』の床面積(理論的最大値)を示している。板の内部には、迷宮内を流れる磁軸の流れに反応する、錬金術由来の触媒が封入されており、迷宮内では、自分達の現在位置を示す升が青く光るようになっている。おかげで、どれだけ迷っても現在位置だけは把握が容易で、樹海の地図を書き起こす助けになる。  ただ、ひとつ難点がある。自分達はあらかじめ板の特定位置に数秒触れて、いわゆる『登録』を行う必要があるのだが、一度に登録できる人数は五人までらしい。何があるかわからない樹海、万が一、登録にあぶれた者が迷子にでもなれば、その者の居場所は掴めなくなるのである。  公宮の衛士達が樹海に入る際には、五人一組の小隊を組み、それぞれの小隊ごとに磁軸計が貸し与えられるそうだが、一冒険者ギルドに二つも三つも貸与を求めるのは無理な話であろう。  故に、樹海に一度に潜れる人数は五人まで。  磁軸計の問題だけが理由ではない。樹海という限定空間で探索・戦闘行為を行うときの立ち回りの問題も、この人数を適正とする根拠である。さらにエトリアでは、もう一つ、この人数を適正とする理由があったのだが……。  ともかくも建物内に戻った一同を、私塾の管理人である錬金術師が出迎えた。 「お帰りなさい、みなさん。食事ができてますよ」  招かれるままに応接室に足を踏み入れる。  全員が座れる長い卓に、ささやかながら立派な食事の支度が整っていた。 「兄様のデザートはなしだからね」  こんこん、と、自分の後ろに鎮座する鍋を叩きながら、オルセルタが宣う。彼女が言うには、フィプトが皆の歓迎のために大量の料理を作り、オルセルタやマルメリがそれを手伝い、アベイがセンノルレの容態を気に掛けていたというのに、そんな一方で酒場でまったりと癒されていた兄は許し難いとのことだ。他の四人の『罪』には言及していないことから、本気で怒っているわけではないのだろうが、 「そんな切ねぇこと言うなよ」  ここから始まる寸劇は、いわば疑似兄妹ゲンカとその修復、様式美みたいなものだ。自分の席を確保しながら、苦笑いしつつ、エルナクハは、あるものをオルセルタの目の前に置いた。  軽く抱える程度の大きさの、陶製の壷だが、焼き付けてある絵柄は明らかにハイ・ラガードとは別の文化に属するものだ。その絵柄を生んだ『文化』を、オルセルタは知っていた。当然といえば当然である。 「これ、バルシリットの壷だ。どうしたの?」 「土産だよ。酒場に転がってたから壷ごともらってきた」  壷ごと、という言葉通りに中身が存在し、馥郁(ふくいく)たる香りを放っている。 「うちの酒なんて珍しいわね。エトリアでも、瓶入りすらなかなか手に入らなかったのに、壷付きだなんて」 「ここでもそうだろうよ。オレが酒場に行ったときにこいつがあったのは、大地母神(バルテム)の導きだろ。で、どうだ、これとデザートは取引になるか?」 「……よろしい」  オルセルタは胸を張って、再び、デザート入りと思われる鍋をこんこんと叩いた。 「大地母神の導きに免じて、兄様にもデザートを食する栄誉を賜りましょう」 「ははー、ありがたき幸せ」  兄妹が疑似ゲンカを終結させ、デザートをめぐる取引を成立させている後ろで、仲間達もすでに自分の席を確保している。  オルセルタが壷を抱えて立ち上がり、その中身を注いで回った(センノルレのみ抜かした)。皆の杯に珍しい酒が行き渡ったところで、ギルドマスターは杯を携えて立ち上がる。つい昨日、ハイ・ラガードに近い村で、闇色に塗りつぶされた世界樹の影を見ながら、その踏破を誓ったときのように。 「――てなわけで、だ。明日からオレらは世界樹に挑む」  よく通るパラディンの声に、皆が静かに耳を傾けた。 「酒場で聞いた話だと、オレらは、大公宮で試練を承らなきゃいけないらしい。エトリアのときもそうだったが、今回も、大分辛い試練になりそうだ」 「アタシ達も宿で話は聞いたわよぉ、エルナっちゃん」  マルメリの言葉はおかしいことを言っているわけではないけれど、その口調と、エルナクハを『エルナっちゃん』と呼ぶのが、微妙に緊張をくじく。エルナクハは「その呼び名はやめろ」と言いかけたが、結局口をつむんで、吟遊詩人の言葉の先を促した。 「詳しいことは教えてもらえなかったけど、基本はエトリアの執政院のと同じだって。冒険者なら、迷宮の地図ぐらい描けるだろう、ってことみたいねぇ」 「地図描くだけなら楽勝、だよね?」とティレンが皆の機嫌を窺うかのように問う。  ナジクが静かに首を振った。 「酒場の主人が、エトリアの猛者さえ半分は戻ってこなかった、と言っていただろう」  しかしティレンの無邪気な心情を咎めることはできなかった。彼は最初から『ウルスラグナ』に属していたわけではなく、つまりエトリアでの最初の試練がどんなものだったかを知らないのだ。 「どっちにしても、準備は万端に整えないといけないわけですね」  女錬金術師の言葉に、その夫は大きく頷いた。 「ああ、それに、最初の最初だ。誰が行くかもよく考えないとな」 「エルにいさんとアベイくんは本決まりなんでしょ?」  酒場に赴く前の話を思い出しながら、カースメーカーの少女が口を挟む。 「護る人と、治す人……エルにいさん、ていうかパラディンは、あまり攻撃手には向いてないから、そこらへんを補強しないとね」  パラスは仲間達を見回した。視線が止まるのは、いずれも、前衛に向いた者達のところでだ。剣使いのダークハンターであるオルセルタ、斧使いのソードマンであるティレン、そして、ブシドーの焔華――。 「――って、焔華ちゃんは確か、樹海に入らないって言ってたっけ」 「そうなんし」  パラスの問いと、焔華の澄ました言葉に、酒場まで同行しなかった仲間達は、驚きに目を見開いた。『何故だ』と問う視線がブシドーの少女に集中する。焔華は肩をすくめると、視線をやんわりと受け流すように笑んだ。 「その手のお話は、ご飯を頂いてからにしましょ。せっかくのご飯も冷めるし、お酒も香りが飛んでしまいますわ」 「……む、それもそうだな」  エルナクハはブシドーの少女の言葉を認め、改めて杯を掲げた。 「詳しい話はメシ食ってからだ。とにかく世界樹を踏破したときに全員が無事であることを祈って、乾杯!」  ギルドマスターの杯に、九つの杯が追従して、高く掲げられた。  気候学者の分類によれば、ハイ・ラガードは『亜寒帯気候』に分類されるそうである。夏はそれなりに暑いが(それでも平均すれば自治都市群あたりよりは涼しくて過ごしやすい)、冬の寒さはかなり厳しい。そして、昼夜の温度差が激しい。  いくら世界樹の力のおかげで住みやすいといっても、限度はある。世界樹から離れれば、作物が限定されるということだ。高地であることも手伝って、夏はまだしも、冬になると全滅に近い。事実、ハイ・ラガードでは夏の間に採った果物をジャムやコンポートにして保存するのだそうだ。  現在は夏に向かう頃合い、郊外に広がる大農地で、春に種を蒔いた小麦が青い葉を風になびかせているのが、馬車の中からも確認できていた。寒さに強いジャガイモも、植えられていることだろう。しかし、そういった作物の収穫期は、多くが秋であり、目の前に並んでいる料理の食材は、前年に収穫されて貯蔵されていたものに由来するものが多い。  ところで、この世界の秘密を知る『ウルスラグナ』としては、どうにも不思議に思うことがある。 「――てわけでだ、そのヴィズルってヤツが言うのが本当なら、この世界のほとんど全部は、森の上にできてるってわけだ」  エルナクハは、自分達が知った秘密を惜しげもなくフィプトに語る。仲間となったからには当然の話、むしろ、センノルレとは別の意識を持つ者としての意見を知りたいところである。 「けど、麦畑やジャガイモ畑を作ったりするのに大地を掘り返しても、森が出てくるわけじゃないだろ? ちゃんと土、土、土、土だ。第一、地下に樹海がある、って騒がれたのは、エトリアが最初のはずだしな。考えれば考えるほど、不思議なものでよ」 「そうですね……」  エトリアの秘密を知ったフィプトは、最初こそ信じられないという面持ちだったが、すぐに『事実』を受け入れた。はじめに『仮定』ありき。それが真か偽かは、探求にて明らかにするべきこと。ありえないと一笑に付して跳ね除けてはならない――そうとでも考えているかのようであった。それは錬金術師としての姿勢なのかもしれないが、冒険者とてまずは『目の前の事象の肯定(うけいれ)』から始まるもの、フィプトは案外と早く冒険者稼業に馴染めそうである。 「『世界樹計画』からどのくらい経っているのか、小生にはとんとわからぬところですが……」  金髪の錬金術師は、目を閉ざし、しばし考え込む。 「この世界には火山がある。火山が噴火すれば、溶岩が森を焼いて灰にする。火山灰が降り積もる。そうでなくても倒木が腐って土に還る。千年もあれば、そこそこの大地ができあがるように思えます。人間ごときの力では、偽りの大地を掘り進んで、その下の森を見いだすのは、不可能に近いでしょうね。まして『真の大地』を見ることができる者はいないでしょう。――『世界樹の迷宮』を進んで、前時代の街を見いだした者以外は」 「やっぱり姉弟弟子か、ノルと似たような答を出す」  別論を期待していたエルナクハは少々残念に思ったが、失望したわけではない。同じ師に学んだためか、考え方が似ているだけのこと。それに、二人が共通して同じ答を出したということは、つまりそれが真実である可能性が高い、ということかもしれないのだ。  ところで、『真の大地』を見た数少ない人間のうちの幾人かである『ウルスラグナ』だが、それどころか仲間に前時代人がいたりする。が、エトリアの秘密についてはすんなり受け入れたフィプトも、メディック・アベイが前時代人であることは、にわかに受け入れがたいようだった。仕方があるまい、目の前の人間が千年生きていることを受け入れろ、というようなものなのだ。  しかし、結局、フィプトはその現実も受け入れることになった。  フィプトは錬金術師として、主に氷系の術式の研鑽をしていたという。学舎である『共和国』アルケミスト・ギルドでの呼称では、『白化(アルベド)』――氷使いというそうだ。ちなみに、炎系を研鑽していたセンノルレは炎使い――『赤化(ルベド)』だそうである。さらに余談だが、ライバルギルド『エリクシール』のアルケミストは雷使いで、それを『黄化(キトリニタス)』と呼ぶらしい。  氷使い(アルベド)たる彼は、錬金術で生み出された氷や冷気が実生活でも役に立つ方法がないか、いろいろと研究していたそうだが、その成果を、新たな仲間である『ウルスラグナ』に披露することになった。  食事の後に披露された『成果』は、どこにでもありそうな、柄の一つもない素っ気ない壷である。どこから持ってきたのかというと、食事前にオルセルタが叩いていた鍋の中からだ。取り出すときにフィプトが分厚い手袋をしていたのを皆が訝しがったが、理由はすぐに知れた。壷は強烈な冷気を放っていたのだ。傍にいるだけなら我慢できなくもないが、素手で触れるのは難しいだろう。 「氷の術式を発動するときに使う触媒を仕込んでありましてね、物を低温で貯蔵できるんです。おかげで夏場に腐りやすい物も、比較的長く保存できるんですが――触媒の反応量の都合上、今のところ五日が限度でしてね」  つまりは、壷に仕込んだ触媒は短期間しか保たないということだ。 「……とまぁ、ここまでは、小生だけじゃなくて、アルケミスト・ギルドの氷使い(アルベド)がこぞって研究していたんですけどね」  言葉を続けるフィプトは、心なしか、誇らしげに見える。 「ここにある壷は特別で、短い間に強烈な反応をするように触媒を調合してあります」 「つまり、長持ちより、強烈に冷える方を選んだ、ってこと?」 「ええ、その通りです」  パラスの確認に、フィプトは頷いて返した。 「で、この壷の中に、卵と生クリームと砂糖を混ぜた物を入れて、たまにかき混ぜて……と」  フィプトは壷の中に玉杓子を突っ込んで、中の物をすくい上げる。手近な皿の上に載せられたそれは、デザートというからには食べられる物なのだろうが、『ウルスラグナ』の誰も見たことがないものであった。――否、ただひとり、アベイだけが、今現在より数千年は昔に、それを見て食したことがあった。 「懐かしいな、アイスクリームじゃないか」 「アイスクリーム?」  確かに、謎の物体は、『凍ったクリーム』と呼ぶべき様相をしている。だが、単に凍らせただけとは、何かが違う。  フィプトは瞠目し、ややあって、何度も頷いた。 「……なるほど、あなたが前時代人であることも、事実として受け止めるべきでしょうね」 「どういうことだ?」  アベイが問うところに、金髪の錬金術師は、謎の食べ物を勧めながら答える。 「この食べ物のレシピはね、アルケミスト・ギルドに保存されている石板に載っていたものなんですよ。いつの時代のものかはわからなかったんですけれど、千年以上は経っているとの推測がなされています。へたをすればもっと古い。もちろん、ギルド外持ち出し禁止。中を知る者はアルケミストだけ。この情報自体は機密ではないから、誰かがアルケミストから聞いていてもおかしくはないですが、だからといって、あなたのように、完成品を見るなり名前を言い当てられるとは思えません」 「石板に料理のレシピ、か……」  誰がそんなことをしたのか、もはや知る術はない。だが、知った事実と伝説とを繋ぎ合わせれば、前時代と現在との間には、『暗黒の時代』と呼ばれた時間があることが浮かび上がる。その時間がどれほど長かったのかは、わからないが、もしも件の石板が『暗黒の時代』に由来するものだとしたら――全てを失った人類は、せめて自分達の存在の証だけでも残そうと、頭の片隅にある益体もない情報や、先祖から伝えられた物語を、朽ちぬ石に彫りつけたのだろうか。  もしも他の石板も存在するのなら、その中身を知りたいものだ。かつて生きた者達の思い出を。 「それはともかく、食べてみてください」  ほら、と、フィプトは再度アベイに『アイスクリーム』を勧める。請われるままにメディックは匙で『アイスクリーム』をすくい上げ、ぱっくんと口に入れた。 「……んー、旨い。工夫すればもっと旨くなると思うぜ」 「本物の『アイスクリーム』を食べたことがあるあなたがそう言うなら、それほど外れた味じゃないみたいですね」 「オレにも食わせろよ」  エルナクハが空のデザート皿を差し出して要求するのに、フィプトは苦笑いしながらも『アイスクリーム』をよそう。もちろん、他の者達の皿にもデザートが並ぶ。 「んー、冷てー、うめー」  未だかつてない食感のデザートに舌鼓を打つ冒険者一行。  塩を混ぜた氷で果汁を冷やし固めたタイプの氷菓ぐらいは、昔からあるのだが、舌の上でほろほろと溶けていく儚さ、それでいて、かき氷のように頭にキーンと来ない優しさは、それまでのものにはありえない。 「アベイ兄、アベイ兄、昔の人間は、他にもうまいもの、いろいろ食べてた?」 「んー、どうだろうな……」  最年少のソードマンの無邪気な問いかけであるが、メディックの青年は静かに首を振る。 「俺は研究所――医院に入院してたから、元気なヤツらがどんなものをどんだけ食べてたのか、あんまりわかんないんだよ」 「……ごめん、アベイ兄、病気だったんだっけ」 「謝るこたないさ。教えてやれなくて悪いな、ティレン」  心底申し訳なさそうに、アベイは手を伸ばし、ティレンの肩を叩いた。  大分話がそれたが、腹がくちくなったからには、そろそろ、樹海に最初の足跡を付ける者が誰か、という話を進めなくてはならない。  繰り返しになるが、パラディン・エルナクハとメディック・アベイが赴くことは、ほぼ決まったようなものである。いずれも『未知の地より生還する』ためには欠かせない技術を持っている。  そして、乾杯直前にパラスが言ったように、攻撃手の補強が必要なことも確かであった。  前衛に向いた者は、ダークハンター、ソードマン、ブシドー。しかし、ブシドーの少女は、今回は樹海には入らないという。 「理由は、言っても構わないことなのか?」  ギルドマスターが水を向けると、絹のように細くさらさらの髪を短く切りそろえたブシドーは、何の躊躇いもなく頷いた。むしろ宣したくてたまらなさそうに見える。  そういえば、シトト交易所を辞したあたりで話が出たときも、そうだった。自信に溢れた笑みを浮かべて、期待しろ、と言い放ったブシドーの娘。 「なら、言ってみろ、ほのか」  エルナクハがさらに水を向けると、焔華は再度頷く。  昼間の一時と同じように、誇らしげに口角を上げ、彼女達東方の剣士が戦う相手に名乗りを上げる時のように、背筋を伸ばして、仲間達を見回したのである。 「わちは、これからブシドーの誇りを捨てに行きますえ」  その言葉は、仲間達の思考内に、大爆炎の術式にも似た衝撃を生じさせた。  ブシドーにとって誇りは絶対だ。たとえその誇りで自身が不利になろうとも、余程のことがなければ、その骨子が揺らぐことはない。否、骨子が揺らがない者こそが、ブシドーなのだろう。エトリアにて刃を交えた『氷の剣士』が、信念に殉じて『ウルスラグナ』の前に立ちはだかったように。  それを、安堂焔華は『捨てる』という。 「勘違いなさらんでほしいし。今までのブシドーの誇りは捨てても、武士・安堂焔華の誇りを捨てる気はありませんえ」 「でも……」 「古いブシドーの誇りにかかずらっとっては、この先、わちは皆様とは戦えませんわ。せやから新しい『道』を求めに行くんですえ」 「新しい、道、か」  人生とは常なる『道』の模索、とは、誰が言った言葉だっただろうか。エルナクハには難しいことはよくわからないけれど、迷いのない人生などない、ということは、わかるつもりだ。『氷の剣士』とて、信念に到達するまでには幾多の迷いがあっただろうし、まして未熟者たる自分達は人生の迷子の記録更新中のようなものだ。  あるいは『道』の果てなどというものは存在しないのかもしれない。  固すぎる『信念』、それは道の真ん中に鎮座した巨岩のようなものだ。他者との軋轢を生み、他者を傷つけるか、自らが跡形もなく砕けてしまう。だから――結局は人は、死ぬまで『果て』を見いだすことなく、何かを求めて『道』を探し続け、固い信念を、砕かずにおきながら丸くしてゆくのが、最善なのかもしれない。あくまでもエルナクハ個人の考えではあるが。  何にせよ、焔華は、『ブシドーの誇り』という古く固すぎる巨岩の上に安住することをやめると決めたのだ。 「結構、かかるのか?」 「わかりませんし。でも、先達のおかげで行き先には迷わずに済みそうですえ」  ブシドーの娘が言うには、酒場での一時、彼女は冒険者の先輩であるブシドーとの知己を得たらしい。同じく酒場にいた面々は、そういえば、と、焔華が先客たるブシドーらしき青年と語らい合っていたことを思いだした。その青年は、焔華が目指す『道』を知る集団に属しているという。  先導の星を見いだし、新たな道を行こうとする仲間を止める理由は、『ウルスラグナ』の誰にもない。さらなる成長の礎になるというなら、なおさらのこと。  それに、変な言い方になるが、焔華がいなくても『ウルスラグナ』は何の問題もなく機能する。彼女の不在時を心配することもない。 「うし、存分に極めてこいや、ほのか」 「ありがなー」  故郷の訛りの強い感謝の言葉を、ブシドーの娘は口にし、ギルドマスター始めとする仲間達に深々と頭を下げたのであった。  結果、前衛の補強として投入する者は二択となる。  斧の破壊力に優れたソードマン・ティレンか。  トリッキーな剣の技を扱うダークハンター・オルセルタか。  いっそ二人とも、という考え方もあるが、その場合、後衛が二人のみとなる。アベイが確定である以上、残る後衛枠は一つだけ。  だが、その後衛一枠については、エルナクハにはすでに案があった。  ――そこから言うべき、かな。  エルナクハは少しだけ自問し、心を決めると、声を張り上げる。 「あのよ、実を言うと、後衛に入れたいヤツがいるんだよな。とりあえず、そこからいいか?」  仲間達に異論はなさそうだったので、ギルドマスターは話を続けた。  くるりと首を廻らし、緑色の瞳で見つめるのは――金色の髪をした錬金術師の青い目。 「センセイ、アンタを連れて行く。錬金術師の――氷使い(アルベド)、だったか、その力を見せてくれ」 「小生を――」  指名された当人は、まさか自分の名が挙がるとは思っていなかったようである。それもそうだろう、別の樹海で名を馳せた冒険者とはいえ、ハイ・ラガード樹海は未だ未知の領域。だったら、少しでも生還の可能性を引き上げるためには、勝手知った仲間を引きつれて往くのが最善。そのはずだ。  だというのに、このギルドマスターは、 「名指しされたら返事をしろ、って生徒には教えてんだろ、センセイ」  オレが大丈夫と判断したら大丈夫なんだ、と言わんばかりに、何の躊躇いもなくフィプトの返事を促す。 「は、はい!」  慌てて返事をし、しかし、フィプトは探るような目でエルナクハを見た。  昨日の今日で加わった者などは、未知の中にさらに未知を重ねて混迷に至らしめる不確定要素でしかないだろうに。  そんな錬金術師の不安を、パラディンの青年は、肩をそびやかし、盾で防ぐかのようにあっさりと封殺する。 「昨日の今日入ったばかりだから、なんて理由なんか、冒険者にはありえねぇよ。どうせ誰だって、始めは初めましてなんだ」  そもそもエトリア樹海に挑んだときは、全員が『初めまして』みたいなもんだったんだ、と言い、パラディンは笑う。  もちろん、本当に初めて会った相手で、何者かまったくわからない者だったら、いきなり未知の場所に連れて行くことには躊躇いがあったかもしれない。他の場所ならまだしも、『世界樹の迷宮』なのだ。そして、最初期にはメンバーが少なく、選択の余地がほとんどなかったエトリアの時とは、違う。  ところがフィプトは、センノルレの弟弟子である、という正体が始めから明らかで、その実力は姉弟子からのお墨付き――なにより、たった今、酒を共に飲み交わした仲じゃないか。 「わかったか? わかったら、ぐだぐだ言うなよ、センセイ」  まだ何か言いたげなフィプトを一喝し、エルナクハはさらに仲間達を見回した。  決める必要があるのは、あとは、前衛二人、あるいは、前衛と後衛ひとりずつ。  どうしようかな、と小さな声で独りごちたその時、ふと、金髪のレンジャーと目が合った。だが、レンジャーの方は、エルナクハが不快を感じない程度にゆっくりと、視線を外して俯く。  ナジク・エリディット。エトリア樹海においては、その超絶的な弓の腕と、レンジャーならではの探索能力で、幾度となく仲間達を救った青年。だが、その力ですら自分には足りない、と思いこみ、ついには触れてはいけない力に手を出してしまい、そのために心に傷を負った青年。それからというもの、自分は消えてしまってもいいのだ、と言わんばかりに、存在を希薄にしながらも、影からそっと仲間達に助けの手を伸ばす、そんな男。  ……簡単には消えさせてやらねぇ、って言っただろ。  エルナクハは再び小さな声で独りごちる。  おかげで考えが定まった。エルナクハは掌のみ白い腕を伸ばし、犯人を名指しする名探偵のように、レンジャーの青年の名を口にしながら彼に人差し指を突きつけた。もちろん、続く発声は「犯人はオマエだ!」ではない。  指名された方は、フィプト同様に自分の名が挙がるとは思っていなかったようだった。 「ぼ……僕、か?」  思わず顔を跳ね上げ、ぱちくりとまたたきつつ、自分を指差す。 「他にナジクがいるか。オマエが三人目の後衛だ」  エルナクハは眉根を寄せながら悪態のように吐き出した。 「レンジャーだろ、オマエは。未知の森なら最初に自分の出番があるに決まってるって、わかんなかったのかよ」 「でも、僕は――」 「はいはいギルマス権限で異論は認めまセーン。諦めて探索に尽力してクダサーイ」  ぱんぱん、と手を叩きながら、怪しげなアクセントの混ざった言葉でレンジャーの言葉を封殺するパラディン。  事実、レンジャーの能力は樹海探索にはうってつけなのだ。もちろん、初めての場所であろうから、始めから何もかもができるわけではあるまい。それでも、慣れれば、レンジャーは樹海を把握し、危険を未然に察知し、仲間達を救うだろう。  ――そうだ、エトリアでの一件が心に引っかかってるんだろうが、オマエは自分が思うような疫病神じゃねぇ。オレらの大事な仲間だ。  ――初めての樹海で後衛を任せられるほど、大事で、かけがえない仲間だと思ってんだよ、ナジク。  いささか感慨混じりにそんなことを思うエルナクハ。  が、それを盛大にぶち壊す輩もまたいるもので。 「ナジクにいさん、行きたくないなら、私が代わりに行くよ?」  ――空気読んでくれ、パラス。  自分の普段の空気読めなさを棚上げして、口出ししてきたカースメーカーの少女にげんなりするパラディンである。  が、エルナクハが思ったほど、パラスは空気の読めない少女ではなかったらしい。 「断る」  とナジクが即答すると、カースメーカーは、ふんわりと花がほころぶように笑い、 「なんだ、やっぱり行きたいんじゃない。だったらぐちぐち躊躇してないの」  そう宣うたのである。彼女は彼女なりに、煮え切らないナジクに発破を掛けたかったらしい。  長らく苦難生死を共にしてきた仲間は、肝心なところは外さないものだ。  エルナクハは自分の早計な不信感を恥じるのだった。  こうして、前衛が一人と後衛が三人決まった。残り一人、前衛を務める者が必要である。  ソードマン、あるいは、ダークハンター。  力の一号か、技の二号か。  どこかで聞いたことがあるようなないような言い回しを思い浮かべながら、エルナクハは沈思黙考する。  やがて、ん、と頷き、つい先程ナジクにやったように、指を突きつけた。 「オルタ、お前が来い」 「わ……わたしが?」  指名された本人は、てっきり『力』のほうが選ばれるものだと思っていたようであった。指名してきた兄と、選ばれなかったソードマンとに、交互に視線を彷徨わせ、困惑気味に繰り返す。 「わたし、ほんとにわたしで、いいの?」 「いいから指名してんじゃねぇか」  半ば呆れて肩をすくめたギルドマスターは、改めて選ばなかった方に向き直る。 「悪いな、ティレン」 「うん、残念」  ティレンは、がっくりと肩を落とす。だが、間を置かずして顔を再び上げた。その表情は、意気消沈とは対局の域にある、輝くような歓喜のそれ。きらきらと光を宿した瞳で、真っ直ぐにエルナクハを見据え、早口気味にねだる。 「だけど、いいよ。そのかわり、おれも、いつか絶対、樹海に行かせてよ。絶対だよ」 「もちろんだ」  エルナクハは笑みを浮かべて、ぱんぱん、とソードマンの背を叩いた。  最後の一人、自分と肩を並べる者として、エルナクハがオルセルタを選んだ理由は、エトリアの最初の試練の経験者であること。  正確に言うならば、ティレンに、エトリアの試練の経験がないこと、である。  ティレンは、比較的初期とはいえ、中途参加であるため、数多ある冒険者ギルドにもれなく課せられた試練を経験していない。もちろん、当時の経験がなかろうが、今回の試練には問題はあるまい。そうは思う。なにしろ自分とアベイとナジク、三人もが、試練を経験しているのだ。フィプトが全くの樹海初心者であることを差し引いても、ティレンが入ったことで問題が吹き出るとは思えない。そもそもエトリアの時は、何度か樹海に踏み込んだ経験のあるナジクを除けば、全員が初心者だったのだ。  だから、経験の有無は、あくまでも、軽い後押し程度の意味しかない。だが、決め手となったことは確かだった。  ギルドマスターたるパラディンは、腕組みながら、ぐるりと仲間達を見回して、最終確認とばかりに口にした。 「皆、異論はあるか?」  返事はない。皆、いの一番に樹海に入る仲間の選択に、不満はないようであった。 「そか。じゃあ、これで本決まりだ」  ギルドマスターは笑みを浮かべた。 「明日の朝、ギルドに行こう。で、探索メンバーの申請だ。それから、大公宮に行って、『オシゴト』のことを聞かなきゃならん。というわけで――」  近場にあった酒瓶をむんずと掴み、自分の杯の中に中身を注ぎ込みながら、エルナクハは気合いの入った声を放つ。 「こうなったら樹海踏破の前祝いとして、朝まで呑みまくるぜ!」 「少しは控えなさい、バカ兄様ッ!」  妹の呆れ果てた叫びが、室内に響き渡った。  石造りの私塾が、夜に多数の人間を迎え入れるのは、建物の本来の建造目的であった、市街拡張の作業員の宿泊所として使われていたとき以来であろう。それ以降、『ウルスラグナ』の訪問までは、ほぼ毎日、金髪の青年アルケミストただ一人を住人として抱えていたのである。  古い建物には精霊が宿るという伝説があるが、私塾に精霊が宿っていたとしたら(築年月は『精霊が宿る』とされるには程遠いのだが)、はたして、夜も賑やかになったことを歓迎するだろうか。それとも、うるさくなったと眉根をしかめるだろうか。  ただ、この日の深夜には、新たな住人達は精霊の眠りを邪魔するほどではなくなった。結局、翌朝からの冒険に備えて身体を休めることを選んだわけだ。  ほとんどの者はベッドに潜り込み、すでに安らかな寝息を立てている。  しかし、幾人かは、何かしらの用事のために、あるいは、興奮して寝付けずに、未だに起きていたのである。  例えば、レンジャー・ナジク。  昼間から飽きもせずに手入れしていた弓を、またも丹念に点検しながら、未だ見ぬ樹海に思いを馳せていた。  美しい緑の樹海。その奥底には危険が潜む。いかなる宝石も敵わぬような輝きを放つ木々の影に、鋭い死光をまとう牙や爪が潜んでいる。エトリア樹海を経験した者達でさえ、半数が戻らないという、翠の魔境。  その魔境が孕む危険から、仲間達を護るのが、ナジクの願いであり、誓いだった。  ――冒険者ギルド『ウルスラグナ』は、エトリアを救った英雄である。  どういうわけか、ハイ・ラガードにはそんな噂が流布している。  実情を鑑みれば、あまりにもおかしい噂であった。『ウルスラグナ』は樹海の真実を暴き、そのためにエトリアの前長ヴィズルを屠り、樹海の真の支配者といえる魔物フォレスト・セルを制し、その結果、エトリア樹海は人間に対して固く閉ざされた。  樹海に依存したエトリアにとっては、『ウルスラグナ』の行為は、迷惑以外の何物でもなかったはずだ。それでも、次代の長オレルスを始めとする街の人々は、『ウルスラグナ』を樹海踏破の英雄と褒め称え、一言も責めることなく、新たな冒険に送り出したのだ。  余談を差し挟むと、その噂の真意を、『ウルスラグナ』は近い将来に知ることになる。  だが、真意を未だ知らぬ今ですら、ナジクは、その噂が真実であると知っていた。  何故なら、『ウルスラグナ』が樹海を踏破し、最奥に潜む魔を制しなければ――その魔と、その魔に魅せられたナジクの手によって、あるいはエトリアの街は、『樹海の侵略者』の巣窟として完膚無きまでに破壊されていたかもしれないから。  力を求めた自分の迂闊な行動によって、この世から消え去っていたかもしれない、エトリアの街。  ゆえに、フォレスト・セルを制した『ウルスラグナ』は、真に『エトリアの救い手』であることに間違いないのだ。  本当なら、『エトリアの救い手』の中に居続ける資格などないはずの、自分。  そんな自分がそれでも『ウルスラグナ』に居続けるのは、仲間達に恩を返すため。  取り返しのつかない行為を行った自分を、それでも懸命に引き戻してくれた、かけがえのない仲間達を、全身全霊を込めてサポートするため。  だから、エルナクハが自分を指名してくれた時は、とても嬉しかったのだ。他の皆を差し置いて自分でいいのか、という不安も同時に抱いたが、自分が必要とされている、という事実が喜ばしかった。  静かな湖面のようなまなざしに決意の光を秘め、点検を終えた弓に弦を張る。張りの強さが程よいことを確認し、ナジクは目を細めた。  弓と名が付く武器は、ナジクが生まれた頃から、慣れ親しんだもの。  これからの樹海探索でも、レンジャーの腕として、大きな役に立つだろう。  明日は、否、明後日以降も、この生命賭しても、必ずや皆を護る。  ナジクは改めて誓いを新たにするのであった。  例えば、カースメーカー・パラス。  自分が選んだ個室で、ベッドの上に横たわりながら、その手に広げるのは、冒険者ギルドで受け取った手紙。  『王冠』と共に『ウルスラグナ』全体に宛てられたものではなく、パラス個人に送られたものであった。  ギルド全体に宛てられた方は、エトリア正聖騎士としてのものだったためか、羊皮紙に綴られていたが、パラスが手にしているのは、もっと気軽に使うことができる漉紙に記されている。統轄本部で受け取った際にもちゃんと読んだのだが、今この時、パラスは再び手紙に目を通していた。  手紙の内容自体は、こういう時に送られる定番の文章、ありきたりとも言えるものだった。だが、内容が定番だからといって、それが冷める理由になるだろうか。心の奥底からの心配と配慮を込めて綴られた文字は、目の前で差し出し主が語っているような錯覚を伴って、パラスの心に染みこんでいった。 「えへへ……」  文末まで読んだのに、またも文頭に視線が戻る。まるで恋文をもらった乙女のような体たらくである。  自然と口元が緩み、独り言が漏れる。 「もう、つまらないことでもいいから、毎日くれないかなぁ、手紙。お姉ちゃんは待ってるからね」  とは言うものの、自分の方から毎日手紙を書く気はない。面倒くさいからだ。  同時に、相手側も毎日手紙を書く余裕などない、というのは、わかっている。エトリアは長らく続いた樹海依存の政策を捨て、転換を行わなければいけない時にある。そんな時に執政院に採用されたパラディンが、忙しくないはずがない。ただでさえ人手不足だと聞いている。  だから、パラスの自分勝手な望みは、あくまでも希望に過ぎない。  過ぎないのだが、でもやっぱり、そうなってほしいと思う。 「ま、しばらくは仕方ないかな」  よっ、とつぶやきながら、両足を振り上げ、振り下ろした反動で上半身を起こす。ベッドの傍の小さな机に置いてある封筒を取り上げ、その中に、手紙をしまい込んだ。  大事に大事に、折るべきでないところが折れてしまわないように、ゆっくりと。  そして、例えば、パラディン・エルナクハと、アルケミスト・センノルレ。  私塾に滞在するにあたって、『ウルスラグナ』一同は、好きな部屋を一人一つずつ選んだのだが、ここに例外がある。夫婦である二人は、一つの部屋を共に使うことにしたのであった。個室はそんなに広くはないが、寝て起きて多少のことをするには充分である。  石造りの壁は案外厚く、扉もかなり頑丈だったため、締め切ってしまえば音もほとんど通さない。仮に夜通し嬌声を上げても仲間達には気付かれないだろう。もちろん、今はそんなことはしない。夫は樹海探索の前に体力を消耗するわけにもいかないし、なにより妻は身重なのである。だから夫婦はそっと寄り添い、指先は髪や頬を撫で合う程度。それでも心は充分に温まるのだった。 「――エルナクハ、ひとつだけ、忠告しておきます」  このひとときには似つかわしくない、固い言葉を、しかし、かつてエトリア樹海に挑み始めた頃からすれば信じられないほど柔らかな声で、センノルレは吐き出した。 「忠告?」  エルナクハは、その時妻の髪を撫でていた手を止め、まじまじと、今は眼鏡越しではない妻の濃紺の瞳を見つめた。 「むやみやたらに突っ走るなとか、引き際を考えろとか、おやつは三エンまでとか、か?」 「それもそうですけれど――いえ! おやつの値段はどうでもいいことですがっ!」  きいっ、と叫ばんばかりにまくし立てた後、センノルレは元の落ち着きを取り戻し、話を続けた。 「食事時に出たデザート――」 「『アイスクリーム』か。旨かったな、アレ。前時代人はあんなのいつも食えてたんかな。ユースケがちょっとうらやましいぜ」 「ええ、美味しかったですが、話はそこじゃありません」  ぴしゃり、とたしなめ、女錬金術師はさらに話を続ける。 「あれを作るための壷がありましたでしょう。あれを準備するのを、わたくしも手伝ったのです」 「……ああ、術式に使う触媒を利用してるんだっけか。なら別に変な話じゃねぇな」 「忠告は、その触媒のことです」  生徒に指南する女教師のような面持ちで――事実、彼女は数日の休みを経て女教師になるのだが――センノルレは断言した。 「エルナクハ、触媒を扱っていて思ったのですが、どうもハイ・ラガード産の触媒は使いづらい――いえ、あるいは、エトリア産の触媒があまりに使いやすすぎたのかもしれません」 「探索に響くほどに、か?」 「多少は」  エルナクハの問いに、センノルレは、こっくりと頷く。 「わたくしたち錬金術師は、術式を発動するために、錬金籠手に仕込んだ触媒を反応させる。けれど、その制御は籠手にお任せというわけにはいきません。貴方たち前衛の戦士たちが必殺の一撃に気力をつぎ込むように、わたくしたちは籠手の制御に気力を使います。精神集中を妨げられるようなことがあれば、制御がうまくできず、術式も発動できません。――そこまではいいですね?」 「あ、ああ」  夫は先程の妻同様に、こくんと頷いた。  センノルレは、少しだけまなざしを緩めて、話を再開する。 「結構たいへんな籠手の制御ですが、それでもエトリアの触媒を使うのは、今にして思えば楽でしたのですよ。多少、制御を間違えても、それなりには発動できました。けれどハイ・ラガードの触媒は少々気むずかしい。エトリアの触媒よりも注意を払って制御しなくてはなりません。だから、エトリアでのわたくしと同じつもりでフィプトを当てにすると、痛い目を見るかもしれません」 「ん……うむ……」  エルナクハは、わかったようなわからないような顔をする。 「えーと、つまり、エトリアと同じようなつもりでぽんぽんと錬金術を使わせるなってことか?」 「平たく言えば。ある種の切り札と思っておいた方がいいでしょう。もちろん、出し惜しみしすぎた切り札が役に立たないのはいうまでもありませんが」 「おいおい、カードゲームみたいなこと言ってくれるなよ」  とエルナクハは苦笑いする。駆け引きが苦手な彼は、『切り札』の使いどころを掴めず、そういうものが付き物のゲームにしょっちゅうボロ負けしていたことを思い出したのである。まぐれが奇跡を引き起こさない限りは、ゲームで彼に勝てないのはティレンくらいだ。  エルナクハ自身の名誉のために書き添えておけば、駆け引きの下手さはあくまでも卓上ゲームの時だけであり、戦場での部隊運用は及第点をもらえる程度にはこなせる。大得意といえるほどではないにせよ。それに、騎士団所属時には、卓上ゲームの下手さも、ある意味では彼の武器であった。気持ちいいほどにボロ負けし、観念して大笑いしながら掛け金を差し出す、竹を一息に十六分割するような性格のエルナクハを、極端に嫌う者はいなかったのだ。文字通り百花繚乱というべき個性の『百華騎士団』の中にあって、それはなかなかに得難い状況だったに違いない。  話がずれたが、ハイ・ラガードでの錬金術が、エトリア以上に気安く使えるものではないらしいことは、わかった。  だが、センノルレの言うとおり、切り札として有用であることは変わらない。下手なカードゲームに興じる青年としてではなく、部下を指揮する聖騎士としての思考で、エルナクハは思った。新たな樹海で真っ先に自分達を手荒く歓迎してくれるのが、普通の森にいてもそんなに違和感のない小動物だとしたら、属性攻撃に耐性のなかろう彼らとの戦いの決め手として、錬金術は助けになる。――入り口も入り口で、属性の効かない竜やら何やらが蠢いていたら、笑うしかない。 「とにかく、わかった」  と、黒い肌のパラディンは、妻の背にそっと腕を回しながら、頷いた。 「センセイは樹海初心者でもあるしな、気ぃ回す必要はある。忠告は聞いておくよ」 「聞き流すだけでは駄目ですよ。しっかり、頭に留めておいてください」 「わかってるわかってる」  気のない返事に聞こえなくもないが、生死に直結しかねないことを軽んじるほど、エルナクハは無謀ではないつもりでいる。『錬金術の運用には注意すること』という情報をしかと脳裏に刻み込む。  そしてもうひとつ。魂に刻み込んだことがある。  それは、目の前の黒髪の錬金術師の顔。  自分が樹海の中で死んだらどうなるのだろう。妻の顔はどのように変わるのだろうか。エトリアでいくつものギルドの壊滅を見、辛うじて生き残った者達の悲嘆の顔を見てきたが、そのことごとくを思い出して妻の顔に当てはめてみても、どうもしっくりこない。  つまりは妻の顔が変わらぬように、無事に戻ってくればいい。結論だけなら簡単な話である。  ゆえにエルナクハは自らの魂に妻の顔を刻み込んだ。泣き顔ではなく、かといって、想像してみてやっぱりしっくり来なかった満面の笑みでもない。たった今、目の前にある、どことなく冷ややかさを思わせながらも、目元に柔らかさが漂う、素の彼女の表情を。  もしも樹海で慢心しかけ、あるいは恐怖に駆られたとしても、この顔を思い出せば、そうそう道を踏み外しはするまい。 「……どうしました、エルナクハ?」  じっと見つめる夫に軽い不審を感じたか、センノルレが問う。 「なんでもねーよ」  エルナクハは照れ隠しに顔を背けた。しかし妻の背に回るその腕は力を増し、センノルレの華奢な身体を己の逞しい胸板に押し付ける。 「痛いです、エル」 「……あ、ああ、すまん」  抗議を受けて腕の力を緩めはしたが、それ以上離そうとはしない。魂の刻印はまだ足りぬ、と言わんばかりに。  事実、ほのかな体温をまともに受け止めた瞬間、足りない、と思ったのだ。刻むものは、妻の顔だけでは不十分だった。だが何が足りないのかがわからず、しばらくは押し黙って、自分とセンノルレの鼓動を聞き流すに留まる。  ――あ、そうか。そうだよな。  不意に悟ったのは、その鼓動が自分と妻のもの以外にも余分に聞こえた気がしたからだった。エルナクハは空いた手を妻の下半身に伸ばす。センノルレが一瞬硬直したが、エルナクハが触れたのは、敏感なところではなく、少しだけ膨れた腹部であった。 「オマエも、だったな」 「――は?」  何のことだ、と言わんばかりの妻の声を聞き流しながら、エルナクハは一人合点した。  自分が死んだら、置いていくのは一人だけではない。  顔も知らない、今の姿も知らない、そもそも男女の別すらわからない。それでも、『もう一人』は、確固としてエルナクハの掌の向こうに存在する。目覚めの時のまだ遠い、新たな生命。  聞こえた気がした、かすかな鼓動を、呼び起こす。  まだわからぬ姿の代わりに、その『音』を、魂に刻む。 「……これで、よし、と」  エルナクハは満足げに息を吐いて、何のことやらわからないと言いたげなセンノルレの背を軽く叩いた。 「もう寝よう。明日からも早い」 「……そうですね」  とはいえ就寝を宣告しても、すぐに寝付けるかどうかは別である。どちらも無言のまま、並んで天井をぼんやりと見つめ続ける。  やがてエルナクハの耳に、かすかな寝息が届く。  やっと眠ったか、と思った途端、エルナクハの意識も、暗闇の奥底、一夜ごとの閨に、引き込まれていった。