世界樹の迷宮 ハイ・ラガード編:Verethraghnaプロローグ  辺境の街エトリアに現れ、おおよそ四半世紀の間、人々を狂騒の渦に陥れた、地下樹海迷宮『世界樹の迷宮』にまつわるあれこれは、最終的に樹海の最奥へと辿り着くことになる冒険者ギルドが、おおよそ一年を掛けてその偉業を達成することで、収束に向かった。  彼らにとって、エトリア滞在の最後の三ヶ月は、いわゆる『後始末』という言葉に相応しいものだっただろう。街にとっては、二十余年を掛けて開催された大祭の余韻を感じながら、やがて訪れるであろう寂寥の日々に再び馴染むために必要なことだ。  もはやエトリア樹海は閉ざされ、人間が立ち入ることは不可能になった。地下一階と呼ばれた場所には辛うじて立ち入れるが、その下へと続く虚穴は、どこを捜しても見つからなかった。珍しい素材と冒険者の到来、いずれも樹海に依存した二大『産業』を発展の礎としてきたエトリアは、いずれまた、小都市に戻るだろう。何らかの手段を講じない限りは。  自分達のせいだとは思わないが、まったく何も感じないわけではない。  樹海を踏破した冒険者ギルド『ウルスラグナ』のギルドマスターである青年、パラディン・エルナクハは、見納めに、と、もう一度エトリアの全景を見渡した。常日頃は傲岸不遜な光を宿す瞳にも、さすがに名残惜しげなものが宿った。 「――お前達が気にすることじゃないよ」  エルナクハの傍らに立つ、もう一人のパラディンが、穏やかな声を掛けた。あせたような赤髪と黒い肌のエルナクハとは違い、いかにもお伽噺に出てきそうな金髪碧眼の少年騎士である。彼は『ウルスラグナ』のギルドメンバーではなく、最後まで樹海踏破を競ったライバルギルドのメンバー。ギルドそのものは『ウルスラグナ』の健闘を称えながら潔く解散したが、パラディンはこの街に残って執政院に入った。彼は、この街で、あるいは迷宮の中で、何を掴んだのだろう。 「オマエは何を護りたくてエトリアに残るんだ?」  エルナクハは問うてみた。他者が自分の信念に基づいて決めたこと、口出しする気は毛頭ない。この質問は単なる興味だ。だから応えがなくても構わなかったが、少年騎士は緩やかな笑みを浮かべて素直に答えたのであった。 「樹海の平穏を。いずれまた自ら開かれたなら、その時こそは剣ではなく和を。さもなければ、閉息を乱すものが現れないように」  しばし口を閉ざす少年騎士。続けるべきか否か悩んでいるようだったが、結局、続けた。 「なにより、ある方を――ある方の眠りを護るため」 「白き姫?」  不眠に悩んで冒険者に救いの手を求め、『ウルスラグナ』のカースメーカーの呪言で悩みを取り除かれた、エトリアの富豪の令嬢のふたつ名を、エルナクハは口にする。  少年騎士は頭を振った。 「違う――」  どことなく歯切れの悪い返答に、その先を語ることを拒絶する意思を感じたエルナクハは、追及を止めた。 「まぁ、誰でもいいけどよ。騎士たる男子が決めたからには、故なく違えるなよ、その誓い」 「無論」  その返事は、水晶の結晶のように揺るぎなく、純粋で明朗なものだった。  四つほど年下の少年騎士の様子に、にんまりと笑みを浮かべていたエルナクハだったが、ふと、懐から懐中時計を取り出して時刻を確認した。わずかに頷いて、時計をしまう。 「――悪ぃ、そろそろ出立の時間だ」 「そうか。ハイ・ラガードまで何で行く気なんだ?」 「馬車を乗り継いで半月、ってところかな。合間の街で休息も挟むけどよ」  少年騎士とは違い、エルナクハはこの街を旅立つ。自分についてきてくれたギルドメンバーを引きつれて。目指すは、新たに迷宮が発見されたという、北方の街ハイ・ラガード。『世界樹』と呼ばれる大木に抱かれたその街は、世界樹内部に発見された迷宮をめぐって、狂騒の兆しを見せているらしい。かつてのエトリアがそうであっただろうように。 「実際は一ヶ月近くかかるかもしんねぇな」 「海路は? 今の季節なら潮流に乗れば結構早いと思うけど」 「センノルレがああだから、無理はさせられねぇし。船酔いの気があるとは聞いてねぇけど、場合が場合だし一応な」 「センノルレさんか」  『ウルスラグナ』のアルケミストの名を耳にして、少年騎士は、さも自分のことを喜ぶかのように目を細めた。 「エルナクハも、何ヶ月かすれば立派なおとーさんだね」 「おうよ! ……初めてのことだから、ちぃとばかり不安もあるがよ」 「初めて樹海に踏み込んだ時と、どっちが不安?」 「断然、こっちだな」  肩をすくめながら断じた後、エルナクハは豪快に笑う。少年騎士も釣られて快活な笑声をあげた。  いやはや、未知であるはずだった樹海より、既知であるはずの人間の営みの方が不安とは、どうしたことか。  ひとしきり笑いあった後、少年騎士が掌を差し出した。 「元気で。ハイ・ラガード樹海が楽しいからって、不注意にふらふらして皆に心配掛けるなよ」 「ち、見透かされてる――じゃねぇ!」  エルナクハは怒鳴り――もちろん本気ではないが――、手を握り返しながら反撃を試みた。 「そんなオマエこそ、エトリアの街中で迷子になるんじゃねぇぞ!」 「なるかっ!」 「わからんぞー、例えば色街なんか、ある意味樹海より性悪な迷宮だからな、腕試しクエストに一人で挑んで目的を達成したはいいが、糸忘れてた上に道を見失って三日間も樹海をさまよってたヤツじゃ、一歩踏み込んだだけで身ぐるみ剥がされそうだぜ?」 「樹海と街は違うだろ! つーか色街なんかに行くかっ!」  『ウルスラグナ』も少しばかり巻き込まれた、少年騎士のドジを引き合いに出すと、当の本人はむくれたような顔をした。が、ふ、と力を抜き、破顔する。 「まあ、空間的なものだけじゃない、信念的な意味での忠告として、受け取っておく」 「そうしとけ」  エルナクハはからからと笑声をあげると、少年のそばから離れ行く。街の外では、すでに出立準備を整えた仲間達と、皆を乗せて北方へ旅立つ馬車が、待機しているはずだ。そちらの方へと足を向け、いくらか歩を進めたが、ふと立ち止まり、少年騎士を見る。  少年の背後に広がるは、一年ほどを過ごしたエトリアの街並み。  自分達を始めとした冒険者の手で育てられた街。  そして、今のまま何もしなければ衰退するしか道のない、辺境の街。  故郷でもない街から立ち去るだけだというのに、いざ顧みると郷愁を感じるのは、なぜだろう。 「手紙は書かねえぞ、筆無精だからな」  郷愁を振り払い、少年騎士に言い放つと、相手からは思わぬ返事があった。 「心配無用。パラスが書いてくれるって言ってた」 「はは、そりゃ楽ちんだ」  自分のギルドのカースメーカーの名を耳にして、エルナクハは笑った。少年騎士とカースメーカーは親族の間柄にあるのだ。 「なら、もう、思い残すことはないな。じゃあな」  改めて、エルナクハは踵を返す。 「ああ、元気で」  少年騎士は、自分が凱旋を果たすかのように、晴れやかに笑んだ。  その表情を見たエルナクハは、それ以上は、少年騎士も、エトリアも、振り返らなかった。  だからエルナクハは知らない。少年騎士がどこまで自分を見送ってくれたのかを。あまりにもまっすぐに未来(ハイ・ラガード)を見つめていたがゆえに。  けれど、後々に、エルナクハは後悔することとなる。  もう一度くらいは、振り返っておけばよかった、と。  『ウルスラグナ』のメディック、アベイ・キタザキこと阿部井祐介は、どうやら前時代人であるらしい。  『どうやら』『らしい』と付くのは、当の本人にもあまり自覚がないからである。  同じ時代を生きていたはずのエトリアの前長・世界樹の王ヴィズルとは違い、アベイは、何千年かもわからぬ長い時を『生きて』きたわけではないのだ。今や知る術もなく、推測の域を出ない理由で、生者でも死者でもない状態――当時の言い方で言うなら、つまりは『コールドスリープ』というものだ――にあり、当人も五歳という、ものの道理がまだよくわからない年齢にあったからだった。  だからアベイ自身の意識では、拾われてからエトリアの施薬院で育てられた後の思い出が、全記憶の九割五分を占めており、「自分はエトリア人である」との思いが強い。それでも、残りの五分に詰め込まれ、時折、記憶の奥底から浮かんでくる、実の両親のことや、当時の楽しかった思い出のすべてを、否定するつもりもない。  そうして、エトリア人と前時代人の双方の記憶に均衡を取り、一息吐いたその時、彼は知ったのである。  北方ハイ・ラガードの世界樹の迷宮の存在を。  その時に心に浮かんだのは、自分でもどこから湧いて出たのかわからない決意だった。  ハイ・ラガードの迷宮にも、前時代に連なる何かが眠っているのだろうか。だったとしたら、自覚がないなりにも前時代人である自分には、自分の親世代がこの世界で成そうとしたことを、見届ける責務があるのではないか、と。  それが、自身が属する冒険者ギルド『ウルスラグナ』に、ハイ・ラガード行きを打診した理由であった。  もしも誰も行く気がなければ、一人で赴き、当地で別のギルドに加入するしかないだろう、と思っていたが、幸い、仲間達は全員が、それぞれに理由を作って賛同してくれた。  いい仲間を持った、とアベイは思う。その思いは、ハイ・ラガード着を明日に控えた今も、変わらない。  本日の宿となる、とある小さな街のはずれ、夕暮れに朱に染まる小高い丘の上で、アベイは目的地の方を見据えていた。  目的地であるハイ・ラガードの『世界樹』は、まだ距離があるにもかかわらず、その偉容を、うっすらとした黒い影として、アベイの視界に晒している。エトリアの地下樹海迷宮の上にも、『世界樹』と呼ばれる大木はあったが、ハイ・ラガードのそれと比べれば、芽のごときものだろう。  もっとも、エトリア樹海は地下にあったもの、それを考えれば、かのエトリア世界樹は、真の世界樹の頭頂部分だけが地上に出てきただけのものかもしれない。今となっては確認する術もないことだが。 「――ここにいたのか、ユースケ」  背後からの声に振り返ると、折しも『ウルスラグナ』のギルドマスターであるパラディンが、丘を登ってくるところだった。 「ナック」  他の者には本名そのままか『エル』と呼ばれるパラディンを、そんな渾名で呼ぶのは、アベイだけである。同時に、他のメンバーにはアベイと呼ばれるメディックを、前時代の本名で呼ぶようになったのもまた、エルナクハだけであった。  余談だが、前時代人名において、『アベイ』は名前ではなく苗字だった。しかも、名前としては先頭にアクセントが付く発音をされているが、苗字としては平坦に発音されるはずのものである。 「どうしたよ。世界樹の影だけ見てハァハァしてたら、明日、本物を前にしたら身が保たねぇぜ」 「世界樹たんハァハァ……って、どんだけヘンタイだよ俺は」  エルナクハの言葉にノリツッコミで返し、アベイは再び世界樹の影を見る。昼から夜に天空の支配権が譲り渡されていく中、その影も、紺色の大気の中へと溶け込みつつあった。  エルナクハの言い方はともかくとして、アベイだけではなく、冒険者達全員が、その影だけの世界樹のような、実体の見えぬ迷宮の風聞に興奮し、だからこそ、今、この場にいるのだと言える。 「はは、悪ぃ悪ぃ。オレも同じ穴のナントカってヤツだがよ」  そのあたりの自覚はあるらしく、エルナクハは悪びれもせずに笑った。 「ところで、こんなとこに、どうしたよ、ナック」  アベイは問う。自分同様に、明日からの冒険の舞台である世界樹の偉容を見に来ただけかとも思ったが、それ以外の何かを、メディックの青年はギルドマスターの表情に見た。思った通り、エルナクハはこっくりと頷いて口を開く。 「酒場で面白い話を聞いたんだが、……ユースケ、オマエの前時代の知識を借りたい」  アベイは少し眉根をひそめた。 「くどいようだが、そんなにいろいろ便利に覚えてるわけじゃないぞ。それでもか?」 「ほぼゼロなオレらよりゃ、上等だろ」  エルナクハは肩をすくめた。エトリアの前長ヴィズル亡き今、前時代の知識を生きたものとして我がものにしているのは、アベイを置いて他にはいるまい。それが、当時幼子だった者の拙い記憶だったとしても、だ。  やれやれ、と言いたげにアベイは首を振ったものの、それでも顔は嬉しそうにほころばせ、応えた。 「しゃーないなぁ。ま、日もすっかり沈んだことだし、戻るか」  なんだかんだ言って、仲間の求めに応えることができるのは嬉しいのである。  丘を下りながら二人の青年は会話を交わし合う。行く先に見えるのは、暗闇に対抗して人間達が灯す、ささやかな光の集い。星空を稚拙に、それでも懸命にまねたようにも見える、営みのしるしに、二人は目を細めた。 「……逆だな」  と、アベイがつぶやく。 「逆?」  訝しげに問うパラディンに頷き返し、アベイは空を見上げた。 「――前時代は、よ、空にはこんなに星がたくさんはなくて、地上にこそ光があふれていた。それに」 「ん?」 「ほら、あの、ひしゃくみたいな形をした七星を、こう、つーっと辿っていった先の――」 「ほう」  相づちを打ちながら、エルナクハは、動かされるアベイの指先を辿る。指と視線が止まったのは、北方の空。北極星(アルデラミン)からやや離れたところにある、小さなひしゃくの形に似た星の群を、アベイは指していた。 「あの柄の先にある星が、北極星だった」 「――そうか」 「……今さらだけど、俺は随分と長い旅をしてきたんだな。天と地がひっくり返って、北極星すら代替わりしちまうほどの、長い旅を」  エルナクハは返事をしない。彼はアベイではないから、時の彼方に両親と友達を含むすべてを置いてきてしまった彼の寂しさを、真に理解することはできないだろう。いくらエトリア人の意識が強いといっても、決して消せぬ思い出はあるのだ。  声に出しては返事をしなかったが、代わりに、筋骨逞しい腕を伸ばし、メディックの青年を引き寄せ、ぱん、と肩を叩いた。 「……ありがとな、ナック」  仲間の真意を読みとって、アベイは笑んだ。  パラディンとメディックが連れだって街に戻り、酒場の扉をくぐると、折しも歓声が沸き上がったところであった。 「――ナニやってんだ、アイツら?」  エルナクハは呆然と突っ立ち、酒場の中央――いつもなら楽師や舞姫が皆を楽しませる舞台となっている――を見つめる。そんなギルドマスターを、その裾を引くことでアベイが我に返らせ、酒場を見渡し、目的地を見つけると、連れて行った。  隅に近い円卓、そこに、『ウルスラグナ』のギルドメンバーが席を占めている。  ハイ・ラガード着を明日に控えた今宵、いわゆる壮行会と称して、思うがままに飲み食いしているのだ。 「おう、帰ってきたぜ、ティレン、ナジク、センノルレ、パラス」 「ん、おかえり」  まっさきに声を上げたのは、奥の方に座っている短めの赤毛の少年ティレンである。言葉そのものは、ぶっきらぼうと言っていいほどに抑揚のないものだったが、わずかに動いた表情と、帰ってきた二人に向けられた瞳の輝きが、内面の感情を如実に表している。しかし、挨拶が終わった途端、もはや用はないと言いたげに、それまで頬張っていた肉の塊との格闘を再開するあたり、今は仲間よりメシのようだった――いや、挨拶のためにメシを中断したのは、彼なりの『メシより仲間』の表明なのかもしれない。 「……遅かったな」  赤毛の少年の右手、茶髪の少女パラスを挟んだところに座っている、癖の少ない長い金髪の青年ナジクが、声を出した。真にぶっきらぼうなのは赤毛の少年ではなく、この青年だと思わせる、ぼそりとした言葉であった。その一言だけで黙り、静かに酒を口にする様は、意識しないと、そこにいることすら忘れさせてしまうほどに、影が薄かった。ここまでの旅の中でも、例えば酒場での注文の際に、彼だけ忘れられることはよくあったのだ。  赤毛の少年の左手の席に着く時に、エルナクハは、金髪の青年の後ろを通るように、わざと遠回りをし、彼の肩を強く叩いた。  かつてエトリアにいた時の彼は、初対面時こそ静かだったが、その本性は、良くも悪くも『力』を執拗に求めていた青年だった。それが、『世界樹の迷宮』をめぐる冒険の最後の最後で、心に傷を負ってしまった。それからだった、消えてなくなっても構わないかのように、彼が自らの存在を希薄にしようとしてしまうようになったのは。  だからエルナクハは折あるごとに彼に思い知らせるのだ。  ここにオマエを忘れていない者がいる、簡単には消えさせてやらねぇぞ、と。 「まったく、いつまで待たせるつもりですか」  エルナクハが座った席の左手で、冷静な声を上げたのは、眼鏡を掛けた黒い短髪の女性センノルレだった。度数の大小はともかく、皆が酒を頼んでいる――そして戻ってきた者達も酒を頼むであろう――中にあって、彼女だけはハイ・ラガード産のアップルジュースを飲んでいる。飲めないわけではないのだが、今の彼女には酒は禁物なのだ。それを指示したのは、彼女の左手に座ろうとしているメディックだったのだが。 「悪いな、ノル姉」と詫びたのは、酒の件ではなく、戻りが遅くなった件である。女性はかすかに笑みを見せた。 「アベイが気に病むことはありません。問題はエルナクハの方です」  オレかよ、と言いたげな黒い肌のパラディンを、黒髪の女性は、眼鏡の奥から睨み付ける。 「アベイを呼びにいく、ただそれだけの『おつかい』に、なんで小一時間もかかっているんですか」 「あー、まー、そりゃあ、なあ……」  言葉に詰まるエルナクハに、アベイは苦笑した。いくら街はずれだからといって、往復一時間かかるものではない。大方、物珍しいものを見つけてはふらふらしていたりしたのだろう、このギルドマスターは。  で、そのパラディンはというと。 「あー……あはははは、ま、心配したかよ、ハニー」  などとのたまいながら、女性に手を回し、 「何が『ハニー』ですか、愚か者」 「あっいででででで! ちょっとセンノルレ待った待ったッ!」  思い切り手の甲をつねられていたりする。  この時、彼らの右手の方では別の事態が起こっていた。金髪の青年と赤毛の少年の間に座っていた、茶髪の少女が、パラディンの『ハニー』発言に触発され、ちょうど飲んでいた果実酒を盛大に吹き出したのである。位置関係の問題で飛沫をまともに浴びた赤毛の少年が、抗議の声を上げた。 「パラス、汚い」 「ごめ……ティレン……げほげほ、ごめんごめん……げほっ」  思い切りむせる少女を、隣の青年がさりげなく介抱する。  そんな混沌の最中だが、アベイは黒髪の女性が、エルナクハに悪態を吐きながらも、緩やかに笑んでいたのを見逃さなかった。  さすが夫婦、喧嘩するほど仲がいいってヤツだな。  かつてまだ彼女が冒険者でなかった頃には見ることのなかった表情を、目の当たりにし、メディックはそんな思いを禁じ得ないのであった。  さて、彼らは冒険者である。  しかし、だからといって四六時中武装しているわけでもない。まして、エトリアのように(そしておそらくはハイ・ラガードも)冒険者が珍しくないような場所ならまだしも、普通の街の普通の酒場の扉を大仰な装備のままくぐるような、風情のない真似を、差し控える程度の頭はある。  というわけで、現状では各々のクラスが何かを外見から量ることは難しい。せいぜい体格や雰囲気から当たりを付けられる程度だ。  赤髪の少年・ティレンはソードマン。  金髪の青年・ナジクはレンジャー。  このあたりは、比較的わかりやすいところだと言える。  そして、黒髪の女性・センノルレがアルケミストであることも、その態度から推し量ることができても不思議ではない。  しかし、茶髪の少女・パラスについては、まず誰もが見誤る。その雰囲気、その服装は、彼女のクラスから想像されるものとは、あまりにもかけ離れているのだ。胸元に下がる金色の鐘鈴だけが、今の彼女からクラスを推測できる唯一のものだったが、それすらも、少女の雰囲気に飲まれ、ただのアクセサリーにしか見えないという体たらくであった。  そんな『らしくない』カースメーカーが、ようやく咳き込むのを止めた頃合いで、エルナクハは問い質した。 「アイツら、何やってんだ?」  その視線は中央の舞台に向いている。パラスは同じように舞台に目を向け、ああ、と答えた。 「エルにいさんが遅いから、戻ってくるまで暇つぶしだって」  『ウルスラグナ』は九人で構成されているギルドである。しかし、席に着いているのは、エルナクハとアベイを含めて六人。残りの三人は、エルナクハの視線の先にいた。中央の舞台で何かを演じているようである。 「――そして、王子は魔王の膝元へと……」  舞台の袖にあたるところで、リュートを抱え、天上より聞こえるような弦音と朗々たる歌声を響き渡らせているのは、黒髪の女性である。艶めかしい黒い肌に映える黄金の装身具が、動作に合わせてしゃりしゃりと細かい音を立てている。  その歌声と弦音が、ぴたりと止んだ。  その時、舞台上、黒い肌のバードに近い方で剣(もちろん模造品だが)を構えているのは、バードと同じように黒い肌をした少年……いや、男装をしているから見間違えやすいが、胸のふくらみが目立たないことを差し引いても、少女であることは確かだった。同じ黒い肌のバードやエルナクハとは対照的に、その髪は銀色を帯びている。いかにもお伽噺の王子風の服装をした彼女は、琥珀の色をした目を驚愕に見開き、自分と相対する者を見つめていた。  銀髪の少女と相対する者――茶色いおかっぱ頭の少女は、こちらは明らかに女だとわかる姿、つまりはお伽噺の姫君のドレスを身につけていた。しかし、手にする物は、どう考えても『お伽噺の姫君』には相応しくない。つまりは刃、しかも、東方由来の戦技に使われる『カタナ』なのである(こちらも今は模造品だが)。新緑の色の瞳で琥珀の瞳を真っ正面から受け止めているが、刃の先はそちらを向いてはいない――向いているのは、床にわだかまる黒い布山の方にであった。  そして、バードの指先と口が再び動く。これまでは、いかにも定番の『どこぞの王子が魔王を倒す旅に出た』お伽噺を吟じていたはずなのだが、再開された音と歌は、そんな、ありがちながら重厚な雰囲気を一発で吹き飛ばすものだった。 「なんということでしょうことでしょう。  魔王の玉座に近付いてみたら、  魔王は囚われだったはずの姫の手で  すでに成敗されていたじゃありませんか。  さぁどうする王子、どうする王子!」  ――床の布の山は、魔王の成れの果てだったらしい。それを退治したという姫は、琥珀色の瞳の王子を見据え、にんまりと笑みを浮かべた。朗々たる声が、敵意を込めて発せられる。 「ほう、貴様は何者ぞ? さては魔王の手下だな?  見るがよい、貴様の王は潰えたり。  こやつを倒したわらわに、貴様ごときが勝てるかな?」  ひゅん、と舞台上を風が走ったかに思われた。姫がカタナを構え、一足飛びに王子の元へと飛び込んだのである。動きにくいドレスを着ているにもかかわらず。目にも留まらぬ斬撃が王子に襲いかかる。  しかし王子も只物ではなかった。剣を抜いて、姫の斬撃を防ぎきる。ちぃん、と、金属同士がぶつかる澄んだ音が響いた。 「姫君! いや、囚われてるはずの姫君が、こんなことを……  そうか、そなたは、姫君に化けた魔物――罠だな!」 「なにをごちゃごちゃと! 魔王の手下め!」  ちぃん、ちりん、と、断続的に打ち合う音が響く。風のように迫る姫君の刀に対して、王子の剣は、水の流れのように変幻自在で、思わぬ角度から姫君の刃を牽制し、その威力を減じる。舞台上の演技とわかっていてさえも、その打ち合いは迫真のもので、舞台を見ていた者達の耳目をさらに引きつけた。バードの女性が奏でる、滑稽でいて技巧を必要とする、『剣の舞』を表現した曲も、打ち合いに花を添えている。 「ほう、やるなぁ、オルタも、ほのかも」  エルナクハは思わず感嘆の声を漏らした。オルタは、王子を演じている少女・オルセルタの渾名、ほのかは、姫君を演じる少女・焔華(ほのか)の呼び名であった。  一方、バードの女性は、演奏を続けながら、のこのこと舞台に上がり、二者の間で仲裁するかのような言葉を掛ける。 「あのぉー、そろそろ落ち着きません? 勘違いなんだしぃ」  途端。 「どいてくれ!」 「邪魔じゃ!」  二人の刃が同時にバードに襲いかかる。その凶刃を、バードの女性は「わひゃ!」なる間抜けな声を上げつつも無事に避けきった。  わはは、と観客から笑い声が上がる。そのとおり、避ける動作も声同様に間抜けだった。が、その間、演奏が止むことはわずかなりともなかった。もちろん、公演前の三人の打ち合わせがあってのことだろうが、それを差し引いても恐るべき技能であろう。 「マルメリ、すごい」  ティレンが肉を頬張る口を止めて、思わずつぶやいた。  バードの女性・マルメリが二人の間に仲裁に入り、その都度斬られそうになる、という状況は、何度か続けられた。そのたびに斬りつけ方も避け方も磨きがかかり、さらなる爆笑を呼び起こす。その後、「もう知らない」とばかりにマルメリは袖に退場、演奏が続く中、残された二人は存分に剣舞を展開する。  が、それにも次第に疲れが見えてきた(そういう演技だが)。演奏がだんだんとゆっくりになっていく中、疲れ果てた二人は、舞台の上でへたり込み、息も絶えだえに健闘をたたえ合った。 「やるのう、貴様」 「そなたこそ」 「せめて名を訊こうか」 「セザール」 「――なぬ!? 王国第二王子か、貴様、いや、そなた!」  誤解が解けた二人は国に戻って婚姻、とはならず、その剣の腕を存分に生かすべく冒険者になってしまった、という結末が語られ、マルメリの「バカ王族ども、やってられんわ」とばかりのオチの和音が、じゃん、じゃんと場を締めた。  笑い声と満場の拍手が響く中、笑劇を演じきった三人は舞台に上がり、何度もお辞儀をしながら、ちゃっかりとおひねりを集め回っている。やがて、酒場の奥に引っ込み――おそらくはそこで、着替えをさせてもらっているのだろう――少しばかりの後に、本来の普段着に戻って仲間達の下に帰ってきた。 「ただいまー」 「今帰りましたわやー」 「ただいまーん」 「よお、遅かったな、オマエら」 「遅かったな、は、こっちのせりふよ、バカ兄様」  王子を演じていた少女・オルセルタが、パラディンを軽く睨み付けながら、ナジクの右手の席に座る。その容姿や言葉が示すとおり、彼女はエルナクハの妹であった。ちなみにバードの女性・マルメリも無関係ではなく、兄妹の従姉である。そのマルメリは、けたけたと笑いながら、アベイの左手、もっとも中央に近いところに座を占めた。 「いやはぁ、全力で奏(や)ったのは久しぶりだわぁ。迷宮以来かな」 「マールどのの歌には、わちら、いつも助けられてやしたからなぁ」  残る一席、マルメリとオルセルタの間は、姫を演じていた少女・焔華のものだったようだ。不思議なしゃべり方は、彼女の出自である東方、そのなかでも最も辺境にある地域の訛りが混ざっているからだという。  こうして、円卓にて顔を揃えた九人。  パラディンにしてギルドマスター・エルナクハ。  ダークハンター・オルセルタ。  メディック・アベイ。  アルケミスト・センノルレ。  ソードマン・ティレン。  レンジャー・ナジク。  バード・マルメリ。  ブシドー・焔華。  カースメーカー・パラス。  エトリア樹海を踏破し、ハイ・ラガード樹海も踏破しようと企む冒険者ギルド『ウルスラグナ』の、これが、その全容であった。 「ところで、『空飛ぶ城』とかの情報をせしめたって聞いたけどよ?」  しばらく酒(センノルレはジュースだが)や食事で和んだ後、アベイが仲間達を見回して、声を上げる。  答えたのはバードであるマルメリ。手にしていた果物を食べきってから、にっこりと笑って言葉を放った。 「そうそう、ハイ・ラガードの世界樹の先には、『空飛ぶ城』があるって話なのよぉ」  マルメリが述べたとおり、大陸北方の高地ハイ・ラガードには、世界樹にまつわる伝説があり、その中には『空飛ぶ城』の存在が示唆されている一節があった。なんでもハイ・ラガード人の祖は、世界樹の頂にたどり着いた『空飛ぶ城』から、世界樹を伝って地に降り立ち、国を興したのだという。  逆に考えれば、『空飛ぶ城』には、世界樹を上りきった者だけが辿り着けるという理屈だ。しかし、かの巨木を上りきった者はいない。岩崖を登るつもりで挑戦した者も数多かったが、その果てなき高みには辿り着けず、代わりに手を滑らせて彼岸へと墜ちていった――今までは。  ところが、四ヶ月ほど前、ちょうどエトリアで『ウルスラグナ』が樹海を制覇した頃合いだろうか、ハイ・ラガードの世界樹に異変が発見された。  これまではわずかなりとも侵入を許さなかった世界樹に、調査隊は迎え入れられ、『内部』に樹海迷宮を見いだしたのである。  内部の迷宮を通って上部を目指すのは(ちゃんと上に繋がっていればの話だが)、少なくとも外側から死の登攀に挑むよりは、現実的に思えた。もっとも、あくまでも可能性が小数点以下単位で上がっただけで、実現困難であることは変わりがない。公宮の命を受けて樹海の調査を行った調査隊は、内部に巣くう凶暴な生き物に襲われ、生命こそ守りきることができたものの、散々な目に遭ったというのだから。  そんな折に、エトリアの迷宮が冒険者に制覇されたという噂である。公宮はエトリアに倣って、迷宮の探索に冒険者を動員することに決めた。そうして、大陸中に布令を出したのである。  エトリアの迷宮が『ウルスラグナ』に踏破されたことで目的を失った、多くの冒険者が、新たな謎に蟻のように群がっていった。自分達の『偉業』の後始末に四苦八苦していた『ウルスラグナ』は、おそらく後発組となるだろう。 「ところで、だ」  エルナクハは、にんまりと笑った。 「この『空飛ぶ城』、ハイ・ラガードの興国とも関係があるらしい。ひょっとしたら、ユースケ、オマエの知識で見たら、何か面白いことがわかるんじゃねぇかと思ってよ」 「へえ、どんなんだ?」  アベイは身を乗り出した。自分の持つ知識でどうにか解釈できるものかどうかは別としても、単純に興味がある。  その要請を受けて、マルメリがリュートを取り上げた。黒い指が軽やかに弦を爪弾くと、金の装身具がしゃらしゃらと彩りを添える。張りのある美声が、朗々と伝説を謳い上げ始めた。  七つの大海には汚泥が溢れ、碧の輝きは闇に沈む。  五つの大陸には緑炎燃えて、瞬く間にも地を覆う。  見よ、我ら地に住む者が、海洋と大地に拒まれし様を。  見よ、頭上に広がる最後のよすが、風の領域、天空を。  見よ、星々へ届けよと、天を行く城、その偉容を。  見よ、天空の城が、我らを乗せて、月と共に空をめぐるを……。  聞けよ、天の我らが、世界樹の頂きにて聞きたる風の音を。  聞けよ、再臨せし我らが、母なる大地に迎えられし様を。  聞けよ、今宵、ここに語られるは、我らが興国の賛歌なり。  聞けよ、今宵、この場に響く詩は、ハイ・ラガードの始まりの詩なれば……。  黒い肌のバードがリュートを下ろし、「おそまつさまぁ」と頭を下げると、聞き惚れていた仲間達は、はっと我に返って、ぱちぱちと手を叩いた。それどころか、周囲の客までもが拍手を送ってくるではないか。興行と勘違いしたのか、おひねりまで飛んできたが、ありがたく頂いておくことにする。エトリアの冒険を通じて稼いだ金は、ここまで来る際の馬車の乗車賃や宿代で、大分減ってきているのだ。  ともかくも、伝承の話である。 「『空飛ぶ城』……本当に、あるのかな」  訥々とした言葉でティレンが首を傾げながら問いかけるところに、 「どうかしら」と返すのはオルセルタ。  普通に考えれば、一笑に付してしまえるお伽噺だ。ハイ・ラガード建国者達が、自分達を偉大なものとして記録せしめるために、凡人の手の届かぬ処から来たという伝説、つまり付加価値をでっち上げた、と考えた方が、しっくり来る。  ――『世界樹の迷宮』という、この世界の秘密の一端に、触れたことがなければ、だが。  エトリアで前時代の文明に触れた『ウルスラグナ』は、ささやかなお伽噺でも戯れ言だと一笑に付すことができなくなっていた。どれだけ荒唐無稽な話にも、下地となった事実がある。現代に生きる自分達には夢物語、しかし、過去を知る者にとっては、どうか。  期待に満ちた瞳が、メディックの青年に集中した。 「……むー……」  分不相応な期待の眼差しを皆から寄せられ、アベイはうなった。病弱だった彼の知識は、ほとんどが自分の身の回りと、本や映像で知ったものに尽きるのだ。しかも、当時五歳の少年である、幼少の頃の記憶がほとんど薄れているのは、彼とても他の人間と同じだ。  それでも期待には応えようと、記憶の奥底をあさってみた。 「……ラピュタ……」 「らぴゅた?」 「ああ、そんなのを思い出したんだ。天空に浮かぶ城の物語。それが本当にあると信じて、大積乱雲の彼方へ旅した少年少女の話を……さ。何度も観たよな。俺、体弱くて元気に動けなかったから、すっげぇ憧れたんだよ」 「じゃあ、本当に、『空飛ぶ城』、あったんだ」  ティレンが目を輝かせて身を乗り出すところに、しかしアベイは首を振る。 「いいや……それは、あくまでも作り話。俺が知る限りじゃ、『空飛ぶ城』なんてのは、前時代でも夢物語でしかなかったよ」 「そう、なんだ」  明らかにがっかりした風情のティレン。 「では、やはり、『空飛ぶ城』などというものは、存在しない、と?」  冷静さを装いながらも、やはり失望を隠しきれないセンノルレの言葉に、しかしアベイは、またも首を振った。 「まぁ待てよノル姉。あくまでも『俺の知る限り』の話だ。天に人を住まわせる理論自体はできていたはずだし――何より、『天空を飛ぶ船』は、確かにあったんだ」 「天空を」 「飛ぶ船……かいや?」  パラスと焔華が声を合わせて復唱する。アベイは首肯した。 「ああ、鳥よりも速く、鳥よりも高く――たぶんナックんとこの御山よりも高く飛ぶ船だ」 「それは……なんとも……」  ぶっきらぼうなナジクでさえも、目を瞬かせて、呆然と声を上げる。 「人の造りしものの分際で、うちの御山より高く飛ぶたぁ、許し難いなぁ」  本気で許せないと思っているわけではないが、エルナクハは剣呑な言葉を発した。そんなギルドマスターに、アベイは人差し指を立てて突きつけ、ちちち、という舌打ちと共に軽く振る。 「まだ甘いぜナック。前時代には、月の向こうへ飛ぶ船さえあったんだ」 「……月の向こうだと? そいつぁまた、すげぇ話だな!」  そこまで徹底的だと、もはや怒る気(本気ではないにせよ)も失せてしまったようで、逆にエルナクハは手を叩いて喜ぶのだった。 「それ、乗ったことあんのか、ユースケ?」 「あるわきゃないだろ。月へ飛ぶ船に乗るにはものすごく健康じゃなくちゃいけなかったんだからよ。……ナック、お前なら乗れたかもな」 「ち、惜しい。何千年か生まれるの遅すぎたか」  千年単位の差は、もはや『惜しい』と言えないのではないか、と仲間達は思ったりするのだが、とりあえず黙っていた。 「まぁ、そんなわけで」  と、前時代人のメディックは、発言を締めにかかる。 「俺の知らないとこで、人間が空に住むための城ができていた可能性は否定できないな。全くの夢物語とは言えない。『ユグドラシル・プロジェクト』だって話だけなら夢みたいなもんだったが、実際にあったことなんだからよ」 「そうよね、夢を全否定しちゃったら冒険者やってらんないわよね」  オルセルタが言うとおり、冒険者たる自分達にとっては、たとえ夢のような話でも、実在の可能性がわずかでもあるならば、追うに値するものだ。『空飛ぶ城』にしても、ないならないでよし、だが、実在の可能性を否定して、後で他の冒険者に手柄を取られるという事態になったら、悔やみきれない。 「えーと、こういうの、『登る阿呆に待つ阿呆』、て、いうんだっけ?」  本気ではない自嘲が混じる表情で、カースメーカーの少女が口にする。 「『同じ阿呆なら登らにゃ損々』……ってか?」パラディンは笑いながら返した。  続く言葉は、酷く真剣みを帯びている。 「結局よ、ユースケは『見たい』と言って、オレらはそれぞれ理由はあれど、それに手を貸すことに決めた。……『世界樹』と呼ばれるものが何なのか、前時代のヤツらは何をやろうとしたのか、を。なら、まだ世界樹の影しか見ていない今の状態で、まわれ右ってのは、ちょっと薄情じゃねぇかなとも思うのさ。阿呆でもなんでも、ギルド『ウルスラグナ』としては、これに挑まずしてどうする、ってところだろ。実際、今度の世界樹も世界の謎に関わってる気配が強くなってきやがった。ワクワクするぜ」 「ワクワクするのは結構ですが、突っ走らないように」  ぴしゃりとセンノルレが夫を諫めたので、一同は大笑い。  実のところ、さすがはパラディンだけあって、エルナクハは話のネタになるほどに暴走する男ではない。それが大袈裟に解されるのは、戦うにも護るにも、そして、すたこら逃げるにも、常に傲慢と取れるほど自信ありげに、という彼の信条が影響してのものであろうか。  話が和やかにまとまったところで、卓上に広がる食事や酒を本格的に片付けにかかろう、とした、ちょうどその時。  華々しくガラスが砕け散る音が、酒場の喧噪をも砕いて沈黙させた。 「なんだぁ?」  せっかくの宴を邪魔されたエルナクハが、眉間にしわを寄せて無粋な乱入者の音源を捜すと、果たしてそれは、文字通り無粋な乱入者どもの仕業であった。おそらく『ウルスラグナ』が『空飛ぶ城』の話に花を咲かせていた時に、酒場にやってきた連中だろう。なぜそんなことがわかったのかと問われるならば、その無粋な連中はいかにも冒険者と言わしめる格好をしていたからだ、と答えられる。『ウルスラグナ』が酒場に席を占めた時には、いかにも冒険者らしい一団はいなかった。  ハイ・ラガードに近いこの街は、当然ながら、かの世界樹を目指す冒険者達の訪問も受ける。しかし、すべての冒険者がお行儀がいいわけではない。そして、冒険者流の行儀は、一般人からすれば、心地よいものではないことが多い。近場の街の布令の影響で、ここ数ヶ月のうちに見慣れない客人の訪問を次々に受け、疲れ果てている、というのが、この街の本音であろう。  もちろん一般人に充分な礼節を払い、真に歓迎される冒険者達もいたはずだ。そして『ウルスラグナ』も、そういった模範的冒険者を目指していた。武装を解き、充分な代金とチップを払い、本来は自分達の暇つぶし目的とはいえ、酒場の客人を楽しませもした。だというのに、無粋な連中は、そういった『ウルスラグナ』の努力を嘲笑うかのように、冒険者の姿で、冒険者としても許されないような礼儀を貫いている。 「よぉ、ねえちゃん、頼んだ料理を出せないって、どういうことかな?」  いかにも柄の悪い戦士風の男が、酒場の給仕の娘に絡んでいる。娘の足元には粉々のガラス杯、それが、おそらくは先程の音の正体の成れの果てであろう。察するに、望み通りの料理の供出を断られたので、かっとして杯を床に叩きつけた、というところだと思われる。  給仕の娘は、半ば泣きそうになりながらも、必死に酒場側の主張を繰り返していた。 「ですから、材料が足りないんです。お魚なら、お待たせしないでお出しできますけれど、お肉は、生憎切らしちゃってるんです。少しお時間を頂ければ、お肉もご用意できますけれど……」 「おれ達に、犬みたいに待てっていうのかよぉ!」  典型的な小悪党である。エルナクハは、やれやれと言いたげに首を振った。  さて、どうするべきか。あの程度の悪党、実力的な話なら、止めるのは容易いだろう。しかし、ここは酒場である。一悶着起こした後にどうなるかは、火を見るより明らかな話だ。  なるべく周囲に迷惑をかけないように、と考えていると、ナジクと目が合った。常日頃物静かで無愛想、自分以外に興味がないのでは、と勘違いされるほどに無口なレンジャーの青年は、その蒼氷の瞳の中に封じられた炎を静かに燃やしていた。 「僕が」と言葉少なく、ギルドマスターの決断を促してくる。  エルナクハはナジクの過去をほとんど知らない。だが、エトリアに至るまでに、戦乱に巻き込まれ、近しい者をすべて失う、という経験をしてきたらしい、ということは知っている。おそらくレンジャーの青年は、荒くれ者に詰め寄られる娘を、なくした親族の誰かとだぶらせているのではないだろうか。  どっちにしろ、このままでは酒も不味い。エルナクハは決断した。 「――やっちまえ、ナジク。でも、空気は読め」  ナジクは静かに頷くと、卓上のナイフを数本手に取った。  ひょうふっ、と、鋭い風が酒場の空気を切り裂いた。『ウルスラグナ』以外には、その正体は、着弾の瞬間までわからなかっただろう。娘に掴みかかろうとしているゴロツキの鼻先をかすめ、薄い血の色の線を付けさせた以外には、他の何ひとつも傷つけることなく、酒場の壁に突き刺さった一本のナイフ。びぃん、と振動しつつ新たな居場所を確保したそれは、ナジクが投擲したものに間違いない。弓を修練するレンジャーは、他の飛び道具に関しても秀でていた。  戦士風のゴロツキは鼻に手をやり、壁に視線を投げかけ、そして『ウルスラグナ』を見た。物事の因果関係を把握する程度の頭はあるようだ。というか、そのくらいの期待に応えてくれないと困ったところだ。そうでなくては、酒場の誰も彼もを標的として暴れかねないから。 「おい、てめぇら! 何しやがるんだ!」  芸のない言葉を吐き散らしながら、ゴロツキどもが近付いてきた。ナジクが残りのナイフを構え、鋭い瞳で相手を睨め付ける。  と。 「ナジク」  ぐぎ、とレンジャーの頭が後ろから引き倒された。加害者は赤毛の少年、つい今まで両手で抱えるほどもある腿(もも)肉の燻製にかぶりついていたはずのティレンである。明日はむち打ちになるかもしれない被害者ナジクは、苛立たしげにティレンを見たが、すでにティレンはナジクを見ていず、エルナクハにすがる子犬のような目を向けている。 「エル兄、続きはおれがやる」 「おいおい」  困り果てた口調ながら、その実楽しげにエルナクハは命じた。 「ヘタうつとメシが全部台無しになるぞ。気を付けろよ」 「ん、気を付ける」 「エル!」少し声を荒げてナジクがエルナクハに抗議した。その苛ついた表情を見て、しかしエルナクハは笑む。 「前線はティレンの仕事。さしあたって他のヤツはお客様と食事の退避支援に徹するんだよ」  その言葉通り、『ウルスラグナ』の残りのメンバーは、いつの間にやら周囲の客や食事を退避させる作業にかかっている。不承不承、ナジクは頷くと、自分の目の前にある酒瓶を数本、確保した。  その間にも、ティレンとゴロツキ達は一触即発の状況下にある。  いつの間に取り出したのか、戦士風のゴロツキはナイフを両手の間でぱしぱしと行き来させつつ、ティレンを脅して……いるつもりなのだろうが、脅されている方はカエルに小便を掛けられたほどにも感じていない。 「……ナイフをそういじるのって、ばかに見える」 「オレをバカにしてんのかぁ!」  平坦ながらも哀れみを孕んで聞こえるティレンの口調に、ゴロツキ達は激昂した。本当のことを正直に言ったつもりのティレンは、目をぱちくりとさせながら、戦士風のゴロツキがナイフを振り下ろそうとするのを見た。  誰かが甲高い悲鳴を上げる。  が、悲鳴の主が考えるような惨劇は起こらなかった。ナイフは確かに肉に突き刺さりはした。だが、それは、ティレンがついさっきまでかじっていた、食べかけの腿肉の燻製である。燻製を盾代わりにして敵の攻撃をあしらったティレンは、思いきり肉を振る。意外と重量のあるそれに、戦士風のゴロツキは吹き飛ばされ、床にのされた。 「喜べ。これが斧だったら、おまえ死んでる」 「ざけんなゴラァ!」  残るゴロツキ達がいきり立った。仲間が本当に惨殺されていれば、目の前の赤毛の少年に恐れを抱いたかもしれないが、なにしろ得物は燻製肉である。滑稽なことこの上ない。それがゴロツキ達の苛つきをさらに煽り立て、赤毛の少年やその一党への敵意として現れた。一斉にかかればなんとかなる、とばかりに同時に襲いかかってくる。 「困った」  ティレンはぼそりとぼやいた。「ここ狭い」  普段の戦いならゴロツキ程度には困らないが、戦場の狭さが今は足かせとなる。そうそう遅れは取らないにしても、いらぬ苦戦を強いられる予感に、ティレンは本当に困った。困っただけ、とも言えるのだが。  その背後で、パラディンがにんまりと笑む。低い声で、仲間の一人に命じた。 「ナジク、援護してやれ」 「承知」  冷静に、しかしその実、世界樹の迷宮内で回復の泉を発見した者のように目を輝かせて答えたナジクは、手近にあった使用済みの串焼き用の鉄串を何本か手に取り、台布巾で手早く拭うと、次々に投擲した。無造作に見えるが、狙いは極めて正確。ただの生活用品は恐るべき武具となって、ゴロツキどもの肩口や腿を貫いていった。怯んだゴロツキに、ティレンの追撃が迫る。ソードマンは喜々として一時の相棒に呼びかけた。 「けりつけるよ、腿肉アックス!」  勝手に妙な銘を付けている。  ともかくも、幾ばくの間も置かずして、ソードマンとレンジャーの活躍により、せっかくのくつろぎを邪魔した輩は、ほぼ全員が倒れ伏すこととなったのだった。 「よくやった、二人とも」  ギルドマスターは一仕事終えた仲間を上機嫌で労(ねぎら)い、王が臣下に杯を賜るかのごとき雰囲気で、ワインを注いだ杯を差し出した。  しかし、仲間の獅子奮迅の活躍を目の当たりにしていた以上、やむを得ないかもしれないが、いささか油断しすぎていたということだろうか。  隣で悲鳴が上がったのを聞きつけ、エルナクハは顔色を変え、叫んだ。もしもギルドメンバーの中からただ一人しか助けられないとしたら、おそらく選んでしまうであろう者の名を。 「ノル!」  いつの間にか、最初に倒れた戦士風のゴロツキが、アルケミストの背後に回り、片腕で抱きとめつつ、もう片腕でナイフを突きつけていた。おそらくはティレンとナジクが大立ち回りを繰り広げている最中に我に返り、床を這って回り込んだのだろう。さしもの『ウルスラグナ』も狂騒に浮かれて気が付かなかった。 「てめえら、ふざけたマネしくさって……!」  立場を逆転させたゴロツキは勝ち誇った表情を浮かべ、ナイフをこれ見よがしにちらつかせた。 「さて、このオトシマエ、どうつけてもらおうかな。……下手なことを考えるなよ、わかってんだろうなァ!」  嫌な言葉と笑いで冒険者達を牽制しておいて、ゴロツキは親指と人差し指と中指でナイフを器用に保持したまま、残りの二本指と掌底で捕らえた女の身体を撫で回す。だが程なくして、意外そうな顔をした。興醒めの色がよぎる。 「……なんだよ、このボテ腹は」  その時、ゴロツキは、否、酒場にいるすべての者は、その『音』を聞いたのだった。   ちりん。  涼やかな、しかし、不気味に響く、鈴の音が、皆の耳目を集めた。  そんなものは聞き流せばいいゴロツキでさえも、「下手なこと考えるなって言っただろォ!」と怒鳴ることすら忘れ、鈴の音に聞き入った。――否、ゴロツキはそうしたくてしているのではないのだ。全身がぷるぷると痙攣し、顔が汗でだらだらになってなお、鈴の音を聞いた瞬間の体勢をとり続けなくてはならない。 「もう、やだなぁ。妊婦さんは、大切にしなくちゃだめじゃない」  再びの鈴の音と共に、少女の声がした。  軽やかな服を着た少女は、しかし、いざ本性に立ち返るならば、その職種の特徴である、冥きローブと呪鎖をまとう存在であった。自他共に呼称する、その職種の名は、カースメーカー。呪鈴と呪声をもって、他者を束縛し、思うがままに操る、時代と地域によっては激しく忌まれる者どもの末裔。 「て……てめ、え……」  とんでもない相手に喧嘩を売ったことを、ようやく知ったゴロツキが、それでも虚勢を張る。  その虚勢を、『イキがいい』と喜ぶかのように、『ウルスラグナ』のカースメーカー・パラスは、ちりちりと鈴を鳴らして、あどけない少女そのものの声で告げた。にもかかわらず、彼女自身の声に、冥界から這い出てきた死神が唱和しているような、そんな雰囲気を、その場にいた全員が感じたのだった。 「命ず、諸手を挙げよ」  否応なく、ゴロツキは従った。即座にエルナクハが妻を奪い返す。それをしかと確認したパラスは、ちりちりちりちり、と、からかうように鈴を振りつつ、口を開いた。 「女を従属物としか見ない男って結構いるけどサ、女の胎(はら)から生まれたんだから、せめて自分のお母さんと妊婦さんぐらいは大切にしてあげなきゃ。アナタ、そんなこともわかんないヤツだっていうなら、自分で自分のちょめちょめでも吸いながら死んじゃえ」 「ちょ――」  なんだかとんでもない宣言(のろい)に、自分達が呪われるわけでもない、味方側の男性陣が、一斉に震え上がる。もちろん、実際に呪われるゴロツキの顔色は、端から見ている分には笑える七変化ぶりであった。 「うあ……」  ゴロツキが哀れな声を上げる様を嘲笑うかのように、またも、鐘鈴が、ちりり、と鳴った。  先程まで『ウルスラグナ』の女性達が笑劇を演じていた舞台の上で、恥辱のショーは始まった。  パラスは、にんまりと笑いを浮かべると、鐘鈴を構えて、凛とした声音と共に軽やかに振った。  口が紡ぐのは、ゴロツキの尊厳を完全に奪い去る、恐怖の命令。 「命ず、汝、自らの、交接器を、舐吸(しきゅう)せよ」 「ああ……あ……」  すでに上半身を裸にされたゴロツキは、泣き喚かんばかりの顔で、拙い動作でズボンを下ろそうとした。しかし。 「――というのはヤメにして」  ちりん、と鈴を一度鋭く振り、パラスは破顔した。だが、ゴロツキが許されるわけではなかった。命令が別のものに代わっただけである。 「命ず、汝、腹踊りを踊れ!」  腹を滑稽にくねらせ、しかし顔は情けなく歪ませながら、ゴロツキは命令通りに腹踊りを踊る。  周囲からは、最初は遠慮がちに、やがて容赦なく笑いの渦が巻き起こった。  ちりちりちりちり、と間断なく鈴を鳴らし、すっかり上機嫌のパラスに、エルナクハは、おそるおそる問いかける。 「ちょめちょめ吸わせて……殺すんじゃなかったのか?」  パラスは数度まばたきをしつつ、意外な顔でパラディンを見た。鈴は振り鳴らしたままである。 「……え? エルにいさん、そんなショー見たかった?」 「見たくねぇ見たくねぇ」エルナクハはぶんぶんと首を振った。  カースメーカーの少女は、少し意地悪そうな表情を浮かべて、くつくつと笑う。 「なんだったらエルにいさん、掘って」 「何をだあッ!」  常に傲岸不遜なパラディンが、羞恥に顔を赤くしながら泣きそうに叫ぶのは、ある意味で見物だったかもしれない。 「オレのはセンノルレ専用だあ! まして男なんかあ!」 「――このヒト用の反省用の穴を街はずれにでも掘ってもらおうと思っただけなのに」  パラスが本当にそのつもりで言ったのかどうかはともかく、すっかりと墓穴を掘ったエルナクハである。 「恥ずかしいこと叫ぶんじゃありません」  奥方であるアルケミストに手刀を食らわせられるパラディンを見つつ、パラスは、 「もう、はいはい。ごっそさん。おかわりはいらんとですよ」  さらに鈴を振り鳴らし、ゴロツキの腹踊りを激しくさせるのであった。 「バカ兄貴」と妹のオルセルタが頭を抱える。 「おもしろそう、おれも、踊る」 「やめろ」  勇んで舞台に飛び出そうとするティレンを、ナジクが首根っこを掴んで止める。  マルメリがリュートを構えて軽快な曲を合わせる。 「少しは手加減してやらないと、明日が筋肉痛で可哀想だぞ、パラス」  医師としての忠告のつもりか、アベイがそんなことを言う。 「いやぁ、わちの故郷の大酒呑みどものバカ騒ぎみたいやなぁ」  焔華の心は遠い故郷に飛んでいるのだろうか。 「こう、腹に目鼻口描いて、くねらせて踊ったものよさー」 「あ、焔華ねえさん、そのアイデア、いただき!」  パラスは目を輝かせると、少しだけ鈴の音の調子を変えた。ゴロツキは踊りながらじりじりとパラスに近寄ってきた。パラスが差し出した、小さな容器入りの何かを、ゴロツキは指先ですくい取り、自らの腹になすりつける。程なくして、歪んだ目鼻口がゴロツキの腹の上に顕現した。  ちなみに、容器入りの『何か』は、パラスが正式にカースメーカーとして動く時に顔に施す文様を描くための、『朱』である。 「ちなみに、上着ぃ半分だけ脱いで頭隠して、腹だけ出して踊れば完璧やし」 「いや、そこまでは面倒だからいいよ」  焔華の言葉にパラスは苦笑しつつ、それでも鈴振る手は止めない。  結局、ゴロツキは大分長いこと腹踊りを踊らされたが、ついに本当に泣いて叫んで許しを請うたので、解放してやることになった。鈴の音がぴたりと止まると、ゴロツキは自分の四肢が本当に自分の思うがままに動くことを確認した後、脱ぎ捨てられた自分の上着をおそるおそる拾い上げ、かと思うと脱兎のごとく走り去る。 「覚えてろよー!」  もはや悪党の定番となった捨て台詞を叫びながら。  その捨て台詞に返すのは、やはりギルドマスターであるパラディン。 「意趣返ししたけりゃ、ハイ・ラガードに来いよー! いいかぁ! この酒場じゃなくて、ハイ・ラガードだぜー! 待ってるからなー!」  余談だが、残るゴロツキ達は、アベイに診察され、ティレンやナジクに強引に起こされた後、自分達のリーダーが逃げ去ったことを悟ると、這々の体で後を追っていった。 「やれやれ、だぜ」  エルナクハは肩をすくめ、酒場を見回した。  一悶着あった割にはひどいことにはなっていない方だと言える。初期段階での一般客及び食事と飲み物の退避がうまくいっていたためだろう。パラディンは満足げに頷くと、 「さて、変な奴が乱入してきて盛り上がったところで、飲み直すかぁ!」 「……乱入して興醒めしたけれど、じゃないんだ?」 「盛り上がったじゃねぇか、一応」 「……ああそう、もぉ、いいわよ、バカ兄貴」  なんかいろいろあったこともすっかり忘れて上機嫌の兄に、オルセルタはまたも頭を抱えた。  ところで、頭を抱えているのはオルセルタだけではなかったのである。 「――あんた達、悪いけど、この店を出てってもらえないかな」  遠慮がちに、しかし譲歩の余地のない確固とした決意を秘めた声に、『ウルスラグナ』一同が視線を向けると、そこにいるのは酒場の親父ではないか。  なんで? と言いたげなエルナクハを前にして、親父は再び、出ていってくれ、と要求を口にする。 「……ゴロツキ相手に暴れたからか?」 「ああ」 「被害、あんまり出さねぇように努力したんだけどな」 「それは感謝している。でも、奴らはお前さん達に意趣返しに来るかもしれない。その時はどうなるか……」 「だから、ここじゃなくてハイ・ラガードに来いって言ったんだけどなぁ」 「奴らがそれを素直に聞けばいいんだが、今日のうちに意趣返ししたけりゃ、ハイ・ラガードよりこっちに来るだろう?」 「ああ」ぽん、とエルナクハは右手拳で左掌を叩いた。「そりゃ道理だ」 「道理っつーか、考える前にわかることだと思うけれど」妹はさらに頭を抱える。  エルナクハは、仕方ない、と言いたげに溜息を吐くと、にんまりと笑って親父に問うた。 「料理は持ってってかまわないだろ? 器は後で返す」 「代金もらったものを持ってかれて文句は言わないさ。器は返せよ」 「おし、決まった。『ウルスラグナ』はこれより撤収するぜオラぁ!」  ギルドマスターの決定に、ギルドメンバーはそそくさと従った。ティレンが通称『腿肉アックス』を担ぎあげながらも皿料理を確保し、ナジクは酒瓶を何本も掴む。アベイが小皿を借りた盆に載せて持ち上げる傍で、女性達も手近な料理皿を手にした。 「これ、宿に持ち込むのかいや、エルナクハどの?」  ブシドーの娘の問いかけに、パラディンは、んー、と小首を傾げたが、さほどの間もなく、首を横に振った。 「いや、せっかくだから街はずれの丘に行こう。ユースケが世界樹を見てたとこだ」 「世界樹、見えるかな?」 「夜桜ならぬ夜世界樹……って言いたいとこだけど、もう夜だから、無理だろうな」  パラスの疑問にはアベイ自身が答え、場所が決まったなら、と先導にかかる。  そんな彼らを見送るのは、酒場の客達の喝采。 「よくやってくれた!」「見物だったぜ!」「スカッとしたよ!」  などなどと、『ウルスラグナ』に声を掛け、肩を叩き、背を押す。まだ口を付けられていない酒の瓶や料理を差し出す者までいる。  どーする? と目で問うソードマンに、パラディンは笑みを見せた。 「せっかくの厚意だ、もらっておこうぜ」  ティレンは目を輝かせ、贈り物を受け取りにかかった。  オルセルタ、マルメリ、焔華の三人娘には、ゴロツキとの立ち回りとは別の方面への歓声が送られている。 「また演武を見たかったら、ラガード公都まで来てねん」  じゃららん、とリュートで分散和音(アルペジオ)を奏でながら、マルメリはちゃっかりと宣伝込みで応じた。剣の舞を演じた二人は、乞われるままに笑顔で手を振ったりしている。顔が若干引きつっているのは、このような状況に不慣れだからだろう。舞台人としてはまだまだということだ。 「……ったく、まるで凱旋じゃねぇか」  冒険者達を店から追い出した張本人、酒場の親父が、苦虫を噛み潰して胃液と共に吐き出したような苦々しい声で、ぼやいた。だが、その表情は意外にも晴れやかであった。つまりは、親父もまた、一個人としては、『ウルスラグナ』の暴れっぷりに胸のすく思いをした手合いなのだ。  たったひとつの小さなカンテラの明かりを頼りに、『ウルスラグナ』は丘への道を辿る。  月明かりと星明かりが道を照らしてはいるけれど、それは人間にとってはいささか冷たく幻想的すぎて、確固たる歩みの友とするには気が引ける。カンテラに宿った小さな炎の明かりは、昼の太陽の輝きに比すれば、なんとも心細いものではあるけれど、ほのかに暖かく、大いなる標となって一同を包んでいた。。  エトリアより遥か北方の高地。昼こそ晩春の暖かさに包まれているけれど、夜には冬の魔女の未練のような寒気が肌を刺す。足元に咲く小さな草花も、寒さに震えている。 「おし、ここがいいだろ」  丘を登り切ったところで、大きな敷布(ラグ)を広げる。オルセルタが一旦宿に帰って持ち出してきたものである。  もらってきた料理や酒を、その上に並べ、 「んじゃあ」  と、エルナクハは自分の杯を手に取って立ち上がった。座ったままで自分を見上げる仲間達を、ぐるりと見回し、にんまりと笑いかける。 「ちょっとしたトラブルがあったが、気ィ取り直して騒ごうぜ。明日からのハイ・ラガードでの生活と、世界樹での冒険に期待して――」  杯を上げて、世界樹があるはずの方にかざす。  残念ながら今は夜。 「まあ、肝心の世界樹は、見え……ねぇ、けど……」  見えないはず、だったのだけれど。  にもかかわらず、『ウルスラグナ』の目前で、ハイ・ラガードの世界樹は、遠かりしといえども偉容たるその姿を、はっきりと現していた。  世界樹は、闇だ。緑成す幾千万の葉も、天地を繋ぐ幹も、等しく黒一色に塗り潰されている。だが――空は違った。銀砂を撒いたような星空は、ぼんやりと光をまとい、その裾を地にも垂らしている。  世界樹は、自らの後方からの星の光を遮り、結果として、淡い星明かりの中に浮かび上がる漆黒の大樹として、その姿を堂々と晒していたのである。 「……はは……ッ!」  エルナクハは不敵に笑った。目の前の事象は、自然現象と呼ぶのもおこがましい、当たり前の現象。だが、まるで世界樹が自分達に『踏破してみろ』と挑戦状を叩きつけに現れたかのようにも見えたのだ。  その上空で星明かりを遮るのは、雲だろうか。あるいは――天にあるという『空飛ぶ城』の影だろうか。 「待ってろよ、世界樹に『空飛ぶ城』!」  エルナクハは、改めて杯を掲げ、不退転の決意を声と成す。 「必ずや、オレらがオマエらの真実を、この目で見てやるぜ!」  ギルドマスターの気合いの入った声に、仲間達も杯を上げ、同意の意を示すのだった。  明日からの冒険に、己の信じる何かの加護あれ、と。  世界樹の迷宮の果てには、何が待つのだろうか。  栄光か、賞賛か、名誉か。  無念か、失意か、絶望か。  いずれが待つのだとしても、恐れを知らぬかのように、勇気ある一歩を踏み出す者達がいる。  人は彼らを――冒険者と呼ぶのである。