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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・64

 正面口広間は、敵を迎え撃つ最中を上回る喧噪に満たされた。沸き立つ兵士達の、意味のある歓声と意味のないときのこえがない交ぜになり、空間を震わせる。
 エトリアは、勝利したのだ。
 ただし、それは快勝とは言い切れないものだった。兵士達で囲われた中央は、惨憺さんたんたる有様。敵が全員床に伏しているのは喜ばしい。しかし、味方の損害も馬鹿にならなかった。
 聖騎士こそ二本の脚でしかと立ち続けているものの、その表情は疲労に満ち、今にも倒れそうな顔色をしていた。まして、他の兵士達は。皆に一目置かれる女剣士シャイランすら力なく座り込み、うつむいて息を整えているところだった。喰らった毒は、市街巡回隊の参戦で生まれた余裕の中で、聖騎士から与えられたテリアカβで回復できたが、戦意が途切れた今は再び立ち上がる気力は失われてしまっているようだった。
 そして、聖騎士と女剣士の周囲には、座り込む体力すらなくした兵士達が、死体のように転がっているのだ。勝敗の決した瞬間に飛び出してきたメディック達によって懸命の手当が為されているが、その手が及ぶ前に屍になってしまった者もいるのである。
 興奮の中、事実に気がついた兵士達は、戦いの最中にはほとんど役に立たなかった剣を手に、次々と中央との距離を狭めていった。次第に憎悪の色を帯びていく眼差しは、かすかに呻き声を上げて生命長らえていることを主張している、敵の一人に集中している――のだが、それは鉄塊によって突然に遮られた。
 行き場をなくした憎悪は、その鉄塊――盾を突き立てたファリーツェに向けられていく。発火寸前の怒気にさらされた聖騎士は、しかし、負の集中をものともしない表情で、口を開いた。
「こいつらは――憎かろうが貴重な情報源だ。これ以上の加害は許さない」
 言葉で憎悪が簡単に収まれば世の中楽なものだ。兵士達の幾人かはファリーツェの言葉に足を止めたが、止まらない者達も当然いる。敵に向くはずだった負の感情が自分に集中するのが肌で感じ取れる。憎しみ極まれば味方であっても背後から斬り殺されることは、ざらにある――となることは、さすがにあるまいが、口汚い言葉の十や二十ぶつけられる覚悟は必要だろう。
 しかし心胆に込めた力は不要に終わった。
「何をしている、お前達! 死に損ないをいたぶる暇などないだろう! 戦いはまだ終わっていないんだ!」
 そう声を上げたのは、市街巡回隊の隊長だった。生粋のエトリア人、防衛室に属して長い古株で、兵士達に対する求心力は、当然ながら新顔のファリーツェとは比べるまでもない。
「裏口だ! 我こそはと思わん者は裏口へ向かえ! あちらからの勝利の知らせは届いておらん。確認し、加勢しなくては!」
 おお! と勇ましく咆哮を口に、兵士達が次々と踵を返した。爪先が向くは裏口へ通じる回廊。あっという間に、三分の一程が執政院奥へと消え失せた。彼らの最後列に続こうとした隊長は、回廊の暗がりに身を躍らせる寸前でファリーツェの方を振り返り、彼の顔にはいささか似合わぬ目配せウインクを送ってきた。
 隊長はファリーツェにいたく好意的だった。冒険者ギルド『エリクシール』が切り拓いた樹海の奥で発見された薬草で、長らく病に伏せっていた娘の容態が好転したのだとか。返礼と称して、陰に日向に此方こちら彼方あちらの間を取り持ってくれる。
 彼の娘のために樹海を拓いたわけではないのだから、礼には及ばず、と言いたいところである。が、彼の厚意は、信じもしない神より拝んでしまいたくなるほどありがたい。
 かくして、度を超えた憎悪を孕んだ者達はこの場を去った。彼らが裏口での戦いで役に立つかどうかは疑問だが、そこは隊長が上手くさばいてくれるだろう――それに、ふわりと上階から下りてきて回廊に消えていったのはボランスだ。裏口の戦いを補助してくれる心づもりに違いない。返す返すもありがたや、と回廊に向かって両手を合わせて頭を垂れると、ファリーツェは改めて自身の目の前に残された現実に向き直った。
 味方のことは置いておく。いや、よくはないのだが、彼らについては今はメディック達の管轄だ。生者が手当を施され、担架に乗せられた死者が白布をかぶせられ運ばれていく様子を横目に、ファリーツェは自分が手がけるべきことに思考を移した。
 敵のこと……は少し置いておいて、まずは各所の安全確認だ。
「サノリト、イトレーヴァ、ミスラ。適当な人員を引き連れて各所を見てきて下さい。貴賓室と、各事務室と、それ以外、担当分けは任せます」
 戦い終わって気が落ち着いたせいか、敬語が戻ってきている。
 アイサー、と、三者三様の返事を聞いた。兵士達の中から手早く指示を出す声が聞こえたかと思うと、ばたばたと十数名が抜け出してく。その様を見送ると、ファリーツェは改めて広間を見渡した。
 さて、この敵どもだ。
 全員が死んだように床に転がっているが、本当に死んでいる者と、重傷を負って動けない者、怪我は大したことないが戦意を失って動けない者とがいる。
 死んでいる者はもう危険はないので、さしあたって放っておく。
 重傷を負った者は手当が必要だ。人倫に従うわけではない、彼らからは今回の襲撃の黒幕について吐いてもらわなくてはならない。そう簡単にしゃべってくれるものか、それ以前に自分達の『仕事』の背後をどこまで知っているのか、くたびれもうけになる可能性が高いが、少しでも情報を得られる可能性に賭けたいところだ。
 戦意を失っている者は手当は後回しでいい。しかし拘束する必要はある。脱力状態はしばらく続きそうだと見立てているが、そろそろ手を付けなくてはなるまい。彼らにも後ほど、尋問が待っている。
「誰か、ロープを持ってきてくれませんか。それと何人か、手を貸してください」
 そう兵士達に声がけしながら、懐からタオルを出して顔をぬぐう。ちらりと見ると赤かったが、自分の出血ではなく返り血だろう。
 一応、「俺怪我してないよね?」という意思を込めて兵士達に視線をやったが、言葉では返事はなかった。そのあたりはこちらも無言で問うてたのだから致し方ないのだが、彼らの顔は一様に引きつっていたのだ。
 何をそんなに――ああ、そうか、呪術を使えたんだっけか。
 うん、まさかのあれには助けられた。しかし味方にも影響が出てしまったと見える。呪詛は基本、指向性を持ったもの以外は聞いた者全員に効果が及ぶもので、味方であっても容赦がない。逃れられるのは、呪詛の主が自分に呪詛を掛けるはずがない、と心の奥底から信じられた者だけだ。そこまで信用してくれたとしても、今回みたいに聖騎士がいきなり呪詛を使うなど。
「驚くよなぁ、そりゃ」
 自分だって驚いているのだ。
 なんだかおかしくなって笑いそうになったところで、妙なことに気が付いた。
 顔を引きつらせた兵士達。自分に怯えているのだ、と思っていた。しかし、その視線は微妙にファリーツェには向いていない。どちらかというと、それより少し遠くを見ているような?
 何を見ているのだろう、と思って、背後に向き直った。
 視界の中には、幾多にも転がる人体と、その中でせわしく働くメディック達。そして、ファリーツェがそれまで把握していなかった『者』がいた。
「――え?」
 いつから、どうしてそこにいたのだろう。神の視点を持ち合わせていないファリーツェには最後まで判らなかった。
 それは中性的な容姿をしていた。便宜的に『青年』と呼ぶしかあるまいが、実際の性別は判別できなかった。もう少し観察すれば結論は出たかもしれないが、聖騎士にはその時間は与えられなかった。
 青年は右腕をまっすぐ聖騎士の方に向けていた。その手には何かが握られている。それが、全体的な形としては、ここ二ヶ月程の間、間近でよく見ていた装置に似ていることに気付いた。そんなに小型に作れるものなのか、と考えてしまったことで、一瞬の時間を無駄にした。
 誰かが自分の名を叫んだのを聞いた気がした。
 その叫びは、耳朶を打つ、風が切り裂かれるような『音』に掻き消された。それは矢が飛来する音に似ていなくもなかったが、どことなく不吉さを思わせた。
 ――いつだったっけ、同じ音を聞いて、同じように思ったのは。
 それが、エトリア正聖騎士ナギ・クード・ファリーツェの、最後の思考だった。

 その瞬間、何がどう作用してそのような事態になったのか、正確に把握できた者は、正面広間の中にいた者の中には一人もいなかった。
 彼らが確認できたのは、疲れた顔をしながらも戦闘後処理の指示をしていた聖騎士が、ふと正面口の方に身体を向けたかと思うと、何かが破裂したような音と同時に仰向けに倒れた、というところだけだった。理解が可能だったのはその結末で、多少なりとも認識能力を残している者は、聖騎士の生命がもうその肉体には残っていないことを、後頭部あたりから床へとあふれ出す体液の流れから、はっきりと悟ったのであった。
 危機はひとまず去った、そのはずだったのに。
 思いもしなかった展開に呆とする執政院の者達は、凍ったように動きを止め、広間は重苦しい沈黙に包まれた。
 それは、二階通路の開口部から身を乗り出すヴェネスも同様だった。
 否、彼は呆けてなどいなかった。当分お役御免のはずだった銃をしかと構えたその身体は、己の不甲斐なさと、予想外の出来事に対する驚愕とで、小刻みに震えていた。
 銃士の少年は、正面広間にいる者達より、遙かに詳しく状況を把握していたのだ。
 ――話は少し時間を巻き戻る。
 自らの暗示を解いたヴェネスは、人の姿を映しだした自身の視界を確認し、安堵の息を吐いた。
 人が点にしか見えなかった時から確信していた通り、最も無事でいてほしかった者達は、一人を除いて健在が確認できた。
 とはいっても、前線で戦い続けていたシャイランはへたり込んでいたし、二本の脚で立っているファリーツェとても疲労困憊だったが――それでも、命に別状がないのは間違いない。
 健在だと確認できなかった一人――線対象上の開口部にいたはずのボランスは、危機に陥っていたわけではない。そもそも姿を消していた。詳しい事情までは掴めなかったが、共に二階に陣取っていた弓兵数名が、緩みきった表情でへたり込んでいるのを見て、大ごとが起きているわけではないことは確信できた。
 弓兵達の姿に、これまでの緊張が生み出し蓄積してきた疲れを誘発されたか、ヴェネスもまた大きく息を吐きながら、床に座り込んだ。
 ――任務は、これで終わった。
 どのような形で顕現するかわからない悪意から、エトリアを、執政院を、若長を守ること。もしかしたら何も起きない可能性もあったが、事実この通り、懸念は現実化し、そして無事に鎮圧された。
 今後また、エトリアを襲う何かが現れるかもしれないが、さすがに、もうじき訪れるヴェネスの契約期限にまでは現れまい。それが幸いであると同時に、もはや自分は聖騎士の力になれないのだ、という落胆をも抱かせる。
 ただ、任務の終了は自分が自由になることを意味する。小康状態の時にちらと考えたように、母の希望にもよるだろうが、エトリアに居続ける道もあるのだ。
 もしそうするとして、エトリアで仕事を探すとしたら、自分はどのようなことをすればいいのだろう。
 普通に獣を狩り、革や肉を糧に換える道もあるだろう。執政院が自分の腕を買ってくれるなら、平時のファリーツェのように樹海にも足を踏み入れ、採集者を守り、密猟者を誅するような仕事もできるかもしれない。あるいは、市街巡回隊のような任務を割り振られるだろうか?
 まぁ、気が早すぎるか――と思ったところで、今しがた思考の中に現れた一語に触発され、ふと、一つの疑問が脳裏に湧き上がった。
『あれは、誰だったんだ?』
 正面広間の戦いで、ヴェネスが『味方の中でも特に注意を払うべき者』としていた者、つまり最も無事でいてほしかった者は、三人。ファリーツェとシャイラン、そしてボランスである。
 しかし、最終局面で『四人目』が参戦した。無事でいてほしい三人と同じく、微細な光をまとった青点。[市街巡回隊]の一員として現れた誰か。その時のヴェネスには敵味方の識別しかできなかったから、結局、誰が駆けつけてくれたのか判らないのだ。
 ヴェネスの目の前にいたら微細な光をまとって見えたであろう者は、正体のはっきりしている三人以外にもいる。しかし、ドゥアトは長の私室に、『おさわがせトラブラス』の残り三人は食堂の『裏口』にいるはずだ。執政院の外から駆けつけてくるとは思えない。
 自分でも知らぬ間に、最大の信を置いた相手がいたのだろうか?
 ヴェネスはひょこりと開口部から顔を出し、階下を確認した。もう敵が無力化されたことは判っていたから、特に警戒はしなかった。その顔が、思わぬ再会に明度を増した。そこにいたのは――。
「師匠……」
 憧れを大事に包み込むようなささやきが、口からこぼれる。
 陽光を紡いだような輝きの長い金髪、中性的な整った容貌。まとった被服はヴェネスにも馴染みのある、銃士としての隊服の、温暖地域仕様のもの。ヴェネスを一人前の銃士に育ててくれた、大恩ある師。
 銃士『バルタンデル』の姿が、そこにあった。
 まさか、師が救援に駆けつけてくれたなんて。
 一体どうして、という疑問もあった。なにしろ『組織』本部で最後に言葉を交わした師は、言っていたのだ。
 『お前の、仕事だよ』と。
 助けを求めるように向けた眼差しを跳ね返すのように。
 けれど、結局、助けに来てくれた。敬愛する師の、久しぶりの姿を見て、ヴェネスはそういう結論を胸に抱いた。
 高揚が心を満たす。長く、長く、師と離れていた時間を埋めようとするほどに。事実がどうあれ、ヴェネス自身の主観では、それほどまでに長く。
 それが、『最後から二番目』をふいにした数秒。
 客観的には、ほんのわずかな時間、己が幸福に浸っていた銃士の少年は、はたと我に返り、考えた。
 ……まさか、師が救援に駆けつけてくれたなんて。
 師はそういう人間ではなかったはずだ。この仕事がヴェネスの仕事だと断じた以上、助勢に駆けつけるような人物ではなかった。
 もちろん、例外はある。やはりヴェネスには荷が重い任務ではないか、と判断された時。
 けれど、そんなときは必ず先触れがある。『組織』の長の直筆、印章の入った指令書。最終的に長の判断なくして、関与の始まった仕事に後から他の銃士が関わることは許されていない。
 そう、『考えてしまった』のだ。
 それが、ヴェネスが『最後のチャンス』を取り逃した、痛恨の瞬間であった。
 悠長に『考えている』間に事態は急転直下の展開を迎えた。師の姿をした者がゆっくり――とはいえ動作の完了までには数を一のみ数える程度――腕を上げる様を目の当たりにしつつも、ヴェネスの意識はそれまでの思考を引きずったままだった。彼の者の、水平に固定された腕の先に握られているものを確認してようやく、銃士の少年は冗長な思考から解放された。
 それは『組織』で開発中だった試作銃。現在主流の銃に比べてはるかに小さい、広げた掌を少しはみ出す程度の大きさの銃身が特徴である。力の弱い者が護身用に持つには最適なのだが、その小ささゆえに弾丸も小型、火薬量も少ないため、たとえば樹海探索の友とするには圧倒的に力不足ではある。しかし――。
 もちろん今のヴェネスはこのようなことを長々と思い出さない。彼が思い出したのは、稲光がひらめく程度の一瞬の間に、ほんの数単語。
 ――場合によっては人間など十分に殺せる!
 叫びながら銃を眼下に向けた。名を呼んだのは確かだが、実際に自分が口にしたのがどちらの名かはわからない。だが銃口の向き先は認識している。間違いなく、師に向けた。
 しかし、師の動きがそんなことで止まるはずもなく。
 そもそも、戦いを終えたと認識していたヴェネスの銃には、撃つべき弾は装填されておらず。
 銃士の少年は、成す術もなく、師の銃から放たれた小さな弾丸が、聖騎士の額を撃ち抜く様を見届けた。
 それまで広間の支配者であるかのごとく、疲労を押してなお堂々と立ち、各所に指示を飛ばしていた聖騎士は、至極あっさりとその身体を床に預けた。仰向けに倒れ、天井を見上げるその表情は、『ちょっとだけ気になるものを見た』程度の驚きしか浮かべておらず、見ようによっては十分に穏やかなものだった――眉間に空いた黒点と、床にゆっくりと流れ出してくる赤い液体を除けば。
 人々の声が主成分だった、空間を満たす音が、ぴたりと止まる。
 階下の視線が聖騎士の屍に集中するのを感じながらも、ヴェネス自身はそれから無理やりに視線を引き剥がし、動かした。その視界が捉えたのは、今しがたの惨劇を生み出した、先程まで自分が『師』と見なしていた者の背中だった。それは入口を通り抜け、未だ野次馬の一人も迎え入れていないベルダの広間の闇の中へ、身を躍らせて消えていった。
 もはや、銃を装填しても間に合わず、そもそも視界が闇を通らない。
 それ以前に、普通の光景しか見えていない今の自分に、本当に撃てたのだろうか。
 銃を構えた身を小刻みに震わせ、銃士の少年は、自身の油断と不甲斐なさが引き起こした事態を目の当たりにし続けることとなったのだった。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-64

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