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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・50

「あせってもしょうがないよ……」
 いささかのんびりしすぎに聞こえる穏やかな声が、ヴェネスを現在に引き戻した。
「しかし……!」
 振り返り、反駁するヴェネス。
「仕事してくれてる君には悪いけど……これで見つかる敵だったら、対処に苦労してないと思うんだ……」
 ボクでは敵を見つけられないというのか。
 意地プライドが鎌首をもたげかける。だが、現にその通り。反論はできない。
 それでもせめて、自分の行動に本来の意味を持たせたい、と、ヴェネスは問うた。敬愛するはずの聖騎士にそこまで突っかかろうとする自分を不思議に思いつつ。――理由そのものはわかっている。ファリーツェはとても眠そうで、真面目に話を聞いているようには思えないからだった。
「じゃあ、ボクが頼まれてるコレは、何なんですか?」
「招待状、さ……。こそこそ隠れて何かやるのには対処してるから……執政院に直においでませ、っていうね……」
 ふぁあ、という大きなあくびが後に続いた、その直後。
「そっち混ぜちゃダメ!」
 叱責と共に、がこからこん、という、鈴を入れた金属タライで殴ったような音が続く。
「えうん」
 とても聖騎士とは思えないような情けない声を上げて、ファリーツェ、轟沈。
 一体何がどうしてこのような結末を招いたのか、さっぱりわからないヴェネスは、ただただ、唖然とするしかなかった。
 ファリーツェともう一人、ドゥアトは、室内の円卓で向かい合って座っていた――片方は今や卓に突っ伏しており、立ち上がっているもう片方は、伸ばした右手に呪鈴を構え、『我勝利を得たり』と言いたげな顔をしているわけだが。ファリーツェの頭がぷっくり腫れているのを見て、大事な呪具を打撃武器にしていいのかなぁ、とヴェネスは余計なお世話なことを考えた。
 卓の上には蓋付きの小箱が数個。ひとつひとつ違う模様が象嵌されている。加えて、組紐の材料が山盛り。
 ふたりはベルトや腕飾りをたくさん作って外の出店に張り合うつもりだったのか。否、卓上には無難な色の取り合わせの組紐の完成品が数本できているだけだった。ちなみに轟沈した方の手にも、組みかけの紐がある。
「まったく、呆けるくらいなら寝ててくれた方がいいわ」
 ふんす、と鼻息荒く、従甥に珍しく辛辣な言葉を投げかけるドゥアトは、着席すると、自分の目の前にあった作りかけの紐を手に取り、せっせと指をうごめかせ始めた。細い紐を編んで組紐に育て上げる、優しい動き。故郷の母が同じような手つきで麦わらを編んでいたのを思い出し、ヴェネスは何かできないだろうかと考え始めた。ぴくりとも動かないファリーツェのことも気にはなるが、加害者兼身内である呪術師が動じていないのだから、と、そちらはひとまず棚に上げた。
「やり方教えてくれるなら、手伝いますが?」
「気持ちは嬉しいけど、コレは任せられないのよ」
 苦笑いに似た微笑みと共に、ドゥアトは返す。「これ、呪術用の紐だから」
「あー」
 確かに自分は役に立たなそうである。半ば本気で残念に思いながら、ヴェネスは頷いた。
「作り方間違えると、とんでもないことになるからね」
 手を止めることなく、呪術師の女は続ける。
「こうやって紐を編んで、時々、こうして、髪の毛を編み込む……これは、シャイランちゃんの分ね」
 細く白い指先が、小箱のひとつの蓋を開け、中から細い糸状のものを引き出した。紐の狭間に、それを淀みなく入れ込み、てきぱきと編み込んでいく。
「こうして髪の毛を編み込んだ紐は、呪術に使うのにとても便利になるの。髪の毛だけだと、いつの間にかどこかに飛んでっちゃったりするからね」
 そういえば、箱は模様が違うだけでなく、名前らしきものが書き込んである。その中に自分の名前が書き込まれた箱を見つけ、ああ、と得心した。
 昨晩の食事は聖騎士や呪術師と連れ立って、金鹿の酒場に赴いて取った。その時にヴェネスは改めてドゥアトを紹介され、他愛もない話と、今後のための少しは重要な話と、重大とまではいえないが聞き捨てならない話を交わした。その中に、呪術では相手の髪の毛も重要な呪物になる、という話も、確かにあった。自分の髪の毛は、その時に所望されて渡したものである。
 呪術師に呪物、といえば、呪力で害される、と思ってもおかしくはないはずだった。現に、執政院の会議室でその不気味さを目の当たりにしている。なのだが、この女性は自分達を害したりしないだろう、という、確信めいたものが自分の裡にあった。
 実際、ファリーツェの身内、彼がエトリアの役に立つと確信して呼んだ人物である。味方である以上、恐るるに足らず。しかし、畏れの思いは理屈ではない。たとえその人物が得がたい味方でも。にもかかわらず、わずかなりともおびえを感じないのは、彼女の人間性によるものなのか、あるいは……?
 その先は考えないことにした。確証もなしにそう疑えば名誉毀損になるだろう――もっとも、そんな考えこそが、ヴェネスのこれまでの生き方からすれば異例なのだったが。
「それで、ボクやみんなの髪の毛は、何に使われるんです?」
「変なことに使うんじゃないわよ。ちょっとした合図ね」
 組紐にシャイランの髪を編み込みながら、呪術師の女が説明するには。
 『敵』は、いつ、どこから来るか、杳として知れない。だが、ひとつはっきりしていることがある。それは――エトリアの兵士達が侵入の障害になると思えば、躊躇いなく殺しにかかってくるだろう、ということだ。
 そして、侵入者の殺し方は、たぶん、殺された本人が自分の死を自覚できないような、速やかなものだ。エトリアを護るために数合打ち合うことすらできない、戦士としては無駄死にこの上ない死に方。ならば、せめて、彼らの死が無駄死ににならないように利用しなくてはならない。
 紐編みを止めたドゥアトが己の口を塞ぐのと、ヴェネスが深く頷いたのは、ほぼ同時であった。呪術師の女は銃士の少年を、一瞬の異質を見る眼差しと、それを溶かし去った哀れみを込めた視線で見やった。が、俯き、首を数度振った彼女が顔を上げた時の南天ナンディーナの瞳は、すっかり元のままだった。
「……まぁ、つまりはね」
 気を取り直したような声音で、ドゥアトは続けた。
「兵士達が死んでも、まだ生きている人達がそれを知ることができれば、敵が来たことがわかって、備えられるってことよ。この紐は、そのために使うもの」
 ヴェネスは再び頷いた。別の視点から、彼は実感していたのである。なにしろ彼の武器である銃は、標的に速やかな死を与えられるが、派手な破裂音を放つ。その音が、敵方の陣営に危険を知らせ、備えさせてしまうのだ。故に狙撃の好機チャンスは一度きり。
 一方、エトリアを襲う者達は、ナイトシーカーのような、闇に隠れ、音もなく速やかに行動する者達が主体となるだろう。彼らの行動は気付かれない。気付いた時には、首筋に彼らの暗刃が迫っている。そして、味方の誰にも知られず、死ぬ。
 死者の何人かは思うだろう。せめてこの危機を味方に知らせられたら――。
 ドゥアトの言い分が確かなら、その願いは彼女の編む紐で叶えられる。
 とはいえ――どう、使うのだ? この紐は。編み込んでいる髪が鍵だろうし、呪術で何かをするのだろうとはわかるのだが。
「完成、っと」
 ヴェネスが思いを巡らせている間にも、ドゥアトの作業は着々と進み。終着点を見出していた。異色の差と編目の美しい飾り紐は、絹を材質としているのだろうか、窓からの光を受けて、独特の艶を見せていた。呪具でなく、店に並ぶものだったら、武器やその鞘、ベルトなどのちょっとしたアクセントとして飾りたがる者も多いことだろう。
 完成を宣言したはずのドゥアトは、まだ何かやる気なのか、髪の毛の入った箱に指を突っ込み、何かを探している。
 異変は、そんな時にさりげなく訪れた。
 ふつり、と音がした気がした。たぶん気のせいだ。音があっても、鼓膜を震わせるほどに強くはないだろうから。ただ、視界の中の変化は確かにあった――紐が、ほつれ始めているのだ。
 光の中に細かい繊維が散り、きらきらと輝く。
 経年劣化を数千倍の速度で見ているかのようだった。だが劣化そのものではないのは、鮮やかさを失わない紐の様子からも明らか。戸惑うヴェネスの前で、ついに紐は完全に切れ、下側が重力に従い、床に舞い落ちた。
 自然ならざる現象を前に、生まれたのは数秒間の意識の空白。
 が、我に返ってからすぐに、後悔の念が続く。自分はドゥアトの説明をしっかり理解していなかったのか!? この紐は、味方に対する敵の攻撃を察知するために作られていたものではなかったか。なら、たった今、誰かが。おそらくは紐に編み込まれた髪の主である、あの女剣士シャイランが――!
 だというのに、ドゥアトの態度が変だ。あらあらあらぁ、と、『ちょっとばかり困った』程度しか感じられない、呑気な声を上げている。その食い違いが心に引っかかりを生み、それが銃士の少年の焦りを少しだけ止めた。むしろ、少しだけしか止められなかった、といった方が近いかもしれない。ヴェネスは再び嫌な予感に急かされ、呪術師の女に詰め寄った。
「ドゥアトさん! シャイランさんが……!」
「ヴェネス君、大丈夫、これは大丈夫なのよぉ」
 全く慌てる素振りのない、ゆったりとした語り口には、やはり、危機に震える少年を押しとどめる力はなかった。彼を止めたのは、額に向けて差し出された、人差し指と中指だけ伸ばされた右手と、それまでの口調とは打って変わって凛とした言葉であった。
「『落ち着きなさい、ヴェネス君』」
 このときの言葉が呪だったことを、ヴェネスは、ラガードでドゥアトの話を聞いた今、はじめて知った。今の今まで、彼女は単に注意を喚起しただけ、自分はその言葉に理を見いだして従っただけ、としか思っていなかったのである。
 いずれにしても結果は同じ。ガンナーの少年は、憑き物でも落とされたかのように落ち着きを取り戻し、すとん、と椅子に腰掛けた。だが、彼が焦った理由は失われていない。シャイランを襲ったであろう危機に思いを馳せれば、すぐにでも部屋を出て行きたい衝動に駆られる。だが、呪に掛けられた(とはその時気付いていなかったが)精神は、衝動を開放せず、じりじりとした焦燥が意識を焦がす。
 ドゥアトの力ならヴェネスの衝動を完全に押さえ込むこともできたはずだ。しかし、緊急事態でもなければ、他者の心を完全に操るのは、褒められない行為である。ゆえにドゥアトは加減したのである。
 上官に許可を求める下級兵の様相で自分を見つめるヴェネスに苦笑じみた顔を向け、ドゥアトは口を開いた。その口調は、のどかな若奥様を思わせるそれに戻っていた。
「この紐はね、編み込んだ髪の毛の持ち主が意識を失った時に切れるよう、呪をかけてあるのよ」
 だから、そういうことなのだろう。平静と衝動の狭間に置かれた少年は、相手の言わんとしていることを掴み次第部屋を飛び出そうと、前のめりになって続きを待った。
「でも、あくまでも、『その人の意思に反して』って条件付きなのよ。じゃないと、普通に眠った時にも反応しちゃうから」
「それって結局、今も『意思に反して』意識を失ったってことじゃないですか!? 何者かに襲われて――えーと……」
 そこで、ヴェネスは呪の抑制たすけなくして、完全に落ち着きを取り戻した。彼は大きな発砲音を放つ銃を扱う狙撃手。相手を殺せても殺せなくても、一撃放ったら逃走しなければ自分の命が危ない。だが、短剣などで音なく襲い来る暗殺者達は、戦闘能力を失った相手には迅速にとどめを刺せるはずだ。その前提と紐の挙動は、矛盾している……。
「……まさか、単なる寝オチ!?」
「……そんな感じね、たぶん。『ここで寝ちゃいけない〜でも眠い〜睡魔が襲ってくる〜』ってとこかしら」
 詳しい状況まではわからない。が、シャイランは本日非番で、友人と会う約束をしている、と前日聞いた。だが、ついうっかり寝過ごしたのだろう。約束だから起きなくてはならないのに、身体はさらなる眠りを欲し……という顛末が予想された。
 もう昼過ぎなのに、非番とはいえそんな堕落でいいのか、執政院付き兵士――と思わなくもなかったが、一方、休日くらい好きなように休んでほしいとも思う。でも今日は約束の相手がいるのなら、早く目を覚ましてほしい。
 と内心ではいろいろ考えたのだが、表に出しては、安堵の溜息をついただけだった。
「よかった……」
「ええ、何事もなさそうでよかったわ。でもまぁ……紐は作り直さないとねぇ」
 こういう事態も想定内だから、もともと複数本作っておくつもりだったけど、と呪術師の女は付け加えた。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-50

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